新刊紹介:「歴史評論」2024年12月号

特集「帰還兵*1研究の国際化を展望する(仮題)」
◆中村祥司*2
◆武井寛*3
笹川裕史*4
◆戸田山祐*5


中村江里*6
参考

なぜ“復員”できなかったのか? 戦中も戦後も精神科病院に隔離…PTSDになった日本兵の末路|日刊サイゾー(月刊サイゾー2018年9月号)
 2018年8月、NHKでドキュメンタリー番組『隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~』が放送された。日中戦争~太平洋戦争期に、精神障害を負った兵士が送られた国府台(こうのだい)陸軍病院*7(千葉県市川市)に保管されていた8002人の病床日誌(カルテ)を分析し、日本兵の戦時トラウマを明らかにしたことで反響を呼んだ。
 番組に協力・出演した歴史学者中村江里氏の著書『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』(吉川弘文館)によれば、戦争と精神障害の問題は、第一次世界大戦の欧米諸国における「シェル(砲弾)ショック」「戦争神経症」から広く知られるようになったという。その後、ベトナム戦争帰還兵の自殺やアルコール中毒などの増加が社会問題化したことで、「心的外傷後ストレス障害PTSD)」という診断名が誕生した。一方、日本で「PTSD」や「トラウマ」という言葉が流布し始めたのは、1995年の阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件がきっかけだといわれている。
 日本で戦争神経症は長きにわたり「見えない問題」として扱われたわけだが、第1次大戦後の陸軍はシェルショックの存在を認識していた。しかし、特に満州事変以降、天皇の軍隊に心を病むような脆弱な兵士はいるはずがないという「皇軍」意識の高まりもあり、陸軍は「日本軍に精神障害兵士は一人もいない」としたのだ。一方で日中戦争が始まった直後の1937年秋、精神障害兵士の専門治療機関として国府陸軍病院を開設し、秘密裏に戦争神経症の研究を続けた。
 国府台病院には1937年12月~1945年11月に1万人を超える兵士が入院し、その中には現在でいうPTSDに該当する患者もいた。だが、「当時はそのような考え方はなく、個人の弱さが原因になっていると考えられていた」と中村氏は番組内で発言。
 かくして日本兵の戦争神経症は隠蔽され、終戦後、国府台病院のカルテも陸軍から焼却命令が出ていた。しかし、ある軍医が密かに持ち出したカルテをドラム缶に入れて庭に埋めたことで、焼却を免れた。そのカルテには、過酷な戦場で心をむしばまれていく兵士たちの姿が記録されている。
 例えば日中戦争でもっとも多くの日本兵精神障害を発症したのは、中国・河北省だった。同地では広大な地域を占領統治するには兵力不足だった日本軍と、山間部の村々を拠点に勢力を拡大する中国共産党八路軍との緊張関係が継続。中国兵は民間人(農民)と同じ服装で、中には少年兵もいた。これを日本兵は討伐しなければならなかったのだ。そのストレスは計り知れない。
 1941年に太平洋戦争が始まると、国府台病院へ送られる兵士の数も急増。日本軍の拠点だったガダルカナル島では、空襲によるシェルショックに見舞われる兵士が多発し、63万人が送られたフィリピンでは多くの兵士がマラリアの感染から精神疾患を併発した。
 終戦後も、精神障害兵士の多くが国立の療養所で生活を続けることになり、引き取り手のいない精神障害兵士は「未復員」と呼ばれた。1985年まで約1000人が精神病の治療を必要とし、その半数以上が入院していた。戦後50年を経た1995年に至っても253人が入院し、191人が入院外で療養。2018年現在、6人が治療を続け、うち3人は入院中である。彼らを「復員」させることは非常に困難だった。その原因のひとつが、家族・親族からの反対である。
 『隠されたトラウマ』にも出演し、ソーシャルワーカーとして国立武蔵療養所(現・国立精神・神経医療研究センター/東京都小平市)に26年間勤めた日本社会事業大学大学院教授の古屋龍太氏*8は、こう話す。
「未復員の方々は軍人として、戦傷病者特別援護法という法律に基づいて入院しており、軍人恩給が支給されます。病院内にいる限り、入院されているご本人はそのお金をほとんど使う機会もありませんから、ご家族に管理していただきます。しかし退院すれば、恩給はご本人の大切な生活費になります。残念なことですが、入院中の恩給がすべて家族によって消費されてしまい、ご本人の退院時には預金残高がゼロということもありました」
 また、未復員の人たちは、故郷では「英霊」扱いになっているケースもあるという。要するに、「勇敢に戦って死んだことになっているのに、実は東京で精神科病院に入れられていたことが今さら周りに知られては困る」と、故郷の家族・親族から拒絶されてしまうのだ。
 「当時は精神疾患自体に対する偏見が現在の比ではなく、ハンセン病結核以上に忌み嫌われる存在だったんです。」
 NHKで放送された『隠されたトラウマ』を通して、確かに日本の精神障害兵士に注目が集まった。それ自体は好ましいことではあるが、「やはり遅すぎた」というのが古屋氏の率直な感想だ。
「未復員の方々は、国家に人生を壊されたばかりか、日本の精神科医療政策の中で、残された人生の時間までも奪われた。しかも、残念ながらそのほとんどが亡くなってしまった段階で、ようやく日の目を見たわけです。」
「『隠されたトラウマ』でも思わず言ってしまいましたが、日本だからこういうことが起きているんです。例えばアメリカでPTSDの問題に注目が集まったのは、国民がベトナム帰還兵のケアに懸命に取り組んだから。一方、日本は臭いものにふたをするという体質で、なによりも、精神障害者の方々それぞれに人権があるということに非常に鈍感ですよね」
 ことは戦傷病者だけの問題だけでなく、日本の精神科医療全体の問題でもある。それを踏まえた上で、ようやく日の目を見た日本兵のトラウマの記録から得られる教訓はあるのか?
「教訓を得ようとするならば、まず自衛隊員のメンタルヘルスの状況をきちんと統計で出すこと。例えば2015年の政府答弁で、海外派遣された自衛官のうち54名が帰国後に自殺していたことが明らかになりました。その主たる原因はPTSDうつ病だと思うのですが、情報が開示されない以上、検証すらできません。だから、とにかく事実を隠さないでほしい。統合失調症は約100人にひとりが発症しますし、うつ病なども含む精神障害は現在も増え続けています。それが『自衛隊の中にはひとりもいません』などということはあり得ないでしょう」

 自衛隊員のメンタルヘルスについては以下を紹介しておきます。

赤旗アフガン・イラク戦争 派兵自衛官 自殺40人/「戦地」派兵でさらに2014.7.13
 アフガニスタンイラクの両戦争に派兵された自衛官の自殺者が2014年3月末時点で少なくとも40人にのぼることが分かりました。政府答弁や防衛省の回答によるもの。国民平均に比べ約3~16倍、自衛官全体と比べても約2~10倍の高い割合で自殺者が出ています。
 防衛省は自殺と派兵の因果関係については「わからない」としています。
 アフガニスタンイラクの両戦争に派兵された自衛官の自殺率の異常な高さは、日本が参戦した二つの「対テロ戦争」による「見えない犠牲者」の存在を改めて浮き彫りにしました。今後、安倍政権が憲法9条を破壊して「海外で戦争できる国」づくりを進めれば、現場の自衛官は命の危険に直面するだけでなく、さらに強い精神的ストレスにさらされることになります。
 インド洋、イラクに派兵された自衛官の自殺率は、自衛隊全体の率を大きく上回っており、派兵との因果関係を考えざるをえません。
 自衛隊には平時から弱い立場の自衛官を自殺やうつに追い込むような人権無視の体質があります。例えば、イラク派兵から帰国後の2005年11月に自殺した航空自衛官は、派兵による業務の肩代わりを理由に、上司からいじめを受け、自ら命を絶っています。
 何より重大なのは、数字上、派兵との因果関係が明らかでありながら、防衛省が一貫して「因果関係はわからない」としていることです。現在も増え続ける「見えない犠牲者」の存在すら解明しないまま、新たに「戦地」に自衛官を送り込む「閣議決定」には、人知れず命を絶った自衛官に報いるべき一片の正当性もありません。

赤旗徹底批判!戦争法案/インド洋“出撃”途上に自殺 07年 隊員の犠牲 新たに判明/“戦死の備え” 法案で現実味2015.6.7
 インド洋・イラク派兵の自衛官54人が自殺。戦争法案を審議する衆院安保法制特別委員会(5月27日)で、日本共産党志位和夫委員長*9に対する防衛省の答弁は、大きな衝撃を与えました。
 「54名が帰国後の自殺によって亡くなられております」。
 防衛省の真部朗*10人事教育局長*11は同日の委員会で志位氏にこう答弁しています。志位氏は5月27日の衆院安保法制特別委員会で、こう追及しています。
 「自衛隊の活動領域を広げたら、(自殺の問題が)もっと深刻になる」
 国会で憲法学の権威がこぞって「違憲」と断じた(4日、衆院憲法審査会)戦争法案に基づき、国民の生命や平和な暮らしとは無縁の米軍の戦争支援のために、末端の自衛隊員の心と体、そして命を犠牲にさせられる。こんなことが、許されるはずがありません。

[歩く 聞く 考える] 旧日本軍兵士とトラウマ 「戦争のリアル」考える糸口に 広島大大学院准教授 中村江里さん | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター2021.9.15

戦争のトラウマからアルコールに依存した父 今も続く家族の苦しみ | NHK2022.12.9
 戦争とトラウマの関係について研究する、広島大学大学院の中村江里准教授*12は、元兵士の心の傷を国が隠してきたことが、大きく影響しているのではないかと話します。
広島大学大学院・中村江里准授
「戦時中の新聞を見ると、国は、戦争の恐怖による精神疾患が、敵軍の兵士には見られるが、日本軍には見られないとしていました。国民の士気を上げるためです。国家によってそうした病気の存在が否定されるということは、精神疾患を患った元兵士や家族にとっては、自己を否定されることに等しいわけですね。そうした父親の存在や、家庭のなかでの暴力というのは、周囲には話せないと感じた人も多かったと思います」

戦争の過酷体験、兵士の苦悩長く リスク解明へ研究進む - 日本経済新聞2023.8.14
 戦争によるトラウマを研究する広島大大学院の中村江里准教授*13は、国内では1930年代の満州事変に関する陸軍の衛生史で戦争神経症の項目が登場したと指摘する。ただ日本軍は国民の士気に関わることなどを理由に発症した兵士の存在を否定したという。
 中村准教授は戦争による長期的な影響について、国内外の専門家と共同研究に取り組んでいる。「戦争のトラウマが次世代に与える影響の研究は少なく、家庭内暴力などとなって連鎖するリスクを解明していく必要がある」と話している。
帰還兵PTSD、近年の戦争でも深刻
 戦場経験が招く精神疾患の問題は、ベトナム戦争の米帰還兵のアルコール依存や自殺で社会問題化し、1980年代にPTSDの診断名が生まれた。近年の戦争でもPTSDの深刻さは表れる。
 米ブラウン大ワトソン研究所の報告書によると、2001年9月に起きた米同時テロ以降の戦闘任務で死亡したのは約7000人に上った。一方、自殺した現役と退役軍人は4倍超の約3万人と推計する。退役軍人でつくる団体も、2030年までの自殺者が同時テロ後の戦死者の23倍に達すると見込む。
 2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻でも、戦闘を通じて精神的不調に陥るウクライナ兵が相次ぎ、PTSDの社会問題化が懸念される。

知られざる戦争トラウマ 「ないもの」にされた元日本兵たちの心の傷:朝日新聞デジタル2023.8.15
 終戦時、海外には約330万人の日本軍の軍人・軍属がいた。復員した人たちの中には、戦後アルコール依存になったり家族に暴力を振るうようになったりした元兵士たちもいた。
 しかし、戦争と精神医療の関係に詳しい中村江里広島大学大学院准教授*14(日本近現代史)によると、アジア・太平洋戦争からの復員兵の「心の傷」についての体系的な記録は残っていないという。
 中村さんは「当時、まだPTSDという概念が無かった。また、軍が終戦時に精神神経疾患の兵士の資料などを焼却したことも、大きく影響している」と指摘する。
 旧日本軍は、ひそかに精神神経疾患専門の国府台(こうのだい)陸軍病院(千葉県市川市)に患者約1万人を集めていたが、その存在を隠蔽した。そして「皇軍に軟弱な兵士はいない」というプロパガンダを流し、精神を病んだ兵士の存在を否定した。中村さんによると、断片的な陸軍の資料や米軍の調査から推測すれば、現在のPTSDに該当する人々を含む精神神経疾患の兵士は、少なくとも数十万人に上ったと考えられるという。
 心を病んだ兵士は、自身を「恥」と思い込む傾向が強いという。精神疾患への偏見の強さや、加害行為を打ち明ける難しさも相まって、戦後も兵士本人や家族は声を上げられなかった。一方、各家庭では虐待などの様々な問題が起きたが、社会問題化しなかった。
 中村さんは「いま、兵士の子どもが70代、80代になってようやく語り始めた。家族の話を聞くと、戦争は今でも終わっていないと感じる」と話す。

なぜ日本兵の心の傷は「ないもの」にされたのか 語り始めた2世たち:朝日新聞デジタル2023.8.17
 「戦後」78年のいま、戦争は本当に終わったと言えるのだろうか。2018年の著書「戦争とトラウマ」(吉川弘文館)で、兵士の心の傷について検証した中村江里広島大学大学院准教授*15(日本近現代史)に聞いた。
◆記者
 著作では、日本兵たちの「心の傷」が忘れ去られてきたと説きました。
◆中村
 大学時代に兵士のトラウマを調べていて、「あれ?」と思ったんです。この分野での先行研究は、ほとんど欧米のもの。日本やアジアのものは全然出てこないな、と。
 欧米では、「心を病んだ兵士」は歴史学だけでなく文学や映画でもメジャーなテーマです。ロバート・デ・ニーロ*16主演の「タクシードライバー*17」(1976年)のように、みんなが知っている映画も、ベトナム帰還兵の後遺症を描いています。
 アジア・太平洋戦争で、日本兵は過酷な経験をしてきた。それは多くの人が知っていることです。でも、心の傷は「見えない問題」になっているのではないか。そんな疑問が出発点でした。
(この記事は有料記事です)

 タクシードライバーのあらすじ等については以下を紹介しておきます。

タクシードライバー (1976年の映画) - Wikipedia参照
【あらすじ】
 ベトナム戦争帰りの元海兵隊トラヴィス・ビックルロバート・デ・ニーロ)は、戦争による深刻な不眠症をわずらっているため定職に就くこともままならず、タクシー会社に就職。
 トラヴィス不眠症は深刻さを増し、心はすさんでいく一方であった。そんな中、トラヴィスのタクシーに突如幼い少女「アイリス」(ジョディ・フォスター*18)が逃げ込んできた。ジゴロのような男が彼女を連れ戻すが、トラヴィスはこれをきっかけにある決断をした。
 トラヴィスは買春客を装ってアイリスに近付き、デートに誘うと、売春で稼ぎ学校にも行かない生活をやめるように説得した。アイリスは、ヒモの男に騙され利用されていることに気づいていない。その夜トラヴィスは、アイリスのヒモ「スポーツ」(ハーヴェイ・カイテル*19)を撃つ。続いて見張り役や用心棒、売春稼業の元締めを立て続けに射殺。自らも反撃を受けて重傷を負い、その場で自殺を図るも弾切れのため果たせず、駆け付けた警官の前で昏倒する。マスコミは彼を一人の少女を裏社会から救った英雄として祭り上げ、アイリスの両親からも彼女はあれ以来真面目に学校に通うようになったと感謝の手紙が来た。
【エピソード】
・徹底した役作りで知られるデ・ニーロだが、本作の撮影に際し数週間、実際にタクシーの運転手を務めた。
・売春で生計を立てる少女アイリスを演じたジョディ・フォスター(1962年生まれ)は、1975年の映画公開当時わずか13歳であったことで大きな話題を呼んだ(受賞は逃したが、本作で1976年のアカデミー助演女優賞にノミネート。なお、1976年のアカデミー助演女優賞は『ネットワーク*20』のベアトリス・ストレイト)。
・この映画の公開後、ジョディの熱狂的なファンを自称するジョン・ヒンクリーによって1981年にレーガン大統領暗殺未遂事件が発生。この事件に衝撃を受けたジョディは、一時期映画界とは距離を置いた。

レーガン大統領暗殺未遂事件 - Wikipedia
 映画『タクシードライバー』を観たジョン・ヒンクリーは、映画の中で売春婦役を演じたジョディ・フォスターに一目惚れし、自分の「運命の女」だと思い、偏執的な恋心を抱くようになった。ヒンクリーは「自分が大統領暗殺という大事件を起こせば、フォスターが自分を認めてくれる」との妄想から、大統領の暗殺を企て始めた。
 1981年3月30日にワシントンD.C.ヒルトン・ホテルで、レーガンがAFL-CIO会議で演説した後にホテルを出ようとしたところで、ヒンクリーは回転式拳銃を続けざまに6発発射。弾丸はレーガンの胸部に命中し負傷させた。
【エピソード】
・この事件で頭部に銃弾を受け障害が残ったブレイディ大統領報道官は任務遂行が不可能となったものの、1989年にレーガンがその任期を全うするまでの間、正規の大統領報道官として留任した。事件後はブレイディの部下であるスピークス大統領副報道官が実質的に報道官としての任務を行い、ブレイディは回復に向けてのリハビリテーションに専念した。なお、この事件を受けて制定されたのが、米国民の銃器購入に際し、購入者の適性を確認する「ブレイディ法」である。しかしこの法律は2005年にNRA(全米ライフル協会)などの抵抗により効力延長手続きがされず失効した。
ジョディ・フォスターは、2013年1月のゴールデングローブ賞授賞式において、自らがレズビアンである事を匂わせる発言をし、実際に2014年4月、女性写真家アレクサンドラ・ヘディソンと同性婚している。マスコミからは「レーガン狙撃事件がきっかけで男性不信または男性恐怖症を発病したことから女性しか愛せなくなった」と言われたが、フォスターは「事件とは全く関係がない」と生まれつきである事を明かしている。

 また「ベトナム帰還兵の映画」については以下も紹介しておきます。

八月に思う 米映画に見るベトナム戦争帰還兵のPTSDと回復への光:朝日新聞デジタル2023.8.29
 一つ目が、オリバー・ストーン*21監督、トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」(1989年)だ。ベトナム戦争で過酷な体験をし、負傷して下半身不随になった帰還兵ロン(トム・クルーズ)が、戦場での記憶のフラッシュバック(再体験症状)に苦しみつつ、そのことを誰にも話せず(回避症状)、時に自暴自棄になり酒におぼれたり、周囲の人たちに攻撃的になったりする姿(過剰覚醒症状)が描かれていた。
 もう一つは、マイケル・チミノ*22監督、ロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」(1978年)だ。米ピッツバーグ郊外の製鉄所で働くマイケル(ロバート・デ・ニーロ)やニック(クリストファー・ウォーケン*23)らは、休日に鹿狩りを楽しむ仲間だったが、ベトナム戦争に従軍し過酷な体験をする。中でも、北ベトナムの捕虜になった後、ニックは、ロシアンルーレットを強要され*24、精神のバランスを崩していた。
 幸いにもマイケルに助け出されたのだが、その後、紆余曲折の末、ベトナムの賭博場でロシアンルーレットに遭遇する。今度は自ら進んでロシアンルーレットに身を任せるようになり、結局はそのゲーム中に自らの引き金によって命を落としてしまうのだ。
 ニックに認められたのもPTSDの基本症状の一つ、「再演」という症状だ。再演は、フラッシュバックに伴うことが多い再体験症状の一つだが、まるで今その出来事の最中であるかのように行動してしまう、というものだ。
(この記事は有料記事です)

「ほかげ」で描いた戦争トラウマ 復員兵の娘「息止まった」迫真映像:朝日新聞デジタル2024.1.23
 戦争で心に深い傷を負った人々の姿を浮き彫りにする映画「ほかげ」が上映中です。戦後70年にあたる2015年公開の「野火」で戦争の狂気を描いた塚本晋也*25監督が、今作では終戦後も兵士らの心をむしばむ「戦争トラウマ」に光を当てました。17日、都内の映画館で、塚本監督が「戦争とトラウマ」の著書がある中村江里・広島大准教授*26トークイベントを開きました。
◆中村
 私の著書は、かろうじて陸軍病院の史料が残っている戦時中の精神疾患の兵士の話題が中心です。戦後はそうした病院すら無くなり、心に傷を負った元兵士への国家によるケアはほとんどなされませんでした。戦後史に大きな空白ができたと私は思っています。
(この記事は有料記事です)

PTSDの元兵士の家族に寄り添う会 戦争トラウマの影響知る機会に [千葉県]:朝日新聞デジタル2024.6.5
 太平洋戦争の戦地から戻った後、PTSD心的外傷後ストレス障害)に苦しんだ元兵士の家族らを支援しようと、「PTSD日本兵家族会・寄り添う市民の会ちば」が設立された。
 2日、松戸市の稔台市民センターであった会の立ち上げ集会。
 講演した上智大の中村江里准教授によると、国内では1938年、国府台(こうのだい)陸軍病院市川市)が精神神経疾患の治療のための特殊病院になり、終戦までに約1万人が入院。40年に傷痍軍人武蔵療養所*27(東京都小平市)が開所し、約950人が入所した。このほか、一般陸軍病院や民間精神科病院に入る人、自宅療養する人たちがいたという。
 中村准教授は「亡くなった戦友へのうしろめたさや、精神疾患で『お国の役に立てなかった』との強い恥の意識があり、自身のトラウマ体験を語ることが難しい状態だった」と説明。「PTSDで悩む復員兵の姿を知る家族の証言は、これまでほとんど解明されてこなかった『戦争トラウマ』の長期的影響を知る上で非常に重要だ」と指摘する。

元日本兵のPTSD問い直す 「寄り添う市民の会ちば」発足 松戸で設立集会、家族の証言募る:東京新聞 TOKYO Web2024.6.5
 アジア太平洋戦争の戦争トラウマ(心的外傷)の影響を証言する「PTSD心的外傷後ストレス障害)の日本兵家族会・寄り添う市民の会ちば」が2日、発足した。東京、大阪に次いで全国で3番目の設立。千葉県松戸市で開かれた設立集会に市民ら約40人が参加し、戦場から帰った父親の急変に苦しんだ家族の話に聞き入った。(林容史)
 集会では、上智大の中村江里准教授(日本近現代史)が講演した。中村さんは、あまり注目されてこなかった日本兵の「戦争神経症」を調査し、17年の著書「戦争とトラウマ」で太平洋戦争でのPTSDを浮かび上がらせた。
 戦場では、手足が震えてまひしたり、声が出なくなったりする症状が多発。背景には戦争の長期化、苛烈な近代戦争、軍内部の暴力的な構造などがあったという。軍は兵士の精神疾患を隠し、兵士自身も強い恥の意識を持っていたため、表面化しなかった。
 中村さんによると、戦争トラウマは医療の対象にはならず、その影響は帰国後、怒りの暴発、アルコール・薬物依存、家族への暴力となって現れたという。

戦争トラウマ、初の実態調査 国が旧陸海軍病院の資料など照会へ | 毎日新聞2024.8.14
 過酷な戦場の現実や加害行為のため、心的外傷後ストレス障害PTSD)などに苦しんだ旧日本軍兵士や家族の実態について、厚生労働省は近く、初めての調査を本格化させる。旧陸海軍病院を前身とする国立病院機構などに対し、治療を受けた兵士のカルテなどの資料が残っていないか照会し、協力を求める方針。厚労省は関係資料などを収集・分析した上で、戦後80年を迎える2025年度に(ボーガス注:厚労省所管のしょうけい館*28で)公開、展示する。
 戦争で心を病む兵士がいることは、第一次世界大戦(1914~1918年)の頃から指摘され、日本では戦争神経症と呼ばれた。現在、戦争トラウマと呼ばれる症状に近いと考えられる。だが精神の強さを強調する軍は患者の存在を否定した。戦後も長らく、当事者や家族は「恥」と考える意識が強く多くを語らなかった。
(この記事は有料記事です)

特集「『ないもの』とされてきた、兵士の心の傷。戦争とトラウマ」 | TBSラジオ2024.9.2
 79年前のきょう、9月2日は、日本が戦艦ミズーリ号の上でポツダム宣言に署名し、国際法上で正式に戦争が終わった日です。
 そこで、きょう取り上げるテーマは「戦争とトラウマ」です。
 戦場や軍隊での体験が原因で心に傷を負い、精神疾患を発症する兵士は少なくありません。
 これらは「戦争神経症」と呼ばれ、第一次世界大戦で、欧米の兵士に、原因不明の手足のけいれんや麻痺などが多発し、この症状が知られるようになりました。かつて日本が突き進んだ第二次世界大戦でも、精神疾患となった旧・日本軍兵士たちが多くいましたが、彼らの存在は、戦時中は隠され、戦後は忘れ去られてしまいます。1980年代には「PTSD」という診断名が生まれ、アメリカでは、ベトナム戦争イラク戦争の帰還兵の、アルコール依存や自死などが社会問題となりました。そして、今もウクライナ戦争、ガザ戦争で、同じようなメンタルの問題が起きています。
 今夜は、なぜ、戦中・戦後の歴史で、旧日本軍兵士の精神疾患は「ないもの」とされ、これまで検証されてこなかったのか。長年、追跡調査をしてきた研究者、『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』著者で、上智大学文学部准教授の中村江里さんとともに考えます。


◆金庾毘*29

*1:戦地から帰還した兵士のこと

*2:千葉大学講師

*3:岐阜聖徳学園大学教授

*4:上智大学教授。著書『中華民国期農村土地行政史の研究』(2002年、汲古書院)、『銃後の中国社会:日中戦争下の総動員と農村』(共著、2007年、岩波書店)、『中華人民共和国誕生の社会史』(2011年、講談社選書メチエ)、『戦時秩序に巣喰う「声」:日中戦争国共内戦朝鮮戦争と中国社会』(編著、2017年、創土社)、『中国戦時秩序の生成:戦争と社会変容・一九三〇~五〇年代』(2023年、汲古書院

*5:大妻女子大学専任講師。著書『ブラセロ・プログラムをめぐる米墨関係:北アメリカのゲストワーカー政策史』(2018年、彩流社

*6:上智大学准教授。著書『戦争とトラウマ:不可視化された日本兵の戦争神経症』(2018年、吉川弘文館

*7:現在は国立国際医療研究センター国府台病院

*8:著書『精神障害者の地域移行支援』(2015年、中央法規出版)、『精神科病院脱施設化論』(2015年、批評社

*9:役職は当時。現在は議長

*10:1957年生まれ。防衛庁防衛局調査課長、防衛局防衛政策課長、防衛省沖縄防衛局長、地方協力局次長、防衛政策局次長、人事教育局長、整備計画局長、防衛審議官等を歴任(真部朗 - Wikipedia参照)

*11:役職は当時。現在は退官

*12:役職は当時。現在は上智大学准教授

*13:役職は当時。現在は上智大学准教授

*14:役職は当時。現在は上智大学准教授

*15:役職は当時。現在は上智大学准教授

*16:ゴッドファーザー PART2』(1974年公開)でアカデミー助演男優賞を、『レイジング・ブル』(1980年公開)でアカデミー主演男優賞を受賞(ロバート・デ・ニーロ - Wikipedia参照)

*17:1976年に、マーティン・スコセッシ監督がカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞(タクシードライバー (1976年の映画) - Wikipedia参照)

*18:1962年生まれ。1988年公開の『告発の行方』と1991年公開の『羊たちの沈黙』でアカデミー主演女優賞を受賞(ジョディ・フォスター - Wikipedia参照)

*19:1939年生まれ。1979年公開の映画『地獄の黙示録』の主役ウィラード大尉役に抜擢されるが、監督のフランシス・フォード・コッポラとの意見の相違で撮影開始わずか2週間後に降板(代役はマーティン・シーン)し、これが映画会社との間で「契約違反」とされたためにハリウッドにおいて敬遠されるようになり、以後、ハリウッドでは端役しか与えられなくなった。そのため、活動の拠点をヨーロッパの映画に移し、リドリー・スコット監督の作品等に出演を重ねて復活のチャンスを地道に待った。1991年公開の映画『バグジー』ではアカデミー助演男優賞にノミネート(但し受賞は『シティ・スリッカーズ』のジャック・パランス(1919~2006年))され映画俳優としての地位を取り戻した(ハーヴェイ・カイテル - Wikipedia参照)

*20:1976年にアカデミー賞主演男優賞(ピーター・フィンチ)、主演女優賞(フェイ・ダナウェイ)、助演女優賞(ベアトリス・ストレイト)、脚本賞(パディ・チャイエフスキー)を受賞(ネットワーク (映画) - Wikipedia参照)

*21:ベトナム戦争を描いた『プラトーン』(1986年公開)、『7月4日に生まれて』(1989年公開)でアカデミー賞監督賞を受賞(オリバー・ストーン - Wikipedia参照)

*22:1939~2016年。1978年、『ディア・ハンター』で、アカデミー賞監督賞を受賞(マイケル・チミノ - Wikipedia参照)

*23:1978年、『ディア・ハンター』でアカデミー賞助演男優賞を、2002年、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』で英国アカデミー賞助演男優賞を受賞(クリストファー・ウォーケン - Wikipedia参照)

*24:「そんなことは私の知る限りベトナム軍はしてない」と本多勝一氏がコラムで批判していたのがこの話です。そういえば「ディアハンター」という邦題についても「英語そのままでは日本人の大半には意味不明だから『鹿狩り』と直訳した方がまだまし」とも本多氏は批判していました。

*25:監督、主演した映画『野火』(大岡昇平原作)で、2015年に毎日映画コンクール監督賞、主演男優賞を受賞(塚本晋也 - Wikipedia参照)

*26:役職は当時。現在は上智大学准教授

*27:現在は国立精神・神経医療研究センター病院

*28:戦時中及び戦後の戦傷病に関する体験等を伝える施設で、厚生労働省が設置した国立施設。2013年11月までは厚生労働省所管の財団法人日本傷痍軍人会が運営していたが会員の高齢化と減少により解散し、それに伴い運営主体は変更された。公式サイトしょうけい館 戦傷病者史料館 -

*29:一橋大学特任講師