今日の産経ニュース(2020年10月27日分)

【風を読む】「俺たちの旅」 論説副委員長・別府育郎 - 産経ニュース

 子役時代の芸名は沖正夫。後に似た名の俳優が売れて芸名を変えた。

 沖雅也 - Wikipediaのことでしょうが、沖も「まだまだこれから」と言うときに自殺したことで、一部のファンを除けば、もはや「忘れ去られた存在」でしょうねえ。今は森川氏のほうがずっと有名でしょう。
 このエピソードが「本当なのか、話題作りのための作り話なのか(沖正夫から森川正太への改名の理由は沖雅也と関係無い)」はともかく沖の自殺によって森川氏にとっては「語りづらい話」にはなってしまったわけです。


立民幹部の「消えれば」発言で福山幹事長が社民に陳謝 - 産経ニュース
 正直、安住を国対委員長から更迭すべきでしょうよ。よりによって「野党各党と交渉する立場の人間」が他野党を侮辱する暴言を吐くというのでは「およそ適材適所とは言えない」でしょう。口先で謝って済む話ではない。まあ、俺にとって「立憲民主を支持しない理由」がまた一つ増えたわけです。おそらくこうした認識は安住だけではないだろうし、「他野党が消えてくれたら助かる」などというふざけた認識は「社民限定ではなく、共産やれいわなどに対してもしている」でしょうから。


安倍氏「護る会」会合出席 70年談話「国際社会の地位回復、努力した」 - 産経ニュース
 「病気辞任が嘘だということ」を完全に露呈している安倍です。それにしても青山繁晴が代表を務めるようなウヨ議連に「最高顧問として入会することを検討する」というのだから安倍の非常識振りにはいつもながら呆れます。


【産経抄】10月27日 - 産経ニュース

 「どうして『こうのとりのゆりかご』(赤ちゃんポスト)をつくったのか」。
 熊本市の慈恵病院理事長、蓮田太二(はすだたいじ)さんは何度も同じ質問を受けてきた。きっかけとなったのは、ドイツで視察した「ベビークラッペ」という仕組みである。
 帰国後、熊本県内で新生児の遺棄事件が3件続けて起き、うち2人が死亡した。
「赤ちゃんの命を救う手立てがあるのなら、産婦人科医として、傍観しているわけにはいかない」。
 取材の度にこう答えてきた。
▼もっとも平成19年5月に開設すると、激しい批判にさらされた。
「子捨てを助長する」「父母が誰だかわからない子の将来はどうなるのか」。
 その後も賛否の議論が絶えることはない。蓮田さんの決意は一度も揺らぐことがなかった。その生き方の根っこには、父親の存在があったという。
▼父親の蓮田善明(ぜんめい)といえば、古事記の現代語訳が今も読み継がれている著名な国文学者である。16歳の三島由紀夫の才能を最初に見いだしたことでも知られる。2度出征しマレー半島ジョホールバル終戦を迎えたが、上官を射殺した後自決する。蓮田さんは9歳だった。
▼30歳を超えてから、父親の文学と真剣に向き合い、家族に残した手紙なども読み返すようになった。射殺と自決の真相は謎のままだが、蓮田さんは日本という国を心底大事に思った上の行動だったと信じている。
▼「非常に清らかな、そして絶対動かさない或るもの」。
 父親の著作に度々出てくる言葉通りに信念を貫き、84年の生涯を終えた。

 「射殺と自決の真相は謎のままだが」と書く産経ですが

蓮田善明 - Wikipedia
◆著書
 『現代語訳 古事記』(2013年、岩波現代文庫)
◆エピソード
・蓮田は「興国百首」を連載中の雑誌編集において、水戸天狗党の盟主・武田耕雲斎の和歌「かなしきて寝ぬる鎧の袖の上におもひぞつもる越のしら雪」を載せることに反対した。耕雲斎は尊王攘夷の志士であるため、掲載を拒む理由はないと思われたが、蓮田によれば、耕雲斎は千余りの兵を率いながら「最後の一戦を避けた」として、いかなる理由があろうとも、敵に降伏するなど、武士の為すべきことではないと断じ、耕雲斎の歌の掲載を断乎として拒否した。
・1943年(昭和18年)4月、山本五十六が戦死し、成城高等学校の朝の集会で校長が哀悼の挨拶を述べ黙祷をしている最中、遅れて来た何人かの生徒がゾロゾロと入ってきて、静粛な雰囲気を乱した時には、他の教員や学生部長の誰も叱らないのを見かねた蓮田が、「今日は何だと思っているか」と彼らの頬をピシャっと叩いた。
・1943年(昭和18年)10月25日、第二次召集が決まり、歩兵第123連隊の小隊長として11月に南方戦線へ出征することになった。蓮田は10月26日、陸軍中尉の軍装をし、妻子を連れて宮城前の広場に赴いて皇居を参拝。「皇居を拝してかへるさ」という詩を綴った。
栗山理一は、蓮田が、「あのアメリカの奴め等が」などと何度も激昂を繰り返し、熊本神風連(ボーガス注:蓮田の出身は熊本)の歌を吟じては憤り、熱涙を流していたと回想している。
・1945年(昭和20年)8月15日、日本軍の降伏により終戦詔書玉音放送)が昭和天皇よりなされた。しかし、蓮田の所属する熊本連隊の青年将校らは、連合軍により天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として第7方面軍(シンガポール)司令官・板垣征四郎大将をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた。
 蓮田はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な動きを察知した中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制するため、8月18日に軍旗告別式を決行すると訓示した。鳥越春時大尉の記憶によると、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という(ボーガス注:もちろんこれはあくまでもウヨ軍人連中の一方的な主張であり、さすがにそんなことは中条大佐も言わなかったでしょうが)。
 中条大佐の態度に多くの青年将校らは憤ったが、中でも蓮田の激昂は凄まじかったという。その上、蓮田にとって、中条大佐の日頃の言動には不審な所が多かったため、蓮田は中条大佐を国賊と判断した。
 蓮田は前から、中条大佐へ来る郵便物が「金」という宛名で来ることを不審に思っていた。しかも中条大佐の出身地が対馬であったことから、朝鮮から渡って来て中条家の養子になった人物ではないかと推理していた。
 なお、この中条大佐・朝鮮人説に関しては、松本健一による遺族への直接取材によれば、中条豊馬は中条家の養子だったのは事実であるが、元の姓は「金」ではなく、「陳」であるという。養子になる以前の名は「陳豊馬」で、大分県宇佐郡(現・宇佐市高家村の出身であり、朝鮮の出身ではない(松本健一『蓮田善明 日本伝説』(1990年、河出書房新社))。
 中条隊長の訓示を聞いた8月18日、蓮田は中条を殺害して自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意した。
 相沢三郎中佐が軍務局長・永田鉄山を日本刀で斬殺したように、自身も日本刀を使いたいと蓮田は考えたが、自分には相沢と違い、剣道の腕前がないことを考え、確実な手段の拳銃を使うことにした。
 8月19日、蓮田は鳥越大尉の副官室を訪れた。その後、鳥越の副官室で4名の幹部士官(河村大尉、田中大尉、高木大尉、塚本少尉)も加わり、計6名で昼食会となったが、蓮田はそこでも、高木大尉と日本の将来について議論となった。高木大尉は中条連隊長の肩を持ち、『これからの日本で誰が一番偉いか子供に聞けば、ルーズベルトや蔣介石の名が出る』と言い『天皇と答える者はいなくなるだろう』と投げやりな態度をとった。
 蓮田は、『そんな莫迦なことは断じてない。日本が続くかぎり、日本民族が存続するかぎり、天皇が最高であり、誰が教えなくとも、日本の子供であるかぎり、天皇を至尊と讃える』と激しく反論するが、高木大尉は、『敗けてそんなことを言っても無駄だ』とし、「あんたの単なる理想」だと軽くうけ流した。蓮田は高木大尉に食い下がり、『敗けたからこそ、なお必要ではないか!』と叫び、2人の議論は噛み合わなかった。

「冗談じゃねえ。はたして生きて帰れるか、どうか、わからん我々なんだぜ。連隊長殿(中条豊馬)の話のとおり、くだらん理屈をこいて暇をつぶすより、どうしたら生きて帰れるかちゅう手段を、真剣に考える秋じゃあるまいか?」と、高木大尉はたたみかけた。
「生きて帰ろうと、死んで帰ろうと、我々は日本精神だけは断じて忘れてはならん!」と善明は声を荒らげた。
◆ 小高根二郎『蓮田善明とその死』(1970年、筑摩書房

 午後からは、熊本連隊も所属する第19軍の軍旗を一括して昭南神社で奉焼する予定となっていた。中条大佐は、軍旗を納めた箱を持った塚本少尉を従えながら、連隊本部の玄関を出た。中条大佐が、待機していた車に乗り込もうとすると、副官室の窓外の死角で待ち伏せていた蓮田が踊り出てきた。蓮田は「国賊!」と叫び、拳銃を2発発射し、中条大佐を射殺した。
 蓮田は、こめかみに拳銃を当て引き金を引き絶命した(享年41)。
 その時、左手に固く握りしめていたものは、〈日本のため、やむにやまれず、奸賊を斬り皇国日本の捨石となる〉という文意の遺歌を書いた1枚の葉書だったと内野中尉は証言している。国に遺した妻子のことを思わぬでもないが、これが自分の行く道だから、という意味のことも書いてあったという。

というウィキペディアの記述からは「射殺と自殺の理由」は明白かと思いますが。ただこんな人間を「当時はともかく」現代の視点ではとても評価できませんよね。完全に極右じゃないですか。蓮田のような理由(敗戦後、敵である米国などにこびへつらった)で「殺害されるべき人間」がいるとしたら「その筆頭」は皮肉にも「蓮田が殺害した中条大佐」よりも、蓮田が天皇崇拝ウヨとして美化していた「昭和天皇(戦後、米国の日本統治に協力)」ですし、本当に蓮田が「戦地で徹底抗戦」などしたら「なぜ私の命令に従わないのか」といって憤激したのはこれまた昭和天皇でしょう。蓮田の姿は「蓮田と同類のウヨ以外にとって」は「乃木希典の自決」「三島由紀夫の自決」などと同レベルの愚行でしかありません。
 そのあたり「今日の産経抄」はさすがに「触れることに躊躇した」ということでしょうか。要するに「今日の産経抄」は「ある意味常識があった」ということです。阿比留あたりに『蓮田善明』について書かせれば逆に、彼の中条大佐殺害を『偉大な愛国行為』として礼賛しかねません。
 ただしこれでは「射殺と自決の真相は謎」という産経抄の文章は完全にウソです。ウィキペディア『蓮田善明』を見るだけで分かる嘘を書くとはさすが「デマ記事常習」産経です。蓮田理事長も内心では「上官殺害と自殺は現代の視点では全く評価できない」とは思ってるでしょうねえ。「いくら実の父親とは言え」、まさかこんな行為を正当化するほどの非常識右翼でもないでしょう。ただし、それでも肉親である以上「非難はしづらい」。明仁上皇に「昭和天皇の戦争責任」について正面から聞いたらおそらく「しどろもどろになるであろう話」と同じです。
 まさか

 蓮田さんは日本という国を心底大事に思った上の行動だったと信じている。

という蓮田理事長も「父・蓮田善明に殺害された中条大佐の遺族の前」でそのようにいう度胸はさすがにないでしょう。

【参考:蓮田善明の極右性について】

三島由紀夫初期4作品の直筆原稿 親交あった学者遺族寄贈 - 産経ニュース
 熊本市の「くまもと文学・歴史館」は11日、作家の三島由紀夫(1925~70年)が16歳の時に書いたデビュー作「花ざかりの森」を含む初期4作品の直筆原稿が見つかったと明らかにした。三島と親交のあった同市の国文学者蓮田善明(1904~45年)が所蔵し遺族が同館に寄贈した。

講演:三島由紀夫文学館長「自決には蓮田善明の影響」 - 毎日新聞
 文芸評論家で三島由紀夫文学館(山梨県山中湖村)館長の松本徹さんが2月23日、東京都内で「三島由紀夫の時代」と題して講演した。三島の命日に追悼会「憂国忌」を開く三島由紀夫研究会の主催。松本さんは、終戦直後、南方で自決した国文学者・蓮田善明を取り上げ、この人物が三島の文学や生き方に与えた影響を語った。

【参考:こうのとりのゆりかご赤ちゃんポスト)】

「赤ちゃんポスト10年」(2)一人でも救いたい : 深読み : 読売新聞オンライン
 脅迫めいた抗議もあった。しかし、病院理事長の蓮田太二さん(81)は揺るがなかった。
 「なんと批判されようが、生まれてきた命を守る」
 蓮田さんは2004年、市民団体の誘いでドイツの赤ちゃんポストを視察した。しかし、日本では幼い子どもの遺棄がそれほど多いとは感じておらず、視察後も「日本で必要なのだろうか」との思いが残っていた。
 だが、その後、熊本県内で乳児の遺棄事件が相次ぎ、意識が変わった。2006年1月には、専門学校生が親にも妊娠を明かせずにトイレで出産し、子を死なせたとして逮捕された。妊娠に悩む女性とその子を守るため、開設を決断した。
 蓮田さんは「預けられた全ての子が幸せになっているわけではない」と苦渋の表情を浮かべるが、「ゆりかごがなければ、路上などに遺棄される子が出てしまう。開設を後悔したことはない」と言い切る。

「赤ちゃんポスト10年」(4)先進ドイツ 匿名を懸念 : 深読み : 読売新聞オンライン
 ドイツ北部ハンブルクの住宅街。子どもたちの声が響く幼稚園の門に「ベビークラッペ」という看板が掲げられていた。レンガの外壁に扉が取り付けられ、その奥に小さなベッドがあった。いわゆる「赤ちゃんポスト」だ。
 柏木恭典*1・千葉経済大短期大学部准教授(教育学)によると、ドイツでは2000年以降、各地の病院や教会などが赤ちゃんポストを設け、約100か所に上った。こうのとりのゆりかご赤ちゃんポスト)を運営する慈恵病院(熊本市)の蓮田太二理事長(81)も、ゆりかごの開設前に視察してモデルにした。赤ちゃんポストは、スイスやオーストリア、中国、韓国などにも広がっていった。
 ただ、ドイツでは2009年、政府の諮問機関である倫理審議会が、出自を知る子の権利を守ることなどを理由に、匿名で託せる赤ちゃんポストの廃止を勧告した。
 代わりに進められているのが「内密出産制度」だ。母親は、公的な承認を受けた妊娠相談所にだけ実名を明かし、医療機関では仮名で子を産む。生みの親が引き取れない場合、子は育ての親と養子縁組をし、16歳になると、政府に生みの親の身元を照会することができる。2014年に関連法が施行され、300人以上がこの制度で出産したという。
 柏木准教授は「内密出産を選ぶ人もいるが、宗教上の理由などで未婚での妊娠が認められず、赤ちゃんポストに頼らざるを得ないケースは残るだろう」と語る。

*1:著書『赤ちゃんポストと緊急下の女性:未完の母子救済プロジェクト』(2013年、北大路書房