「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年10/4日分:荒木和博の巻)

ひと月後に命がなくなるとしたら(10月4日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG
 6分程度の動画です。拉致とは全く関係ありません。
 荒木自身は一体どんな回答をするのか、と思って聞いたのですが、特に荒木個人の回答はありません。
 しかし荒木自身は「ひと月後に命がなくなるとしたら」自分の人生をどう振り返るんですかねえ。あるいは残り1月で一体何をやるのか(拉致の解決のために全力を尽くすなんて事をしない事だけはよく分かりますが)。どう見ても「特定失踪者は北朝鮮拉致」「山本美保さんの遺体発見発表は警察の捏造」等という薄汚い嘘を垂れ流した「無様で醜悪な人生」でしか無いですよね。荒木や西岡(救う会会長)、島田(救う会副会長)ら「救う会のゲス右翼」ほど醜悪な人生もないんじゃ無いか。
 そして、孫のウンギョンさんにほとんど会わずに死去した横田滋は「死の直前に」自分の人生をどう思っていたのか?
 まあ、認知症でそんなことを考えられる状況で無かったかもしれませんが、まともな思考能力があれば「自らが救う会や家族会の圧力に屈して孫に会わなかったこと」を深く後悔したのではないか。
 そして横田早紀江はいい加減「救う会や家族会など無視して」どんどん孫と会うべきですよねえ。
 ちなみに「話が脱線しますが」
1)「余命幾ばくも無い」という設定は

【あいうえお順】
生きる (映画) - Wikipedia
聖の青春 - Wikipedia

など小説や映画、テレビドラマでよくある設定です。
2)有名な「葉隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのも「そうした考えの是非」はともかく別に「自殺を賛美しているわけでは無い(ただし戦前においてはそのように曲解され特攻など無謀な作戦の正当化に使われた)」のは有名な話です。
 つまりは「いつ死んでも恥ずかしくないような生き方を常々心がけること=死ぬことと見つけたり」のわけです。
 島田叡 - Wikipediaによれば死を覚悟して沖縄に赴任した「戦前沖縄最後の県知事」島田叡も「葉隠」に傾倒していたとのことです。

参考

<いまこそ葉隠(15)>死ぬことと見つけたり(上) 「死」覚悟し、充実した「生」 |まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE
 常朝は死を礼賛し、「つべこべ言わずに死ねばいいのだ」と言っていると誤解してはいけない。「人は誰しも、死ぬよりは、生きるほうが好きである」とも言っている。人命を軽視していたわけではない。いつも「死」を覚悟しておくことによって、充実した「生」を獲得することができると言っているのだ。
 宇宙飛行士も登山家も冒険家も、「死」を思わずしてチャレンジすることはできないし、目的を達することもできない。常朝が得意とするこの逆説を、私たちは読み取らなければならない。