「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2019年7/30日分:高英起の巻)

兵士らが金正恩「特別列車」を襲撃…重大事件の意外な顛末(高英起) - 個人 - Yahoo!ニュース

 1934年11月、昭和天皇群馬県桐生市を訪れた。天皇を乗せた車は市内を走行中に、決められたコースから外れてしまった。(ボーガス注:コースを誤った)先導役の警部は、その責任を取って自決を図ったが一命をとりとめた。そんな彼に対して称賛の声が上がったという。
 この出来事は、「天皇誤導事件」と呼ばれる。今の日本人の価値観では「なぜそれくらいのことで自決するのか」と首を傾げるかもしれないが、戦後の「人間宣言」まで天皇は神として崇められていただけに、死んでお詫びしなければならないほどの不手際と考えられたということだ。

 もちろん「北朝鮮の個人崇拝」について高が触れる前の前振りの訳ですがそれはさておき。
 高の言うとおりいかに当時の日本が異常だったかと言うことです。日本人は全く「今の北朝鮮金日成崇拝」を笑えません。
 まあ北朝鮮に限らず例は「ナチドイツのヒトラーユーゲント」でも「文革時の毛沢東崇拝」でも何でもいいですが、「個人崇拝というおぞましい過去」は日本の歴史にもあるのだと言うことを自覚しておきたいもんです。
 ちなみに松本清張にはこれをヒントにした短編があって小生も『声:松本清張短編全集〈05〉』(2009年、光文社文庫)で読んだことがあります。ググったら「尊厳」という名前でした。
 ちなみに『声:松本清張短編全集〈05〉』にはタイトルとなっている『声』、天皇誤導事件をヒントにした『尊厳』の他に

・1957年3月、第10回日本探偵作家クラブ賞を受賞した『顔』
室町幕府将軍・足利義昭を取り上げた『陰謀将軍』
徳川綱吉によって旗本から大名にまで取り立てられたものの、なぜかその綱吉によって改易され、不遇の死を遂げる武士・喜多見重政を取り上げた『栄落不測』(追記:清張ギャラリー(完-679)_1065_sei_eirakufusoku.html_栄落不測によれば「なぜか」はわかりますが、これはあくまでも清張の創作であり、ウィキペディア『喜多見重政』によれば残された資料では改易の事情がよく分からず、政争による失脚という説もあるようです)
第7398回「新潮文庫松本清張傑作短編集 その31、恋情 ストーリー、ネタバレ」 | 新稀少堂日記によればある種のラブストーリーである『恋情』

が収録されています。
 『顔』『声』『尊厳』はある程度覚えていますが、他は覚えていないので機会があったら読み直そうかと思います。

【参考:松本清張『尊厳』】

https://twitter.com/tsufutei/status/800378784595595265
 文春の松本清張全集で確認したところ、「尊厳」という短編だった。清張自身のあとがきによれば、実際に起こった天皇行幸の誤導事件から考えたとのこと。清張は自殺した警部の息子が(ボーガス注:臣籍降下で)没落した元宮家に対峙するという風に話を膨らませ彼の父親を恐怖させ、自殺に向かわせた宮家の尊厳とは何か、読者に問いかけている。
 別名「桐生鹵簿誤導事件」というらしいが、「鹵簿(ろぼ)=天皇行幸の行列」なんて言葉、初めて知った。

清張全集復読(14)「腹中の敵」「尊厳」
■「尊厳」
 大正天皇の病気平癒祈願のために、宮が九州を回られることになりました。その先導車の運転を任された警部の多田の心労が語り出されます。緊張のあまりに錯乱して、多田は道を間違えます。その心の動きを描く筆が、巧みです。署長が自殺し、追うようにして多田も死にます。戦後、残された息子の貞一は、朝鮮戦争で死んだ米兵の死体を洗う仕事に就き、大金を手にします。そして、父が死ぬ原因となった宮に近づきます。(ボーガス注:臣籍降下で)没落した宮を立て直させ、復讐を図るのです。しかし、この物語の最後は、着地が決まっていないように思いました。拍子抜けしました。清張には珍しいミスです。
※『松本清張全集 35』(文藝春秋社、1972.7.20)の巻末に収載されている著者自身による「あとがき」によると、この話の実話は、昭和初期に群馬県桐生市での行幸にまつわるものだとあります(526頁)。


【参考:昭和天皇誤導事件(桐生市鹵簿誤導事件)】
桐生市鹵簿誤導事件を知っていますか? - 読む・考える・書く
天皇崇拝の時代に起きた“小”事件・桐生市鹵簿誤導事件 - 誰かの妄想・はてなブログ版

昭和天皇誤導事件(ウィキペディア参照)
 1934年(昭和9年)11月16日、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が群馬県の高崎練兵場で行われた。観兵式に出席した後、昭和天皇一行が群馬県桐生市を視察することになっていた。予定された視察順序は「桐生駅 →桐生西小学校(桐生西小)→ 桐生高等工業学校(桐生高工)」となっていた。先導役の本多重平警部(当時42歳)は、左折すべき末広町交差点を直進する過失を犯してしまった。そのため、視察の順序は桐生高工→桐生西小と全く逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では、天皇御一行が予定時間に到着しないことで大騒ぎになった。
 順序を間違った原因であるが、桐生市において当初、先導役の予定であった者が体調不良で辞退したため、本多警部が代役で行ったものであった。そのため本多警部は、事前の下見を行っていなかった桐生市内でも先導することになった。その結果、予定では曲がるはずだった交差点で、先導者の運転手をはじめ、本多警部ももう1人の警部も、直進と誤ったという。先導車の運転手が間違いに気付いたのはかなり後になってからであり、天皇一行の車も近づいており引き返せないため、本多警部は直進を命令したという。
■本多警部のその後
 この前代未聞の過失に対して関係者が処分されることになった。事件後、当事者の1人である本多警部は自宅謹慎していたが、県当局は自決を心配し部下2人を監視に付かせていた。しかし2日後、昭和天皇一行を乗せたお召し列車前橋駅を出発する時刻が迫った時、本多警部は部下や家人に見送りに行けと命じ、その間に、列車が駅を出発した汽笛と共に日本刀で喉を突いて自決を図った。しかし、日本刀を素手で持っていたため、指が切れて突く力が弱くなり、一命を取り止めた(一部の資料では「死亡した」とされるが誤伝である)。このことは天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されたという。自決を図ったことについては、当時は「よくぞ責任を取ってくれた」と賞賛する声が挙がったという。
 本多警部は一命を取り止めたものの後遺症は重大で、舌の筋肉が切断されたため、会話に支障が出る状態になった上に、食道と気道が癒着してしまい、食事をするのも難しい状態になった。彼は全国からの賞賛の声に励まされ、「もう1度天皇陛下のために生きる」決心をしたという。警察の出世コースからは外れたが、国立療養所事務長などを歴任し、1946年(昭和21年)まで公職を務めたという。
 1945年(昭和20年)、日本の降伏により、太平洋戦争は終結した。昭和天皇人間宣言を発し、戦前のような軍服姿ではなく背広姿で日本各地を視察する姿を見て、本多元警部は「武士道は必要なくなった」と漏らしたという。晩年は郷里で農業に従事し、1960年(昭和35年)5月22日に68歳で死去したという。
■議会の動き
 事件後、岡田啓介*1首相と後藤文夫*2内相が天皇にお詫びしたところ、天皇は別段の咎めもなく許したが、当時野党の立場にあった政友会は、議会でこれを取り上げて後藤内相を攻撃した。これについて岡田首相は、後に、『岡田啓介回顧録』(中公文庫)で、翌年の議会で取り上げられた国体明徴論と合わせて、政党人の自己否定につながる行為であったと批判している。

 彼らは、5分間の停車時間を狙って、カネになりそうなものを一切合切盗もうとしたの。列車を護衛していた人民内務軍8総局の1旅団兵士が駆け寄り、乱闘騒ぎとなった。
「列車が動き始めたのに喧嘩がやまず、興奮した8総局兵士が地方軍の兵士を車外に強く押し出した。列車から投げ出された兵士はその場で死亡した」(情報筋)
 北朝鮮社会の基準で言えば、1号資材を盗むなどとんでもない行為で、部隊全体が連帯責任を取らされてもおかしくないはずだ。実際、軍内部では隊の兵士に責任を取らせようとする雰囲気だったという。
 ところが、今回の事件を報告を受けた金正恩氏は「1号資材よりも兵士の命が大切だ」との指示を出してしまったため、責任の所在が不明確となってしまったのだ。つまり、死んだ兵士の所属部隊に責任を取らせることは、金正恩氏の指示に背くことになる。
 結局、「8総局の兵士は任務をまっとうするために行った行動で、地方部隊の兵士は1号資材に手を出そうとしたため命を落とした」(情報筋)ということで、死んだ兵士に全責任を問い、誰も責任を取ることなく事件が集結する可能性が高いと情報筋は見ている。

 高には「何だかなあ」ですね。
 「死んだ兵士に全責任がある」とはいえないでしょうが、高の文章を読む限り、「8総局の兵士は任務をまっとうするために行った行動で、地方部隊の兵士は1号資材に手を出そうとしたため命を落とした」というのは事実ではないのか。濡れ衣を着せられたという話とは意味が違うわけです。
 金正恩の「1号資材の件は穏便に済ませろ(死んだ兵士以外は厳罰にしなくてもいい)」つうのも、まあ、「博愛精神」というよりは「もめ事を作りたくない&最高指導者としての懐の深さを見せたい」つうことでしょうが結果的には別に悪くないのではないか。
 結局、金正恩君をうまく批判できずに高の文章はぐだぐだになってる気がしますね。

*1:田中義一、斎藤内閣海軍大臣、首相を歴任。

*2:斎藤内閣農林相、岡田内閣内務相など歴任