「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年10/3日分:荒木和博の巻)

拉致被害者の支援と補償について(10月3日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG

 令和2年10月3日土曜日のショートメッセージ(Vol.183)。帰国した拉致被害者の支援と補償についてお話ししました。ご存じない方も多いと思いますが、帰国した5人について、帰国後の生活支援はしていても拉致されていた24年間については全く補償がされていません。もちろん本来補償すべきは北朝鮮ですが、それが無理なら拉致を止められず長年取り返せなかった日本政府も責任があるはずです。

 
 9分程度の動画です。
 「帰国拉致被害者への補償」は「正論かもしれません」が問題は「何故こんなことを急に荒木が言い始めたのか」ですね。
 荒木はこんなことは今まで全然言ってこなかったですからねえ。まあ、荒木に限らず、救う会や家族会もほとんどこんなことは言っていませんが。
 もしかして

法治国家?【調査会NEWS3340】(R02.10.1): 荒木和博BLOG
 幸か不幸か今月24日の国民大集会では私の発言の時間もなくなったので、これを一つの転機として、発想と行動の転換をするべきではないかと思っている次第です。

での「発想と行動の転換」が「これ」なのか。
 救う会や家族会から見すてられ始め、慌てた荒木が「これからは帰国した拉致被害者を俺の手持ちの駒にしよう」ということなのか。
 まあ、そもそも荒木が代表を務める「特定失踪者調査会」「予備役ブルーリボンの会」も「救う会会長だった佐藤勝巳」が会長を更迭され、佐藤の子分だった荒木も「救う会事務局長」を更迭され、慌てた荒木がこしらえた代物にすぎませんからねえ。
 とはいえ蓮池夫妻、地村夫妻、曽我さんも「小泉訪朝(2002年)から18年も経ってから」、いきなりこんなこと言ってすり寄ってきても「今更、お前、何を言ってるんだ?」ですよねえ。
 蓮池氏ら帰国拉致被害者も荒木なんか今更相手にしないでしょう。
 仮に彼らが「拉致されていた24年間」の経済補償とやらを今後要求したとしてもです。
 というか要求しないでしょうねえ。小泉訪朝後18年間要求してませんし。
 それにしても荒木が

 補償すべきは北朝鮮ですが、それが無理なら

と言ってるのが「ある意味」滑稽ですね。
 こう言っては何ですが「末端の暴走で、政権中央は知らなかった」と言い訳したとは言え、「北朝鮮が公式に認めた蓮池夫妻等の拉致」について「北朝鮮に経済補償を求めても無理そうだから、日本政府がやってはどうか」と言う男が「北朝鮮がその存在を拉致と認めても居ない特定失踪者(実際、北朝鮮の拉致では無いでしょうが)」を「北朝鮮に拉致と認めさせる!」と主張するのは明らかにおかしいですよねえ。
 論理的整合性を考えず「特定失踪者を主張して日朝国交正常化を妨害しよう!」「「拉致されていた24年間」の経済補償を主張して帰国した拉致被害者にすりより俺の手駒にしよう」などと思いつきで発言するからこうなる。
 それにしても「もうすぐ三島由紀夫没後50周年(ボーガス注:三島は1970年11月25日に自決)、北朝鮮に馬鹿にされ続ける日本は三島の(改憲の呼びかけという?)諫言を無視し続けてきた」「三島が今生きていたら何を思うだろうか」云々と荒木が動画で言い出すのには「唖然呆然」ですね。まさかとは思いますが荒木は三島の行為「いわゆる三島事件」(人質を取った立てこもりとクーデターの呼びかけ)を「義挙だとでも思っている」のか。
 救う会関係者・荒木の動画を見ていたら突然「今年は三島没後50周年です」と言い出す。ウヨ以外にはついて行けない呆れた話です。
 まあ、荒木も「自衛隊体験入隊した三島」のように「予備自衛官」なんて「自衛隊体験」をした男であり、価値観は近いのかもしれませんが。

【参考:1970年の事件】
1970年 - Wikipedia
1970年の日本 - Wikipediaによれば三島事件(1970年11月)以外には

3月
大阪万博開幕
よど号ハイジャック事件
4月
ビートルズ解散

などがあります。

【参考:三島没後50周年】

三島由紀夫没後50周年企画『MISHIMA2020』 | 梅田芸術劇場
 2020年。
 戦後の日本文学界を代表する作家、三島由紀夫が自決した衝撃的な事件から50年。
 彼の人生、作品、思想は、世代や国境をも超えて、人々に大きな影響を与え、生き続けています。
 そんな三島文学に刺激を受ける4名の演出家が集い、前半日程は『橋づくし』『憂国』、後半日程は『真夏の死』『班女』の上演が決定。
 半世紀を経て、なお人々を魅了し続ける三島作品と、若い世代によって生み出される新しい感覚を融合し、日本の純文学を現代に蘇らせ、創造的かつ視覚化した作品を目指します。
 三島由紀夫没後に生まれた4人の演出家が、三島を通して考える今の日本、多種多様に満ちた三島作品を、2020年という時代を通して舞台化。
 三島没後50年となる2020年は、3月に映画『三島由紀夫vs東大全共闘50年目の真実』が公開され、全国の映画館で半年以上のロングラン上映が続き、コロナ禍の中、20日現在で14万人の観客動員を記録。秋には、東京バレエ団が、三島の生涯や世界観を描いたバレエ作品「M」を10年ぶりに上演するなど、三島作品への注目が高まっている。

【参考:三島事件

三島事件 - Wikipedia
 1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。
◆経緯
 1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪問。
 この訪問は21日に予約済で、警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と連絡していたため、門番が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。
 三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日この者たちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷した者を犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。
 ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀「関孫六」に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。
 三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね」とうなずき、これを三島に返した。この時、11時5分頃であった。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。
 総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。
 総監を取り戻そうとする自衛隊員と三島らの乱闘により自衛隊員8人が負傷したが、中でも最も重傷だったのは、右肘部、左掌背部切創による全治12週間の中村菫正2佐だった。三島の刀を模造刀だと思って左手でもぎ取ろうとしたため掌の腱を切った中村2佐は、左手の握力を失う後遺症が残った。
 11時22分、東部方面総監室から警視庁に110番が入り、11時25分には、警視庁公安部公安第一課が警備局長室を臨時本部にして関係機関に連絡し、120名の機動隊員を市ヶ谷駐屯地に向けて出動させた。
 三島からの要求書には
(一)11時30分までに全市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合せしめること。
(二)左記次第の演説を静聴すること。
 (イ)三島の演説(檄の撒布)
 (ロ)参加学生の名乗り
 (ハ)楯の会の残余会員に対する三島の訓示
(三)楯の会残余会員(本事件とは無関係)を急遽市ヶ谷会館より召集、参列せしむること。
(四)11時30分より13時10分にいたる2時間の間、一切の攻撃妨害を行はざること。一切の攻撃妨害が行はれざる限り、当方よりは一切攻撃せず。
(五)右条件が完全に遵守せられて2時間を経過したときは、総監の身柄は安全に引渡す。その形式は、2名以上の護衛を当方より附し、拘束状態のまま(自決防止のため)、本館正面玄関に於て引渡す。
(六)右条件が守られず、あるいは守られざる惧れあるときは、三島は直ちに総監を殺害して自決する。
などと書かれてあった。
 幕僚幹部らは(三)以外は三島の要求を受け入れることを決め、11時34分頃に三島に、「自衛官を集めることにした」と告げた。なお当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。
 11時40分、市ヶ谷駐屯地内に「業務に支障がない者は本館玄関前に集合して下さい」という放送がなされた。11時46分、警視庁は三島ら全員について逮捕を指令した。この頃、すでにテレビやラジオも事件の第一報を伝えていた。
 三島は集合した自衛官たちに向かい、演説を始めた。〈日本を守る〉ための〈建軍の本義〉に立ち返れという憲法改正のための決起(クーデター)を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった。
 三島は「あえて銃器を使わず刀槍だけで決起した」とされる「神風連の乱」を起こした神風連(敬神党)の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクや拡声器を使用していなかった(なお、三島は『神風連の乱』を題材にした小説『奔馬』を書いている)。マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。そのために皮肉なことに(総監を人質に取った三島への野次が酷かったこともあり)現場の自衛官には三島の演説が良く聞き取れなかったと言われる。
 なお、この演説を録音できたのは文化放送だけだった。マイクを木の枝に括り付けて、飛び交う罵声や報道ヘリコプターの騒音の中、〈それでも武士か〉などと自衛官たちに向けて怒号を発する三島の声を録音することに成功し、スクープとなったという。文化放送報道部監修『スクープ音声が伝えた戦後ニッポン』(2005年、新潮社)の付属CDでこの演説の肉声を聴くことができる。
 12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、益田総監に「総監には、恨みはありません。自衛隊天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけた。
 そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、両手で左脇腹に短刀を突き立て、切腹し、森田が介錯した。
 続いて森田も切腹し、古賀が介錯した。
 12時20分過ぎ、総監室から小川、古賀、小賀の3人が廊下に出て、総監を引き渡し、日本刀も預け、その場で牛込警察署員に現行犯逮捕された。
 多方面で活躍し、ノーベル文学賞候補としても知られていた著名作家のクーデター呼びかけと割腹自決という衝撃のニュースは、国内外のテレビ・ラジオで一斉に速報で流され、街では号外が配られた。
 12時30分から防衛庁で記者会見を開いた中曽根康弘*1防衛庁長官は、事件を「非常に遺憾な事態」とし、三島の行動を「迷惑千万」「民主的秩序を破壊するもの」と批判した。官邸でニュースを知った佐藤栄作*2首相も記者団に「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」とコメントした。佐藤首相はこの日の日記に「(事件を起こした)この連中は楯の会三島由紀夫その他ときいて驚くのみ。気が狂ったとしか考へられぬ。(中略)惜しい人だが、乱暴はなんといっても許されぬ」と困惑している旨を書き残している。
◆事件後
・12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に毎年恒例となる「憂国忌」の母胎である。司会は川内康範藤島泰輔、実行委員は日本学生同盟などの右翼学生で、集まった人々は3000人以上となった。
・12月22日、東部方面総監・益田兼利陸将が事件の責任をとって辞職した。
 この際、益田総監と中曽根防衛庁長官が談判したが、その時の記録テープには、中曽根が「俺には将来がある。総監は位人臣を極めたのだから全責任を取れば一件落着だ」「東部方面総監の俸給を2号俸上げるから」(これは退職金計算の基礎額を増やし、退職金を増やすという意味)と辞任を打診していたくだりがあるとされる。
 三島事件で、総監を取り戻そうと三島らと格闘し、負傷した被害者の1人である寺尾克美3佐は、このテープを聞いて腸が煮えくりかえり、(全日空機雫石事故で増原惠吉*3防衛庁長官(佐藤内閣)が、宮永スパイ事件で久保田円次防衛庁長官(大平内閣)が、なだしお事件瓦力*4防衛庁長官(竹下内閣)が引責辞任したのとは違い防衛庁長官を辞めなかった)中曽根を、「こういう男かと嘆かわしく思った」と語っている。
・作家ヘンリー・ミラーは、「三島は高度の知性に恵まれていた。その三島ともあろう人が、(地道な働きかけならともかく)あのような形で大衆の心を変えようと試みても無駄だということを認識していなかったのだろうか」と語った。

*1:岸内閣科学技術庁長官、佐藤内閣運輸相、防衛庁長官、田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*2:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*3:防衛庁次長から政界入り。池田、佐藤内閣行政管理庁長官、佐藤、田中内閣防衛庁長官など歴任。佐藤内閣防衛庁長官時代に雫石事故で、田中内閣防衛庁長官時代にいわゆる「増原内奏問題」でいずれも長官を引責辞任

*4:竹下内閣防衛庁長官、橋本内閣建設相、小渕、森内閣防衛庁長官など歴任