高世仁に突っ込む(2025年5/4日分)

凛として生きたベトナム人~グエン・スアン・オアインさん - 高世仁のジャーナルな日々

 伊藤千尋さん*1が、ベトナムドイモイを提唱した人物について紹介している。

 取材した多くのベトナム人を思い出しますが、中でもグエン・スアン・オアインさん*2は異色です。終戦当時は南ベトナム政府の副首相でした。戦争で敗れた政権の要人です。
 彼に興味を持ったのは戦後、統一ベトナム社会主義経済が危うくなり、ドイモイ政策で救われた1989年です。この政策を立案したのがオアインさんでした。なぜ南ベトナム政府の中枢にいた人が戦後も社会主義の政治に関わっているのか。それ以前に終戦当時、南ベトナムの政治家たちは争って米国に逃亡したはずです。彼はなぜ逃げなかったのか?
「あのとき米国政府は私にハーバード大学教授の地位と日本円で100万円以上の月給を保証すると言って米国行きを誘いました。しかし、私がなぜ日本や米国に留学してまで経済を勉強したか。それは貧しいベトナムを豊かにしたいと思ったからです。その私が国を離れて、どうします?。何があってもとどまらなければならない。革命政府から見れば私は敵です。銃殺されるなら、あきらめるしかない。でも生きてさえいれば、私が学んだ専門知識は社会主義であろうと資本主義であろうと、必ず祖国の役に立つと信じていました」

 オアイン氏だけでドイモイが推進されたわけでもないでしょうが、

【名前順】
榎本武揚(1836~1908年)
 江戸幕府で海軍副総裁。蝦夷共和国総裁に就任し、明治新政府と戦うが敗北。約2年半の投獄の後、ロシア公使、清国公使、海軍卿、第1次伊藤、黒田内閣逓信相、黒田、第1次山県内閣文相、第1次松方内閣外相、第2次伊藤、第2次松方内閣農商務相等を歴任
大久保一翁(1818~1888年
 江戸幕府駿府町奉行、京都東町奉行外国奉行若年寄等を、明治新政府静岡県知事、東京府知事元老院議官を歴任
大鳥圭介(1833~1911年)
 江戸幕府で歩兵奉行。蝦夷共和国陸軍奉行に就任し、明治新政府と戦うが敗北。約2年半の投獄の後、工部大学校(東京大学工学部の前身)校長、学習院長(華族女学校校長兼務)、清国公使、枢密顧問官等を歴任。
勝海舟(1823~1889年)
 江戸幕府軍艦奉行、陸軍総裁を、明治新政府海軍卿、枢密顧問官を歴任

など、「明治新政府に仕えた旧幕臣*3」を連想させる話ではあります。
 なお、未読ですが「ドイモイ」については、古田元夫*4ドイモイの誕生:ベトナムにおける改革路線の形成過程』(2009年、青木書店)と言う著書があります。

参考

伊藤『観光コースでないベトナム』(1995年(初版)→2011年(新版)、高文研)の『五章 ベトナムのこれから』
 ベトナム経済を転換させたドイモイ政策の生みの親は、政府経済顧問の経済学者グェン・スアン・オアイン氏だ。
 彼は、ベトナム戦争のさいにアメリカの傀儡といわれた南ベトナム政府の副首相を務めた人である。
 ハーバード大学で博士号を得て四十二歳で(ボーガス注:南ベトナム政府の)中央銀行総裁になった。
 解放軍のサイゴン(現・ホーチミン市)進攻で他の政治家の多くが処刑を恐れてアメリカに脱出したとき、彼はベトナムに残った。
 そのオアイン氏にホーチミン市で最初に会ったのは、ドイモイ政策が軌道に乗りかけた一九八九年だった。
 彼はベトナムが行っている努力について流れるような日本語、それも京都弁で話した。
 それもそのはず、戦前に京都の旧制第三高等学校から京大に進み経済学博士号をとって日本で九年も暮らした日本通なのだ。
 なぜアメリカに逃げなかったのか、と問う私に、彼はこう語った。
 「私が若いころ日本さらにアメリカにわたって経済を学んだのは、自分が金持ちになりたかったからではありません。貧しいベトナムの社会を豊かにしたかったからです。その私がベトナムを離れてどうしますか。南ベトナム政府の要職にあった以上、革命政府に捕まって処刑されても仕方ないと思いました。でも、万一にでも生かされたら、私が蓄えた経済の知識が祖国に役立つ時が必ず来ると信じていました」

京大に経済学を学び、ベトナム市場経済化に貢献〜仏印留学生、グエン・スアン・オアイン|新妻東一
 北緯17度線を境にベトナムが南北に別れていた1960年代、南ベトナム政権の国立銀行総裁、副首相をつとめ、ベトナム統一後はベトナム共産党の経済顧問、国会議員として市場経済化に寄与したグエン・スアン・オアイン。アジア太平洋戦争時に仏領インドシナベトナム)から日本へ留学した彼の人生は波乱万丈に満ちたものだった。
 オアインは1921年、裕福な医者の子として北ベトナムのハーバック省フーラントゥオン(現バクザン省バクザン市*5)に生まれた。
 1940年、彼は貨物船に乗りこみ、日本へと渡る。彼は日本が母国ベトナムの独立を援助してくれるものと期待し、日本で学び革命家となるとの決意を込めて日本にやってきた。ベトナム人の子弟を日本へ留学させベトナム独立の担い手を育てようとして、ファン・ボイ・チャウが主導した東遊(ドンズー)運動から日本への渡航を思いついたのかもしれない。
 日本に到着したオアインは二年間、日本外務省の外郭団体であった国際学友会の日本語学校(東京)で日本語を勉強した。そして1942年には京都にある第三高等学校入学、都ホテルを定宿として高校に通ったという。その資金はすべて親からの仕送りであったというから、その資金の潤沢さには恐れ入るばかりだ。
 1945年、戦争が終了すると、オアインは京都大学経済学部に進学する。1949年、京大経済学部の学士号を取得する。大学在学中に米国進駐軍の経済学スタッフとして二年間働いた。
 彼は敗戦で傷ついた日本を後にして、1950年、アメリカ・ハーバード大学の大学院へと進む。1952年には修士号を、1954年には博士号を取得するという優秀さであった。そしてそのまま一年間、ハーバード大学で教鞭をとる。
 1955年にはハートフォード大学トリニティカレッジに経済学助教授として招かれ、1959年にIMF上級エコノミストとなるまで教師・研究者を務めた。
 順風満帆なアメリカ生活を送っていたオアインに転機が訪れた。1963年、ゴー・ディン・ジエム大統領がクーデターにより暗殺される。その後、樹立された南ベトナム軍事政権から帰国の要請を受けたのだ。
 帰国後、彼はただちに南ベトナム政権の中央銀行総裁兼経済担当副首相となり、通貨・財政改革に取り組んだ。オアインは当時弱冠42歳。若き知性に南ベトナム政権がかけた期待の大きさが伺える。1965、1966年には首相代行をも務めた。
 1975年4月30日、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線*6によりサイゴンが陥落、多くの旧体制の政治家や軍人、芸能人は共産党政権の迫害を恐れて陥落前に脱出を果たしていた。オアインは「アメリカ人から飛行機を用意すると約束があった。しかしそこに飛行機はなかった。」とアメリカ人記者に語っている。オアインは「自分は何も間違ったことはしていない」と思い直し、父の「祖国に尽くせ」との教えを胸に、ベトナム人同胞の貧しさ、悲惨さを前に経済学者として民衆の生活向上に役立ちたいとの思いからベトナムに残ることを決断する。
 陥落後、一時再教育キャンプに送られた時期もあったが、しかし、それは長くは続かなかった。彼は新しい政権の経済政策を歯に衣着せずに批判し、そしてそれが正しいとわかったからだ。その後、彼はホーチミン市人民委員会の委員長だったグエン・バン・リン*7やボー・ヴァン・キェット*8首相の経済顧問となった。オアインはその後ベトナム社会主義共和国の国会議員となってベトナム市場経済化や対米外交関係の改善を背後から支えた。
 2003年、彼はその経済学の知識でベトナムの経済発展に寄与し、その生涯を終えた。82歳であった。
【参考】
◆坪井善明*9『ヴェトナム:「豊かさ」への夜明け』(1994年、岩波新書

*1:朝日新聞サンパウロ支局長、バルセロナ支局長、川崎支局長、ロサンゼルス支局長等を歴任。著書『狙われる日本:ペルー人質事件の深層』(1997年、朝日文庫)、『燃える中南米』(1998年、岩波新書)、『たたかう新聞「ハンギョレ」の12年』(2001年、岩波ブックレット)、『反米大陸:中南米アメリカにつきつけるNO!』(2007年、集英社新書)、『一人の声が世界を変えた!』(2010年、新日本出版社)、『辺境を旅ゆけば日本が見えた』(2012年、新日本出版社)、『キューバ』(2016年、高文研)、『凜とした小国』(2017年、新日本出版社)、『9条を活かす日本』(2018年、新日本出版社)、『世界を変えた勇気』(2019年、あおぞら書房)、『凜としたアジア』(2019年、新日本出版社)、『連帯の時代:コロナ禍と格差社会からの再生』(2020年、新日本出版社)、『非戦の誓い:「九条の碑」を歩く』(2022年、あけび書房)、『コスタリカ』(2023年、高文研)、『非戦の誓いII』(2025年、あけび書房)、『杉原千畝』(2025年、ミネルヴァ書房ジュニア評伝選) 等

*2:著書『概説ベトナム経済』(1995年、有斐閣選書)、『ベトナム経済』(2003年、明石書店

*3:勿論、一方では【1】明治新政府に処刑された幕臣外国奉行勘定奉行等を務めた小栗忠順など)、【2】自由民権運動に参加するなど明治新政府を批判する立場の幕臣もいました。

*4:東大名誉教授。著書『ベトナム人共産主義者の民族政策史』、『歴史としてのベトナム戦争』(以上、1991年、大月書店)、『ベトナムの世界史』(1995年、東京大学出版会)、『ベトナムの現在』(1996年、講談社現代新書)、『ホー・チ・ミン』(1996年、岩波書店)等

*5:バクザン省省都

*6:ベトナム統一後の1977年1月23日、グエン・フー・ト議長(1910~1996年:ベトナム統一後、国家副主席、国会議長等を歴任)が機関紙を通じて「南ベトナム解放民族戦線は歴史的役割を完遂した」と宣言。名実ともに組織が解消された(南ベトナム解放民族戦線 - Wikipedia参照)

*7:1915~1998年。1975年のベトナム戦争終結後、ホーチミン市党委員会書記に就任。1986年12月に党書記長に就任し、経済改革「ドイモイ」を推進した(グエン・ヴァン・リン - Wikipedia参照)

*8:1922~2008年。ホーチミン市党委員会書記、第一副首相、首相等を歴任(ヴォー・ヴァン・キエット - Wikipedia参照)

*9:早稲田大学名誉教授。著書『近代ヴェトナム政治社会史:阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム1847-1883』(1991年、東京大学出版会)、『ヴェトナム現代政治』(2002年、東京大学出版会)、『ヴェトナム新時代:「豊かさ」への模索』(2008年、岩波新書