加藤武についていろいろ(2023年3月12日記載)

 新刊紹介:「経済」2023年4月号 - bogus-simotukareのブログ加藤武について「ネタとして」簡単に触れましたが、こっちで「加藤武でヒットしたはてなブログ」をネタにいろいろと書いておきます。

加藤武 × 野上照代 トークショー レポート・『蜘蛛巣城』『どん底』『悪い奴ほどよく眠る』(1) - 私の中の見えない炎2015.6.3
 巨匠・黒澤明監督の作品の常連俳優と言えば三船敏郎仲代達矢志村喬など多数いるけれども、加藤武もそのひとりで『蜘蛛巣城』(1957)や『隠し砦の三悪人』(1958)、『用心棒』(1961)、『乱』(1985)などに出演している。
 6月、池袋にて加藤武氏と野上照代氏のトークショーがあった。
 野上氏は『生きる』(1951)以降の黒澤監督作品にスクリプターとして参加。『天気待ち:監督・黒澤明とともに*1』(文春文庫)やその増補版『もう一度天気待ち*2』(草思社)などの優れた著作もある。6月に『黒澤明・樹海の迷宮:映画「デルス・ウザーラ」全記録1971-1975*3』(小学館)が発売。
(中略)
 『どん底』(1957)にもわずかに出演しているが、クレジットにない。
加藤
「『どん底』では最後に出るお役人なんだけど、タイトルに名前がない!(一同笑) いま文句を言っても仕方がない。三船さん、山田五十鈴さんとかオールスターキャストの最後に出てくるのがおれなんだけど。」
 黒澤プロ設立後第1作『悪い奴ほどよく眠る』(1960)では、大役に抜擢された。
加藤
藤原釜足さんを誘拐監禁していて、ぼくは階段を上がって行ってドアを開けてチャーハンを与える。そこで監督が「緊張してる、もっと軽やかに階段を上がれ」って。
(中略)
 30回まで数えてたけど、それ以降は意識が朦朧(笑)。三船敏郎さんは、ぼくの芝居が済んでから出てくるから、ずっと待ってるんです。おれはもう泣きそう。「リラックス!」って言われるけど、できるわけない。三十何回目、三船さんが冷たい水をそっと渡してくれて。飲んだら気持ちが落ち着いて、スーッとうまくいった。ぼくは三船さんに足向けて寝られない。こういうとき普通なら、先輩は厭な顔するよ。そういうことは何も言わない。あの思いやり、いまだに身に沁みてますね…」
野上
「三船さんは初めからスターで、下積み時代がない。だからこそ、すごく気を使う人なのよ」

加藤武 × 野上照代 トークショー レポート・『用心棒』『天国と地獄』『乱』(2) - 私の中の見えない炎2015.6.3
 加藤武氏は、黒澤明作品の中でも特に人気の高い『用心棒』(1961)にも出演。
加藤
「現場では黒澤監督に怒られてばかり。仲代達矢さんは淡々と喋ってOK。三船(三船敏郎)さんもガーッと全身で芝居してOKで全然怒られない。
 『用心棒』では黒澤さんが上から「加藤ーっ」って怒鳴ると、大先輩の加東大介さんが 「すいません」って。申しわけなくて土下座しました」

 加藤氏は「2015年7月31日死去(加藤武 - Wikipedia参照)」なのでこのトークショーからたった1月程度で急死したわけです。
 それはともかく、大ベテランの加藤氏も若き日は下積みとして苦労していたわけです。

加藤武さんのこと: 土田頁2015年10月08日(土田英生*4
 加藤武さんの劇団葬に参列しながら、いろんなことを思い出した。
 もちろん、そのほとんどは加藤武さんへの感謝だ。
 私がバイトをやめて、演劇で生活させてもらえるようになったのは29歳の時だった。
 その頃、外部から台本の依頼をしてもらうようになったからだ。
 京都でお蕎麦やさんのアルバイトをしながら、細々と活動をしていたのに、突然、環境が変わった。
 きっかけはマキノノゾミさん*5から劇団M.O.Pに書き下ろしてくれと頼んでもらったことだった。「遠州の葬儀屋」という芝居を書いた。そこから急に色々な方から声をかけてもらえるようになった。G2プロデュース「いつわりとクロワッサン」、パルコプロデュース「BOYS TIME」、草彅剛「ヴォイス」と立て続けに書かせてもらった。
 そして、その翌年、文学座劇団青年座からほぼ同時に新作の依頼をもらった。
 自分がまさかそうした老舗劇団に台本を書くことなど想像もしていなかったので、とても嬉しかったのを覚えている。これでもう自分はプロの劇作家としてやっていけるんだと思ったりした。
 劇団青年座には高畑淳子さん主演の「悔しい女」、そして文学座に書かせてもらったのが加藤武さん主演の「崩れた石垣、のぼる鮭たち」だ。
 しかし、その頃の急激な環境の変化に対応できず、私はやや精神のバランスを崩した。
 その2作を書いている途中、初めて連続ドラマ*6の脚本の依頼があり、打合わせがスタートしていた。テレビなんかほとんど初めてなのに、チーフライターとして書くことになっていた。テレビの中で見ていた人たちと会い、派手な記者会見に出席する。京都と東京を往復し続けた。
 そして、段々と神経症的な症状が出るようになったのだ。
 劇団青年座にも迷惑をかけ、締め切りを4ヶ月すぎてやっと初稿を出した。
 そして、文学座の方はさらに遅れた。
 なかなか書き終わらなかった。
 その公演は中部地方の演劇鑑賞団体と文学座がタッグを組んだ企画だったので、多くの人たちがお金を出していた。
 ある日、様々な鑑賞団体が集まる場で私は話をすることになっていた。
 そして台本が完成しないまま、徹夜で静岡に向かった。
 壇上にのぼって、加藤武さんと私、そして演出の西川さんの三人で話をした。
 しかし台本が書けていない状態の私は……とても小さくなっていた。
 質問コーナーがあり、そこでは辛辣な意見が出た。
 お金を出資している人たちからすれば、もっと有名で信用のおける劇作家に書いて欲しいと思うのは当然だ。
 矢継ぎ早にそうした意見が出る。
 永井愛さん*7はダメだったんですか? 鐘下辰男さん*8はどうだったんですか? 私はマキノノゾミさんが良かった……なのに、本が遅いってどういうことですか?
 立ち上がって喋る人は、皆、そんな意見だった。
 私に味方はいない。
 ただ小さくなって黙っていた。
 と、加藤武さんがマイクを取った。
 そして静かな声で言った。
 「私たちは芸者でございますので、皆様方あってのことだと思っております。なので何の文句もございません。しかし、どんな有名な作家でも最初は無名でございます。あなたたちは、私たち、文学座に今回のことを任せてくださいました。そして……」
 そこで加藤さんは一旦黙った。
その、任せていただいた私たちが選んだ作家なんですから、黙ってできを待ってろ……というような、思いもございます
 と、一気に言ってマイクを離した。そしてそのマイクを私に渡し、
「おい、黙ってないでなんか言いなさい」
 私は今でもダメダメ人間だが、その時はもっと弱かったので、そこで泣いてしまった。
 別れ際、お礼を言った私に加藤さんは怖い表情で「お礼なんていいから、しっかり書いてくれ」
(中略)
 それは三ヶ月もあるロングランだった。
 私は一ヶ月くらい経ったある日、久しぶりに観に行った。
 ああ、あれも静岡だ。
 そして終演後、作家を囲む会を開いてくれた。
 加藤武さんの横に座った私は色々と話をさせてもらった。台本の話、演出の話。と、その中で酔ったスタッフの一人が呟いた。
「俺たちはこのつまんない台本に12月まで付き合わないとダメなんだからさ……」
 私は固まった。
 何を言われたのか、一瞬、理解できなかった。
 「あれ? 悪口を言われたんだなあ」とやっと判りかけた時だった。
 机をバンと叩き、加藤武さんが立ち上がった。
おい! お前! 何を失礼なこと言ってるんだ? お前はそんなにえらいのか! 俺たちはな、この人の書いた台詞を一生懸命に稽古して、それで舞台をやってるんだよ! 帰れ! 今すぐ消えろ!*9
 そのスタッフは土下座して、すぐに帰らされた。
 そして加藤さんは私に頭を下げた。
 ちなみに加藤武さんはお酒を飲まない。飲めない。
 しかし、頭をあげた加藤さんはお店の人に向かって言った。
「……大きな声を出し、みっともないところ見せて申し訳ございませんでした。この店で一番いいワインを一本開けていただけませんか?」
 周りが焦った。
 そして「武さん、飲めないでしょ」などと諭し出した。
 しかし、加藤さんはガンとして譲らなかった。
作家さんにこんな迷惑をかけておいて、飲めるも飲めないもあるか、俺は今日、土田さんと朝まで飲む
 そして実際に三時頃まで加藤さんと飲んだ。
 フラフラになった加藤さんはタクシーに押し込まれるようにしてホテルに帰った。
 そして数年後。
 関西のある駅のホーム。
 ファンに囲まれている加藤武さんと偶然お会いした。
 私は「あ」と思ったが、邪魔してはダメだと思い、会釈して通り過ぎた。
 すると後ろから「土田君」と大きな声がした。
 武さんはそのファンの人たちに「友人と会いましたので失礼します」と言って、私のところに来てくれた。
 そしてホームで立ち話をした。
 「最近はどうしてる」と聞かれたので、その頃忙しかったドラマの話などをした。もしかしたら、順調にやっているということを伝えたかった私の話し方は、やや得意気だったかもしれない。
 その時も加藤武さんは静かに言った。
 「活躍してくれてるのは嬉しいし、あんたがそれでいいなら俺は満足だ……しかし、とにかく地に足をつけて、いい台本を書いてください。できれば(ボーガス注:テレビドラマや映画ではなく)演劇の台本を書いてください」
 そして私が電車に乗るとドアが閉まる寸前に、ホームで大声を出した。
 「土田英生君、頑張れ!」
 金田一耕助シリーズに出ていた時の「分かった!」と叫ぶ、あの声だった。
 見ると加藤さんは顔をくしゃくしゃにして笑っている。それはまるでいたずらっ子だった。
 ドアが閉まって、電車が動きだす。
 車内にいた人たちはみんな私をチラチラ見ている。とても恥ずかしかったが、幸せだった。
 その加藤武さんが急逝した。
 ヤフーニュースでそれを知った時、私は体から力が抜けた。
 ちょうど「算段兄弟」の本番前、ダメ出しをする前だった。
 あれから時々、加藤武さんのことを思い出した。
 久しぶりに喋った時、「あんたの芝居はテンポが大事だろ? だからさ、俺みたいな年寄りにとってはきついんだよ。年寄りの冷水っていうけど、まさにそんな感じなんだよ。けど、また、冷水を飲ませてくれよ」
 次に機会があれば、と、ずっと願っていた。
 今度こそ、加藤武さんに満足してもらえる本を書こうと心に決めていた。
 しかし、それはもうかなわない夢になってしまった。
 本当にありがとうございました。
 加藤武さんからもらった言葉は大事にしようと思う。

 オッサンになってきたせいか、涙腺が弱くなってこういうのを読むと泣きそうになります。
 「等々力警部」、「打越組長(仁義なき戦い)」「秋山専務(釣りバカ日誌)」など「ダメオヤジ的コメディキャラ」を持ちネタとした加藤氏ですが硬骨漢的なところを知って感動します。勿論加藤氏が「土田氏のことを評価していた」と言うことが当然大きいでしょうが。

*1:2001年、文藝春秋→2004年、文春文庫

*2:2014年、草思社→2016年、草思社文庫

*3:2015年

*4:1967年生まれ。劇団「MONO」代表(土田英生 - Wikipedia参照)

*5:1959年生まれ。劇団M.O.P主宰。2002年後期のNHK連続テレビ小説まんてん』の脚本を担当したことで広くその名を知られるようになった。妻は劇団M.O.P.に所属した女優のキムラ緑子マキノノゾミ - Wikipedia参照)

*6:土田英生 - WikipediaによればNHK教育で2000年に放送された『浪花少年探偵団』(東野圭吾原作)

*7:1951年生まれ。劇団二兎社主宰(永井愛 - Wikipedia参照)

*8:1964年生まれ。演劇企画集団「THE・ガジラ」主宰(鐘下辰男 - Wikipedia参照)

*9:話が脱線しますが俺は松竹に対しては『おい! お前! (志位執行部に対して)何を失礼なこと言ってるんだ? お前はそんなにえらいのか! (離党して)出てけ! 今すぐ消えろ!』という不快感を感じ得ません。