今日の産経ニュースほか(8/23分:小林元侍従の日記が伝える裕仁の姿、ほか)(追記・修正あり)

■産経【新聞に喝!】日本兵捕虜 戦意高揚報道メディアに強い不信感 2大新聞に戦争責任はないのか 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦
https://www.sankei.com/column/news/180902/clm1809020005-n1.html

 戦争責任を執拗(しつよう)に追及する人間がいたために、昭和天皇は最晩年にあってもお悩みになっておられたわけである。

 おいおいですね。
 「追及する人間がいるからつらい」つうのは「悩む」といっても「沖縄県民に申し訳ないことをした」なんて反省ではなく「逆ギレも同然」ですから「最低最悪」です。
 こういう昭和天皇の下劣な言動を見て「責められてかわいそう」などと考える酒井のようなウヨは理解できませんね。そもそも追及する人間がいようが、いなかろうがまともな人間なら責任感に打ちひしがれるでしょう。そして昭和天皇は残念ながらまともではなかったわけです。

 戦争遂行に重大な役割を果たしたにもかかわらず、占領軍に責任を追及されなかった組織としてマスコミ、特に新聞が存在する。

 でそれと昭和天皇の戦争責任と何の関係があるのか。新聞が責任をとったところで酒井らは昭和天皇をかばうのだから詭弁でしかありません。

 ドイツでも、イタリアでも、戦争中の新聞は廃刊になったが、日本の新聞はそのまま生き残った。

というのは何も酒井らウヨが嫌う朝日だけではなく産経もそうです。また新聞だけでなく話を出版社にも広げれば文春や新潮社、「ウヨ雑誌サピオ小学館」などもそうですが、産経や文春などは批判せず「朝日ガー」と言い出す酒井らウヨです。まあ、朝日について言えば「その反省が必要十分かどうかはともかく」一定の反省はしており「廃刊した方が良かった」とは俺個人は別に思いません。産経は廃刊すべきだったでしょうが。
 大体「イタリアはー」てイタリアでは戦後、「戦争責任の問題」で王政が廃止されたんですが、その酒井の「イタリアを見習おう論」なら天皇制も廃止すべきではなかったのか。
 朝日に反省を求めながら昭和天皇には反省を求めないというのも無茶苦茶な話です。

 「米国立公文書館から山本*1教授が収集した史料のなかに、米政府が日本兵捕虜に聞き取りをした調査の結果があった。天皇・軍・政府・メディアについて不信感を抱いているかどうかを258人に聞き、太平洋戦争後期の44年にまとめたものだ。メディアに不信感があると答えた捕虜は38%だった。それは、天皇(0%)、政府(8%)、軍(31%)のどれよりも高い数字だった」

 当然ですが、これは「事実とは別の話」です。
 「軍や政府には不信感を感じるが、天皇に不信感を感じない」なんてのは誰が考えてもおかしいわけです。政府、軍のトップが天皇の訳ですから。
 日本における天皇崇拝教育、天皇洗脳教育がいかに徹底していたかと言えるでしょう。
 まあ、こうした調査結果もあり米国は東京裁判には天皇を訴追せず、また、東条英機*2陸軍大臣板垣征四郎*3陸軍大臣ら陸軍幹部をもっぱら訴追し、天皇の政治利用を画策するわけですが。
 実際には天皇以下皇族、政府(外務省ほかの一般行政官庁)、海軍など「陸軍以外の戦争責任」も大きいわけです。

 昭和天皇崩御後10年以上がたった平成12年末、元朝日の女性記者が主導し、朝日が熱心に報道*4した「女性国際戦犯法廷」の目的は、慰安婦問題を口実に、昭和天皇に対し、戦争犯罪人として有罪判決を下すことだった。

 口実も何も軍の最高責任者は昭和天皇であり、彼は「違法行為・慰安所の設置」を認識し容認していたのだから、戦犯裁判に訴追されたら有罪判決が下っていたでしょう。当たり前の話でしかない。もちろん昭和天皇が有罪なのは慰安婦だけでなく731部隊など他の戦争犯罪も有罪です。


■ちきゅう座『「戦争責任言われつらい」(昭和天皇)→「すごい言葉だ」(半藤一利*5)→ちっともすごくない、当たり前すぎる』醍醐聡
http://chikyuza.net/archives/86977
 醍醐氏の半藤批判には全く同感ですね。


■朝鮮新報『(取材ノート)「加害者」意識の欠如』
http://chosonsinbo.com/jp/2018/08/yr20180831-2/

「長く生きても、辛い…戦争責任のことを言われる」
「戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまに過ぎない。お気になさることはない」
 8月末、晩年の昭和天皇と側近のやりとりを記した日記が見つかった。日本の大手メディアは「心奥に触れる価値のある日記」「人間としての天皇の苦悩」と大々的に報じた。
 「戦争責任のことを言われる」
 戦争責任と向き合わず、逃げた者の厚顔無恥な一言。この発言を天皇があたかも戦争責任を感じていたかのように美化するメディア。ここに、戦後から現在まで通ずる日本の加害者意識の欠如を見る。

 全く同感ですね。


■ちきゅう座『「あの無謀な戦争を始めて、我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか」天皇裕仁)の戦争責任を追及する正森成二議員の舌鋒』澤藤統一郎
http://chikyuza.net/archives/86822

 天皇裕仁)が、自分の戦争責任についてどう自覚しているかについて、国民に語る機会はほぼなかった。唯一、その肉声が漏れたのは、1975年10月31日皇居「石橋の間」で行われた日本記者クラブ主催の記者会見での発言である。彼が、常に何を考えていたのかが垣間見えて、印象的であった。
その問答の記録の全文が以下のとおりである。
中村康二(ザ・タイムズ):
 天皇陛下ホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。
天皇
 そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。
秋信利彦(中国放送):
 天皇陛下におうかがいいたします。陛下は昭和22年12月7日、原子爆弾で焼け野原になった広島市行幸され、「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。
天皇
 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます。
 戦争責任を「言葉のアヤ」程度の問題と捉え、原爆投下を「戦争中のことですから、…やむを得ない」と言ってのけたのが、敗戦後も生き延びた帝王の見解。こんな人物の名において行われた戦争で、無数の人々が死に、数え切れない悲劇が生まれた。
(中略)
第104回国会 予算委員会 1986年3月8日(土曜日)午前9時開議(委員長 小渕恵三*6
○正森委員
 総理*7は、戦争が終わったのは天皇の御意思によって行われた、こう言われました。けれども、これもまた史実に反します。
 例えば、七月十二日に近衛文麿氏がソ連へ和平のための使節に行くことを天皇に話し合ったとき、近衛文麿が、「『今や皇室をお怨み申上げる事態にさえなって居ります』と申上げたるところ、全く御同感にあらせられた。」
 つまり天皇も、国民が恨みに思っておる、こういうことに同感されたということが、歴史の事実として明白に載っているわけであります。
 だからこそ、戦争が終わったとき、南原繁東大総長は、天皇退位を国民感情とし、「私は天皇は退位すべきであると思う、これは私一人ではなく全国の小学教員から大学教授に至るまでの共通意見となっている」
 昭和二十三年六月十三日、これは朝日新聞であります。
 あるいは昭和二十三年の五月十六日の週刊朝日では、当時の三淵最高裁判所長官週刊朝日の誌上で、「終戦当時陛下は何故に自らを責める詔勅をお出しにならなかったか、ということを非常に遺憾に思う。」
 こう述べ、佐々木惣一法学博士は、「まったくそうだ。」こういうように言っています。そして、三淵長官は、「公人としては自分の思慮をもって進退去就を決するわけにはいかないんだ。」「だけど、自らを責めることは妨げられない。だから、自分の不徳のいたすところ、不明のいたすところ、国民にかくの如き苦労をかけたということを、痛烈にお責めになれば、よほど違ったろうと思う」、こういうように最高裁長官が言っております。これが国民の自然な感情ではないでしょうか。
 私どもは、こういう感情を無視して、戦前の二十年と戦後の四十年を無視して天皇の在位六十年を祝う、いわんや恩赦を行うなどということはもってのほかであると思います。
(中略)
 あの無謀な戦争を始めて、事実上我が国民を塗炭の苦しみに陥れ、日本の国そのものを転覆寸前まで行かしたのは一体だれですか。それに対して、死刑も牢獄も恐れずに、断固として反対して平和を守り抜いたのは一体どの党ですか。それは自民党の教科書さえ、だから共産党は他の党にない権威を持っていたと書いているじゃないですか。
(中略)
 この先輩弁護士・正森さんの論理と気迫を見習いたいと思う。

 赤字強調は俺がしました。中村記者はともかく、秋信記者は別に裕仁をつるし上げる気などなく、むしろ裕仁から被爆者に対する同情の言葉を引き出す「かばい手だったのではないか」と思うのですが、米国に対する遠慮からか「やむを得ない」と言い出すのだから裕仁は全く馬鹿野郎です。


北海道新聞『平成の即位礼「ちぐはぐな舞台」 故小林忍侍従、日記に先例化懸念』
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/221191

 昭和天皇の侍従だった故小林忍氏(1923〜2006年)が、90年11月に催された天皇陛下の「即位礼正殿の儀」を巡り、「ちぐはぐな舞台装置」「新憲法下初めてのことだけに今後の先例になることを恐れる」と当時の政府対応を批判する見解を日記に記していたことが23日、分かった。
 戦後初めて行われた即位の礼は、政教分離を巡り違憲論議も起きた。政府は宗教色を抑えようと配慮したが、宮内庁内に不満があったことがうかがえる。

 まあ時代錯誤な右翼な御仁ですね。そういう人間だからこそ裕仁と気が合うのでしょうが。
 ウヨが「今後の現皇太子即位」に際して、こうした小林発言を政治利用することに警戒する必要はあるでしょう。


東奥日報『小林忍侍従日記の詳報を掲載』
https://www.toonippo.co.jp/feature/notice/kobayashi

(ボーガス注:1974年)5月5日
 お上が最初「小林、暑ければ上衣をとっていいよ」とおっしゃられた。

 呼び捨てですか。今時、会社の上司だって、「ホニャララ君」とはいっても「ホニャララ」と呼び捨てにはあまりしないと思いますが。まあ、裕仁もずーっとそういう育ち方をしてきたんでしょうね。こういうあたりも裕仁には好感が持てません。
 つうか今も皇族ってこういう呼び捨てなんでしょうか?

(ボーガス注:1974年)5月27日 
 華国鋒*8首相との御引見*9にあたり、陛下は日中戦争は遺憾*10であった旨先方におっしゃりたいが、長官、式部官長は今更ということで反対の意向とか。侍従長は結構という意見らしいが、長官などの反対は、右翼の動きが気になるためという。しかし、国際的に重要な意味をもつことに右翼が反対しているから、止めた方がよいというのでは余りになさけない。かまわずお考えどおり御発言なさったらいい。大変よいことではないか。

 この記述が事実だとして裕仁や小林氏の思惑のようになったかは疑問でしょう。宮内庁長官らが危惧するようにウヨが「天皇が中国にこびた、自民党宮内庁がやらせたのか」と非難し、一方左派や外国メディアも「天皇は戦争責任を認めるというなら、中国以外(東南アジア国民や沖縄戦の被害者など)に対してもその旨表明したらどうなのか。大国中国だけ特別扱いか」と非難したであろうことは容易に予想がつきます。
 まあどっちにしろ昭和天皇や小林氏らは本気で戦争責任を感じてるわけではない。なんとか昭和天皇への批判を弱めたいだけです。
 だからマスコミ記者に「戦争責任についてどう思うか」と質問されたときに、裕仁は有名な「言葉の綾発言」なんかして、批判を浴びることになるわけです。
 なお、昭和天皇に比べれば現天皇から「あの戦争に対する遺憾の言葉」が普通にでてるのは「終戦当時小学5年生で直接の責任がないから」でしょう。なので昭和天皇に比べ天皇当人も周辺も遺憾表明に抵抗が小さい。

1990年8月21日
 徳川*11参与侍従室に来られ暫(しばら)くお話し。靖国神社への総理参拝で毎年問題となる戦犯合祀(ごうし)で東條*12など取りあげられるが、最も問題となるのは(ボーガス注:靖国は戦死した軍人をまつるはずなのに)むしろ松岡*13、広田*14の文官(非軍人)が入っていることである。また特に松岡は日米開戦の張本人*15ともいうべきもので、日米交渉の最中、ルーズヴェルト大統領の出した条件に、陸軍も海軍も賛成していた*16のに松岡が自分が交渉に当らなかった故をもって反対したために交渉がまとまらなかったという。松岡は日独伊三国同盟をまとめて帰国の途中、ソ連に寄り、日ソ不可侵条約*17を結んで、そのためドイツをひどく怒らせた*18とか、とにかく異常*19の人だった。松岡はA級戦犯の判決後2年*20くらいで病気のため入院死亡した。処刑されたのではない。と

 徳川が松岡を嫌ってるのがよくわかります(なお、昭和天皇も松岡を嫌っていたと言われます)
 とはいえ「理由はどうあれあいつを外相にしたのはあんたが侍従として仕えていた国家元首時代の裕仁だろ、日米開戦時の首相は東条英機、外相は東郷茂徳だし、松岡外相一人に責任転嫁してんじゃねえよ!、徳川のクズ」て話です。
 正直、こんなに松岡を嫌ってるのは理屈じゃない気がしますね。「戦争責任が松岡にないとはいいません」が彼はここまで非難されるほどの責任はないでしょう。
 それはともかくこういう話が出ても「じゃあ東条のような軍人はともかく、外交官の広田や松岡は合祀を取りやめよう」つうことには全くならないでしょうね。そもそも以前からこういう批判自体はありましたから。それを靖国は無視し続けてきたわけです。
 なお、徳川は「靖国に合祀された文官」として松岡、広田の名しかあげなかったようですが、他には白鳥敏夫*21東郷茂徳*22がいます。
 なお、白鳥、東郷、広田、松岡(全員外交官)以外の「靖国に合祀されたA級戦犯(いわゆる昭和殉難者)」はすべて軍人です。なお、合祀は有名な「死刑囚(例:東条元首相)」以外にも「獄中で病死(例:東郷元外相)」「裁判中病死(例:松岡元外相)」も合祀されています。
 ちなみに、「東郷はともかく」、極端なイタリアびいき、反英米で、皇道派青年将校並の神がかりだった白鳥を昭和天皇はかなり嫌っていたと言われます。


朝日新聞昭和天皇「細く長く生きても…」 元侍従の日記に発言』
https://www.asahi.com/articles/ASL8R33W9L8RUTIL00W.html

 日記には、小林氏がその場で、「戦争責任はごく一部の者がいうだけで国民の大多数はそうではない。戦後の復興から今日の発展をみれば、もう過去の歴史の一こまにすぎない。お気になさることはない」と話したことも記されていた。

 まあ立場上、裕仁昭和天皇)批判できないのは当然にしても何なんでしょうか、このふざけた発言。
 せめて「そうした後悔の念を忘れずにお持ちになり続けることで、償いとしてはいいのではないですか。事実上それ以上のことをするのも難しいかと存じます」程度のことが言えないのか。言えないんでしょうねえ。たぶん小林氏も裕仁も本心では戦争責任なんか何一つ感じてないでしょうから。
 国家元首だった男に戦争責任がないわけがない。日本国民が裕仁に甘いからどうでもいい、つう話ではない。
 そして戦後復興しようと裕仁の罪は消えないし、そもそも戦後復興は裕仁の手柄でも何でもありません。
 まあこういう極端な「裕仁びいき」人間でなきゃ裕仁と親しく付き合うなんて無理なんでしょうが。俺ならあの男にマジギレしてますね。
 まあ日記を書いた小林氏や、日記を公開した遺族の考えはともかく俺的には「裕仁も小林も本当にクズやな、死ねばいいのに」つう怒りや憎悪しかないですね(既に死んでますが)。


毎日新聞『侍従日記:小林忍氏記録の要旨』
https://mainichi.jp/articles/20180823/k00/00m/040/176000c

 (ボーガス注:1975年)5月13日 「天皇の外交」伊達宗克*23著につき、戦争のつぐないとして平和外交を推進しているかの如く広告しているが、そのような内容ならそれはおかしい。戦前も平和を念願しての外交だったのだからと仰せあり。

 呆れて二の句が継げませんね。自分から中国侵略や対米戦争を起こしておきながら「戦前も平和を念願」とは何なんでしょうか。つうか、伊達は「華族出身のNHK記者(つまり裕仁シンパの保守)」として裕仁昭和天皇)をかばう目的でこう書いてるのに全く裕仁もとんちんかんな男です。本来、伊達に「俺をかばってくれてありがとう」と感謝すべきでしょうに。
 つうか侍従もよくこんなアホ発言を記録に残すもんです。裕仁の同類と言うことでしょうか?。まあ昭和天皇のバカさ、クズさがよくわかるアホ発言です。こういうことを言うあの男はあの戦争について全く反省してなかったんでしょうね。


【ここから産経です】
■【産経抄】8月25日
http://www.sankei.com/column/news/180825/clm1808250003-n1.html

 共産党志位和夫委員長は23日、ツイッター昭和天皇を批判した。「中国侵略でも対米英開戦決定でも、(中略)侵略戦争拡大の方向で積極的に関与した」「戦争末期の45年(昭和20年)に入っても戦争継続に固執して惨害を広げた」。
▼志位氏は「歴史の事実だ」とも記すが、果たしてそうか。

 なお、志位氏のツイッターを見ればわかりますが産経が中略とした部分には

 軍の最高責任者として

という言葉が入ります。
 もちろん志位氏の指摘「戦争末期の45年(昭和20年)に入っても(ボーガス注:国体護持の保証がない限り降伏できないとして)戦争継続に固執して惨害を広げた」は歴史的事実であり、産経らウヨの聖断説の方がデマです。志位氏が「天皇制廃止を党是とする」共産党幹部であることとは全く関係ありません。
 そもそも昭和天皇も「聖断がデマであること」を自覚していたからこそ「戦争責任」について聞かれたときに「俺の『終戦の聖断』のおかげで国民が救われたんだ」と公然と自慢はできず例の「言葉の綾」発言になるわけです。
 これについては例えば山田朗*24、纐纈厚*25『遅すぎた聖断』(1991年、昭和出版)、纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社)といった本もあるので一読をお勧めします。
 「降伏の聖断のおかげで国民が救われた」とは「虚構」であり聖断は「遅すぎました」。
 聖断がされるまでに「沖縄戦」「広島、長崎への原爆投下」「ソ連軍の満州侵攻」などで多くの人命が失われました。降伏がもっと早ければ失われずにすんだ命です。
 天皇が早期降伏に乗り気でなかったことを示す有名な話としては近衛上奏文で「早期降伏」を訴える近衛元首相に対し「今のまま降伏したら立場が悪い、なんとか反撃して状況をよくしたい」といい、近衛から「そんなことができればいいですが可能でしょうか(皮肉)」と言われたという話がありますね(これについては、例えばウィキペディア「近衛上奏文」参照)。
 また昭和天皇(以下、「あの男」と呼ぶ)が降伏を決断したのは「和平工作を依頼しようとしていたソ連が対日参戦し」、和平工作の見込みが完全に消えたからです。国民の犠牲なんぞあの男は全く考えてない。
 可能ならば有名な松代大本営で徹底抗戦する気だったのがあの男です(可能じゃないからそうしなかったわけですが、もしそれやったら日本の犠牲はもっと酷くなったでしょう)。産経らウヨは松代大本営が何のためにつくられたと思ってるのか。お遊びで長野の田舎町、日本の奥地(?)に大本営を置こうとしたと思ってるのか。
 蒋介石が、当時の中国の首都・南京*26を捨てて「奥地・重慶に行って」日本と徹底抗戦したり、毛沢東がいわゆる長征をして「奥地・延安に行って」蒋介石と対決したのと、松代大本営は話は同じです(これについては例えばウィキペディア「松代大本営跡」「長征」参照)。
 まあ産経みたいなことを言ってあの男を免罪しようとするのは「嘘つきか、歴史に無知か」どっちかでしかありません。
 まあ、そもそもあの男が「政治家である以上」結果責任が問われるのであり「仮に終戦に努力したとしても*27」数百万人の国民を死なせて「努力したから仕方ない」ですむわけがないでしょう。
 それですむのなら誰も苦労しないし、産経もこんな甘いことを言うのは昭和天皇のような身内(?)の時だけです。
 「未曾有の大地震であり誰が首相であっても多数の死者が出たであろうこと」を無視して、東日本大震災対応で、菅*28首相に対しては嘘八百で誹謗してたのが産経ですし。

 登山家の野口健氏は、志位発言について「どのように解釈したら…」とあきれていた。ただ共産党の姿勢に関してはこうも指摘している。「『天皇制の打倒』『人民共和政府の樹立』を掲げた経緯からして、今更ながらこのような発言に特段の驚きはありません」。

 野口がバカウヨだと言うことはよくわかりました。こっちの方が野口には呆れますし

「彼は『終戦の聖断』を長年宣伝してきた反共ウヨですから、今更ながらこのような昭和天皇裕仁擁護発言、共産党敵視発言に特段の驚きはありません(ただただ呆れます)」

ですね。
 何度も言いますが志位発言は「歴史的事実」であり彼の政治党派とは全く関係ありません。
 そもそも「今の天皇昭和天皇ではない」「今の天皇終戦時は小学5年生にすぎなかった」以上、昭和天皇の戦争責任を云々してもそれは「天皇制の存否」とはもはや関係ありません。まさか小学校5年生に「親の責任はお前の責任」とは誰も言わないでしょう。
 金正恩君に「祖父・金日成が起こした朝鮮戦争の責任はない」、あるいは今の中国指導部に「毛沢東文革の責任はない」のと同じ話です(日中戦争朝鮮戦争文革を引き起こす問題点が『中国共産党朝鮮労働党天皇制にある』『それは裕仁金日成毛沢東が死のうが変わらない』『そうした問題点は中国共産党朝鮮労働党の下野や天皇制の否定、廃止でしか解決、解消できない』と考えれば話は別ですがいずれにせよそうした考えは論理上、当然に成立する考えではありません)。
 かつ共産党野党共闘をすすめるため、天皇制廃止については、「将来の希望であり、当面の課題ではない」「当面の課題は天皇制の不当な政治利用の否定だ」としています。
 それにしても今の野口って登山活動なんか何一つしてませんよねえ。むしろこの種のウヨ活動しかしてないんじゃないか。いやそもそも野口って「有名な植村直己などのように」登山家として果たして評価できるのか?
 つうかこういうときに歴史学者を出せず「歴史素人の野口」しか出せないあたり産経も無様です。
 歴史素人の野口の発言に価値なんざありません。


■「細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」 昭和天皇85歳、ご心情 故小林忍侍従の日記に記述
http://www.sankei.com/life/news/180823/lif1808230001-n1.html
 仮にこの日記の記述が事実だとしても、

沖縄戦で殉職した県知事・島田叡(享年44歳)や県警察部長・荒井退造(享年44歳)
玉音放送直前に自決した阿南*29陸軍大臣(享年58歳)
玉音放送後に自決した近衛*30元首相(享年54歳)、杉山*31・元陸軍大臣(享年65歳)など
A級戦犯として死刑になった東条*32元首相(享年64歳)や武藤*33陸軍省軍務局長(享年56歳)など

ならまだしもこの発言時点で85歳なんて奴の何が「細く長く生きても仕方がない」なんでしょうか?
 「だったら終戦後に近衛のように自決しろよ(ちなみに終戦時の昭和天皇は44歳*34で島田叡や荒井退造とほぼ同世代)」と思う俺です。こういう日記を外に出す人間(小林氏の遺族?)ってのは昭和天皇のことをやはり擁護したいんでしょうか?。俺はこんなことで昭和天皇を許す気なんかないですけど。
 まあ、戦争責任云々だって「年取って、病気がちになって精神力が弱くなってのぼやきに過ぎない」でしょう。
 何せこの発言があったという昭和62年4月と言えば

昭和天皇ウィキペディア参照)
 1987年(昭和62年)4月29日、天皇誕生日の昼食会中に嘔吐症状で中座する。その後同年8月以降になると何度も吐瀉の繰り返しや、体重が減少する等体調不良が顕著になる。検査の結果、十二指腸から小腸の辺りに通過障害が見られ、「腸閉塞」と判明。食物を腸へ通過させるバイパス手術を受ける必要性がある為、9月22日に歴代天皇では初めての開腹手術を受けた。同年12月には公務に復帰し、回復したかに見えた。
 しかし1988年(昭和63年)になると、体重はさらに激減。同年8月15日、全国戦没者追悼式が最後の公式行事出席となった。同年9月8日、那須御用邸から皇居に戻る最中、車内に映し出されたのが最後の公の姿となった。
 同年9月18日、大相撲9月場所を観戦予定だったが、高熱が続くため急遽中止。その翌9月19日午後10時頃、突然大量吐血により救急車が出動、緊急輸血を行う。その後も吐血・下血を繰り返し、マスコミはこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道した。十二指腸腫瘍(腺癌)のため長く療養していたが、1989年(昭和64年)1月7日午前6時33分に死去。

だそうですから。
 「沖縄県民など国民にわびたい」とか「退位すれば良かった。息子・明仁が新天皇で、俺の弟が摂政で何の問題もなかった」とかそんな話では全くない。
 本当、「沖縄メッセージ問題」「中国の代表権問題(例えばid:Bill_McCrearyさん記事『昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ』https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/de78e71009695eb9f42ca0ed66f14575参照)」「増原*35発言問題」などで露呈される昭和天皇の態度は

・あんた敗戦後は新憲法で象徴になったってわかってるのか?。未だに主権者気取りか、手前!

と罵倒したくなるような酷いもんで、「戦争責任の自覚」「戦争を起こし、多くの国民を死なせたことへの悔恨」なんか皆無じゃないかと思いますね。
 彼が認識していたのは「自分が戦争責任問題で批判されている」という事実に過ぎないでしょう。


■米民主党の「偽サイト」はテストだった 党全国委に事前通知せずミシガン州支部が実施
http://www.sankei.com/world/news/180823/wor1808230043-n1.html
 一寸お粗末ですよねえ。トランプあたりから「民主党なんてこんなでたらめな政党です!」と攻撃のネタになるようなことはやめてほしい。

*1:著書『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(2001年、文春新書)、『GHQの検閲・諜報・宣伝工作』(2013年、岩波現代全書)など

*2:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第2次、第3次近衛内閣陸軍大臣、首相など歴任。戦後、戦犯として死刑判決。後に靖国神社に合祀。

*3:関東軍高級参謀として石原莞爾らとともに満州事変を実行。第1次近衛、平沼内閣で陸軍大臣。戦後、戦犯として死刑判決。後に靖国神社に合祀。

*4:小生の知る限り「熱心には」報道してないですね。まあ、ほとんど報道しなかった産経と比べれば「熱心」でしょうが。

*5:著書『聖断:天皇鈴木貫太郎』(1988年、文春文庫)、『日本海軍の興亡』(1999年、PHP文庫)、『レイテ沖海戦』(2001年、PHP文庫)、『ノモンハンの夏』(2001年、文春文庫)、『ソ連満洲に侵攻した夏』(2002年、文春文庫)、『“真珠湾”の日』(2003年、文春文庫)、『遠い島 ガダルカナル』(2005年、PHP文庫)、『日本国憲法の二〇〇日』(2008年、文春文庫)、『荷風さんの戦後』、『山県有朋』(2009年、ちくま文庫)、『15歳の東京大空襲』(2010年、ちくまプリマー新書)、『幕末史』(2012年、新潮文庫)、『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2014年、文春文庫)、『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』(2015年、岩波ブックレット)、『歴史に「何を」学ぶのか』(2017年、ちくまプリマー新書)、『歴史と戦争』(2018年、幻冬舎新書)など

*6:竹下内閣官房長官自民党副総裁(河野総裁時代)、橋元内閣外相などを経て首相

*7:中曽根康弘のこと

*8:毛沢東・党主席によって、文革時に引き上げられ副首相、首相、党副主席を歴任。毛の死後も党主席、党中央軍事委員会主席に就任するがトウ小平との権力闘争に敗れ失脚。

*9:引見(天皇を格上、華国鋒を格下に扱ってるとしか理解できない言葉)とは裕仁といい小林氏といい何様のつもりなんでしょうか?

*10:遺憾(残念なことや良くないことだと思う)とは明確な謝罪の言葉ではありません。「米国に慰安婦銅像が建つのは遺憾だ(菅官房長官)」のような使用法もされるわけですから。

*11:侍従長を長く務めた徳川義寛のこと。

*12:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第2次、第3次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任し、戦後、東京裁判で死刑となった東条英機のこと。

*13:満鉄総裁、第2次近衛内閣外相など歴任した松岡洋右のこと。戦後、東京裁判の被告人として起訴されるが裁判中に病死。その後靖国神社昭和殉難者として合祀。

*14:斎藤、岡田、第1次近衛内閣外相、首相を歴任した広田弘毅のこと。戦後、東京裁判で死刑判決。その後靖国神社昭和殉難者として合祀。

*15:松岡に責任がないとは言いませんが松岡一人に責任を押しつけるのはどう考えても無茶苦茶です。大体、日米開戦時の外相は東郷茂徳であって松岡じゃありませんし。

*16:いやそんな事実はどこにもないと思いますが。もちろん松岡も反対していましたが、陸軍も海軍も反対していました。なんで松岡の個人責任にしようとするのか。本気でそう思ってるのか、「故意に松岡一人に責任転嫁してる」のか知りませんが、徳川は言ってること無茶苦茶です。松岡に対して非常に失礼です。「日本外交に問題があるとしても、安倍首相も菅官房長官も悪くない、岸田外相一人だけが悪い」レベルに無茶苦茶です。つうか一般的には「東条英機首相、武藤章陸軍省軍務局長ら陸軍」が一番の悪者として非難されることが多いのですが、徳川の認識(本気で松岡が一番悪いと思ってるのか、故意による松岡誹謗かはともかく)は「松岡が一番悪い」でなぜか違うようです。徳川の「日米交渉、日米開戦」や「松岡、陸軍、海軍」に対する認識が昭和天皇や小林氏の認識でもあるのか気になるところです。

*17:正式名称は「日ソ中立条約」です。独ソ不可侵条約とごちゃごちゃになってるのでしょう。

*18:そもそもそうした松岡の行為を「事情はともかく認めたのが昭和天皇ら当時の日本政府首脳」なのに松岡の個人責任にしようとは徳川は何考えてるんでしょうか?。つうか俺も無知なのでよく知りませんが本当に怒ったんですかねえ?。ドイツだって「独ソ不可侵条約を結んでる」のに。

*19:前後の文脈から見て「異常な才能」などという褒め言葉ではなく「異常な人格」などの罵倒でしょう。

*20:これは徳川の勘違いで松岡は判決が出る前(1946年6月27日)に病死しています。

*21:駐イタリア大使として日独伊三国軍事同盟の成立に尽力。戦後、東京裁判終身刑。服役中に病死。その後靖国神社昭和殉難者として合祀。

*22:東条、鈴木内閣で外相。戦後、東京裁判禁錮20年。服役中に病死。その後靖国神社昭和殉難者として合祀。

*23:宇和島藩主・伊達氏の一族として、愛媛県に生まれる。NHK放送記者。皇室担当記者として『天皇の外交』(1975年、現代企画室)を出版(ウィキペディア「伊達宗克」参照)。

*24:明治大学教授。著書『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版)、『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社)、『軍備拡張の近代史:日本軍の膨張と崩壊』(1997年、吉川弘文館)、『歴史修正主義の克服』(2001年、高文研)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)、『護憲派のための軍事入門』(2005年、花伝社)、『これだけは知っておきたい日露戦争の真実:日本陸海軍の〈成功〉と〈失敗〉』(2010年、高文研)、『日本は過去とどう向き合ってきたか』(2013年、高文研)、『近代日本軍事力の研究』(2015年、校倉書房)、『兵士たちの戦場』(2015年、岩波書店)、『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)、『日本の戦争:歴史認識と戦争責任』(2017年、新日本出版社)など

*25:山口大学名誉教授、山口大学元副学長。著書『防諜政策と民衆:国家秘密法制史の検証』(1991年、昭和出版)、『日本海軍の終戦工作』(1996年、中公新書)、『検証・新ガイドライン安保体制』(1998年、インパクト出版会)、『侵略戦争』(1999年、ちくま新書)、『周辺事態法』(2000年、社会評論社)、『有事法制とは何か』(2002年、インパクト出版会)、『有事体制論』(2004年、インパクト出版会)、『近代日本政軍関係の研究』、『文民統制』(以上、2005年、岩波書店)、『戦争と平和政治学』(2005年、北樹出版)、『監視社会の未来:共謀罪・国民保護法と戦時動員体制』(2007年、小学館)、『憲兵政治』(2008年、新日本出版社)、『私たちの戦争責任』(2009年、凱風社)、『田中義一』(2009年、芙蓉書房出版)、『総力戦体制研究:日本陸軍国家総動員構想』(2010年、社会評論社)、『「日本は支那をみくびりたり」:日中戦争とは何だったのか』(2009年、同時代社)、『侵略戦争と総力戦』(2011年、社会評論社)、『領土問題と歴史認識:なぜ、日中韓は手をつなげないのか』(2012年、スペース伽耶)、『日本降伏:迷走する戦争指導の果てに』(2013年、日本評論社)、『日本はなぜ戦争をやめられなかったのか』(2013年、社会評論社)、『集団的自衛権容認の深層:平和憲法をなきものにする狙いは何か』(2014年、日本評論社)、『暴走する自衛隊』(2016年、ちくま新書)、『逆走する安倍政治』(2016年、日本評論社)、『権力者たちの罠:共謀罪自衛隊・安倍政権』(2017年、社会評論社)など

*26:現在は江蘇省省都

*27:実際には保身にこだわり終戦を遅らせましたが

*28:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相を経て首相

*29:陸軍省兵務局長、人事局長などを経て鈴木内閣陸軍大臣

*30:貴族院議長、枢密院議長、首相など歴任

*31:林、第1次近衛、小磯内閣陸軍大臣参謀総長など歴任

*32:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第2次、第3次近衛内閣陸軍大臣などを経て首相

*33:陸軍省軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任

*34:つまりは20代で最高指導者になったわけでその点では昭和天皇は同じく20代で最高指導者になった金正恩君に似ています。もちろんそれは昭和天皇金正恩君が人並み外れて有能だという意味ではない(別に彼らが無能だとは言いませんが)。祖父や父の代に作り上げられた政治システムが彼らを支えたと言うことです。

*35:第3次佐藤改造内閣、第1次田中、第2次田中内閣で防衛庁長官