新刊紹介:「歴史評論」2024年12月号

特集「帰還兵*1研究の国際化を展望する」
 こういうタイトルですが、6本の掲載論文のウチ「3本が米国関係(残りは中国1本、韓国1本、日本を主として論じてるが戦争トラウマ関係1本)」で「米国関係3本」のうち2本が「差別問題(黒人帰還兵差別、メキシコ系帰還兵差別)」というのは是非はともかく「ある種の偏りがある」とはいえるでしょう。
アメリカにおける傷病兵の就労支援(中村祥司*2
(内容紹介)
 第一次大戦によって、「それ以前(南北戦争など)より格段に増加した傷病兵」に対し米国政府は「恩給支給*3」だけでなく、就労支援を行うことで「国家の財政負担」を減らそうとした。
 なお、こうした方向性(就労支援)はヨーロッパも同じだが、ヨーロッパ諸国が「クオータ制(割当制)」により、「一定数の傷病兵を企業が雇用すること」を義務づけたのに対し、米国は「傷病兵を雇用した企業への補助金支給等はあったが」そうした義務づけがなかった点が特徴としてあげられる。


◆黒人帰還兵と住宅をめぐる人種対立(武井寛*4
(内容紹介)
 1964年の公民権法制定など、黒人差別是正が推進されるまで、黒人帰還兵は白人帰還兵に比べ、国からの経済援助は極めて乏しかった。
 その乏しい援助を「住宅面において改善しようとして起こった」のがエアーポートホームズ人種騒動(1946年)であった。
 帰還兵向けの住宅「エアーポートホームズ(イリノイ州シカゴ市)」に黒人帰還兵を入居させようとした政府に対して白人帰還兵が暴動を起こし、恐れをなした黒人帰還兵は結局、住宅から退去した。結果としてエアーポートホームズは「事実上、白人帰還兵向けの住宅」となり政府の方針は挫折した。
 その後、1957年に今度はペンシルベニア州のレヴィットタウン*5で同様の人種騒動が発生した。エアーポートホームズ事件当時と違い、ペンシルベニア州知事のジョージ・リーダー(民主党リベラル派)の支援もあり、レヴィットタウンから黒人帰還兵が完全にいなくなることはなかったが、しかし白人の迫害を恐れて入居者が少ない状態が長く続いた。
【参考】

ウィリアム・レヴィット - Wikipedia
 1907~1994年。第二次大戦後、1万ドル以下の安価な家を大量生産し、アメリカの郊外のライフスタイルを創造した。
 歴史家ケネス・ジャクソンは「米国では戦後の住宅に最も大きな影響を与えた家族がレヴィット一族だ。最終的に14万戸の住宅を建設した」と書いた。
 ジャーナリストで歴史家のデビッド・ハルバースタム*6は「彼こそがアメリカン・ドリームを実現させてくれた男」だとした。


◆メキシコ系アメリカ人と軍事的市民権:アメリカンGIフォーラムの活動を中心に(戸田山祐*7
(内容紹介)
 アメリカンGIフォーラムは第二次大戦後の1948年にメキシコ系アメリカ人*8)の帰還兵によってテキサス州米墨戦争(1846~1848年)で敗北したメキシコから、勝利したアメリカに割譲されたという経緯でメキシコ系が多い)で結成された。
 このような組織の結成の背景にはメキシコ系アメリカ人が「アングロサクソン系白人」と「黒人」の間に位置する存在として「アングロサクソン系白人」から差別を受けていたことがあった。つまり既に存在した白人系帰還兵組織がメキシコ系帰還兵の受け入れに否定的、消極的だったため、メキシコ系による帰還兵組織が結成された。
 1948年、ルソン島の戦い(1945年)で戦死したメキシコ系兵士「フェリックス・ロンゴリア」の遺骨がフィリピンから故郷のテキサス州に移送され埋葬される予定だった。
 しかしテキサス州の葬儀社は「白人が嫌がるから」という理由で、遺族が依頼した葬儀の実施を拒否した(フェリックス・ロンゴリア事件)。
 この件でGIフォーラムは「不当な差別」として抗議運動を展開した。
 この抗議運動に好意的な対応をしたのが当時、テキサス州上院議員だったリンドン・ジョンソン*9だった。ジョンソンはロンゴリアの遺骨を「アーリントン墓地に埋葬すること」を提案した。この結果、ジョンソンはメキシコ系アメリカ人の強い支持を受けることとなる。ジョンソンがその後、副大統領を経て大統領に就任する背景にはメキシコ系アメリカ人の強い支持があった(ケネディがジョンソンを副大統領候補にした理由の一つは、大統領選勝利において、メキシコ系アメリカ人の票獲得やテキサス州での票獲得を重視したという面があった)。
 また、ジョンソンの逸話でわかるようにメキシコ系アメリカ人(いわゆるヒスパニックの一部に該当)は長く「民主党の支持層」であったが、今回、かなりのメキシコ系アメリカ人が共和党のトランプに投票*10しており、これは民主党にとって衝撃的事実であった。
 GIフォーラムは当初は「メキシコ系帰還兵の組織」であったが、次第に「軍事的義務(兵役義務)をメキシコ系も平等に果たしてる以上、メキシコ系も白人同様の権利(市民権)が与えられるべきだ」という「軍事的市民権」論によって「平等を求める組織」と変化していった(その過程で『帰還兵以外のメキシコ系』もGIフォーラムの構成員となっていった)。なお、こうした「軍事的市民権」論は「良心的兵役拒否者のメキシコ系」や「心神の障害のために兵役義務を果たせないメキシコ系」の市民権要求について「否定的な側面」を持ったことに注意する必要がある。

【参考:リンドン・ジョンソン

リンドン・ジョンソン - Wikipedia参照
 ジョンソンは民主党上院院内総務としての実績により、1960年大統領選挙で民主党における有力な大統領候補とみなされた。しかし予備選において、マサチューセッツ州選出上院議員ジョン・F・ケネディに獲得した代議員数で差をつけられて、ケネディ民主党大統領候補に選出された。しかしケネディが副大統領候補に指名したのは対立候補であったジョンソンであった。
 リベラルな北部出身のケネディがジョンソンを副大統領候補に指名したのは、南部テキサス州出身のジョンソンと組むことで、南部の保守票を獲得することにあった。しかし
◆ハンフリー*11副大統領(ジョンソン政権)
 民主党大統領候補となるがニクソンアイゼンハワー政権で副大統領)に敗北
◆ブッシュ父*12副大統領(レーガン*13政権)
 共和党大統領候補となり、民主党のデュカキス(元マサチューセッツ州知事)を破って大統領に就任
◆ゴア*14副大統領(クリントン*15政権)
 民主党大統領候補となるがブッシュ子(元テキサス州知事)に敗北
◆ハリス*16副大統領(バイデン*17政権)
 民主党大統領候補となるがトランプに敗北
と「副大統領が次の大統領候補」となることが多くなった、その後と違い、当時の副大統領は閑職とされており、テキサス州選出下院議員(1903~1933年)を経て、フランクリン・ルーズベルト大統領時代(1933~1945年まで12年*18)に副大統領(1933~1941年)を務めたジョン・ナンス・ガーナー(1868~1967年)は「副大統領なんぞ、たんつぼほどの値打ちもない」とジョンソンに語っている。
 副大統領在任中はケネディ兄弟(ジョン・F・ケネディ大統領と弟のロバート・ケネディ司法長官)の高い人気の陰に隠れて、政権内では孤独であった。ケネディがジョンソンの頭越しに議会と取引をすることもあり、もはやジョンソンが上院に復帰しても院内総務時代の政治力を取り戻すことは困難となった。
 例えば、ジョンソンは旧知のサラ・ヒューズ*19を連邦判事に推薦したがこの時は拒否され、やむなくジョンソンは別人を推薦したところ、下院議長の要請を受けた政権がジョンソンに相談なくヒューズを連邦判事に任命している。このようなことが重なってジョンソンの政治的信用は失墜していた。それどころか、上院議員への復帰すら怪しくなっていた。1963年10月31日の大統領記者会見で「来年の大統領選挙で、副大統領候補はジョンソンとお考えですか?」という記者の質問に対してケネディは「その通り、答えはイエスです」と答えているが、翌日のある新聞には「ジョンソンの首がつながった」という露骨な表現まで現れた。まさに大統領の胸三寸で政治生命が左右される状況で、ジョンソンにとっては忍耐の日々であった。
 1963年11月にケネディとジョンソンが、テキサス州を遊説することとなったのは、翌1964年の大統領選挙で保守層が強い南部諸州の中で、ジョンソンの地元であるテキサス州だけは絶対に勝たなければならない(そして勝つことは可能)と考えたケネディが最初の遊説地に選んだのが発端であった。南部では、公民権法案の議会提出により、政権への反感が高まっていた。
 11月21日、ジョンソンはケネディに同行してテキサス遊説を開始した。翌11月22日にダラスのラブフィールド空港に到着。12時30分、ダラスでのオープンカーでのパレード中にケネディが2発の銃弾を受けた(即死状態)が、ジョンソンには怪我はなかった。シークレットサービスは、暗殺対象に副大統領も含まれているかどうか不明であることから直ちに首都に帰還することを進言したが、ジョンソンはケネディの容態を確認するまで病院内に留まることを決めた。
 その後、ケネディの死亡が確認され自動的にジョンソンがアメリカ大統領となった(当初、副大統領は不在だったが、後にハンフリーが副大統領に就任)。


◆20世紀中国の戦争と帰還兵:「監視国家」への傾斜(笹川裕史*20
(内容紹介)
 ここでは「日中戦争満州事変のあった1931年から日本敗戦の1945年まで)」「国共内戦(1945~1949年)」「朝鮮戦争(抗米援朝戦争:1950~1953年)」の帰還兵が取り上げられている。
 第一にこれらの帰還兵は、中国共産党政府によって「日本の侵略に立ち向かった(日中戦争)」「国民党を打倒し新中国を建設した(国共内戦)」「米国の中国侵略を排除した(朝鮮戦争朝鮮戦争を開戦したのは北朝鮮側とは言え、中国が参戦した時点では、米国もカウンター攻撃で北朝鮮打倒に留まらず、明らかに中国打倒(台湾反攻)も狙っていたのでこうした見方には一理ある)」英雄として扱われた点で「敗残兵」として否定的に扱われた旧日本軍などとは違っていた。
 第二にしかし、これらの戦争に参戦した中国兵は必ずしも「日本の侵略排除」等の「大義のため」に参加したわけではなく、「経済的な利益(兵隊の多くは貧農)」もあったし、国共内戦においては「共産党軍に対して降伏した国民党兵士」が共産党軍に組み入れられたことによって共産党軍が「雪だるま式に増大した」面があった。
 つまり、帰還兵については建前では「英雄扱い」されたものの、実態は必ずしもそうした「きれいごと」ばかりではなかった。
 勿論、雷鋒*21のような「労働英雄であるかどうか」はともかく、戦後、真面目に勤労する帰還兵もいたが、そうではない「不良」帰還兵も多数おり、政府はその対応に苦慮した。筆者は今後の帰還兵研究が必要とはしているし、それだけが「監視国家化」の契機ではないとしているが、「不良帰還兵」への対応(問題を起こさないよう監視し、適切な対応に努める)が、戦後中国における「監視国家への傾斜」をもたらした一因ではないかとの仮説を提示している。
【参考:雷鋒】

雷鋒 - Wikipedia
 1940~1962年。1960年、人民解放軍に入隊、輸送隊に配属された。
 1962年8月15日、遼寧省撫順市望花区で電柱を輸送中のトラックを立て直す作業中、頭を強く打ち死亡した。
 死後、雷鋒は軍人の思想的モデルとして大きく取り上げられるようになった。1963年3月5日に毛沢東共産党主席によって、「雷鋒同志に学ぼう」運動が始められた。このスローガンは文化大革命中、各種新聞や学校教科書で盛んに用いられ、雷鋒は模範兵士として無私の象徴として偶像に祭り上げられた。
 文革終了後の今日も政府のキャンペーンで何度も用いられており、3月5日は「雷鋒に学ぶ日」として学生たちが公園や街路の掃除、老人ホームを慰問するなどのボランティア活動の日となっている。また、雷鋒の出身地の長沙*22と殉職地の撫順では「雷鋒紀念館」が開設されている。

【参考:中国の『朝鮮戦争(抗米援朝戦争)』評価】

中国人民志願軍抗米援朝出国作戦70周年記念大会における習近平総書記の演説_中華人民共和国駐日本国大使館2020.10.24
 1950年6月25日、朝鮮の内戦が始まった。米国政府はその世界戦略と冷戦思考から、朝鮮の内戦への武力干渉を決定するとともに、第7艦隊を派遣して台湾海峡に侵入した。1950年10月初め、米軍は中国政府の再三の警告を顧みず、38度線を強引に越えて、戦火を中朝国境まで広げた。朝鮮侵略の米軍機は何度も中国東北の国境地帯を爆撃し、人民の生命・財産に重大な損害を与え、わが国の安全は重大な脅威にさらされた。1950年10月19日、中国人民志願軍が彭徳懐司令員兼政治委員に率いられて朝鮮の戦場に入った。
(中略)
 このうえない苦難に満ちた戦闘を経て、中朝軍は完全武装の相手を打ち破り、米軍不敗の神話を打ち砕き、1953年7月27日、うぬぼれていた侵略者を休戦協定調印に追い込んだ。
 全国の各民族人民は挙国一致で、国家と民族の前途・運命に関わるこの偉大な抵抗闘争を支え、最終的に偉大な勝利によって、「数百年間続いた、西洋の侵略者が東洋の海岸に数門の大砲を据えれば、一つの国を占領できる時代が過ぎ去った」ことを世界に宣言した。
 この一戦を経て、中国人民は門前に兵を配し、さらに新中国を揺りかごの中で絞め殺す侵略者のたくらみを粉砕した。これは「一撃で百撃を省いた」と言え、帝国主義は二度と、武力で新中国を侵犯する試みをあえてやろうとしなくなり、新中国は真に足元を固められた。

抗米援朝精神を発揚し,国際平和正義を守ろう 新華社論評_中華人民共和国駐日本国大使館2020.10.24
 抗米援朝戦争は平和を守り侵略に抗する正義の戦いだった。
 朝鮮侵略米軍は38度線を越えて鴨緑江に迫るとともに、航空機を出動させて中国東北の国境都市・農村を爆撃し、戦火を新しく生まれた中華人民共和国の国土にまで広げた。米国の侵略を前に、朝鮮労働党と政府の要請を受けて、中国共産党中央は正義を守り中国領土の安全を防衛し平和を守るため、極めて困難な状況下で、毅然として抗米援朝、国家防衛の歴史的政策決定をし、なにものをも恐れぬ英雄の気概で果敢に平和を守る歴史的使命を担った。

中国―祖国守るための戦い強調
 中国で半数以上の学校が使っている人民教育出版社の「中国歴史」では、朝鮮戦争を「抗米援朝戦争」と呼んでいる。アメリカ(米)の侵略に抵抗し、北朝鮮を助ける戦争という意味だ。「中華人民共和国の成立と確立」という単元の中で、5ページがあてられている。戦争の当事者だっただけに地図や写真を掲載するほか、説明も詳しく、次の記述で始まる。
 《1950年6月、朝鮮で内戦が勃発した。アメリカはすぐさま派兵して朝鮮を侵略した。アメリカ軍を中心とした、いわゆる「国連軍」は「38度線」を越えて一気に中国との国境である鴨緑江のほとりまで迫り(略)、アメリカ第7艦隊は中国の台湾海峡に侵入し、人民解放軍の台湾解放を阻止した。アメリカの侵略活動は中国の安全にとって重大な脅威だった。》
 中国の歴史教科書に詳しい慶応大の段瑞聡*23准教授*24は「かつてはアメリカ帝国主義が戦争をひきおこしたと教えていたが、今は『内戦が勃発した』という表現になっている。明らかな変化がある」と指摘する。
 また戦争への参加については次のように書かれ、「祖国を守る」ための戦いであったことを強調している。
 《朝鮮民主主義人民共和国は中国政府に派兵援助を求めてきた。アメリカに抵抗し、朝鮮を助け、家と祖国を守るために、1950年10月に彭徳懐を司令官とする中国人民志願軍が朝鮮の前線に赴き、朝鮮の軍民とともにアメリカの侵略者に反撃した。》

客が「抗米援朝」に参加した元兵士と知ったショップがベッドをプレゼント 中国--人民網日本語版--人民日報2021.11.30
 江蘇省宿遷市で、家具を販売するあるオンラインショップのオーナーが、客が「抗米援朝(朝鮮戦争)」に参加した元兵士である父親のためにベッドを購入しようとしていることを知ると、家具をプレゼントすることにしたというエピソードがネットで話題になり、ネットユーザーから、「ほっこりさせられた」といったコメントが寄せられている。中央テレビニュースが報じた。
 今月4日、湖南省懐化市に住む王放さんは高齢になった両親のために柵付きのベッドを購入することにした。そして、「選んだネットショップに問い合わせたら、オーダーメイドになると言われた」という。
 店側とのチャットによる連絡で、王さんが何気なく父親が「抗米援朝」に参加した元兵士であることに触れると、店側は興味を示し、「証明できるようなものはあるか」と聞かれたため、父親が授与された「中国人民志願軍抗米援朝出国作戦70周年」紀念章の写真を送信したという。
 すると、店側から「住所、氏名、電話番号を教えてください。無料でベッドを2床プレゼントします」と返事が来て驚いたという。王さんは、「初めは申し訳なくて、ずっと断っていた。でも、店側から『元兵士に敬意を示したい』というメッセージが来てとても感動した。さらに、『平穏無事で、お父様が望み通りの生活ができ、健康で長生きされることを祈っています』という祝福のメッセージも来た」と話す。
 王さんによると、父親は95歳で、1949年11月に入隊し、「抗米援朝」にも参加して3度手柄を立てた。


◆帰還兵のトラウマと医療・社会に関する研究の現在(中村江里*25
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考:日本帰還兵のトラウマ】

なぜ“復員”できなかったのか? 戦中も戦後も精神科病院に隔離…PTSDになった日本兵の末路|日刊サイゾー(月刊サイゾー2018年9月号)
 2018年8月、NHKでドキュメンタリー番組『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』が放送された。日中戦争~太平洋戦争期に、精神障害を負った兵士が送られた国府台(こうのだい)陸軍病院*26(千葉県市川市)に保管されていた8002人の病床日誌(カルテ)を分析し、日本兵の戦時トラウマを明らかにしたことで反響を呼んだ。
 番組に協力・出演した歴史学者中村江里氏の著書『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)によれば、戦争と精神障害の問題は、第一次世界大戦の欧米諸国における「シェル(砲弾)ショック」「戦争神経症」から広く知られるようになったという。その後、ベトナム戦争帰還兵の自殺やアルコール中毒などの増加が社会問題化したことで、「心的外傷後ストレス障害PTSD)」という診断名が誕生した。一方、日本で「PTSD」や「トラウマ」という言葉が流布し始めたのは、1995年の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件がきっかけだといわれている。
 日本で戦争神経症は長きにわたり「見えない問題」として扱われたわけだが、第1次大戦後の陸軍はシェルショックの存在を認識していた。しかし、特に満州事変以降、天皇の軍隊に心を病むような脆弱な兵士はいるはずがないという「皇軍」意識の高まりもあり、陸軍は「日本軍に精神障害兵士は一人もいない」としたのだ。一方で日中戦争が始まった直後の1937年秋、精神障害兵士の専門治療機関として国府陸軍病院を開設し、秘密裏に戦争神経症の研究を続けた。
 国府台病院には1937年12月~1945年11月に1万人を超える兵士が入院し、その中には現在でいうPTSDに該当する患者もいた。だが、「当時はそのような考え方はなく、個人の弱さが原因になっていると考えられていた」と中村氏は番組内で発言。
 かくして日本兵の戦争神経症は隠蔽され、終戦後、国府台病院のカルテも陸軍から焼却命令が出ていた。しかし、ある軍医が密かに持ち出したカルテをドラム缶に入れて庭に埋めたことで、焼却を免れた。そのカルテには、過酷な戦場で心をむしばまれていく兵士たちの姿が記録されている。
 例えば日中戦争でもっとも多くの日本兵精神障害を発症したのは、中国・河北省だった。同地では広大な地域を占領統治するには兵力不足だった日本軍と、山間部の村々を拠点に勢力を拡大する中国共産党八路軍との緊張関係が継続。中国兵は民間人(農民)と同じ服装で、中には少年兵もいた。これを日本兵は討伐しなければならなかったのだ。そのストレスは計り知れない。
 1941年に太平洋戦争が始まると、国府台病院へ送られる兵士の数も急増。日本軍の拠点だったガダルカナル島では、空襲によるシェルショックに見舞われる兵士が多発し、63万人が送られたフィリピンでは多くの兵士がマラリアの感染から精神疾患を併発した。
 終戦後も、精神障害兵士の多くが国立の療養所で生活を続けることになり、引き取り手のいない精神障害兵士は「未復員」と呼ばれた。1985年まで約1000人が精神病の治療を必要とし、その半数以上が入院していた。戦後50年を経た1995年に至っても253人が入院し、191人が入院外で療養。2018年現在、6人が治療を続け、うち3人は入院中である。彼らを「復員」させることは非常に困難だった。その原因のひとつが、家族・親族からの反対である。
 『隠されたトラウマ』にも出演し、ソーシャルワーカーとして国立武蔵療養所(現・国立精神・神経医療研究センター/東京都小平市)に26年間勤めた日本社会事業大学大学院教授の古屋龍太氏*27は、こう話す。
「未復員の方々は軍人として、戦傷病者特別援護法という法律に基づいて入院しており、軍人恩給が支給されます。病院内にいる限り、入院されているご本人はそのお金をほとんど使う機会もありませんから、ご家族に管理していただきます。しかし退院すれば、恩給はご本人の大切な生活費になります。残念なことですが、入院中の恩給がすべて家族によって消費されてしまい、ご本人の退院時には預金残高がゼロということもありました」
 また、未復員の人たちは、故郷では「英霊」扱いになっているケースもあるという。要するに、「勇敢に戦って死んだことになっているのに、実は東京で精神科病院に入れられていたことが今さら周りに知られては困る」と、故郷の家族・親族から拒絶されてしまうのだ。
 「当時は精神疾患自体に対する偏見が現在の比ではなく、ハンセン病結核以上に忌み嫌われる存在だったんです。」
 NHKで放送された『隠されたトラウマ』を通して、確かに日本の精神障害兵士に注目が集まった。それ自体は好ましいことではあるが、「やはり遅すぎた」というのが古屋氏の率直な感想だ。
「未復員の方々は、国家に人生を壊されたばかりか、日本の精神科医療政策の中で、残された人生の時間までも奪われた。しかも、残念ながらそのほとんどが亡くなってしまった段階で、ようやく日の目を見たわけです。」
「『隠されたトラウマ』でも思わず言ってしまいましたが、日本だからこういうことが起きているんです。例えばアメリカでPTSDの問題に注目が集まったのは、国民がベトナム帰還兵のケアに懸命に取り組んだから。一方、日本は臭いものにふたをするという体質で、なによりも、精神障害者の方々それぞれに人権があるということに非常に鈍感ですよね」
 ことは戦傷病者だけの問題だけでなく、日本の精神科医療全体の問題でもある。それを踏まえた上で、ようやく日の目を見た日本兵のトラウマの記録から得られる教訓はあるのか?
「教訓を得ようとするならば、まず自衛隊員のメンタルヘルスの状況をきちんと統計で出すこと。例えば2015年の政府答弁で、海外派遣された自衛官のうち54名が帰国後に自殺していたことが明らかになりました。その主たる原因はPTSDうつ病だと思うのですが、情報が開示されない以上、検証すらできません。だから、とにかく事実を隠さないでほしい。統合失調症は約100人にひとりが発症しますし、うつ病なども含む精神障害は現在も増え続けています。それが『自衛隊の中にはひとりもいません』などということはあり得ないでしょう」

 自衛隊員のメンタルヘルスについては以下を紹介しておきます。

赤旗アフガン・イラク戦争 派兵自衛官 自殺40人/「戦地」派兵でさらに2014.7.13
 アフガニスタンイラクの両戦争に派兵された自衛官の自殺者が2014年3月末時点で少なくとも40人にのぼることが分かりました。政府答弁や防衛省の回答によるもの。国民平均に比べ約3~16倍、自衛官全体と比べても約2~10倍の高い割合で自殺者が出ています。
 防衛省は自殺と派兵の因果関係については「わからない」としています。
 アフガニスタンイラクの両戦争に派兵された自衛官の自殺率の異常な高さは、日本が参戦した二つの「対テロ戦争」による「見えない犠牲者」の存在を改めて浮き彫りにしました。今後、安倍政権が憲法9条を破壊して「海外で戦争できる国」づくりを進めれば、現場の自衛官は命の危険に直面するだけでなく、さらに強い精神的ストレスにさらされることになります。
 インド洋、イラクに派兵された自衛官の自殺率は、自衛隊全体の率を大きく上回っており、派兵との因果関係を考えざるをえません。
 自衛隊には平時から弱い立場の自衛官を自殺やうつに追い込むような人権無視の体質があります。例えば、イラク派兵から帰国後の2005年11月に自殺した航空自衛官は、派兵による業務の肩代わりを理由に、上司からいじめを受け、自ら命を絶っています。
 何より重大なのは、数字上、派兵との因果関係が明らかでありながら、防衛省が一貫して「因果関係はわからない」としていることです。現在も増え続ける「見えない犠牲者」の存在すら解明しないまま、新たに「戦地」に自衛官を送り込む「閣議決定」には、人知れず命を絶った自衛官に報いるべき一片の正当性もありません。

赤旗徹底批判!戦争法案/インド洋“出撃”途上に自殺 07年 隊員の犠牲 新たに判明/“戦死の備え” 法案で現実味2015.6.7
 インド洋・イラク派兵の自衛官54人が自殺。戦争法案を審議する衆院安保法制特別委員会(5月27日)で、日本共産党志位和夫委員長*28に対する防衛省の答弁は、大きな衝撃を与えました。
 「54名が帰国後の自殺によって亡くなられております」。
 防衛省の真部朗*29人事教育局長*30は同日の委員会で志位氏にこう答弁しています。志位氏は5月27日の衆院安保法制特別委員会で、こう追及しています。
 「自衛隊の活動領域を広げたら、(自殺の問題が)もっと深刻になる」
 国会で憲法学の権威がこぞって「違憲」と断じた(4日、衆院憲法審査会)戦争法案に基づき、国民の生命や平和な暮らしとは無縁の米軍の戦争支援のために、末端の自衛隊員の心と体、そして命を犠牲にさせられる。こんなことが、許されるはずがありません。

[歩く 聞く 考える] 旧日本軍兵士とトラウマ 「戦争のリアル」考える糸口に 広島大大学院准教授 中村江里さん | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター2021.9.15

戦争のトラウマからアルコールに依存した父 今も続く家族の苦しみ | NHK2022.12.9
 戦争とトラウマの関係について研究する、広島大学大学院の中村江里准教授*31は、元兵士の心の傷を国が隠してきたことが、大きく影響しているのではないかと話します。
広島大学大学院・中村江里准授
「戦時中の新聞を見ると、国は、戦争の恐怖による精神疾患が、敵軍の兵士には見られるが、日本軍には見られないとしていました。国民の士気を上げるためです。国家によってそうした病気の存在が否定されるということは、精神疾患を患った元兵士や家族にとっては、自己を否定されることに等しいわけですね。そうした父親の存在や、家庭のなかでの暴力というのは、周囲には話せないと感じた人も多かったと思います」

戦争の過酷体験、兵士の苦悩長く リスク解明へ研究進む - 日本経済新聞2023.8.14
 戦争によるトラウマを研究する広島大大学院の中村江里准教授*32は、国内では1930年代の満州事変に関する陸軍の衛生史で戦争神経症の項目が登場したと指摘する。ただ日本軍は国民の士気に関わることなどを理由に発症した兵士の存在を否定したという。
 中村准教授は戦争による長期的な影響について、国内外の専門家と共同研究に取り組んでいる。「戦争のトラウマが次世代に与える影響の研究は少なく、家庭内暴力などとなって連鎖するリスクを解明していく必要がある」と話している。
帰還兵PTSD、近年の戦争でも深刻
 戦場経験が招く精神疾患の問題は、ベトナム戦争の米帰還兵のアルコール依存や自殺で社会問題化し、1980年代にPTSDの診断名が生まれた。近年の戦争でもPTSDの深刻さは表れる。
 米ブラウン大ワトソン研究所の報告書によると、2001年9月に起きた米同時テロ以降の戦闘任務で死亡したのは約7000人に上った。一方、自殺した現役と退役軍人は4倍超の約3万人と推計する。退役軍人でつくる団体も、2030年までの自殺者が同時テロ後の戦死者の23倍に達すると見込む。
 2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻でも、戦闘を通じて精神的不調に陥るウクライナ兵が相次ぎ、PTSDの社会問題化が懸念される。

知られざる戦争トラウマ 「ないもの」にされた元日本兵たちの心の傷:朝日新聞デジタル2023.8.15
 終戦時、海外には約330万人の日本軍の軍人・軍属がいた。復員した人たちの中には、戦後アルコール依存になったり家族に暴力を振るうようになったりした元兵士たちもいた。
 しかし、戦争と精神医療の関係に詳しい中村江里広島大学大学院准教授*33(日本近現代史)によると、アジア・太平洋戦争からの復員兵の「心の傷」についての体系的な記録は残っていないという。
 中村さんは「当時、まだPTSDという概念が無かった。また、軍が終戦時に精神神経疾患の兵士の資料などを焼却したことも、大きく影響している」と指摘する。
 旧日本軍は、ひそかに精神神経疾患専門の国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に患者約1万人を集めていたが、その存在を隠蔽した。そして「皇軍に軟弱な兵士はいない」というプロパガンダを流し、精神を病んだ兵士の存在を否定した。中村さんによると、断片的な陸軍の資料や米軍の調査から推測すれば、現在のPTSDに該当する人々を含む精神神経疾患の兵士は、少なくとも数十万人に上ったと考えられるという。
 心を病んだ兵士は、自身を「恥」と思い込む傾向が強いという。精神疾患への偏見の強さや、加害行為を打ち明ける難しさも相まって、戦後も兵士本人や家族は声を上げられなかった。一方、各家庭では虐待などの様々な問題が起きたが、社会問題化しなかった。
 中村さんは「いま、兵士の子どもが70代、80代になってようやく語り始めた。家族の話を聞くと、戦争は今でも終わっていないと感じる」と話す。

なぜ日本兵の心の傷は「ないもの」にされたのか 語り始めた2世たち:朝日新聞デジタル2023.8.17
 「戦後」78年のいま、戦争は本当に終わったと言えるのだろうか。2018年の著書「戦争とトラウマ」(吉川弘文館)で、兵士の心の傷について検証した中村江里広島大学大学院准教授*34(日本近現代史)に聞いた。
◆記者
 著作では、日本兵たちの「心の傷」が忘れ去られてきたと説きました。
◆中村
 大学時代に兵士のトラウマを調べていて、「あれ?」と思ったんです。この分野での先行研究は、ほとんど欧米のもの。日本やアジアのものは全然出てこないな、と。
 欧米では、「心を病んだ兵士」は歴史学だけでなく文学や映画でもメジャーなテーマです。ロバート・デ・ニーロ*35主演の「タクシードライバー*36」(1976年)のように、みんなが知っている映画も、ベトナム帰還兵の後遺症を描いています。
 (ボーガス注:大岡昇平『野火』(レイテの戦い)等で描かれたように)アジア・太平洋戦争で、日本兵は過酷な経験をしてきた。それは多くの人が知っていることです。でも、心の傷は「見えない問題」になっているのではないか。そんな疑問が出発点でした。
(この記事は有料記事です)

 タクシードライバーのあらすじ等については以下を紹介しておきます。

タクシードライバー (1976年の映画) - Wikipedia参照
【あらすじ】
 ベトナム戦争帰りの元海兵隊トラヴィス・ビックルロバート・デ・ニーロ)は、戦争による深刻な不眠症をわずらっているため定職に就くこともままならず、タクシー会社に就職。
 トラヴィス不眠症は深刻さを増し、心はすさんでいく一方であった。そんな中、トラヴィスのタクシーに突如幼い少女「アイリス」(ジョディ・フォスター*37)が逃げ込んできた。ジゴロのような男が彼女を連れ戻すが、トラヴィスはこれをきっかけにある決断をした。
 トラヴィスは買春客を装ってアイリスに近付き、デートに誘うと、売春で稼ぎ学校にも行かない生活をやめるように説得した。アイリスは、ヒモの男に騙され利用されていることに気づいていない。その夜トラヴィスは、アイリスのヒモ「スポーツ」(ハーヴェイ・カイテル*38)を撃つ。続いて見張り役や用心棒、売春稼業の元締めを立て続けに射殺。自らも反撃を受けて重傷を負い、その場で自殺を図るも弾切れのため果たせず、駆け付けた警官の前で昏倒する。マスコミは彼を一人の少女を裏社会から救った英雄として祭り上げ、アイリスの両親からも彼女はあれ以来真面目に学校に通うようになったと感謝の手紙が来た。
【エピソード】
・徹底した役作りで知られるデ・ニーロだが、本作の撮影に際し数週間、実際にタクシーの運転手を務めた。
・売春で生計を立てる少女アイリスを演じたジョディ・フォスター(1962年生まれ)は、1975年の映画公開当時わずか13歳であったことで大きな話題を呼んだ(受賞は逃したが、本作で1976年のアカデミー助演女優賞にノミネート。なお、1976年のアカデミー助演女優賞は『ネットワーク*39』のベアトリス・ストレイト)。
・この映画の公開後、ジョディの熱狂的なファンを自称するジョン・ヒンクリーによって1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件が発生。この事件に衝撃を受けたジョディは、一時期映画界とは距離を置いた。

レーガン大統領暗殺未遂事件 - Wikipedia
 映画『タクシードライバー』を観たジョン・ヒンクリーは、映画の中で売春婦役を演じたジョディ・フォスターに一目惚れし、自分の「運命の女」だと思い、偏執的な恋心を抱くようになった。ヒンクリーは「自分が大統領暗殺という大事件を起こせば、フォスターが自分を認めてくれる」との妄想から、大統領の暗殺を企て始めた。
 1981年3月30日にワシントンD.C.ヒルトン・ホテルで、レーガンがAFL-CIO会議で演説した後にホテルを出ようとしたところで、ヒンクリーは回転式拳銃を続けざまに6発発射。弾丸はレーガンの胸部に命中し負傷させた。
【エピソード】
・この事件で頭部に銃弾を受け障害が残ったブレイディ大統領報道官は任務遂行が不可能となったものの、1989年にレーガンがその任期を全うするまでの間、正規の大統領報道官として留任した。事件後はブレイディの部下であるスピークス大統領副報道官が実質的に報道官としての任務を行い、ブレイディは回復に向けてのリハビリテーションに専念した。なお、この事件を受けて制定されたのが、米国民の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」である。しかしこの法律は2005年にNRA(全米ライフル協会)などの抵抗により効力延長手続きがされず失効した。
ジョディ・フォスターは、2013年1月のゴールデングローブ賞授賞式において、自らがレズビアンである事を匂わせる発言をし、実際に2014年4月、女性写真家アレクサンドラ・ヘディソンと同性婚している。マスコミからは「レーガン狙撃事件がきっかけで男性不信または男性恐怖症を発病したことから女性しか愛せなくなった」と言われたが、フォスターは「事件とは全く関係がない」と生まれつきである事を明かしている。

 また「ベトナム帰還兵の映画」については以下も紹介しておきます。

八月に思う 米映画に見るベトナム戦争帰還兵のPTSDと回復への光:朝日新聞デジタル2023.8.29
 一つ目が、オリバー・ストーン*40監督、トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」(1989年)だ。ベトナム戦争で過酷な体験をし、負傷して下半身不随になった帰還兵ロン(トム・クルーズ)が、戦場での記憶のフラッシュバック(再体験症状)に苦しみつつ、そのことを誰にも話せず(回避症状)、時に自暴自棄になり酒におぼれたり、周囲の人たちに攻撃的になったりする姿(過剰覚醒症状)が描かれていた。
 もう一つは、マイケル・チミノ*41監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」(1978年)だ。米ピッツバーグ郊外の製鉄所で働くマイケル(ロバート・デ・ニーロ)やニック(クリストファー・ウォーケン*42)らは、休日に鹿狩りを楽しむ仲間だったが、ベトナム戦争に従軍し過酷な体験をする。中でも、北ベトナムの捕虜になった後、ニックは、ロシアンルーレットを強要され*43、精神のバランスを崩していた。
 幸いにもマイケルに助け出されたのだが、その後、紆余曲折の末、ベトナムの賭博場でロシアンルーレットに遭遇する。今度は自ら進んでロシアンルーレットに身を任せるようになり、結局はそのゲーム中に自らの引き金によって命を落としてしまうのだ。
 ニックに認められたのもPTSDの基本症状の一つ、「再演」という症状だ。再演は、フラッシュバックに伴うことが多い再体験症状の一つだが、まるで今その出来事の最中であるかのように行動してしまう、というものだ。
(この記事は有料記事です)

「ほかげ」で描いた戦争トラウマ 復員兵の娘「息止まった」迫真映像:朝日新聞デジタル2024.1.23
 戦争で心に深い傷を負った人々の姿を浮き彫りにする映画「ほかげ」が上映中です。戦後70年にあたる2015年公開の「野火」で戦争の狂気を描いた塚本晋也*44監督が、今作では終戦後も兵士らの心をむしばむ「戦争トラウマ」に光を当てました。17日、都内の映画館で、塚本監督が「戦争とトラウマ」の著書がある中村江里・広島大准教授*45トークイベントを開きました。
◆中村
 私の著書は、かろうじて陸軍病院の史料が残っている戦時中の精神疾患の兵士の話題が中心です。戦後はそうした病院すら無くなり、心に傷を負った元兵士への国家によるケアはほとんどなされませんでした。戦後史に大きな空白ができたと私は思っています。
(この記事は有料記事です)

PTSDの元兵士の家族に寄り添う会 戦争トラウマの影響知る機会に [千葉県]:朝日新聞デジタル2024.6.5
 太平洋戦争の戦地から戻った後、PTSD心的外傷後ストレス障害)に苦しんだ元兵士の家族らを支援しようと、「PTSD日本兵家族会・寄り添う市民の会ちば」が設立された。
 2日、松戸市の稔台市民センターであった会の立ち上げ集会。
 講演した上智大の中村江里准教授によると、国内では1938年、国府台(こうのだい)陸軍病院市川市)が精神神経疾患の治療のための特殊病院になり、終戦までに約1万人が入院。40年に傷痍軍人武蔵療養所*46(東京都小平市)が開所し、約950人が入所した。このほか、一般陸軍病院や民間精神科病院に入る人、自宅療養する人たちがいたという。
 中村准教授は「亡くなった戦友へのうしろめたさや、精神疾患で『お国の役に立てなかった』との強い恥の意識があり、自身のトラウマ体験を語ることが難しい状態だった」と説明。「PTSDで悩む復員兵の姿を知る家族の証言は、これまでほとんど解明されてこなかった『戦争トラウマ』の長期的影響を知る上で非常に重要だ」と指摘する。

元日本兵のPTSD問い直す 「寄り添う市民の会ちば」発足 松戸で設立集会、家族の証言募る:東京新聞 TOKYO Web2024.6.5
 アジア太平洋戦争の戦争トラウマ(心的外傷)の影響を証言する「PTSD心的外傷後ストレス障害)の日本兵家族会・寄り添う市民の会ちば」が2日、発足した。東京、大阪に次いで全国で3番目の設立。千葉県松戸市で開かれた設立集会に市民ら約40人が参加し、戦場から帰った父親の急変に苦しんだ家族の話に聞き入った。(林容史)
 集会では、上智大の中村江里准教授(日本近現代史)が講演した。中村さんは、あまり注目されてこなかった日本兵の「戦争神経症」を調査し、17年の著書「戦争とトラウマ」で太平洋戦争でのPTSDを浮かび上がらせた。
 戦場では、手足が震えてまひしたり、声が出なくなったりする症状が多発。背景には戦争の長期化、苛烈な近代戦争、軍内部の暴力的な構造などがあったという。軍は兵士の精神疾患を隠し、兵士自身も強い恥の意識を持っていたため、表面化しなかった。
 中村さんによると、戦争トラウマは医療の対象にはならず、その影響は帰国後、怒りの暴発、アルコール・薬物依存、家族への暴力となって現れたという。

戦争トラウマ、初の実態調査 国が旧陸海軍病院の資料など照会へ | 毎日新聞2024.8.14
 過酷な戦場の現実や加害行為のため、心的外傷後ストレス障害PTSD)などに苦しんだ旧日本軍兵士や家族の実態について、厚生労働省は近く、初めての調査を本格化させる。旧陸海軍病院を前身とする国立病院機構などに対し、治療を受けた兵士のカルテなどの資料が残っていないか照会し、協力を求める方針。厚労省は関係資料などを収集・分析した上で、戦後80年を迎える2025年度に(ボーガス注:厚労省所管のしょうけい館*47で)公開、展示する。
 戦争で心を病む兵士がいることは、第一次世界大戦(1914~1918年)の頃から指摘され、日本では戦争神経症と呼ばれた。現在、戦争トラウマと呼ばれる症状に近いと考えられる。だが精神の強さを強調する軍は患者の存在を否定した。戦後も長らく、当事者や家族は「恥」と考える意識が強く多くを語らなかった。
(この記事は有料記事です)

特集「『ないもの』とされてきた、兵士の心の傷。戦争とトラウマ」 | TBSラジオ2024.9.2
 79年前のきょう、9月2日は、日本が戦艦ミズーリ号の上でポツダム宣言に署名し、国際法上で正式に戦争が終わった日です。
 そこで、きょう取り上げるテーマは「戦争とトラウマ」です。
 戦場や軍隊での体験が原因で心に傷を負い、精神疾患を発症する兵士は少なくありません。
 これらは「戦争神経症」と呼ばれ、第一次世界大戦で、欧米の兵士に、原因不明の手足のけいれんや麻痺などが多発し、この症状が知られるようになりました。かつて日本が突き進んだ第二次世界大戦でも、精神疾患となった旧・日本軍兵士たちが多くいましたが、彼らの存在は、戦時中は隠され、戦後は忘れ去られてしまいます。1980年代には「PTSD」という診断名が生まれ、アメリカでは、ベトナム戦争イラク戦争の帰還兵の、アルコール依存や自死などが社会問題となりました。そして、今もウクライナ戦争、ガザ戦争で、同じようなメンタルの問題が起きています。
 今夜は、なぜ、戦中・戦後の歴史で、旧日本軍兵士の精神疾患は「ないもの」とされ、これまで検証されてこなかったのか。長年、追跡調査をしてきた研究者、『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』著者で、上智大学文学部准教授の中村江里さんとともに考えます。

【参考:外国帰還兵のトラウマ】

「帰還兵はなぜ自殺するのか」書評 戦闘ストレスの悲劇、鮮烈に|好書好日2015.4.26
 アフガニスタンイラクに派兵された米軍兵士は約200万人、そのうち50万人はPTSD(心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)に悩まされている。派兵前は善良な市民だったのに一転して社会生活についていけなくなり、精神障害、暴力、薬物中毒に陥り、毎年240人以上が自殺している。
 ワシントン・ポスト紙の元記者である著者は、こうした戦闘ストレスに悩む元兵士たち、その家族、さらにはペンタゴン(米国防総省)の自殺防止会議の調査報告にふれながら、この悲劇の実態はどのようなものか、具体的に鮮烈に記述していく。

帰還兵はなぜ自殺するのか デイヴィッド・フィンケル著 - 日本経済新聞北海道大学准教授*48渡辺将人*49)2015.4.29
 イラクアフガニスタンに派遣された米兵は200万人。そのうち50万人が帰還後も心の病を抱えているという。目の前で仲間を失い、敵を殺すという生々しい戦闘経験が心的外傷後ストレス障害PTSD)を発症させる例が後を絶たない。悪夢、アルコール依存、鬱病。そして毎年約250人の帰還兵が自殺している。ベテランの米紙記者が米国内に持ち込まれた戦争の「見えない傷」を5人の兵士とその家族の物語で描き出した。


朝鮮人帰還兵のアジア・太平洋戦争と戦後(金庾毘*50
(内容紹介)
 アジア太平洋戦争後、韓国に帰還した帰還兵は「日本帝国主義に協力した民族の裏切り者」という厳しい視線にさらされることになる。
 実際には「同調圧力があり、100%の自由意志ではない」とはいえ建前では志願兵だったからである。
 なお、皮肉なことに帰還兵には、韓国において軍人になるものが多かった。
 日本支配下朝鮮半島においては「日本軍に参加した軍人を除けば軍経験者が少なかった」ため「韓国軍の建設を進めるにおいて手っ取り早いのは、旧日本軍に参加した韓国人を活用すること」だったからである。
 しかしこのことは戦後韓国において、韓国人(特に軍関係者)が「必ずしも日本の植民地支配について批判的な意識を持つ人間ばかりではない」という皮肉な影響を与えた。
 この点は韓国において「韓国軍のルーツを何処に求めるか(例えば独立運動家だが、戦後、北朝鮮政府幹部となった金元鳳の扱い)」「旧日本軍人だった韓国政府、軍幹部をどう評価するか(例えば『満州国軍人』だった朴正熙大統領や、同じく『満州国軍人』だった朝鮮戦争の『英雄』白善燁の扱い)」という論争にまでなっている。

【参考:金元鳳】

金元鳳 - Wikipedia
 2019年6月6日の朝鮮戦争での戦死者を追悼する顕忠日に文在寅大統領は、臨時政府軍務部長、光復軍副司令官を務めた金元鳳を「韓国軍のルーツ」と肯定的に評価した。一方、自由韓国党(『国民の力』の前身政党)などの韓国保守派は「よりにもよって顕忠日の追悼演説で北朝鮮要人を『韓国軍のルーツ』と持ち上げた」と大統領発言を批判した。

[社説]理念対立の克服を目指しているのに「金元鳳論争」で足を引っ張ってはならない : 社説・コラム : ハンギョレ新聞2019.6.8
 金元鳳は、臨時政府の軍務部長と光復軍副司令官を務めたにもかかわらず、解放後に越北して北朝鮮政権の高官を務めたことで(後に粛清)、叙勲対象から除外された。
 現行の規定上、金元鳳に叙勲を与えるのは難しいというが、もう時代の変化に合わせて勲章を与えられない理由はない。直ちに施行するのが難しいなら、適当な時期を選んで、叙勲を積極的に検討するべきだ。叙勲はできなくても、「彼の独立運動」を称える発言を問題視すべきではない。

【参考:白善燁】

白善燁 - Wikipedia
 保守派は朝鮮戦争の英雄*51として評価する一方で、進歩派は日本統治時代の経歴(満州国軍の間島特設隊で抗日パルチザン討伐に従事)を問題視して、親日派として批判している。
 盧武鉉政権時代には反民族特別法によって作成された親日人名辞典に日本の韓国植民地統治に協力した親日派としてリストアップされ、親日反民族行為者に認定された。
 李明博政権当時、死後国立ソウル顕忠院に埋葬することになっていたが、文在寅政権は、親日派として問題視されていることから、大田顕忠院に埋葬することになった。

【社説】独立記念館は日帝強占期の親日派の名誉回復委員会なのか : 社説・コラム : ハンギョレ新聞2024.8.10
 就任前から「不適格」として物議を醸してきた独立記念館のキム・ヒョンソク館長が、民族問題研究所の「親日人名辞典」(2009年)について「内容に誤りがある。誤った記述によって不当にも親日の人物だと非難を受ける方々がいてはならない」と述べた。就任初日から、独立記念館を親日派の名誉回復のための「道具」に使うという意図を隠していない。独立記念館長という重責を引き受けるにはあまりにも不適切な歴史認識を持つキム館長は、自ら恥を知り、ただちに辞任すべきだ。
 キム館長は8日、就任式を終えた後に記者団に会い、今後推進する重点課題は何かという質問に「親日人名辞典に収録された人たちのなかに不当にも親日だとして非難されるケースがないよう問題提起する」と述べた。独立記念館を「親日派」という歴史的・社会的評価が下された人物を復権させることに活用するという意向を露骨に示したのだ。
 キム新館長が現政権の目に留まったのは、2022年8月に『終わらなければならない歴史戦争』という退歩した歴史認識を込めた著書を出版してからだとみられる。この著書では、過去の政府の親日清算作業の価値を貶め、5・18(光州民主化運動)や済州4・3などに対する真相究明の努力を否定し、安益泰(アン・イクテ)*52白善燁(ペク・ソンヨプ)など親日派と断罪された者たちを擁護した。このような人物が独立記念館長になったからには、独立記念館は遠からず親日派名誉回復委員会になるだろう。李明博(イ・ミョンバク)政権や朴槿恵(パク・クネ)政権でもこのようなことまではしてはいない。

光州・全羅南道の市民団体「日本の手先、尹政権の歴史クーデターを糾弾する」 : 政治•社会 : ハンギョレ新聞2024.8.14
 韓国政府が日本の佐渡鉱山(佐渡島の金山)のユネスコ世界遺産登録の過程で強制動員に関する表現の削除を受け入れたのに続き、「ニューライト史観」で物議を醸しているキム・ヒョンソク氏を独立記念館長に任命したことを受け、光州(クァンジュ)および全羅南道地域の市民団体の反発が続いている。
 日帝強制動員市民の会など光州・全南の107団体は13日、光州広域市議会の平和の少女像の前で記者会見を開き、「尹錫悦(ユン・ソクヨル)政権は親日(日本統治時代に日本帝国に加担・協力した反民族行為)の歴史クーデターの試みを直ちに中断せよ」と糾弾した。
 市民団体は「政府はユネスコ世界遺産に登録された日本の佐渡鉱山の展示に『強制』という表現を明示してほしいと日本政府に要請したが断られた事実を、これまで隠蔽してきた」とし、「佐渡鉱山の文化遺産登録の時、まるで日本が韓国人被害者に対する強制動員の事実を認めたかのように偽りの報道資料も発表した」と指摘した。
 また、「尹錫悦大統領は昨年、突然、洪範図(ホン・ボムド)*53将軍の胸像撤去をめぐる騒ぎを起こし、光復*54から76年ぶりに遺骨が奉還された洪将軍を侮辱した。さらに最近、光復会と独立有功者団体の相次ぐ反対にもかかわらず、「大韓民国歴史と未来」のキム・ヒョンソク理事長を独立記念館の新たな館長に据えた」とし、「キム館長は日帝が抗日独立運動勢力を討伐するために創設した間島特設隊出身の親日派白善燁(ペク・ソンヨプ)を擁護する一方、臨時政府の否定、自律的・合法的韓日併合という論理を展開した」と批判した。
 市民団体は「尹錫悦政権は歴史ロンダリングを試みる日本の手先の役割だけでは飽き足らず、戦犯国日本のために歴史クーデターを行った」とし、「佐渡鉱山のユネスコ文化遺産登録の隠蔽・ごまかしに関わった責任者を問責し、キム・ヒョンソク独立記念館長任命を直ちに撤回すべきだ」と要求した。


◆歴史のひろば「蒋介石*55蒋経国*56日記の国史館への『返還』とその意義」(川島真*57
(内容紹介)
 蒋介石蒋経国日記が2004年に「米国スタンフォード大フーバー研究所」に寄贈された物の、それは「一部の遺族が勝手にやったこと」だと「別の遺族」が主張したため、フーバー研が「自己の保有に問題はない」として提訴。しかしフーバー研が2023年に敗訴したことで台湾に返還。
 返還された日記が台湾国史館(台湾総統府直属の国家機関:国史館 - Wikipedia参照)に改めて寄贈されたと言うことのようです(台湾に戻った「蒋介石日記」 | アゴラ 言論プラットフォーム参照)。


◆歴史の眼「大阪コリアタウン歴史資料館という試み」(伊地知紀子*58
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
【参考:大阪コリアタウン歴史資料館】

韓流ブームに乗るコリアタウンに資料館オープン 「過去にも目を」 [大阪府]:朝日新聞デジタル2023.5.2
 大阪コリアタウン大阪市生野区)の中心に「大阪コリアタウン歴史資料館」がオープンした。戦前から朝鮮半島出身者が多く暮らす地で、偏見や差別にさらされながらも生き抜いてきた在日コリアンの歩みを伝える場だ。
 コリアタウンには東西約500メートルに韓国食材店や化粧品店がずらりと並ぶ。一般社団法人「大阪コリアタウン」によると、年間の来訪者は約200万人、その8割が女性で、年代別では30代以下が半数を占める。アイドルグループBTSやTWICE*59などが牽引する韓流ブームの受け皿となっている。
 一帯はかつて「猪飼野(いかいの)」と呼ばれ、日本による植民地時代に朝鮮半島から移った人々が多く住んだ。そこでは、在日の食や文化が脈々と受け継がれてきた。

歴史伝え、共生めざす/大阪コリアタウン歴史資料館が開館 | 朝鮮新報2023.5.15
 戦前から在日朝鮮人が多く住む大阪市生野区コリアタウンに、同胞の歴史を保存し伝える、大阪コリアタウン歴史資料館(一般社団法人大阪コリアタウン歴史資料館)がオープンした。4月29日に開館式が行われ、朝鮮総聯大阪府本部の夫永旭委員長をはじめとする同胞、日本市民ら約130人が集った。
 資料館には約2千冊の書籍と800点以上の展示物が設置されている。植民地時代に朝鮮人がこの地に移り住んだ背景や、差別がまん延する中でも生き抜いた朝鮮人の姿、在日朝鮮人と日本市民らとの共生について描かれている。

「君が代丸」と済州の風 生野で企画展 大阪定期船、就航100年機に 島民の25%移住、コリアタウンの礎に /大阪 | 毎日新聞2024.1.17
 韓国南部・済州島にルーツを持つ在日コリアンが多く暮らす大阪市生野区の「大阪コリアタウン歴史資料館」で、企画展「君が代丸に乗ってきた済州人」が始まった。島と大阪築港を「君が代丸」で結ぶ定期航路が、植民地期の1923年に開かれ昨年で100年となったのを機に開催。6月ごろまで。

大阪:大阪コリアタウン歴史資料館 1万人:地域ニュース : 読売新聞2024.2.15
 韓国・ 済州道(チェジュド)にルーツを持つ在日コリアンが多く住む大阪市生野区の街の歴史を伝える「大阪コリアタウン歴史資料館」の入館者が15日、1万人に達し、記念のセレモニーが開かれた。
 資料館では、かつて「 猪飼野(いかいの) 」と呼ばれ、日本最大の在日コリアン集住地だった地域の歴史をパネルや動画で紹介。1万人目となった東京学芸大4年小西佑奈さん(23)(東京都小平市)は、高正子(コォチョンジャ)館長から記念品を受け取り、「共生の街の成り立ちを知ることができた」と話していた。
 午前10時~午後5時。水曜定休。入場料は大人300円、大学生以下100円。

観光地に変わった大阪コリアタウンの一角に刻まれた「歴史の痕跡」 : 日本•国際 : ハンギョレ新聞2024.4.4
 歴史資料館は「在日済州人歴史館」と言っても過言ではなく、1903年に済州から日本に渡った海女をはじめ、1920年代の済州・大阪間の直航路(君が代*60)の開設、解放(日本の敗戦)後の生野区の様子など、済州人の移住の歴史が各所で展示されている。

【参考:大阪コリアタウン

<独自>「大阪コリアタウン」1月誕生 3商店街が統合、全国に発信 - 産経ニュース2021.12.15
 日本最大のコリアタウンといわれる大阪市生野区の3つの商店街が統合し、来年1月に「大阪コリアタウン」の名称で一般社団法人を設立することが15日、分かった。
 大阪コリアタウンに参加するのは、JR鶴橋駅の南東約1キロにある御幸通、御幸通中央、御幸通東の3商店街。「生野コリアタウン」の通称で知られ、東西約500メートルにわたって韓国のストリートフードやキムチ、化粧品店など約120店舗が連なっている。

変わる「在日コリアンの街」大阪・生野 住民のルーツ多様化80カ国:朝日新聞デジタル2024.6.1
 生野区と東成区にまたがる一帯は、かつて「猪飼野(いかいの)」と呼ばれ、地場の零細工場や川の改修工事での仕事のため、植民地だった朝鮮半島から多くの人々が移り住んだ。
 厳しい差別のなかで、故郷の味を懐かしむ朝鮮人らは、キムチなどを売る「朝鮮市場」をつくった。それが今の「コリアタウン」へつながり、韓国料理店や化粧品店に年間200万人が訪れる。JR鶴橋駅周辺には焼き肉店が並び、香ばしい匂いが立ちこめる。
 在日コリアンの街である生野区でも、住民のルーツは多様化し、市の統計で約80カ国(3月時点)に及ぶ。
 外国籍住民全体の数はこの10年、3万人弱でほぼ変わらないが、韓国・朝鮮籍者の割合は2014年の90%から66%に減少。一方、ベトナム(1→12%)や中国(6→12%)、ネパール(0→4%)の割合が急増した。
 新今里地区にはベトナムの食材や料理を売る店も集まる。

*1:戦地から帰還した兵士のこと

*2:千葉大学講師

*3:恩給支給が完全になくなったわけではなく、従来より減らす代わりに就労支援を行うという手法をとったようです。

*4:岐阜聖徳学園大学教授

*5:レヴィットタウンの「レヴィット」とはウィリアム・レヴィット - Wikipediaのこと

*6:1934~2007年。著書『メディアの権力』(朝日文庫)、『ザ・フィフティーズ:1950年代アメリカの光と影』(ちくま文庫)、『ザ・コールデスト・ウインター:朝鮮戦争』(文春文庫)

*7:大妻女子大学専任講師。著書『ブラセロ・プログラムをめぐる米墨関係:北アメリカのゲストワーカー政策史』(2018年、彩流社

*8:チカーノ - Wikipediaという。なお、ヒスパニック - Wikipediaによれば、ヒスパニック(ラティーノ(ラテン系アメリカ人)ともいう)の約6割がメキシコ系

*9:1908~1973年。下院議員(テキサス州選出)、上院議員テキサス州選出)、民主党上院院内総務(院内総務は日本の国対委員長に当たる)、ケネディ政権副大統領(1961~1963年)を経て大統領(1963~1969年)。大統領時代に公民権法(1964年)、フードスタンプ(1964年:低所得者への食費補助)、ヘッドスタート(1964年:低所得者の幼児への就学支援)、メディケア(1965年:高齢者等への医療費補助)、メディケイド(1965年:低所得者への医療費補助)を実現(リンドン・ジョンソン - Wikipedia参照)

*10:それでも「民主党の獲得したメキシコ系アメリカ人票」の方が共和党のそれよりも多いが、2020年大統領選(バイデンが当選)よりも今回、メキシコ系アメリカ人票をトランプが獲得しており、民主党の地盤が切り崩されたことが窺える。なお、「2020年大統領選より民主党の獲得票が減った」のはメキシコ系アメリカ人票だけでなく、民主党が支持基盤としてきた「黒人票」「若者票」「女性票」もそうであり、その結果、トランプ勝利がもたらされた。

*11:上院議員ミネソタ州選出)を経て副大統領

*12:国連大使、CIA長官、レーガン政権副大統領等を経て大統領

*13:カリフォルニア州知事を経て大統領

*14:下院議員(テネシー州選出)、上院議員テネシー州選出)を経て副大統領。2007年ノーベル平和賞受賞者

*15:アーカンソー州知事を経て大統領

*16:上院議員カリフォルニア州選出)を経て副大統領

*17:上院議員デラウェア州選出)、オバマ政権副大統領を経て大統領

*18:ルーズベルトアメリカ政治史上で唯一4選された大統領である。初代のワシントン大統領が3選を固辞した故事から大統領は2選までというのが慣例だったが、戦時を理由に1940年、1944年の大統領選挙に立候補して当選した。後に憲法改正によって(修正第22条:1951年)、正式に大統領は2期8年までと定められた。

*19:ヒューズはケネディ政権から任命された連邦判事のうち唯一の女性

*20:上智大学教授。著書『中華民国期農村土地行政史の研究』(2002年、汲古書院)、『銃後の中国社会:日中戦争下の総動員と農村』(共著、2007年、岩波書店)、『中華人民共和国誕生の社会史』(2011年、講談社選書メチエ)、『戦時秩序に巣喰う「声」:日中戦争国共内戦朝鮮戦争と中国社会』(編著、2017年、創土社)、『中国戦時秩序の生成:戦争と社会変容・一九三〇~五〇年代』(2023年、汲古書院

*21:1940年生まれの彼は帰還兵ではないが英雄軍人の一人であり、終戦後、帰還兵は「中国が発展途上国の状態から富国強兵を目指したこと」もあり、雷鋒のような「労働英雄」であることを求められた(まあ、それは帰還兵だけではないですが)。

*22:湖南省省都

*23:著書『蒋介石と新生活運動』(2006年、慶應義塾大学出版会)、『蒋介石の戦時外交と戦後構想:1941-1971年』(2021年、慶應義塾大学出版会)

*24:この記事の執筆当時。現在は教授

*25:上智大学准教授。著書『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』(2018年、吉川弘文館

*26:現在は国立国際医療研究センター国府台病院

*27:著書『精神障害者の地域移行支援』(2015年、中央法規出版)、『精神科病院脱施設化論』(2015年、批評社

*28:役職は当時。現在は議長

*29:1957年生まれ。防衛庁防衛局調査課長、防衛局防衛政策課長、防衛省沖縄防衛局長、地方協力局次長、防衛政策局次長、人事教育局長、整備計画局長、防衛審議官等を歴任(真部朗 - Wikipedia参照)

*30:役職は当時。現在は退官

*31:役職は当時。現在は上智大学准教授

*32:役職は当時。現在は上智大学准教授

*33:役職は当時。現在は上智大学准教授

*34:役職は当時。現在は上智大学准教授

*35:ゴッドファーザー PART2』(1974年公開)でアカデミー助演男優賞を、『レイジング・ブル』(1980年公開)でアカデミー主演男優賞を受賞(ロバート・デ・ニーロ - Wikipedia参照)

*36:1976年に、マーティン・スコセッシ監督がカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞(タクシードライバー (1976年の映画) - Wikipedia参照)

*37:1962年生まれ。1988年公開の『告発の行方』と1991年公開の『羊たちの沈黙』でアカデミー主演女優賞を受賞(ジョディ・フォスター - Wikipedia参照)

*38:1939年生まれ。1979年公開の映画『地獄の黙示録』の主役ウィラード大尉役に抜擢されるが、監督のフランシス・フォード・コッポラとの意見の相違で撮影開始わずか2週間後に降板(代役はマーティン・シーン)し、これが映画会社との間で「契約違反」とされたためにハリウッドにおいて敬遠されるようになり、以後、ハリウッドでは端役しか与えられなくなった。そのため、活動の拠点をヨーロッパの映画に移し、リドリー・スコット監督の作品等に出演を重ねて復活のチャンスを地道に待った。1991年公開の映画『バグジー』ではアカデミー助演男優賞にノミネート(但し受賞は『シティ・スリッカーズ』のジャック・パランス(1919~2006年))され映画俳優としての地位を取り戻した(ハーヴェイ・カイテル - Wikipedia参照)

*39:1976年にアカデミー賞主演男優賞(ピーター・フィンチ)、主演女優賞(フェイ・ダナウェイ)、助演女優賞(ベアトリス・ストレイト)、脚本賞(パディ・チャイエフスキー)を受賞(ネットワーク (映画) - Wikipedia参照)

*40:ベトナム戦争を描いた『プラトーン』(1986年公開)、『7月4日に生まれて』(1989年公開)でアカデミー賞監督賞を受賞(オリバー・ストーン - Wikipedia参照)

*41:1939~2016年。1978年、『ディア・ハンター』で、アカデミー賞監督賞を受賞(マイケル・チミノ - Wikipedia参照)

*42:1978年、『ディア・ハンター』でアカデミー賞助演男優賞を、2002年、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』で英国アカデミー賞助演男優賞を受賞(クリストファー・ウォーケン - Wikipedia参照)

*43:「そんなことは私の知る限りベトナム軍はしてない」と本多勝一氏がコラムで批判していたのがこの話です。そういえば「ディアハンター」という邦題についても「英語そのままでは日本人の大半には意味不明だから『鹿狩り』と直訳した方がまだまし」とも本多氏は批判していました。

*44:監督、主演した映画『野火』(大岡昇平原作)で、2015年に毎日映画コンクール監督賞、主演男優賞を受賞(塚本晋也 - Wikipedia参照)

*45:役職は当時。現在は上智大学准教授

*46:現在は国立精神・神経医療研究センター病院

*47:戦時中及び戦後の戦傷病に関する体験等を伝える施設で、厚生労働省が設置した国立施設。2013年11月までは厚生労働省所管の財団法人日本傷痍軍人会が運営していたが会員の高齢化と減少により解散し、それに伴い運営主体は変更された。公式サイトしょうけい館 戦傷病者史料館 -

*48:肩書きは当時。現在は慶應義塾大学准教授

*49:1975年生まれ。2001年、 テレビ東京に入社。「ワールドビジネスサテライト」ディレクター、報道局政治部記者、社会部記者(警察庁担当)を歴任。テレビ東京退社後、 北海道大学准教授を経て慶應義塾大学准教授(アメリカ現代政治)。著書『アメリカ政治の現場から』(2001年、文春新書)、『見えないアメリカ:保守とリベラルのあいだ』(2008年、講談社現代新書)、『現代アメリカ選挙の集票過程』(2008年、日本評論社)、『オバマアメリカ』(2008年、幻冬舎新書)、『分裂するアメリカ』(2012年、幻冬舎新書)、『現代アメリカ選挙の変貌』(2016年、名古屋大学出版会)、『アメリカ政治の壁』(2016年、岩波新書)、『メディアが動かすアメリカ:民主政治とジャーナリズム』(2020年、ちくま新書)、『大統領の条件:アメリカの見えない人種ルールとオバマの前半生』(2021年、集英社文庫)等(渡辺将人 - Wikipedia参照)

*50:一橋大学特任講師

*51:朝鮮戦争当時、第1師団長、第1軍団長、第2軍団長、参謀総長を歴任。軍退役後も台湾大使、フランス大使、駐カナダ大使、交通部長官等の要職を歴任

*52:1906~1965年。韓国国歌の作曲者。1965年、文化勲章大統領章が授与された。2006年3月、安が満洲国建国10周年を記念して祝賀曲を作曲し、ベルリン放送交響楽団を指揮するフィルムが発見され、親日派疑惑が持ち上がった。2009年11月8日に刊行された民族問題研究所の「親日人名辞典」に、日本による植民地支配に協力した一人として名前が掲載された。(安益泰 - Wikipedia参照)

*53:1868~1943年。1962年、朴正煕政権が建国勲章大韓民国章を追贈。2021年8月15日に遺骨がカザフスタンから韓国に移され、8月18日の光復節に合わせて国立墓地である国立大田顕忠院に埋葬された。2018年には胸像が作られ陸軍士官学校の忠武館(生徒学習館)に設置され、陸軍士官学校の名誉卒業証書を追贈された。しかし2023年8月31日、陸軍士官学校内にあった胸像を外部に移転することが決定された。かつてソ連共産主義勢力と手を結んだだけでなく、ソ連共産党に入党したという経歴が問題視され、北朝鮮と戦う人材を育成する士官学校にはふさわしくないとの指摘を受けての措置だが、士官学校同窓会が移転方針を支持する一方、そもそも当時はソ連が植民地支配を受けている弱小勢力を支援していた時代であり、また共産党に入党したのは年金を受けるためだったとも指摘されており、これらの経歴を理由に移転させることは不適切との意見もある(洪範図 - Wikipedia参照)

*54:1945年の日本敗戦のこと(光復節 (韓国) - Wikipedia参照)

*55:1887~1975年。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者(国民政府主席)となる。しかし、戦後の国共内戦毛沢東率いる中国共産党に敗れ、1949年、台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく台湾(中華民国)総統の地位にあった(蔣介石 - Wikipedia参照)

*56:1910~1988年。蒋介石の長男。台湾国防相、副首相、首相、総統等を歴任

*57:東大教授。著書『中国近代外交の形成』(2004年、名古屋大学出版会)、『近代国家への模索:1894-1925(シリーズ中国近現代史2)』(2010年、岩波新書)、『21世紀の「中華」:習近平中国と東アジア』(2016年、中央公論新社)、『中国のフロンティア』(2017年、岩波新書)等

*58:大阪公立大教授。大阪コリアタウン歴史資料館副館長。著書『生活世界の創造と実践:韓国・済州島の生活誌から』(2000年、御茶の水書房)、『消されたマッコリ:朝鮮・家醸酒(カヤンジュ)文化を今に受け継ぐ』(2015年、社会評論社

*59:2015年デビュー。NHK紅白歌合戦には過去4回(2017年、2018年、2019年、2022年)出場。また、2023年紅白歌合戦に「TWICEのサブユニットMISAMO(日本人メンバーであるミナ、サナ、モモから構成)」が出場(TWICE (韓国の音楽グループ) - Wikipedia参照)

*60:未読ですが、これについては金賛汀『異邦人は君ケ代丸に乗って:朝鮮人猪飼野の形成史』(1985年、岩波新書)と言う著書があります。