黒坂真に突っ込む(2019年11月24日分)

■黒坂ツイートにコメント

黒坂真リツイート
 大阪大学朝鮮文化研究会の皆さん。昭和天皇陛下は個々の作戦に対して、直接詳しい指示を出したわけではない。天皇という地位は、随分昔から日本では象徴のようになっていました。

 完全な大嘘ですね。いかにウヨとはいえ、そして「黒坂が教員を務める大阪経済大はまともな大学ではないのだろう」とはいえよくもまあ大学教員の肩書きを持つことが公然とデマをほざけるもんです。
 この辺りは山田朗氏の諸著作

・『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版
・『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社
・『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房
・『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店
・『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社

が詳しいところですが、もちろん昭和天皇は「大元帥(軍最高司令官)」として軍からいろいろ戦況報告を受けていますし、その報告に対し、いろいろと質問したり、詳しい指示を出したりもしています。
 有名な話では、沖縄戦で海軍が戦艦大和を投入したのは天皇から「海軍は航空部隊の攻撃しかしないのか(暗に戦艦を出せと言っている)」といわれたからだ、と言う話がありますね。
 明治、大正、昭和天皇(戦後、象徴となる以前)は「国家元首&軍最高司令官」であって象徴などではない。

黒坂真リツイート
 特攻隊の報告に対し、昭和天皇がこのように語った、という話かと存じます。
■聖書的価値研究会
‏ フィリピンの特攻隊の報告に「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」『昭和天皇発言記録集成』

 天皇は単に感想を述べただけと強弁する黒坂です。もちろん昭和天皇が「そんな馬鹿な作戦はやめろ」といえば特攻は中止されたわけです。
 天皇が「よくやった」と容認したことで特攻はその後も続くことになります。

黒坂真リツイート
 キリスト教徒が、昭和天皇陛下を愚帝中の愚帝などと評しているのを見ると、聖書には他人に罵声を浴びせる事を正当化する箇所があるのかと思えてしまいます。三浦綾子遠藤周作は、他人に罵声を浴びせなかったと思います*1が。
■聖書的価値研究会
・私もやはり沖縄戦の一番の原因は昭和天皇であったことは間違いないと思います。まさに愚帝の愚帝と思います。
・僕は昭和天皇が愚帝の愚帝と考えるのは、1945年の4月、ドイツ降伏後の6月の御前会議での本土決戦(ボーガス注:決定)と7月の(ボーガス注:御前会議での)ソ連を仲裁とする講和交渉(ボーガス注:決定)。
昭和天皇ソ連参戦がなければ、このままずるずると本土決戦して国土が奪われ、国民が虐殺されても構わないと。そう考えていたのだから、あの特攻隊戦果にも喜んだのか。もはや愚帝の愚帝、天皇の恥さらしと呼んでも差し支えない。
・恐らくこのような狂気に満ちた決定をする帝は、有史以来存在しないのではないか。
昭和天皇の戦争責任とは、一義に日本民族に対する責任でおり、敗戦責任だけではとても補いきれない責任を満足に背負った。それを退位することもなく、沖縄に(ボーガス注:謝罪に)訪れることもなく死んだ帝のどこを褒めろというのか?。逆に教えて頂きたい。あれほどの愚帝のどこを褒めろと?。和歌?。生物研究?
・平成天皇を見るとき、やっとマトモな人が天皇になった、それが結局平成天皇の感想ではないか。あの異常な父親と比較するとき、私たちは平常心でやっとマトモな、つまり社会通念上妥当な天皇だったと。

 昭和天皇は「愚帝中の愚帝」てのは「客観的事実」であって罵声じゃありませんよねえ。
 「敗北の危険性が高い対米開戦をあえてやって、実際敗北」「日本の敗色が濃厚になった時点でとっと降伏すれば良いのに、保身のために降伏を遅らせて沖縄戦や原爆投下の悲劇を招いた」とか「愚劣」以外の何物でもない。
 聖書的価値研究会が紹介する「神風特攻容認の発言」も「愚劣」以外の何物でもない。
 そしてキリスト教徒なんて戦前は「国家神道を強要されてる」からそう言う意味でも昭和天皇に好意なんかないでしょう。
 そして「罵声を浴びせる自称キリスト教徒」ならトランプ大統領(トランプ批判派への罵声など)、横田早紀江北朝鮮や、彼女が北朝鮮に対して軟弱だと見なした人間(田中均氏など)への罵声など)とかいくらでもいるでしょうよ。
 それにしても黒坂が「昭和天皇は愚帝じゃない」といえず「罵声は良くない」というごまかししか出来ない点は滑稽です。


【参考:昭和天皇と特攻(戦艦大和海上特攻を含む)】

「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(3/4)
 よく知られるとおり、日本軍の組織的な特攻はこのフィリピン戦で開始された。まず10月26日、及川古志郎*2軍令部総長より、海軍の神風特別攻撃隊・敷島隊などの戦果が報告された。天皇は、こう述べてその功績を讃えた。
 「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(読売新聞社編『昭和史の天皇1』)
 つぎに11月13日、梅津美治郎参謀総長より陸軍特別攻撃隊・万朶隊の戦果が報告された。天皇はこれについても「お言葉」を与えた。
 「体当りき[機]は大変良くやって立派なる戦果を収めた。命を国家に捧げて克くもやって呉れた」(『眞田穰一郎少将日記』)
 こうして日本軍では、特攻が広く行なわれるようになった。
 昭和天皇と特攻といえば、4月からの沖縄戦についても言及しておかなければならない。天皇は海軍の作戦に関して、「航空部隊だけの総攻撃か」(防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊(7)』)と述べ、暗に海上部隊の参加を求めたといわれる。そしてこの発言が、戦艦大和海上特攻につながったとの指摘が存在する。

日本人が終戦まで「特攻」を止められなかった、驚きの理由(栗原 俊雄) | 現代ビジネス | 講談社(2/3)
 天皇は、特攻をどう受けとめていたのだろうか。
 海軍に続いて陸軍が航空特攻を始めたのは11月12日。フィリピン・マニラ南方の飛行場から「万朶(ばんだ)隊」の4機が飛び立った。大本営は翌13日、「戦艦1隻、輸送艦1隻撃沈」と発表した。
 同日、梅津美治郎*3参謀総長が、昭和天皇に戦況を上奏した。天皇は「体当リキハ大変ヨクヤッテ立派ナル成果ヲ収メタ。命ヲ国家ニ捧ケテ克(よ)クモヤッテ呉レタ」(『昭和天皇発言記録集成』掲載、「眞田穣一郎*4少将日記」)と述べた。
 これに先立つ同月8日にも、天皇は梅津に対して「特別攻撃隊アンナニタマヲ沢山受ケナガラ低空テ非常ニ戦果ヲアケタノハ結構デアッタ」と話している(同日記)。
 「あんなに敵弾を受けて」云々という内容からして、天皇は特攻の写真もしくは動画をみたのだろうか。いずれにしても、これらの史料からは天皇が特攻の戦果を喜んでいることが分かる。
 ちなみに、2014年に完成し公開された「昭和天皇実録」には、特攻に関する記述がある。それによれば、天皇は梅津からの報告に対して「御嘉賞になる」(同日)とある。「実録」は、1990年から宮内庁が国家事業として作成したものである。
 敗戦が決まった翌日の同年8月16日、大西瀧治郎*5は割腹自殺した。遺書の中で、死んでいった特攻隊員たちに感謝し、かつ彼らと遺族に謝罪している。
「特攻隊の英霊に曰す/善く戦ひたり深謝す/最後の勝利を信じつゝ肉/彈として散華せり然れ/共其の信念は遂に達/成し得ざるに至れり/吾死を以て旧部下の/英霊とその遺族に謝せんとす」

 「死ねばいい」というものでもありませんが、おそらく昭和天皇は「特攻隊員の死」について自決した大西のような自責の念は何一つなかったでしょう。まさに「人間のくず」「愚劣」だと思います。

「何故攻撃に出ぬか…」太平洋戦争下の昭和天皇「お言葉」の数々(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(4/4)
 天皇がここで心配したのは、三種の神器のことだった。7月31日に木戸幸一*6内大臣にこう語った。
 「先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。[中略]万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ」(『木戸幸一日記』)
 三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)のことで、皇位の証とされる。このうち八咫鏡伊勢神宮に、草薙剣熱田神宮にあった。
 そのため天皇は、敵に奪われないように自分の身近に移そうかと悩み、いざというときは「運命を共にする」とまで決心していたのである。

 昭和天皇には国民の命よりも「三種の神器の方が大事だった」わけです。正直怒りを禁じ得ませんね。

黒坂真
 今日、Twitter大阪大学朝鮮文化研究会の方と少し討論しました。先方は、昭和天皇陛下が無数の蛮行をやった、と固く信じていました。沖縄戦昭和天皇陛下の蛮行だそうです。主体思想の影響かな。

 呆れて二の句が継げませんね。昭和天皇がもっと早く降伏していれば沖縄戦の悲劇はなかった。そして沖縄戦の悲劇で昭和天皇を批判したら何で「主体思想」なのか。大体黒坂のやってるツイートは「討論」じゃないですよねえ。

*1:とはいえ、遠藤はともかく『母』(小林多喜二の母がテーマ)、『銃口』(いわゆる北海道綴方教育連盟事件がテーマ)を書いた三浦綾子の認識はどう見ても昭和天皇に対して批判的、否定的でしょうが。

*2:第二次、第三次近衛内閣海軍大臣軍令部総長など歴任

*3:陸軍次官、関東軍司令官、参謀総長など歴任。戦後終身刑判決で服役中に病死。後に靖国に合祀

*4:陸軍省軍務局軍事課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長、陸軍省軍務局長など歴任

*5:第11航空艦隊参謀長、航空本部総務部長、軍需省航空兵器総局総務局長、第1航空艦隊司令長官、軍令部次長など歴任。神風特攻の発案者の一人(当時は、第1航空艦隊司令長官)とされる。

*6:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放