今日の産経ニュース(2019年7月28日分)

【参院選】共産党、比例は150万票減 「相互推薦・支援」うやむやで政権批判票離れ - 産経ニュース
 産経らしい悪口でありますが、まあ「楽な道ではありませんが」基本的には「野党共闘しながら党勢拡大」つう方向性しかないでしょう。小生も凡人なのでどうしたらいいのかわかりませんが。
 ともかく、れいわに票を食われながらも1議席減にとどまったことはそれなりに踏みとどまったと言えるでしょう(俺が共産びいきであることは否定しませんが客観的に見てもそう言っていいかと思います)。勿論ベストは何があろうとも、得票数増、議席増ですが。
 まあ「社民党って今もあったんだ?」「比例1議席って、れいわより少ない議席数、N国党と同じ議席数でなんか意味あるの?」などと俺のオヤジ(自民支持)に小馬鹿にされる社民党の存在感のなさに比べたらずっとマシです(正直「社民党は今後をどう考えてるんだろう?」「辻元氏も民主党経由で立民に逃げちゃったし明るい話がないんだよなあ」「もう立民か共産と統合するしかねえんじゃねえの?」とは思います)。
 なお、「話が脱線しますが」野党共闘という意味では小生は「宮本顕治」つう人間を「不破哲三氏など有能なブレーンに支えられた」つう面はあるし、また彼のとった方策全てが正しいとは思いませんが「やはりただ者じゃねえな」つうか尊敬してるというか、そういう思いはあります(まあ、宮本氏に限らず通常、組織のトップとはそういうものですが。安倍みたいなクズは例外です)。
 たとえば彼が1981年にスタートさせた全国革新懇。もちろんこれについては「民青」「民商」「新日本婦人の会」など従来の友好団体が中心となってるつう限界面はあります。しかし「1980年代時点」で「党員を増やすだけではなく、党外の支持者(今風に言えば無党派)とも連携していく必要がある」つう点に気づいて動いていくというのはやはり「それなりの分析能力やリーダーシップがないとできないこと」だと思います。
 美濃部革新都政(1967~1979年、社会党との共闘)、創共協定(1974年)にしても、ある種の野党共闘の試みのわけです。
 もちろん、宮本時代においては「野党共闘の中心は社会党と総評」と言う点が今とは違う。今は「民主党」は社会党のような左派とは言えないし、労組は反共右傾化しむしろ野党共闘には否定的です。とはいえ、宮本氏が「単純な唯我独尊ではないこと」は高く評価されていいとは思います。

 (ボーガス注:玉木・国民民主党代表の裏切り行為に対し)党内では、宮本徹衆院議員がツイッターで「何のために力合わせ、『3分の2』を失わせたのか」と不満を募らせた。今後、共闘のあり方について議論が再燃するとみられる

 共闘それ自体については党内で誰も異論はないでしょう。問題は玉木のような裏切り行為をどう封じていくかという話です。
 宮本氏ツイートにしても「(共闘路線への?)不満を募らせた」というより、裏切ろうとする玉木への「ごく普通の批判」にすぎません。そして、こうした玉木批判は共産だけでなく立民、社民、市民団体からも勿論でています。まあ、仮に玉木が裏切ったとしてもそう簡単に改憲できるもんでもないでしょうが。玉木への「選挙前の公約を無視するのか」と言う批判は免れないからです。そして玉木が裏切れば、国民民主が獲得した票の一部は「立民、共産、社民、れいわ」に当然行くでしょうから野党共闘にとって「裏切っていい」とはいいませんが産経が言うほどのダメージでもないでしょう。むしろ「今ひとつ信用できない玉木一味」が完全に自民に調子をあわせるならその方がすっきりしていいんじゃないか。


公明党、参院選比例で100万票減 議席増も危機感高まる - 産経ニュース
1)公明党の最大の支持母体は創価学会であるが、創価学会信者が増えてない
2)安倍自民に調子を合わすことで「クリーンな党」「福祉の党」「護憲平和の党」などという過去の看板が無意味になった(その結果党外の支持者増加があまり期待できない)ということなんでしょうね。
 ある意味「今回残念ながら議席を減らした共産党」などより、将来は暗いのではないかと思いますね(勿論産経の場合明らかに「党支持者への言い訳にこだわる公明党なんか見捨てろ、改憲にもっと踏み出せ」という自民へのそそのかしがあるでしょうが)。共産党の場合、ある程度、党外の支持者はいるでしょう。まあ俺も党外の支持者の一人ですが。


【めぐみへの手紙】被害者全員に祖国の土を踏ませる政治の力を信じ、待っています(1/3ページ) - 産経ニュース
 まあ、ばかばかしいですね。ろくな戦略もないのに「全員帰国を希望する」なんていってもどうにもなりません。
 しかもこの全員に「特定失踪者」が含まれてるのだから呆れます。

 実は、拉致事件は政治の中で早い時期に取り上げられていたことも、後から知りました。全国で相次いだ奇妙な失踪*1について、政府は昭和63年、国会で「北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚」と答弁しています。しかし、足踏みするかのように問題は前に進まず、私たちの声も届いていないような雰囲気は一体、何なのでしょうか?

 橋本敦質問に対する竹下内閣の梶山国家公安委員長、宇野*2外相の答弁ですね(1988年3月26日/参議院予算委員会での橋本敦議員の質問(抜粋)参照)。
 なお「後から知った」つうのはいつなのか、ですね。荒木和博ら救う会と付き合っていても、救う会から橋本質問やそれに対する宇野、梶山答弁を教えてもらわなかったというならそれは「救う会が反共右翼であり、そのため共産党の手柄である橋本質問を、拉致被害者に教えたくないことの証明」ですから。そんな救う会が拉致解決なんかまともに考えてるわけがねえだろ、家族会は救う会と縁切りしろて話です。
 まあ、それはともかく「短命総理に終わった」宇野氏はともかく、梶山氏はその後「宇野内閣通産相」「海部内閣法相」「自民党幹事長(宮沢総裁時代)」「橋本内閣官房長官」の要職を歴任しています。「なんとかならなかったんかなあ」つう思いはやはり否定できません。

 お父さんもお母さんも年老いて病を抱え、救出運動の前線には立てなくなってしまいました。

 もう最前線どころか「前線に立たなくていい」「むしろ孫と会え」と思いますけどね。まあ、「胃ろうまでしている」滋氏は体力的に訪朝は無理でしょうが、横田奥さんなら可能じゃないのか。


【新聞に喝!】「正邪逆転」した新聞 作家・ジャーナリスト・門田隆将(1/2ページ) - 産経ニュース
 選挙演説に「安倍はやめろ」などと野次を飛ばす程度で「選挙妨害扱い」し警察で排除するなどという安倍が批判されるのは当然でしょう。
 「よほど悪質な野次」ならともかく、そうでないなら「通常の批判」と区別が難しいし、通常の批判を萎縮させる危険性があるからです。
 だからこそ歴代首相、歴代与党幹部でアレ、歴代野党幹部でアレ、よほど酷い野次でもない限りそんなことはしません。それを「野次を飛ばしていいのか」と居直るとは産経文化人とはいつもながらバカでクズです。


【寄稿】外交評論家・岡本行夫 自国の船は自分で守れ - 産経ニュース
 「自国の船を自衛隊で守って何が悪い」で済めば誰も苦労しません。そもそも今回のトランプの要望は「イランをタンカー攻撃の犯人扱い」が前提ですから、それで済む話ではありません。「日本もイランの犯行と認定するのか!(イランの反発)」と言う話に当然なるでしょう。


【日曜経済講座】編集委員 田村秀男 相次ぐ無差別大量殺人事件に思う 元凶は慢性デフレにあり - 産経ニュース
 「田村ってバカだな」としか言いようがないですね。窃盗や強盗といった経済犯罪なら「不況が一因」といえるかもしれない(それだって安易にそう言うべきではないでしょうが)。
 先日の「京都アニメの放火殺人」(死者35名)のようなケースが不況(慢性デフレ)とどう関係するのか*3。あんな殺人は「恨み辛み(それが逆恨みや差別・偏見かどうかなどはともかく)」が原因であって、不況でおこるような話じゃないでしょう。
 大体、こんなことを赤旗や岩波世界が書いたら「安倍政権への責任転嫁だ」と怒り出すのが産経でしょうに、本当に不可解です。
 八つ墓村のモデルになったとされるいわゆる「津山30人殺し」(1938年、死者30名)、映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」が取り上げた「コロンバイン高校銃乱射事件」(1999年、死者13名)、「宅間の池田小学校事件」(2001年、死者8名)、「極右によるノルウェー銃乱射事件」(2011年、死者77名)、「相模原障害者施設殺傷事件」(2016年、死者19名)、「反イスラム極右によるニュージーランド・モスク銃乱射事件」(2019年、死者50名)など古今東西、大量殺人は沢山ありますが、それら全て「不況が原因」とはとてもいえないでしょう(そもそも犯行当時は不況でないケースもあるでしょう)。

【追記】
大阪教育大学付属池田小学校の事件で、ガソリンが使われなくてよかったと思う(一部の生活保護受給者のなかには、凄まじい異常人格者がいる) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 犯人は生活保護受給者だったようです。もちろん「そうした貧乏生活」が恨み辛みを募らせたことはあり得ますが「盗作云々」つうのは「妄想か事実かはともかく(多分妄想でしょうが)」貧乏生活そのものから生まれる恨みじゃないですからねえ。
 かつ「好景気」だろうと、生活保護受給者はいるわけで、「貧乏生活が犯行を助長した」と考える場合でも、犯行防止のためにやるべきことは「景気回復」よりも「社会福祉の充実」でしょう。もちろん景気対策がどうでもいいわけではないですが。


【昭和天皇の87年】強まる戦時色「ヒットラーの如く、スターリンの如く…」 - 産経ニュース

 法案に賛成したのは、意外にも左派の社会大衆党だ。日中戦争で急速に右傾化した社大党は、法案成立に逡巡(しゅんじゅん)する政・民両党を攻撃した。
 3月16日の衆院本会議。社大党の西尾末広*4が近衛を激励する。
 「ムッソリーニの如く、ヒットラーの如く、或はスターリンの如く、大胆に日本の進むべき道を進むべきであります」

 左派といっても社会大衆党の当時の執行部はあの「民社党初代委員長・西尾末広」ら民社党の連中ですからねえ。
 以前も別記事で書きましたが、社会大衆党には三輪寿壮*5と言う人間(年齢やキャリア的に西尾の親分に当たる人物)がいました(弁護士が本業で、昭和電工事件では西尾末広の弁護を行った)。
 この三輪と岸信介*6は親友であり
1)弟・佐藤栄作*7からの依頼により、戦後、戦犯容疑者となった岸信介の弁護を三輪が担当している。
2)戦後、社会党右派幹部の一人となった三輪のコネで岸は社会党に一時入党しようとしたことがある(社会党左派の反対で挫折。挫折してなかったら岸は西尾末広らと共に、旧民社党幹部として一生を終えたでしょう)
3)三輪の葬儀での弔辞は岸が読んだ
つう事実があります。旧民社つうのはそのくらい「自民党と区別がつかない」わけです。まあピノチェトクーデター美化したり、核保有主張したりするのが旧民社ですからね。ウヨの荒木和博が元民社党職員だってのもよくわかります。
 ちなみに「社会党に入ろうとして断られて自民に行った」岸に似た存在としては「社会党右派出身だが、野党であることに限界を感じ自民党に移籍した鈴木善幸*8」「吉田内閣農林相を務め、自民党からも政界入りの声がかかっていたのに社会党に入党した和田博雄*9」などがいます。
 それはともかく産経が「右傾化」云々とは実に奇妙です。産経にとって「国家総動員法」や「日中戦争」は「不適切な右傾化」なのか?。日頃の物言い「南京事件は中国の捏造」「大東亜戦争はアジア解放の聖戦」などからはとてもそういう認識をしているとは思えませんが。

【参考:社会大衆党の右傾化】

社会大衆党ウィキペディア参照)
 麻生久書記長(1891~1940年)は1934年「戦いは文化の母である」と主張するいわゆる「陸軍パンフレット(陸軍作成のパンフ『国防の本義と其強化の提唱』)」を「広義国防論」(戦争協力とひきかえに国民の社会権の保障を求める主張)の観点から支持。1937年に行われた総選挙で「第4党から第3党」に躍進する議席倍増の38名当選(改選前は18議席)の成果を得た*10が、同年の日中戦争勃発を受けて、「国体の本義」を支持する新綱領を制定。1938年の党大会では新建設大綱が決定され、全体主義を原則とする党となることを明確にした。
 その後も軍部との関係を強化し、1940年3月には、斎藤隆夫の反軍演説による懲罰動議に対して反対の姿勢を示し欠席・棄権した委員長の安部磯雄*11西尾末広片山哲*12、水谷長三郎*13、鈴木文治*14ら8名に対し、麻生主導で除名処分にするなど、より親軍部の立場を鮮明にした。同7月に二大政党よりも早く、先頭切って自発的解散の形をとって消滅、大政翼賛会に合流した。
■東方会との合同論
 実現には至らなかったが、社会大衆党中野正剛を総裁とする右派政党・東方会と合同して「全体主義単一国民政党」の結成を試みており、その結成大会の開催が1939年2月に予定されるまで話が進んでいた。

 なお、社会大衆党議席増「18→38」や東方会の議席増「0→11」は「近年の日本共産党の健闘(先日は残念ながら1議席減らしましたが、小林節氏の応援など保守派にも一定の支持を広げてはいます)」「先日の参院選でのれいわの議席獲得」(共産、れいわともに、いずれも過大評価は禁物ですが)に近い性格があると言えるでしょう。つまりはどちらも「二大政党(戦前は民政党と政友会、近年は自民党民主党(あるいは民主系の国民民主や立民))」への不満の表れの訳です(なお、この時期の選挙制度は、議会開設当初の小選挙区制度から、社会大衆党や東方会のようなミニ政党でも当選しやすい中選挙区制度に変わっています)。
 ただ問題は社会大衆党が「どんどん右傾化していったこと」でしょう。これが「支持者の要望に応えた物」か「支持者を裏切った物」かはともかく、二大政党(民政党、政友会)も第三極(社会大衆党や東方会など)も「戦争支持」では戦争が終わるはずもない。
 二大政党が反対したのは「戦争の進め方(たとえば国家総動員法への批判)」であって戦争そのものではない。しかも結局は近衛の懐柔工作に抵抗せず、法案賛成に変わるし、国家総動員法が実際にスタートすれば全然批判しなくなるわけです。
 「政府に都合のよい情報統制がされていた」とはいえ、あの戦争は「国民が支持していた」という面も残念ながらあるわけです。

 昭和天皇は、複雑な思いだったのではないか。何事も隠さず奏上する近衛を、昭和天皇は信頼していた。しかし、憲法の精神を遵守する昭和天皇が、ファッショに近い国家総動員法に賛同していたとは思えない。

 産経らしいデタラメさですね。何の具体的根拠も挙げずに「昭和天皇国家総動員法に賛成していたとは思えない」「昭和天皇国家総動員法違憲の疑いがあるのではないかと思っていた」とはいい度胸です。
 そもそも反対だったら天皇はそのように近衛に働きかけ、近衛も法案提出はしないでしょう。

 昭和天皇の励ましを受け、近衛が考えたのは内閣改造、すなわち外相と陸相の更迭である。
 「相手にせず」声明を軌道修正したい近衛にとって、(ボーガス注:この声明を撤回する気のない)外相の広田弘毅*15の更迭は不可避といえるだろう。
 5月26日、広田は辞任し、後任には陸軍ににらみを利かせられる、元陸相宇垣一成*16が就任する。
 その際、宇垣は近衛に言った。
 「声明を反古(ほご)にするかもしれんがよろしいか」
 近衛は答えた。
 「万事任せます」
 もう一人、近衛が辞めさせたかったのは陸相杉山元*17だ。内閣書記官長の風見章*18によると、杉山は悪い人間ではないが、「陸軍の不拡大方針が、どしどしくずれてゆくのを、約束とちがうではないかとせめたててみても、(杉山は)ああ、そうなつちやつたネなどと、ひとごとのようにこたえて、けろりんかんとして」いるようなところがあった。そんな杉山に、何度煮え湯を飲まされてきたことか。
 近衛が後任に望んだのは、満州事変時の関東軍高級参謀、板垣征四郎*19である。
 6月3日、陸相は交代し、内閣改造は成功した。
 だが、この新体制のもとで、陸軍が最も恐れていた事態が起こる。満州の国境で、ソ連が軍事行動を起こしたのだ。

 ということで宇垣外相や板垣陸軍大臣がどう動いたのかは次回です。
 ウィキペディア宇垣一成」によれば結局、「近衛声明の撤回など許さない」という陸軍などの圧力に近衛は抵抗しきれず、宇垣は「近衛声明を撤回して和平を実現すること」ができず外相辞任に追い込まれるようですが。
 1938年のソ連の軍事行動とは「張鼓峰事件(日本軍とソ連軍の武力衝突)」のことですが、これも次回です。
 なお、ウィキペディア板垣征四郎」によれば

板垣征四郎ウィキペディア参照)
陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。
・張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し、ソ連軍への武力行使の裁可を求めた。天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政*20海相も賛成であると答えた。しかし二人とも反対であると知っていた天皇は「自分をだますのか」と激怒、板垣が満州事変(柳条湖事件)の実行犯であることもあって不信を抱いていた天皇は「今後は朕の命令なくして一兵とも動かすことはならん*21」と、板垣を叱責した。
・板垣は平沼内閣でも陸相に留任。ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあ、いいじゃないか」と黙認した。また、「一個師団位いちいちやかましくいわないで、現地に任せたらいいではないか」と、関東軍の作戦行動を承認した。
・1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一*22軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は、この前も軍事参議官の会議で、有田八郎*23外務大臣は日独軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責された。更に天津問題での板垣の返答ぶり*24に怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている。

だそうです。
 昭和天皇相手に躊躇なく嘘をつくとはさすが満州事変を勝手にやらかした人間はやることが違います(呆)。はっきりいって板垣の陸軍大臣任命はすべきではなかったでしょう。
 昭和天皇に「宇垣外相、米内海相ソ連相手の軍事攻撃に賛成だとか、有田外相も日独軍事協定には賛成だとかお前の言ってることはウソじゃないか」と非難される人間はなかなかいないでしょう。
 いずれにせよ昭和天皇が板垣に不信感を抱き、相当、彼を嫌ってる*25ことが分かります。前任者の杉山はここまで酷くはないんじゃないか。しかしこういう人間・板垣を「昭和殉難者」として靖国に合祀することはウヨの立場でも疑問符がつくんじゃないか。


【主張】N国党とNHK 公共放送として襟を正せ - 産経ニュース
 N国党なんて低レベルなごろつき右翼政党が「1議席に過ぎない」「いずれ消滅するであろう」とはいえ議席を獲得するのも実に嘆かわしい話です。
 まあ、そんな泡沫トンデモ政党をネタに、NHKに下らぬ因縁を付ける産経もいつもながら論外のバカですが。

*1:正確には蓮池夫妻失踪(新潟)、地村夫妻失踪(福井)、増元るみこ氏、市川修一氏失踪(鹿児島)の3件の失踪。小泉訪朝でこれらの失踪について北朝鮮は全て拉致と認めた上で、蓮池夫妻、地村夫妻を帰国させ、市川・増元カップルについては死亡したと発表した。

*2:田中内閣防衛庁長官自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田内閣科学技術庁長官、大平内閣行政管理庁長官、中曽根内閣通産相、竹下内閣外相を経て首相

*3:いずれにせよこのように主張する田村にとって現状は「不況」なのでしょう。

*4:戦後、社会党書記長、片山内閣官房長官、芦田内閣副総理、民社党初代委員長を歴任

*5:戦前、労働農民党書記長、日本労農党書記長を歴任

*6:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*7:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*8:池田内閣郵政相、官房長官、佐藤内閣厚生相、福田内閣農林相、自民党総務会長(大平総裁時代)などを経て首相

*9:社会党政策審議会長、副委員長など歴任

*10:社会大衆党「18→38」以外は「立憲民政党205→179」「立憲政友会175→175」「昭和会20→18」「国民同盟15→11」「東方会0→11」など(立憲民政党が約30議席減らしたうち、約20議席社会大衆党、約10議席が東方会にいって、他はほぼ横ばいと見ればいいのでしょう)。昭和会(1935~1937年)は立憲政友会を離党したグループが結成した親軍部政党。国民同盟(1932~1940年)は立憲民政党を離党したグループが結成した親軍部政党。東方会(1936~1944年)は国民同盟を1936年に離党した中野正剛が結成した政党。

*11:社会民衆党委員長(1926~1932年)、社会大衆党委員長(1932~1940年)を歴任。委員長でありながら麻生書記長の画策で党を除名される。戦後は社会党顧問。早稲田大学野球部初代部長、東京六大学野球連盟初代会長、日本学生野球協会初代会長を歴任し、「日本学生野球の父」と呼ばれる。1949年死去。没後の1959年、この年創設された日本野球殿堂入り(特別表彰)。

*12:社会党書記長、委員長、首相、民社党常任顧問を歴任

*13:片山、芦田内閣商工相、民社党国会議員団長を歴任

*14:友愛会(後に日本労働総同盟に改称)創始者

*15:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*16:清浦、加藤高明、第1次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相(拓務相兼務)など歴任

*17:陸軍教育総監、林、第一次近衛、小磯内閣陸軍大臣参謀総長など歴任。戦後、自決

*18:立憲民政党代議士を経て第1次近衛内閣書記官長、第2次近衛内閣司法相を歴任。戦後、社会党代議士

*19:関東軍高級参謀として満州事変を実行。関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*20:林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相など歴任

*21:とはいえ、結局、現地の日本軍は「一兵も動かさない」どころか、ソ連軍と激突した上、「やむを得ない防衛行為」と報告、昭和天皇も「今後は気をつけろ」として容認してしまいますが。

*22:台湾軍司令官、広田内閣陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任

*23:広田、第一次近衛、平沼、米内内閣で外相

*24:「天津問題での板垣の返答ぶり」というのはウィキペディア板垣征四郎」の記述をそのまま引用していますが、ググってもいい記事がヒットせず意味がよく分かりません。今後、産経の連載で分かるのではないかと思いますが。

*25:板垣がここまで嫌われてるのとは逆に、澤藤統一郎の憲法日記 » 天皇の戦争責任を論じることに臆してはならないが指摘するように「内奏好きの東条」と言われるほど、天皇への内奏に努め、強い信頼を獲得したのが、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣東条英機です。