今日の中国&朝鮮・韓国ニュースほか(2019年10月19日分)

◆I濱ツイートにコメント

I濱Y子
 授業のあと、生徒の一人がこの坂野嘉彦の厳罰を求める署名をしてくれと。小動物を殺すことを愉しむ人格はやがて人間を対象にすることは犯罪学では知られている。この男は檻にいれた方がいい。
インコ虐待の男に罰金判決 動画投稿 名古屋簡裁 - 産経ニュース
 飼っていたインコを虐待したとして、動物愛護法違反の罪に問われた無職、坂野嘉彦被告(34)の裁判で、名古屋簡裁(上杉誌朗裁判官)は18日、求刑通り罰金20万円の判決を言い渡した。
 坂野被告はインターネット上に虐待の様子を撮影した動画を投稿*1。愛鳥家らの相談を受けた愛知県警が7月に逮捕し、名古屋区検が同罪で起訴した。改正動物愛護法が6月に成立。ペットの虐待は「100万円以下の罰金」から「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」に罰則の引き上げが決まっている。

 インコ愛好家だという女史らしいですが、「檻」つうのが「文字通り懲役刑」ならまあ無理でしょうねえ(苦笑)。そもそも求刑が罰金刑ですしね。


ソロモン諸島の島、中国企業にリース 国交樹立直後に:朝日新聞デジタル
中国企業、ソロモンの島を75年賃借か 豪紙報道: 日本経済新聞
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019101800800&g=int
 「だから何?」つう話ですよねえ。ソロモン諸島が中国の経済進出を希望して国交樹立に動いたのは以前から分かってる話ですし。
 「軍事利用」云々などと言うのは現時点ではどう見ても噂話の域を出ていませんし。


https://www.jiji.com/jc/article?k=2019100500380&g=int

 「岸信介*2元首相が訪中できないか、つないでほしい」。
 野田毅*3衆院議員(日中協会会長)は1970年代末か80年初めごろ、中国で対日政策を主導した廖承志中日友好会長(当時)からこう要請された。親台派大物への訪中打診は異例だ。野田は岸に面会し、中国の意向を伝えた。岸は「検討する」と応じたが、代わりに訪中したのは、岸ら戦後首相の黒幕とされ、(ボーガス注:大宅壮一に)「昭和の怪物」と呼ばれた矢次一夫(国策研究会代表常任理事)。80年5月、北京でトウ小平副首相、華国鋒*4首相らが会談に応じる「国賓級」のもてなしを受けた。
 野田は「台湾問題を何とかしたい、台湾への影響力は自分たちより岸さんの方が強い。岸さんは(東京裁判の)A級戦犯*5であったが、中国は『岸けしからん』とは言わなかった」と解説した。

 「岸訪中を要請」とは中国が実に現実主義であることが分かりますね。
 そして岸の方ももはや日中国交正常化後はこうした誘いを完全に断ることは出来ないと思っていたのでしょう。ただし彼自ら訪中すると台湾の反発を買うので子飼いの右翼フィクサー矢次(もともとは台湾ロビー)を使うと。それにしても、矢次の他にも「ロッキード事件児玉誉士夫」や「今日の産経ニュースほか(2019年10月19、20日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げた四元義隆」など戦後日本政治におけるこうした右翼フィクサーの暗躍にも困ったもんです(ちなみにこうした右翼フィクサーの存在をヒントに書かれたのが松本清張けものみち」)。

 中国が90年前後に取り込もうと躍起になったのが自民党竹下派会長として絶大な権力を持った金丸信*6だ。東京の中国大使館幹部は、金丸が自民党幹事長になった84年ごろ、「いつまでも台湾ばかり向いていないで北京にいらしたらどうですか」と直接訪中を要請。金丸は「行きたい」と応じたが、親台派大物議員*7の反対で実現しなかった。
 その後、金丸は90年8月末に初訪中したが、金丸に5億円のヤミ献金を贈るなど「政商」として知られた東京佐川急便の渡辺広康社長(当時、商法の特別背任罪で懲役7年確定)側が、中日友好協会の孫平化会長(当時)と金丸の間で「暗躍」した事実はあまり知られていない。
 孫の回想録「中日友好随想録」(2009年)によると、東京佐川急便常務が率いる訪中団が90年7月、北京で孫と会見し、渡辺と金丸が非常に近い関係にあると前置きした上で、金丸は、北朝鮮に抑留されている第18富士山丸乗組員の釈放に向け北朝鮮訪問を検討中だと告げた。訪朝が無駄足になることを心配する金丸はまず訪中し、中国側の協力で北朝鮮側の内情を把握した上で訪朝すべきかを決めたいと伝えた。孫は断ったが、金丸は訪中翌月に訪朝し、釈放の道筋を付けた。
 これに先立つ90年5月、渡辺は当時国交のなかった中韓両国の「口利き」も行っていた。韓国の盧泰愚大統領は同年9月の北京アジア大会開会式への出席と、中韓関係の発展を希望。金丸が韓国政府側に、渡辺が中国と密接な関係にあると紹介したことを受け、大統領側近が渡辺をソウルに呼び、中国が大統領を招待できるかどうか探ってほしいと依頼した。続いて渡辺は孫に韓国の意向を伝達した。中国側は「(盧訪中は)不都合だ」と判断したが、北朝鮮に配慮したものだ。
 佐川急便側は当時、中古トラックを中国に無償寄贈する交流事業を展開。孫は当時の日本政界に「金丸総書記、竹下(登)*8大統領、海部(俊樹)*9総理」がいるとの見方を回想録に記しており、金丸につながる渡辺とのパイプを重視した。渡辺らが間に入り、金丸と中国側はもたれ合う関係になったが、こうした実態について当時の複数の日本外務省幹部は「全く知らない話だ」と述べた。
 中国から親台派と見られた金丸は、中国側が強く求めた92年の天皇訪中実現に向け決定的役割を果たす。宮沢喜一*10首相(当時)は、自民党内の反対が強く決断できずにいた。自民党有力者への説得を続けた橋本恕駐中国大使が、自民党副総裁の金丸に状況を説明したところ、金丸は宮沢に電話し、「ごちゃごちゃ言わず早く決めたまえ」と一喝*11。これで決着し、宮沢は8月25日に天皇訪中を発表した。

 ここで重要なのが

 金丸は、北朝鮮に抑留されている第18富士山丸乗組員の釈放に向け北朝鮮訪問を検討中だと告げた。訪朝が無駄足になることを心配する金丸はまず訪中し、中国側の協力で北朝鮮側の内情を把握した上で訪朝すべきかを決めたいと伝えた

というあたりですね。つまりは拉致解決において中国とは日本は友好関係であるべきです。その点、中国を敵視する救う会は明らかに異常です。
 また渡辺・東京佐川社長の動きからは彼ないし「彼を幹部とする佐川急便」が「田中角栄*12とつながることで大きくなった小佐野賢治国際興業社主)のような大物政商」を「金丸とつながること」で目指していたであろう事もうかがえます。佐川急便はともかく渡辺について言えば犯罪者として摘発されたことでその夢は崩壊しましたが。
 まあ、救う会のような連中は渡辺のような人間を「私利私欲で動いてる」などと悪口するのでしょうが、俺個人は外交成果が上がるのであればウエルカムですね。

参考

◆矢次一夫(やつぎ・かずお、1899年~1983年、ウィキペディア参照)
 1933年(昭和8年)、陸軍省から依頼され、統制派の池田純久少佐と結んで、国策の立案に着手。同年10月に、官僚、学者、社会運動家、政治家などを集めて国策研究同志会を組織。
 1936年(昭和11年)の二・二六事件の後に一時解散するが、1937年(昭和12年)に再組織。1938年(昭和13年)に国策研究会に改称。戦時国策の立案に従事。
 戦時中は、企画院委員、大政翼賛会参与、翼賛政治会理事などを歴任。田中隆吉(元陸軍省兵務局長)は、矢次を大政翼賛会を操っていた人物として名指ししている。
 終戦後は公職追放されたが、1951年(昭和26年)、追放解除。サンフランシスコ講和条約発効後の1953年6月に国策研究会を再建。
 1957年(昭和32年)、日韓会談再開のため、矢次は柳泰夏駐日韓国代表部参事官と李ライン抑留問題に関する秘密交渉を行う。同年、矢次の仲介で金東祚*13岸信介首相と接触
 1958年(昭和33年)5月、岸信介首相の個人特使として訪韓。李承晩韓国大統領と会談。日韓併合について謝罪し、国交回復を打診。
 1970年(昭和45年)10月、朴正煕韓国大統領が矢次に一等樹交勲章を贈る。
 1972年(昭和47年)、福家俊一*14自民党代議士の仲介で矢次と金炳植*15朝鮮総連副議長が会談。日朝経済関係の促進に乗り出す。矢次は日朝貿易を取りまとめる協和物産を設立。
 1973年(昭和48年)9月、訪韓した矢次、岸信介と朴正煕が、金大中事件について会談。事件処理と経済関係を切り離すことで合意。
 1980年(昭和55年)5月、岸信介の個人特使として訪中した矢次は中国の最高指導者であるトウ小平と会談し、中台統一に向けた台湾の蒋経国総統との仲介役を要請された。中韓経済交流についても交渉した。岸信介も廖承志によって訪中の打診を1970年代から受けていたとされる。
 同年9月、岸信介と共に訪韓した矢次と全斗煥韓国大統領が会談。金大中問題について交渉を行うが、目立った進展はなかった。
 1983年(昭和58年)3月22日に、80歳でこの世を去るまで、その広い人脈を生かして韓国・台湾の政財界とのパイプ役として力を発揮した。
 元読売新聞記者の橋本文夫は、矢次をこう評している。
『黒幕と言われる他の人々、例えば児玉誉士夫小佐野賢治は利害関係にある人達としか交際はなく、彼等の知り得る情報は彼らの企業の利益に必要なものに限られている。一方、矢次の持つ情報は多方面にわたり、かつ正確なのだ。会った人が必要とする情報を常に持っている。彼は偉大なる情報屋であり、それが怪物の本質である。』

*1:虐待行為を投稿する気持ちがよく分かりません。

*2:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*3:宇野内閣建設相、宮沢内閣経済企画庁長官、小渕内閣自治相・国家公安委員長など歴任

*4:後にトウ小平との政治闘争に敗れ首相を退任。

*5:起訴されていないので正式には容疑者。

*6:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*7:すぐに思いつくのは岸信介元首相(1987年死去)ですが、一体誰でしょうか?

*8:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*9:自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田、中曽根内閣文相などを経て首相

*10:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*11:うがった見方をすれば「金丸さんも訪中に賛成だし仕方がない」と訪中反対派に宮沢氏が言い訳するための「出来レース(宮沢氏から『金丸さんに叱られた、と言う話をしていいか』と金丸氏に打診があったのであり、実はこんな電話はそもそも存在しない)」の可能性もありますがどっちにしろ、1)金丸氏が訪中に賛成だったこと、2)当時の金丸氏に絶大な権威があったことには変わりはありません。

*12:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*13:1965年から1967年まで駐日大使を、1973年から1975年まで韓国外相を務めた。

*14:池田内閣で運輸政務次官

*15:1972年10月、朝鮮総連代表団の一員として南北赤十字会談に出席するため北朝鮮渡航するが、滞在先の平壌で「反党反革命分子」として身柄拘束され失脚する。しかし、1993年7月、衛星政党朝鮮社会民主党中央委員長に就任。12月11日には金英柱と共に国家副主席に任命され復権した。1999年7月21日、死去(ウィキペディア「金炳植」参照)。