新刊紹介:「歴史評論」8月号(追記・修正あり)

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。
特集『日常生活から見つめる戦争』
■日常生活と戦争(大串潤児*1
(内容紹介)
 「日常生活(銃後)と戦争」という観点から、いくつかの研究業績が紹介されている。
 具体的には
・荒川章二『軍隊と地域』(2001年、青木書店)、『軍用地と都市・民衆』(2007年、山川出版社日本史リブレット)
・一條三子『学童集団疎開:受入れ地域から考える』(2017年、岩波現代全書)
・一ノ瀬俊也*2『銃後の社会史:戦死者と遺族』(2005年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『故郷はなぜ兵士を殺したか』(2010年、角川選書)
・荻野富士夫*3『「戦意」の推移:国民の戦争支持・協力』(2014年、校倉書房)、『よみがえる戦時体制:治安体制の歴史と現在』(2018年、集英社新書)
・加納実紀代*4『女たちの「銃後」』(1987年、筑摩書房→増補新版、1995年、インパクト出版会
・河西英通『せめぎあう地域と軍隊:「末端」「周縁」軍都・高田の模索』(2010年、岩波書店
・原田敬一*5『国民軍の神話:兵士になるということ』(2001年、吉川弘文館)、『兵士はどこへ行った:軍用墓地と国民国家』(2013年、有志舎)
藤井忠俊『国防婦人会』(1985年、岩波新書)、『兵たちの戦争:手紙・日記・体験記を読み解く』(2000年、朝日選書)、『在郷軍人会』(2009年、岩波書店
・本康宏史『軍都の慰霊空間:国民統合と戦死者たち』(2002年、吉川弘文館
山之内*6『総力戦体制』(2015年、ちくま学芸文庫)
などである。

参考
■Apes! Not Monkeys! はてな別館『故郷はなぜ兵士を殺したか』
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20101026/p2
■書評(早瀬晋三*7)『せめぎあう地域と軍隊−「末端」「周辺」軍都・高田の模索』河西英通(岩波書店)
https://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/04/post_170.html
朝日新聞(書評)『学童集団疎開 受入れ地域から考える』 一條三子〈著〉
https://www.asahi.com/articles/DA3S13256848.html
毎日新聞・今週の本棚・本と人『学童集団疎開 受入れ地域から考える』 著者・一條三子さん
https://mainichi.jp/articles/20180121/ddm/015/070/065000c
■日経『学童集団疎開』一條三子著 政策に翻弄された農山村部
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO23348240Q7A111C1MY7000/

【追記】
 大串氏は「山中恒*8がプロの研究者とはいえないからか」なぜか取り上げていませんが
・山中『子どもが<少国民>といわれたころ:戦中教育の裏窓』(1982年、朝日選書)、『勝ち抜く僕ら少国民:少年軍事愛国小説の世界』(編著、1985年、世界思想社)、『子どもたちの太平洋戦争』(1986年、岩波新書)、『少国民はどう作られたか 若い人たちのために』(1986年、筑摩書房)、『「図説」戦争の中の子どもたち』(1989年、河出書房新社)、『ボクラ少国民』(1989年、講談社文庫)、『暮らしの中の太平洋戦争』(1989年、岩波新書)、『ボクラ少国民と戦争応援歌』(1989年、朝日文庫)、『少国民戦争文化史』(2013年、辺境社)、『靖国の子:教科書・子どもの本にみる靖国神社』(2014年、大月書店)、『戦時下の絵本と教育勅語』(2017年、子どもの未来社)も銃後史研究の成果といえるかと思います。

 
■ドイツ占領下ワルシャワ*9の売買春(田野大輔*10
(内容紹介)
 ドイツ占領下ワルシャワの強制売買春制度について述べられている。
 なお、この分野(ナチドイツの強制管理売春)の先行業績として、クリスタ・パウル『ナチズムと強制売春』(1996年、明石書店)、レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性:独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』(2015年、岩波書店)が紹介されている。

参考
■現代ビジネス『私が大学で「ナチスを体験する」授業を続ける理由』(田野大輔)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/56393

【追記】

http://www.fben.jp/bookcolumn/2012/12/post_3489.html
■愛と欲望のナチズム
 ヒトラーは、女性について慰みもの以上の価値を認めていなかった。そして、恋愛や結婚も印象操作の道具程度のものと考えていた。
 多くの女性が私(ヒトラー)に好意を寄せているのは、私が結婚していないからだ。闘争期には、これが重要だった。映画俳優と同じだ。彼に憧れる女たちは、彼が結婚したら何かを失ってしまい、もはや彼は偶像ではなくなる。
 ヒトラーは、総統が民族に貢献する私心なき指導者であるというイメージを守るため、若い愛人の存在を国民の目から隠し続けた。
 ヒトラーは、高潔さを装う偽善的な姿勢をとり続けた。ナチス・突撃隊の幹部が粛清された1934年6月30日の「長いナイフの夜」。隊長のエルンスト・レームが同性愛者であることは周知の事実で、ヒトラーもそれをながく黙認していた。しかし、突撃隊と国防軍の対立が表面化したとき、ヒトラーは政治的理由からレームを切り捨て、道徳的純潔の擁護者になりすました。
 「健全なる民族感情」の代弁者をもって自認したナチズムは、疑いなくヌードの氾濫を黙認し、奨励すらしていた。ナチズムは、社会生活にはびこるエロティズムをユダヤ人の責任に帰することで、ナチス自身がそれを促進していた事実を曖昧にしていた。
 ナチス・ドイツでは婚前・婚外交渉が一般化していた。ナチ党が権力を掌握してから、警察は、街娼の摘発・逮捕を通じて「街頭の浄化」を進める一方、売春宿の営業を監視・規制することこそ警察の義務だとした。市当局も売春の存続に関心を払っていた。国防軍も売春宿を必要と認め、売春婦の逮捕は控え目にするよう求めた。
 戦争が始まると、政府はただちに政令を出して売春の管理を強化した。国防軍政令にもとづき、帝国全土および占領地域で軍用売春宿を次々に設立した。
 「公的な不道徳」の撲滅を唱えて売春の一掃に乗り出すかに見えたナチズムが、結局のところ売春の封じ込めと組織化に舵を切った経緯は、道徳的に純潔な体制という外観を守りつつ、実際には性欲の充足を奨励して、これを国家目的に動員しようとする狙いを照らし出している。
 ナチス・ドイツの支配の本質をえぐり出した本だと思いました。

 こうした田野氏の「ナチドイツの偽善性の指摘」は今回の田野論文でも一貫しています。
 売春を「不道徳行為」と否定していたはずのナチドイツは「強姦防止と性病予防」という「旧日本軍慰安所と同様の論理」から軍による管理売春を実行していきます。

参考

エヴァ・ブラウンウィキペディア参照)
 ヒトラーは独身であることで婦人票が得られると考えて、「事実上の妻」であるエヴァの存在を秘匿したため、第二次世界大戦が終わるまでドイツ国民がエヴァの存在に気づくことはなかった。


■戦時日本農村と満州移民(細谷亨)
(内容紹介)
 最近の研究書として
・「東京の満蒙開拓団を知る会」編著『東京満蒙開拓団』(2012年、ゆまに書房
・坂口正彦『近現代日本の村と政策:長野県飯田下伊那地方1910〜1960年代』(2014年、日本経済評論社
・小林信介『人びとはなぜ満州へ渡ったのか:長野県の社会運動と移民』(2015年、世界思想社
・玉真之介*11『総力戦体制下の満州農業移民』(2016年、吉川弘文館
などを紹介している。
 なお、筆者は紹介していませんが、ググったところ、他にも最近の著書としては
澤地久枝*12『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)
・二松啓紀『移民たちの「満州」:満蒙開拓団の虚と実』(2015年、平凡社新書)
・加藤聖文*13満蒙開拓団:虚妄の「日満一体」』(2017年、岩波現代全書)
・小林弘忠*14満州開拓団の真実:なぜ、悲劇が起きてしまったのか』(2017年、七つ森書館
吉田忠雄*15満州移民の軌跡』(2017年、人間の科学叢書)
・伊藤純郎*16満州分村の神話:大日向村は、こう描かれた』(2018年、信毎選書)
・大日方悦夫『満洲分村移民を拒否した村長:佐々木忠綱の生き方と信念』(2018年、信毎選書)
などがあります。副題(大日向村)や出版社名(信濃毎日新聞社)でわかるように長野県関係の著書が多いです。

参考

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-08-06/2008080614_01_0.html
赤旗『東京満蒙開拓団、農民訓練所あった、失業者ら中国に送り出す、実像の一端判明』
 「都会の失業者や中小商工業者たちを満蒙開拓団として送り出すために、東京に『農民訓練所』があった」。
 東京都から送り出された満蒙開拓団の実像の一端が、「東京の満蒙開拓団を知る会」の調査で明らかになりました。
 東京にあったのは、「多摩川農民訓練所」。「失業して転落した青年、ルンペンになった独身青年を一定の期限で軍隊式に団体訓練して秩序だった移民団を満州に送ろう」と一九三四年に当時の東京府が計画。大田区矢口町に平屋建てと二階建ての三棟をつくりました。
(中略)
 「知る会」の今井英男さん(63)は「初期は失業者でしたが、戦争経済の破たんにより、中小商工業者が没落し、満州に大量に送り出されました。一部しか分かっていなかった東京開拓団の実態がわかってきました」と話しています。
 「開拓団が送り出されたときはもてはやされたのに、敗戦になると一転して冷ややかな目で見られました」と、「知る会」の多田鉄男さん(59)はいいます。「そのために東京の開拓団の全容については語られてきませんでした。戦争体験を風化させずに、地域から掘り起こし、侵略戦争の全体が見えるようにさらに調べていきたい」と話しています。

 失業者を厄介払いに満州に送り込むとはまさに文字通りの棄民事業でしょう。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik16/2016-12-30/2016123003_01_0.html
赤旗『2016とくほう・特報:「満蒙開拓団」と中国残留孤児:国策で8万人犠牲』
 現在の中国東北地方に敗戦までの13年間存在した日本のかいらい国家「満州国」。
 そこに国策により日本全国から「青少年義勇軍」を含む「満蒙開拓団」約27万人(敗戦時)が送られました。日中双方で多くの犠牲者を出し、中国に取り残された残留孤児・残留婦人を生みました。この「満蒙開拓団」の悲劇はなぜ生まれたのでしょうか。
(中略)
 長野県阿智村にある「満蒙開拓団」に特化した全国唯一の歴史資料館「満蒙開拓平和記念館」(河原進館長)。交通の便がいいとはいえない記念館に、連日、バスや車での見学者が絶えません。
 「せっかく開拓団でいったのに、ソ連侵攻のとき日本軍に置き去りにされ、約8万人の人が亡くなりました」。
 案内ボランティアの1人、野口次郎さん(86)が来館者に開拓団の歴史を紹介するコーナーで説明します。体験者の生の映像、音声も流されています。
 来館者の感想には。
 「涙が止まりませんでした。時の指導者の無知により多くの日本人、中国人を苦しめる結果になりました。平和な日本を祈ります」(長野・男性)
「私も満州からの引き揚げ者。父母が苦しみながら幼い私を連れて帰ってくれたこと、感謝の一念です」(三重・女性)
 開拓団員の2世である寺沢秀文同館専務理事は「満蒙開拓という“負の遺産”から学んでもらえることはたくさんあると思います。戦争の悲惨さ、平和の尊さを知ってもらうきっかけになれば、それは“正の遺産”に変わる」と「語り継ぐ」大切さを語ります。
 8年の準備期間をへて3年半前に開館にこぎつけました。
 1931年に中国侵略戦争の発端となる「満州事変」が日本の関東軍の謀略で起こされました。翌32年に清国最後の皇帝・溥儀(ふぎ)を担ぎ出し中国東北部に「満州国」を設立しましたが、実体は関東軍が実権を握るかいらい国家でした。関東軍は「移民百万戸(五百万人)移住計画」を発表。開拓団を最も多く送り出したのが長野県で約3万3000人、中でも飯田・下伊那地方が最多でした。
 農家の8人兄弟の三男だった寺沢さんの父・幸男さんも政府の誘いに応じ、吉林省の水曲柳(すいきょくりゅう)開拓団に入りました。
 しかし、この「満蒙開拓」は多くが本来の開拓とは言いがたく、開拓団が入植したのは、「満州開拓公社」などが中国人の農地や家を半強制的に買い上げ追い出したところでした。
 「日本軍と政府は、開拓団を『満州』防衛の“人間の盾”の役割をも担わせて送り込みました。ソ連国境近くに配置された『満蒙開拓青少年義勇軍』の14〜17歳の少年たちもそういう役割を担わされました」(寺沢さん)
 旧ソ連が侵攻したとき、関東軍はすでに「満州」の4分の3を放棄し「南満州」地域に後退。放棄地に置き去りにされた年寄り、女、子どもだけの悲惨な逃避行がここに始まったのです。寺沢さんの長兄はわずか1歳で命を落としました。

 まあ、「単に長野県と戦争で連想したに過ぎませんが」、長野には確か「無言館」がありましたね。
 しかし、id:noharraこと「八木孝三」大先生とか「八木先生のウヨ友達」の三浦小太郎先生(つくる会理事というプロ右翼)とか「いわゆる朝鮮への帰国事業」をネタに朝鮮総連に悪口するくせに「8万人が犠牲になったと言われる満州移民」とか全然話題にしないのは「戦前礼賛ウヨらしくて本当にでたらめでクズ野郎共だ」といつもながらうんざりします。
 ちなみに「犠牲者8万人」ですが

満蒙開拓団ウィキペディア参照)
 満州に取り残された日本人の犠牲者は日ソ戦での死亡者を含めて約24万5000人にのぼり、このうち8万人を開拓団員が占める(開拓団員自体は総勢で約27万人とされる)。満州での民間人犠牲者の数・約24万5000人は、東京大空襲(約10万人)や広島への原爆投下(約16万人、広島市民自体は約35万人)、沖縄戦の犠牲者(約19万人)(いずれも推計)を凌ぐ。

そうです。これほどの人間を死なせながら退位すらしなかった昭和天皇とそれを許した日本人の愚かさに改めて怒りがわいてきます。
 なお、

満州開拓移民(ウィキペディア参照)
 敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした中国大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。政府は、彼らに移住用の土地を割り当てることにしたが、非耕作地が多く開墾の必要な土地であった。いずれの土地も荒れ、耕作には適さず、多くの人々は過酷な状況にさらされた。敗戦によって日本全体が困窮しており、政府も満足な支援をすることが出来なかった。
 このような移住用集落は戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた。千葉県成田市三里塚地区に移住用の土地を割り当てられた引揚者たちは、1960年代後半には成田空港建設に伴う強制的な土地収用に抵抗し、三里塚闘争を引き起こした。

そうです。三里塚闘争があれだけ激化した理由の一つは「三里塚農民に満蒙開拓団の生き残りがいたこと」もあったのかもしれません。彼らにとって「国策だから従え」という二度にわたる国の態度は怒りを覚えずにはいられなかったでしょう。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201712/CK2017120402000107.html
東京新聞<象徴天皇と平成>(2)負の歴史にも向き合い 満蒙開拓平和記念館副館長・寺沢秀文さん
 「自決するため仲間と石で殴り合ったが、自分だけ生き残った」。
 厳しい表情で壮絶な体験を話す満蒙(まんもう)開拓団の元団員たちに、天皇陛下は言葉をかけられた。
「こういう歴史があったことを経験のない人にしっかり語り継いでいくことは、とても大切だと思います」
 二〇一六年十一月十七日。天皇、皇后両陛下は、長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」で三人の元団員と懇談した。いずれも戦前、旧満州(現中国東北部)に入植した。二人は引き揚げ体験を語る活動をしていた。両陛下は真剣に耳を傾け、「ご苦労されましたね」とねぎらった。
 案内役を務め、懇談に同席した記念館副館長の寺沢秀文さん(63)は胸が熱くなった。
「開拓団は、国に見捨てられた『棄民』だった。両陛下にお越しいただいたことで、これまでの活動が報われた」
 長野県は開拓団に都道府県で最多の約三万三千人を送り出した。このうち約一万五千人が旧ソ連参戦後、逃避行での集団自決や、収容所内での飢えや疫病、寒さで死亡した。記念館はその悲劇を後世に伝えようと、一三年に開館した。

 「あまり過大評価する気もない」ですが、「先代の昭和天皇」よりは「現天皇」の方が人間としていくらかまともな気がします。
 昭和天皇はこういうところには絶対に行かないでしょうからね。しかし俺だったら現天皇を「あんたの父親(昭和天皇)のせいで満州で人が死んだのじゃないか!。肉親としてそのことをどう思ってるんだ!」となじりたくなりますが「これまでの活動が報われた」ねえ。いや、本心かどうかはわかりませんけど。

https://www.sankei.com/region/news/180705/rgn1807050030-n1.html
■産経【番組審議会】長野放送
 長野放送(外山衆司社長)の番組審議会が4日、長野市の同社で開かれ、「NBSフォーカス∞信州 信念に生きた男〜満州移民に抵抗した男・佐々木忠綱〜」について審議した。
 番組は、戦時中、飯田・下伊那地域で村人を満州に送り出すことに抵抗した佐々木忠綱の生涯を描いたもの。
 審議では、「佐々木忠綱さんのような、満州移民に抵抗したリーダー(村長)がいたことに新鮮な驚きを感じた」「テーマの深みと新鮮さ、番組構成、ローカルらしさに優れ、あまり知られていない歴史を良く発掘した」「解説が分かりやすく、人物像をよく浮かび上がらせた」などの意見があった。

https://mainichi.jp/articles/20160309/ddl/k20/040/164000c
毎日新聞『佐々木忠綱さん:旧・大下条村長、録音発見 「王道楽土」に疑問 /長野』
 戦時中、国策だった旧満州中国東北部)への「分村移民」に反対した旧大下条村(現阿南町)の村長、佐々木忠綱さん(1898〜1989年)が生前に語った録音が見つかり、阿智村満蒙開拓平和記念館に複製したCDが寄贈された。分村移民を進めなかった理由などを述べており、同記念館は「難しい決断をした心情や、反対した実態が分かる貴重な資料だ」と話している。

https://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/2ea27339324186187ffb30ff10b27909
■土の戦士 (1)〜(10) 満州開拓そして悲劇/朝日新聞・長野
■(3)移民地で見た「不安」
 背広姿に帽子をかぶった佐々木忠綱が、下伊那郡の他の村長ら40人と共に写った集合写真がある。1938(昭和13)年5月15日の撮影で、大下条村(現阿南町)村長の佐々木は40歳だった。
 一行はこの日、天竜峡駅をたち、豊橋で列車を乗り換えて敦賀へ、そこから海を渡る。下伊那郡町村長会が主催する満州農業移民地視察だ。郡下の町村長のほぼ全員に、県社会課と郡農会の担当も加わり、総勢41人が24日間の視察旅行に赴いた。
 この参加を機に村々の移民送出熱が盛り上がる。分村移民計画を立てると、国・県からの助成・補助や低利貸し付けのうまみがあった。川路村(現飯田市)を先頭に泰阜(やすおか)村、千代村、上久堅村(泰阜村を除き、すべて現飯田市)が競うように分村移民を送り出した。郡下の複数の村が連合する分郷移民「下伊那郷」の計画もまとまる。
 だが、大下条村は最後まで分村移民の計画を立てなかった。佐々木村長が頑として首を縦に振らなかったからだ。
 89年に他界した佐々木の一周忌に回想録ができた。晩年の講演を基に、長男(故人)が編んだ。その中で佐々木は視察旅行をこう振り返っている。
 「一次の弥栄(いやさか)村と五次の信濃村はよく広野を開拓しつつあって感心しましたが、二次の千振(ちぶり)郷と松島自由団は旧満人(満州の人々への蔑称)の耕地を追い出して日本人が入植した様な形跡も見られ何となく不安な感じが残りました」
 中国人と朝鮮人を追い出した後に日本人が入植したことを佐々木は見て取った。その結果、他の村長と異なり、国策に沿わない判断に至った。視察から7年後の敗戦で、日本人移民と現地中国人の力関係は逆転し、佐々木の「不安」は不幸にして的中する。
■(4)中国人追い、入植
 大下条村(現阿南町)の佐々木忠綱村長は1938(昭和13)年、下伊那郡の他の村長らと集団で満州中国東北部)を視察旅行する。そこで彼が何を見て、どう感じたのかを直接に伝える記録は残っていない。
 数少ない戦後の資料が、前回引用した回想録の他にもう一つある。79年の座談会での発言だ。20年代の民間教育「伊那自由大学」に参加した佐々木が、当時の仲間や研究者に語っている。
 「視察してきて日本人が非常に威張っているということと……満人(満州の人々への蔑称))の土地を略奪してどんどんやっていくというようなやり方をしているのを見たり、日本人が(中国人を)侮辱しているところを見たり……はたしてよいものかどうか私も非常に疑問をもちまして……」
■(5)翼賛壮年団、詰め寄る
 満州中国東北部)の入植地を集団視察して、村民を送り出すことに不安を感じた佐々木忠綱・大下条村(現阿南町)村長は、妻にだけ相談し、移民を出さない決断をしたとみられる。村職員に1940(昭和15)年春に採用され、後に助役を務めた熊谷龍男(93)は、佐々木の妻てる(故人)から聞いた話を明かした。
 「主人から『分村移民はやめようと思うけど、どうか』と相談された。『あなたがそう考えるなら、それがいいでしょう』と答えました」。
 満州視察から戻った佐々木は、分村移民を送り出すべきではないとの考えを固め、熊谷ら職員にも話していた。
 佐々木の孫で県飯田保健福祉事務所長の隆一郎(60)は祖父からこう聞いている。
「『どうしたらいいだろう』とばあさんに話したら、『身内を行かせたくないような所に、人を送れないのではありませんか』」。
 隆一郎は「じいさんは好奇心が旺盛で、自分が経験したことしか信じない人でした」と振り返る。
 翼賛壮年団というグループが戦前の社会で幅を利かせていた。戦時体制下で市町村に根を張り、国策推進を強調した。それだけに、国策の分村移民に踏み切ろうとしない佐々木の姿勢に不満だった。
 翼壮の役員数人が村役場に何度か乗り込み、佐々木に詰め寄ったことを熊谷は覚えている。分村移民の重要性を説き、村からも送り出すよう迫ったという。だが佐々木は譲らず、「お前たちの言うことをそのまま聞くわけにはいかない」と突っぱねた。
 熊谷の目に、翼壮たちの態度はけんか腰というほど強硬には映らなかった。
「翼壮の連中の中には村長の信奉者もいたし、分村以外で争いはなかったのだから」
 佐々木自身は81年の伊那自由大学の記念集会で語っている。
「ある時は壮年団が全部寄ってきて、『村長なんだ、分村すべきじゃないか、各村が全(すべ)て分村しているのに、なぜ分村せんのか』と詰め寄られた」。
 「各村が全て」は誇張だが、緊張感が漂う。
■(6)職務で出せぬ「本心」
 村を割っての分村移民を一貫して拒んだ大下条村(現阿南町)村長、佐々木忠綱の本心は、分村に限らず、どのような形の満州移民も送り出したくなかったようだ。
 孫の隆一郎(県飯田保健福祉事務所長)が地元の大下条中学(現阿南第一中学)に通っていた1960年代前半のことだ。担任の中繁彦(76)は、佐々木から戦前の話を聞いたことがある。佐々木は教育ママならぬ「教育じいさん」で、学校にもよく足を運んだ。
 「お会いしたのをきっかけに、家を訪ねて話をお聞きしたのだと思う」
 満州移民に触れると、佐々木はこう語ったという。
「村長時代に村役場の用務員から『村長、満州に移民で行きたい』と相談を受けた。私は『やめた方がいい』と彼をとめた」。
 彼から戦後、「あの時、行かないでよかった。村長に助けてもらった」と礼を言われたという。
 中は、満州移民に関心を強め、後に著書*17を出す。「泰阜村は分村にまで進み、多くの犠牲者を出した。当時の流れにあえて踏みとどまった佐々木さんの信念に、私は敬意を感じた。温厚で立派な方だった」と振り返る。
 満州移民の送り出しに反対のはずだった佐々木だが、村長として「本心」を表に出せなかったことがある。
 満州の集団視察から戻って4カ月後の38(昭和13)年10月、17歳の少年が満(まん)蒙(もう)開拓青少年義勇軍の願書を拓務相に提出する際、佐々木は推薦をしている。翌11月には21歳と26歳の女性を、義勇軍の寮母に推薦した。どちらも、阿南町が保管する旧大下条村の記録「満州移民一件」に残る。
 10代の少年を募る義勇軍は、3年間の訓練の後も現地にとどまり、農村建設に移ることを佐々木は知っていたはずだ。村の満州移民後援会長でもあった佐々木にとって、推薦は職務だったのだろう。
 満州移民は36年、広田弘毅内閣が7大国策に組み入れ、大量移民時代に移る。目的は、昭和恐慌に陥った農村の生き残り策から、「(日本と満州国の)不可分関係を強化し、満州国の健全なる発展に寄与」(広田首相)へとすり替わる。戦時体制が強まる中で、関東軍の対ソ連戦略としての位置づけが強化された。
 佐々木は村長として、移民や青少年義勇軍のすべてに反対したわけではない。だが、村の責任で送り出す分村移民だけはぎりぎりの線で認めたくなかったに違いない。

http://www.minkyo.or.jp/01/2018/01/sp_32.html
■民教協スペシャル『決壊:祖父が見た満州の夢』
・戦争中、長野県の河野村(かわのむら)で村長を務めた胡桃澤盛(くるみざわ・もり)は、国策に従い、村人を満蒙開拓団として満州国へ送り出した。しかし、ソ連軍の侵攻で戦場と化した満州で、73人が集団自決。後に、盛は、罪の意識に苛まれ、42歳で自ら命を絶った。
・孫の胡桃澤伸(しん)(51)は、大勢の村人を死に追いやった祖父、自責の念に苦しみ自殺した祖父のことを、どう受け止めていいかわからずにいた。手がかりになるのは、10代の終わりから死の直前まで書いていた日記。青春時代は大正デモクラシーに触れ、自由主義に理想を求め、30代半ばで村長となり村のために奔走する日々の心情が、生々しく綴られている。家族のため、村のため、社会のために生きたい、常に正しくありたいと願っていた祖父は、気がつけば国のため、戦争遂行のために邁進していた。
 2017年の夏、日記を頼りに、祖父が一度だけ赴いた中国を訪ね、足跡を辿った。開拓団が入植した村では、当時を知る長老から話を聞くことができた。集団自決の地を訪ね、73人の名前を読み上げ、送り火を焚き、手を合わせた。戦後、悼む人もなく置き去りにされてきた人々に語りかける。祖父の代わりにはなれない自分が、今、慰霊する意味を見つめた。
 国民の命をないがしろにした国の政策、個人を犠牲にしてまでも国全体の利益や一体感を優先させる思想、そこに与した祖父。戦後、その過ちと向き合おうとしたときの、苦しみの深さを思う。残された日記は、戦争を知らない自分たちに大切なことを伝えようとしていた。
■取材後記
 ディレクター:手塚孝典(信越放送
 10年ほど前、初めて胡桃澤盛の日記を手にした時の衝撃や感動を忘れることはできません。若い頃には、自由主義の風に触れ、社会の不条理や農民が置かれた苦境に心を寄せていた、聡明で慧眼を持つ盛が、なぜ、国策に与して、過ちを犯したのか。孫の伸さんと日記を読み進める取材のなかで、少しずつわかってきたことがありました。それは、「軍国主義の時代だったから」という一言で済ませてはいけないものです。敗戦後、そのことに最も苦しんだのが、盛自身ではなかったかと思います。正義とは、公正さとは、国家とは、人間とは、何か。取材を通して、戦争に留まらず、多くのことを考えました。これは、決して過去の戦争の話ではなく、現代の問題なのだと感じています。満蒙開拓を語ることは、私たちが、今の社会や政治、国のあり方と、どう向き合うのかを問うことであり、今回の番組制作を通して、その思いを強くしています。

https://blogs.yahoo.co.jp/hitoshi7312/48998889.html
中日新聞『満蒙開拓と2人の村長』(2015年10月11日)
 国策に抵抗し、村民の命を救った村長の足跡をたどっていたとき、村民らを死に追いやった責めを負って自死したもう一人の村長を知った。信州版で書いた連載記事「国策の大地〜満蒙開拓と2人の村長」(八月十二〜二十二日)でその対照的な生きざまを描いたのは、政治家の責任とは何か、という素朴な“問い”からだった。
 戦前の旧満州国(現中国東北部)への移民事業「満蒙開拓団」では、村民の一部を丸ごと移民させる見返りに助成金が出る「分村移民」が推奨され、全国約二十七万人、長野県から最多の三万三千人余が送り出された。
 大下条村(現・長野県阿南町)の村長・佐々木忠綱(一八九八〜一九八九年)が国策を拒否したのは、現地への視察旅行がきっかけだった。回想録には「旧満人を追い出して日本人が入植した様な形跡も見られ(中略)ちょっと威張りすぎではないか…」と記されている。
 親交があった中繁彦さん(84)は「土地を取り上げた日本人が威張っている様子に『これはまずい』と疑問を持ったそうだ」と佐々木の言葉を思い起こす。国会議員が「おまえの首を切るぐらい世話ないぞ」とどう喝し、翼賛壮年団が「全て分村しているのに、なぜ分村せんのか」と押しかけたが、佐々木は信念を貫いた。
 一方、河野村(現・長野県豊丘村)の村長・胡桃沢盛(一九〇五〜四六年)は分村を決断し、約百人を送り出した。もともと社会主義に共鳴する青年期を過ごし、当初は移民に消極的な胡桃沢だったが、国や県の強い要請で揺れていく。模範的な皇国農村に指定され、助成金を貧しい村に得るため、最終的に分村移民を決断したようだ。日記には「安意のみを願っていては今の時局を乗り切れない」とつづられている。
 河野村開拓団は集団自決に追い込まれた。当時十五歳で、一人だけ生きて故郷に戻った久保田諫さん(85)は、母親たちともんぺのひもで子らの首を絞め、苦しんで抵抗する子らのみぞおちを蹴って絶命させる役を担わされた。
「お父さんのところに行くぞ、と声をかけると手を合わせる子もおった。あれは忘れたくても忘れられない」。
 胡桃沢は四六年七月、四十一歳の若さで自ら命を絶った。
 遺書には「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳がない」と記してあったという。
 拒否と推進。その決断は村民の生死を分けた。
 佐々木の人物像を論文にまとめた元高校教諭の大日方悦夫さん*18(62)は、国策拒否の判断を、孔子の逸話になぞらえる。
 孔子は、重い荷物に苦しむ一頭の牛を見て、助けようと言った。弟子は、この国には荷物に苦しむたくさんの牛がいるから、助けてもしょうがないと言った。すると、孔子は弟子にこう言った。私の目の前にいるから助けるのだ、と。
 大日方さんは「佐々木さんは、声高に反対を唱えたわけではない。個人の行動では国策という大きな流れは変えられない。でも、自分にできるぎりぎりの行動で、目の前の多くの命を救った。危機の時代には、良心的な一つの行動が命を救う」と語る。
 では、悲劇を招いた胡桃沢の決断を断罪できるか。長男の健さん(77)は「おやじは真面目で村を思ったからこそ、時代の流れにのまれていった」と振り返り、つぶやくように言った。
 「きちんと責任を取る政治家がいない中、おやじなりの責任の取り方だったと思うとほっとする。だけど同時に、なぜそれがおやじだったのか、とも思う」
 (ボーガス注:自責の念から自決した胡桃沢とは違い) 「王道楽土」「五族*19協和」のスローガンで理想の地と宣伝、推進した(ボーガス注:当時の満州国総務庁次長・岸信介*20ら)政治家たちは口を閉ざし、何事もなかったように戦後を生きた。逃避行での襲撃、病気などによる八万人もの犠牲に対し、その責任は問われないままだ。
 分村拒否を貫いた佐々木の信念がぶれなかった理由を、孫の男性(66)は祖父から直接聞いていた。
 苦悩する佐々木はある日、妻のてるに相談し、てるから「身内をやることができる場所なのですか。やれないならやめておきなさい」と助言された、という。
 「じいさんの最後の判断基準は、家族だった。家族をやれないのに他人を送り出せない。当たり前の感覚を貫いた」
 今の政治家たちの目線は、その当たり前のところにあるのだろうか。二人の村長が突きつける問いは、いっそう重みを増している。誤った政治判断を、二度と不問に付してはならない、と思う。

 「死ねばいい、死ねばすべてが許される」というものではないですが、胡桃沢にとって「自らのために多くの村民を死なせたこと」は死を持って償うしかないという自責の念が強かったのでしょう。
 「豪雨災害が予想される中、酒盛りをしたあげく謝罪一つしない、安倍某ら人間のくず共」とは偉い違いです。あるいは「自決どころか退位すらしなかった人間のくず」「戦後も国家元首気取りだった愚物」昭和天皇とは偉い違いです。昭和天皇や安倍なんか「自責の念で自決」なんか一度として考えたことはないでしょう。
 「嘆かわしいこと」ですが、何というか「最後の沖縄県知事・島田叡」「最後の沖縄県警部長・荒井退造」といい今回の胡桃沢村長といい、恥を知る真面目な人間ほど信念を貫いたが故に早死にし、安倍や「昭和天皇」のような恥知らずのクズほど長生きするような気がします。人間社会の不条理と言うべきでしょうか。
 俺的には「死ねばいい、死ねばすべてが許される」とはいいませんが、敗戦直後、自決した阿南*21陸軍大臣、杉山*22陸軍大臣などの方が「保身に走り、生き恥をさらした昭和天皇」よりずっと好感が持てます。
 そして佐々木村長の生き様も「公僕こうあるべき」というものでしょう。
 自らの信念のためにはたとえ国策でも付和雷同しない。頭の下がる思いがします。
 小生もこう見えて「砂の器」「火垂るの墓」とか見ると未だに泣きそうになる(実際泣くこともある)「お涙ちょうだいにすごく弱い人間」なので、胡桃沢や佐々木の生き様に感動の思いから泣きそうになってきます。もちろん島田や荒井の生き様にも感動しますね。
 なお、島田や荒井、胡桃沢の死*23には「ある種の感動を覚える小生*24」ですが、チベット焼身自殺には全く共感しないのは「多分『邪悪の集団』ダライ・ラマ一味が不当に政治利用してるから」「自殺者が自分の頭で考えずにダライに盲従してるようにしか見えないから」だと思います。
 また「ダライに胡桃沢や佐々木のような責任感を感じない」からだと思います。ダライってメンタリティが多分昭和天皇に似ていて自分のことしか考えてないと思いますね。「チベット蜂起をして多くの人を死なせたことを死んで償いたい」「オウム麻原から1億円受領してオウム犯罪を助長したことを死んで(以下略)」とか何一つ考えてない。そのくせ、偉そうなことをほざく。
 というとid:Mukkeid:noharra、阿部治平やI浜Y子は大激怒でしょうが俺はダライをその程度の人間だと思ってる。「ダライはチベット蜂起(1950年代)や焼身自殺問題(近年)の責任とって死ねばいい」とまではいいませんがダライが自決したら俺のダライ評価も「いい意味で」変わるかもしれません。
 話が脱線しますが「チベットの平和のためにも」ダライ一味の「一日も早い政治的滅亡」を希望してやみません。

https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/3f6ce1ca52afee4dcd609b83d53173a2
■『人びとはなぜ満州へ渡ったのか』
 「なぜ」という問への半可通の答えとして、「日本国内の農村窮乏への対策」という言葉が浮かぶとするなら、「そうではなかった」というのが著者の基本的な主張であるらしい。
 昭和恐慌下に日本の農村が塗炭の苦しみを舐めたのはまぎれもない事実だが、そのピークは1934(昭和9)年であった。満蒙開拓団への勧誘と応募が盛んになるのはその数年後からで、既に国内の農村の状況は回復に向かい、むしろ人手がほしい時期に来ていた。そのことだけを考えても話が合わない。
 転換のきっかけを為したのは1936(昭和11)年の二・二六事件で、満州への移民に反対していた高橋是清蔵相が殺害されたために歯止めがかからなくなった*25という。二・二六の青年将校たちは、少なくとも主観的には農村の復興をひとつの念願として挙に至ったと考えられるから、その後の満蒙開拓団の悲惨な運命を考えると何ともいえない気持ちがする。まさに、地獄へ至る道は善意で敷きつめられている。
 長野県は満州移民の推進に最も熱心な県であったらしく、その事情がまた象徴的である。さらに往時のブラジル移民などと違い、移民先の文化に適応しつつこれに影響されたハイブリッドの日系人社会を作っていくというのではなくて、のっけから「分村」が指向された。満州統治と対ソの備えのため、日本(人)の村を移出してくさびのように打ち込んでいく(これは著者ではなく僕の言葉)方式である。当然、現地の人々の反発は強く、融和は進まない。そしてソ連の参戦と関東軍の「置き逃げ」・・・
 国家というものが何なのか、いかに「責任」と無縁であるか、今この時期の戒めという意味でも好著の候補と思われる。ただ、ちょっと高いんだな、4,669円。

 二・二六事件で、満州への移民に反対していた高橋是清蔵相が殺害されたために歯止めがかからなくなった

云々という指摘がありますが、ウィキペディア満蒙開拓団」にも

満蒙開拓団ウィキペディア参照)
 二・二六事件により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、同事件により高橋是清蔵相も暗殺され、反対論も弱まり、広田弘毅*26内閣は、本事業を七大国策事業に位置付けた。

という記述があります。 
ミッドウェイ海戦にもし勝っていたら
https://plaza.rakuten.co.jp/intisol/diary/201808040000/
なんてのはinti-sol氏がいうように「勝つ可能性が低い上、勝っても戦争の大局に影響しない」ので、与太でしかありませんが「226事件がなかったら」「226事件で高橋蔵相が死ななかったら」というのは与太とまでは言えない気がします。
 少なくとも満州移民の犠牲者がそう思うのはごく自然です。

https://book.asahi.com/article/11597519
朝日新聞『人びとはなぜ満州へ渡ったのか 長野県の社会運動と移民』小林信介〈著〉
◆「貧しさゆえに」の移民像を覆す
 関東軍の武力を背景に日本が中国東北部で建国を宣言した「満州国」。版図内に一時は百万人を超える日本人が暮らしていた。本書はその約三分の一を占める開拓団員、青少年義勇軍ら、「農業移民」を研究対象とする。
 移民たちは「貧しいがゆえに、新天地を求めて自ら満州に渡った」とされてきた。だが、全国最多の農業移民を送出した長野県各地域の経済状態と移民数を詳細に検討した著者は両者の間に因果関係は存在しないと考える。
 その代わりに仮説として示されるのが「バスの論理」、つまり「あの村が行くのなら自分の村でも」と移民送出を競い合う構図だ。実際、高送出地域は県道等で繋がり、競争心理が連鎖的に広がっていった事情をうかがわせる。
 もうひとつ、注目されるのが教育の関与である。多くの教員が社会活動で検挙された「二・四事件」*27が1933年に起きた後、長野県の教員組織「信濃教育会」は身の潔白を証し立てるかのように国策追従色を強める。教師たちは次男、三男のいる農家を回って「一人ぐらいは行ってくれ」と家族を説得した。
 このように農業移民が国境を越えたのは「貧しさ」のせいではなく、「自発的」な選択でもなかった。それを実証的に示した意義は専門的な研究領域に留まらない。競争心を駆り立てたり、教育を媒介に動員を図ったりするメカニズムは戦時下の長野県に限られず、どこにでも発動しうる。開拓移民の前例が広く知られれば、それに対して注意深い検証の構えが取れよう。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2015/11/post_4497.html
■移民たちの「満州
 アベ首相のいう「美しい国」は戦前の満州をかかえた日本をさしているようです。
 では、その満州に夢を持って渡っていった日本人が、結局、どんな悲惨な目にあったのかを今の私たちが思い出すのも意味があることでしょう。
 京都府は長野県に後れをとったが、10ヶ年で20万人を満州へ移住させるという壮大な目標をかかげた。しかし、幸か不幸か(幸に決まっていますが・・・)ほとんど実現していない。
 1933年3月、第一次の武装移民*28425人が満州に入植した。大阪市の2倍、横浜市の広さの土地450平方キロが日本人の土地になった。しかし、武装集団から襲撃され、屯懇病(ホームシック)で、まもなく半数ほどが退団した。ここは満州開拓発祥の地と喧伝されたが、その実態は失敗の連続だった。
 1936年当時の日本の人口は7000万人。満州移民500万人という計画は、人口の7%を移すという、とんでもない計画だった。
 日中戦争がはじまり、移民消極論が再び台頭し、最終的に青少年義勇軍は3万人あまりで、6割の達成率だった。ほとんどの道府県で割り当てを下まわり、達成したのは、石川、佐賀、大分の三県のみ。九州から佐賀、大分の二県があるのは興味深いところです。
 同じ海外移民でも、南米ブラジルは遠いけれど、匪賊は出ない。満州は近いけれど匪賊が出る。
 国策とか天皇を錦の御旗にかかげたとき、ごく普通の人々が想像力を失い、思考停止に陥り、良識なき選択を繰り返していった。
 満州開拓は、無人の地に入植したのではない。現地の中国人を追いだして日本人の土地にしたのである。
 大分県日田市から行った大鶴開拓団は、一人の残留者もなく引き上げることができた。すなわち在籍者220人の8割の176人が戦後の日本に生還した。その主たる理由は、現地の中国人と良好な関係を築いた点にあった。だから戦後に、避難するのに現地の人々に協力してもらったという。
 誰かのものを奪えば、あとで生命か何かを奪われることになるのです。海外植民地の悲劇を繰り返すのはゴメンですよね。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52111712.html
■二松啓紀『移民たちの「満州」』(平凡社新書
 京都府天田郡(現在の福知山市)の天田郷開拓団の関係者からその資料を託されたことをきっかけにして満蒙開拓団について調べ始めた京都新聞の記者が、「満州移民とは何だったのか?」ということを明らかにしようとした本。
 たんに京都からの満州移民のルポというようなものではなく、「国策」としての満州移民が、いかに立案・推進されたか、そして悲劇を生み出したのかということを幅広い視野で分析しようとした本でもあります。
 満州移民という政策の問題点についての分析と、その政策が個々人にもたらしたものがバランスよく記述されており、非常に良い本になっていると思います。
 1931年に満州事変が起こり、翌32年に満州国の建国が宣言されましたが、当時の日本の支配は「点」(都市)と「線」(鉄道)でしかなく、「面」の支配とは言えない状況でした。そこで、持ち上がったのは日本人の移民を屯田兵のような形で用いて、日本の支配を確立する政策です。
 また、当時の日本の農村は零細経営と貧困にあえいでおり、満州への移民は満州の治安状況の改善と日本の農村の問題を解決する一石二鳥の政策でした。
 特に「分村移民」は日本の農村問題を一気に解決するものとして注目されました。
 例えば、農民がある程度豊かな暮らしをするために耕地が1町(約1ヘクタール)必要だとします。ところが、ある村では一戸あたりの耕地面積が0.5町だったとします。これでは農民は豊かな暮らしはできません。ところが、この村の農家の半数が広い未開拓地の広がる満州に移住したらどうでしょう。残った農家の耕地は倍に増え、移民した農家は満州でさらに広い耕地を手に入れることができます。これが「分村移民」です。
 これはまさに「机上の空論」です。満州の広大な未開拓地といってもそこはもちろん無人の場所ではありませんし、気候も風土も違う満州で日本人の農民がうまくやれる保証もありません。
 実際、自ら移民となって苦労した経験もある高橋是清*29は移民政策に予算をつけることを頑として認めず、「満州移民のトーチカ」(37p)とまで呼ばれました。この本には、東京帝国大学教授の那須皓(しろし)と京都帝国大学教授の橋本傳左衛門が満州移民推進のため高橋に面会を求めた際に、両人から「現地に行った経験がない」と聞くと軽く一蹴したそうです(39p)。
 このエピソードからもわかるように満州移民の計画は、まさに「机上の空論」でした。
 ところが、この「机上の空論」は、二・二六事件による高橋是清の死*30や、「国策」に協力しようとする「地方」によって実際のプロジェクトとして動き出してしまいます。
 その時、「分村」の模範村として注目を浴びたのが長野県南佐久郡大日向村*31です。この大日向村は和田傳(つとう)の小説『大日向村』によって全国へと紹介され、満州移民の原動力の一つともなりました。
 小説『大日向村』は、山に囲まれ貧困にあえいでいた「大日向村とは名ばかりの暗い日陰の村」が、満州移民を機に一つになり、満州の新天地をめざすというストーリーです。しかし、この本では、大日向村の財政危機が以前の村長らの使い込みなどが原因だったこと、歴史的にはむしろ裕福な農村だったこと、移民に行ったのは零細農家や家を継げない次男・三男だったこと、日中戦争が始まると周囲の鉱山が稼働しむしろ人手不足になったことなど、ストーリーには盛り込まれなかったもの、逸脱したものが紹介されています。
 では、移民先の満州の様子はどうだったのか?
 「満蒙開拓団」というと、無人の荒野を開拓するというイメージですが、彼らが入植した土地の多くは現地の人々を追い出して用意された土地であり、しかも実際の農作業も現地の「満人」任せという状態でした。
(中略)
 このように、日本ではより貧しくより弱い立場に置かれていた移民でしたが、現地では「小さな権力者」でした。
 しかも、「開拓」という名目はますます形だけのものになっていき、戦争がエスカレートし、民需向けの商工業者が失業すると、その失業者の受け皿として満州が着目されることになります。実際の農作業は中国人がやるということで、農業の経験はもはや必要とされなくなったのです。
(中略)
 また、本土の人々は、空襲もない、本土決戦の不安もない、無敵の関東軍がいる、といった理由で、「安全な疎開地」(138p)と考える人も多かったのです。
 しかし、この「安全な疎開地」は1945年の8月8日のソ連の日ソ中立条約の破棄によって吹き飛びます。関東軍は移民たちを守ることもせずに後方へと退却、軍や満鉄などの支配者層だけがいち早く前線から移動し、何も知らない移民たちがソ連軍と、日本人に土地などをとり上げられて恨みをもつ中国人たちの中に取り残されました。
 この本の第五章と第六章では、移民たちの厳しい逃避行や集団自決、収容所での悲惨な境遇などが描かれています。特に満州の各都市につくられた収容所の様子は悲惨で、改めて移民たちが日本という国家からも、また都市の居留民からも「棄てられた」存在だったことが見えてきます。
 さらにこの本では引き揚げや、その後の日本での戦後開拓、シベリア抑留などについても触れています。結局、満州移民たちは戦争が終わった後も「国策の誤り」のツケを支払わされることになるのです。
 著者はこの本の終章で次のように述べています。 
満蒙開拓団は国策の犠牲者だったといわれる。国策には強制力があり、上からの支持に従うしかなかったと説明される。この見方に反論すれば戦争を体験していない者には分からないと諭される。もっともらしく聞こえるが、筆者は強い違和感を覚える。
 「国策の犠牲者」という言葉は、想像力を奪い、思考を停止させる。犠牲者とは誰なのか、どこの何者が引き起こしたのかと、いま一度、厳しく問うべきではないか。言葉の使い方を誤り、加害の側に立つべき者の免罪符としてはならない。
 満州移民は最後まで公募制を採用していた。表面上とはいえ、個人の意志が介在したのだ。強制力がある徴兵とは、根本的に異なっていた。国策だったが、地方には一定の裁量があった。積極的に推進するかしないかは、地方の判断であり、国情の空気を読みながら実行すれば事足りる世界だった。満蒙開拓事業において、国策の強制性とは、いかなる性質だったのか、時期と地域性を含めて詳細な検討が必要ではないかと思う。』(255p)
 また、同時に移民が中国人にとっては「加害者」であったことも指摘しており、この本は「満蒙開拓団の悲劇」を描くのみではなく、もっと大きな視野で満州移民という「国策」の失敗とその責任を問うものになっています。

【追記】

◆遠藤十亜希『南米「棄民」政策の実像』(2016年、岩波現代全書)
・アマゾンの内容紹介
 19世紀末から20世紀半ばまで、約31万人の日本人が、新天地を求めて未知の地ラテンアメリカに移住した。その多くは、日本政府が奨励・支援した「国策移民」だった。従来人口増加や貧困への対策とされてきた日本の移民政策が、「不要な人々」を国内から排除し、海外で利用するためのものであったことを明らかにする。

 満州移民に限らず日本の戦前移民って「結果的に成功したとしても」基本的にはすべて「棄民だったのかな?」という気がしてきました。


■戦時期植民地朝鮮における防空体制の構築(松田利彦*32
(内容紹介)
 日本と比較する形で植民地朝鮮の防空体制が述べられている。
違い
1)防空意識
・本土が空襲の惨禍を受けた日本と違い、朝鮮は空襲の被害が少なくそのため民衆の防空意識はあまり高くなかった。なお、そこには「日本が負ければ朝鮮で防空しても意味がない」という諦めや、「日本人がどうなろうと我々朝鮮人には関係ない」という「ある種の抗日(?)意識」もあった。
2)防空を支えた組織
・本土では在郷軍人会が防空を支えた組織として重要であった。一方、朝鮮では在郷軍人会の力は弱くその分、警察や「警察を支える官製組織・警防団」の力が大きかった。


■「戦争体験論」の成立(赤澤史朗*33
(内容紹介)
 日本において「自衛隊イラク派兵」など、「様々な限界」を抱えながらも、ある種の平和主義(とにもかくにも現在まで自衛隊が米軍と共同軍事作戦しない、など)が成立した背景として、筆者は「東京大空襲、原爆、沖縄集団自決、神風特攻、中国残留日本人孤児などの惨禍を生んだアジア太平洋戦争の体験に基づく反戦厭戦、避戦」の思いが受け継がれてきたからだとし、それを「戦争体験論の成立」と呼んでいる。
 ただし、筆者も指摘するようにそうした「戦争体験論の多く」は中国帰還者連絡会編『完全版・三光』(1984年、晩聲社)といった一部例外を除き、加害意識が弱いという問題点があった。

参考

https://www.sankei.com/premium/news/150719/prm1507190024-n1.html
■産経【あの人の本】漫画だから描ける戦争 おざわゆきさん『あとかたの街』『凍りの掌』
 終戦から70年。プロの漫画家たちが選ぶ日本漫画家協会賞大賞(コミック部門)に輝いたのは、戦争を題材にした2つの作品だった。おざわゆきさん(50)の『凍りの掌(こおりのて) シベリア抑留記』(小池書院)と『あとかたの街』(講談社「BE・LOVE」連載中)だ。27日には同社から『凍りの掌』の新装版と、『あとかたの街』の4巻が同時に発売される。両親の実体験をもとに、現代に通じるリアルな感覚で戦争を描くおざわさんに聞いた。(戸谷真美)
 太平洋戦争末期の名古屋を舞台にした『あとかたの街』は、名古屋大空襲を生き抜いたおざわさんの母(83)の体験をもとにした物語だ。主人公・木村あいは、食いしん坊で明るい12歳の少女。両親と姉、妹2人の4人姉妹で、裕福ではないが温かな家庭で暮らすあいの日常に、徐々に戦争が入り込んでゆく。
 東京や大阪の大空襲、広島、長崎の原爆、地上戦が行われた沖縄などに比べ、太平洋戦争中の名古屋が語られることは少ない、だが、軍用機のエンジンや部品製造では日本最大級の三菱重工業名古屋発動機製作所をはじめ、多くの軍需工場を抱えていた名古屋は63回に上る空襲を受け、7800人を超える死者を出した。

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20180308/1520518653
紙屋研究所『「日本軍兵士」と2つのマンガ』
 『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』(中公新書)を書いた吉田裕(一橋大学教授)が、「前衛」2018年4月号で同著について語っている。
 その中に、マンガへの言及が2ヶ所ある。
 一つは、武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ――』(白泉社)である。
(中略)
 そして、その角度から、もう一つ、マンガへの言及を行なっている。
 それが、こうの史代この世界の片隅に』(双葉社)である。

https://www.jcp.or.jp/akahata/web_weekly/2018/03/post-4213.html
しんぶん赤旗日曜版『ペリリュー−楽園のゲルニカ−』が漫画家協会賞:漫画家 武田一義さん
 南太平洋のパラオ諸島ペリリュー島での悲惨な戦争を描いた漫画作品、『ペリリュー−楽園のゲルニカ−』が2017年日本漫画家協会賞・優秀賞を受賞しました。漫画家の武田一義さんに聞きました。

https://www.sankei.com/life/news/161012/lif1610120007-n1.html
■産経「ペリリューの戦い」の記憶を残す 漫画…兵士個々に人間臭さ 映画…映像で引き継ぐ感情
 今年7月末に第1巻が刊行された「ペリリュー−楽園のゲルニカ−」(白泉社)は、青年漫画誌「ヤングアニマル」に連載中のコミックスだ。漫画好きで心優しい田丸一等兵らのサンゴ礁の島での生活と戦いが、ほのぼのとしたタッチで描かれており、かえって戦争の残酷さを浮かび上がらせる。初版は3万部とこの分野の漫画にしては多く、女性や若者からも反響が寄せられているという。

https://www.nhk.or.jp/ohayou/digest/2017/11/1130.htmlこのせいか
NHK『漫画で描く ペリリュー島の戦い』
和久田
「こちらの漫画、『ペリリュー 楽園のゲルニカ』です。今、3巻まで出版され、12万部を超えるヒットとなっています。
 かつて手塚治虫も(ボーガス注:1975年に『ブラック・ジャック』で)受賞した、『日本漫画家協会賞』にも選ばれた話題作です。舞台は、今からちょうど73年前の11月に組織的な戦闘が終結した、ペリリュー島の戦いです。
 昭和19年、アメリカ軍は太平洋の島々を次々と攻略して日本が統治していたペリリュー島に迫ります。
 アメリカ軍の猛攻撃を受け、総勢1万人の日本軍はほとんどが戦死。
 太平洋戦争で最も凄惨(せいさん)な戦闘の1つでした。」

 最近においてもこうした戦争(名古屋大空襲、シベリア抑留、ペリリュー戦、広島への原爆投下)をテーマとした商業マンガが存在することは「戦争体験論のある種の継承」として一定の評価ができるように思います。
 

■朝鮮・琉球国の地位の変遷と確定(木土博成)
(内容紹介)
 国王の使者が徳川幕府に派遣されるという意味で朝鮮国と琉球国は江戸時代において、そうした使者が派遣されない「清国(中国)やオランダ(出島での交易相手)」など「他の国とは違う」特別な地位を占めていた。
 そして琉球と幕府、朝鮮と幕府をつなぐ仲介者として薩摩藩島津家、対馬藩宗家の存在は重要であった。
 しかし「事実上、薩摩藩に征服された琉球」と「独立国であり宗氏との関係は薩摩藩琉球のような支配関係ではなく対等な立場である朝鮮」との間には厳然とした違いもあった。
 たとえば朝鮮通信使は徳川将軍宛に書簡を送ることができたのに対し、琉球使節は老中宛にしか書簡を送ることができなかった。


■歴史の眼「二つの天皇代替わりをめぐる論説」(後藤致人*34
(内容紹介)
 「二つの天皇代替わりをめぐる論説」として、日本現代史研究会編『象徴天皇制とは何か』(1988年、大月書店)と吉田裕*35ほか編『平成の天皇制とは何か』(2017年、岩波書店)が取り上げられている。
 もちろん「昭和天皇と現天皇」には一定の断絶もあるが、連続面もあり、単純に現天皇に対し「平和主義者イメージ」などを投影することに筆者は疑義を呈している(そもそも立場上仕方ないとはいえ、現天皇は父・昭和天皇に対して批判的な発言をしたことは一度もない)。

参考

http://chikyuza.net/archives/77950
■「平成の天皇制とは何かー制度と個人のはざまで」を読む。(澤藤統一郎)
 天皇の機能や役割は、天皇を権威として認める民衆の意識なくしてはあり得ない。そして、このような民衆の意識は、意図的に刷り込まれ植えつけられたもので、所与のものとして存在したわけではない。この書の中で、森暢平*36が皇太子時代の明仁伊勢湾台風被災者慰問のエピソードを紹介している。
 「ご成婚」から間もない皇太子時代の明仁は、1959年10月伊勢湾台風の被災地を慰問に訪れている。当時25歳。4月に結婚した皇太子妃美智子は妊娠中で単身での訪問だった。伊勢湾台風は59年9月26日に東海地方を襲い、暴風雨と高潮で愛知、岐阜、三重3県に甚大な被害をもたらし、死亡・行方不明は5千人、100万人以上が被災の規模におよんだ。
 中部日本新聞(のちの中日新聞)の宮岸栄次社会部長は、多くの被災者は「むしろ無関心でさえあった」と書いた。「いま見舞っていただいても、なんのプラスもない。被災者にとっては、救援が唯一のたのみなのだ。マッチ一箱、乾パン一袋こそが必要なのだ、という血の叫びであった」とまで断じている。皇太子の警護に人が取られ、「かえって逆効果」という新聞投書(45歳男性、「読売」1959年10月3日)もあったという。
 この皇太子の慰問には、事前の地元への問い合わせがあった。これに対して、「災害救助法発動下の非常事態であるため、皇太子の視察、地元はお見舞いなどとうてい受け入れられる態勢ではなかった」「さきに天皇ご名代として来名(名古屋来訪)される話があったときも、すでにおことわりするハラであったし、十分な準備や警備は、むろんできないばかりか、そのためにさく人手が惜しいほどだったのだ」との対応だったが、それでも宮内庁側は「重ねて来名の意向を告げてきた」という。伊勢湾台風被災地訪問は、皇太子明仁の強い意欲もあったとされるが、成功していない。
 私は、このときの水害被災者の受け止め方を真っ当なものと思う。深刻な苦悩を背負っている被訪問者が、天皇や皇太子に対して、「あなたは、いったい何をしに来たのか? あなたが私のために何ができるというのか?」と反問するのは至極当然のことではないか。

*1:著書『「銃後」の民衆経験:地域における翼賛運動』(2016年、岩波書店

*2:著書『近代日本の徴兵制と社会』(2004年、吉川弘文館)、『明治・大正・昭和 軍隊マニュアル』(2004年、光文社新書)、『戦場に舞ったビラ:伝単で読み直す太平洋戦争』(2007年、講談社選書メチエ)、『旅順と南京:日中五十年戦争の起源』(2007年、文春新書)、『皇軍兵士の日常生活』(2009年、講談社現代新書)、『日本軍と日本兵:米軍報告書は語る』(2014年、講談社現代新書)、『戦艦大和講義』(2015年、人文書院)、『米軍が恐れた「卑怯な日本軍」:帝国陸軍戦法マニュアルのすべて』(2015年、文春文庫)、『戦艦武蔵』(2016年、中公新書)、『飛行機の戦争 1914-1945:総力戦体制への道』(2017年、講談社現代新書)など

*3:著書『戦後治安体制の確立』(1999年、岩波書店)、『思想検事』(2000年、岩波新書)、『外務省警察史:在留民保護取締と特高警察機能』(2005年、校倉書房)、『横浜事件治安維持法』(2006年、樹花舎)、『多喜二の時代から見えてくるもの』(2009年、新日本出版社)、『特高警察』(2012年、岩波新書)、『日本憲兵史』(2018年、日本経済評論社)など

*4:著書『天皇制とジェンダー』(2002年、インパクト出版会)、『戦後史とジェンダー』(2005年、インパクト出版会)、『ヒロシマとフクシマのあいだ:ジェンダーの視点から』(2013年、インパクト出版会)など

*5:著書『帝国議会誕生』(2006年、文英堂)、『日清・日露戦争』(2007年、岩波新書)、『「戦争」の終わらせ方』(2015年、新日本出版社)など

*6:著書『ニーチェヴェーバー』(1993年、未来社)、『マックス・ヴェーバー入門』(1997年、岩波新書)、『日本の社会科学とヴェーバー体験』(1999年、筑摩書房)など

*7:著書『未完のフィリピン革命と植民地化』(2009年、山川出版社世界史リブレット)、『フィリピン近現代史のなかの日本人』(2012年、東京大学出版会)、『グローバル化する靖国問題:東南アジアからの問い』(2018年、岩波現代全書)など

*8:著書『間違いだらけの少年H:銃後生活史の研究と手引き』(共著、1999年、辺境社)、 『書かれなかった戦争論』(共著、2000年、辺境社)、『「少年H」の盲点:忘れられた戦時史』(共著、2001年、辺境社)、『すっきりわかる「靖国神社」問題』(2003年、小学館)、『戦争ができなかった日本:総力戦体制の内側』(2009年、角川ワンテーマ21)、『戦時児童文学論:小川未明浜田広介坪田譲治に沿って』(2010年、大月書店)、『「靖国神社」問答』(2015年、小学館文庫)、『アジア・太平洋戦争史(上)(下)』(2016年、岩波現代文庫)、『現代子ども文化考』(2017年、辺境社)など

*9:ポーランドの首都

*10:著書『魅惑する帝国:政治の美学化とナチズム』(2007年、名古屋大学出版会)、『愛と欲望のナチズム』(2012年、講談社選書メチエ

*11:著書『グローバリゼーションと日本農業の基層構造』(2006年、筑波書房)、『近現代日本の米穀市場と食糧政策:食糧管理制度の歴史的性格』(2013年、筑波書房)など

*12:著書『わたしが生きた「昭和」』(2000年、岩波現代文庫)、『密約:外務省機密漏洩事件』(2006年、岩波現代文庫)、『火はわが胸中にあり:忘れられた近衛兵士の叛乱・竹橋事件』(2008年、岩波現代文庫)、『世代を超えて語り継ぎたい戦争文学』(共著、2015年、岩波現代文庫)など

*13:著書『満鉄全史:「国策会社」の全貌』(2006年、講談社選書メチエ)、『「大日本帝国」崩壊:東アジアの1945年』(2009年、中公新書)、『国民国家と戦争:挫折の日本近代史』(2017年、角川選書

*14:著書『巣鴨プリズン教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』(1999年、中公新書)、『逃亡:「油山事件」戦犯告白録』(2010年、中公文庫)など

*15:著書『カナダ日系移民の軌跡』(2003年、人間の科学叢書)、『南米日系移民の軌跡』(2006年、人間の科学叢書)など

*16:著書『柳田国男と信州地方史』(2004年、刀水書房)、「増補・郷土教育運動の研究』(2008年、思文閣出版)、『フィールドワーク 茨城県の戦争遺跡』(編著、2010年、平和文化)など

*17:著書『沈まぬ夕陽:満蒙開拓の今を生きる中島多鶴』(2013年、信毎選書)

*18:著書『満洲分村移民を拒否した村長:佐々木忠綱の生き方と信念』(2018年、信毎選書)

*19:日本人、朝鮮人漢民族モンゴル族満州族のこと

*20:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*21:陸軍省兵務局長、人事局長、鈴木内閣陸軍大臣など歴任

*22:陸軍教育総監、林、第1次近衛、小磯内閣陸軍大臣参謀総長など歴任

*23:島田や荒井の場合は(仮に自決したとしても)「沖縄全土が戦場化する中での公務中の殉職」、胡桃沢の場合は「終戦後の自決」なので性格が違いますが

*24:ただし自殺である胡桃沢を美化する気はありませんが切って捨てる気にはなりませんね。

*25:まあ「満州移民を軽視してるのか!」という誤解を恐れず、「あえて言えば」、226事件で歯止めがかからなくなったのは一般には「満州移民」という「ある意味ちゃっちい話限定」ではなく「満州移民を含む日本の軍国主義化(対中国全面戦争)」と理解されます。まあそれ以前から、血盟団事件(井上前蔵相ら暗殺)、515事件(犬養首相暗殺)、永田鉄山陸軍省軍務局長暗殺などテロが横行しまくって日本右傾化を助長してたわけです。

*26:斎藤、岡田、第1次近衛内閣外相、首相を歴任。戦後、戦犯として死刑判決。

*27:1933年2月4日から半年あまりの間に、長野県で多数の学校教員などが治安維持法違反として検挙された事件。弾圧の対象となったのは、県内の日本共産党、日本共産青年同盟(現在の日本民主青年同盟の前身)、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及んだが、特にナショナルセンター・日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模で、全検挙者608名のうち230名が教員であった。このため、この事件は「教員赤化事件」、「左翼教員事件」などとも呼ばれた(ウィキペディア「2・4事件」参照)。

*28:まともに考えれば「武装していること」それ自体が「ある意味異常」でありその後の悲劇を示唆していたようにも思います。

*29:第1次山本、原、田中義一、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相、首相など歴任

*30:高橋以外では斉藤実内大臣渡辺錠太郎陸軍教育総監が暗殺された。

*31:現在の佐久穂町大字大日向にあたる。

*32:著書『戦前期の在日朝鮮人参政権』(1995年、明石書店)、『日本の朝鮮植民地支配と警察:一九〇五年〜一九四五年』(2009年、校倉書房

*33:著書『戦没者合祀と靖国神社』(2015年、吉川弘文館)、『徳富蘇峰と大日本言論報国会』(2017年、山川出版社日本史リブレット)、『靖国神社』(2017年、岩波現代文庫

*34:著書『昭和天皇と近現代日本』(2003年、吉川弘文館)、『内奏:天皇と政治の近現代』(2010年、中公新書

*35:著書『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『日本の軍隊:兵士たちの近代史』(2002年、岩波新書)、『日本人の戦争観:戦後史のなかの変容』(2005年、岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(2007年、岩波新書)、『兵士たちの戦後史』(2011年、岩波書店)、『現代歴史学軍事史研究』(2012年、校倉書房)、『日本軍兵士:アジア・太平洋戦争の現実』(2017年、中公新書)など

*36:著書『天皇家の財布』(2003年、新潮新書)など