「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年2/25分:高世仁の巻)

人々が通りを掃き清めた時代 - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 なぜ住民自身が街路を掃き清めるのか。

 そりゃ「そうしないと誰も掃いてくれないから」でしょう。今なら公道は自治体が掃いてくれるでしょう。
 あるいは私道でも今なら「清掃サービス業者への依頼」もありうる。
 当時は幕府も藩もそんなことしてくれないし、清掃サービス業者だってないわけです。

イヴァン・イリイチ*1のいう社会的な『共有地』(コモンズ)

というきれい事とは違うんじゃないか。まあ結果的には「住民同士の助け合い」という「良い事態」を生んだのかもしれませんが。

 「貧しい」けれど「しあわせ」を保証した前近代文明の重要な特徴があると思われる。

 「昔は良かった」「人の人情があった」「環境破壊もなくエコであった」などという「三丁目の夕日」的価値観、「江戸時代の人情長屋(落語や山本周五郎作品)云々」的価値観は高世に限ったことではなく、珍しいことではありません。
 ただし、それは、はっきり言って「くだらない過去の美化」でしかないでしょう。
 我々は現在を生きていますが、その現在においては言うまでもないことですが、「当然ながら様々な苦労がある」わけです。一方、未来が明るいかと言ったら「そんなにバラ色の未来があるようにも思えない」。どっちにしろ未来を「バラ色にする」のは我々の努力です。自然にバラ色になるわけもない。
 そうなると「昔は良かった」というノスタルジーになりやすい。特に「直接経験したことのない江戸時代」なんぞになると「江戸時代に詳しい人間」でもない限り妄想し放題です。
 落語や山本周五郎小説に出てくる「江戸時代の人情長屋」を想像して「昔は良かった」感に浸れる。でもそれは「一面の真実」であったとしても「一面の真実を極端に拡大して、別の真実を完全に無視した代物」、つまりは虚偽でしかないわけです。

*1:著書『ジェンダー:女と男の世界』、『シャドウ・ワーク』(以上、2005年、岩波モダンクラシックス)、『コンヴィヴィアリティのための道具』(2015年、ちくま学芸文庫)など