「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年3/1分:高世仁の巻)

かつて日本は子どもの楽園だった - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 米朝首脳会談について高世が触れるのは明日でしょうか?(3/8追記:意外なことに高世は首脳会談に今のところ何一つ触れていません)

国連の子供の権利委員会は7日、1月中旬に実施した対日審査の結果を受け、日本政府への勧告を公表した。

 ちなみに「最近は子どもと書くことが多い」のですが高世が紹介する共同通信記事が「子供」と書いてるのは「子供」表記を愛用する「安倍政権への忖度」でしょうか?
 ちなみにこの「子供」「子ども」については拙記事
「下村の政治介入」という事情も分からない癖に文科省「子供表記」統一を「当然」と放言するMukke(追記あり) - bogus-simotukareの日記
「下村博文幹事長代理(元文科相)は子供表記」だが「塩崎恭久厚労相(元官房長官)は子ども表記」(追記あり) - bogus-simotukareの日記
「子ども」「こども」「子供」表記がぐちゃぐちゃの霞が関:こども霞が関見学デーの怪 - bogus-simotukareの日記をご覧頂けると幸いです。
 なお、高世は紹介しませんが

国連子どもの権利委員会「日本政府は朝鮮学校を無償化対象に加えるべき」 : 日本•国際 : hankyoreh japan
 国連子どもの権利委員会が、朝鮮学校を高校無償教育の対象から外したのは不当だとして、日本政府に是正を勧告した。
 国連こどもの権利委員会は7日、スイスのジュネーブで開かれた記者会見で、日本政府は朝鮮学校を「他の外国人学校と同等に扱うべきだ」と述べた。

無償化適用を勧告/国連・子どもの権利委が総括所見 | 朝鮮新報
 子どもの権利条約の実施状況に関する日本報告書審査(1月16日~17日、ジュネーブ)を行った国連・子どもの権利委員会が7日、スイスのジュネーブで記者会見を開き、朝鮮学校の「高校無償化」制度除外を不当な差別であるとし、日本政府に是正を勧告した。
 同委員会では子どもの権利条約の締約国による遵守状況を定期的に審査。対日審査は、1998年、2004年、2010年に次ぎ今回が4回目だ。
 今回の審査には、国連朝鮮学校学生・オモニ代表団が参加し委員たちに朝鮮学校に通う子どもたちの状況について情報提供を行った。
 国連こどもの権利委員会は朝鮮学校を他の外国人学校と同等に扱うべきとし代表団の訴えを支持、日本政府の「差別ではない」という主張を退けた。
 総括所見では、朝鮮学校を「高校無償化」制度の対象として含めるほか、大学受験資格を平等に認めることについての勧告などが出された。差別を防止するための教育、人権啓発活動についても言及された。
 朝鮮学校に差別なく制度適用するよう求める、人種差別撤廃委員会など国連の条約機関から発せられた勧告はこれで5回目となった。

朝鮮学校適用への「基準の見直し」を/子どもの権利委員会、日本政府に対し朝鮮学校への「高校無償化」制度の適用を勧告 | 朝鮮新報
 国連・子どもの権利委員会は2月7日、スイスのジュネーブで記者会見し、1月16日・17日にかけて行われた対日審査の結果として、総括所見(CRC/C/JPN/CO/4-5)を公表した。このなかで子どもの権利委員会は、日本政府に対し、「39.(c) 『〔高校〕授業料無償化制度』の朝鮮学校への適用を促進するために基準を見直すとともに、大学・短期大学入試へのアクセスに関して差別が行なわれないことを確保すること」を勧告した。(在日本朝鮮人人権協会・宋恵淑)
 朝鮮学校に対しても「高校無償化」制度を差別なく適用するよう求める国連の人権関連条約の委員会から勧告が出されるのは今回で5回目となった。
 1回目から振り返ってみるならば、まず「高校無償化」制度開始直前の2010年3月に人種差別撤廃委員会が「朝鮮学校のみを『高校無償化』から除外しようとする政治家らの態度」について懸念を表し、次に、朝鮮学校が「高校無償化」制度から完全に除外されてしまった直後の2013年5月、社会権規約委員会が「高校無償化」制度除外は「差別である」と明確に指摘したうえで、朝鮮学校にも「高校無償化」制度を適用するよう勧告した。2014年8月・2018年8月には人種差別撤廃委員会が、「高校無償化」制度の適用のみならず、地方自治体による補助金の支給再開・維持を促す勧告を出している。
 そしてこのたび、子どもの権利委員会より、あらたな勧告が日本政府に突きつけられたのだ。
 今回の勧告で特筆すべきことは、これまでの他の人権関連条約の委員会からの勧告よりも踏み込んで、日本政府に対し、「高校無償化」制度を朝鮮学校に適用するための「基準の見直し」を勧告していることであろう。日本政府が、繰り返し出されてきた国連からの差別是正勧告をことごとく無視し続け、朝鮮学校を「高校無償化」制度から除外した「真の理由」―「拉致問題」などの、朝鮮学校の生徒には何の関係もない理不尽な政治的、外交的理由を持ち出して朝鮮学校を除外したことには一切触れることなく、審査の場で「朝鮮学校については法令によって定められた審査「基準」に適合すると認めるに至らなかったため無償化支給対象の指定にならなかった」と言い放ったことに対し、「基準」と言うのであれば、子どもの教育権の観点から、その差別的な「基準」を見直して朝鮮学校が「無償化」の対象となるようにするべきだと、子どもの権利委員会は促しているのである。すなわち、日本政府による「ハの削除の省令改正」も、「規程13条」の持ち出しも、朝鮮学校排除ありきの明白な差別であるので、そうした差別的なプロセス自体を見直して、朝鮮学校の子どもたちも「無償化」の対象とするべきだと勧告しているといえるだろう。
 子どもの権利委員会の委員の一人は審査の場で、「2013年に社会権規約委員会が『高校無償化』制度を朝鮮学校に通う子どもたちにも拡大することによって教育に関する差別に対処するよう求めているが、他の人権条約委員会からの勧告に対処するため、どのような策が施されたのか」と2013年以降繰り返されている差別是正勧告に真摯に向き合おうとしない日本政府を問いただし、またある委員は委員会総括所見発表の記者会見の場で、朝鮮学校が「高校無償化」制度の対象外であることについて、「ほかの外国人学校と同じように扱われるべきだ」と述べ、委員会として日本政府に見直しを進めるよう勧告した。

ということで「国連子どもの権利委員会から朝鮮学校無償化除外について直ちにやめるよう、日本政府に対し批判的な勧告意見が出されたこと」を紹介しておきます。
 子どもの権利委員会だけではなく「人種差別撤廃委員会」からも過去に同様の勧告が出ています。

 児童虐待は日本の「伝統」なのか。
 いや、明治期までは日本は子どもの楽園とみなされていたのだ。
 「子どもの楽園」とは、江戸末期から明治初期に日本を訪れた欧米人に愛用された言葉だという。(以下、渡辺京二*1『逝きし世の面影』*2より)
 明治10年に来日し東京大学で教鞭をとり、大森貝塚を発見した生物学者モースの評。
 「モースは言う。『私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供は朝から晩まで幸福であるらしい』」(P390)

 馬鹿馬鹿しい。間引きなんぞ行われていた江戸時代日本のどこが「子どもの楽園」なのか。しかも高世の主張の根拠が「外人がそう言ってました」。
 部外者の外人に日本の何が分かるのか。呆れて二の句が継げませんね。つうか「外人云々」つうならあとで紹介しますがフロイスなんかは「キリスト教布教のための誇張」があるかもしれませんがはっきりと「日本では子殺しが横行してる」といってるわけですがそれは高世や渡辺はどう理解するのか。
 「高世や渡辺ってホンマあほやな」「高世や渡辺みたいなアホは江戸時代に生まれて、間引かれて死ねば良かったのにな」といつもながら思います。
 まあ俺が高世の物言いで一番腹が立ってムカつくのは「朝鮮学校無償化除外支持」「特定失踪者主張支持」などの北朝鮮関係ですが、こいつは「北朝鮮関係以外でも」このように頭のおかしい馬鹿なことしか言いません(例:「本土での沖縄米軍基地引き取り論」「チベット焼身自殺の美化」など)。
 id:Bill_McCrearyさん記事
これじゃあ「ジャーナリスト」でなくて「反北朝鮮活動家」だ - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
このようなことをプロのジャーナリストが発言するのはさすがに驚かされる - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
そういう例を出すのなら、拉致問題だってやっぱり金(対価)次第じゃないか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
でもわかるように高世は、いつもいつも、ほとんど、まともなことを言わない。高世と交際してる人間て、高世に「こいつなんでこんなにバカでクズなんだろ?」と憎悪や殺意、軽蔑の思いとかわいてこないんでしょうか?。
 特に高世みたいな馬鹿と結婚して子どもまで作った奥さんなんか「理解の範囲外」ですね。
 俺は高世のようなバカには「馬鹿は黙ってろ、高世(怒)」「高世さあ、お前、クズな人生送ってて人として恥ずかしくないの?(呆)」つうネガティブな感情しかないですね。

【参考:高世の主張への反論】

江戸時代にも虐待はあった…せっかん死の親は打ち首 - 働くお母さんと子どもを支援する会
産経新聞【それでも撲滅できないのか】(3)江戸時代にも虐待はあった…せっかん死の親は打ち首
 江戸時代の研究で知られる歴史学者氏家幹人さん*3(55)が調べた判例集「断獄典例秘鑑」には、現代の目から児童虐待といえる犯罪記録が並んでいた。
 《明和元(1764)年、3歳女児がせっかんの末に死亡した。養母のさよは「気分がすぐれないと言ってむずかるので、足をたたいたら死んでしまった」と話した》
 《同じ年、別の3歳女児が親の留守中に飯びつをひっくり返した。養母のつよが腹を立て背中を数回たたくと女児は泣きながら家を出た。連れ帰って水を飲ませたがはき出してしまい、夕食時にパニック症状を起こし絶命した》…。
 氏家さんは「どれもごく普通の家庭で起きた事件。しかりすぎや、しかった後のケアの怠りから起きている。児童虐待はいつの世にもあったのです」と話す。

江戸の捨て子たち
 江戸時代、五代将軍綱吉が生類あわれみ令を発布し捨て子の届出が命じられてからは、町奉行所には町内に捨て子があっても、これを闇から闇へ処理する訳にもいかず、捨て子に対する処置が制度化されていったという。但し幕府は捨て子の面倒を見る訳ではなく、その基本は「望む者があれば養子にし、届け出るには及ばない」というものであったらしい。(但し養親に対しては一時金が支払われた)
 もっとも、この制度を悪用し、一時報奨金は手にするものの子供を捨てるといった親もいたらしい。

弁護士会の読書:本当はひどかった昔の日本
『本当はひどかった昔の日本』(大塚ひかり*4、2014年、新潮文庫
 現代日本では、若い母親によるネグレクト(育児放棄)による子どもの死亡事故が起きると、昔なら考えられないこととして、世論が一斉にけたたましい非難をその母親に浴びせかけるという現象が生まれます。
 でも、本当に昔の日本は全員、みながみな子どもを大切に育てていた、幸せそのものの社会だったのか・・・。著者は古典の文献をふくめて、そうではなかったことを実証しています。
 私も、弁護士生活40年の体験をもとに、その指摘には、大いに共感を覚えます。
 平安のはじめに書かれた『日本霊異記』には、男遊びに精を出す若い母親が子どもらを放置し、乳を与えず、飢えさせた話がある。
 子どもは親の所有物という意識の強かった昔は、捨て子や育児放棄は、現代とは比べものにならないほど多かった。
 捨て子は珍しくなく、犬に食われてしまう運命にあると世間は考えていた。捨て子が取締の対象になるのは、江戸時代も五代将軍綱吉の時代からのこと。
 明治12年(1879年)の捨て子は5000人以上、今(2003年)は、67人ほどでしかない。

【生類憐みの令】実は悪法ではなかった!?5代将軍徳川綱吉の政策 - 日本史はストーリーで覚える!
 江戸時代は里子、捨て子、間引きが横行しており、動物達も当たり前のように捨てられていました。生類憐みの令とは命を粗末にする民衆への戒めと正しい倫理感を植え付ける目的の法律だったのです。
 テレビなどのマスメディアで親がまだ幼い自分の子供を虐待したという報道を目にすると、心が痛みます。ニュースのコメンテーターは近年の社会問題だとか、核家族化が崩れたためとか、死角の多いマンションが増えたからとか・・・いろいろな意見を述べています。
 大人の児童虐待は本当に最近の話なのでしょうか。
 いいえ。江戸時代では現在では、考えられないような子供の虐待が行われていました。
 当時、子供は11~12歳で住みこみの就職(奉公)に出るため、働き手、稼ぎ手としては大変貴重な存在。女子は10歳前後で遊女に売ることも出来ました。養育費においても学校等に通わないため、大変安上がりです。
 したがって、子供を養子として差し出すとかなり儲かります。したがって、子供はどんどん産まれました。そう、江戸時代の子供は売り買いの道具だったのです。もっと悲惨なのは「間引き」といわれる風習です。

江戸時代の人口調整方法 – 永井俊哉ドットコム
 江戸時代中期以降、領主の禁令や教諭にもかかわらず、飢饉時の農村などで、圧殺・絞殺・生き埋めなどの方法により、乳幼児の殺生が行われたことは事実である。当時7歳以下の子どもは神の子とされ、いつでも神にお返しする(つまり殺す)ことができるとされていた。一種のクーリングオフである。だから、間引きは「子返し」とも呼ばれていた。

江戸時代の捨子たち~歴史・社会背景・捨子観の変化・幕府の政策など | Call of History ー歴史の呼び声ー
 「生類憐みの令」は”御犬様”のイメージばかりが先行するが、犬愛護令はあくまで諸政策の一つに過ぎず全体としては重要ではない。鉄砲管理・鷹狩禁止・犬愛護令・捨子捨牛馬禁止・酒類製造禁止・鳥獣類保護などの一連の法令からなる「生類憐みの令」の中心の政策はその社会問題化していた捨子救済にある。
 貞享四年(1684)一月、「生類憐みの令」の最初の法令が出されるが、その第一条は捨子の養育を命じるものであった。
 江戸時代を通じて捨子は減ることは無かったことから、都市を中心に捨子養子制度が発展する。捨子が見つかると奉行所に届け出を行うが、奉行所は町方で養育するよう命じるのみだったので、町方で養子先を探して持参金を持たせて引き取らせることで対応した。
 捨子養子制度を悪用して、里親として捨子を引き取りつつ、養育費だけを受け取ってその子を(ボーガス注:事故死に見せかけるなどして)殺したり、さらに里子に出したりする例も少なからず見られるようになり、その取次を行う周旋人も職業として成立するようになった。事実上の人身売買である。
 明治になると、捨子は棄児と呼ばれるようになるが、引き続き社会問題として存在していた。沢山美果子*5著「江戸の捨て子たち その肖像*6」によると、明治期に棄児数の統計が始まり、明治二十年(1887)ごろをピークにして二十世紀初頭から下がり始め、第一次大戦後には三分の一前後にまで減少している。この理由として沢山は第一に妻の離婚請求権の制限など明治の「家」制度の確立、第二に子供中心主義の近代家族モデルの登場の二点が挙げられ、共同体での養育を否定し実の母による養育をするべきという規範が産まれたという点を指摘しているが、「東京の下層社会*7」などを読むと、同時期にスラム化した都市下層民の間では捨子やもらい子が日常的であったこともまた見て取れる。「近代家族モデル」を規範として受け入れたのはまず上流階級であったことから、捨子の減少にそれほどの影響があったかはよくわからない。近代の捨子に関する背景については別途論考が必要であろう。
 江戸時代を通して捨子という習俗を克服することは出来なかった。近代においても、道徳観の転換はあったが、捨子と、その子供たちの取引をはじめとする人身売買の横行は歯止めが効かなかった。現代においても様々な福祉政策が実行され「赤ちゃんポスト」など様々な取り組みがなされているが、それでも捨子は生まれ続けている。

反社会学講座 第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲
■この回の内容は、『続・反社会学講座*8』(ちくま文庫版)で加筆修正されています。引用などをする際は、できるだけ文庫版を参照してください。
■第3楽章 Largo:平気でこどもを殺した昔の人たち
 16世紀後半、信長・秀吉の時代に日本に滞在したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、(中略)著書の『日本史*9』で、日本の子殺しと捨て子の多さを、さも珍しいことであるかのように記しています。

 日本では婦人の堕胎はきわめて頻繁で……何ぴともそれを不思議とは思わぬのが習わしである。ある婦人たちは、出産後、赤児の首に足をのせて窒息死せしめ、……堺の市は大きく人口が稠密なので、朝方、海岸や濠に沿って歩いていくと、幾たびとなくそこに捨てられているそうした子供たちを見受けることがある。

 『日本史』中の別のエピソードでは、野良犬に食われそうになっていた捨て子を助けたある司祭が、日本の信者たちから、二度とそういうことはしないようにと忠告を受けています。もしこれが世間に知れたら、毎晩たくさんのこどもが司祭館の前に捨てられることになる。そうなると、キリスト教を敵視している仏僧たちに、バテレンは赤児を集めて食っているのだ、とあらぬウワサを立てられますよ、というのが理由です。
 江戸時代になっても相変わらず子殺しは続きます。『徳川時代児童保護資料』では、これは江戸時代が発展を禁じられていた時代だったからと説明しています。社会体制の維持と社会の発展は相反するものであると考えた徳川幕府は、体制維持を選びました。ある程度まで農地の開拓が進むと、米の生産を担う農村の人口は、増えも減りもしないのが理想とされたのです。
 江戸末期ともなると農民の間にも幕府の意向が根づきます。3人以上の子だくさんは身の程をわきまえぬ恥知らず、が常識となり、間引きが日常的に行われます。江戸末期の農学者佐藤信淵は、出羽と奥州(現在の東北地方)で毎年1万6、7千人、上総(現在の千葉県)では3、4万人の赤ん坊が間引きされている、と記録を残しています。間引きが多かったのは事実でしょうが、千葉だけで東北地方を上回りすぎじゃないかという気もしないでもないのですが。
 明治時代になると国の方針は一転、国家発展のためには産めよ増やせよ、こどもは大事、嬰児殺しは殺人罪とされます。しかも突然全国に小学校を作り、こどもを通わせろと命令します。
 法律で禁じられたからといって、江戸の260年間でつちかわれた慣習がかき消えるわけではありません。地方では間引きはこっそりと続けられました。
 間引きや堕胎が禁じられると、今度は「貰い子殺し」の形態が主流になります。表向きは養育料を払ってこどもを引き取ってもらうのですが、『日本子どもの歴史6』を見ると、それは実際には「死体埋葬料」「殺害料」であり、引き取られたこどもは殺されていたとあります。大正・昭和初期になると、連日のように新聞に「こども売ります・買います」の広告が掲載されるようになりました。もちろん、こどもがいない夫婦が本当に養子を求めていた例もありますが、それと裏ビジネスとしての貰い子殺しとを、広告から区別する手だてはありません。

【参考、終わり】

*1:著書『神風連とその時代』(2006年、洋泉社MC新書)、『なぜいま人類史か』(2007年、洋泉社MC新書)、『北一輝』(2007年、ちくま学芸文庫)、『日本近世の起源』(2008年、洋泉社MC新書)、『私のロシア文学』(2011年、文春学藝ライブラリー)、『維新の夢』(2011年、ちくま学芸文庫)、『神風連とその時代』(2011年、洋泉社新書y)、『ドストエフスキイの政治思想』(2012年、洋泉社新書y)、『私の世界文学案内』(2012年、ちくま学芸文庫)、『近代の呪い』(2013年、平凡社新書)、『無名の人生』(2014年、文春新書)、『幻影の明治:名もなき人びとの肖像』(2018年、平凡社ライブラリー)など

*2:2005年、平凡社ライブラリー

*3:1954年生まれ。著書『江戸の少年』(1994年、平凡社ライブラリー)、『江戸の性風俗』(1998年、講談社現代新書)、『江戸奇人伝:旗本・川路家の人びと』(2001年、平凡社新書)、『江戸人の老い』(2001年、PHP新書)、『江戸老人旗本夜話』(2004年、講談社文庫)、『江戸の病』(2009年、講談社選書メチエ)、『殿様と鼠小僧:松浦静山甲子夜話』の世界』(2009年、講談社学術文庫) 、『江戸の怪奇譚』(2010年、講談社文庫)、『旗本御家人』(2011年、洋泉社歴史新書y)、『増補版 江戸藩邸物語』(2016年、角川ソフィア文庫) 、『増補 大江戸死体考』(2016年、平凡社ライブラリー) など

*4:著書『大塚ひかり義経物語』(2004年、角川ソフィア文庫)、『古事記 いのちと勇気の湧く神話』(2012年、中公新書ラクレ)、『女嫌いの平家物語』(2012年、ちくま文庫)、『源氏物語の教え』(2018年、ちくまプリマー新書)など

*5:著書『出産と身体の近世』(1998年、勁草書房)、『性と生殖の近世』(2005年、勁草書房)、『江戸の捨て子たち:その肖像』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近代家族と子育て』(2013年、吉川弘文館)、『江戸の乳と子ども いのちをつなぐ』(2016年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*6:2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー

*7:横山源之助岩波文庫

*8:パオロ・マッツァリーノ、2009年、ちくま文庫

*9:邦訳は中公文庫