新刊紹介:「歴史評論」10月号

特集『光州事件30年』
歴史評論」10月号の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■「光州事件 ―孤絶の十日間―」(真鍋祐子*1
(内容要約)
光州事件において、大きく変わったこととして韓国人の対米感情が上げられる。当時は人権派のカーター大統領だったこともあり、民主化運動に参加した光州市民は全斗煥グループのクーデターを米国が容認するとは考えていなかった。しかし、米国が光州での軍事弾圧を容認したことにより、米国への批判が強まっていく。
 現在も在韓米軍が存在する韓国において、光州事件は決して過去ではないのである(あの種の軍事弾圧がなされることはもはやないであろうが)。


■「韓国の民主主義、光州抗争、移行期正義」(鄭根埴*2
(内容要約)
軍事独裁側は光州事件を暴動扱いするため「光州事態」と命名した。これに対し、民主運動側は「光州民主抗争」「5.18」等と呼んだ。
・1988年、盧泰愚が大統領に当選した後に「光州事態」を「5.18光州民主化運動」と呼び改めることを提案した。その後1995年、金泳三政権で「5.18民主化運動に関する特別法」(光州事件の責任者を処罰するための法) が成立するなど、様々な問題点はあるにせよ、光州事件は公的にも「暴動」ではなく、「民主化運動」と規定されるようになった。
・韓国の民主主義の歴史上、重要な事件としては、「李承晩を失脚させた1960年の四月革命」「1980年の光州事件」「全斗煥を退任に追い込んだ1987年の6月市民抗争」があげられる。
光州事件の真相追及要求はその後の、老斤里事件追及や親日派日帝残滓)追及、従軍慰安婦問題追及など様々な韓国の負の歴史追及のさきがけとなった。

(参考)
【韓国の負の歴史】

済州島四・三事件(ウィキペ参照)
 1948年4月3日に在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁支配下にある南朝鮮(現在の韓国)の済州島で起こった島民の蜂起にともない、南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島本土の右翼青年団などが1954年9月21日までの期間に引き起こした一連の島民虐殺事件を指す。韓国政府側は事件に南朝鮮労働党が関与しているとして、政府軍・警察による粛清をおこない、島民の5人に1人にあたる6万人が虐殺された。また、済州島の村々の70%が焼き尽くされた。

聞慶虐殺事件(ウィキペ参照)
 1949年12月24日に韓国慶尚北道聞慶郡(現:聞慶市)で韓国軍が共産匪賊に協力したなどとして非武装の住民88人を虐殺し、共産匪賊の犯行としていた事件。

保導連盟事件(ウィキペ参照)
 1950年6月25日の朝鮮戦争勃発を受けて、李承晩大統領の命令によって韓国軍や韓国警察が共産主義からの転向者やその家族を再教育するための組織「国民保導連盟」の加盟者や収監中の政治犯や民間人など、少なくとも20万人あまりを大量虐殺した事件。
 「朝鮮戦争前後民間人虐殺真相糾明と名誉回復のための汎国民委員会」の研究では60万人から120万人が虐殺されたとしている。李承晩大統領が失脚した1960年の四月革命直後に、全国血虐殺者遺族会が、遺族たちの申告をもとに報告書を作成したが、その報告書は虐殺された人数を114万人としている。韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」は朝鮮戦争の初期に韓国政府によって子供を含む少なくとも10万人以上の人々を殺害し、排水溝や炭鉱や海に遺棄したことを確認している。公開されたアメリカ軍の機密書類にはアメリカ軍将校の立会いと虐殺の承認などの詳細が記録されている。韓国では近年まで事件に触れることもタブー視されており、「虐殺は共産主義者によっておこなわれた」としていた。
 2008年9月6日、TBSテレビ『報道特集NEXT』にて日本のテレビでは初めて大々的に保導連盟事件がとりあげられた。虐殺に加担した者や生還者が、共産主義者狩りの名の下で、2歳児までもが虐殺の対象となったことを証言した。また虐殺の場となったコバルト鉱山での遺骨の発掘調査の様子が放送され、犠牲者数20万人とも言われる虐殺の一端が明らかとなった。さらに韓国での街頭インタビューで、一般的に韓国人が本事件のことを知らない事なども放送された。 このなかで真相究明を求める運動家が「保守派である李明博政権は真相究明を望んでいない」と発言をしているとおり、李明博政権のもとで真相究明がどこまで進むのかが懸念となっている。

http://www.tbs.co.jp/houtoku/onair/20080906_1_1.html#
TBSテレビ『報道特集NEXT
暴かれる韓国最大のタブー「保導連盟事件」 (2008/9/6 放送)
 約60年前、韓国で政府が国民を大虐殺した事件をご存知だろうか。「犠牲者は20万人以上だった」とも言われている。それほど大規模な虐殺だったにもかかわらず、韓国内では長い間、タブーとされてきたため、詳しく知っている人はほとんどいない。この「韓国最大のタブー」が今、ようやく暴かれようとしている。
■なぜ?山中に謎の遺骨
 韓国南部、サンチョン郡。車道から山道を10分ほど登ったところにその現場はあった。土の中から姿を見せたのは、おびただしい数の人骨だ。これまでに発掘されたのは約240体。ほとんどが大人の男性の骨だ。
(中略)
 遺体が埋められたのは今から57年前の1951年2月頃と見られる。彼らの身に何が起きたのか。
■暴かれる大量虐殺
 韓国政府は2005年、朝鮮戦争の前後に国内で起きた虐殺事件の調査を始めた。
 政府の「真実和解委員会」は、そうした歴史的な事件の真相究明などを行うための機関だ。2007年からは各地の虐殺現場で遺骨の発掘作業を始めた。
 1950年6月に始まった朝鮮戦争で、北朝鮮の侵攻に韓国の首都ソウルはわずか3日で陥落、韓国軍は一時、南へと追い詰められた。
 韓国政府が恐れたのは北朝鮮軍の攻撃だけではなかった。韓国内にも北朝鮮を支持し、共産主義活動を行う人たちが存在していた。
 国内からの反乱を恐れた韓国政府は、共産主義に関わった疑いのある人たちを処刑することにした。「アカ狩り」である。
(中略)
 このサンチョン郡の遺骨も、いわゆる「アカ狩り」の犠牲者のものである可能性が高い。
 真実和解委員会の調査によって約60年の間、闇に閉ざされていた数々の虐殺事件に、ようやく光が当てられようとしている。
(中略)
 「アカ」のレッテルを貼られ全国各地で虐殺された人たちの中には、ある団体に加入していた人が多かった。
 それは「国民保導連盟」という団体だった。朝鮮戦争が始まる前、1949年に韓国政府が作った組織だ。
 韓国内にいる共産主義者たちの思想を転向させ、大韓民国への絶対的な支持を誓わせようというのが設立の趣旨だった。
(中略)
 当時の新聞記事には、共産主義活動に関わった人が自首して保導連盟に加入すれば過去は一切問われない、と書かれている。また、加入者には就職の斡旋や食料の配給といった見返りがあった。農地をタダでもらった人もいた。
 しかし、北朝鮮軍が38度線を超え朝鮮戦争が始まると、韓国政府は突然態度を変える。
 「過去の罪は問わない」と言っていたはずが、保導連盟員を「反乱分子」「スパイ」とみなし、軍や警察を使って各地で一斉に処刑し始めたのだ。
(中略)
■虐殺は韓国全土で起きた
 保導連盟員の虐殺は韓国全土で起きた。これは民間団体の調査による犠牲者の数だ。調べによると、殺された人たちの中にはスパイ活動はおろか政治運動と全く関係のない人たちが多かった。
 保導連盟事件による犠牲者は、合わせて20万人以上とも言われている。
■何も言えなかった時代
 しかし、これほどの虐殺だったにもかかわらず、事件について知る人は少ない。
(中略)
 保導連盟事件は、1980年代まで続いた軍事政権下でタブーとされた。遺族や生存者たちも、この事件について話すことは許されなかったという。
(中略)
■大虐殺調査に暗雲?
 長く封印されてきた虐殺事件の調査を始めたのは、軍事政権と対立してきた民主化勢力の流れをくむノ・ムヒョン前大統領だった。
(中略)
 しかし2008年2月、大統領は保守系のイ・ミョンバク氏に代わった。
 真実和解委員会のキム・ドンチュン常任委員は、今後、調査体制が縮小されるのではないかと危惧している。
(中略)
 法律で決められた真実和解委員会の活動期限は2010年4月までだ。
 あと1年半ほどの間に「韓国最大のタブー」と言われた大量虐殺の真相はどこまで明らかにされるのか。
 真実和解委員会による遺骨の発掘が始まった現場は、まだ11か所に過ぎない。

老斤里事件(ウィキペ参照)
 朝鮮戦争中の1950年7月に起きたアメリカ軍による韓国民間人の虐殺事件。第25師団長ウィリアム・B・キーン少将による7月26日の「戦闘地域を移動するすべての民間人を敵とみなし発砲せよ」という命令に基づき行われた。 
 長く伏せられていたが、1994年に韓国人生存者が著書を出版、1999年9月9日AP通信が大々的に報道した。同年10月29日在韓米軍が現地調査を実施し、2004年には事件の犠牲者の名誉を回復する法案が韓国国会を通過した。この事件は韓国における反米軍感情が高まる原因のひとつとなった。

居昌事件(ウィキペ参照)
 朝鮮戦争中の1951年2月9日から2月11日にかけて韓国慶尚南道居昌郡にある智異山で韓国軍が共産匪賊のパルチザンを殲滅するためとして、大人(15歳以上)334人と子供(15歳未満)385人からなる無実の市民を虐殺した事件。居昌良民虐殺事件とも呼ばれる。また、慶尚南道山清郡、咸陽郡で2月8日に引き起こされた山清・咸陽良民虐殺事件とひと括りにして、居昌・山清・咸陽良民虐殺事件としても知られている。


■「光州事件と日本の報道」(岡本厚)
(内容要約)
・現「世界」編集長の岡本氏による光州事件報道の回想。岡本氏が光州事件を暴動扱いした許し難い論者の一人として、三浦小太郎大先生が評価する故・田中明拓殖大教授を上げているのが興味深い。やはりねえ、予想通りそう言う男でしたか、田中先生は。何せ河野談話はデマって言っちゃう男だからね、田中先生は。こういうゲスな人たちが上層部の「守る会」にいて恥ずかしくないですか。id:noharra先生(毒)。
・岡本氏は産経など一部ウヨメディアを除いて、日本のメディアは軍政に荷担などしなかったものの、軍政への批判意識も弱かったのではないか。現在、光州事件が日本メディアによって扱われないこともその現れではないかと見ているようだ。


■「光州事件を知るために」(林雄介)
(内容要約)
光州事件についての基礎用語の説明。林氏個人の意見表明は特にない(と思う)。


参考

光州事件(ウィキペ参照)
 1980年5月18日から27日にかけて韓国の全羅南道の道庁所在地・光州市で発生した、民主化を求める活動家とそれを支持する学生や市民が韓国軍と衝突し、多数の死傷者を出した事件。
■概要
 韓国では、朴正煕大統領の暗殺後、「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが続いていた。しかし、軍部では維新体制の転換を目指す上層部と、朴に引き立てられた中堅幹部勢力「ハナ会」との対立が表面化した。
 1979年12月12日、保安司令官全斗煥陸軍少将(後に大統領)が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。全国各地で反軍部民主化要求のデモが続いていたが、全斗煥の新軍部は1980年5月17日、全国に戒厳令を布告し、野党指導者の金泳三・金大中(いずれも後に大統領)や、旧軍部を代弁する金鍾泌(朴政権、金大中*3政権で首相)を逮捕・軟禁した(5・17非常戒厳令拡大措置)。金大中全羅南道出身で、光州では人気があり、彼の逮捕が事件発生の大きな原因となっている。5月18日、光州市で大学を封鎖した陸軍空挺部隊と学生が自然発生的に衝突した。この時期の光州市は無政府状態であったが、市民の自治が機能して治安と秩序を維持した。地元の有力者などで構成された市民収拾対策委員会は戒厳軍側と交渉するも妥結に至らず、指導部は闘争派と協商派に分かれて分裂した。結局、一部闘争派を残して自主武装解除を行い、この情報から市民に占拠された全羅南道庁に対する鎮圧命令が下った。27日抗争指導部を率いていたユン・サンウォンを含む市民軍の多くが射殺され、鎮圧作戦は終了した。人口75万の光州市に投入された総兵力数は2万に至った。
■影響
 当時の韓国国内では、全斗煥による保安司令部が、マスコミなどの情報も全て統制していたため、光州事件の実態について国民に説明される事はなかった。しかし光州市民らによって徐々にその悲惨な実態が明るみに出るにつれ、反独裁民主化運動の理念的基礎となっていった。この時期の民主化運動世代は光州世代とも呼ばれ、彼らの活動にも大きな影響を及ぼしている。この流れは、大統領直接選挙制を求める六月抗争(1987年)に繋がっている。
 事件中、韓国軍の作戦統制権を持っていた在韓米軍のジョン・ウィッカム司令官が韓国軍部隊の光州投入を承認し、アメリカ政府も秩序維持を理由にこれを黙認したため、アメリカへの批判が起こり、韓国人の対米観が大きく見直されることとなった。
 盧泰愚大統領の時代には、事件当時の鎮圧軍司令官たちを追及する聴聞会が開かれた。また「光州民主化運動関連者補償等に関する法律」が制定され、犠牲者・負傷者に対する補償金が支給された。
 金泳三大統領は就任後に、光州事件を「五・一八民主化運動」と規定する談話を発表し、各種記念事業の実施を宣言した。1995年には韓国国会で「五・一八民主化運動等に関する特別法」(五・一八特別法)及び「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、光州事件及び軍事反乱などに対する公訴時効を停止した。1997年4月、大法院はこの特別法を根拠として、全斗煥元大統領と盧泰愚前大統領に実刑判決及び追徴金を宣告した(ただし同年12月に金大中大統領の特別赦免により釈放)。
 金泳三、金大中盧武鉉とつづく文民政権で、光州は民主化運動の国家的聖地となった。現在、光州市内には5・18記念墓地、5・18記念公園など民主化運動を記念する施設や記念碑等が、市内のあちこちに点在している。しかし李明博は大統領就任直後に行なわれた2008年度の記念式典こそ出席したものの、2009年以降の慰霊祭には出席していない。
■名称の変遷
 事件当時の韓国では光州事態と呼ばれた。これは戒厳下において不純分子による騒擾事態(暴動)とみなされたためで、マスコミの報道がそれに倣ったことによって定着してしまった。これに対して金大中は「光州義挙」と名付けた。
 1988年、盧泰愚が大統領に当選した後に設置した民主和合推進委員会は「光州事態」を民主化運動として再定義し、5.18光州民主化運動と呼び改めることを提案した。そして1995年、金泳三政権で「5.18民主化運動に関する特別法」 が成立して公文書でも広く使われるようになり、現在に至っている。
 口語では単に「5.18」と呼ばれることも多い。民主化運動団体では、軍部独裁に対する抵抗運動として光州民衆抗争、光州民主化抗争、光州抗争という言い方もされる。


■「検証・育鵬社版と自由社版の歴史教科書」(勅使河原彰)
(内容要約)
ただし勅使河原氏は古代史がご専門なので批判はその分野に限られる。なお勅使河原氏は既に、「歴史教科書は古代をどう描いてきたか」(2005年、新日本出版社)でもこの問題(歴史修正主義一派による古代史の取り扱い)を扱っている。
【勅使河原氏の育鵬社版への突っ込み】
1) この教科書には「猿人は二足歩行で歩くことを覚えた」と言う記述があるが、「二足歩行で歩くことが類人猿と人類の違い」なのでこれは間違いである。
2)「3万年前に大陸からナウマン象やマンモスが日本大陸に渡り、それを追って人類も日本列島にやってきた」という記述があるが、ナウマン象のいたのは中国大陸、マンモスのいたのはシベリア大陸と考えられるので、「大陸」という言葉でごっちゃにするのは適切ではない。また,ナウマン象、マンモス、人類ともに、3万年以上前から日本列島にいたと考えられるので「3万年前に来た」と言う記述は適切でない。
 しかも教科書にナウマン象として描かれている絵は勅使河原氏によるとどう見てもマンモスだという。
3)「人類の広がりの図」では「アフリカから発生した人類がアジアに広がっていくルート」が何故か「ヒマラヤ山脈」の真上を通っている。これでは子どもに「当時の人類はヒマラヤ山脈を命がけで越えていったのか?」と誤解させかねない。 
4)「日本列島は温帯に属し」と書いてるが、北海道は亜寒帯、沖縄は亜熱帯なので不適切。「日本列島の大部分が温帯に属し」など誤解を避ける記述をすべき。
5)青森の三内丸山遺跡から神殿が発掘されたとの記述があるがそのような事実はない。
6)弥生土器縄文土器の違いを「焼く技術の違い」と記述しているがそうした事実はない(ただ、ウィキペだと「焼く技術が違う」って書いてあるんだよなあ、根拠となる出典がないけど(笑い))
7)「古墳は全国各地で創られ、後に朝鮮でも創られました」と、日本型古墳築造技術が朝鮮に輸出されたかのような記述があるが、そのような事実は未だ認められておらず不適切である。


【勅使河原氏の自由社版への突っ込み】
1)「約50万年前に原人が登場し」と書いてあるがこれはデータが古い。現在では少なくとも約160万年前には原人が登場したと考えられている。
2)「打製石器=旧石器」扱いしているがそうではない。打製石器の使用が始まった時代が「旧石器時代」で「旧石器時代に使われた石器=旧石器」である(旧石器時代以外にも打製石器は存在する)。
3)自由社版教科書は「残存脂肪酸分析法」という分析法を好意的に紹介しているがこの分析法には批判も多く、少なくとも争いのない確立した分析法とは言い難い。一般書籍ならともかく教科書に、そうした争いのある分析法を、確立した分析法であるかのように紹介することは適切とは言えない。
4)岩宿遺跡を発見した相沢忠洋を取り上げた記述で、この発見について、新聞報道にも発掘を行った明治大学の報告書にも相沢の名はなぜかなかったかのように記述しているが事実ではない。伝聞を鵜呑みにし、原典(当時の新聞報道や明治大学の報告書など)を確かめなかったのではないかと思われる。
(ちなみに、ウィキペ「相沢忠洋」は相沢の功績が当初正当に評価されなかったとしているものの、名前が新聞報道されなかっただの大学の報告書に名前が出てこないだのとはさすがに書いてない。なおウィキペはガセが多いのでウィキペの相沢評価が正しいかは保留)
 まあ、勅使河原氏は事実しか指摘していないが、俺が思うにこういう事を書いたのは「明治大学やマスコミに酷い目に遭わされた相沢」=「歴史学者やマスコミに酷い目に遭わされる自由社」と自己陶酔してるのだろう。
 もちろん、連中の指摘は勅使河原氏によれば間違いだそうだが、たとえ事実だとしてもトンでもない自己陶酔だ。
 「指摘した事実(日本における旧石器時代の存在)は認められたが、その発見への貢献が無視・軽視された(相沢)」のと「そもそもまともな学者は誰も相手しない(自由社)」のは全然違う。
5)青森の三内丸山遺跡について「最盛期には500人の人がいた」との記述をしているがそうした事実は認められていない。
6)弥生時代から国内で鉄器生産が行われたかのような記述があるが現時点でそうした遺跡は見つかっていない。
7)古墳時代を「大和朝廷」と表現しているが、この時期は豪族の力が強かったため、一般には「大和政権」「大和王権」と呼ばれており、その方が適切である。
8)大仙古墳(大山古墳)を注記もつけずに「仁徳天皇陵」と書くのは問題がありすぎる。なぜなら大仙古墳は仁徳天皇の墓どころか、天皇の墓であるかどうかさえ怪しいし、仁徳天皇には非実在説も有力だからである。


 またどちらの教科書も記紀神話を記述しているが、神話は天皇政治を正当化するための後世の創作と言う要素があり、歴史事実そのものではないのでうかつな取り扱いをして生徒を混乱させる危険を冒すくらいなら取り上げない方がいい。


■書評・町田祐一「近代日本と「高等遊民」―社会問題化する知識青年層」(広田照幸*4
(内容要約)
高等遊民とは今風に言うと「高学歴ニート」だろう。高学歴*5でありながら、就職しない、あるいは就職できない人間のことと理解すれば大筋では正しいだろう。戦前において高等遊民が社会問題化したのが、日露戦争直後と昭和不況時だという。
・評者はこうした日本型エリートについての研究は竹内洋(『立志・苦学・出世―受験生の社会史』(講談社現代新書、1991年))や伊藤彰浩(『戦間期日本の高等教育』(玉川大学出版部、1999年))などが過去にあるが高等遊民に着目した本格的な研究はこれが初めてではないかとしている。
・ただし本書には次のような問題点があるとしている。
(問題点1)戦前当時の言説分析に力を入れた結果として、当時の言説(高等遊民を否定的に評価する)を容認しているかのように受け取られる危険性がある。
(問題点2)高等遊民と言っても「働かなくて良い金持ちのぼんぼん」と「就職浪人の貧乏人」、「安定した職に就きたいのにつけない人」と「社会活動家など、あえて安定した職に就かない人」とでは高等遊民と言っても性格は違う。その辺りの細かい分析が不十分である。

*1:著書『烈士の誕生―韓国の民衆運動における「恨」の力学』(1997年、平河出版社)、『増補・光州事件で読む現代韓国』(2010年、平凡社

*2:編著『韓国原爆被害者・苦痛の歴史』(2008年、明石書店

*3:是非はともかく朴政権幹部という昔の敵・金鍾泌と手を結べるところに金氏の「現実主義」があると言えるだろう。太陽政策もそうした金氏の「現実主義」の一つと理解すべきだろう。

*4:教育社会学者、著書に『陸軍将校の教育社会史:立身出世と天皇制』(世織書房、1997)、『日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ』(講談社現代新書、1999)

*5:ただし戦前において何を持って高学歴というのかという難しい問題はある。高校進学がほぼ100%となった今の日本では「高学歴=大卒以上」だろうが、戦前は小学校卒が非常に多かったので中学校卒も高等遊民と言えば言えなくもない