新刊紹介:「歴史評論」12月号(ボーガス注:池波正太郎『烈女切腹』『力婦伝』の紹介があります)

 詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集「19世紀日本の人物顕彰(仮)」
 「19世紀」とは「1800~1900年(明治33年)」で「11代将軍徳川家斉の時代から第四次伊藤内閣まで」だからかなり幅があります。
◆「表彰」からみた19世紀の日本社会:鳥取を事例として(岸本覚*1
(内容紹介)
 11月10日発売(予定)の12月号を読んだ上で内容紹介はきちんとする予定ですが現時点(10/16)でも『岸本氏のお名前』などでググって色々とヒットしたので現時点での感想を「参考」として書いておきます。

参考

鳥取大学地域学部の教員によるミニ講義『民衆は褒めて統治せよ! ~江戸時代の民衆の心をつかむ技~』岸本覚
◆藩政の求心力は祖先の権威だった
 薩摩藩長州藩は、幕末に大きな力を持ち、幕末・明治維新をリードしていきました。藩政改革の成功と多くの人材に恵まれていた両藩ですが、こうした大藩が指導的な地位を築いたのも、それにふさわしい意識を創り出していたからではないかと考えられます。それを「祖先の力」とみて、彼らのエネルギーの源を探ってみると、薩摩藩源頼朝にゆかりのある人物島津忠久を祖先として崇敬していました。長州藩も、中国地方を制覇した毛利元就やその子孫を崇敬することで、藩を一致団結させようとしていました。このようなそれぞれの家の祖先を顕彰する動きが「王政復古」への流れをつくっていくのです。
◆「褒めること」は君主の仕事
 江戸時代の君主は中国の政治理念を踏襲し、褒めるべき人は褒め、罰する人は罰するという「信賞必罰」を実践していました。特に名君と呼ばれる藩主は、帝王学を幼少の頃から学び実践していたのです。徳川将軍は、全国の善行者を記録するという大事業を行い、諸藩も領内の善行者を表彰し記録してきました。「親孝行をした人」「農業に尽力した人」「地域のために尽くした人」などを褒めることで、民衆から統治を正式なものとして認められていたのです。
 「褒賞」制度は、寛政の改革の時には幕府が大々的に行いましたが、各藩に独自の褒賞方法もあります。例えば、鳥取藩では毎年宗門改の時に善行者を褒め、悪事をする可能性がある者を地域の人々の目の前で罰するという独自の方法をとっていました。
◆褒賞制度から見える、時代の価値観
 褒賞という制度は近代に入ってから整備され、現在私たちは「春の叙勲」「秋の叙勲」として毎年見ています。天皇が国民を褒める「勲章」「褒章」制度がつくられてからも、江戸時代以来の「親孝行な人」なども褒賞されていました。こうした「親孝行」「老齢者」への尊敬が薄れていくようになったのは、戦後からです。このように近世や近代、そして現代と「褒めること」から当時の人々の価値観をうかがい知ることができるのです。

鳥取県美術館企画展「鳥取藩二十二士と明治維新
◆概要
 2013年は、幕末日本に衝撃を与えたペリー来航から160年、鳥取藩を揺るがした「因幡二十二士事件(本圀寺事件)」から150年にあたる。「因幡二十二士事件(本圀寺事件)」とは1863(文久3)年8月17日に、河田佐久馬*2ら22人の鳥取藩士が、藩主側近を京都の本圀寺において斬殺した事件である。事件後に1人が切腹し、1人が行方不明となったことから、彼らは「因幡二十士」とも呼ばれる。その処遇をめぐって藩内の対立は深まり、不安定な要因を抱えたまま鳥取藩は明治維新を迎える。
 この展覧会では、重臣が斬殺されるという鳥取藩政にとって未曾有の大事件はなぜ起こったのか、その背景や与えた影響を幕末鳥取藩の動向から考えるものである。あわせて激動の時代にあって信念を貫き活動した人びとの軌跡を、「鳥取藩二十二士」を中心にしながら第一級資料によって紹介する。
 さらに近代以降、郷土の人びとによって功績を称えられ、「志士」として顕彰されていく過程を通観することで、鳥取にとって明治維新とは、どのような意味をもったのかを改めて問い直す。展覧会を通じて明治維新という時代の息吹と、人びとの熱気を感じとっていただきたい。
◆イベント情報
(1)特別講演会「幕長戦争と鳥取藩」
 日時:平成25年12月8日(日) 午後2時~3時30分
 講師:三宅紹宣氏*3 (広島大学大学院教育学研究科 教授*4
(2)幕末・維新 鳥取藩を読み解く連続講座(全4回)
 ①「鳥取藩諸隊・新国隊をめぐる諸問題」
 日時:平成25年11月24日(日) 午後2時~3時30分
 講師:阿部裕樹氏 (明治大学史資料センター)
 ②「幕末政治と鳥取藩」
 日時:平成25年12月1日(日) 午後2時~3時30分
 講師:笹部昌利氏 (京都産業大学佛教大学非常勤講師)
 ③「鳥取藩池田家の江戸湾警備」
 日時:平成25年12月15日(日) 午後2時~3時30分
 講師:冨川武史氏 (品川区立品川歴史館 学芸員)
 ④「鳥取の寺社からみた幕末・維新」
 日時:平成25年12月22日(日) 午後2時~3時30分
 講師:岸本覚氏 (鳥取大学地域学部 准教授)

 「因幡二十士顕彰て、そいつら、テロリストやん?」つう話ですが、まあ、靖国にも「桜田門外の変の水戸浪士」などテロリストが祀られてるし、伊藤博文(首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監など歴任、元老の一人)など明治の元勲も「英国公使館焼き討ち事件塙忠宝暗殺などテロ行為に参加したりしてる」のでそう言う意味では不思議では無い。
 「元テロリスト・伊藤の暗殺」も「因果応報(伊藤自身が元テロリストだったのだから、伊藤がテロで暗殺されてもある意味自業自得)」つう気がしないでもありません(そう言うと産経などウヨはマジギレでしょうが)。
 まあ、こういう「明治維新でのテロリスト顕彰(桜田門外の変での『井伊直弼暗殺』は、安の伊藤暗殺ほど『当然の行為』扱いはとても出来ない)」に比べたら、「伊藤を暗殺した独立活動家・安重根の顕彰」などは「当然の行為」であり、それを「安重根をテロリスト呼ばわりした菅官房長官(当時、現首相)」はやはり「馬鹿でくず」としか評価しようが無い。
 「安重根をテロリスト呼ばわりする連中」に

靖国かて、桜田門外の変の水戸浪士とか、テロリスト祀ってるヤン。板垣征四郎陸軍大臣関東軍高級参謀時代に満州事変を実行)、東条英機元首相とかA級戦犯つう犯罪者かて祀ってるやん。それでよくもまあ、靖国を美化する日本ウヨは韓国の安重根顕彰を『テロリストの美化』呼ばわりできたもんやな。恥を知れよ

と言ったら何と回答するのやら。「靖国をテロリストや犯罪者の顕彰施設よばわりするな、ふざけるな」「反日は許さない」などと逆ギレすることだけは間違いないでしょうが。いずれにせよ「戦没者でも無い桜田門外の変の水戸浪士や、東条英機A級戦犯」を祀ってることで分かるように靖国は「戦没者追悼にふさわしい場所」では全くありません。


◆19世紀における近世明君像と「仁政」・「富国」論(小関悠一郎*5
(内容紹介)
 11月10日発売(予定)の12月号を読んだ上で内容紹介はきちんとする予定ですが現時点(10/16)でも『小関氏のお名前』などでググって色々とヒットしたので現時点での感想を「参考」として書いておきます。

参考

秋田藩研究ノート No.4 金森正也*6
◆佐竹義和=「明君」論を考える
 佐竹義和(よしまさ)が、近世中期以降の藩政改革を実施した「明君」であることは、現行の高校日本史教科書ではたいていふれられている。だいたい、米沢藩上杉治憲(はるのり)(鷹山)と、熊本藩細川重賢(しげかた)といっしょにまとめられることが多い。しかし、最近、この二人と佐竹義和では、同一の藩中としてくくれないのではないかという指摘がなされている。千葉大学准教授である小関悠一郎氏が発表された『〈明君〉の近世』(吉川弘文館)という著作がそのことにふれている。
 どういうことかというと、簡単に言えば、上杉治憲と細川重賢は、江戸時代から、地元をこえて「明君」と認識されていたが、佐竹義和の「明君」像は、近代に入って創り出されたものだというのである。この著書の中で、小関氏は、天野真志氏(当時、東北大学大学院後期課程在籍)によるご教示だとことわって、次のような事実を紹介されている。明治の元勲伊藤博文は、当初、徳川頼宣(よりのぶ)・池田光政・上杉治憲・細川重賢の4人を「四名君」と唱えていたが、秋田市長・大久保鉄作が「天樹公政績一班」などを伊藤に献呈し、それが「聖帝に献上」されて後は、これに義和を加えて「五名君」と称した、というのである。ここから、小関氏は、義和を「明君」とする評価は、近代に入って定着・浸透したもの、と推論している。なお、この伊藤博文の認識にかんすることは、無明舎出版から刊行された、後藤ふゆ氏の『筐底拾遺:平元謹斎と後藤毅・秋田県士族四代の記録』でふれられているという。恥ずかしいことに、私は小関氏のこの著作にふれるまで、この事実を知らなかった。
 なお、小関氏の著作は、上杉治憲の政策とその背景にある政治認識がどのように形成され、また変化していったのかということを、周辺の家臣団の認識とともに考察し、同時に、江戸時代に「明君」像が形成されていく過程とその意義を、豊富な史料を駆使して論証された好著である。とくに、江戸時代に形成された「明君」像が、「明君録」という形をとって世間一般に流布することで、地域をこえて広く浸透していき、そのイメージは、武士だけではなく民衆にも受容されていったことを論証した部分は、歴史研究の醍醐味を感じさせてくれる。いわゆる研究書なのでけっして読みやすい本ではないが、郷土史に興味をお持ちの方には一読をおすすめしたい(県立図書館にあると思います)。
 さて、それでは、義和=「明君」論は、どう評価されるべきかということが、あらためて問い直される。歴史を学ぶ視点からは、所詮江戸時代の大名などというものは封建領主であり、ある殿様が名君かどうかなどということは、本質的な問題ではないし関心もない、という人もおられるだろう。先の小関氏の著作も、誤解をさけるためにあえて記しておけば、上杉治憲や細川重賢が立派な殿様でしたということを述べようとしたものではなく、「明君」という概念が形成され、受容されていく社会的背景を明らかにし、その影響を考察するところに力点がある。しかし、反面、市民講座などに参加し、地域の歴史を学びたいという人たちのなかには、それでは義和は名君ではないのか、といった、反論に近い疑問をもたれる方も少なくないだろう。これはこれで大切である。そこでこの問題について考えてみたい。
 結論からいえば、義和が、歴代の藩主のなかではすぐれた為政者であったということはできるだろう。「明君」と評したとしても、それはそれで大きく的をはずしてはいないと思う。ただし、ここで肝に銘じておかなければならないのは、彼らは封建領主だということである。名君であれば、何をするか?。困窮した財政を立て直す、政治の仕組みをかえる(藩政改革の実施)、国産品を奨励して国を富ます(殖産興業)、優秀な人材を抜擢する、領民をいたわる政治を実践する、など。しかし、これらは、あくまでも藩体制を維持する、または立て直すことを目的として行われるのだということを忘れてはならない。民をいたわるにしても、それは藩体制を立て直す限りにおいてである。額に汗しない我々武士が、民を苦しめているのだから、我々の存在が否定されるべきだ、とはならない。むしろ、江戸時代後期に「明君」とされる人たちは、動揺する藩体制を立て直そうと努力した人たちなのであるから、本質的には反動的な側面をもつ。しかし、反動的だ、で終わってしまうと、これは一時代も二時代も逆行した研究で終わってしまう。そうならないためには、本質的には反動的であっても、そのなかに、改革を断行している為政者も気づかない、あたらしい時代へのほころびのようなもの、あるいは萌芽のようなものはないかを探る必要がある。自民党をぶっ潰す」といったあの方も、自民党政治を立て直すための改革を推進したはずであるが、その後政治は混迷し、自民党は野に下った。まさかそこまで見通して党の総裁選に出たわけではなかったろう。
 閑話休題。義和の政策で、真に改革的なものとして評価されるのは、人材の登用と、農政の刷新であると私は思う。殖産策にはそれほどみるべきものがない。人材の登用には、藩校および郷校の設置が不可分に結びついている。学問奨励や歴史書の編さんなどの文化政策は、為政者がまずとびつきやすい分野である。それ自体否定されるべき要素が直接的には見えないからである(現在であればスポーツ振興がそれにあたる)。しかし、江戸時代は、ことはそう単純ではない。なぜならば、はじめて国入りする藩主にとって、自分の領国は《異国》であり、自分は《異邦人》なのである。藩主は、初めての国入りまで江戸で成長する。身についた文化は中央の文化であり、国元についての知識は伝聞の域を出ない。それが、10代の若さで一国を預けられるのである。国元に人がいないわけではない。有能で包容力のある家老でもいればよい。一門や譜代重臣からみれば、新藩主は、無能であっては困るが、必要以上に有能でこれまでの政治の仕組みを一新するような人物でも困るのである。彼らは、まず既得権益を守るにかかる。そのような存在は、新藩主からみれば、姑・小姑のような存在に等しい。自分の手足になって動いてくれる、忠実で、しかも有能な家臣の存在、それがもっとも必要となる。今いる有力者が既得権益を守るのに傾くのであれば、忠実な家臣団をつくりあげるしかない。それを目的としたものが、藩校の設置であり、人材の登用であると私は考える。
 実際、義和が藩校を設置し、士官にさいして素読吟味(中国の古典などを音読する試験)を義務付けると、引渡(ひきわたし)や回座(まわりざ)とよばれる上級家臣からは、藩校への参会自体を拒否する者があいついだ。一門の一人である北家当主などは、学問奨励の通達に対して、「自分は非才であり、これまで藩の経済難に対処することばかりに専念してきたので、これからは隠居し、先祖の霊を弔って余生をおくりたい」などと、嫌味たっぷりな返答をしている。一方、諸士とよばれる下級家臣団の参加は、藩校の隆盛を出現させた。彼らの優秀なものは、下級ではあるが重要な役割をはたす役職にあいついで赴任していった。これは義和の思惑にそった展開であったともいえる。
 義和がいかに藩校に集う諸士たちを大切にしたかを物語るエピソードがある。ある日、義和は、藩校の職員を登城させて、霊泉台という眺望のよい場所から市中を眺めて詩作させ発表させるという趣向の会を設けた。その後簡単な酒肴や菓子で彼らをもてなしたのち、藩が所蔵する書画の名品を鑑賞させ、それらを自ら臨書して、藩校の職員たちに好みのものを選ばせて各自に与えたのである。これは、後に藩校の祭酒(最高責任者)となる、野上国佐(のがみ・くにすけ)の「御学館勤番日記」という役職上の日記に出てくるエピソードである。義和は、藩校を造っただけでなく、その職員に親密な態度を示すことによって、周囲に対して、藩校の重要性を認識させつつ、職員の自覚を促すことを忘れなかったのである。
 私は、『御亀鑑』の秋府編に出てくる人事異動の記事をすべて抜きだし、誰が何年にどのような役職に転進しているかを整理してみたことがある(『秋田県公文書館研究紀要』8号)。その結果、多くは100石前後からそれ以下の下級藩士が、民政上重要な役職に赴任していることを確認できた。そのなかで藩校と何らかの関係をもっていた人物を選別して示しているが、『御亀鑑』には、異動時に藩校との関係を記しているわけではないので、確認できた人数は最低限のものといえる。もし藩校の在籍名簿のようなものが残っていれば、おそらくはほぼ全員近くが藩校の経験をもっているはずである。こうして、義和の政策理念やその思惑を、具体的な政策として実現していく集団が形成されるのである。もし義和が「明君」であることの事例をあげろといわれれば、第一がこの人材の登用であると、私は思っている。

 赤字強調は俺がしましたが、まあ、そう言う意味では「大久保利通」「朴正熙」「鄧小平」なども「名君(?)」ではあるでしょうが、それは「江戸時代の藩主同様に上からの改革(近代化)」であり、「民主主義や人権の観点」では手放しでは評価できないわけです。


◆縁の地における明治維新関係者の人物像:水戸天狗党の行軍地域を例に(岩立将史)
(内容紹介)
 11月10日発売(予定)の12月号を読んだ上で内容紹介はきちんとする予定ですが現時点(10/16)でも『水戸天狗党』などでググって色々とヒットしたので現時点での感想を「参考」として書いておきます。

参考

幕末に挙兵、敦賀で処刑…水戸天狗党の資料展示 - 産経ニュース2018.10.8
 幕末に尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げて挙兵し、敦賀で処刑された水戸天狗(てんぐ)党に関する資料を集めた特別展「水戸天狗党敦賀に散る」が、敦賀市相生町の市立博物館で開かれている。21日まで。
 13日午後1時半から、徳川記念財団の岩立将史学芸員が「『水戸烈士』の呼称と松原神社例祭」と題して講演する。

https://twitter.com/ton_hakuyama/status/1050538624645619712
敦賀市立博物館&山車会館(公式)@ton_hakuyama
2018年10月12日
 敦博(敦賀市立博物館)特別展「水戸天狗党敦賀に散る」記念講演第二弾を明日13日(土曜)に開催します。演題は「「水戸烈士」の呼称と松原神社例祭」です。元治の乱(天狗党の乱)以降、水戸天狗党はどのように顕彰されてきたのでしょう。ぜひご参加下さい。

敦賀・松原神社で水戸天狗党しのび例大祭 子孫ら参列 - 産経ニュース2018.10.12
 幕末に尊皇攘夷(そんのうじょうい)を掲げて挙兵し、敦賀で処刑された「水戸天狗(てんぐ)党」をしのぶ例大祭が10日、敦賀市松原町の松原神社で営まれた。
 水戸藩士が結成した天狗党は元治元(1864)年に挙兵したが、敦賀で幕府側に降伏し約350人が処刑された。例大祭は、敦賀水戸烈士遺徳顕彰会が毎年開いている。
 処刑された水戸藩士の子孫、出身地の茨城県常陸太田市潮来市の関係者、高橋靖・水戸市長らが参列。渕上隆信・敦賀市長が「自らの信念を貫いた烈士たちは多くの人たちの心をとらえている」と祭文を読み上げ、参列者が玉串をささげた。この後、参列者は近くにある天狗党の首領、武田耕雲斎の墓に参った。

朝日新聞デジタル:「水戸天狗党」終焉の地 福井・敦賀市 - 福井 - 地域
福井県敦賀市気比の松原の近くに、国史跡「武田耕雲斎等墓(たけだこううんさいとうのはか)」がある。幕末に水戸藩茨城県)から約1千キロに及ぶ強行軍の末、敦賀で処刑された水戸天狗(てんぐ)党の墓碑だ。
・投降した天狗党敦賀の三つの寺に収容された。加賀藩からは食事など丁寧な扱いを受けたが、幕府側に引き渡されると一転、罪人扱いになった。北前船で運ばれてくる肥料のニシンを入れる「鯡倉(にしんぐら)」に幽閉され、栄養不足や寒さなど劣悪な環境で死者も出た。そして、耕雲斎ら353人が5回に分けて斬首された。
 明治になると墓碑の近くに松原神社が造営され、戦死者や病死者も合わせた411人が神として祭られた。1914(大正3)年には住民らによる松原神社奉賛会が発足した。
 1957(昭和32)年に水戸烈士遺徳顕彰会となり、毎年例大祭を開催。2005年には「敦賀水戸烈士遺徳顕彰会」に改称された。

松原神社例大祭のいま | あさあけ
1.松原神社の創始
 武田耕雲斎らを敦賀において祭祀しようと発案したのは、水戸藩家老で本圀寺党だった大場一真斎でした。慶応3(1867)年3月15日、敦賀の僧侶だった行寿院峻山が、御霊大明神の神号と耕雲斎らの神名帳を下付され敦賀の自坊の一部屋に奉祀したことが、松原神社の創始とされています。社殿もなく始まりました。
 明治になると峻山は斎藤弥寿正と改名して東京に出て、公然祭祀を神祇官水戸藩に申請。明治2(1869)年9月7日に水戸藩より正式に政府に願い出、次いで同3(1870)年11月に小浜藩に請願しましたがうまくいかず、水戸にて協議を重ねます。結果、武田耕雲斎の親族代表の河井房治郎と同志代表の根本弥七郎と連署して、同6(1873)年12月に社殿創立の地所払い下げを敦賀県に願い出、改めて茨城県やそれを通しての教部省への申請を行い、教部省の認可を得られたのは同8(1875)年1月23日のことでした。その後の敦賀県への申請により、神社の敷地2,033坪のうち墓地の256坪を除いた1,777坪を払下げられました。
 初めて松原神社の社地で祭典が行われたのは明治12(1879)年10月10日でしたが、まだ社殿はなく、神籬(ひもろぎ)を立てて行われました。
 社殿の建築資金を募集すると、前田侯爵家や德川公爵家、他にも有志からの寄付があり、明治26(1893)年から鳥居、社殿と建立、鎮座式は同31(1898)年10月9日に行われました。

茨城)福井県が「天狗党ツアー」企画 交流会なども:朝日新聞デジタル
 幕末に挙兵して京を目指した「水戸天狗(てんぐ)党」。その活動の中でも多くの足跡を残した越前の地をたどるツアーを福井県が企画した。
 ツアーは、隊士が幽閉されたニシン蔵、天狗党をまつった松原神社、隊に加わった少年たちを引き取った永厳寺(いずれも敦賀市)などの建物や博物館をめぐるほか、普段は旧家が秘蔵している品も見学できる。

 もちろん江戸時代において幕府に敵対する天狗党は犯罪者でしかありませんが、明治維新において薩長が勝利したことによって「天狗党」評価が大きく変わる訳です。


◆地方伝承としての「烈女伝」:「烈女ふじ」と飯田の郷土史(神林尚子*7
(内容紹介)
 11月10日発売(予定)の12月号を読んだ上で内容紹介はきちんとする予定ですが現時点(10/16)でも『烈女』『烈女ふじ』などでググって色々とヒットしたので現時点での感想を「参考」として書いておきます。

【参考1:「烈女」の例】

【ソウルからヨボセヨ】ほこらの「烈女碑」、観光スポットの「少女像」、そしてあの… - 産経ニュース黒田勝弘
 韓国の田舎に行くと、川の土手や道ばた、畑などによくほこらがあって「烈女碑」が納まっている。歴史的に親孝行や自己犠牲で有名になった地元の女性を「烈女」としてたたえているのだ。
 韓国で全国的に有名な歴史上の女性となると、五万ウォン(約5千円)札に肖像画が出ている李朝時代の賢母で知られる「申師任堂」や、同じく韓国侵攻の秀吉軍の酒宴の際、日本武将とともに川に身を投じて殺害した“自殺テロ”の妓生(キーセン)「論介」、日本統治時代の3・1抗日独立運動に際し日本官憲に逮捕され10代で獄死した「柳寛順」がビッグスリーか。

畠山勇子 - Wikipedia
 1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、被害者のロシア皇太子ニコライに謝罪の遺書を残して自殺した女性である。
 その壮絶な死は「烈女・勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。

5分でわかる浜田 » 記事 » 浜田で活躍した人 烈女 お初 | はまナビ 浜田市観光協会公式サイト
 1724年4月に江戸の浜田藩邸で起こった、世に知られる『鏡山事件』の主人公です。
 当時、浜田六代城主「松平周防守康豊」の奥方は津和野藩主亀井家から迎えられたが、その時名のある家系の侍の娘・落合沢野がお付け女中として遣わされた。そして奥の中老として岡本道女(みち)が召抱えられ、その道女の召使いとして武芸が出来、女丈夫である“お初” こと松田察(さつ)がいました。主人である道女によく仕え、姉妹のような関係でした。道女は才色兼備でしたが、その父は大和郡山の元藩士で、今は浪人中、また察(お初)の親は長府毛利家の足軽頭でした。
 ある時、藩主が急用で道女を呼び出し、急いで駆けつけようとしたとき、間違えて沢野の草履をはいてしまったのです。沢野はひどく怒り、道女をひどく罵りました。家柄まで侮辱された道女はとうとう自害してしまい、それを知った察(お初)は、主人の仇を討つため、道女の短刀で沢野を刺し殺しました。その後、「主人の仇」と罪を免れ、浜田の地で晩年暮らし、71歳の命を遂げました。
 浄瑠璃加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』や、歌舞伎『鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』として描かれ、全国で有名なお話となっています。

 ということで「烈女」とは何も「烈女ふじ」に限定されませんが、「烈女=女性の烈士」ですね。
 「烈士」とは

烈士 - Wikipedia
・節義の堅い、名誉のために殉じる人物のこと(『史記』李斯列伝、伯夷列伝)。
桜田門外の変に加わった水戸藩薩摩藩の浪士を桜田烈士と呼ぶことがある。
・韓国では柳寛順安重根など独立運動に参加して犠牲になった英雄を独立烈士または愛国烈士と呼ぶ。
・また革命によって建国を果たした中華民国中華人民共和国北朝鮮ベトナムでは革命烈士の称号が制度化されている。

と言う話です。まあ、ただ今の日本では「烈士」「烈女」はほぼ「死語」ではないか。まあ烈士、烈女認定されるにおいて「(権力の弾圧や報復などで)死ぬ必要はどこにも無い」のですが「死ぬと烈士、烈女扱いされる傾向はある」のでしょう。
 最近だと新型コロナ関係で李文亮氏が中国政府に「烈士」認定されています。
 なお、

「鏡山事件」て何かで見聞きした覚えがあるなあ?

と思ったのですが、たぶん

第一回「花篭語り部金曜会~池波正太郎を読む~」を開催しました | 歌舞伎座2019.10.18
・10月11日(金)歌舞伎座3階「花篭ホール」にて、「花篭語り部金曜会~池波正太郎を読む~」が開催されました。
・出演は、元フジテレビアナウンス室長で「3時のあなた」「スター千一夜」でお馴染みの野間脩平さん、NHK杯全国中学校放送コンテスト東京大会の審査員を務めながら様々な朗読会を主催している斎藤由織さん。
・最初の朗読は野間脩平さん。作品は、お待ちかね「鬼平犯科帳」。
 続いて斎藤由織さんの登場。作品は「力婦伝」。
 武芸に秀でた女性による“仇討ち”を描き、歌舞伎の名作『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の元となった作品です。
 力強いヒロインの活躍に、客席も大盛り上がり!

池波正太郎 『おせん』 - To Read, or Not To Read, That Is The Question
 この作品は、女性が主人公の短編集となっております。
 「烈女切腹」は、阿部対馬守の江戸屋敷、吉村嘉六の娘(りつ)の話。りつは、藩の側用人、渡辺茂太夫の家を訪ねるといきなり茂太夫と息子を切り殺します。
 茂太夫は殿さま(お気に入り)の家臣で、それをいいことに汚職にまみれ自分に抵抗する家臣をことごとく閑職に追いやりとやりたい放題で、りつには婚約者がいたのですが、その婚約者は茂太夫一派の養子に入ってしまいます。
 この一件で茂太夫の対立派は勢いついて殿にりつの助命をお願いしますが、殿は「ならぬ!切腹だ!」の一点張りで・・・
 「力婦伝」は、とある武家のひとり娘(さつ)の話。
 さつは体格も良く力持ちで武芸も達者で、となると嫁のもらい手がいないので困っていた両親のもとにさる大名家の奉公の話が来ます。
 奥御殿の(道女)の専属奉公となったさつですが、殿さま(お手付き)の道女には、奥方付き年寄の(沢野)をはじめとして数多くの嫉妬や意地悪が
ありましたが、大女のさつが来てから嫌がらせは減り、道女とさつの仲も良くなります。
 しかし、ある日、沢野の陰謀で道女は恥をかかされ、なんと道女は自害。怒ったさつは沢野を殺しますが、殿はさつに「あっぱれ」と・・・
 どの話も、ここでは(ボーガス注:ネタバレしないために)途中までしか書いてませんので、なんだか「不幸な女性のオンパレード」みたいになっていますが、それなりにハッピーエンドになっています。

池波正太郎の「おせん」を読んだ感想とあらすじ | 時代小説県歴史小説村
 「烈女切腹」での言葉。
 「法には道義がふくまれてのうてはなりませぬ。人の道義があればこそ、人は法を、信じるのでございます。」
 現代を上手く批判している言葉だと思う。
 「力婦伝」の主人公・松田さつ女の敵討ちは芝居となり、「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の外題のもとに江戸・堺町の外記座で初演されたそうだ。事件後五十八年のことである。
【内容/あらすじ/ネタバレ】
◆烈女切腹
 りつは側用人の渡辺茂太夫をたずね、茂太夫脇差しで刺し殺した。殿はこれを聞き激怒し、りつに切腹を命じた。
 渡辺茂太夫は家中で評判はよくない。そのため、りつに切腹の命が出ると助命運動が広がった。だが、切腹は撤回されなかった。
 そして、切腹前夜、りつは(ボーガス注:茂太夫一派の養子となった元婚約者である)大須賀五郎兵衛に会うことを得るが・・・。
◆力婦伝
 さつは武芸に優れた女だった。このさつが武家奉公をすることになった。仕えるのは岡本道女である。さつは道女に好感を抱いた。そして、道女への冷たい仕打ちをさつは身を挺して守ったのである。
 その道女が自害をした。奥方づきの年寄で沢野という老女の嫌がらせの果てであった。(ボーガス注:さつは報復で沢野を刺殺するが・・・)

ということで池波正太郎小説『力婦伝』を読んだんだろうと思います。ただし池波小説(鬼平犯科帳剣客商売仕掛人・藤枝梅安など)は「リイド社の漫画雑誌」でコミカライズされてますので「池波小説そのもの」ではなくコミカライズを読んだのかもしれません。
 なお、小生は歌舞伎には興味が無いので全然見ません。


【参考2:「烈女ふじ」】

矢高諏訪神社周辺の桜|南信州飯田市鼎(かなえ)の桜と矢高諏訪神社周辺桜マップ
 時の飯田藩主堀親寚は、知恵と勇気の殿として、家来を励まし、民にやさしく、学問武術に秀で、江戸城内で老中(今でいう大臣クラス)まで登りつめました。
 親寚のもと飯田の一番栄えた時代と言われ、出世殿として知られています。
 しかし、月日が経つにつれ、飯田の民の事も忘れがちになって側室の若山を寵愛し、その暮らしぶりは目に余るものになっていきました。
 一方、当時江戸屋敷に仕えていた山口不二は、若山の浪費とおごりの姿を見聞きする度に、堀家安泰のため、領民救済の為と鉄のごとき決心を固め、機をうかがい懐剣をしのばせ若山の背中へ一突き!
 罪人となったお不二は、生まれふるさとの飯田に送り帰され、22歳の若さで処刑されました。のちに「烈女」「女性の鏡」と言われ「お不二様」として、女性に慕われ飯田市箕瀬の長源寺にあるお墓で今も眠っています。

横山八十一さん(高24回)から 校歌について @ 長野県飯田高等学校同窓会
 3番は私も歌った記憶がありません。
(中略)
>侫諛(ねいゆ)の俗(ぞく)を退(しりぞ)けて 血ある女(おみな)と謳(うた)はれし


 山口阿藤(おふじ)は飯田藩士山口弾治の娘。飯田藩江戸屋敷に仕えていました。藩主・堀親寚(ほり・ちかしげ)の愛妾・若山が私利私欲から藩政に口出ししていると知り、思い余ってこれを刺殺!。自身はその場で捕り押さえられ、飯田に送られ谷川の牢舎で斬首されました(一般の罪人は野底の処刑場)。時に22歳。辞世の句を見ると、才女でもあったと思われます。
 侫諛(ねいゆ)は聞きなれない言葉ですね。媚びへつらうとか「おべっか」の事です。上に忖度する事なく藩のために己の手を汚した烈女、と称えられたんですね。
 色々読んでみると中には・・・阿藤の行いは 私的な恨みつらみが積み重なっての事だったが、若山は藩士の間でも不評で快く思っていない人が多く良くぞやってくれた!となった・・・という説もありました。
 父親はどうなったのか?。 事件後、江戸詰めから国詰めになり減俸されましたが、藩主が堀親義に代わると元に戻されたそうです。
 明治になってから箕瀬の長源寺にお墓が建てられました。入り口の所に石碑と説明板があります。お墓は一般の墓地ではなく本堂近くの境内にあります。
 今でも花を添える人が居るんですね~。
 あまり馴染みのない3番ですが、少しはご理解いただけたでしょうか?。歌う歌わないはまた別問題かと思いますが^^;
 さて、作詞者・作曲者についても調べてみましょう。
 作詞は福澤悦三郎とあります。
 福澤先生は、伊那出身の国漢の先生で、飯田中学在任は明治39年5月~44年3月まで。赴任した年に「南信健児の歌」を作詞しました。
 作曲は井出茂太とあります。
 井出先生は、上野音楽学校卒業後、明治36月年4月に飯田中学に初赴任。西洋音楽教育への情熱をもって、当時の島地校長にピアノの購入を決断させた人。福澤先生の詞「南信健児の歌」を見て感銘を受け曲作り。それを知った島地校長が「これは素晴らしい。我が飯田中学の校歌にしよう」と決断!
 元々は校歌ではなく「南信健児の歌」だったんですね~。そう知ると3番の歌詞も不自然ではなく思えます。とは言え校歌としては??? 。(ボーガス注:3番の歌詞が)歌い継がれて来なかった原因も、私同様に不自然さを感じた方が多かったのでしょうか^^;
 定かな説ではありませんが・・・山口阿藤は人を殺めたテロリスト。それを校歌で称えるのは不適切・・・と考える方もいた様です。

 まあ、戦前はともかくさすがに戦後は、「人殺し」を「悪人に鉄槌を下した英雄」として「美化した歌詞」を校歌で歌うのはまずすぎでしょう。

井深雄二さん(高22回)より山口阿藤について @ 長野県飯田高等学校同窓会
 前略、本校同窓会「ふるさと便り」2019年10月31日に、横山八十一さん(高24回)からの投稿「校歌について」があり、その解説文が掲載されています。
 しかし、その中で(ボーガス注:長野県立飯田高校)校歌の中で「血ある女と謳われし」と詠み込まれている山口阿藤について、「色々読んでみると、実際には私的な恨みつらみが積み重なっての事だった様です。」と書かれているのはどうしたことでしょう。
 色々の中に、例えば神林尚子氏(鶴見大学助教授)の「『烈女ふじ』像の生成:幕末・明治期の文芸にみる流布と成長」(東京大学国語国文学会『国語と国文学』第96巻第1号、2019年1月)は含まれているのでしょうか。山口ふじについてはいろいろ語られてきてはいますが、彼女の事跡を学問の対象として初めて究明したのは神林さんです。そして、現在の時点では、山口ふじが若山を刺殺した動機は不明と結論づけています。
 私的恨みつらみ説は、恐らく本校の校歌の源の一つ安井息軒の「阿藤伝」で彼女が称揚されていることを批判した三田村鳶魚*8の「お大名の話」が淵源で、最近本校の卒業生でもある大平栄一郎氏の『激動の飯田藩と烈女不二』(南信州新聞、2009年)でも三田村説が採られています。
 しかし、柴田錬三郎『梅一枝』(集英社文庫、2008年)では、小説とは言え、烈女として描かれています。
 阿藤の墓のある長源寺の住職(本校の卒業生)は、鳶魚説による大平氏の小説をフィクションにフィクションを重ねたものと惜しまれています。阿藤の事跡の評価は、作詞者の福澤悦三郎先生や本校の名誉に関わるもので、軽々しく論ずべきものではないはずです。 
◆22回生 井深雄二*9奈良教育大学教授)
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との投稿をいただきました、ご指摘ありがとう御座います。
 烈女と称えられている山口阿藤ですが、調べてみると私的恨みつらみ説もありました。こちらはあまり知られていないので「・・・の様です」と紹介したのですが、あたかもそれが事実の様に受け取られかねない不適切な書き方でしたね。
 その部分は「色々読んでみると中には・・・という説もありました」と修正致しました。

飯田の烈女「お不二」 - お知らせ【地域再生診療所】
 落語中興の祖と言われる初代三遊亭圓朝(1839-1900)の演目に「烈女お不二」がある。
 実際に飯田藩で起きた騒動を脚色したものだ。
 水野忠邦の片腕と言われた飯田藩主十代・堀親寚は、天保14年に老中となり「堀の八方にらみ」と恐れられた人物だった。
 しかし江戸藩邸奥向きの老女若江が秘書役から次第に権力を握り、跡目まで口を出した。国家老は親寚に若江の放逐を迫り放逐をするも数年後には豊浦と名前を変えて召し抱えた。
 美人ではなかったそうだが、堀家随一の名君とされ老中まで勤めていた藩主がこれほどまで執着したのは、相当の才女であったのであろう。
 豊浦が表裏の実権を掌握する中に、飯田藩士・山口弾二の娘ふじが奥入り、次期藩主の手が付いた。ところが正室水野忠邦の妹であり側室などは許されない。上屋敷にも上がれなくなったふじは豊浦への怨みを募らせるなかで、その豊浦は若山と改名し御年寄に昇進し、ますます表向きのことに公然と口を出すようになる。
 天保10年9月、怨みが募ったふじは若山を刺し、飯田で処刑されることになった。網籠で飯田に下ると、飯田の獄舎にはふじへの差し入れが山のように届いたという。
 理由は恨みなのに国元では、若山の専横をつぶした英雄となっていたのだ。
 助命嘆願が江戸表へ出され、藩主も若山の専横があったことを認め、ご赦免を命ずる。
 この当たりは相当の脚色がされたのだろう。初代圓朝の語りは聞いたことがないので分からないけど、最後のこの場面は凄かったんだろうな。

 不二の赦免を伝える早馬が国元へ走る。「その処刑~~!待て~!」
 しかし早馬は間に合わず、使者が刑場へ到着したときは打ち首にされた後であった。

円朝遺稿 『烈婦お不二』 | 深沢秋男雑録
〔あらすじ〕
 信州飯田の城主堀家で奥向きを勤める山口団次の娘不二は、十三歳の春、堀家当主親茂の奥方のおそば仕えにあがる。親茂と奥方の間には子がなく、やがて親茂は市中で見初めたお豊という娘を側室として奉公にあげる。お豊改め若山は、親茂の寵愛を受け権勢を振るうようになり、親茂の家臣塚原主水と通じて奥方の毒殺をもくろむ。この企みは失敗に終わるが、不二は奥方を案じ、若山暗殺を決心。歌の質問と偽り、若山に近づき斬りつける。この傷がもとで若山は落命、不二は罪人として飯田へ送られる。忠臣・富安主税により、若山の企みが露見、江戸から不二赦免の早馬が飛ぶが間に合わず、不二は刑場の露と消える。
円朝の遺稿『烈婦お不二』は、このような話である。天保10年(1839)に、飯田藩・2万石、藩主堀親寚の屋敷で、側室の若山が、奥女中の不二に切りつけられ、死亡するという事件があった。この事件の記録・風聞などをもとにして、円朝が文芸作品として創作したものである。

 まあ、実際どうだったのかは分からないようですね。
 しかし「忠臣蔵」「樅の木は残った伊達騒動原田甲斐)」のように「美談化されたケース」の一つではあるのでしょう。

【参考1の参考:「烈士」の例】
【中国・台湾】

中国、肺炎警告の医師を「烈士」に 批判かわす狙いか - 産経ニュース
 中国の湖北省当局は、新型コロナウイルスへの警鐘を早期に鳴らしたことが問題視されて処分を受け、自らも感染して死亡した同省武漢市の眼科医、李文亮氏ら14人を「烈士」に認定した。国営新華社通信が2日伝えた。李氏がデマを流したとして訓戒処分した公安当局は世論の反発で処分撤回に追い込まれており、烈士認定は当局への批判をそらす狙いがありそうだ。
 烈士は殉職した軍人や治安要員、消防隊員らが認定対象となることが多く、遺族には補償がある。今回認定された14人のうち12人が院内感染後に死亡した医療従事者で、李氏については「感染するリスクを顧みず、第一線の職場を堅守した」と説明している。

広州起義烈士陵園 - Wikipedia
 中国広東省広州市にある記念公園。
 1927年(民国16年)12月、中国共産党員が「広州コミューン」を組織し蜂起、まもなく国民政府により鎮圧される事件が発生した(広州起義)。1954年に広州起義を記念した公園建設計画が提出され、事件より30周年を記念して1957年に完成した。記念碑には周恩来首相によって「廣州起義烈士陵園」と揮毫されている。陵園内には、広州歴史博物館などが設置されている。
 広州地下鉄1号線の烈士陵園駅の名称は、この公園に由来する。

航空烈士公墓 - Wikipedia
 中国南京市の紫金山の北麓に位置する、日中戦争時に戦死した航空兵たちの墓である。中国だけでなく旧ソ連アメリカなど外国の兵士も祀られている。

国民革命忠烈祠 - Wikipedia
 台湾(中華民国台北市にある、辛亥革命を始めとする中華民国建国および革命、中国大陸での日中戦争などにおいて戦没した英霊を祀る祠で、中華民国国防部の管轄下にある。

【韓国】

朴鍾哲 - Wikipedia(パク・ジョンチョル、1965年4月1日~1987年1月14日)
 韓国釜山市出身の学生運動家。公安警察の取り調べ中に拷問により死亡した。その死は6月民主抗争に強い影響を与え、「朴鍾哲烈士」と呼ばれ、韓国の民主化闘争の象徴となった。

【特派員オンライン】韓国の歴史と死生観|【西日本新聞ニュース】2020/9/30
 俳優の竹内結子さんの(ボーガス注:自殺による)急死を受けて、主演映画「いま、会いにゆきます」がヒットした韓国では主要紙が28日、ファンの悼む声を添えて詳しく報じた。偶然、私も同日付の本紙に、新型コロナウイルスの流行が続く韓国で若年女性の自殺が増えたという記事を書いたばかり。複雑な思いで悲報に接した。
 韓国の自殺率は経済協力開発機構OECD)加盟国で最悪だ。要因は多様だが、自ら命を絶つ行為が他者に強く抗議する手段とされてきた独特の歴史の陰もある。韓国では1945年までの日本統治に抵抗して殉死した独立運動家は「烈士」と呼ばれ、尊敬される。解放後は、(ボーガス注:朴正熙全斗煥など軍事独裁)権力の横暴に抗議して自らに火を放つ若い民主化運動家が相次ぎ、やはり烈士*10と英雄視された。そんな行動は国民感情を動かし、87年に軍事政権から民主化を勝ち取る原動力になった。一方、命を賭す行為を美化する死生観をもたらした(ボーガス注:とも言われる)。

 ということで「是非はともかく」として韓国軍事独裁下における民主活動家の一部も「焼身自殺」しており、何も「チベット自治区チベット人だけが焼身自殺してるわけでは無い」のですが、そういうことを知らないのか、故意に無視してるのかはともかく「チベット焼身自殺」を「他に例が無いかのように美化する一部の自称チベット支援者(例:早稲田大学のI濱Y子教授)」て「本当に馬鹿でくずだなあ(呆)」「で、チベット焼身自殺を美化するあんたらは韓国の焼身自殺も美化するの?(たぶんしないのだろうが)」とは思います。すみません、話が「歴史評論の記事」から完全に脱線してますが、俺はそう思います。なお、俺はこういうことを書くからか、一部の「自称チベット支援者(例:I濱Y子、Mukkeなど)」には嫌われてるようです。
 なお「数の大小はともかく」、コロナ自殺(特に女性、それも若い女性の自殺)が増えてるのは韓国だけでは無く日本でも増えてる(その一例が勿論、竹内結子ですが)とされ

〈独自〉女性の自殺急増 コロナ影響か 同様の韓国に異例の連絡 - 産経ニュース2020.9.20
 国内の女性の自殺者が増加し、8月は前年より4割増えたことが20日、分かった。韓国も同様の傾向がみられたため日本の自殺対策機関は韓国の自殺対策機関に連絡、情報を共有し分析に役立てる。
 関係者によると、自殺対策などを行う厚生労働大臣指定法人「いのち支える自殺対策推進センター」が8月中旬、韓国保健福祉省が設置する機関「中央自殺予防センター」の白宗祐(パク・ジョンウ)センター長へ連絡。日韓で女性の自殺者が急増している事態について、背景などを尋ね意見交換した。
 両国の自殺者の増加は新型コロナの感染が増加した時期と重なるため、新型コロナの影響による可能性も考えられる。
 韓国の現地報道は、新型コロナの影響で、非正規雇用など不安定な雇用の職業に就く女性の経済的困難が高まったほか、育児などの負担が増大したことなどが背景にあると指摘。日本でも同様の原因があるか、詳細な分析が進められる。

30代以下の女性の自殺 去年比74%増加 新型コロナの影響も | 新型コロナウイルス | NHKニュース2020年10月2日
 いま、女性の自殺が増えています。特に30代以下の女性の自殺は去年に比べて74%増加し、専門家は「新型コロナウイルスのさまざまな影響もあると考えられるが、女性は子育てや家事などでストレスがあっても周りに相談しにくいことが多いのではないか」と指摘しています。
 警察庁によりますと、ことし8月の1か月間に自殺した人は全国で1854人で去年の同じ時期に比べて251人、16%増加しました。
 男女別では男性は去年より6%増ですが女性は40%も増えています。
 特に30代以下の比較的若い世代の女性の自殺は去年より74%増加し、1か月間に193人が亡くなっています。
 自殺の問題に詳しい中央大学人文科学研究所の高橋聡美客員研究員は(中略)特に30代以下の女性の自殺者が増えていることについては、「女性は病気などに不安を感じやすいことに加え子育てや家事などでストレスがあっても自宅にいることが多く、相談しにくい環境にあることも要因の1つではないか。また、友人と会えなかったり(ボーガス注:三浦春馬竹内結子など)著名人の自殺に影響を受けたりするなど心理的な負担が増しているおそれもある」と分析しています。
 そして、「国は相談体制の充実を図るとともに心理的な負担がどれほどかかっているのかを分析し対策を講じる必要がある」と指摘しています。

9月の自殺者 全国で1805人 女性が大幅に増加 警察庁 | NHKニュース2020年10月12日
 先月、自殺した人は全国で合わせて1805人で、去年の同じ時期より143人増えたことが分かりました。ことし7月以降、3か月連続で去年の同じ時期よりも増えていて、国は新型コロナウイルスの感染拡大などの影響について分析を進めています。
 男女別では、男性が去年よりも0.4%増えて1166人、女性が27.5%増えて639人となっていて、特に女性の自殺者が大幅に増えています。
 厚生労働省は、自殺する人が増えたことについて「詳しい原因は分からないが、重く受け止めている」としたうえで、「新型コロナウイルスの影響で生活に不安を感じている人が多いと思うので、ひとりで悩みを抱え込まずに身近な人や支援機関、自治体の窓口に相談してほしい。また、周りにいつもと様子が違う人がいたら声をかけてほしい」と呼びかけています。

などの報道が既にされてます。「韓国での若年女性の自殺増加」はしたがって日本にとって「対岸の火事などでは全然無い」わけです。

【日本】

「桜田門外の変」水戸浪士しのぶ 茨城県護国神社に十八烈士の銘板 - 産経ニュース
 桜田門外の変に携わった水戸浪士ら18人をしのび、顕彰するために制作された「桜田十八烈士銘板」の除幕、清祓式が25日、県護国神社水戸市見川)で行われた。
 櫻門之會の鈴木泉会長は「桜田門外の変明治維新の先駆けとも言える。目につきやすい場所に銘板を設置したので、学校の遠足などの学習にも活用してもらい、若い世代に水戸の歴史を語り継いでもらいたい」と活用を促す。銘板を設置することに対し、同神社の佐藤昭典宮司は「櫻門之會の熱意に応じた。銘板を置くことに誇りを感じる」と話した。

東光寺 (萩市) - Wikipedia
◆元治甲子殉難烈士墓所
 元治元年(1864年)、「禁門の変蛤御門の変)」に敗れ、岩国で自刃した福原元僴(ふくばら・もとたけ)、徳山で自刃した益田親施(ますだ・ちかのぶ)、国司親相(くにし・ちかすけ)の3家老の墓である。

大黒寺 (京都市伏見区) - Wikipedia
◆伏見寺田屋殉難九烈士之墓
 文久2年(1862年)、寺田屋事件で犠牲となった薩摩藩勤王党・有馬新七等9人の墓である。墓石の横にある碑文は、西郷隆盛筆。


◆近代天皇制国家と「偉人」:金原明善*11の「偉人」化とその歴史的意味(伴野文亮*12
(内容紹介)
 11月10日発売(予定)の12月号を読んだ上で内容紹介はきちんとする予定ですが現時点(10/16)でも『金原明善(きんぱら・めいぜん)』などでググって色々とヒットしたので現時点での感想を「参考」として書いておきます。

【参考1:伴野文亮氏の「金原明善」研究】

コラム:一橋大学附属図書館所蔵「金原家文書」の紹介 | 上廣歴史資料学研究部門(伴野文亮 東北大学大学院文学研究科)
 一橋大学附属図書館に、金原家文書という史料群があります。これは、天竜川の治水などに尽力した金原明善(きんぱら・めいぜん、1832-1923)とその子孫に関する史料の一群です。もとは、静岡県浜松市にある金原明善翁生家の裏にある石蔵と、生家と道を挟んで反対側にあった金原明善記念館に保管されていたのですが、2016年にご子孫の意向で一橋大学附属図書館に寄贈されました。寄贈後は、当時一橋大学に在学中であった筆者が中心となって学内外の有志で「金原家文書研究会」を立ち上げて整理を進め、2019年度までに仮目録を完成させました。現在は、状態の悪いものを除いた全ての史料について、原則公開しています。なお、この仮目録は、一橋大学附属図書館と浜松市立図書館中央図書館で閲覧することが出来ます。
 史料整理によって、金原家文書には様々な史料が存在することが分かりました。例えば、金原が1896年(明治29)に北海道瀬棚郡に開設した金原農場に関する史料が挙げられます。具体的には、「金原農場土地所有権登記書類」(1896年作成)や「促成栽培並ニ苗床日誌」(1911年作成)などです。これらの史料は、日本近現代史における「開発」の問題を考える際の重要な手がかりです。その他にも、1968年(昭和43)に金原治山治水財団が編集し刊行した『金原明善資料』(上下巻)にも収録されていない歴史資料(例えば写真など)も数多く発見され、様々な角度から金原明善を研究することが出来るようになりました。
 地域の史料が、地元ではなく東京の大学図書館にある。
 一見、不思議なことのように思われるかもしれません。しかし、重要な点は、貴重な歴史資料が廃棄も「死蔵」もされずに保存され、研究資源として活用される道が残されたことです。私は、絶えず史料保存活動の意義を考えながら、遺された史料と向き合いつつ金原明善の研究を進めていきたいと考えています。

近代天皇制国家における「偉人」顕彰の歴史的意味の研究―金原明善の「偉人」化と天皇制イデオロギーの関連をめぐって―(伴野文亮)
 本論文は、近代日本社会のなかで様々なメディアを通して(生前から)「偉人」として顕彰された金原明善(1832〜1923)に着目し、彼が「偉人」として顕彰されたことの歴史的意味を考察する。その考察を通じて、金原が生きた近代天皇制国家の内実と、支配イデオロギーたる天皇イデオロギーの実像を明らかにしようとするものである。
 全体は、二部構成で、第一部「金原明善の思想と行動」では、三つの章を設けて、金原明善が生涯をかけて取り組んだ治水事業(第一章)と林業(第二章)、それぞれの経営実態を明らかにするとともに、金原明善のそうした活動の背景に「天皇意識」があったことを論証した(第三章)。
 第一部が、金原明善の意識・思想形成のプロセスを解明しようとした論考であったのに対し、第二部「金原明善の「偉人」化とその展開」は、金原明善が「偉人」として顕彰されていくプロセスを跡づけていく。まず第四章で、明治中期からアジア・太平洋戦争までの、各時期での金原明善「顕彰」の歴史的位置と背景を考察する。そして、具体的には、第五章では、安城農林学校校長の山崎延吉、第六章では、金原明善に師事し浜松で林業に関わった鈴木信一、それぞれの金原明善顕彰を取り上げる。最後の第七章では、植民地下朝鮮の『京城日報』に連載された金原明善を扱った小説を手がかりに、植民地において「偉人」金原明善像が流通することの歴史的意味について考察する。

金原明善: 静岡県近代史研究会情報
 伴野文亮氏「金原明善の『偉人』化と近代社会-顕彰の背景とその受容-」(『書物・出版と社会変容』第16号・2014年)の存在を知りました。
 金原明善といえば、浜松では歴代『のびゆく浜松*13』に、天竜川の治水に関して、絶大なる尽力をした、浜松の救い主のような記載されています。浜松人たるもの、そんなイメージを、金原明善に対して、持っていることでしょう。
 伴野さんは「顕彰の対象となる人物が顕彰され始める時点ではまだ存命しており、しかも、明治30年代中ごろまでは別のイデオロギー装置として機能していた「偉人」が、地方改良運動を画期として天皇制国家の政治支配を支えるイデオロギーとして読み替えられ機能した事例」として、金原明善を描いています。
 これは、「明治20~30年代は、実業家になったことそのものが「偉人」であるとされているのに対し、立身出世の機会が減少し、「高等遊民」や「煩悶青年」が発生するようになると、そういった「青年」たちの思想を゛善導゛しようという試みがみられるようになる」。
 こうした潮流に乗って、「明善は「実業家」となったこと(結果)よりも、実業家と成り得た内面性を評価されるようになったのである。」ということです。
 実証はゆたかで、読みやすい論文です。明善を教材に使う場合は、ぜひ一読したい論文です。
 拝読して、なぜ金原明善は、浜松では21世紀の現在まで顕彰され続けているのか、と思いました。治水・治山をした人は数有り、起業家も数有り、でも、金原明善は別格なのです。天皇とのからみでも、他にも人物はおります。
 今のルーツとなる起業家たちでは、記載が特定企業に偏るからでしょうか?
 ダムがたくさんできて、暴れることがなくなった天竜川からすると、治水に挑んだ明善は、もはや過去の人で、歴史の授業で学ぶのにふさわしい人物として、判断されているからなのでしょうか?
 それにしても、伴野さん、浜松の超メジャー人物を再検討とは、すごいなあと思います。

2月例会 2月15日(土)14時~ 鎌倉文庫 – 静岡県近代史研究会
 本報告では、近代日本において様々なメディアを通して「偉人」として顕彰された金原明善(1832-1923)の思想と行動について、印旛沼開鑿事業への関与を事例として検討する。
 金原明善をめぐっては、明善が生存中から「偉人」として顕彰されていたこともあって、戦前から多数の研究成果が積み重ねられてきた。しかしながら、それらの多くは、明善の名を一挙に高めた天竜川の治水やその後継事業として実施された天竜川上流部(瀬尻)の植林などに焦点を当てた、明善の「偉人」としての精神性を称揚したものがほとんどであった。換言すれば、明善の思想と行動を歴史学的視点から総合的に捉えた研究は、今もって存在していないのが現状といえる。このために、本報告で扱う印旛沼開鑿事業における明善の関与など、明善の思想を歴史的に検討するうえで重要な素材が今日まで分析されずにきたのであった。戦後、金原家の土蔵に所蔵されていた膨大な一次史料を素材として編まれ、初めて明善を「客観的・科学的」に分析したと自負する成果である『金原明善』(金原治山治水財団編集・刊行、1968年)においても、明善の印旛沼開鑿事業への取り組みについてはごく僅かにしか言及していないし、明善の印旛沼開鑿事業に対しての取り組みを歴史的に位置付けた成果も管見では把握していない。
 かかる研究史的状況に鑑み、本報告では、1880年代=明治10年代後半から20年代前半の明善がいかなる思想的背景のもと印旛沼開鑿事業に取り組んでいたのか、その歴史化を試みる。
 本報告は、以下3つの章から構成される。第1章では、印旛沼開鑿事業に関与し始めた1880年代における明善の動静について概観する。明治10年代後半は、天竜川の改修が内務省の直轄事業となり、明善が治河協力社を「解社退身」して東京に進出していく時期である。その時期にあって、明善がどの様な人的交流をもち、「実業家」としていかなる活動をしていたのか。第1章では、次章以降で印旛沼開鑿事業における明善の関与の具体像を明らかにするための前提として、とりわけ彼の人的ネットワークに着目しながら、当該期の明善の「姿」を概観する。第2章では、印旛沼開鑿事業と明善の関係性について検討する。具体的には、1884年(明治17)に作成された「参田会規則」や「内洋経緯費鐻集ノ大旨」、または織田完之が著した『印旛沼経緯記』(1893年刊)を史料として、明善の印旛沼開鑿事業における関与の具体的位相がうかがえる参田会の基礎的考察を行う。この考察をとおして、明善が印旛沼開鑿事業において具体的にいかなる行動をとっていたのか、その実態を明らかにする。そして第3章では、印旛沼開鑿事業に関わった明善の思想的背景について検討を加える。具体的には、「皇居御建築相成度並献納金之儀ニ付懇願書」などの史料や、教派神道神道大成教」を率いていた平山省斎との関わりからうかがえる明善の天皇観ないし「国学」的思惟を明らかにするとともに、治水・水利事業の実施によって国家に「報効」せんとした明善の「国益」思想について検討を試みる。
 以上の考察を経て、明善がなぜ「地元」浜松から遠く離れた印旛沼の開鑿事業に関与したのか、その思想的背景を明らかにするとともに、そこにおける明善の「個性」を明らかにする。本報告を通して、明善研究における新たな論点の提示を試みたい。

 「財界人」「地元民は知ってるが地元以外は無名」てあたり、「金原明善」は「我が埼玉の渋沢栄一」を連想させる御仁ですね。まあ渋澤も「1万円札の肖像画に採用&来年の大河ドラマ主役決定」で大分全国的な知名度が上がってきましたが。


【参考2:ネット上の「金原明善」顕彰】

平成30年1月22日 第百九十六回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説 | 平成30年 | 総理の演説・記者会見など | ニュース | 首相官邸ホームページから一部引用
 「五十年、八十年先の国土を富ます。」
 百五十年前。天竜川はたびたび氾濫し、村人たちは苦しめられてきました。子々孫々、洪水から村を守るため、金原明善(きんぱら・めいぜん)は、植林により治水を行いました。
 六百ヘクタールに及ぶ荒れ地に、三百万本もの木を植える壮大な計画。それでも、多くの人たちが明善の呼び掛けに賛同し、植林のため、共に、山に移り住みます。
 力ある者は、山を耕し、苗木を植える。木登りが得意な者は、枝を切り落とす。女性や子どもは蔦や雑草を取り除く。それぞれが、自身の持ち味を活かしました。
 多くの人たちの力を結集することによって築き上げられた森林は、百年たった今でも、肥沃な遠州平野の守り神となっています。
 多くの人の力を結集し、次の時代を切り拓く。あらゆる人にチャンスあふれる日本を、与野党の枠を超えて、皆さん、共に、作ろうではありませんか。

天竜川流域を豊かな農地に金原明善:農林水産省
 金原明善は、江戸時代後期の1832年天保3年)に遠江国長上郡安間村(現在の浜松市)の名主の子として生まれました。明善は天竜川の洪水で苦しんでいる人たちのために、自分の財産を投げ出し堤防を築いたり、川の上流に植林をするなど治山治水に大きな功績を残し、天竜川の利水にも大きく貢献しました。
 明善は、1872年(明治5年)に天竜川分水計画を作りました。これは田畑に水を供給したり、木材を運搬するために、天竜川の水を浜名湖へ流すという計画です。また、1899年(明治32年)には天竜川から三方原に水を流し、田畑に水を供給する計画を立てましたが、両方の計画とも経済的、技術的な理由で県の許可が下りませんでした。そこで、明善は1904年(明治37年)に事業を行うため「金原疏水財団」(のち金原治山治水財団)を設立し、自分の財産を提供しました。しかし、工事の着工には至らないまま、明善は1923年(大正12年)に91歳でこの世を去りました。
 明善の計画が実行されたのは、それから15年後の1938年(昭和13年)に着工した浜名用排水幹線改良事業によってです。このときの地元工事負担金は、「金原治山治水財団」が全額寄付をしました。その後、三方原農業水利事業が1968年(昭和38年)に、天竜下流水利事業が1979年(昭和54年)に完成し、明善の計画は1世紀余の歳月をかけて実現しました。
 現在、浜松市を中心とする県西部地域は、国内有数の農業地帯となっています。

国土交通省木曽川下流河川事務所『木曽三川治水偉人伝・金原明善(きんばらめいぜん)
 彼が生まれた安間村一帯には「暴れ川」と呼ばれた天竜川が流れており、嘉永3年(1850)から明治元年にいたる19年間にたびたび氾濫して大きな被害をもたらしました。この洪水の恐ろしさを身をもって体験した明善は、明治元年(1868)、36歳の折り、長年の計画を実行すべく、私財5万6000円をなげうち、新しい明治政府の許可を得、天竜川に約7キロの堤防工事を行ないました。明治7年(1874)、オランダ人技師と天竜川上流の森林調査を行なった明善は、荒れ果てた山々を見て、川の氾濫を治めるためには、森林の保全にあることを実感しました。彼が天竜川の植林作業のために官有林に寄付した苗木は、スギ250万本、ヒノキ50万本。まさに全財産を投じての治山治水活動でした。この植林作業は天竜川上流はもちろんのこと、伊豆・天城山、富士山の麓、岐阜県の森林に至るまで、広範囲に及びました。
 明善の偉業は、同じ洪水で苦しむ他地域の人々にとっても大きな支えとなりました。
 大垣輪中(大垣市)で幼少のころから、洪水の恐ろしさを体験した金森吉治郎は、彼の影響を受け治水事業に生涯を捧げるようになりました。明治24(1889)年の濃尾大震災の際には、明善と吉治郎がともに根尾谷の山腹崩壊の実情を撮影して天覧に供し、その結果生まれた森林法が実施され、岐阜県下に5万2000ヘクタ-ルの植林が行なわれました。
 治水に全生涯を捧げた金原明善は92歳で天寿をまっとうしますが、植林された木はそのまま生長を続け、その一部は記念林として、また学術参考林として、現在も瑞々しい緑に包まれています。

歩み|会社情報|株式会社 丸運
 岡山県倉敷市の美観地区には大原美術館という観光名所があります。この大原美術館を設立した明治・大正時代の富豪、大原孫三郎は倉敷日曜講演という講演会を主催していました。これは全国の学者、知識人を招聘して講演をしてもらうというもので、1902年から20年近くも続きました。この第19回に当社の創業者金原明善が「経歴と希望」という題目で講演を行いました。金原明善は明治・大正時代に静岡県が生んだ偉人であり、行う事業はあくまでも公益優先を考える稀有の人でした。
 彼は私財をなげうってまで天竜川の治山治水に取り組み、地域そして国家に貢献しました。
 かつて、天竜川流域は杉・檜などの天然資源に恵まれ、その良材は天竜川を利用した水上運輸で各地へ運ばれていました。しかし、ひとたび豪雨が降ると大きな被害に見舞われていたことから、金原明善は、安全確実な輸送手段として鉄道による木材輸送事業を興しました。この事業が当社の源流です。

金原明善に会いに行こう|株式会社 丸運
 明善は数々の事業を興し、近代日本の発展に貢献しています。
 生涯をかけて取り組んだ「天竜川の治水」「植林事業」は特に有名です。

金原明善とは | 金原明善 │ 一般財団法人金原治山治水財団
 堤防改修の為に水利学校と治河協力社を創設。また洪水の抜本的原因となる上流の山に対して大規模な植林事業を開始。事業としての持続可能性を高めるため、山から間伐される木材を高付加価値化する製材事業 新式機械製材(後の天竜木材株式会社設立)、それらの輸送を円滑にするための天竜運輸(後のJR天竜川駅誘致)、作業効率を上げるための新式機械製材(天竜製鋸株式会社が設立)の治山関連事業を興し、 瀬尻官林、金原林の植林で培った治山のノウハウを天城御料林の経営や、広島、岡山、岐阜、富士山麗など全国各地で実地指導を行った。
 治山、治水に加え、浜名湖三方原へ分水することで田畑への水の供給、木材の運搬を実現するための利水(疎水)事業も設立。
 東京では金原銀行(昭和15年三菱銀行に合併)、井筒屋(小売)、北海道の開拓(金原農場、金原小学校)も展開。出獄人保護事業(後に静岡勧善会)の源流となる事業も興した。

【森田実の政治評論】政府に問われる防災政策の大転換と治山治水の推進|森田実の政治評論|コラム|JAcom 農業協同組合新聞
 自然災害を起きた時、条件反射的に思い出す人物が二人います。一人は明治期の治山家、治水家、実業家の金原明善です。明善は「あばれ天竜」と言われた天竜川の水害を防ぐため、私財を投じ、天竜川の堤防整備につとめました。つぎに明善は天竜川流域の山林を整備するため大規模な植林事業を行ないました。明善は治山と治水に生涯をかけたのです。天竜川流域は繁栄する地域に変貌しました。明治政府はこの明善の事業に協力しました。
 明善のような傑出した偉人は稀ですが、江戸時代、明治時代には大小の差はあれ、篤志家は少なくありませんでした。しかし現在は金原明善的偉人はほとんどいなくなりました。社会全般に「自分さえよければ思想」が蔓延してしまっているからです。
 多くの大企業は、自分の企業を守るために巨額の資金を貯め込んでいます。その額は4百数十兆円に達しています。巨額の資金を抱えている大企業が一社でも二社でも、この資金を防災減災とくに治山治水のために自己犠牲的に活用することになれば「自分さえよければ思想」に一撃を加えることができます。

社会福祉法人風土記<5>信濃福祉施設協会 上 源流は更生保護事業 - 福祉新聞
 ある男性が刑期を終え、村へ帰った。妻は再婚したらしく、子どもも生まれ、幸福のようだ。それを乱すことはせず、村の親戚へ一夜の宿を頼んだものの、「お前のようなものは」と追い返された。金もない。警察も助けてくれなかった。出所の際、「二度と悪事に手を染めない」との約束を思い返し、池へ身を投げ、この世に別れを告げた。
 出所者を温かく迎えた家族を歌う「幸せの黄色いリボン*14」は、どこにもなかったというわけだ。その話を聞いた静岡県の実業家、金原明善=1832(天保3)年~1923(大正12)年=が日本で最初といわれる更生保護施設「出獄人保護会社」を静岡県安倍郡安東村(現静岡市)に作ったのは1888(明治21)年のことである。宿を提供し、手に職をつけ、再犯を予防していく。民間の篤志家の寄付や仏教団体、僧侶たち、一部のキリスト者らの活動がそれを支えた。いまの保護観察制度の走りと言って良いだろう。

*1:鳥取大学教授

*2:明治維新後は鳥取県権令(今の県知事に当たる)、元老院議官、貴族院議員などを歴任(河田景与 - Wikipedia参照)

*3:著書『幕末・維新期長州藩の政治構造』(1993年、校倉書房)、『幕長戦争』(2013年、吉川弘文館

*4:肩書きは全て講演会当時であり、現在では変更の可能性がある。

*5:千葉大学准教授。著書『「明君」の近世:学問・知識と藩政改革』(2012年、吉川弘文館

*6:著書『藩政改革と地域社会:秋田藩の「寛政」と「天保」』(2011年、清文堂出版)、『秋田藩の政治と社会』、『近世秋田の町人社会』(以上、2016年、無明舎出版)、『「秋田藩」研究ノート』(2017年、無明舎出版

*7:鶴見大学准教授。

*8:1870~1952年。著書『赤穂義士忠臣蔵の真相』、『徳川の家督争い』(以上、河出文庫)、『侠客と角力』(ちくま学芸文庫)、『江戸生活のうらおもて』、『江戸の女』、『江戸の旧跡 江戸の災害』、『江戸の豪侠 人さまざま』、『江戸の白浪』、『江戸の花街』、『御家騒動』、『お大名の話・武家の婚姻』、『加賀騒動』、『敵討の話 幕府のスパイ政治』、『花柳風俗』、『公方様の話』、『御殿女中』、『娯楽の江戸 江戸の食生活』、『芝居風俗』、『芝居の裏おもて』、『芝・上野と銀座』、『相撲の話』、『大名生活の内秘』、『近松の心中物・女の流行』、『捕物の話』、『泥坊の話・お医者様の話』、『人形芝居と能』、『はやり唄・吾妻錦絵』、『武家の生活』、『札差』、『目明しと囚人・浪人と侠客の話』(以上、中公文庫)など

*9:著書『戦後日本の教育学:史的唯物論と教育科学』(2016年、勁草書房)、『現代日本教育費政策史:戦後における義務教育費国庫負担政策の展開』(2020年、勁草書房)など

*10:「権力弾圧による獄死」も「烈士」であるのに「烈士=自殺者」と誤読させかねないこの西日本記事はあまりにも問題があると思います。

*11:1832~1923年。天竜川の治水事業、北海道の開拓、植林事業などで知られる。(金原明善 - Wikipedia参照)。

*12:東北大学助教

*13:ググったところ小学生向けの副教材(浜松市編集)のようです。

*14:幸せの黄色いリボン - Wikipedia のこと。題名から想像つくでしょうが、「幸福の黄色いハンカチ」の元ネタとされます。