「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2020年11/29日分:荒木和博の巻)

増元さんの「拉致問題アワー」: 荒木和博BLOG

 増元照明さんのチャンネル桜拉致問題アワー」で11月21日の「防人と歩む会」での質疑部分を取り上げて下さいました。講師は増元さんと私。同会会長は葛城奈海・予備役ブルーリボンの会幹事長。

 36分程度の動画です。チャンネル桜などというウヨ放送局で番組MCをやり、荒木や葛城のようなウヨと交際して恥じない増元にはいつもながら呆れます。チャンネル桜なんかウヨしか見てないでしょうに。そしてこんな番組をやれば増元が「非常識極右」認定されて世間から距離を置かれるだけです。
 まあ、増元の場合、極右政党「次世代の党」から参院選(2014年)に出馬するような人間ですので、もはや何を言っても無駄なのでしょうが(増元照明 - Wikipedia参照)。
 なお、増元は落選し、次世代の党も大敗して消滅しました。最初の参院選出馬(2004年、東京選挙区、当時は定数4)では自民の公認を取ろうとしてもとれなかったため、無所属で出馬して落選していますが、おそらく当時の自民党側が「増元の極右性」を敬遠したのでしょう(この選挙で増元は落選)。
 増元の場合、「拉致被害者だからウヨ化」したのではなく、もともと極右に親和的なのでしょう。家族会の中でこの男ほどの極右は他にいませんからね。
 動画を見てみましたが、増元曰く「中露が北朝鮮支援してることが許せない」「しかもそんな中露が何故、国連安保理常任理事国なのか」「何故日本政府は中露をもっと批判しないのか」。
 そんなこと言ってもどうしようもないでしょうよ。
 そこで「中露が北朝鮮支援してるから経済制裁しても意味が無い(とは増元や荒木には絶対に言えないのでしょうが)」でもなければ「中露の北朝鮮支援をなんとかしてやめさせよう(これまた増元にも荒木にも中露に支援を辞めさせるための具体案がないので言えないのでしょうが)」でもなく「中露への悪口雑言」しかしないのだから呆れます。
 さて、次に「防人と歩む会」での質疑部分。なお、質疑部分の文字おこしはかなりアバウトなので、正確に知りたい方は動画を視聴してください。

◆質問1
 ブルーリボンを多くの議員が付けていますが、その中で誰が頼りになる議員か、名前を挙げて欲しい
◆回答1(回答者・荒木)
 そう言う議員はいないと思います。
 先日、加藤*1官房長官に「『しおかぜ』放送で、『金正恩以外の勢力でもいいから拉致被害者を帰国させて欲しい』『その場合、その勢力の日本亡命などの措置も執る』と放送して欲しい」といったんです。
 しかし加藤さんは「ご要望を持ち帰って、外務省と相談した結果、問題があると考え、要望には応じないことにした」。なんで外務省の言いなりなのか。

 いや質問者も非常識ですが、荒木も非常識ですね。
 質問者はここで荒木が特定の政治家の名前を挙げたらまずいという認識もないんでしょうか?
 一方で、荒木の方も、どう見ても「金正恩打倒クーデターのそそのかし」としか思えない行為を加藤官房長官に求めたあげく、さすがに断られたら悪口雑言。常軌を逸していますね。
 それにしても加藤氏もまあ腰が引けてますね。「持ち帰って外務省と相談」云々でなく、その場で「そんな馬鹿なことは出来ませんよ」と即答できないのか。加藤氏だって、この程度の事をまさか外務省に相談しなきゃ返答できないわけでもないでしょうに。外務省を「弾よけ」に使ってるだけですよね。
 いずれにせよ、いかに菅首相や加藤氏が「極右の安倍前首相に重用された」とはいえこんな暴論に協力しない程度の常識はさすがにあるようです。

◆質問2
 自衛隊による拉致被害者救出論をどう思いますか。
◆回答2(回答者・増元)
 (北朝鮮の反撃で)自衛官に犠牲が出る恐れもあると思いますが、拉致被害者の為に(死ぬ)覚悟を決めて欲しい。日本国民を守るためにあるのが自衛隊ではないのか。

 「お前は自衛官の命を何だと思ってるんだ?」「そもそも拉致被害者の居場所も分からないのにどこに自衛隊を投入するんだ」ですよねえ。増元はこんなことを言ったら、「増元のお仲間ウヨ」以外には「アホか、あいつ」とドン引きされると言うことも理解できないようです。まあ、増元もそう言うバカだからこそ、次世代の党から参院選に出馬したのでしょうが。

◆質問3
 韓国は北朝鮮を自国領としている*2ので、「自衛隊による拉致被害者救出」をする場合は、韓国軍と自衛隊の共同軍事作戦はともかく、自衛隊出動について韓国政府の了解を得る必要があるのでは無いか
◆回答3(回答者・荒木)
 今の文在寅*3政権は「反日親北朝鮮、親中国」なので、文在寅政権が続く限りはそうした了解はないと思います。ただし、最大与党で右派政党の『国民の力』が政権奪還すれば、韓国の了解を得て、(北朝鮮の了解がなくても)自衛隊北朝鮮に投入できる可能性があると思う。

 やれやれですね。ならば「文在寅政権が続く限り」荒木の言う「自衛隊による拉致被害者救出」なんかできないということじゃないですか。
 そこで『だから文在寅政権を敵視するのだ、文政権のせいで拉致被害者救出のための自衛隊投入が出来ない』と強弁するのが勿論荒木ですが、もちろん荒木の文政権敵視はそう言う話ではない。慰安婦問題とか徴用工問題とかそう言う話です。
 いずれにせよ、当面、文政権が終了する可能性はない。まあ、最大野党「国民の力」が政権を奪還してもそんな了解はしないでしょうが。
 それにしても「安倍の嫌韓国行為(ホワイト国除外やフッ化水素水の事実上の禁輸)」を容認したあげく文政権を「反日親北朝鮮、親中国」呼ばわりですから呆れますね。

◆質問4
 米国大統領選挙においてトランプとバイデン、どちらが勝利した方がいいと思うか。
◆回答4(回答者・増元)
 他の拉致被害者家族はともかく、私はトランプに勝ってほしい。金正恩に首脳会談で拉致のことをトランプは言ってくれた。いずれにせよ、日本政府がきちんと動かないと誰が米国大統領でも状況は変わらないと思います。
◆回答4(回答者・荒木)
 私個人はどちらでも大して変わらないと思ってます。そもそも増元さんも言うように日本政府がきちんと動かないと誰が米国大統領でも状況は変わらないと思います。

 まあ、増元が「トランプ支持」と公言することには呆れますね。


愛媛県とか故郷の話(11月29日のショートメッセージ): 荒木和博BLOG

 令和2年11月29日のショートメッセージ(Vol.241)。子供の頃住んでいた愛媛県と故郷(ふるさと)についての話です。

 6分30秒程度の動画です。
 「アホか?」ですね。
 そんな話(荒木が子どもの頃住んでいたという愛媛県八幡浜市*4)が拉致問題と何の関係があるのか。
 何一つ関係ないわけです。
 この動画は「拉致問題解決のための動画」ではなかったのか?。いつの間にか「荒木が好き勝手に放言する動画」に変わってしまったようです。
 それにしても、動画内で荒木が「民社党の集会で良くインターナショナルを歌った」と言うのにはびっくりですね(もちろん、これまた、そんな話は明らかに拉致問題に何一つ関係ありませんが)。
 「日本社会党共産党ならまだしも」何で「どう見ても極右の民社党が集会でインターナショナルを歌うのか」、そして何で「どう見ても極右の荒木がそれを懐かしい思い出として語るのか」さっぱり分かりません。荒木ら旧民社の連中はどういう考えでインターナショナルを歌っていたのか?
 いやもちろん民社党は建前(?)では「労組(旧同盟)を支持基盤とする社民主義政党」ではありますし「社民主義政党がインターナショナルを歌うのは不思議ではない」のですが、民社党って「自称・社民政党」でしかないですからねえ。
 一方で「予想通り」ですが

【正論】民主党は鵺なのか? 「抑止力強化」立証の時を待て 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛(1/4ページ) - 産経ニュース
 陽気なもので、一群がなぜか「起(た)て、飢えたる者よ、いまぞ日は近し」とインターナショナルを高唱しています。もっとも飢えていない若者たちはこの革命歌を知らないらしく、テキストと首っ引きでスピーカーから流れ出る合唱に合わせていました。

などと書く「荒木のウヨ仲間」産経は明らかにインターナショナルを敵視しています。

【参考:インターナショナル】

赤旗革命歌「インターナショナル」とは?2008年11月22日
〈問い〉
「インターナショナル」は、伝統ある革命歌だそうですが、だれが何をうたったものなのですか?(東京・一読者)
〈答え〉
 「起(た)て、飢えたる者よ、いまぞ日は近し 覚めよ、わが同胞(はらから)、暁(あかつき)は来ぬ」で始まる「インターナショナル」は、20世紀、世界の労働者のたたかいで広く歌われた革命歌です。
 作詞者は、パリ・コミューンの労働者詩人、ウジェーヌ・ポティエ(1816―1887年)です。1871年のパリ・コミューンは、カール・マルクスが「労働者のパリとそのコミューンとは、新社会の光栄ある先駆者として、永久にたたえられるであろう」と書いた、世界史上初の労働者階級の政府でした。それだけにブルジョアジーによる弾圧は非道残虐をきわめ、虐殺は約3万人と推定されています。
 ポティエは、パリ第2区からコミューン議会の議員に選ばれ、バリケード上でも奮闘します。しかし5月末、政府軍の攻撃によってコミューンが壊滅。「連盟兵の壁」で多くが虐殺され、なおも血の弾圧がつづいた6月、まだ戦火くすぶるパリの街なかに身をひそめて、この「インターナショナル」を書いたのです。
 「立て! この世の地獄におちた者たち! 立ち上れ! 飢えはてた徒刑囚(とけいしゅう)たち!―かれは、この『飢えはてた徒刑囚たち』をよく知っていた。かれじしんも、そのひとりだったからである…『この世の地獄におちた者たち』と『飢えはてた徒刑囚たち』とは、まさにコミューンのひとたちである」(大島博光*5パリ・コミューンの詩人たち』新日本新書)
 この詩は、最初は小さな集会などで朗読されていたようですが、1888年、木材労働者でアマチュア作曲家だったピエール・ドジェイテール(1848―1932年)が作曲し、1899年パリで開かれたフランス労働党大会で感動をよんだのが、国際的に広がる転機になったといわれます。ロシア革命のときには、ロシアの代表的な革命歌となりました。(その後、ソ連の国歌とされ、ソ連崩壊後も歌の生命力は消えず、世界各地で歌い続けられています)
 日本では、『種蒔(たねま)く人』を主唱した小牧近江(こまき・おうみ)がフランスから持ち帰ってきた歌詞と譜を、佐々木孝丸が訳詞。1922年10月、左翼の文芸団体(『新興文学』)がロシア10月革命を記念する前夜祭を東京で開き、そこで小牧が歌ったのが公的な場で歌われた最初とされます。もっとも、この時は、「起て」とうたいかけた途端、検束され、あとは歌えませんでした。(喜)
〈参考〉矢沢保『自由と革命の歌ごえ*6』(新日本新書)

インターナショナル (歌) - Wikipedia
ソ連
 1944年までソ連の国歌とされた。1944年以降は国歌ではなくなったが、ソ連共産党の党歌とされ、共産党の党大会などで歌われた。しかし、1991年にソ連が崩壊すると、この歌を公式な場で歌う機会は少なくなっているが、今日でもロシア共産党の党歌として使われている。
◆中国
 中国では、中国共産党全国代表大会および中国共産党地方各級代表大会閉会の際に演奏される。周恩来首相は臨終の間際、「インターナショナル」の「インターナショナルは必ず実現する」の部分と「長征組曲」を口ずさみ死去したと言われる。
◆日本
ロシア革命5周年にあたる1922年(大正11年)、『種まき社』同人はその記念に日本語でインターナショナルを大々的に歌おうとの計画を立て、佐々木孝丸が訳詞を務めることになった。翻訳は小牧近江がフランスで入手したジョルジュ・ソレル編の『社会主義辞典』に楽譜とともに載っていた原詩をもとに作られた。
 これが日本におけるインターナショナルの第一声であるとされる。
・この佐々木による訳詞は原詩を逐語訳したものを無理やり音符に当てはめたものであり、力強さに欠けるところがあった。そのため、昭和の初めに佐々木と佐野碩によってリフレイン部分以外が改訳され、現在歌われている歌詞が誕生した。
・1946年の第17回メーデーにおいては、関鑑子の指揮で初めて公の場で合法的に「インターナショナル」が歌われた。

富裕層に富集中 格差広がる冷戦後に現れた「社会主義に好意的」な若者 - 毎日新聞2019年11月30日
<アライズ ヤ プリズナー オブ スタベーション(立て飢えたる者よ)>。
 木枯らしが吹く11月10日の米ニューヨーク・マンハッタン。雑居ビルの一室で2日間にわたって開かれた集会が終わりを迎えると、約90人の若者らが立ち上がって拳を振り、歌い始めた。革命歌「インターナショナル」。30年前、米国は資本主義を掲げる西側陣営を率い、東西冷戦を終わらせた。だが、その米国の経済の中心地で、社会主義の象徴である歌が高らかに響いていた。
 集会を開催したのは、ロンドンを拠点とする社会主義者団体「国際マルクス主義潮流」(IMT)の米支部。会場には「社会主義かバーバリズム(野蛮)か」とのスローガンが掲げられていた。書記長のジョン・ピーターソン氏が「億万長者や企業トップは我々を気にもかけない。社会主義のために闘おう」と訴えると、参加者は一様にうなずいた。
 米国では一部の富裕層に富が集中していることに不満が募る。学費ローンの返済に苦しむ若者や、医療保険料を支払えない人も多い。IMTメンバーのアントニオ・バルマーさん(27)は高校生だった2008年、リーマン・ショックで人生が変わった。世界的な金融危機の影響で建設業だった父親は仕事を失い、家も資産もすべて売り払った。
「家族みんなで祖母の家に転がり込んだ。その時に思った。資本主義っていったい何なのかと」。
 その年からインターネットで調べたIMTの活動に加わっている。
◆薄れてきた共産主義のタブー
 米ソ冷戦の記憶が残る米国では、社会主義共産主義はタブー視されてきた。だが、ソ連崩壊以降に生まれた世代の抵抗感は薄れている。彼らは反対派の粛清や飢餓で多数の死者を出したスターリン独裁体制(1920年代~53年)も直接は知らない。オース・メルチャさん(22)は教員になるために大学で学ぶが、週末は働いて、母と暮らす自宅の家賃を払っている。

【参考:『インターナショナル』の翻訳者・佐々木孝丸

出版:先人思いペン走らせ 高松のノンフィクション作家・砂古口さん、怪優・佐々木孝丸テーマに /香川 - 毎日新聞2017年2月24日【待鳥航志】
 高松市在住のノンフィクション作家、砂古口(さこぐち)早苗さん*7(67)は、香川に縁のある著名人について執筆してきた。昨年11月には3作目の著書として、県内で育った俳優・佐々木孝丸(たかまる)(1898~1986年)を取り上げた『起(た)て、飢えたる者よ:<インターナショナル>を訳詞した怪優・佐々木孝丸*8』(現代書館、税別2200円)を出版した。
「小さい香川にも、すごい人がたくさんいる。自分を貫いて生きた先人たちをもっと知ってほしい」。
 そんな思いがペンを取る原動力だ。
 佐々木孝丸はフランス語などを話し、大正期は翻訳者、昭和初期はプロレタリア演劇の俳優として活躍。戦後は多くの映画に出演した。

■映画と夜と音楽と…800 佐々木孝丸を知っていますか?: 映画がなければ...
 砂古口さんについては中西さんから事前に聞いていたのだけれど、「ブギの女王・笠置シヅ子*9」(現代書館・刊)を書いた人である。僕は本が出た当時に読んでいる。確か朝日新聞の書評欄で紹介されたので読んだのだと思う。大変、おもしろい本だった。笠置シヅ子香川県出身なので身近に感じていたが、著者も香川県在住だとは知らなかった。砂古口さんは宮武外骨の評伝「外骨みたいに生きてみたい」や「起て、飢えたる者よ〈インターナショナル〉を訳詞した怪優★佐々木孝丸」(共に現代書館・刊)も書いている。
 反骨のジャーナリスト宮武外骨については以前から興味があったが、実は香川県出身だと初めて知った。明治期に活躍した人だと思っていたけれど、昭和まで生きていたのだ。砂古口さんは母方の曾祖父が外骨と従兄弟にあたり、宮武外骨研究者としても知られている。また、佐々木孝丸は僕も好きな俳優だが、彼も香川県で育ったと初めて知った。その人が「インター」の訳詞者だったとは----。佐々木孝丸と聞くと、あの特徴のある重厚な声が甦る。口跡がよく、せりふがはっきり聞き取れる俳優だった。悪役俳優だと言えば確かにそうだが、あの重厚さは簡単に出せるものではない。やはり、ただ者ではなかったのだ。
◆「〈インターナショナル〉を訳詞した怪優★佐々木孝丸」を読む
 さっそく僕は「〈インターナショナル〉を訳詞した怪優★佐々木孝丸」を読んでみた。佐々木孝丸は大正期からフランス文学の翻訳、雑誌編集、演劇などにたずさわった人であり、エスペランティストとしても日本で第一人者だったなど、興味深い人生が綴られている。
 佐々木孝丸は、千秋実*10の岳父でもある。娘の佐々木踏絵と千秋実が結婚し、戦後、薔薇座という劇団を立ち上げる。薔薇座が公演した「堕胎医」という芝居を映画化したいと申し込んできたのが若き黒澤明だった。その芝居は黒澤嫌いの僕が珍しく好きな「静かなる決闘」(1949年)になった。黒澤明は俳優としての千秋実も気に入ったのだろう、「醜聞」(1950年)以来、ずっと起用し続けた。「羅生門」(1950年)の僧侶の役は印象深いし、「白痴」(1951年)、「生きる」(1952年)にも出ているし、「七人の侍」(1954年)では人情派の侍だった。
 佐々木孝丸も、黒澤作品には一本だけ出ている。「蜘蛛巣城」(1957年)だ。シェークスピアの「マクベス」を日本の戦国時代に移した物語である。主人公の鷲津武時(三船敏郎)は妻(山田五十鈴)に唆され、城主(佐々木孝丸)を暗殺する。親友だった武将(千秋実)も殺し、彼の亡霊を見て武時は狂っていく。ここでは佐々木孝丸は娘婿と共演していたのだ。しかし、誠実そうで人の良さそうな千秋実とは逆で、佐々木孝丸は雰囲気が重厚すぎてちょっと怖い。だから、政財界の黒幕、右翼の大物、暴力団のボス、政治家などの役が多かった。僕は記憶になかったが、大村文武主演の東映版「月光仮面」(1958年)では、赤星博士、つまり「どくろ仮面」を演じていた。
 佐々木孝丸がファーストシーンから登場し、あの心地よい重厚な声が聞けるのは、三島由紀夫が絶賛した「博奕打ち 総長賭博」(1968年)である。
 冒頭のシーンで、東京江東地区に強大な縄張りを持つ天竜一家の総長(香川良介)が、弟分の仙波(金子信雄)の紹介で右翼の黒幕(佐々木孝丸)に会っている。佐々木孝丸の明晰なセリフまわしが映画をピリッと締める。

古本夜話21 翻訳者としての佐々木孝丸 - 出版・読書メモランダム
 佐々木は昭和二年に文芸資料研究会(奥付発行所は文芸資料研究会編輯部で、発行人は上森健一郎)からジョン・クレランドの『ファンニー・ヒル』を翻訳刊行している。これは言うまでもないだろうが、昭和四十年になってまでも発禁処分を受けた『ファニー・ヒル』(吉田健一訳、河出書房新社)の最初の翻訳であり、もちろん戦前のイギリスやアメリカにおいても、このファニーという娼婦の物語は長らく禁書とされていた、有名なポルノグラフィであった。
 佐々木はスタンダールの『赤と黒』の最初の翻訳者でもあった。『赤と黒』は大正十二年に新潮社の『世界文芸全集』の二巻本で刊行され、昭和五年に円本の第二期『世界文学全集』第五巻に収録されているので、佐々木は円本の訳者だったことにもなる。
 だが私たちの世代にとって、佐々木孝丸といえば、東映ヤクザ映画などの名脇役の印象が強い。その中でもとりわけ印象深いのは、山下耕作の『博奕打ち 総長賭博』で、佐々木は右翼の黒幕を演じている。
 私と同じ一九七〇年にこの映画を見ていた鹿島茂も、佐々木の強烈な存在感がいつまでも残り、『甦る昭和脇役名画館』(講談社)の中で、その一章を佐々木に捧げている。そして鹿島は、佐々木が東映のみならず、日活、大映、松竹、東宝の六〇年代から七〇年代にかけてのヤクザ・ギャング映画二十作近くに黒幕的脇役として出演し、「政治的な権力欲やカリスマ性」を強く匂わせる黒幕を演じていると書いている。

佐々木孝丸訳『赤と黒』 - フランス語系人のBO-YA-KI
 ちなみに桑原武夫・鈴木正一郎編『スタンダール研究』(白水社、1986年)の年譜によれば、『赤と黒佐々木孝丸訳は:
大正11年(1922年)佐々木孝丸訳(新潮社「世界文芸全集」第8、第12巻)
昭和5年(1930年)佐々木孝丸訳(新潮社「第二期世界文学全集4」改訳、1巻)
昭和7年(1932年)佐々木孝丸訳(春陽堂「世界名作文庫」、前中後)
と出ていて、この時点までは『赤と黒』は佐々木孝丸の訳を読むしかなかった状態だったのですね。やっと昭和8年になって桑原武夫生島遼一訳の岩波文庫上巻、翌昭和9年に下巻が出てやっと佐々木訳独占状態が終わることになります。

初めて“佐々木孝丸"を観た | 誰も来ない廃園より
 ずいぶん前のこのブログでも書いたことだが、この佐々木孝丸、戦前からプロレタリア演劇の分野で活躍していた方。
 彼の仕事で現在にも伝わっている仕事と言えば、なんと言ってもあの超有名な革命歌「インターナショナル」日本語版の歌詞。
 この佐々木がやはりプロレタリア演劇活動家だった佐野碩と共作したものである。
 往年の映画ファンの記憶には、彼の姿はヤクザ映画の名脇役としてくっきりと刻まれているようだ。さらには黒澤明蜘蛛巣城」、テレビでも大河ドラマや「水戸黄門」にも出演してるとのこと。
 左翼の人なのになぜか右翼の黒幕やヤクザの親分といった「階級の敵」役が多かったらしい。
 単なる俳優にとどまらず、戦前には翻訳家としての活動も目立っていた(働きながらアテネ・フランセで仏語を学び、エスペラント運動にも終生関わっていた。高杉一郎*11の回想にも、エスペランティスト佐々木孝丸の名が登場する)。
 何よりスタンダールの代表作『赤と黒』、ジョン・クレランドの傑作官能小説『ファニー・ヒル』を最初に日本語訳したのが実はこの人だと知っては、こちらはただ呆然とするばかり。どんだけ幅広い活動してんだよ、と。
 さらに言うと、孝丸の娘と結婚したのが俳優・千秋実。その息子は現在も俳優として活躍中の佐々木勝彦氏である。

長崎の鐘 佐々木孝丸 - 脇役本
 新劇人に佐々木孝丸(ささき・たかまる、1898~1986)がいる。ヤクザの親分から保守系代議士、大物財界人、右翼の黒幕まで、名悪役として知られたバイプレーヤーである。
 新東宝映画とNHKドラマで演じた清瀬一郎*12東京裁判の被告側弁護人)、浅丘ルリ子原田芳雄のメロドラマ『冬物語』(日本テレビ、1972年11月~73年4月)の僧侶、高倉健の連続ドラマ『あにき』(TBS、1977年10月~12月)でやった鳶の親方など、“大ワル”以外もうまい。映画の遺作となった『小説吉田学校』(東宝、1983年)では、斎藤隆夫*13代議士にふんし、ワンシーンながら戦後政界長老の貫録を示した。
 佐々木孝丸は、いろんな映画とテレビに出た。テレビだけとっても、メロドラマから2時間サスペンス、時代劇、刑事ドラマ、特撮ヒーローモノまで、なんでもあり。ただそれは、戦後のこと。戦前のプロレタリア演劇全盛時代は、俳優をやりつつ、劇作家、翻訳家、演出家、劇団のプロデュースまで、新劇の世界で知らぬ者がいない“闘う演劇人”であった。
 その日々は、自伝『風雪新劇志:わが半生の記』(現代社、1959年1月)として一冊にまとめられている。ただし戦後のことは、触れていない。
 今年の春、神田神保町の古本市で雑誌『文藝讀物』(日比谷出版社)昭和24(1949)年5月号を見つけた。目次には、小尾十三*14伊馬春部*15玉川一郎乾信一郎といった書き手に混じって、佐々木孝丸の名がある。特別讀物『或る原子學者の半生:永井隆博士の事』。好きな役者の、未知・未見の記事との出会いはうれしい。
 駆け足で(ボーガス注:永井隆の)半生をたどっているけれど、永井に対する誠実な姿勢が感じられる。佐々木はなぜ、これを書いたのか。本作の末尾に「筆者附記」として、その経緯を明かす。

 この物語は、永井隆博士のことを書いたもので、この三月十七日から三越劇場で上演された「バラ座」の脚本をストーリー化したものです。脚本執筆にあたつては、永井博士の全諸著述を参考とし、然も博士の本質を見失わない範囲で、一篇の讀物として獨立の形をとりました。
(前掲書)

 薔薇座(漢字が難しいとの理由で佐々木は「バラ座」と書く)は、千秋実・佐々木踏絵(文枝)夫妻が、昭和21(1946)年5月に旗揚げした劇団である。その前後のことは、ふたりの共著『わが青春の薔薇座』(リヨン社、1989年5月)にまとめられた。
 踏絵は、佐々木孝丸の娘である。千秋と踏絵からすれば、戦前から活動する父の手腕は頼りだ。佐々木にとっても薔薇座は、大事な“演劇の場”となる。かわいい娘と娘婿が心血をそそぐ劇団で、若い俳優たちも多くいて、演劇人としてはやりがいがある。
 とはいえ、娘夫妻の劇団に関わることに遠慮もある。《僕とバラ座との間には、組織的な関係は何もない。僕とバラ座の関係といえば、この劇團に、僕の娘と婿がいるということだけだ》(佐々木孝丸「僕と薔薇座」『機関誌 薔薇座 東京哀詩號』劇団薔薇座、1947年1月)と書いた気持ちもわかる。そのうえでこう続ける。

 無論、いゝ仕事をさせたい、いい劇團にしてやりたいという気持は十分もつている。だから、關係はなくとも關心はある。いや、その點では人一倍關心をもつているということを正直にぶちまけるべきだらう。
(前掲書)

 その薔薇座が、永井隆を主人公に芝居をつくる。その実現に奔走したのは千秋実で、永井の著作をもとにした戯曲化を、義父の佐々木に依頼した。踏絵はのちに《佐々木は喜んで引き受けた》(『わが青春の薔薇座』)と書く。“闘う演劇人”にとって、原爆への怒りもあったはずである。
 薔薇座第8回公演『長崎の鐘』は、昭和24(1949)年3月17日から27日まで、東京・日本橋三越劇場で上演された。主人公の永井を、千秋実が演じた。『或る原子學者の半生』は同年5月号掲載なので、上演からまもない時期だった(佐々木の劇曲『長崎の鐘永井隆博士の諸著によりて』は『悲劇喜劇』1949年10月号掲載)。
 同公演の反響は大きく、大阪や九州でも上演された。仮建築の浦上天主堂講堂で上演されたときは、担架で運ばれた永井本人が観劇し、薔薇座の関係者を感激させた(永井隆は2年後に死去)。
 帰京後、財政的に劇団を維持できなくなった薔薇座は、第10回公演『冷凍部隊』(三越劇場、1949年8~9月)をもって解散した(菊田一夫に依頼した台本が完成しなかった、という事情も)。佐々木は、『冷凍部隊』(北條秀司作)を演出するとともに、部隊長の役で出演している。 
 翌昭和25(1950)年には、山本薩夫監督『ペン偽らず・暴力の街』(日本映画演劇労働組合・日本映画人同盟)で、暴力団の組長を演じた。女、老人、犬にいたるまで、容赦なくリンチを加える。その冷たく凄みのある演技は、今見ても色あせない。ここから、佐々木孝丸の名悪役人生(だけではないが)がスタートする。
 佐々木の没後、娘の踏絵(文枝)が、父の思い出を『悲劇喜劇』に寄せた。

 ギョロツク目玉で暴力団の親分や政治家などドスのきいた役が多かった。彼の子供の頃のアダ名は“馬の目”だったという。
「親父はよくスリに財布をスラれたなァ、スリの方が人を見る目があるよ、ギョロ目のくせにお人好しってチャンと見ぬいてる」とは千秋の感想。そしてまたこうもいう。
「親父は一生、仲間を裏切ったり卑劣なことをしたことのない男だったなァ」
(佐々木文枝「“闘う人”佐々木孝丸とギョロツク目玉」『悲劇喜劇』1992年6月号「特集・あの芝居、あの人(上)」)

*1:第二次安倍内閣官房副長官、第三次安倍内閣一億総活躍等担当相、自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣厚労相などを経て菅内閣官房長官(拉致担当相兼務)

*2:まあ、中国の「台湾は中国領」みたいなもんで一種のフィクションです。北朝鮮側も「韓国は自国領」としてるわけで、38度線は建前では国境ではなく停戦ラインに過ぎません。

*3:盧武鉉政権大統領秘書室長、「共に民主党」代表を経て大統領

*4:動画において「八幡浜市に愛着を感じる」と言いながら荒木が具体的な話は何もしないのが「?」ですね。

*5:1910~2006年。著書『ピカソ』(1986年、新日本新書)、『ランボオ』(1987年、新日本新書)、『エリュアール』(1988年、新日本新書)、『パリ・コミューンの詩人たち(新装版)』(1989年、新日本新書)、『アラゴン』(1990年、新日本新書)など(大島博光 - Wikipedia参照)

*6:1978年刊行

*7:著書『外骨みたいに生きてみたい:反骨にして楽天なり』(2007年、現代書館)、『ブギの女王・笠置シヅ子』(2010年、現代書館

*8:2016年刊行

*9:1914~1985年。1947年(昭和22年)に『東京ブギウギ』が大ヒット。以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれた。1952年、1953年、1956年のNHK紅白歌合戦に出場している(笠置シヅ子 - Wikipedia参照)

*10:1917~1999年。1985年(昭和60年)、伊藤俊也監督『花いちもんめ。』での老人役で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞(千秋実 - Wikipedia参照)

*11:1908~2008年。著書『極光のかげに:シベリア俘虜記』(1991年、岩波文庫)、『征きて還りし兵の記憶』(2002年、岩波現代文庫)、『わたしのスターリン体験』(2008年、岩波現代文庫)など(高杉一郎 - Wikipedia参照)

*12:1884~1967年。鳩山内閣文相、衆院議長など歴任(清瀬一郎 - Wikipedia参照)

*13:1870~1949年。戦前、浜口内閣内務政務次官、第2次若槻内閣法制局長官など歴任。戦後、吉田、片山内閣で行政調査部総裁(後の行政管理庁長官→総務庁長官)。いわゆる「粛軍演説」「反軍演説」で知られる(斎藤隆夫 - Wikipedia参照)

*14:1908~1979年。1944年上半期に八木義徳(1911~1999年)の「劉廣福」とともに、「登攀」で第19回芥川賞を受賞(小尾十三 - Wikipedia参照)

*15:1908~1984年。1947年(昭和22年)に、脚本を執筆したNHKの連続ラジオドラマ『向う三軒両隣り』が人気を博し、1948年(昭和23年)には東宝から映画化された(伊馬春部 - Wikipedia参照)。