三浦小太郎に突っ込む(2019年12月5日分)

中村哲氏の死を誰よりも悼んでいるのはきっとアフガニスタンの人たちだ | 三浦小太郎BLOG Blue Moon

・中村氏*1はそれを批判するのではなく、そのタリバン政権によって保たれている秩序もあるという現実をも直視した上で、その中で、医師として、人間として現地の人を救う道もあると信じ、その道を最後まで歩み続けた。
・私はタリバンをいかなる意味でも認めないから、中村氏の言説に賛同しているわけではない。でも、中村氏の現場での活動は、どんな偏狭なタリバン戦士の心も動かすだけの力を持っていたこともまた疑わない。

 おいおいですね。その理屈なら「金正日金正恩政権によって保たれてる秩序」もあるわけです(まあ、例は中国・習近平政権でもロシア・プーチン政権でもいいですが)。少なくとも泥沼の内戦なんぞよりは「金正日金正恩政権によって保たれてる秩序」の方がましではないか。
 「金正日金正恩政権によって保たれてる秩序」という現実を直視した上で、その中で「現地の人を救う道もある」として*2盧武鉉氏、金大中氏(いずれも故人)は太陽政策を実施し、今、文在寅氏も実施しています。
 あるいは「金正日金正恩政権によって保たれてる秩序」という現実を直視した上で、その中で「拉致被害者を救う道もある」として田中均氏などは「拉致解決の現実的道」として「経済支援とのバーター取引」を目指したわけです。
 そうした「文氏らの太陽政策」「田中氏らのバーター取引論」には「北朝鮮シンパか」「腰抜けだ」「独裁国家を容認するのか」などと悪口雑言しかしない男・三浦が「タリバン統治下で活動する」「そしてタリバン統治下で活動するが故にタリバン批判を自重している」中村氏に向かっては「彼をタリバンシンパ扱いすべきではない」「彼はアフガンの現実の中で、タリバンに問題があるとしてもタリバン批判だけしていても何もどうにもならないとして、タリバンを受け入れた上でアフガン支援するという現実的な道、漸進的改革論に乗り出しただけだ」と擁護。
 「おいおい、お前の脳みそは一体どうなってるんだ?」「その理屈なら文在寅氏や田中均氏だって擁護すべきだろ?」ですね。

 政治的には憲法9条を支持する発言もあった。でも、アフガンの現場で活動した中村氏は、憲法9条と現実が違うことくらい、すべて分かったうえで発言していたはずだ。いま日本人として、アフガンで活動する以上、そこで、いい意味で「利用」できる言説なら何でも使うつもりだったんじゃないだろうか。彼の政治的発言が本気ではなかったというんじゃない。ただ、その政治的言説が彼の偉大なアフガンでの活動とは切り離して私は考えたい。

 やれやれですね。三つの意味で呆れます。
 先ず第一に中村氏の考えを、根拠もなしに勝手に曲解するな、つう話です。
 単に「九条改憲派だが、中村批判をしたくない」三浦が詭弁かましてるだけじゃないですか。
 第二に「中村氏はそうした方がアフガン支援においては有益だと思うから九条支持表明しただけで本心、九条支持か分からない」という三浦の詭弁を「百歩譲って認める」としても理由が何でアレ「中村氏がその方が有益だと思うから九条支持表明した」以上、改憲派・三浦がすべきことは「そのような中村氏に対して九条支持表明しなくても有効なアフガン支援は出来る」と批判することではないのか。
 それができないなら「あんたが何言おうと中村氏は九条支持表明したわけだから、中村氏が九条の価値を認めたことには変わりないよね?。あんた理論的に護憲派に負けてるよね?」と三浦が批判されるだけの話です。
 第三に「世の中にはいろいろと政治的リップサービス、社交辞令とかあるよね。その発言が本心とは限らないよね(ここでの三浦の発言は平たく言うとそういうことです)」つうなら、たとえば北朝鮮関係の発言だって「拉致被害者を帰してもらうためのリップサービス」つう面が大いにあるわけです(まあ例は北朝鮮でなくても「韓国との竹島問題」「ロシアとの北方領土問題」「現在、中国政府に身柄拘束されてる日本人の解放問題」何でもいいのですが)。何せ拉致被害者北朝鮮国内にいる上に、居場所が分からないのだから、下手な発言をして北朝鮮の反発を買っても何のメリットもありません。
 ところがそうした社交辞令などの面を無視して田中均氏などの言動に「北朝鮮に弱腰」だの「北朝鮮シンパ」だの悪口してきたのが三浦です。三浦のデタラメさには呆れて二の句が継げませんね。

 これは雑誌「宗教問題」編集長の小川寛大氏も指摘していることだけど、中村氏が「兵隊作家」と呼ばれた火野葦平の甥だったことに、私は以前から何か引っかかるものを感じていた。中村氏が火野葦平を顕彰する会の会報にもしばしば寄稿していたこと。これは、私が思っていた以上に、火野氏の精神と深く結ばれていたんじゃないだろうか。
 ご存知のように、火野葦平は「麦と兵隊」などの「兵隊小説*3」が(ボーガス注:戦前において)広く読まれ賞賛されたけれど、戦後は戦犯作家として批判された。しかし、火野は文学活動を1960年に自殺するまで辞めず、堂々と己の主張を貫いた*4。火野の兵隊小説は、戦争そのものの讃美ではなく、あくまで、戦争という「現場」を耐えた兵隊たち一人一人のドラマを描こうとしたもの*5だ。戦前・戦中の賞賛も、戦後の非難攻撃も、いずれも何らかの権力やイデオロギーに基づいた現場の精神とはかけ離れたものにすぎない。
 中村哲氏も、もしかしたらこの作家の志を、戦後の世界で引き継いだ一人だったのかもしれない。

 火野葦平云々は三浦の「中村氏に対する勝手な決めつけ」ですがそれはさておき。
 「戦後は戦犯作家として批判された」というのはウソではないですが一面的ですね。
 彼は戦後「戦前の兵隊物」とは別のもう一つの代表作「花と龍*6」を、昭和27年(1952年)4月から翌28年(1953年)5月まで『読売新聞』に連載して好評を博しています。
 そして「花と龍」は何度も映画化、ドラマ化もされています。三浦が「花と龍」に何一つ触れないのは「戦前人気作家だった火野が戦後は掌返しで叩かれて、文壇から事実上追放されてその苦しみから自殺した」とでも読み手に印象操作したいからでしょうが、作家としての成功なら戦後も火野は『花と龍』によって果たしています。なお、彼の残した遺書には『死にます、芥川龍之介とは違うかもしれないが、『或る漠然とした不安*7』のために。すみません。おゆるしください、さようなら』と書かれていたそうです。後で紹介する記事に寄れば晩年の火野は「若手(当時の松本清張など)の台頭」と「自分の筆力の衰え」から鬱傾向だったようですね(ウィキペディア火野葦平」「花と竜」参照)。
 ちなみに、小生が知ってる人間では火野以外では獅子文六(本名・岩田豊雄)が「真珠湾への潜水艇特攻実行者(いわゆる九軍神)」の一人「横山正治少佐」を美化した小説「海軍」を書いたことで火野同様に「戦犯作家」として批判されています。
 ただし、獅子も戦後も火野同様に人気作家として活躍しています。ちなみにお笑い芸人「獅子てんや・瀬戸わんや」の芸名は

獅子てんや・瀬戸わんや
 1952年(昭和27年)コンビ結成。芸名の由来は獅子文六のベストセラー小説『てんやわんや』から。なお苗字の「獅子」は、獅子文六から借用、「瀬戸」は『てんやわんや』の舞台が瀬戸内地方だったことによると思われる。
 なお、後に1967年頃に、てんや・わんやの二人が、獅子文六の家に「無断借用のおわび」に来たことがあったという。

といういきさつだそうです(ウィキペディア獅子文六」「海軍」「獅子てんや・瀬戸わんや」参照)。
 まあ、火野葦平*8芥川賞受賞者)、獅子文六と言っても今では「誰、それ?」という人がほとんどでしょうが。話が脱線しますが「サラリーマン小説」の草分けとして知られ、東宝『社長シリーズ』(森繁久弥主演)の原案者として知られる源氏鶏太*9なんかも今では「誰、それ?」という人がほとんどでしょう。いやそれ以前に『社長シリーズって何?』でしょう。
 はやり廃りというのは恐ろしいもんです。その意味では松竹『寅さん』がいかにスゴイかと言うことですね。
 最近でこそ「寅さんを知らない若者」もいるようですが、「団塊ジュニア世代の小生(現在40代)」は小生と同年代以上の人間で「寅さんを知らない」つう人には先ず会ったことがない。「社長シリーズを知らない」つう人間ならいくらでもあったことがありますが。 

【参考:獅子文六

獅子文六(1893~1969年)(ウィキペディア参照)
・本名・岩田豊雄
・1937年、岸田國士久保田万太郎と共に劇団「文学座」を創立。「文学座」の命名は獅子による。
・1942年、真珠湾攻撃の「九軍神」の一人・横山正治(小説内では谷真人)を描いた『海軍』で 朝日文化賞を受賞する。この作品がきっかけとなり、戦後に「戦争協力作家」として「公職追放」の仮指定がされたものの、1ヶ月半後に解除された。1945年12月から1947年までは、愛媛県宇和島市疎開。この地での体験や見聞が、戦後最初の新聞連載小説となった『てんやわんや』、『大番』などの作品に取り入れられた。
・『娘と私』は、1961年にNHKで『連続テレビ小説・娘と私』としてテレビドラマ化された。この『娘と私』が連続テレビ小説の第1回の作品である(なお、この『娘と私』では主人公は娘ではなく、獅子がモデルの小説家であり、連続テレビ小説としては、数少ない男性主演作品である。また当時はビデオ技術が不十分であったため、『娘と私』はほとんどの放送資料が消失している)。

悦ちゃんウィキペディア参照)
 獅子文六初の新聞連載小説として、1936年(昭和11年)7月19日から1937年(昭和12年)1月15日まで『報知新聞』に連載され、1937年(昭和12年)3月に大日本雄辯會講談社より刊行された。フランス人の妻を亡くした“碌さん”こと碌太郎の再婚話をめぐり、賢くて元気いっぱいの一人娘・“悦ちゃん”こと悦子が活躍する姿を描いた小説である。獅子文六は戦後、小説『娘と私』(現在は、2014年、ちくま文庫)の中で、主人公の“悦ちゃん”の描写は、実娘の幼少期がモデルであることや、『悦ちゃん』の成功で生計の道が開き、家族を養うことができるようになったことを明かしている。
 1937年(昭和12年)に日活により映画化。また1958年(昭和33年)に日本テレビ系「獅子文六アワー」でテレビドラマ化されて以降たびたびテレビドラマ化された。
 獅子は1969年の没後、その作品のほとんどが絶版となり、長い間忘れられた作家であったが、2000年代以降の再評価に伴い2015年12月9日にちくま文庫より『悦ちゃん』が復刊され、2017年7月から9月までNHK総合「土曜時代ドラマ」にてテレビドラマ化された。
 なお、獅子の復刊作品としては『悦ちゃん』のほかに『但馬太郎治伝』(2000年、講談社文芸文庫)、『海軍』(2001年、中公文庫)、『コーヒーと恋愛』(2013年、ちくま文庫)、『てんやわんや』、『娘と私』 (2014年、ちくま文庫)、『海軍随筆』(2014年、中公文庫)、『七時間半』(2015年、ちくま文庫)、『自由学校』(2016年、ちくま文庫)、『食味歳時記』、『私の食べ歩き』(2016年、中公文庫)、『おばあさん』、『信子』(2017年、朝日文庫)、『ちんちん電車』(2017年、河出文庫)、『胡椒息子』、『青春怪談』、『箱根山』(2017年、ちくま文庫)、『南の風』(2018年、朝日文庫)、『断髪女中』(2018年、ちくま文庫)、『沙羅乙女』、『やっさもっさ』(2019年、ちくま文庫)がある。
NHK版(2017年)
 『悦ちゃん〜昭和駄目パパ恋物語〜』と題して、NHK総合テレビの「土曜時代ドラマ」枠で2017年7月15日から9月16日まで放送された。全8回。主演はユースケ・サンタマリア悦ちゃん役には200人を超える応募者の中からオーディションで平尾菜々花*10が選ばれた。
 プロデューサーの家冨未央が、2015年にちくま文庫より復刊された獅子文六の原作を書店の店頭で偶然目にしてそのカラフルな装丁に惹かれて手に取り、「ダメなところも含めて愛らしい中年男の恋物語が明るくポップに描かれていて、パパやママ*11など80年前に書かれたとは思えないモダンな言葉の嵐。新鮮でした」と、若年層もターゲットにとリニューアルされた「土曜時代ドラマ」枠の第2弾としてドラマ化を企画。過去の映像化作品とは一線を画し、昭和10年の東京・銀座を舞台としたラブコメディを21世紀版として大胆にアレンジし「昭和モダニズムあふれるお洒落なドラマ」として制作された。

【参考:火野葦平

東京新聞:中村哲さん 平和への志砕かれ 「あまりに突然…」妻悲痛:社会(TOKYO Web)
 中村さんのいとこの玉井史太郎(ふみたろう)さん(82)=北九州市若松区=は「彼の仕事は『人間らしい仕事』だった。彼を貫いていたのは困っている人に手を差し伸べるという素朴な正義感」としのんだ。中村さんは同区で幼い頃を過ごし、今年八月に区内で開かれた講演会でも平和の大切さを訴えた。
 玉井さんの父で芥川賞作家の火野葦平(あしへい)は、中村さんの伯父に当たり、日中戦争時は中国戦線で従軍しながら「麦と兵隊」などを執筆した。玉井さんは「テツは『葦平と一緒で、危険なとこで活動しているのが同じ』と笑っていた。自分のいとこの活躍は誇り。テツがアフガンでやってきたことは、これからも生きていくと思う」と力を込めた。

【追悼】中村哲医師「ペシャワールに赴任したきっかけは、原始のモンシロチョウを見たから」 | 文春オンライン
 私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました。
 ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。彼は私の伯父にあたる人でしてね。彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。

火野葦平資料館も中村哲さん追悼 「川筋気質、世界で体現」|【西日本新聞ニュース】
 銃撃で急逝した中村哲さんをしのび、北九州市若松区の「火野葦平資料館」は5日、館内の一角に追悼コーナーを設けた。今年8月に講演会のために訪れた若松区で撮影した写真などを展示し、生前中村さんが出演したテレビ番組も上映。月内は続けるという。
 資料館の坂口博館長(66)は芥川賞作家の火野葦平の研究で、葦平のおいである中村さんと知り合い、約10年の親交がある。坂口館長は「ささやかな哀悼の意をささげたい」と急きょ追悼コーナーを設けた。
 坂口館長は「中村さんは貧しき人や困っている人のために手を差し伸べる『川筋*12気質』を世界で体現する人だった。『義侠心(ぎきょうしん)』のようなものがあった」と悔やんだ。

中村哲さんの死:北海道新聞 どうしん電子版
 福岡県を流れる遠賀川流域には、「川筋気質」があるという。筋の通らないことが嫌いで弱きを助ける。戦前、北九州で港湾労働者を束ねた玉井金五郎を祖父、その義理人情に厚い川筋気質を「花と竜」に描いた作家の火野葦平を伯父に持つ▼戦火と干ばつで荒廃したアフガニスタンで30年以上にわたり、人道支援を続けた医師の中村哲さんは穏やかな人だが、そんな故郷の気風を誇っていたようだ。作家の澤地久枝さん*13との対談「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る*14」で語っている

夕歩道:夕歩道(夕刊コラム):中日新聞(CHUNICHI Web)
 火野葦平の『花と龍』は明治の末、北九州若松港に流れてきた港湾労働者の玉井金五郎が度胸と義侠(ぎきょう)心で荒くれ男を束ね、波止場の暴力と闘う実録小説。葦平は金五郎の長男で、実名で登場する。
 何度も映画化され、石原裕次郎が、中村錦之助が、高倉健が、渡哲也が金五郎を演じてきた。困っている人がいたら助ける。人情にあつく、一途。日本人の琴線に触れる「おとこ気」の人である。
 危険に臆することなくアフガン支援を続けた中村哲さんは葦平のおい、つまり金五郎の孫。岩波書店の『花と龍』の作品案内によれば「孫のなかでもっとも金五郎に似ているといわれている」と。

 ということで、三浦以外にもいくつかのメディアが「火野と中村氏の関係」について触れています。

火野葦平の自殺 - 西田英樹の歴史探偵
 一九七一年、地元の小倉で発行されていた文化誌(九州人)(注:原田磯夫氏主催・現在廃刊)の八月号に小堺昭三氏*15の作品「矢野朗素描」が掲載された。
 氏は東京<鈍魚庵>で葦平最後の秘書を務めた人物で、作家でもある。文学の鬼だった矢野朗のことをかきたいと思っているうちに、一年一年があまりにもはやく経ってゆく・・・・、で始まるこの文章は矢野評伝のデッサンといえるもので、完結したものでない。
 四百字詰めの原稿用紙で三十二枚程度。
 この作品が発表された当時、どのような反響があったのか、僕は知らない。「文芸春秋」四月号に(ボーガス注:火野の遺書である)(ヘルスメモ)が発表され、葦平の死が自殺と判り、ファンが騒然となる一年前にこの作品は発表されている。
 最近、或る偶然から二十四年前の小堺昭三氏の作品「矢野朗素描」を手にいれ、読みすすむにつれ(中略)この作品が矢野を語りながら婉曲的には火野批判になっている点に驚きをおぼえた。
芥川賞受賞後の火野は戦場にあっても「麦と兵隊」を書く機会を得、それこそ日の出の勢いで人気作家になっていった。火野の作品はつねに雑誌の巻頭を飾った。のちに『九州文学』といえば火野葦平火野葦平といえば『九州文学』という時代が戦後になってもなお続いたのである。』
 昭和二十四年、東京の池上に火野は長谷健(*昭和十四年に「あさくさの子供」で芥川賞受賞)とともに仕事場を共同で買って住んでいた。
 そこへ矢野朗(九州文学同人)も背水の陣をしく覚悟で上京して、かれらの一室に居候していた。
が、上京はしたものの、矢野には発表すべき雑誌はなく「小説公園」という二流の中間小説誌に一、二編、『展望』に短いエッセイを書いただけで生活に困窮して、とうとう都落ちした。長谷の場合も『新潮』に「時計ばかりがコチコチと」という売れぬ芥川賞作家の自嘲をこめた作品を発表したに過ぎなかった。
 一方、葦平は文筆家追放指定が解除(注・昭和二十五年)になりますますエネルギッシュに書きまくっていた。
 或る日、長谷の文章を読んだ火野は、彼にむかって「もっと作家らしいプライドを持て」と忠告した。
 この時ばかりは長谷も本心をむき出しにして、「俺のような不遇の作家の気持ちがわかってたまるか、あまり人を見くだしたような言い方はするもんじゃないよ」と反発。
 「旦那(火野)とちがって、ぼくなんかのところに『新潮』が書けと言ってくれるのは十年にいっぺんあるかないかだからね。書けといわれればよろこんで、何でも書くさ』と答えている。
 長谷の切歯扼腕する姿がうきぼりにされている。
 そして、
『火野が頂点だった「九州文学」での立場も、そうした仲間たちの上に意識的に火野自身が君臨していたはずである。火野が得意がっていたことを証明するエピソードも、ぼくはたくさんもっているそれだけに矢野や長谷の火野にたいする屈折した心がはたらいていたように思われる』
 ここで火野と九州文学同人及び仲間との関係が、実は最初から火野の優越に支えられた友情関係にあったことを小堺昭三氏は指摘しているのである。
『火野は岩下俊作氏の「無法松の一生」がくりかえし映画*16になったり芝居になったりするのを批判していた。
「岩下にはその一作しかないみたいで、作家としては気の毒だ」
 そうもらしていた。自分には香り高き文学作品がたくさんあるのだと自負していたのである。
 だが、火野の死後はどうか。(ボーガス注:戦前の『兵隊物』などは忘れ去られ)彼自身が東映映画なみにあつかわれるのをいやがっていた、「花と龍」だけが、なんども映画になりテレビ化され、火野葦平の名はいまや「花と龍」だけで保っている現状なのである。』
  流行作家を友人にもった九州文学同人たちの息苦しさがこちらに伝わってくるようだ。葦平が意識的にかれらにそのように接したわけではあるまいが、戦前、戦後を通じて文壇の第一線で活躍する葦平の姿は同人たちには眩しく、仲間たちを激励する彼の励まし言葉もまっすぐ友人たちの心には届かなかったのである。
 彼の孤独感は戦後、文筆の多忙につれますます深まっていく。
●いつも一人、家庭でも、九州でも、文壇でも
●郵便局に行って町を歩きながら、たずねたい友人も、話したい友人もいない。若松が無性にさびしい
●一番大切なものが周囲には欠けている。友情への疑惑を、もう一度考えなおしてみよう。あまりきびしく友人たちを裁かないほうがよい。
(火野『鈍魚庵独白』より)
 ところで、(ボーガス注:小堺氏の作品が)葦平の死を早めた原因らしきものに触れている、と前に僕は書いたが、それは次の文章である。
『矢野は葦平と長谷(健)とのいきさつを小堺から聞くと『火野君もいずれ、(ボーガス注:売れない作家である)長谷の気持ちがわかるようになるじゃろ」と呟いていた。この短かなことばのなかに矢野の、火野に対する及ばざるもののせめての攻撃心がかくされていると、ぼくは直感した。矢野のそのことばはのちに現実のものとなった』
 長谷の気持ちとは、不遇の作家の心情についてである。矢野は自分たちと同じ運命を葦平もやがては味わうだろう、と予言したのである。少々長いが小堺氏の文章を引用する。
『火野は、その座(注・流行作家の地位)からすべり落ちるのではないかという焦燥感にかりたてられた。それは長谷健も交通事故で死亡した(注・昭和三十二年)のち、松本清張氏が頭角をあらわしてきたからである。
 松本氏は「ある“小倉日記”伝」で芥川賞をとった。
 が、火野はまだまだ彼が自分を凌駕する存在ではないとおもっていた。ところが、社会派推理小説のジャンルを開拓(注・昭和三十三年、<点と線>、<眼の壁>がベストセラーとなり、推理小説ブームの原動力となった)した松本清張氏は第一人者となった。
 作品の質はともかく、火野がジャーナリズムでの人気という点で松本氏に追い抜かれたと感じたのは皮肉にも、舞台が長谷とおなじ『新潮』だった。
 火野は『新潮』から百枚までの作品を依頼されていた。その号の柱となる小説で、火野は「一匹の敵」というのを書いた。戦争中の北九州を爆撃にきたB29が撃墜されておりた米兵のひとりが逃げ回り、警防団員やら憲兵に追われて虫のごとくたたき殺される話であった。
 が、『新潮』は発売になったが、その号には「一匹の敵」は掲載されていなくて、柱になっている小説は松本氏の「黒地の絵」であった。偶然にもこれも舞台が同じ北九州。小倉基地から脱走した黒人兵事件を朝鮮動乱を背景に描いたものだった。
 冒頭の祭りの太鼓が鳴る音からして不気味で新鮮な手法であり、おもしろさの点でも「一匹の敵」に勝っていた。火野は目次をひろげ、そこに自分の作品にかわる松本氏の作品があるのを見て、テーブルにたたきつけるようにして雑誌をおいた。結局、「一匹の敵」は二ケ月間、お倉になってのち掲載された。自分の原稿がお倉(注:完全にお倉になったのではない)を経験するのは、「麦と兵隊」以来なかったことであった。
 僕の手もとに葦平著『河童七変化』(宝文舘、昭和三十二年出版)がある。
 昭和三十二年といえば清張が流行作家として活躍していた年であり、葦平が自死する三年前、「才能がないので思うものが書けない」と私信にもらしていた時期にあたる。
 この著書の目次を見ると、(旅と人)という項目の中に、井伏鱒二、向井潤吉*17坂本繁二郎*18、中山省三郎*19という葦平が終生、敬愛してやまなかった作家と画家の中に、松本清張君というのがある。
 いかに葦平が清張を意識していたか、また「後世畏るべし」という感情を抱いていたかがわかる。
 それにしても当時(昭和三十二年以降)の清張の作品数はまだ流行作家だった葦平を追い抜いて日の出の勢いであった。
 まさに矢野朗が予言した言葉通りになってゆくのである。
 昭和三十二年の清張の代表作の一部をあげてみると、「佐渡流人行」((ボーガス注:文藝春秋オール讀物)、「日本芸潭」(芸術新潮)、「点と線」((ボーガス注:日本交通公社発行の旅行雑誌)旅)、「八十通の遺書」(文芸春秋)、「鬼蓄」(別冊文芸春秋)、「眼の壁」(週刊読売)、「カルネアデスの舟板」((ボーガス注:文藝春秋)文学界)、「発作」(新潮)、「無宿人別帳」(オール讀物)、「いびき地獄」(文学界)。
 そのほかに数十編の作品が続くが、それが純文学雑誌のみならず「(ボーガス注:講談社)キング」「(ボーガス注:六興出版社)小説公園」という二流雑誌にも発表され、まさに清張文学の金字塔を築いた観がある。
 流行作家の火野葦平が「新時代の到来」に激しい動揺を覚えたのは歪めない事実であった。それが葦平の自殺の直接の引き金になったと短絡的には捉えられないが、しかし、葦平の自殺の大きな原因を占めていたことは想像にかたくない。
 松本清張氏の著作には火野葦平との(中略)晩年との交流を記した文章が数箇所みえるので参考のため記載しておく。
『清張全集34巻より』
 最後に火野さんに会ったのは、文士劇に出演する氏と東宝劇場のエレベーターの中だったが、身体だけは大事にしなさいと言われた楽屋では、だれも身辺を世話する人もなく、心なしか寂しそうだった。それから二、三か月後に若松の自宅で亡くなられたが、それが自殺だったというのを数年前に発表されておどろいた。火野氏のさみしがりと気の弱さ(豪放な見かけとは反対に)から断わりきれなかったのであろうが友人は無くては困るけれどあまり多すぎてもいけないようである。 『半生の記の記より』

 松本清張の名前が意外なところで出てきたもんです。確かに「依頼されたはずの原稿が掲載されておらず、その代わりに、それまでは自分より格下と思っていた若手作家(当時)・清張の小説が掲載。テーマも『米兵を巡る騒動』と共通点がある。しかも確かに自分より面白いかもしれない」「偶然の一致に過ぎないが火野も清張も北九州出身」というのでは「見た目とは違い実は内向的な性格だった」という火野の屈辱感は相当のものだったかもしれません。
 そして火野が恐れたように、皮肉にも彼は死後、戦前大ベストセラーとなった「麦と兵隊」、映画化された「花と竜」以外の小説はほとんど忘れ去られました。一方、彼がその才能を恐れた松本清張は死後も、『砂の器』『点と線』などによって、知名度は非常に高いわけです。

「或る漠然とした不安のために」ーー火野葦平に自殺を選ばせた原因|格安の葬儀なら「心に残る家族葬」
◆最初、火野葦平が自殺でなくなったことは伏せられた
 昭和35(1960)年1月24日、睡眠薬自殺を図った男がいた。
 『糞尿譚(ふんにょうたん)』(1937年)で芥川賞を受賞し、約4年間の中国大陸における自らの戦争体験に基づいた『麦と兵隊』(1938年)、『土と兵隊』(1938年)、『花と兵隊』(1939年)の兵隊三部作、そして自身の父である、北九州・若松(わかまつ)港の石炭仲仕(なかし)の親分・玉井金五郎(1880〜1950)と、その妻マン(1884〜1962)の生き様を描いた長編小説『花と龍』(1953年)を著し、なおかつ、男気溢れる豪放磊落な「親分肌」の人物として、多くの人に慕われた火野葦平(ひのあしへい、1906(戸籍上は1907)〜1960)だ。53歳だった。当時の日本人の平均寿命は、男が65.32歳*20、女が70.19歳。それを思うと火野の死は、まだまだ「男」として、ひと花もふた花も咲かせ得る年齢でもあった。
 しかもその事実は、当時病身の身であった火野の母・マンと妻・良子への配慮のため、残された火野の息子たちと若松の秘書・小田雅彦(1918〜1990)、そして火野の盟友であり、九州文学界の重鎮でもあった劉寒吉(りゅうかんきち、1906〜1986)との相談の結果、伏せられ、「心筋梗塞」で急死したとされていた。
 しかし、隠してきた事実が暴露されつつあったこと、更にちょうど火野の死の十三回忌に当たる昭和47(1972)年1月24日に良子が亡くなったことによって、火野の自殺が世間に明かされたのだ。
火野葦平が自殺をした理由
 (ボーガス注:自殺理由を詳細に書いた遺書があるわけでもないので)自殺の原因は結局、火野本人にしかわからないし、或いは、火野自身にもわからないことかもしれない。だが、その「決行」の日の前夜、火野の家を訪れ、当時は福岡県立若松高等学校の教諭であり、火野の次男・英気の担任をしていたことがあった文学研究者の山田輝彦(1921〜2009)は、火野の自殺について、以下、4つの要因を挙げている。
 まずは、高血圧症などの肉体の衰え、そしていつ発作に倒れるかもしれないという不安感。次に、「扶養家族50人」「100人」と火野が冗談めかして語っていたように、「親分肌」の火野のまわりには、多くの人が集まっていた。そんな彼らに火野が金を無制限に貸し与えていたりしたことなどによる経済問題*21。3つ目は、才能の枯渇や文学的な行きづまりへの不安。それは経済的逼迫ゆえに、商業ベースでの創作活動を余儀なくされたため、作品が「粗製乱造」状態に陥っていた。しかも火野と入れ替わる格好で、火野同様の北九州出身で、社会派推理小説作家の松本清張(1910〜1992)がちょうど台頭し始めてきた時期でもあった。そして最後が、「兵隊三部作」を物した自身に対する「戦争責任」への「負い目」が、戦後以来ずっと、火野の心に鬱屈し続けていたことだ。
◆その他にも色々と推測された自殺の理由
 また、火野の東京の秘書だった小堺昭三(1928〜1995)は火野に死を選ばせた状況について、山田の説に加え、『赤道祭』(1951年)や『琉球舞姫』(1954年)のモデルになった女性との、火野にとってはあくまでも「真剣」だった不倫関係。そして火野自身の「お山の大将」意識を指摘している。これは経済問題とも関わることだが、「戦犯作家」というコンプレックスが、火野に福岡・若松と東京・阿佐ヶ谷をひと月おきに飛行機で往復する二重生活を送らせることになっていたことだ。東京では、進歩的インテリたちが「『麦と兵隊』の(ボーガス注:戦犯作家の)あの火野か」という眼でしか見ない。無視しようとする。それがどうにもシャクでたまらず、ジャーナリストの大宅壮一(1900〜1970)が言う「無形の財産」である大親分でいられ、周囲からの羨望を浴びることができる、本拠地の若松に戻って休養する。だが火野は、「若松の人の大部分は私を理解しない」と嘆き、「もういい加減に上京しとう(したく)なった。田舎は息苦しいよ」と自嘲的に笑っていたりもしていた。つまり火野には、自身が抱えたあらゆる苦しみや悩みから解放してくれる「場所」がどこにもなかったのだ。
◆人からの印象と自身の本性にギャップがあった火野葦平
 生前の火野をよく知るものの、肉親よりは「離れた」立場であった山田や小堺の「見立て」に、大きな狂いはないだろう。
 陽気な大酒飲みで、オールバックヘアに80kgを超す「お相撲さん」のような巨漢。しかも三白眼で、あまり表情を変えない。それゆえ堂々とした、一見「壮士」風に見える火野ではあったが、酒が入っていないときは声も小さく細く、自分が話している相手の顔色を見落とすまいとして、戦々恐々としている様子だったという。
 実は火野は内向的な性格で、なおかつ、実に繊細な神経の持ち主だった。心優しく、気が弱く、他人からの申し出を断ることができず、そのために自分が無理をしてしまうところがあった。
 そして好んだ作家は、勇猛果敢で男らしい主人公が登場する冒険活劇などではなく、芥川龍之介(1892〜1927)、佐藤春夫(1892〜1964)、武者小路実篤(1885〜1976)。詩人であれば、北原白秋(1885〜1942)、日夏耿之助(ひなつこうのすけ、1890〜1971)、萩原朔太郎(1886〜1942)など、実に「文学青年」らしい好みだった。特に芥川龍之介に関しては、自身の遺書に名前が登場するばかりではなく、自殺を決行した芥川による『或旧友へ送る手紙』(1927年)に登場する、「将来に対する唯ぼんやりとした不安」という有名な言葉を引用し、芥川の作品のみならず、「死に方」までも見習っているように思われる。
 余談だが、ジャーナリストの植田康夫(1939〜2018)は、芥川が亡くなったのが昭和2(1927)年7月24日。そして火野は、小雪が舞い、凍てつくような寒さだったという1月23日深夜11時に遺書をしたため、その月命日と一致するように「工夫」したのではないかと考えている。
 自殺直前の火野は、精神的にかなり追い詰められていた。周囲の意向を無視して、あえて家中を黒一色で統一し、民芸調の暗い雰囲気を醸し出していることが大のお気に入りだった阿佐ヶ谷の自宅で夜、原稿を書いていると、「うしろの闇から、なにかが覆いかぶさってくるような気がする」と怖がって、家中の電気をつけさせたり、原稿を書くことを止め、人を招いてはビールを飲んで、気を紛らわせたりしていた。更に書斎の壁に掛かっていた丸木スマ(1875〜1956)の黒猫の絵でさえ、気味が悪いと撤去させていた。また、若松で飼っていたライオンがクル病にかかり、歩くことさえままならないほど弱っていくのを目の当たりにする中、火野はますます憂鬱になっていったという。
 火野の繊細過ぎる、まさに文学者向きの性格に加え、小堺が指摘するように、火野は戦時中に『麦と兵隊』で得た名声を忘れることができず、常に人からの注目を浴びていたかった。作品に対する評価ばかりでなく、人が自分のことをどう思うかを、いちいち気にせずにはいられなかった。そうした「俗念」を断ち切るために、若松〜東京を行き来する「根無し草」の暮らしではなく、思い切って若松を捨て、東京にどっしり根を下ろし、「人気」「賞賛」などの「不確実なもの」から離れたところで文学に専心すべきだった。しかしそれができなかった人間的な弱さが、本名・玉井勝則ならぬ、火野葦平火野葦平たる所以だったのだろう。
 火野が演じたかった、そして必死に演じた「若松の大親分」としての火野葦平が火野の全てであったとしたら、火野は自殺どころか、そもそも作家を志すことすらなかっただろう。父・玉井金五郎のように、剛毅な「大親分」としての一生を全うしていたはずだ。そうなると、多くの人々の心をつかんだ彼の様々な作品は、到底生まれ得なかった。あるひとりの男に偶然か必然か、課せられてしまった運命の皮肉を思いながら、今日ではすっかり「忘れ去られてしまった」火野の作品を今、我々は改めて読み直すべきなのではないだろうか。
参考資料
■「12年目に明かされた作家・火野葦平さん自殺の真相」『週刊平凡』1972年3月9日号(176−177頁) 平凡出版
■田中艸太郎「火野葦平氏の自殺について」『文芸』1972年5月号(192−194頁) 河出書房新社
■小堺昭三「火野葦平は壮烈に‘戦死’した」梶山季之編『月刊噂』第2巻 第5号 1972年5月号(32−38頁) 季龍社
■小堺昭三「火野葦平 その愛と死」『オール讀物』第27号(第5号)1972年5月号(330−353頁)文藝春秋
■玉井英気「十三回忌にあかす父の自殺」『文藝春秋』1972年4月号(293−295頁)文藝春秋
■玉井正雄「文学者と自殺 −火野葦平の死について−」『政界往來』1973年2月号(124−135頁)政界往來社
■常石三郎「火野葦平論 −その病跡素描−」『日本病跡学雑誌』第5号 1973年4月号(15−21頁)日本病跡学会
■山田輝男「火野葦平の自殺 −前夜の訪問者として−」福岡教育大学国語国文学会(編)『福岡教育大学 国語国文学会誌』第19号 1977年(26−31頁)
■田中艸太郎「火野葦平日本近代文学館編『日本近代文学大事典』第3巻 1977年(118−120頁)講談社
■神西淸「火野さんの文学」『現代日本文學大系 75 石川達三火野葦平集』1972/1981年(383−386頁) 筑摩書房
■原田種夫「実説・火野葦平(抄) −『九州文学』とその周辺」『現代日本文學大系 75 石川達三火野葦平集』1972/1981年(387−412頁) 筑摩書房
■山田輝彦・鶴島正男(対談)「火野葦平没後30年 『人と文学』を語る」財団法人北九州都市協会(編)『ひろば北九州』No. 71 第4号 1990年(4−10頁)
火野葦平資料の会編『火野葦平文学散歩案内』1999年 北九州市教育委員会
■永井勝「九州名所探訪 4 『花と龍』火野葦平 北九州市 若松」『財界九州』2001年2月号(73−76頁)財界九州社
植田康夫『自殺作家文壇史』2008年 北辰堂出版

◆花と龍(ウィキペディア参照)
・明治中期から太平洋戦争後の北九州を舞台に、著者の父である玉井金五郎(若松の沖仲士出身。後に玉井組組長)と妻マンの夫婦が、裏切りやすれ違いを経験しながら家族の歴史を積み重ねていく大河小説である。ほとんど実名であり、沖仲仕の生活向上のために小頭聯合組合を結成しようと運動して、ヤクザ吉田磯吉の四天王と呼ばれた岡部亭蔵の一派に狙われ三十数か所の刃傷をうけたのも、どてら婆さんなる女侠客の子分から襲撃され危篤となったのも事実である。
◆映像化
 連載終了直後の1954年に藤田進主演で『花と龍 第一部 洞海湾の乱斗』と『花と龍 第二部 愛憎流転』の2部作として、東映で最初の映画化がされている。その後も、1962年に日活(石原裕次郎主演)で、1965年、1966年、1969年に東映(1965年、1966年は中村錦之助主演、1969年は高倉健主演)で、1973年に松竹(渡哲也主演)で映画化された。また、1959年にフジテレビ(鶴田浩二主演)で、1963年、1970年にNET(現・テレビ朝日)(1963年は辰巳柳太郎主演、1970年は渡哲也主演)で、1964年に日本テレビ(村田英雄主演)で、1992年にTBS(髙嶋政宏主演)でドラマ化されている。

*1:著書『アフガニスタンの診療所から』(2005年、ちくま文庫)、『アフガニスタンで考える:国際貢献憲法九条』(2006年、岩波ブックレット)、『天、共に在り:アフガニスタン三十年の闘い』(2013年、NHK出版)、『アフガン・緑の大地計画』(2017年、石風社)など

*2:まあ現地の人を救うという善意だけで太陽政策は実施されてるわけでもありませんが。

*3:現在は『火野葦平 戦争文学選』第1巻『土と兵隊/麦と兵隊』(2013年)、第2巻『花と兵隊』(2013年)、第3巻『フィリピンと兵隊』(2015年)、第4巻『密林と兵隊』(2013年)、第5巻『海と兵隊/悲しき兵隊』(2014年)(いずれも社会批評社)として復刻されている。

*4:戦後の火野は小生の理解では「戦犯作家」という非難に対して、反省の意を表明したりはしないものの、別に反論などしていませんので「堂々と己の主張を貫いた」なんてことはないですね。

*5:当然ながら「火野の主観がどうか」と「火野の戦争小説が客観的に果たした役割」は別物です。小生も火野の小説を読んだことがないので評価はしませんが三浦の主張は何の火野擁護にもなっていません。

*6:現在は『花と龍(上)(下)』(2006年、岩波現代文庫)で読むことが可能。

*7:芥川の遺書に出てくる言葉ですね。火野は芥川を作家として尊敬していたそうです。

*8:1907~1960年。1937年下半期芥川賞を『糞尿譚』で受賞。

*9:1912~1985年。1951年「英語屋さん」他で直木賞を受賞。GHQ公職追放により戦前から在籍した会社の重役陣が退社させされ、本来重役になる地位にない人物たちがサラリーマン重役になったという連作短編集『三等重役』は、「三等重役」という言葉自体を流行させるほどの反響を呼んだ。河村黎吉が社長役、森繁久彌が人事課長役で1952年に東宝により映画化もされ、ヒット作となった。この映画は、河村が死去したために森繁が社長役となって「森繁・社長シリーズ」としてシリーズ化され、東宝のドル箱映画となった。また、1955年に発表された『七人の孫』も、森繁主演でTBSでテレビドラマ化され、人気を博した(ウィキペディア源氏鶏太」参照)。

*10:2006年生まれ。2014年のNHK土曜ドラマ『ボーダーライン』で藤原紀香の娘役を演じてドラマデビュー。NHK木曜時代劇『ぼんくら2』(2015年)などに出演し、天才子役として注目を集める。2017年にはオーディションで200人を超える応募者の中から選ばれて、NHK土曜時代ドラマ『悦ちゃん〜昭和駄目パパ恋物語〜』にて作品名の「悦ちゃん」こと柳悦子役を演じた。2018年10月には、100人以上参加のオーディションを経て2015年から2016年に撮影された映画『ごっこ』が公開。同作での演技により、おおさかシネマフェスティバル2019にて新人女優賞を受賞した。2019年4月には、同年度前期放送の『なつぞら』で事務所所属以来の目標で念願だったNHK連続テレビ小説に初出演(ウィキペディア「平尾菜々花」参照)

*11:主人公・碌太郎(獅子文六がモデル)の妻がフランス人のため「パパやママ」という言葉が使われるわけです。

*12:ここでいう『川筋』とは『遠賀川沿岸』のこと。たとえば、【麻生財務大臣の父・麻生太賀吉】「川筋気質」を持つ炭鉱王とは違う―地域の発展を優先し好況の波に乗った(福田 和也) | 現代ビジネス | 講談社(1/2)によれば「筑豊を流れる遠賀川の川筋に生きる人たちの気性を表す言葉で、「理屈をこねない」「竹を割ったような潔い性格」「宵越しの金を持つことを恥とする」といった特徴があげられる。」とのこと。

*13:著書『妻たちの二・二六事件』(1975年、中公文庫)、『暗い暦:二二六事件以降と武藤章』 (1982年、文春文庫)、『昭和史のおんな』(1984年、文春文庫)、『もうひとつの満洲』(1986年、文春文庫)、『わたしが生きた「昭和」』(2000年、岩波現代文庫)、『密約:外務省機密漏洩事件』(2006年、岩波現代文庫)、『火はわが胸中にあり:忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件』(2008年、岩波現代文庫)、『希望と勇気、この一つのもの:私のたどった戦後』(2008年、岩波ブックレット)、『家計簿の中の昭和』(2009年、文春文庫)、『14歳〈フォーティーン〉:満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)、『昭和とわたし』(2019年、文春新書)など

*14:2010年、岩波書店

*15:1928~1995年。火野葦平の秘書を務め、のち『週刊文春』のルポライターを経て作家となる。昭和史実録ものである『小説連合赤軍』(1973年、徳間書店)や政界、財界実録物である『鬼才と奇才:本田宗一郎藤沢武夫物語』(1984年、日本実業出版社)、『自民党総裁選』(1986年、角川文庫)、『小説野村証券(上)(下)』(1989年、角川文庫)など、週刊誌記者出身らしい作風で知られた(ウィキペディア『小堺昭三』参照)。

*16:1943年(阪東妻三郎主演)、1965年(勝新太郎主演)に大映で、1958年(三船敏郎主演)に東宝で、1963年(三國連太郎主演)に東映で映画化されている(ウィキペディア無法松の一生』参照)

*17:1901~1995年。洋画家(ウィキペディア『向井潤吉』参照)

*18:1882~1969年。洋画家(ウィキペディア坂本繁二郎』参照)

*19:1904~1947年。詩人、ロシア文学翻訳家(ウィキペディア『中山省三郎』参照)

*20:以前、別記事NHKドラマ『最後の自画像(松本清張原作、向田邦子脚本)』をネタにしたときに触れましたが、だからこそ、この頃の定年年齢は今と違い55歳でした。平均年齢が延びることによって当然ながら定年年齢は延長されていきます(今は一般的には60歳定年かと思います)。

*21:「自分は例外だ」なんて考えないほうがいいのかもしれない(米国スポーツ選手の浪費と困窮について) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)のような話でしょうか?(まあ、さすがに火野の「浪費(?)」のレベルはもっとマシでしょうが)