今日のロシアニュース(2019年12月30日分)

北方領土問題、「小和田メモ」に見る政と官の攻防 - 藤田直央|論座 - 朝日新聞社の言論サイト

 先日に101歳で亡くなった元首相の中曽根康弘*1は、1987年に首相の座を離れてもなお、ソ連と「首脳外交」を展開しようとしていた。その動きをパリでつかんで東京の外務省に伝えた日本の外交官が、後に外務事務次官国連大使を経て、国際司法裁判所の所長を務めた小和田恒氏(87)だった。
 「極秘」の判が押された小和田メモは、2019年12月の外交文書公開で対象になったファイルの中にあった。
 1988年6月16日、パリに本部のある経済協力開発機構(OECD)に大使として赴任していた小和田氏は、盗聴を防ぐ機能がある「FAX電話」を使い、「全く参考までに」として、中曽根訪ソの動きを後輩の外務省幹部に伝えていた。その内容をソ連課で手書きしたのが「小和田メモ」だった。
 小和田氏に情報をもたらしたのは、意外な人物だった。
 「先週パリに小針歴二福島交通社長が同大使を来訪越し、次の趣旨を述べるところがあった」
 正確には小針「暦」二氏。当時は福島交通「会長」だ。政官界に幅広い人脈を築いた「政商」として知られる。79歳で亡くなった1993年の朝日新聞記事にはこうある。
 「十数社の福島交通グループを率い、その資金力を背景に福田赳夫*2中曽根康弘の両元首相や故安倍晋太郎*3、さらに竹下登*4・元首相、金丸信*5前副総裁ら多くの自民党大物代議士と親交を結び、『政商』とも呼ばれている」
 パリに小和田氏を訪ねた小針氏が語った中曽根訪ソの動きは、次の通りだった。
 「中曽根は今年(1988年)の7月に訪ソしたいと言っているようだ。ただ、ゴルバチョフと会うというのが条件のようだ。ソ側は中曽根が何か魅力的なオファー(申し出)を持ってくるなら実現しても良い、そのオファーを受けてシェバルナゼ(シェワルナゼ*6)外相が秋に日本に来ても良いと言っている」
 7月22日、モスクワのクレムリン。中曽根氏とゴルバチョフ氏の会談は2時間40分に及んだ。日ソ協力の可能性を語り合いつつ、後半で中曽根氏が北方領土問題に踏み込む。「4つの島々は北海道に属している」述べつつ、「戦後の日ソ関係の原点たる日ソ共同宣言に戻るべきではないか」と求めた。
 ゴルバチョフ氏はこう反論した。
 「1956年にソ連は2島を返そうとの立場を取ったが、日本は4島を要求し、チャンスが生かされなかった。60年に日米は(安保条約改定で)急激に接近し、情勢は変わった」
 会談について7月28日に外務省の事務方トップ・村田良平*7事務次官が竹下首相に報告した際の資料とみられるメモには、「ソ連の基本的立場に変化なし」とある。

 先日はゴルビーが中曽根相手に「北方領土問題で柔軟化したかのような記事」が一部で報じられましたがこの朝日記事を信じる限り、ゴルビーは何一つ柔軟化していませんね。

 「小和田メモ」は(中略)もうひとつ、小針氏からの重要な情報を外務省に伝えていた。小針氏と特に近かった、金丸信氏の訪ソの動きだった。
 「最近金丸は、ソ連側が領土問題につきまじめに考えるという姿勢であれば訪ソしても良いとソ連側に言い出している。ソ側もこの金丸の発言に関心を持ちだしている」
 小針氏は二人の訪ソの動きを絡めて小和田氏に伝えていたわけだが、その3カ月前の朝日新聞にこんな記事がある。
 「中曽根前首相、金丸前副総理、小針暦二福島交通会長らが(1988年3月)9日夜、都内の料理屋で2時間半にわたって懇談した。同席者によると、10日から訪米する中曽根氏を激励するのが目的で、中曽根政権時代の思い出話を中心に、中曽根氏が設立しようとしている平和戦略研究所(仮称)などについて雑談したという」
 1988年6月の「小和田メモ」以降に訪ソが実現したという記事は朝日新聞にないが、自民党竹下派会長として北方領土問題で積極的に動いた。
 1990年4月には講演で「2島先行返還論」をぶち上げた。「4島がだめなら、せめてまず2島でも返してもらうべきだ」と発言。ゴルバチョフ氏のブレーンだったプリマコフ氏(後にロシアで(ボーガス注:エリツィン政権)外相、首相)と会い、「二つぐらいはまず返しますと言わないと始まらない」と求め、「ゴルバチョフ氏に伝える」と言われた、という話も披露した。
 プリマコフ氏と金丸氏の関わりは、「小和田メモ」にも小針氏の話として登場していた。
「プリマコフがここ数年しきりに自分(小針)に接近したがっている。金丸信と自分とプリマコフの3人で何回か会ったこともある。その席で、プリマコフは金丸に対し、何とか日ソ関係打開を図りたいので力になって欲しいとして、金丸に訪ソを慫慂(しょうよう)した」
※この記事を書くにあたり、1988年の中曽根訪ソ当時にソ連課長だった東郷和彦氏ら元外務省関係者や、中曽根外交に詳しい九州大准教授の中島琢磨*8ら研究者にも取材した。雅子皇后の父でもある小和田恒氏はインタビューの申し込みに対し、「立場上*9発言を控えている」として応じなかった。

 さすが「金丸訪朝団」を率いた大物政治家と言うべきでしょうか。金丸氏には北朝鮮だけでなくソ連(現ロシア)も接近していたわけです。
 そして一方でソ連は中曽根にも接触していたわけです。
 なお、こうした小針氏の情報は彼が勝手に流したわけではなく「外務省の反応を小針氏経由で知りたい」と思った中曽根や金丸氏の依頼に基づくものでしょう。そうした行為をするのに「日本国内で政治家や外務官僚に接触」ではなく、わざわざパリで小和田氏に接触したのも面白い話です。

参考

福島交通ウィキペディア参照)
 1907年に創立した信達軌道が前身で、鉄道事業だけでなく、バス事業にも参入したことで1962年に福島交通と社名を改めた。1971年の飯坂東線廃止後、鉄道路線は飯坂線を残すのみとなった。現在の福島交通の主力事業はバス事業である。
 1970年代、当時の会長で「東北の政商」と称された小針暦二が中心となり、福島民報社ラジオ福島福島交通を中核とする「福島交通グループ(小針グループ)」を形成し、那須ロイヤルセンター(2000年に営業を終了し跡地は一部がコナミ研修センターとなった他は別荘地として分譲されている)や岩瀬牧場等のレジャー事業、不動産事業、運送業、酒造業等の関連会社を経営、グループの規模を大きくしていった。
 バブル期における無理な多角経営と、1980年代以降の鉄道赤字路線増加によって巨額の債務を抱え、1980年前半には経営不振となった。2008年4月11日、東京地方裁判所会社更生法の適用を申請した。
 その後、株式会社経営共創基盤がスポンサーとなり、2009年1月31日に会社更生計画の認可を決定、同年5月31日に更生手続きが完了した。 同年より経営共創基盤が出資する持株会社みちのりホールディングス福島交通の他、茨城交通岩手県北自動車など経営難に陥った交通企業を傘下に収めている)の傘下に入り経営の立て直しを図ることとなった。

*1:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*2:岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官を経て首相

*3:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*4:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)など歴任

*5:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*6:ソ連時代にグルジア共産党第一書記、ソ連外相などを、ソ連崩壊後はグルジア国会議長、大統領などを歴任。

*7:外務事務次官、駐米大使、駐ドイツ大使など歴任

*8:著書『沖縄返還日米安保体制』(2012年、有斐閣)など

*9:「元外務官僚の立場」なのか、「皇后の父の立場」なのか、「両方」なのか気になるところです。