高世仁に突っ込む(2020年10/23日分)

鬼海弘雄さんを偲んで4 - 高世仁の「諸悪莫作」日記
 高世仁に突っ込む(2020年10/22日分) - bogus-simotukareのブログで取り上げた鬼海弘雄さんを偲んで3 - 高世仁の「諸悪莫作」日記の続きです。

 思い返せば、鬼海弘雄さん*1とのお付き合いは、わずか3年にすぎない。
 私のこのブログで最初に鬼海さんが登場するのは4年前、2016年4月のことだった。

 でありながら延々記事を書くとは随分と傾倒したもんです。

 2017年5月、鬼海さんの写真展「India 1979-2016」の土日のギャラリートークを聞きに行った。
 写真展になどめったに行かないのだが、当時はすでに会社の売り上げが相当落ちていて、時間に余裕があったのだろう。

 そういうのは「現実逃避」というんじゃないですかね。
 高世は「売り上げが落ちてる→テレビ局の仕事発注が減った→暇になった」と言いたいようですが、高世が「このままじゃまずい」と思ってたら「時間に余裕があった」なんて暢気なこと言ってないでしょう。もはや、この時点で「いつ会社が倒産しても構わない」という投げやりな心境だったのかもしれません。つまりは「ジンネット倒産」はもはやこの時点で「既定路線」だったのでしょう。

 よく理解できないのだが、何か深いことを言っていることだけはわかる。

 吹き出しました。まあ、そういう「禅問答」に魅力を感じるのが高世なんでしょう。俺は逆で「よくわからない→つまらない」というタイプの人間ですが。
 「よくわからないこと」については「深いことを言っている」とは別に思わない。
 だって「わからない」わけですからね。

 購入した写真集にサインをもらい、「懐かしい未来」とはどういう意味ですか、などと議論を吹っかけたり

 「懐かしい未来」でググったら

懐かしい未来 - Wikipedia
 1986年にリリースされた新居昭乃の1枚目のオリジナルアルバム。
森山大道*2『過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい』(2000年、青弓社
◆ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ 『ラダック・懐かしい未来』(2003年、山と渓谷社
後藤春彦ほか『まちづくりオーラル・ヒストリー:「役に立つ過去」を活かし、「懐かしい未来」を描く』(2005年、水曜社)
懐かしい未来〜longing future〜 - Wikipedia
 チベット族中国人女性歌手alanの日本における3rdシングル。2008年にavex traxよりリリースされた。
 大貫妙子がベストアルバム『palette』でカバーしている。なお、カバー版はNHK-FMのラジオ番組『大貫妙子 懐かしい未来』(2009年4月~2012年3月まで放送)のテーマ曲。
谷口正次*3懐かしい未来:オデッセイ思考』(2018年、東洋経済新報社

がヒットしました。つまりは鬼海のオリジナル概念ではなさそうですね。そう言う意味では「懐かしい未来」概念で高世が「鬼海を絶賛する」のは意味が分かりません。鬼海が意識しているにせよ、意識していないにせよ、鬼海が「これらの作品に影響を受けて」『懐かしい未来』と言ってるとみるべきでしょうし、であるなら高世が「大絶賛するほどの話でもない」でしょう。

鬼海
『時代をまたぐようなものを撮りたい。100年先の人たちが見ても、同じような人間の悲しみとか』
 100年後の人類と文明を見据えて写真を撮ってきた鬼海さん。こんなに長い射程で仕事をしている人がどれだけいるだろうか。

 イヤー、鬼海に限らず、「鬼海のような写真家」に限らず、小説家でアレ、作曲家でアレ、映画監督でアレ、画家でアレ、俳優でアレ、歌手でアレ、誰でアレ、芸術家という人種は誰だって「何年経っても評価されるような物をつくりたい」と思ってるでしょうよ。
 もちろんだからと言って後世に名が残る人間はごくわずかですが。「何年経っても評価されるような物をつくりたい」と思えば「そう言う作品が出来る」つうもんでもないので。もちろん鬼海が「後世でどれだけ評価されるか」はわかりません。

◆『1950年に、朝日新聞へ連載した『自由学校』が、翌年に松竹(渋谷実監督)と大映吉村公三郎監督)で競作映画化される。1955年には『青春怪談』が日活(市川崑監督)と新東宝阿部豊監督)で競作映画化されている。また『娘と私』は、1961年にNHKで『連続テレビ小説・娘と私』としてテレビドラマ化された』という1950~1960年代の人気作家・獅子文六獅子文六 - Wikipedia参照)
東宝の人気喜劇映画社長シリーズ - Wikipedia(1956~1970年)やTBS人気ドラマ『七人の孫 - Wikipedia(1964~1966年)*4』の原作者で1951年「英語屋さん」で第25回直木賞を受賞した源氏鶏太*5

など「明らかに一世を風靡したのに今や知名度が大分落ちた芸術家」は山ほどいますので。
 話が脱線していますが「サラリーマン喜劇映画」と言う意味では『植木等の「無責任男」シリーズ(1962年)、「日本一の男」シリーズ(1963~1971年)(クレージー映画 - Wikipedia参照)』(東宝)、『釣りバカ日誌』(1988~2009年、松竹)なんかのルーツが「社長シリーズ」と「その原作である源氏鶏太」じゃないか。
 それはともかく、例えば

獅子文六
『但馬太郎治伝』(2000年、講談社文芸文庫)
『海軍』(2001年、中公文庫)
『コーヒーと恋愛』(2013年、ちくま文庫)
『てんやわんや』、『娘と私』 (以上、2014年、ちくま文庫
『海軍随筆』(2014年、中公文庫)
『七時間半』(2015年、ちくま文庫
『自由学校』(2016年、ちくま文庫
『食味歳時記』、『私の食べ歩き』(以上、2016年、中公文庫)
『おばあさん』、『信子』(以上、2017年、朝日文庫)
『ちんちん電車』(2017年、河出文庫)
『胡椒息子』、『青春怪談』、『箱根山』(以上、2017年、ちくま文庫
『南の風』(2018年、朝日文庫)
『断髪女中』(2018年、ちくま文庫)
『沙羅乙女』、『やっさもっさ』(以上、2019年、ちくま文庫)

として今も獅子の著書は入手できるとは言え、また最近(?)では

獅子文六 - Wikipedia
 2017年には『悦ちゃん』がNHK土曜時代ドラマで再びテレビドラマ化された

とはいえ、獅子文六は現在それほど有名ではないでしょう(獅子については以前三浦小太郎に突っ込む(2019年12月5日分) - bogus-simotukareのブログでも触れました)。
 また、

源氏鶏太
『青空娘』、『最高殊勲夫人』(以上、2016年、ちくま文庫)
『家庭の事情』(2017年、ちくま文庫)
『英語屋さん』(2018年、集英社文庫)
『御身』(2019年、ちくま文庫)

など今も源氏の著書は入手できるとは言え、また最近(?)では

源氏鶏太 - Wikipedia
・『家庭の事情』がTBS系列愛の劇場『家に五女あり』としてドラマ化され、2007年9月から10月まで放送された。

とはいえ、源氏鶏太も、源氏が原作者だった『社長シリーズ』『七人の孫』も現在それほど有名ではないでしょう。『三等重役』などもはや死語でしょう。とはいえ、「源氏鶏太」「獅子文六」のように「生前、ブームになればまだマシ」です。大抵の芸術家は凡人であり、「生前も鳴かず飛ばず、死んでも鳴かず飛ばず」でしょう。
 なお、お断りしておきますが俺は「源氏鶏太がご都合主義で漫画的だから」といって「全くの無価値」とまでは思いません。
 「多くの人を楽しませる」というのは「それなりに意義のあること」でしょう。何も「高尚な文芸」だけに価値があるわけでは無い。
 それはともかく「未来の人間の価値観なんかわからないから今受ければいい(今受けることしか所詮出来ない)」と「完全に割り切ってる(?)」人間の方が少ないでしょう。獅子や源氏にしても果たしてそこまで割り切っていたかどうか。
 まあ先日なくなった「筒美京平 - Wikipedia」なんかは「未来の人間の価値観なんかわからないから今受ければいい」「俺は芸術家ではなく、皆を楽しませる職人」と割り切っていたかもしれませんが。
 高世は鬼海を「過大評価するにもほどがある」んじゃないか。

 いったん追悼はここで一区切りにしますが、今後は折に触れ、鬼海さんの写真を評してみたいと思います。

 「え、まだ続けるの?」ですね(苦笑)。 

【参考:源氏鶏太

『青空娘』 | WANI BOOKOUT|ワニブックスのWEBマガジン|ワニブックアウト印南敦史*6
 僕には、心から尊敬する作家がいます。
 とはいっても、いまではその名を知る人はほとんどいません。
 しかし、とっつきにくくてマニアックだとか、限定された玄人向けだとか、そういうことではないのです。
 それどころか門戸は広く開かれていて、誰でも好きになれるような小説を書いていた人。
 なのに、現在ではほぼ無名なのです。
 誰かって、源氏鶏太先生。
 彼が書き続けたのはサラリーマン小説。
 簡単にいえば、そのスタイルは「勧善懲悪」。貧しかったり、あるいはなんらかの逆境に立たされている主人公が、いじめや嫌がらせなどをしてくる“悪人”(多くの場合は上司)に打ち勝ち、成功をつかむという、非常に明快なストーリーだということ。
 まぁ、つまりはマンガに近いのですが、そのわかりやすさが高度成長期の空気感と見事に噛み合い、多くの大ヒット作が生み出されたというわけです。サラリーマンとしても着実にキャリアを重ねつつ、同時に年間3~5作くらいの新作を発表。
 しかも中期までの作品は、その大半が映画化、ドラマ化されることに。映画化作品は80作におよぶというのですから驚きです。
 よく考えるのですが、いまの時代に当てはめれば(作品の内容ではなく)知名度的には、現在の東野圭吾さんや宮部みゆきさん級の有名人だったのではないかと思います(ボーガス注:勧善懲悪サラリーマン小説という意味ではむしろTBSドラマ『半沢直樹』の原作者『池井戸潤』の方が適切だと思う)。
にもかかわらず、作品はほとんどが絶版。そのため、いまはほとんど知られていないのです。不思議だとしかいいようがないのですが、考えるに、それは「サラリーマン小説」の宿命だったのかもしれません。
 なにしろ勧善懲悪ですから、読み終えれば間違いなくスカッとします。だからサラリーマンにとっては、それが明日への活力になる。そのため、バンバン売れた。代表作『英語屋さん』などで直木賞をとっているし、他にも受賞経験は豊富。にもかかわらず、なにしろ大衆小説ですから、文学的価値がそこにあるかといえば疑問。
 だから、結果的に残っていないということなのだろうと思います。
 そのあたりは本人も自覚していたようで、1975年のエッセイ『わが文壇的自叙伝』には、「自分の作品で死後、読まれるものがあるだろうか」とも書いています。
 残念ながらその懸念は現実のものとなり、大きな実績を残したにもかかわらず、作品の大半は残っていない状態。だから、いま僕たちに、その作品に触れる機会はほとんど与えられていないのです。
 そこで僕も仕方なく、作品のほとんどを古書店新古書店で揃えました。ちなみに、僕が持っているのはすべて文庫本なのですが、そこにも当時の彼の勢いが現れている気がします。出版される作品はどんどん文庫化され、通勤途中のサラリーマンのポケットに収められたということです。
 初めて読んだのは中学生のころで、それから40年の歳月を経ても、いまだに飽きることはありません。
 作品に描かれている主人公たちはおそらく僕よりも10歳以上歳上ですが、それでも共感できる部分があり、しかもハッピーエンドが約束されているので安心して読み進められるのです。
 一生読み続けるだろうし、できればいつか、富山のお墓を参りたいとも思っています。
 そして、だからこそ、先生の作品が絶版状態だということには、大きな不満を持っていました。
 ところがここにきて、ちょっと興味深い動きが出てきました。なぜかちくま文庫から、ポツポツと過去の源氏作品が文庫化されているのです。しかも『英語屋さん』『三等重役』などの代表作ではないものが。9月に出た『最高殊勲夫人』だって、決して有名な作品ではないしなぁ。
 とはいえ、源氏作品が一作でも世に出ることは文句なしに喜ばしいので、とてもよい傾向だと思っています。
 そこで今回は、今年に入ってからはじまった「謎の源氏鶏太作品復刻」の口火を切ることになった作品をご紹介したいと思います。
 1956年7月から1957年11月まで雑誌『明星』に連載され、1966年5月に刊行された『青空娘』。
 先に触れたとおり源氏作品の多くは主人公が男性サラリーマンなのですが、『明星』に連載されていたというだけあって、これは若い女性が主人公です。
 そういえば『最高殊勲夫人』の主人公も女性ですし、復刊に際しては表紙イラストも女性向けに変えられているので、版元は女性をターゲットとして源氏作品の再評価を目論んでいるのかもしれません。
 祖母の死によって自分の“出生の秘密”を知り、東京で暮らすことになった主人公の女の子が、継母やその子どもたちからのいじめに遭いながらも健気に明るく生きていき、運命的な出会いをするという、絵に描いたようなシンデレラ・ストーリー。
 窮地に立たされたときに限って都合のいいことが起こり、無事にピンチを乗り越えるという展開は、まさに源氏作品そのもの。しかも、セリフはときにこちらが恥ずかしくなる感じ。しかし、そんなことも含め、流れがとても痛快なのです。また文脈の端々から感じられる昭和感も、不思議な懐かしさを与えてくれるでしょう。
 でも、いま突然このようなかたちで源氏作品が再評価されることになったというのは、なんとなくわかる気がします。繰り返しになりますが、ヒット作を連発した彼の全盛期は、戦後の復興を経た高度成長期。
 小説のなかで描かれる、焼け野原の時代をなんとか生き延びてきた人たちの姿が、どん詰まりにある現代の人々に力を与えないわけがないからです。
 だからといって日本がまた高度成長するとも思えないけれども、少なくとも「明日もがんばってみようかな」という気持ちにはさせてくれる。そう考えると、今回の復刻には納得できるわけです。

青空娘 源氏鶏太 - 愛に恋
 源氏鶏太は自伝『我が文壇的自叙伝』の中でこのように書いている。
「ときどき私は、自分の作品で死後読まれる作品があるだろうか、と思ったりすることがある。まして、死んでしまえばそれまでであろう。それが大方の大衆小説作家の運命とわかっていて、ちょっと寂しい気がすることがある」
 その源氏鶏太昭和35年の文壇長者番付では、松本清張に次ぐ2位というから現在では考えられないほどの売れっ子作家だったらしい。
 しかし今日、奇しくも彼の予言(?)は的中してしまったことになる。
 例えば同時代の大衆小説の作家で獅子文六、(ボーガス注:今井正映画『青い山脈』の原作者として知られる)石坂洋次郎、そしてこの源氏鶏太などの作品は書店から姿を消してしまったといっても過言ではないが、それをどういうわけか復刻しているのがちくま文庫なのである。
 では、何故、彼等の小説は消えてしまったのか。
 一読して解るのは、あまりにも大衆受けを狙い過ぎ、または映画化されるのを期待してストーリー展開を面白くさせるため、偶然の出会いを乱発させているところが却って作品として軽佻浮薄な印象を与えてしまっている感が否めない。
 昭和32年若尾文子主演で映画化されているそうだが、寧ろ、映画の方が価値が高いかも知れない。
 (ボーガス注:今井正の映画で)有名な(ボーガス注:石坂洋次郎)『青い山脈』にしたところでそうだが、原作を読んでみても特に感動などしない。
 昭和30年代の前期は映画の全盛期で小説の映画化は隆盛を極め、多くの作品が映像化された源氏鶏太は経済的には潤った生活をしていたようだ。

昭和レトロのOL物語 『私にはかまわないで』#197|mame|note
 源氏鶏太の小説は多くの作品がドラマ化されたそうですが、わたしは『私にはかまわないで』が好きでした。なんと1978年の小説です。
 源氏鶏太は1912年(明治45年)生まれ。住友合資会社住友不動産に勤めるかたわら、生活費を稼ぐために副業として懸賞小説に応募。1951年に『英語屋さん』で第25回直木賞を受賞しました。
 会社員が主人公の小説を多数執筆したため、「サラリーマン小説の第一人者」と呼ばれていたそうです。
 産経ニュースの記事にもあるように、筆致がとても軽やかでユーモアがあるので、とても読みやすい小説です。なにより、会社の中の“親切”な人たちが皮肉たっぷりに描かれていて、「ああ、こういう人、いるいる!」と思ってしまいます。
 たとえば、給湯室でばったり会った同僚に「知ってる? あの人さぁ、実は……」なんて話が始まった時に、どう返事するのがいいのか、未だにわたしには分かりません。笑
 高杉良城山三郎、そして源氏鶏太らの「サラリーマン小説」は、その名の通り、サラリー「マン」が主人公なんですよね。『私にはかまわないで』の主人公は働く女性ですが、仕事する上での能力は求められていません。
 職場を華やかにしてくれる“花”としてチヤホヤされつつ、早く結婚して子どもを産むように促される。男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年のこと。それよりも10年近く前の小説ですから、これが当たり前だったのでしょう。
 源氏鶏太の小説は順次復刻版がちくま文庫から出ているようですが、『私にはかまわないで』はまだのようですね……。Amazonでは古本が「1円」!
 昭和レトロのイメージをはるかに超える、働く女性の現実がありますよ。

【広角レンズ】昭和の大衆小説が再ブレーク 獅子文六、源氏鶏太… 胸に響く明るさと連帯感(1/3ページ) - 産経ニュース2018.1.29
 平成の終わりが迫る中、獅子文六源氏鶏太といった昭和の中頃にかけて活躍した大衆小説作家の人気が再燃している。長らく入手困難だった作品が相次ぎ文庫で復刊され、増刷する例も珍しくない。軽妙洒脱(しゃだつ)でユーモア精神あふれる物語が多くて、読後感は明るく爽やか。忘れられていた名作が、なぜ今ウケているのか。(海老沢類)
 「今、“昭和”が新しい!面白い!」
 昨年11月に刊行された『家庭の事情』(ちくま文庫)の帯にはそんな宣伝文句が踊る。
 ユーモアと悲哀がにじむサラリーマン小説で知られた源氏鶏太(1912~85年)が昭和36年に発表した家庭小説。定年を迎えた父親が退職金などで手にした大金を5人の娘と等分したことで巻き起こる悲喜劇が、軽妙なタッチでつづられる。何度か映像化もされたが、文庫ではほとんど入手できない状態だった。
 「会話の多い文章はリズムが良くてすいすい読めるし、描かれる男女の恋愛や家族の問題は普遍的。今読んでも古びない面白さがあると思った」と筑摩書房の担当編集者、窪(くぼ)拓哉さんは話す。
 ちくま文庫は一昨年から源氏作品の刊行を始めており、これが3冊目になる。幾多の困難にもめげず健気(けなげ)に生きる女性を描いた日本版シンデレラストーリー『青空娘』(昭和41年)は、主に40代の女性に好評で重版がかかった。
 半世紀も前の大衆小説が注目されるきっかけは、昭和を代表する流行作家、獅子文六(1893~1969年)のブームだ。
 ちくま文庫は平成25年4月に、獅子の知る人ぞ知るユーモア恋愛小説『コーヒーと恋愛』(昭和38年)を復刊。ツイッターなどで評判を呼び、7万9千部のヒットに。以降、ポップな表紙イラストなどを配して獅子作品10点を新たに文庫化しており、累計部数は20万部を超えている。3月にはオリジナル編集の短編集2冊を新たに出す。中公文庫や河出文庫なども追随しており、昨年夏には、初期の代表作『悦ちゃん』をNHKがドラマ化した。
 明治生まれのハイカラなおばあさんが家族の厄介事の解決に奔走する『おばあさん』など、昨年8月に獅子作品2作を文庫化した朝日新聞出版の牧野輝也さんは「いい意味で深刻さがなく、軽妙で明るい。かつては『時代遅れ』とされたモダンなカタカナの使い方や感性も、ひと回りして今の若い読者には新鮮に映っているのでは」とみる。
 一方、光文社時代小説文庫が昨年6月に刊行したのは、映画や演劇界でも活躍した川口松太郎(1899~1985年)の作品集『鶴八鶴次郎』。昭和10年の第1回直木賞受賞作など3編を収める。表題作では女の三味線弾きと男の太夫という名コンビの姿が人情味たっぷりにつづられ、芸道の華やかさと厳しさが伝わる。
 「演劇の世界にいた作家だけあって、小物や音の使い方が非常に巧み。物語の内容には『未来を幸せなものにしたい』という明るい意志を感じる」と光文社の担当編集者、高林功さんは話す。読者の評判は上々で、大正期の東京下町を舞台にした『人情馬鹿物語』の刊行も決まっているという。
 昭和初期から高度成長期に書かれたこれらの小説は展開が起伏に富み、単純な勧善懲悪話も少なくない。ただその分かりやすさも手伝って何度も映像化され、人々に広く親しまれた。
 作家で書評家の印南敦史さんは、一連の人気に閉塞(へいそく)する現代を生きる人々の心の渇きをみる。
 「困ったときにちょうど助ける人が現れる…なんて都合の良い展開も多いけれど、ネット全盛時代では得にくい人間的なふれ合いや連帯感が明るく、おおらかに描かれている。忘れかけていたことを思い出させてくれるようで、読みながら心底ほっとするんだと思います」

源氏鶏太作品は、たまらなく魅力的なのである|ちくま文庫|印南 敦史|webちくま
 昔のことなので、最初になにを読んだのかは覚えていない。けれどもあっという間に魅了されたことは間違いなく、次から次へと読み漁ったのだ。多いときには、一日に数冊読んでいたほどである。別に、自分の読書ペースを自慢したいわけではない。それどころか、僕は(中略)読書ペースが遅い人間だ。しかし、源氏作品ならそれが可能だったのだ。なぜなら堅苦しくもなく、難解でもなく、むしろ驚くほど親しみやすかったのだから。読みやすく、ストーリーは痛快でおもしろすぎるので、興奮状態が止まらなくなったということである。 なぜ、そんなことになったのか。理由はいたってシンプルだ。基本的には〝勧善懲悪〟であり、正しい者が勝ち、悪人は負ける。そんな、大衆小説ならではのわかりやすい図式が源氏作品には貫かれている。つまり誤解を恐れずにいえば、そのプロットは漫画のそれにとても近いのでスラスラ読めるのだ。
 そんなこともあり、描かれる物語にはいくつかの〝お約束〟がある。
 その多くが不幸な境遇や、なにかの壁にぶつかっていたりする。物語の進行とともに、多くの苦難に見舞われることも少なくない。しかし最終的には、周囲の人に助けられながら幸せをつかむのだ。
 都合のいいときに都合のいい相手と街でばったり出会ったり、たまたま紹介してもらった相手と運命的な立ち回りをすることになったり、危機一髪のところで助けられたり、現実的にはありえないエピソードの連続である。漫画に近いと書いた理由は、まさにここに集約される。早い話が、お伽話なのだ。でも、それでいいのだ。
 たしかに、「こんなにうまくいくはずがないよ」と思わせる部分がたくさんある。でも、それが楽しい。「それでもいいじゃないか。だって、読むだけでこんなに幸せな気分になれるのだから」と思わせる説得力があるのだ。そんなお約束感が、たまらなく魅力的なのである。
 いわば源氏世界においては、読者の「こうなってほしい」という思いに沿った形で主人公が救われていくのだ。苦しんでいた主人公は最後に苦難を乗り越え、主人公を苦しめる相手はクライマックスで負けを認めざるを得なくなる。だから読者は、現実世界では解決不可能な人間関係のしがらみなどを、作品を通じて解消できたような気になれる。そこが共感を呼んだからこそ、源氏は昭和を代表する大衆小説家として支持されたのだ。しかも数十年にわたり、サラリーマンとの二足のわらじを履きながら傑作を量産してきたのだから、そのパワーには驚かされるばかりだ。
 『家庭の事情』は、一九六一年に雑誌『オール讀物』に連載されたファミリー小説である。翌年には、吉村公三郎監督、山村聡若尾文子、叶順子らのキャスティングによって映画化もされている。なお二〇〇七年に、『家に五女あり』というタイトルでドラマ化されたこともあるという。
 興味深いのは、ラストで平太郎と五人の娘全員がそれぞれの幸せをつかむという〝タイミングのよさ〟だ。同時に六組のカップルができあがるということは、現実社会ではあり得ないかもしれない。が、それこそが痛快な源氏鶏太的世界なのである。現実がどうあろうとも読んでいてまったく違和感はないし、それどころか爽やかな読後感が残るのだ。
 ところで源氏鶏太については、ずっと気になっていたことがある。サラリーマン小説の旗手として時の人となった彼は一九五一年に『英語屋さん』で直木賞を受賞しているし、多くの作品がドラマ化、映画化されてもいる。映画化された作品だけでも八十本に及び、つまりはどう考えてもモンスター級の作家なのである。にもかかわらず、少なくともここ数年まで、その作品はすべてが絶版だったのだ。
 大作家の作品が、ここまで無視されていたという事実には違和感があるかもしれない。しかし残念ながらそれは、大衆小説の宿命でもある。つまり必ずしも「文学的価値」があるとはいえないだけに、文壇から忘れ去られていくことになったのだ。だがその一方で重要なのは、現実的に源氏作品が多くの〝生活者〟に支持されていたという事実である。端的にいえば「みんな、それぞれの場所でがんばっているんだな」ということを、作品を通じて実感することができるのだ。
 そして、そういう根源的な部分は、現代とも少し似通っている。もちろん経済状況は大きく異なるのだが、「労働者の努力や苦悩」という部分に、なんらかの共通点があるように思えてならないのだ。だとすれば、源氏作品に表現されたさまざまな人間像は、「いまだからこそ」読者に訴えかけるのではないか。そういう意味で、二〇一六年二月の『青空娘』、同年九月の『最高殊勲夫人』(ともにちくま文庫)と、源氏作品が相次いで復刻されたことには大きな可能性を感じる。もちろん、それは本作も同じだ。単なる懐古趣味ではなく、〝いま、源氏作品を読むこと〟にこそ、大きな意味と価値があるのである。

高度経済成長期のサラリーマン小説の旗手、源氏鶏太とは?(6ページ目) | ライフハッカー[日本版]
 源氏鶏太は、高度成長期にサラリーマン小説の旗手として一時代を築き上げた人気作家。長らく住友本社に勤め、経理畑のサラリーマンを続けながら多くの小説を書き続けたという実績の持ち主でもあります。つまり、そういう意味では、いまでいうパラレルワーカーの先駆け的な存在だったとも表現できるでしょう。
 二足の草鞋を履き続ける苦労はかなりのものだったと思われますが、そのかいあって、1951年には『英語屋さん』で直木賞を受賞。他にも多くの作品が映画化・ドラマ化されています。映画化された作品だけでも80本におよぶというのですから、まさにモンスター級の作家だといえます。
 そこまで支持されたのは、その作品のカラーがサラリーマンの心をガッチリとつかんだから。わかりやすいストーリーは漫画のそれに近いのですが、だからこそストレスをため込むサラリーマンの心のはけ口になっていたわけです。
 源氏作品に登場する主人公には、どこか共通した部分があります。
 その多くが不幸な境遇や、困難な状況にぶつかるのですが、周囲の人々に助けられながら苦難を乗り越え、最後には必ず幸せをつかむのです。
 つまりは絵に描いたような「勧善懲悪」。都合がよすぎるタイミングで都合のいい相手とばったり出会ったり、危機一髪のところで助けられたり、偶然の出会いが運命的な結末に結びついたりと、現実の世界ではありえないようなエピソードの連続です。思わず「こんなにうまく行くかよー」とツッコミを入れたくなるくらいなのですが、その“ありえなさ”が魅力なのです。理屈以前に痛快なので、読み終えたころにはとてもいい気分になれるということ。
 ポイントは、「こうなってほしい」という読者の思いに沿ったかたちでストーリーが進行して主人公が救われていくことです。つまり読者は、現実の世界では果たせない苦難を乗り越えて行く主人公たちの姿に、自分自身を投影することができるのです。そしてその結果、現実の世界では解決することの難しい人間関係のしがらみなどを、作品を通じて解消できたような気持ちになれる。そこが共感されたからこそ、彼は昭和を代表する大衆小説家として成功を収めることができたわけです。
 ところが、そうであるにもかかわらず、源氏作品はその大半が絶版になっています(ボーガス注:ただし近年、ちくま文庫などで復刻が進んでいる)。なんとも解せない話ではありますが、その理由は上記の「大衆小説」という言葉のなかに隠されています。
 「わかりやすさ」は大衆小説ならではの魅力なのですが、しかし、それは「文学的価値」とは縁の遠いものでもあります。そのため、多くの読者に支持されたにもかかわらず、文壇ではあまり評価されず、結果的には消えていくことになったのです。なんとも理不尽な話ですし、本人もそのことを気にかけていたようではありますが、それは文壇の性格上、仕方がないことだともいえるかもしれません。
 そんななか、昨年から興味深い動きが出てきました。『青空娘』『最高殊勲夫人』と、ここにきて源氏作品が少しずつ(ボーガス注:ちくま文庫で)復刻され、高評価を得ているのです。
 今回(ボーガス注:ちくま文庫で)復刻された『家庭の事情』は、『青空娘』『最高殊勲夫人』に次いで復刻された作品。主人公のひとりである三沢平太郎は、8年前に妻を亡くしたサラリーマン。定年退職を迎えて退職金を手にした彼が、5人の娘と自分とでそのお金を分配しようと思いつくところから物語はスタートします。

 「サラリーマン小説で、勧善懲悪でわかりやすくて、人気作家」といえば今だとTBSドラマ『半沢直樹』の池井戸潤でしょうか?
【参考終わり】

*1:著書『世間のひと』(2014年、ちくま文庫)など

*2:著書『犬の記憶』(2001年、河出文庫)、『遠野物語』(2007年、光文社文庫)、『昼の学校 夜の学校+』(2011年、平凡社ライブラリー)、『森山大道 路上スナップのススメ』(2016年、光文社新書)など

*3:著書『次に不足するのは銅だ:メタル資源の限界』(2012年、アスキー新書)、『経済学が世界を殺す:「成長の限界」を無視した倫理なき資本主義』(2017年、扶桑社新書)など

*4:なお、社長シリーズも「七人の孫」も主演は森繁久弥です。

*5:1912~1985年。1930年、大阪の住友合資会社(1937年に住友本社に改組)に入社し、経理課長代理まで昇進。戦後の財閥解体時は、住友本社の清算事務を担当。その後は、泉不動産(現・住友不動産)で総務部次長を務め、サラリーマン時代はずっと経理畑を歩んだ。そのため、後に作家専業になった際に「数字に強い」と、日本文芸家協会経理担当を長らく務めることになった。なお、住友の大先輩に歌人として知られる重役の川田順がおり、「副業で小説を書いていることで、社内で文句を言われたら、自分のところにきてくれればいい」と励まされたという。1950年には、サラリーマン小説「随行さん」「目録さん」「木石にあらず」で、上半期・下半期の直木賞候補になる。そして、1951年「英語屋さん」で直木賞を受賞。以降も、ユーモアあふれるサラリーマン物の小説を多数発表し、「サラリーマン小説の第一人者」と呼ばれた。1956年、作家に専念するため、勤続25年目で会社を退職した。GHQ公職追放によって戦前からの会社の重役陣が退社し、重役になる可能性のなかった中間管理職層がサラリーマン重役になったという代表作『三等重役』は、『三等重役』という言葉自体を流行語とするほどの反響を呼んだ。河村黎吉が社長役、森繁久彌が人事課長役で1952年に東宝により喜劇映画『三等重役』『続・三等重役』として映画化もされ、ヒット作となった。この映画は、1952年に河村が死去したために森繁が社長役となって喜劇映画「社長シリーズ」(1956~1970年)としてシリーズ化され、東宝のドル箱映画となった。(源氏鶏太 - Wikipedia参照)

*6:著書『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(2018年、星海社新書)、『書評の仕事』(2020年、ワニブックスPLUS新書)など