新刊紹介:「歴史評論」2022年1月号(追記:『砂の器』の一部ネタばらしがあります)

 小生が何とか紹介できるもののみ紹介していきます。正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
◆特集『賄賂からみた公と私』
◆賄賂研究の射程(橋場弦*1
(内容紹介)
 今回の特集の総論的内容ですが、筆者が「古代ギリシャ」を研究テーマとするため、そうした点からの指摘が多くなっています。
 筆者曰く「古代ギリシャ」における「賄賂」批判は、「古代ギリシャで賄賂が横行していた」と見なすよりも「古代ギリシャ」において「賄賂を悪と見なす価値観が広く普及したこと」を示すに過ぎず、「賄賂を悪と見なす価値観」が広く普及したのは「古代ギリシャにおいて民主制が成立したからではないか」とのこと。
 筆者曰くヘロドトス『歴史』において「賄賂に触れた記述件数」は「古代ギリシャ>アケメネス朝ペルシャ」だが、これも「アケメネス朝ペルシャ古代ギリシャより清廉だった」と見なすべきではないとのこと。


◆ローマ共和制末期の選挙に見る公と私(丸亀裕司*2
(内容紹介)
 ローマ共和制初期においてはコンスルなどの公職に立候補した人間が「選挙民に対してパンとサーカス(食事や娯楽)を提供すること」が、不正な買収行為とは見なされておらず、公然と黙認されていたが、後期になると「弊害が大きすぎる」として、違法行為として法律で処罰されるようになった。


◆賄賂から見た秦の地域支配の一側面:『嶽麓書院藏秦簡』を手掛かりとして(椎名一雄*3
(内容紹介)
 『嶽麓書院藏秦簡』の記述からは賄賂について以下のことが読み取れると思われる。
1)従来の研究では、秦王朝においては「枉法行為(法律に反する行為を行うこと)」が認められなければ「贈収賄しても」処罰対象にならなかったと見なされていたが、『嶽麓書院藏秦簡』の記述からは「枉法行為」がなくても「処罰対象」であったと考えられる。
→なお、現代においては「枉法行為」が認められなくても贈収賄罪は成立する
2)秦王朝においては「罰金刑を受けた官吏」について現地住民が「爵位を返上すること」で罰の免除を認めるという「賄賂容認的な規定」が存在する。
→これについては今後の研究が必要だが「爵位の返上」については「金銭の提供」とは異なり、「国から与えられた物を返す」に過ぎず「悪ではない」とみなす価値観が成立していたと見られる。なお、こうした「爵位の返上」による「罰の免除」については墨家思想の影響があるとみられる。


◆日本古代・中世移行期の「賄賂」(中込律子*4
(内容紹介)
 日本古代、中世移行期(奈良、平安期)において、中央政府は「儒教的価値観」から賄賂を「違法行為」として処罰しようとしたが、結局、それは形骸化せざるを得なかった。
 「藤原道長」など「上流貴族(摂関家など)」に「下級貴族(受領)」が賄賂を提供することで「政治が回っていくこと」は「必要悪」と見なされ、「賄賂」は「政治の潤滑油」として事実上容認され続けたからである。
 「下級貴族(受領=国司)」は賄賂の提供で「上流貴族(摂関家)」から
1)実入りのいい任国への国司任命
2)国司の再任
3)国司在任中のトラブル解決への助力
などが得られることを期待していたとみられる。


◆歴史のひろば『日本中世における贈与社会論をめぐって』(湯浅治久*5
(内容紹介)
 桜井英治*6『贈与の歴史学』(2011年、中公新書)について論じられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、筆者は橋場弦『賄賂とアテナイ民主政』(2008年、山川出版社)、岡奈津子*7『〈賄賂〉のある暮らし:市場経済化後のカザフスタン』(2019年、白水社)を紹介し「古代アテネでは賄賂は悪とは考えられていなかったと思われること」「現在のカザフスタンでは賄賂が横行していると思われること」を指摘。
 「賄賂=悪」とは歴史的には当然の価値観ではなく「日本中世」は

徳政令 - Wikipedia
 当初は徳政令に慎重だった室町幕府は、1454年の土一揆を機に分一銭(ぶいちせん)として、債権額の1割を一種の手数料として幕府に納めた紛争当事者について、債権者の場合は当該債権の存続を許し、逆に債務者の場合には債務放棄できるようにする命令を出した。これは債権債務の1割が幕府の収入となったため、後に幕府財政再建のために濫用されることとなった。

ということで「現在の視点では賄賂の一種」と見なせる「分一銭」が存在するなど、むしろ「古代アテネカザフスタン」に近い「賄賂に寛大な世界だった」というのが筆者の認識である(今月号の中込論文『日本古代・中世移行期の「賄賂」』に近い認識)。
 勿論そこから一足飛びに

池田勇人*8自由党政調会長佐藤栄作*9自由党幹事長(いずれも後に首相)の造船疑獄
◆池田首相の九頭竜川ダム疑惑
 映画化、テレビドラマ化された小説『金環蝕』のモデルになったことで有名
◆田中*10元首相、橋本*11元運輸相らのロッキード事件
◆岸*12元首相らのダグラス・グラマン疑惑
◆竹下*13首相、宮沢*14蔵相、安倍*15幹事長、渡辺*16政調会長らのリクルート疑惑
◆橋本*17元首相、青木*18官房長官、野中*19官房長官日歯連疑惑
◆安倍*20元首相のモリカケ、桜疑惑

などの「自民党汚職体質」に結びつけることは「不適切」かもしれないが、「果たして、こうした中世の賄賂観と今の日本政治が、全く無関係といえるのだろうか」としている。


◆歴史のひろば・リレー連載『人類は感染症といかに向き合ってきたか?(7):明治前期の「衛生知識」普及と感染症対策』(竹原万雄(たけはら・かずお)*21
(内容紹介)
 明治時代のコレラ騒動(政府のコレラ対策への不信から暴動が発生)を紹介した上で「コレラ騒動への反省」から、政府によって「衛生知識の普及」がその後、進められたことが指摘される。
 なお、このコレラ騒動については奥武則*22感染症と民衆:明治日本のコレラ体験』(2020年、平凡社新書)という著書があるようですね。ちなみに奥氏の『ロシアのスパイ:日露戦争期の「露探」』(2011年、中公文庫)も「ロシアのスパイでも何でも無い人間をロシアスパイ扱いして迫害する」という「ロシアスパイ(露探)騒動」を扱った物でその点では「コレラ騒動」を扱った『感染症と民衆:明治日本のコレラ体験』(2020年、平凡社新書)と共通点があるといえるでしょう。
【参考:明治時代のコレラ騒動】

感染症の歴史研究者 竹原万雄が語る 「with コロナ時代」への向き合い方 | Web magazine GG(ジー・ジー)|芸工大の人・できごとを発信
◆インタビュアー
 先生の研究されているような歴史は、高校までの教科書ではほとんど取り上げられないですよね
◆竹原
 コレラとの関連では、「コレラ騒動」に関する研究が代表的なものとして挙げられます。明治政府は西洋医学と一緒に感染症予防も欧米から導入しました。現在も実施される消毒や隔離も、この時に導入されました。しかし、人々は家族と引き離されて隔離されたり、家中、消毒されることに抵抗します。「隔離病院では内臓をとられて外国に売られるらしい」、「消毒薬が実はコレラの原因なんだ」といったデマも流れました。しかも、当時の感染症予防は警察が中心になって強制的に進められました。その結果、各地で警察などと衝突する「コレラ騒動」が起こりました。
 この騒動は、江戸時代以来の慣習を信じて新しい西洋文明を受容できない当時の民衆の心性がはっきりと表われます。この民衆の心がどうやって西洋医学を受け入れるようになるのか、といった心の変化に興味を持ちました。当時の人が書いた日記が一番良い史料ですが、そういった日記はなかなか見つかりません。ですので、当時の新聞記事を読みながらコレラを巡る民衆の行動や心性を読み取っていきました。
 しかし、民衆の行動を知るためにも、隔離や消毒を進める政府の対策を理解しておく必要があります。そこで行政文書なども見ていったのですが、そうしたら意外にも民衆の抵抗に理解を示しながら対策を試行錯誤する政府の姿も見えてきました。そこで、「支配者」の政策を追いかけるのも面白いことに気付きました。
 ですので、政府の対策と民衆の動向を照合しながら、感染症を巡る社会の様子を見ていくのが一つの研究スタイルになりました。
◆インタビュアー
 コロナ禍について、歴史学の研究者の立場から感じることはありますか?
◆竹原
 私がコレラ流行についてじっくり研究しているのは明治初頭から30年間くらい、19世紀末くらいまでです。当時の史料を見ていてよく問題として挙がっているのは、患者の隠蔽です。
 コレラに罹患すると、行政に届け出ないといけないわけですが、患者やその家族はそれを隠そうとするわけです。その理由としては、隔離されたくないということが挙げられます。当時の隔離施設は掘っ立て小屋のようなものであったり、医者や看護師が十分にいなかったりなど、とても劣悪な環境でした。また、現在のコロナ禍と同様に、患者になったら働くこともできません。
 そして一番厄介なのが、患者になることで周りから避けられてしまうことです。現在でいうところの患者の「差別」です。「差別」されたくないから隠す。
 そこで政府がとった対策が、家を一軒一軒チェックして患者がいないかを探しだす戸口調査です。ここには人権問題が絡んできますが、患者を放っておくと感染が拡大してしまいます。新型コロナの場合は致死率が2%程度ですから、強権的な対応は極力控えられているのかもしれませんが、これが(ボーガス注:明治時代のコレラのように致死率)60%となると(ボーガス注:明治新政府の強権発動と同じで)そうもいかなくなると思います。
インタビュアー
 この時代、歴史研究者にはどのような役割があると思いますか
竹原
 過去の検証と今の記録が大切だと思います。スペイン・インフルエンザを取り上げながら、感染症についても「歴史に学ぶ」という言葉がマスコミでちょこちょこ見受けられますが、それはコロナ禍になってからです。過去と同じようにデマが流れ、患者「差別」も見られ、それで「同じ過ちを繰り返している」、「歴史に学べ」と言われますが、結局、一過性のもので学んだ結果、どうするかまでは詰め切れていない気がします。
インタビュアー
 最後に、学生や受験生に向けてメッセージをお願いします
竹原
 今回、不幸にも世界的な感染症の大流行を経験してしまいました。しかし、経験してしまったからには何かに生かしてほしいと思います。経験することで歴史の見方も変わります。
 今回の新型コロナでも、いまだ収束が見えないなか、過去の感染症をどのように乗り越えて来たのか、乗り越えた後の社会がどうなるかに関心が集まっているように思います。

 一番厄介なのが、患者になることで周りから避けられてしまうことです。というのは

「砂の器」(1974年) セリフ集 | あきら・ド・クリエ へ、いらっしゃい。参照
◆今西刑事(丹波哲郎
 彼ら2人に故郷まで捨てさせたものは何でありましたでしょうか。
 それは父、千代吉の病気、当時としては不治の病と言われた「らい病」であったのであります。
 この親と子がどのような旅を続けたのか、私はただ想像するだけで、それはこの2人にしか分かりません
(中略)
◆吉村刑事(森田健作)
 今西さん、和賀は父親に会いたかったんでしょうね
◆今西刑事(丹波哲郎
 そんなことは決まっとる!。今、彼は父親に会っている。彼にはもう音楽の中でしか父親に会えないんだ
ハンセン氏病は 医学の進歩で 特効薬もあって現在では完全に回復し 社会復帰が続いている。
 それをこばむものは まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみで本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない。
 しかし 旅の形はどのように変っても親と子の"宿命"だけは永遠のものである。

という「砂の器ハンセン病)」を連想させる話です。小生も「砂の器」ファンなのでこうして折に触れて「砂の器」を宣伝しておきます。

<BOOKガイド>『感染症と民衆』 奥武則著: 日本経済新聞
◆『感染症と民衆』奥武則著
 新型コロナウイルスの感染が拡大する今、明治期の日本で流行したコレラを巡る体験に着目した一冊。医者や巡査への襲撃騒動、コレラを追い出そうと神仏にすがる祭り。高い致死率を持つ感染症への恐れや新しい規律で生活を乱されたくないという民衆の空気感を詳細に描いている。
 コレラが流行した当時に比べれば医療技術も感染症への社会の理解も進んでいる。ただ本書を読み進めていくと、政府の対策や民衆の反応については現代と類似する点があるように感じられてくる。

たたかうあるみさんのブログMKⅡ : 感染症と民衆
 本書は主に明治期前半におけるコレラ流行時における「コレラ騒動」について紹介し、考察した本である。
 明治の人々にとって、コレラはどういう病気だったのか、近代国民国家に向けて走り出したばかりの政府は、コレラ流行に対して、どのように対応したのか。そこには伝統的生活世界に生きる民衆と政府のあいだにさまざまなかたちの軋轢が生じた。これが本書で中心に取りあげる「コレラ騒動」と呼ぶ出来事にほかならない。(p8~9)
 「コレラ騒動」はいろいろあって、例えばコレラ流行時に防疫や患者の治療に献身的に尽くしているにもかかわらず「コレラ医」がコレラを広めているとされて殺されてしまう医者がいたり、同じく貿易や患者の隔離に走り回る巡査が暴行・殺害されたり、あるいは避病院(簡易に設けられる隔離病棟)の開設に反対したり…そういった場面で人々は「民衆暴力*23」をふるっていたわけだ。
コレラ騒動」あるいはコレラ避けの「コレラ祭」を起こす民衆の側からは「避病院に行きたくない」「家族も行かせたくない」「患者を自宅で看取りたい」「漢方による調剤で治療して欲しい」といった要求が掲げられている。こういった要求は単なる民衆の「無知蒙昧」ということで片づけられるものではなく、そこには
 コレラ騒動は一連の新政反対一揆と同じように「おれたちはこのままでいいのだ」という伝統的生活世界に生きる民衆の心情を背景にしていることは確かである。(p172)
 問題は、「知識の量」ではないのだ。すでに何度か指摘したように、伝統的生活世界に生きる民衆には、長く培ってきた病に対峙する知恵があった。この世を生きる人間には、老・病・死は不可避なものとして存在する、老いを許容し、病と対峙しつつ、死を迎える。こうした不可避なものに対して伝統的生活世界に生きる民衆が持っていた知恵は、当然に倫理というべきものを生み出した。コレラ予防をめぐって国家は公衆衛生の名による医療の倫理を掲げて、この倫理の世界に踏み込んだのである。(p180)

 要は「伝統的生活世界」と「近代社会」との対立、というか、近代日本が避けて通る事のできなかった近代への移行過程における摩擦が「コレラ騒動」なのである。明治期におけるコレラ流行は「明治十二年流行(1879年 患者数16万人、死者10万人)が最悪であり、その時に「コレラ騒動」も多発したのだが、次の大流行である「明治十九年流行(1886年 患者数15万五千人、死者10万人と、79年と同規模)では、「コレラ騒動」は下火になっている。この間に国家の側から、公衆衛生や防疫体制の整備が進められ、「伝統的生活世界」を圧倒するようになったのであろう。

新型コロナが引き出した大衆の深層心理の闇:日経ビジネス電子版
 1879年(明治12年)の大流行では、患者は感染病専門病院に収容され、自宅療養患者の家族は外出禁止など、感染を防ぐための配慮から隔離する措置が執られていた。
 また、感染予防のために魚介類や生鮮食品の販売が禁止され、関係者は大打撃を受ける。そんな折も折、新潟町(過去の文献の記載のまま)では大火や洪水が発生し、米価が急騰。人々のコレラへの恐怖心や不安感はピークに達することになった。
 恐怖の矛先はコレラ患者と警察に向けられ、ついに沼垂町では竹やりなどを手にした人々が警察や病院などを破壊。駆けつけた警察によって鎮圧されるも死者を出す事態に発展したという。
 そういった異常事態は全国にも伝わり、「沼垂ではコレラに感染すると殺すらしい」「警察は人の生き肝を米国に売っているらしい」「コレラの原因は毒まきが毒をまくためだ」といった噂話が広がり、「毒まき」と疑われた人が市民の手によって警察に連行される騒ぎも起こる。
 「死刑にしろ!」と騒ぎ立てる市民と、それを鎮圧しようとする警察との間で衝突が起こり、暴動に発展するなど、異常事態の連鎖が続いたそうだ(鏡淵九六郎編『新潟古老雑話』より)。
 とまぁ、今とは時代が違うので「昔話」のように思えるかもしれないが、今回の新型コロナウイルスでも「動物からの感染じゃないらしい!」「ウイルス兵器の実験中だったものじゃないか?」などとSNSで発信しているメディアもある。

デマや誤情報が駆り立てた「異常行動」「糾弾」だけでは不十分な理由
 松山巖*24の『うわさの遠近法*25』によると、1877年(明治10)10月に千葉の鴨川でコレラ患者が出たとき、漁師たちのあいだで、「コレラが流行するのは小湊町のある医師と警官が井戸に毒薬*26を入れ、病院に隔離した患者の生き胆を投げ入れているためだ」とのうわさが立った。そこへまた患者が発生したため、その医師が隔離しようとすると、漁民は反対して彼を追い詰めたので、医師は川に飛び込んで逃げようとして溺死(できし)した。
 コレラ騒動は一揆まで引き起こし、1880年(明治13)に9件も発生したことが記録に残っている。当時の報道から一揆の原因を推測すると、役人が井戸に消毒薬を入れるのを見て毒を流し込んだと誤解したとか、「病院に入ると西洋人に生き胆を抜かれる」とかいったうわさが基になったようである。

感染症や災害時にデマはなぜ広がるのか(明治期のコレラ騒動より)|真山知幸(著述家・編集者)|@mayama3|note
 明治期に爆発的に流行し、37万人の死者を出したコレラのときも、やはり政府への不満が爆発していた。このときは暴動にまで発展し、暴徒と化した民衆が、警察署や病院を襲撃。デマを流された人は撲殺されるなど、死者が出る騒ぎにもなった。

No.90 平成18年7月1日号 シリーズ・災害と闘う3 「コロリ」の恐怖 鷺沼村のコレラ一揆 習志野市ホームページ
 千葉県は鷺沼村に役人を派遣し、コレラ退治に立ち上がります。役人たちの奮闘により、コレラの被害も下火になり、さらに被害の拡大を防ぐため、コレラの病死者を火葬するための焼き場を建てようとします。しかし、隣接する久々田(くぐた)村(現在の津田沼)の人々は、「火葬場の煙を吸ってコレラにかかる」という迷信を信じ、火葬場の建設を止めようとして大挙して鷺沼村に押し寄せます。その数170名ほど。手に凶器を持った多くの村人を前にして、県の役人は丁寧に説明し何とか騒動を静めようとしますが、暴徒と化した村人は村長や県の役人に襲いかかります。最後には周辺の警官を動員して何とか騒動をおさめましたが、このような騒動は各地で発生していたようで、「コレラ一揆」と呼ばれています。
 例えば、同じころ鴨川(注釈4)では、医師の沼野玄昌(ぬまの・げんしょう)が、伝染病予防のために撒まいていた白い消毒薬をコレラの病原菌を撒いていると勘違いされ、ついには大勢の村人に撲殺されるという事件も起こっています。

先人からのメッセージ~碑に刻まれた災禍の記憶~ ③ | コレラまん延防止を誤解され犠牲に 鴨川市「医師殉難の碑」 | Security News for professionals
 多くの医者が感染を恐れてしり込みする中でも玄昌は臆せず患者のもとに駆けつけ、患者の隔離や石灰消毒を積極的に行った。場合によっては患者を自ら背負って運ぶこともあったという。合理的思考の持ち主で豪放磊落。医学の進歩のためと、当時はまだタブー視されていた死体解剖にも熱心だった。悲運なことに、そうした面が裏目に出てしまった。住民たちの中に、「玄昌は井戸に毒を投げ入れ、患者の生き胆を抜く」というとんでもない噂が流れるようになった。そして、1877年11月21日、鴨川の警察から、地元の医者が診ようとしないとの訴えを受けて駆けつけた玄昌を、根も葉もない流言飛語を信じた十数人の住民が、槍や鎌、棒を手に襲った。
 事件は小説にもなっている。証言や史料、現場を踏まえた作風で知られ、「戦艦武蔵」「天狗争乱」などの作品がある作家・吉村昭(1927~2006)の短編「コロリ」(初出「別冊文芸春秋127号」=1974年、文春文庫「磔」所収)である。
 吉村昭は「文庫版のためのあとがき」の中でこう書いている。「『コロリ』は、中学時代の友人である三浦謹一郎君と同期会の席で、かれの祖父・沼野玄昌の話をきいたことがきっかけで書いた。かれの家に所蔵されていた資料を借用し、現地調査もした。明治初期の大変動期に生きた玄昌の壮絶な、しかも悲哀にみちた死に心を動かされたのである」
 鴨川市郷土資料館によれば、地元では事件について語ることが憚られる空気があった。襲撃に関わった住民は裁判にかけられ、刑に服した。服役中に死亡したり、服役後に精神に異常をきたしたりした人もいたという。「負の記憶」であることを考えれば無理からぬことかもしれない。それでも1976(昭和51)年、当時の鴨川市長や天津小湊町長、地域の医療関係者らは、翌年が没後100年に当たるとして「百年忌記念行事実行委員会」を結成して殉難の地、同市貝渚の加茂川右岸を汐留公園に整備して碑を建てた。
 日本のコロナ禍は、横浜港に停泊した豪華客船「ダイヤモンド・プリンセス号」での患者増加が連日報道されたことで深刻度が認識されるようになった。そこで患者に対応したのが日本災害医学会などの医療関係者だ。しかし、あろうことか、その現場で事態改善に尽力した人たちが、職場で「バイ菌」扱いされたり、子どもが保育園・幼稚園から登園自粛を求められたりする事態が起こった。職場管理者から活動をとがめられて謝罪を求められる事例まであった。同医学会は昨年2月、抗議声明を出し、偏見や先入観に基づく行為は許されないと訴えた。国も、新型コロナの対策特別措置法を改正して差別や偏見を防止する規定を設けたが、いまだ成果が上がっているようには思えない。玄昌先生が今の日本を見たらどう思うだろうか。


◆歴史の眼・リレー連載『21世紀の災害と歴史資料・文化遺産(7)平成30年7月豪雨と史料レスキュー:広島歴史資料ネットワークの活動と課題』(石田雅春*27、伊藤実、下向井祐子)
(内容紹介)
 「槇林家文書の保存作業」など平成30年7月豪雨での広島歴史資料ネットワークの活動が紹介されていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考

収蔵文書展「災害を語る歴史資料」 4(6) | 広島県
 冷凍保管した槇林家文書の解凍と乾燥作業は,12月10日から13日の四日間,国立歴史民俗博物館の天野真志氏*28の指導のもと,神戸市の史料ネットほか各地の史料ネットの協力を得て,広島史料ネットのボランティアや広島市公文書館職員の皆さん,当館職員など,延べ79名が参加して行いました。

収蔵文書展「災害を語る歴史資料」 4(8) - 広島県立文書館(もんじょかん) | 広島県
 当館は,広島大学文書館と被災時の相互協力協定を結んでいます。この協定による支援として,広島市立深川小学校の公文書の乾燥作業と,槇林家文書の帳面類,葉書・書簡類の固着開披やドライクリーニング(汚れやカビの除去)を広島大学文書館に依頼し,作業を分担していただきました。
(中略)
 広島県内でも,被災直後の7月,広島歴史資料ネットワーク(広島史料ネット)が再組織されて活動を開始し,広島史料ネットのボランティアの皆さんとの協働は,長期間にわたった保全活動の大きな支えとなりました。


◆書評:加藤聖文*29『海外引揚の研究:忘却された「大日本帝国」』(2020年、岩波書店)(評者:木村健*30
(内容紹介)
 評者は基本的には加藤著書を評価しながらも

海外引揚の研究 - 岩波書店
第2章:満洲国崩壊と在満日本人引揚問題―満洲
第3章:引揚体験にみる脱植民地化の特異性―台湾・中国本土
第4章:ソ連の北東アジア政策と日本人引揚問題―大連・北朝鮮南樺太
第5章 救護から援護へ―京城*31日本人世話会と引揚者団体
 第1節 京城日本人世話会と南朝鮮*32引揚
第6章:引揚体験の記憶化と歴史認識満洲引揚者の戦後史

という目次からもわかるように

満州(第2章、第6章)」「台湾、中国本土(ただしソ連支配下の大連は除く)(第3章)」「大連、北朝鮮南樺太*33(第4章)」「南朝鮮(第5章)」

が取り上げられていても

「東南アジア」「南洋諸島パラオ*34など)」

からの引き上げについては「触れなかった理由」はともかくほとんど触れられていないことを残念がっており「今後、東南アジア、南洋諸島パラオなど)からの引き上げについても著書としてまとめてほしい」旨、指摘している。

*1:東京大学教授。著書『アテナイ公職者弾劾制度の研究』(1993年、東京大学出版会)、『古代オリンピック』(共著、2004年、岩波新書)、『賄賂とアテナイ民主政』(2008年、山川出版社)、『民主主義の源流:古代アテネの実験』(2016年、講談社学術文庫

*2:学習院大学非常勤講師。著書『公職選挙にみるローマ帝政の成立』(2017年、山川歴史モノグラフ)

*3:大東文化大学非常勤講師

*4:学習院大学講師。著書『平安時代の税財政構造と受領』(2013年、校倉書房

*5:専修大学教授。著書『中世後期の地域と在地領主』(2002年、吉川弘文館)、『中世東国の地域社会史』(2005年、岩田書院)、『戦国仏教:中世社会と日蓮宗』(2009年、中公新書)、『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』(2012年、吉川弘文館)、『中世の富と権力:寄進する人々』(2020年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*6:東京大学教授。著書『日本中世の経済構造』(1996年、岩波書店)、『破産者たちの中世』(2005年、山川出版社日本史リブレット)、『室町人の精神』(2009年、講談社学術文庫)、『交換・権力・文化:ひとつの日本中世社会論』(2017年、みすず書房

*7:著書『中央アジア朝鮮人』(共著、2006年、東洋書店ユーラシア・ブックレット

*8:大蔵次官から政界入り。吉田内閣蔵相、通産相自由党政調会長(吉田総裁時代)、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相

*9:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、自由党幹事長(吉田総裁時代)、岸内閣蔵相、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*10:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、佐藤内閣通産相自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)などを経て首相

*11:池田内閣建設相、佐藤内閣官房長官、建設相、運輸相、自民党総務会長(佐藤総裁時代)、幹事長(田中総裁時代)など歴任

*12:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*13:佐藤、田中内閣官房長官、三木内閣建設相、大平、中曽根内閣内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*14:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、福田内閣経済企画庁長官、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣蔵相

*15:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*16:福田内閣厚生相、大平内閣農水相、鈴木内閣蔵相、中曽根内閣通産相自民党政調会長(竹下総裁時代)、宮沢内閣副総理・外相など歴任

*17:大平内閣厚生相、中曽根内閣運輸相、自民党幹事長(宇野総裁時代)、海部内閣蔵相、自民党政調会長(河野総裁時代)、村山内閣通産相などを経て首相。首相退任後も森内閣行革相

*18:小渕、森内閣官房長官自民党参院幹事長、参院議員会長など歴任

*19:村山内閣自治相・国家公安委員長小渕内閣官房長官自民党幹事長(森総裁時代)など歴任

*20:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官などを経て首相

*21:東北芸術工科大学准教授。著書『明治時代の感染症クライシス:コレラから地域を守る人々』(2015年、蕃山房)、『近代日本の感染症対策と地域社会』(2020年、清文堂出版

*22:法政大学名誉教授。毎日新聞学芸部長、編集局次長、論説委員、論説副委員長など歴任。著書『スキャンダルの明治』(1998年、ちくま新書)、『大衆新聞と国民国家:人気投票・慈善・スキャンダル』(2000年、平凡社選書)、『論壇の戦後史・1945-1970』(2007年、平凡社新書→増補版、2018年、平凡社ライブラリー)、『熟慮ジャーナリズム』(2010年、平凡社新書)、『ロシアのスパイ:日露戦争期の「露探」』(2011年、中公文庫)、『ジョン・レディ・ブラック:近代日本ジャーナリズムの先駆者』(2014年、岩波書店)、『幕末明治新聞ことはじめ:ジャーナリズムをつくった人びと』(2016年、朝日選書)、『黒岩涙香』(2019年、ミネルヴァ日本評伝選)など(奥武則 - Wikipedia参照)

*23:民衆暴力については藤野裕子『民衆暴力:一揆・暴動・虐殺の日本近代』(2020年、中公新書)と言った著書があります。

*24:著書『都市という廃墟:二つの戦後と三島由紀夫』(1993年、ちくま文庫)、『乱歩と東京』(1994年、ちくま学芸文庫→1999年、双葉文庫)、『百年の棲家』(1995年、ちくま学芸文庫)、『世紀末の一年:1900年ジャパン』(1999年、朝日選書)、『群衆:機械のなかの難民』(2009年、中公文庫)、『須賀敦子の方へ』(2018年、新潮文庫)など

*25:1997年、講談社学術文庫→2003年、ちくま学芸文庫

*26:「井戸に毒薬」ねえ。「関東大震災での朝鮮人虐殺デマ」と全く同じことには暗澹とします。

*27:広島大学准教授。著書『戦後日本の教科書問題』(2019年、吉川弘文館

*28:著書『幕末の学問・思想と政治運動:気吹舎の学事と周旋』(2021年、吉川弘文館

*29:国文学研究資料館准教授。著書『満鉄全史』(2006年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『「大日本帝国」崩壊』(2009年、中公新書)、『満蒙開拓団』(2017年、岩波現代全書)、『国民国家と戦争:挫折の日本近代史』(2017年、角川選書

*30:下関市立大学名誉教授。大阪経済法科大学客員教授。著書『在朝日本人の社会史』(1989年、未来社)、『一九三九年の在日朝鮮人観』(2017年、ゆまに書房)、『近代日本の移民と国家・地域社会』(2021年、東京大学出版会

*31:今のソウルのこと

*32:引揚は韓国建国(1948年8月)以前から行われているため「南朝鮮」と表現されている。赤旗「韓国」「北朝鮮」と呼ぶわけは?のような意味合いで「南朝鮮」と呼んでいるわけではない。

*33:いずれもソ連支配下にあったという共通点があるため、大連、北朝鮮南樺太が同じ章(第4章)で取り扱われている。一方、大連以外の中国本土は「中国支配下」、南朝鮮は「米国支配下」にあったため、「大連、北朝鮮」を取り上げた第4章とは別の章(「大連以外の中国本土」は第3章、南朝鮮は第5章)で扱われている。

*34:近年、上皇夫婦(訪問当時は天皇・皇后)が訪問し、また、武田一義のマンガ『ペリリュー 楽園のゲルニカ』で知られるようになった。