新刊紹介:「歴史評論」9月号

★特集『日本中世後期の宗教勢力』
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■「中世天台宗寺院における衆徒」(下坂守*1
(内容紹介)
・中世寺社権力論においては「真言宗」についてもっぱら論じられる傾向が強いとし、「天台宗」について論じられている。
天台宗の政治力の源として、もちろん宗教イデオロギーがあったことを指摘する一方で、「独自の経済力と軍事力(というかいわゆる僧兵)があったこと」が指摘される。
室町幕府が「天台宗門徒を制御するために」、門徒幹部を「山門使節」に任じ、幕府と天台宗の交渉は基本的に山門使節を通して行う事になった事が指摘される。


■「中世後期寺社勢力の構成と機能」(西尾知己)
(内容紹介)
 黒田俊雄*2の「権門体制論」においては鎌倉新仏教の興隆と、荘園制度の崩壊によって、寺社勢力が一路衰退したかのように描かれがちである。しかし寺社勢力は荘園制度崩壊の中でも、戦国大名など新権力とうまく関係を保つことによって一定の自立性を保持した勢力も存在する。一路衰退したかのような描き方は極めて一面的である。


■「宗教勢力としての中世禅林:在俗宗教への道」(芳澤元)
(内容紹介)
 中世禅林(禅宗)については「鎌倉、室町期に武家勢力の庇護を受けたが、戦国時代への突入によってそうした庇護を失い衰退した」と描かれることが多い。しかし中世禅宗に庶民の支持がなかったかのような描き方は極めて問題である。
 絵師・海北友松、儒学者林羅山が「禅門出身」であることは、「禅門と一般庶民との関係」が一向宗浄土真宗)や日蓮宗法華宗)同様に存在したことの一つの証明と見るべきである。


■書評『高橋昌明*3「平家と六波羅幕府」(2013年、東京大学出版会)』(田中大喜*4
(内容紹介)
 高橋氏の「六波羅幕府論」について論じられている。1169年に平清盛が福原*5に拠点を置いたこと(一方、当時の平氏の当主・重盛は六波羅*6に拠点を置いた)を、「源頼朝が鎌倉に拠点を置いたこと」と類似していると見て、この時期に幕府権力が成立したと見るのが高橋氏の「六波羅幕府論」である。しかし評者は「六波羅幕府と呼ぶかどうか」「幕府権力が成立したと見るかどうか」はともかく、むしろ「鎌倉幕府と、清盛政権の類似性」に着目するのであれば、1169年の福原への拠点設置ではなく、1181年に「平宗盛*7が惣官職に補任され、平家が畿内5カ国(山城*8、大和*9、河内*10、和泉*11、摂津*12)及び近江*13、伊賀*14、伊勢*15丹波*16に軍事支配権を確立した時期」を「頼朝の守護設置(軍事支配権の確立)」と類似しているとして、着目すべきだとする。また高橋氏が重盛政権を重視するあまり、宗盛政権を軽視していることを批判している。

参考

http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20100628/1277727691
 平清盛の樹立した政権を「六波羅幕府」あるいは「福原幕府」と呼ぶべき、という見解は実はなかなかハードルが高い。なぜならば、そもそも「幕府」という概念は、源頼朝にあって平清盛にないものを表象するために作られた概念だからである。
 鎌倉幕府成立年代論争とは、鎌倉幕府とは何か、という問題である。一応述べておく。
・1180年
 頼朝が鎌倉に邸を構えた。これは鎌倉幕府南関東の軍事政権であることに着目する見解。
・1183年
 頼朝が寿永2年の宣旨*17を受けた。これは鎌倉幕府は、その実力支配を朝廷から公認されることに着目する見解。
・1184年
 頼朝は公文所問注所を設置した。これは鎌倉幕府が行政機関として機能し始めたことに着目する見解。
・1185年
 頼朝が守護・地頭設置を認められた。これは頼朝の主従制が朝廷に公認されたことに着目する見解。
・1189年
 頼朝が奥州征伐を行なう。これは頼朝が全国的な軍事動員権を掌握したことに着目する見解。
・1190年
 頼朝が諸国惣追捕使に任ぜられる。これは頼朝が国家的な軍事警察権を掌握したことに着目する見解。
・1192年
 頼朝が征夷大将軍に任ぜられる。これはその後の幕府のトップが征夷大将軍であることに着目する見解。
 おそらく「幕府」というものを最も厳密に解釈すれば1192年説が正しくなるのだろう。鎌倉・室町・江戸の幕府に共通するのは、トップが征夷大将軍であることだからだ。しかしそれで鎌倉幕府の本質を見ることは出来ない、ということで、1192年説はほとんど省みられることはない。
 権門体制論の立場、すなわち鎌倉幕府は権門体制の中で国家守護の役割を分担している、という考えからすれば1190年、二つの王権論の立場、すなわち頼朝は朝廷に対して武力を編成原理とする新たな「王権」を樹立した、という考えからすれば1180年となるであろう。そしてその二つの立場からすれば、清盛の樹立した政権はまぎれもなく「幕府」なのである。六波羅幕府というのは、平重盛に国家守護を担当させるところに「幕府」たるものを認めるのであり、権門体制論の立場からすれば、間違いなく「幕府」となるはずである。福原幕府というのは、清盛が後白河院政から自立的な王権を樹立しようとしたことに「幕府」を認めるのであり、二つの王権論からすれば、まさに「幕府」であることになる。他のどれをとっても、ほぼ清盛の政権で実現していることであり、あえて実現していないことを言えば、全国的な軍事動員権の掌握の有無に関して言えば、清盛の政権は西国に偏っていたし、何よりも清盛は征夷大将軍にはなっていない。しかし「幕府」の本質を権門体制論的な、あるいは二つの王権論的な、相反する立場から判断しても清盛の政権を「幕府」とした方が、一貫している。私は高橋昌明氏と本郷和人*18が主張する清盛の「幕府」説に従いたい。さらに言えば私は本郷氏の福原幕府説により説得性を感じている。さらに言えば私は室町時代の「鎌倉府」も「第二鎌倉幕府」と考えるべきだと思うし、さらに言えば懐良親王の「征西将軍府」も「九州幕府」と呼んだ方がより有効な分析を行えると思っている。
 次の問題は、清盛と頼朝の差異は何であったか、である。ここで出される頼朝と清盛の差異を「幕府」の差分だ、と主張する見解もあるだろう。しかしそこを「幕府」の差分としてしまうと、「幕府」の概念が複雑になりすぎ、まさしく「鎌倉幕府」「室町幕府」「江戸幕府」をそれ以外から析出するための概念でしかなくなると考える。中世日本における国家形態を考える上で、そのような概念を使うことにどれほどの意義があるだろう。
 清盛との違いを見るために頼朝の朝廷との関わりをみてみる。
 頼朝は河内源氏源義朝と熱田大宮司藤原季範の娘の由良御前の間に生まれる。1158年に鳥羽法皇の皇女で後白河の異母姉で、後白河の准母を務めた統子内親王が皇后(尊号皇后、非妻后皇后)になったのをうけて設置された皇后宮の権少進を振り出しに、統子に院号が宣下され上西門院となってから上西門院蔵人となり、やがて右近衛将監を経て二条天皇の蔵人となった。この経歴からみると、頼朝は父の義朝とはかなり異なる人生を歩もうとしていた、もしくは歩まされようとしていたことがわかる。平治の乱に際して補任されたのが右兵衛権佐である。思えば平清盛も左兵衛佐を振り出しにしている。おそらくは義朝は清盛に対抗すべく頼朝に清盛と同様の官途に付けようとしていたのだろう。しかし平治の乱によって頼朝の運命は大きく狂う。頼朝は平治の乱伊豆国流罪となり、前右兵衛権佐として30年間暮らすことになる。その間に頼朝は挙兵を経て一気に関東の主となるが、その人生はむしろ無位無官のまま関東に下向し、関東の主となった義朝*19や義平*20の人生を彷彿とさせる。「佐殿」と呼ばれてはいただろうが、頼朝に対する視線は「京都の官職に就いている貴公子」というよりは、「頼義公の血を引く御曹司」というイメージであったろう。本来平清盛的な累進をするはずだったのだが、運命のいたずらから、頼朝は清盛とは異なる形で「幕府」の基礎を樹立したのである。
 しかし頼朝が東国の反乱軍という立場を乗り越え、公的な「王権」あるいは〈共同体−間−第三権力〉として発展するためには、朝廷との関係を通じて自己を朝廷と並ぶ〈共同体−間−第三権力〉として〈共同体−即−国家〉の中に位置付ける必要がある。でなければ、朝廷の影響から一切脱して新たな〈共同体−即−国家〉を作り出してその中の〈共同体−間−第三権力〉となるかである。しかし後者は非現実的であった。成立期鎌倉幕府の中で起きた上総介広常*21誅殺事件は、前者と後者の軋轢の生み出した政局であったろう。
 頼朝と朝廷を結びつける紐帯は、はじめは「以仁王令旨」である。しかし頼朝は以仁王令旨をもたらした八条院蔵人にして、頼朝の叔父に当たる行家を冷遇し、以仁王を利用しないことを明白にした。頼朝は早くから後白河に直接働きかける方向を選んだのである。以仁王にこだわったのは、頼朝の従弟の源義仲であった。義仲は上京後に以仁王の皇子北陸宮の即位を強く主張し、高倉上皇の皇子、つまり西国に行ってしまった安徳天皇の兄の即位にこだわる後白河との対立を深める。結局高倉上皇の第四皇子尊成(たかひら)親王が即位する。
 後白河は頼朝に東海・東山道の支配権を認める「寿永二年の宣旨」を頼朝に下し、追いつめられた義仲は後白河と武力衝突を経て頼朝の派遣した源義経に敗死する。その後頼朝は平氏への攻撃を行なうとともに、自ら知行国主となり、一門やかつての命の恩人の平頼盛らを国司に任命する。このころ京下りの官人によって頼朝の官僚制も整備され、〈共同体−間−第三権力〉としての体裁を整えて行く。
 義経との対立を契機に頼朝は義経に頼朝追討の院宣を下した後白河を武力で威圧し、守護・地頭の設置と親頼朝派の公卿の登用を要求する。かつて清盛が行ったやり方を頼朝も踏襲しているのである。頼朝がつくりあげたのは、鎌倉という遠隔地にあって、普段の朝政を頼朝派の公卿に行わせ、何かある時には軍勢を派遣し、あるいは自ら軍勢を率いて威圧し、自らの要求を通して行くというスタイルである。
 義経死後、頼朝は義経を匿った罪を問うために奥州合戦に出る。このとき、頼朝が頼義故実に従ったことをもって、内乱期御家人制を清算して、新たな御家人制を構築したのだ、という見解が川合康氏*22より出されている。そしてそれを荘厳するために奥州藤原氏をしのぐ征夷大将軍が要求された、と考える。本郷氏は藤原氏打倒のために使えるものは何でも使ったに過ぎない、と批判した。実際頼朝が要求したのは「征夷大将軍」ではなく「大将軍」であって、「征夷大将軍」は朝廷が選んだことが明らかになっており、少なくとも「征夷大将軍」の称号そのものに何らかの意味を見出す見解は否定されている。「大将軍」とは本郷氏の指摘するように「将軍」を超えるものでしかないだろう。極端な話「鎮守府大将軍」でもよかったのではあるまいか。頼朝にとっては「鎮守府将軍」を超越できさえすれば何でもよかったのだろう。それどころか、そもそも奥州藤原氏と「大将軍」が関係があるのかすらあやしい、と今では考えている。頼朝は使えるものはいろいろ使って自らの権力を荘厳することに務めた。一方で朝廷の官職を使って荘厳し、もう一方で頼義故実を持ち出す。頼義故実は頼朝にとっては自らが東国の「王」であることを示す格好の機会であっただろう。頼義故実征夷大将軍は私は分けて考えるべきだと思っている。
 頼朝は「征夷大将軍」を要求したのではなく、「大将軍」を要求したことが明らかになった。それについて本郷氏は「『征夷』にこだわっていた人々は、今度は『大将軍』とはどういうものであるのかを考えねばならない、などと言い出した。大将軍とは将軍を超える存在、というに過ぎないではないか」(『武力による政治の誕生』197ページ)とまとめている。そこで「大将軍」とはどういうものであるのかを考えてみよう。
 端的に言えば本郷氏の説明する通り、「将軍を超える存在、というに過ぎない」。この見解に異論はない。「将軍」とはどういう存在であったか。大庭景義*23の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という言葉(漢の周亜夫の言葉)にあるように、将軍には軍事に際して天皇大権から独立しているのである。朝廷に接近しながら朝廷から自立するための朝廷に対する交渉のカードとして、将軍職に付随する非常大権が頼朝には必要だったのだろう。征夷大将軍紀古佐美桓武天皇から受けた勅許は「宜しく、副将軍、死罪を犯すあらば、身を禁めて奏上すべし。軍監以下は、法によりて斬決せよ」とあった。軍防令によれば大将軍は本来在地の下士官が軍令に従わない場合、死罪以下の刑に処しても良いと定められている。征夷大将軍は軍監にまで非常大権が及び、副将軍も拘禁する権限があった(以上高橋富雄氏*24征夷大将軍*2522ページ)。頼朝サイドは朝廷に対する自立性を担保する権限として「大将軍」を要求し、親頼朝派の九条兼実*26以下の朝廷はその中でも一番権限のある「征夷大将軍」に任命した、というところだろうか。「大将軍とはどういうものであるのかを考えなければならない」として考えると、むしろ頼朝の政権が自立した「王権」であることを裏付けているかのようである。
 しかし頼朝にとってはあまり意味を見出せなかったのだろう、やがて征夷大将軍を辞任して「前将軍」ではなく「前右大将」という肩書きに戻してしまう。しかし頼家に至り、再び征夷大将軍が担ぎ出され、実朝、九条頼経を経て宗尊親王に至るまで武家政権のトップは征夷大将軍という形が定着するのである。ここに至れば「征夷」という部分に何の意味もないことは明白であろう。おそらくは頼朝が最後に任官した官職として機械的に継承されていたのだろう。
 皮肉なことに「征夷」は「尊王攘夷」の高まりの中で注目され、「征夷」を実行できない「征夷大将軍」のレゾンデートルが問われることになるのだが、逆に言えばそれまで「征夷」というのは注目されてもこなかったのだろう。


■歴史の眼「南京大虐殺の世界記憶遺産登録について」(笠原十九司*27
(内容紹介)
 以下の記事紹介で代替します。しかし笠原氏はこの資料登録での自民党の無茶苦茶な物言い(ユネスコ分担金削減論など)とそれをメディアがまともに批判しないこと、日本社会が事実上、こうした無茶苦茶を黙認してること(例:参院選での安倍自民勝利など)を「日本社会が戦争に無反省な歴史修正主義だと国際社会に宣伝してるのも同然で恥ずかしい。道徳的にも問題だが、国益が深刻に破壊されてる」としていますが全く同感ですね。他の件(例:尖閣)ならまだしもこの件で「中国を批判する国」なんかないわけです。「東京裁判松井石根死刑判決を日本も受け入れてるじゃない?」「羽田*28内閣の永野法相が南京事件否定論を放言して事実上引責辞任したのは何だったの?」「中国の南京事件記念館を海部俊樹*29野中広務*30古賀誠*31らが訪問したのは何だったの?(ウィキペ「南京大虐殺紀念館」参照)」「第一次安倍内閣での日中歴史共同研究報告書(もちろん南京事件の存在を肯定)は何だったの?」などで終わる話です。

http://d.hatena.ne.jp/takase22/20160822
 こういう兵士たちの手記は資料的価値が高く、公的機関がしっかり保存し利用できるよう整備すべきではないか。

 高世仁の一文ですがまあ、正論ではありますが、「笠原氏などが言うならまだしも」荒木や島田ら「南京事件否定論者がごろごろいる極右団体・救う会」とつきあってる高世がそう言う事言ってもかけらも説得力がない。大体「兵士の手記はなかったかも知れませんが」、南京事件の資料(いわゆるマギーフィルムや、谷寿夫に死刑判決を下した南京軍事法廷の裁判記録など)については「公的機関ユネスコ」に中国政府が世界記憶遺産申請したわけです。
 そのとき、笠原氏などと違い「ユネスコ登録は大変良かったと思う、中国の登録申請は当然の行為だ」「日本政府のユネスコや中国への非難は不当な言いがかりだ」とも何とも言わなかった高世がこんな事言っても説得力のかけらもありません。そういえば「アンチ中国」高世って条件付ですら中国を評価したり褒めたりした事ってあるんですかね?


■誰かの妄想・はてな版『ちょっと認識がずれている、というかちゃんと読んでるの?』
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20151016/1445013319
 笠原氏も批判していますが、id:scopedog氏の説明がわかりやすいと思ったので紹介しておきます。
 「小生もできる限り」簡単に指摘しておくと、ユネスコ登録申請において「30万」という数字は出てくることは出てきますが「東京裁判での20万人以上という認定」と併記で「南京軍事法廷の認定の数字30万人以上」として出てくるだけで、少なくとも申請書類においては中国政府は30万人という数字にはこだわっていません。登録の認定においても数の議論なんかされてない。
 なお、id:scopedog氏も笠原氏も指摘していますが「公的な推計値」は「東京裁判認定」「南京軍事法廷認定」の2つしかないのでこの2つを中国が数値として出すことはむしろ自然です。
 数値としての妥当性はともかく*32スマイス調査、秦推定、笠原推定は民間人の推定に過ぎません。


■誰かの妄想・はてな版『南京軍事法廷は戦後BC級戦犯裁判の一つなので連合国側がこれを否定すること自体、政治的にありえない』
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20151015/1444843984
 笠原氏も批判していますが(以下略)。
 「小生もできる限り」簡単に指摘しておくと、「南京軍事裁判を批判するなとは言いませんが」、仮にも蒋介石政権が国際社会に向けて国家の威信をかけてした裁判の認定を、ろくな根拠も揚げずに「30万人以上なんてあり得ない」と感情論で無根拠に否定することは馬鹿げています。

http://www.nj1937.org/jp/2014-08/27/c_133588759.htm
■侵華日軍南京大虐殺遭難同胞記念館公式サイト『論評:日本の強盗ロジック』
 中国は南京大虐殺慰安婦問題に関する一部の貴重な歴史的資料を世界記憶遺産に登録申請することになりました。これについて、日本の菅義偉官房長官は11日、日本側が「極めて遺憾」だと考え、中国側に抗議しました。また、「中国が政治的意図を持って申請したと判断されれば抗議の上、取り下げるよう(中国側に)申し入れる」と述べました。さらに、南京大虐殺犠牲者数に関して「具体的な数はさまざまな議論があり、政府として断定することは困難だ」と述べました。これに対して、中国外務省は、「日本側の無理な交渉を受け入れず、申請の取り下げはしない」との態度を明らかにしました。
(中略)
 日本のこれまで犯した罪に対して、日本政府は全く恥を感じておらず、かえって中国側の歴史の真実を復元するやり方に「極めて遺憾」だと言っています。第二次世界大戦期間中、日本が犯した非人道的な行為、かつ人権侵害と反人類の行為に対して日本政府は深く反省するどころか、中国の申請は「政治的意図を持つものだ」と断定します。日本側が歴史を否認しつつ、反省を拒否する一方、中国側の歴史を尊重し、平和を大切にし、人類の尊厳を守る行動に対していわゆる「抗議」を行い、そして恥も知らずに「取り下げるよう」とさえ言い出しています。
 日本側のこうした強盗ロジックと強盗行為に憤りを感じないわけにいかないが、予想外のことではありません。日本ではその侵略の歴史を否認、美化することは一つの趨勢となっており、安倍晋三首相が何度も靖国神社を参拝し、歴史教科書が何度も改ざんされてきました。米議員が2007年と2014年にそれぞれ慰安婦問題に関わる決議案を提出し、審議した際、日本政府が八方手を尽くして妨害を加えました。ロサンゼルスに慰安婦の像を設置しようとするとき、日本の地方(ボーガス注:右翼)議員が「慰安婦像設置に抗議する全国地方議員の会」まで作って、ロサンゼルスへ赴き、現地政府に慰安婦の像を取りはらう抗議書簡を手渡しました。
(中略)
 日本が中国の世界記憶遺産申請を抗議したことは、その歪んだ歴史観の現われだと言わなければなりません。侵略の歴史を否認、美化して世間の尊重を得、「正常な国」になれると日本は思っているが、これは明らかに勘違いです。このような考えは歪んだ心理で、また歴史観と現実感にかけているものです。
 中国は今回記憶遺産の登録申請を行ったのは日本を困らせようというものではありません。「歴史を鑑みにし、未来に向ける」のは中日国交正常化以来、中国の中日関係に対する基本的立場と主張です。歴史と未来は分割できません。日本は歴史の教訓を鏡にし、歴史を真摯に反省しなければ、その民族魂と国家のイメージを築き上げることはできないに決まっています。

http://www.sankei.com/world/news/160127/wor1601270046-n1.html
■産経『台湾・馬総統、南京事件は「ホロコースト」講演で批判、「過去の過ち向き合わない国がある」』
 台湾の馬英九*33総統は27日、台北市内で開かれた「国際ホロコースト記念日」の会合であいさつし、南京事件を「中国の都市、南京で起きたホロコースト」と表現した。ホロコーストは通常、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺を指し、中国共産党が近年、南京事件と同列視する姿勢を示している。
 馬総統の発言は英語で、戦後のドイツの「反省」を評価する一方、「アジアには過去の過ちに向き合おうとしない国がある」と日本を批判した。(台北 田中靖人)

1)南京事件が「蒋介石・国民党政権下で起こったこと」
2)馬氏が中台経済関係の進展に力を入れていることを考えればある意味当然の馬発言です。
 まあ産経は「馬の野郎ふざけてる」と逆恨み、逆ギレしかしないわけですが。
 もちろん「ユダヤ人絶滅」を目指したホロコーストと違い南京事件は「中国人絶滅を目指してない」わけですがここでは「民族差別が産んだ大量虐殺」と言う意味だと理解しておけばいいでしょう。


■産経『【葬送】中国の日中関係史研究者、歩平氏*34 「歴史」乗り越えた関係を模索』
http://www.sankei.com/life/news/160818/lif1608180033-n1.html
 まあ歩氏に限らず「まともな中国の歴史家」で「南京事件否定論」なんか支持する奴はいないし、当然歩氏も支持しません。
 そのことで歩氏を生前散々非難していた産経が

 参列した中国人研究者はこう話した。
「中国において歴史研究が完全に政治から離れることは難しいが、歩先生は極力そうあろうとした。その姿勢と人柄が後進の尊敬を集めている」

つうんだから呆れます。いや別に「歩氏を訃報記事で罵倒しろ」とは言いませんが、このデタラメさは何なんでしょうか。
 また

 2006年10月、訪中した当時の安倍晋三首相と胡錦濤国家主席との首脳会談で、有識者による日中歴史共同研究の開始に合意。中国側の座長を務めたのが中国社会科学院近代史研究所所長の歩氏、日本側は東大教授の北岡氏だった。
 南京事件などの記述をめぐって双方の意見は対立。両論併記*35という玉虫色の結論に終わったが、こうした野心的な取り組み自体が胡政権の対日関係改善の意思を反映したものだった。

てのも「お前、2006年当時そんな事言ってなかっただろ!」です。
 まあ、「胡錦濤*36に比べて習近平*37反日だ」といいたいが故に「胡政権の対日関係改善の意思」とか言い出すんでしょうけど、何でしょうか、このデタラメさ。

http://j.people.com.cn/n/2015/1013/c94475-8961311.html
■人民日報『南京大虐殺文書が記憶遺産に登録 歴史に未来を告げさせる』
■当初申請
 日本メディアの報道によると、日本の菅義偉官房長官は2014年6月11日の記者会見で、中国政府が第2次大戦時の南京大虐殺慰安婦に関する資料を世界記憶遺産に登録申請したことについて、すでに中国側に抗議し、申請の取り下げを求めたことを明らかにした。菅長官は「日中両国の関係改善のために努力する必要がある特別な時期にユネスコの場を政治的に利用し、日中間の過去の一時期における負の遺産をいたずらに強調しようとしていることは極めて遺憾だ」と表明。外交ルートを通じて、中国外交部に抗議したことを明らかにした。南京大虐殺の犠牲者数については「日本軍の南京入城後、市民殺害あるいは略奪行為があったことは否定できないが、具体的な犠牲者数については様々な見解があり、政府として判断することは難しい」と強調した。
■登録後
 日本外務省は10日、「報道官談話」を発表、中国側が提出した申請資料の完全性や真正性について質疑を挙げ、中立性と公平性を保てなかったとしてユネスコを批判、ユネスコに対して制度改革の必要性を訴え、ユネスコは「政治利用」されるべきではないと主張した。
■外交部:「南京大虐殺の文書」の積極的な役割を十分に発揮
 外交部(外務省)の華春瑩報道官は10日、ユネスコが「南京大虐殺の文書」を世界記憶遺産に登録する決定をしたことに歓迎の意を表し、規定に照らして、これらの貴重な文書が保護され、広められ、歴史を銘記し、平和を大切にし、未来を共に築き、人類の尊厳を守る積極的な役割を十分に発揮するよう確保したい考えを表明した。

 重要なことは安倍政権ですら「南京事件はなかった」「松井石根・中支那方面軍司令官(東京裁判)や谷寿夫*38・第6師団(熊本)司令官(南京軍事法廷)の死刑は冤罪だ。なぜならそもそも事件がないから」とはいえず「登録資料が信用できるか、わからない」「30万という数は多すぎる」といった揚げ足取りしかできない点でしょう。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-02-06/2014020601_05_1.html
赤旗・主張『NHK経営委員、お友だちだから、かばうのか』
 日本軍「慰安婦」問題を「戦争しているどこの国にもあった」と弁護した籾井(もみい)勝人NHK会長の発言が批判をあびているさなか、籾井氏を会長に任命したNHK経営委員会の委員で作家の百田尚樹氏が東京都知事選の元航空幕僚長候補の応援演説の中で「南京大虐殺はなかった」などと発言し、批判をあびています。NHKの経営委員が特定の候補者を応援するのも、「南京事件はなかった」などと歴史を偽るのも大問題です。籾井氏の発言を「個人的発言」とかばっている安倍晋三政権が、百田氏をも「個人の行動」とかばっているのはきわめて大きな問題です。
 百田氏の発言は3日、同氏が元自衛官都知事候補を応援して都内でおこなった街頭演説の中でのもので、都民も聞いています。
(中略)
 「南京大虐殺」は、日本軍が日中戦争さなかの1937年12月、当時の中国の首都・南京を占領したさい、市民や難民、捕虜を組織的に殺害し、略奪、放火、女性への暴行など残虐行為をおこなったものです。犠牲者の数については議論があっても大虐殺があったこと自体は政府や軍の報告、当事者や目撃者の証言などで明らかになっている歴史的事実です。それを「なかった」などと否定する人物がNHK経営委員に求められる見識に欠けていることはあまりに明白です。
 百田氏を含む5人の経営委員は昨年末安倍首相によって任命されました。5人を含む新しい経営委員会が任命し、就任したのが籾井会長です。百田氏と同時に経営委員に任命された大学名誉教授の長谷川三千子氏も、男女共同参画を批判したり、(ボーガス注:朝日)新聞社を脅して拳銃自殺した右翼団体元幹部(ボーガス注:野村秋介*39)を礼賛したりした言動で批判されています。安倍政権に任命されたNHK経営委員の見直しが不可欠です。
 見過ごせないのは百田氏も長谷川氏も、安倍首相に極めて近い人物だということです。百田氏は雑誌などで安倍首相と対談を重ね、首相の靖国神社参拝などに“期待”を表明してきた人物です。長谷川氏は安倍首相実現を求める「民間人有志の会」の代表幹事でした。
 安倍首相の任命責任は重大です。放送法では首相が経営委員を罷免することもできます。安倍首相があくまでかばい続ければ、政権の責任が問われることになるのは免れません。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-06/2014030601_03_1.html
赤旗『これが歴史の真実 成り立たない「靖国」派の言い分、南京大虐殺は「なかった」 百田発言は世界の非常識』
 「1938年に蒋介石が日本が南京大虐殺をしたとやたら宣伝したが、世界の国は無視した。そんなことはなかったからです」。
 NHK経営委員の百田尚樹氏は東京都知事選の(ボーガス注:田母神候補の)応援演説で言いました。(ボーガス注:産経など右翼系の)一部マスメディアもこの発言を肯定する論説を掲載しました。本当はどうだったのか。
■世界のメディアが当時も残虐性批判
 南京大虐殺(南京事件)は、1937年12月、中国への侵略戦争の中で旧日本軍が当時の中国の首都・南京を攻略・占領し、中国軍兵士だけでなく、捕虜や一般市民を虐殺した事件です。女性の強姦、略奪をはじめ数々の残虐行為が行われました。
 虐殺のとき、南京にいたジャーナリストは、それぞれが惨状を記事にしています*40
 ニューヨーク・タイムズのF・T・ダーディン記者は「大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した」「犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた」「なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた」(37年12月17日電)、「塹壕(ざんごう)で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された」(同年12月22日電)と報じています。
 シカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者は「(われわれが)目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた」「この門(下関門)を通ったとき、五フィート(約一・五メートル―訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた」(37年12月15日電)、「私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た」(同年12月14日電)と報じます。
 イギリスの新聞マンチェスター・ガーディアンの中国特派員H・J・ティンパーリーは報道した内容をもとに『戦争とはなにか―中国における日本軍の暴虐』をまとめ、38年にロンドンとニューヨークで発行しています。
 事件当初から、「世界は無視をした」どころか、日本軍の残虐性を批判していました。
 米国などの南京駐在外交官も本国に事件の詳細を報告しており、それが東京裁判南京事件を裁いた際の裏づけとされました。
 (『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店)
 日本では報道統制がしかれたため、国民には事件は伝わりませんでした。しかし、一部高級官僚や軍部は南京の惨劇を知っていました。
 南京事件当時、外務省の東亜局長だった石射猪太郎*41は日記に「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る、掠奪(りゃくだつ)、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼(ああ)之れが皇軍*42」(38年1月6日)(伊藤隆*43・劉傑*44編『石射猪太郎日記』中央公論社)と書いています。
■旧陸軍将校親睦の機関誌も「詫びる」
 現場にいた日本の兵士も証言や日記を残しています。なかでも旧陸軍将校の親睦団体・偕行社(かいこうしゃ)の機関誌『偕行』に1984年4月〜85年3月に掲載された「証言による『南京戦史』」は注目されます。
 「大虐殺の虚像」を明らかにする狙いで偕行社が募集したものでしたが、寄せられた証言は虐殺の実態を生々しく伝えます。
 松川晴策元上等兵は「(中国の)便衣兵が一列にならばされ、(日本の)兵士が次から次へと銃剣で突き刺したり、あるいは銃で撃っているのを見ました。その数は百や二百ではなかった」「土のうと死体が一緒くたになって、約一メートルぐらいの高さに積み重ねられ、その上を車が通るという場面を見ました」と証言しています。
 佐々木元勝元上海派遣軍司令部郵便長は日記に「道路近くでは石油をかけられたのであろう。(死体が)黒焦げになり燻(くすぶ)っている。波打際には血を流し、屍体(したい)が累々と横たわっている」(37年12月17日)*45と書き残しています。
 最終回の85年3月号で、編集部の加登川幸太郎氏は「(死者の)膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない…この大量の不法処理には弁解の言葉はない」と虐殺の事実を認め、「旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫(わ)びるしかない」と謝罪しています*46
■日中政府の歴史共同研究でも
 「日本の近代史の研究者の中で、南京で相当数の不法な殺人・暴行があったということを認めない人はほとんどいない」(『外交フォーラム』2010年4月号)。
 2006年に第1次安倍政権が着手した「日中歴史共同研究」で安倍首相の指名で日本側座長となった北岡伸一*47国際大学学長は、共同研究の成果と課題をまとめた論文で述べています。
 北岡氏は日本の侵略を認めたうえで「不快な事実を直視する知的勇気こそが、日本の誇りなのであって、過去の非行を認めないのは、恥ずかしいこと」とも言っています。

 安倍ブレーンの北岡ですら南京事件否定論など公言しないわけです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-12-13/2015121307_01_0.html
赤旗『旧日本軍関係者が語る南京大虐殺、恥ずかしい安倍政権の反発』
 ユネスコが「世界記憶遺産」として中国申請の資料を登録した(10月10日)ことで、話題となった日本軍による南京大虐殺事件(南京事件)。1937年12月13日の南京入城を前後し、南京攻略戦と占領時に日本軍がおこなった戦時国際法・国際人道法に反する、中国の軍民への不法残虐行為です。日本軍関係者の資料を中心に南京大虐殺を見てみます。(若林明)
 安倍晋三首相は記憶遺産への登録に、「遺憾」を表明しました。菅義偉官房長官は、登録を不満としてユネスコへの拠出金停止や減額を検討するといい、馳浩文部科学相が記憶遺産制度の「改善」を求めました。
 日本政府が10月のユネスコ会合に同行させた高橋史朗明星大学教授は「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」の呼びかけ人の一人です。同会の「声明文及び要請文」(10月23日)は、記憶遺産登録について「歪められ捏造された歴史『事実』を登録承認したことに、強い憤りと危機感を抱く」と、「南京事件否定論」を述べています。
 しかし、南京大虐殺は、「捏造」どころか、学問上も、国際的にもみとめられた歴史上の事実です。
■中国戦線の岡村大将/“市民に暴行は事実”
 旧日本軍の岡村寧次(やすじ)*48は、1932年に上海派遣軍参謀副長に着任以後、支那派遣軍総司令官として終戦を迎えるまで、中国戦線を指揮した中心的な軍人です。岡村は、戦後、防衛庁(当時)の戦史室に依頼されて「戦場体験記録」をまとめています。(『岡村寧次大将資料 上巻―戦場回想編―』として刊行)
 岡村は南京事件の直後に、南京攻略戦に参加した第6師団*49や第9師団を含む第11軍を率いて、漢口攻略戦を指揮します。司令官着任直後(38年9月)に、「南京攻略戦では大暴行が行われたとの噂(うわさ)を聞き、それら前科のある部隊を率いて武漢*50攻略に任ずる」上での必要性から、「南京事件」について将校らに聞き取りを行いました。
 その結果について「一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜(ふりょ)(捕虜)を殺してしまう弊がある。一、上海には相当多数の俘虜を収容しているがその待遇は不良である。一、最近捕虜となったある敵将校は、われらは日本軍に捕えられれば殺され、退却すれば督戦者に殺されるから、ただ頑強に抵抗するだけであるといったという」とまとめています。
 岡村は南京での日本軍の性的暴行や捕虜虐殺を確認したのです。岡村は「戦場体験記録」に「南京事件の轍を覆(ふ)まないための配慮」「軍、風紀所見」を記しています。
 日本陸軍の中枢にいた人物が、当時から「南京大虐殺」を事実として認めていたことは明らかです。
(中略)
 なぜ大虐殺が起こったのか。日本軍の中国侵略を研究する伊香俊哉*51都留文科大学教授は「南京占領戦は基本的に旅団長や師団長から、捕虜をとらないという方針が出ていました。大量の中国軍を降伏させてもどう扱うかきちんとしていなかった。それが虐殺につながった。さらに中国軍、中国人に対する日本側の蔑視がありました。中国人捕虜なら殺しても問題にならないという感覚があった」と指摘します。
 南京大虐殺の犠牲者数で、現在の学問研究で有力な説は「十数万以上、それも二〇万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になった」(笠原十九司南京事件』)です。ただしこれは、現在の資料の発見状況からの推定です。日本軍は連合国の追及を恐れて、敗戦前後に、多くの資料を焼却しました。陣中日誌などの資料が公開されているのは、全部隊の3分の1程度だといわれています。
 情報統制によって国民には知らされていなかった南京事件は外務省の官僚や、「陸軍大学の学生」まで多くの軍関係者は知っていました。さらに、海外のジャーナリストや外交官によって世界に発信されました。戦後、連合国は南京事件を重視します。日本の戦争責任を裁いた極東軍事裁判東京裁判)で南京戦の司令官の松井石根(いわね)*52大将は死刑になりました。
 笠原十九司都留文科大学名誉教授は「南京事件負の遺産として、日本だけでなく人類的に見て教訓にすべきです。なぜ、あんな残虐な事件が起こったのかを記憶としてとどめておくべきでしょう。記憶遺産登録に反発するのは、否定論に立っているということを国際的にしめすことになり、恥ずかしいことです」と指摘します。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-14/2015101401_03_1.html
赤旗『国際社会の理解得られない、ユネスコ拠出金停止検討 山下氏が批判』
 日本共産党山下芳生書記局長は13日、国会内で記者会見し、菅義偉官房長官が「南京大虐殺」に関する資料を世界記憶遺産に登録した国連教育科学文化機関(ユネスコ)への拠出金停止や減額を検討すると表明したことについて、「国際社会の理解を得られない」と批判しました。
 山下氏は、南京事件について「どの程度の規模であったかは議論があるとはいえ、大虐殺が行われたことは動かしがたい歴史的事実だ。そのことは、かつて小泉政権時代に町村信孝*53外相が提唱した日中歴史共同研究*54でも、日本側の論文で記述されている」と強調しました。

 笠原氏も含め多くの論者が指摘していますが「事実上南京事件の実在を日本政府として認めた」日中歴史共同研究報告書の「日本側座長」は「安倍の御用学者・筆頭」北岡伸一(現JICA理事長)で、北岡を座長に選んだのは当時の首相・安倍(第一次安倍政権)です。
 安倍は「事情はともかく自らが北岡にまとめさせた報告書の結論を後で否定する」という無茶苦茶な事をやろうとしているわけです。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-11-10/2015111001_03_1.html
赤旗『政府 南京大虐殺否定派をユネスコ会合に同行』
 日本政府は10月4〜6日にアラブ首長国連邦アブダビで開かれた国連教育科学文化機関(ユネスコ)の国際諮問委員会にオブザーバー参加した際、「南京大虐殺」の教科書への記述を「自虐的」と批判してきた明星大学高橋史朗教授を同行させていたことが、本紙の取材で分かりました。
 外務省は「日本の案件に加え、中国の案件の審査もあったために、民間の方として同行してもらった」と述べ、高橋氏の同行を認めました。
 外務省は公式ホームページの歴史問題Q&Aで、「南京大虐殺」について、「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」としています。こうした見解を示しながら、「南京大虐殺」に関する記述や展示を「自虐的」と批判してきた研究者を国際会議に同行させる政府の見識が問われています。
 日本政府がユネスコの会合に同行させた高橋史朗*55・明星大教授は、南京大虐殺の事実を否定する「新しい歴史教科書をつくる会」の元副会長。「南京大虐殺」にかかわる記述に対し「自虐的」「反日的」との発言を繰り返してきました。「南京大虐殺」を否定する研究者らが10月14日に発足させた「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」の呼びかけ人の一人でもあります。
 10月に開かれた自民党「国際情報検討委員会・日本の名誉と信頼を回復するための特命委員会合同会議」で示した資料の中で、「南京大虐殺」自体を否定し(ボーガス注:東中野に偽被害者呼ばわりされた南京事件被害者・夏淑琴氏が東中野名誉毀損で訴えて勝訴した裁判で)東京地裁から「学問研究の成果というに値しない」と断罪された亜細亜大学東中野修道教授らの共同研究を紹介。中国が(ボーガス注:ユネスコに)提出した16枚の写真を捏造写真と断定し、「信ぴょう性に乏しい」などとしています。
 アブダビでのユネスコ会合では、世界記憶遺産に登録された「南京大虐殺」関連の資料などの審査が行われました。日本政府は、昨年6月に中国政府が「南京大虐殺」関連資料の審査をユネスコに申請して以降、「資料の『真正性』に問題がある」などの点から、「登録されるべきではない」との日本の立場を主張してきました。外務省は、「この過程で、民間の方から意見を聞き、ユネスコ事務局に意見を伝えてきた」ことも明らかにしています。

 そもそも「南京事件否定論者にして河野談話否定派」櫻井よしこ中教審委員にする時点で安倍はまともでないですがそれはさておき。
 なお、赤旗記事が紹介する右翼団体「『南京大虐殺』の歴史捏造を正す国民会議」(http://www.nankin-tadasukai.jp/#top)ですが、この団体の呼びかけ人をやっていて、また別の右翼団体新しい歴史教科書をつくる会』(http://www.tsukurukai.com/)の理事をやってる、まさに「南京事件否定論者」の「プロ右翼活動家」としかいいようのない男が「三浦小太郎」という御仁です。
 この「南京事件否定論者」「プロ右翼活動家」三浦(守る会副代表)に対し「守る会会員(つまり三浦の子分)」として、親密交際しながら「ネトウヨが嫌いだ(→ならネトウヨの三浦批判しろよ?)」と心にもない虚言を吐いてるバカがid:noharraこと八木孝三という「60越えた老害のジジイ」です。
 「守る会会員として三浦副代表の極右活動をどう思いますか、id:noharraさん?。あなた、南京事件否定論とか河野談話否定論とか確か、批判してたはずですよねえ?。何で三浦副代表を批判しないんですか?。三浦にしがらみとか恩義とかがあるから?」と俺が聞いても黙りですっとぼけ続けるんだからいい度胸です。その癖に俺が「朝鮮学校無償化除外反対」といった「だけ」で北朝鮮シンパ扱いです。
 少しは恥を知れよ、id:noharra(怒&呆)。手前のそのふざけた態度には俺はマジで怒ってるし、呆れてるからね。いやむしろ怒ったり呆れたりするよりも笑ってるかな。俺的には今現在、「id:Mukkeはてなブログお休み中)とid:noharra」は「卑怯者の嘘つき」「恥知らず」と言う意味で「同じジャンル」に入ってます。
 しかし三浦も安倍政権誕生後、自らの極右性を本当に隠さなくなってきました(苦笑)。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-12-12/2015121202_02_1.html
赤旗南京大虐殺 歴史の事実、参院委で田村智子議員 否定派学者の派遣 批判』
 日本共産党の田村智子議員は11日の参院文科委員会で、南京大虐殺ユネスコ記憶遺産登録の審査で、日本政府が大虐殺否定派の学者を派遣していた問題をとりあげました。
 田村氏は、南京大虐殺(1937年)について政府の立場を確認。外務省の石兼公博*56アジア大洋州局長は「非戦闘員の殺害や略奪行為等は否定できない」と大虐殺の事実を認め、「歴代政府は繰り返し痛切な反省と、心からのおわびを表明してきた」と述べました。
 田村氏は、2006年に当時の安倍政権が始めた日中歴史共同研究でも、「日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」との論文が防衛研究所の研究員らによってまとめられており、「日本の歴史学の共通認識になっている」と指摘。馳浩*57文科相も「これまでの政府見解と同様の立場だ」と答弁しました。
 田村氏は、ユネスコに政府が派遣した高橋史朗明星大学教授は、侵略戦争を否定する「新しい歴史教科書をつくる会」の創設時からのメンバーで、「南京大虐殺は中国のプロパガンダ」だと主張していることを指摘。「日本政府は南京大虐殺に対する態度を変えたのか」と疑念を持たれかねないと批判。自民党内でも「間違いなくねつ造」などと公言する議員がいることをあげ、「歴史修正主義ときっぱりとたたかうべきだ」と強調しました。


追想安丸良夫*58への尽きぬ想い」(芝原拓自*59
追想「急逝の安丸良夫氏を悼む」(深谷克巳*60

(内容紹介)
 以下の追悼文で代替。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12308761.html
朝日新聞『民衆の心に着目、歴史学鍛えた 安丸良夫さんを悼む 成田龍一*61日本女子大教授』
 2013年10月、米コロンビア大学の会場は文字通り立錐(りっすい)の余地もない盛況ぶりだった。
 著作集の完結を記念して、安丸良夫さんの歴史学を検討しようという会が催されたのである。同大学教授で、近現代日本史を研究する主宰者のキャロル・グラックさん*62をはじめ、報告者にはハリー・ハルトゥーニアンさん*63、タカシ・フジタニさん*64ら、アメリカを代表する日本研究者が並ぶとともに聴衆には若い大学院生がひしめき合っていた。
(中略)
 安丸さんは、ふつうの「民衆」の心性に目を向け、生活者としての「民衆」の営みを「思想」としてとらえて、歴史を考えようとしていた。その議論の中軸は、「民衆」が日々に営む実践、すなわち倹約、孝行、勤勉などの「通俗道徳」が、日本の近代化の過程において果たした意味と役割について探求したことにある。
 大本教の教祖を論じた『出口なお』(1977年刊、現在は岩波現代文庫)は、そうした安丸さんの傑作である。この著作をめぐって、私たちの世代はどれだけ議論を交わしたことであったろう。一般的な「民衆」や「思想」の理解に対する、根本からの転換の書であった。
 そして、安丸さんは、これらのことを論理的に説明し、かつ具体的に展開していった。歴史家たちが、ともすれば「方法」を後ろ手に隠す傾向があるなか、安丸さんは方法をめぐる議論に熱心であり、マルクス主義に収斂(しゅうれん)しない方法を探り、ミシェル・フーコーらの研究にも関心を有していた。
 そして、アナール学派などの折からの歴史学の動向に目を配りつつ、それに同化せず自己の方法の研鑽(けんさん)に力を傾けていた。そのゆえに他の学知、たとえば社会学、哲学、文化人類学などの研究者と交流を重ね、海外の歴史研究者との対話がなされることになった。
 日本のなかでは、「民衆史研究」のなかの一人とされ、色川大吉さん*65鹿野政直さん*66ひろた・まさきさん*67の活動とともに語られる。安丸さんも、そうした自覚を有していた。
 だが、目をいくらか大きく広げれば、安丸さんの歴史学は、これまでの近代歴史学を現代歴史学へと鍛え上げていくものであったということになろう。

*1:著書『中世寺院社会の研究』(2001年、思文閣出版)、『京(みやこ)を支配する山法師たち:中世延暦寺の富と力』(2011年、吉川弘文館

*2:著書『寺社勢力:もう一つの中世社会』(1980年、岩波新書)、『日本中世の社会と宗教』(1990年、岩波書店)、『権門体制論』(1994年、法蔵館)、『顕密体制論』(1995年、法蔵館)など

*3:平氏関係の著書に『平清盛・福原の夢』(2007年、講談社選書メチエ)、『平家の群像:物語から史実へ』(2009年、岩波新書)、『増補改訂・清盛以前』(2011年、平凡社ライブラリー

*4:著書『中世武士団構造の研究』(2011年、校倉書房)、『新田一族の中世:「武家の棟梁」への道』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*5:現在の兵庫県神戸市の一部

*6:現在の京都市東山区の一部

*7:清盛の息子、重盛の弟。重盛死後の平氏の当主

*8:京都府

*9:奈良県

*10:大阪府の一部

*11:大阪府の一部

*12:大阪府兵庫県の一部

*13:今の滋賀県

*14:今の三重県西部(伊賀市名張市

*15:今の三重県

*16:京都府兵庫県大阪府の一部

*17:宣旨の意義をめぐってその評価は分かれている。宣旨を積極的に評価する立場には、佐藤進一、石井進らがいる。 佐藤は、宣旨により頼朝は既存の国家権力である朝廷から公権(東国行政権=国衙在庁指揮権)を付与され、これにより東国国家=鎌倉幕府が成立したとする。石井進は、宣旨は頼朝に大きな行政権を与え、その効果は極めて大きかったとしている。これに対し上横手雅敬は、一時的に東国を失った朝廷(公家政権)が宣旨によって東国を回復したのであり、独立権力を構築しつつあった東国政権は朝廷に併合され、その権力を大きく後退させたとし、宣旨は朝廷による東国政権併合条約だったとみる。元木泰雄は、頼朝の実効支配地は南関東周辺のみであり、宣旨の効力はさほど発揮されなかったとする。頼朝が宣旨で目的としたのは、東国支配権の確立よりも、義仲に優越して京武者や地域的軍事権力の担い手を組織化することだったとしている。河内祥輔は以仁王の令旨文中に王自らの即位について触れているために、京都では以仁王の挙兵が後白河−高倉系統からの皇位簒奪のための謀叛行為と受け取られていることを知り、以仁王の令旨に代わる挙兵の正当性を朝廷に求め、同時に令旨を正当とみなしている義仲がいずれ朝廷と対立することを予想して、3カ条の回答で皇位継承を含めた現状の朝廷秩序を支持するとともに暗に義仲討伐の許可を求めたとする。本郷和人は、頼朝は宣旨によって権限や優越的地位を得たのではなく、既に実力で獲得していたものに宣旨の追認を受けたにすぎないとしている。このように、宣旨に関する評価は必ずしも一定しておらず、宣旨を鎌倉幕府の成立史上における重要な画期とする一般的な理解に対しても、異論が唱えられている(ウィキペ「寿永二年十月宣旨」参照)。

*18:著書『人物を読む日本中世史:頼朝から信長へ』(2006年、講談社選書メチエ)、『武士から王へ:お上の物語』(2007年、ちくま新書)、『天皇はなぜ生き残ったか』(2009年、新潮新書)、『武力による政治の誕生』(2010年、講談社選書メチエ)、『天皇はなぜ万世一系なのか』(2010年、文春新書)、『謎とき平清盛』(2011年、文春新書)、『戦国武将の明暗』(2015年、新潮新書)、『戦国夜話』(2016年、新潮新書) など

*19:平治の乱により敗死

*20:義朝の長男。平治の乱により敗死

*21:頼朝政権内部では、東国独立論を主張する広常ら有力関東武士層と、頼朝を中心とする朝廷との協調路線派との矛盾が潜在しており、前者は以仁王の令旨を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。東国独立論を強く主張していた広常が「謀反の疑い」を口実に粛清されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている(ウィキペ「上総広常」)。

*22:源平合戦の虚像を剥ぐ』(1996年、講談社選書メチエ→2010年、講談社学術文庫)、『鎌倉幕府成立史の研究』(2004年、校倉書房)、『源平の内乱と公武政権』(2009年、吉川弘文館

*23:治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝軍に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り頼朝による景親処刑を容認したという。その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された(ウィキペ「大庭景義」参照)。

*24:著書『奥州藤原氏四代』(1987年、吉川弘文館人物叢書)、『平泉の世紀』(1999年、NHKブックス)など

*25:1987年、中公新書

*26:摂政、太政大臣、関白を歴任

*27:著書『アジアの中の日本軍:戦争責任と歴史学歴史教育』(1994年、大月書店)、『日中全面戦争と海軍:パナイ号事件の真相』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件三光作戦』(1999年、大月書店)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『体験者27人が語る南京事件』(2006年、高文研)、『現代歴史学南京事件』(編著、2006年、柏書房)、『南京事件論争史:日本人は史実をどう認識してきたか』(2007年、平凡社新書)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦:日中戦争の実相』(2010年、岩波書店)、『海軍の日中戦争:アジア太平洋戦争への自滅のシナリオ』(2015年、平凡社)など

*28:中曽根、竹下内閣農水相、宮沢内閣蔵相、細川内閣副総理・外相を経て首相

*29:福田、中曽根内閣文相を経て首相

*30:村山内閣自治相・国家公安委員長自民党幹事長代理(橋本総裁時代)、小渕内閣官房長官自民党幹事長(森総裁時代)など歴任

*31:橋本内閣運輸相、自民党幹事長(森総裁時代)など歴任

*32:まあ一般にはスマイス調査や秦推定は過小評価だと見なされています。スマイス調査にいたって当事者のスマイスが過小評価だろうと認識しています。

*33:連戦内閣法相、台北市長を経て総統

*34:著書『日本の中国侵略と毒ガス兵器』(1995年、明石書店)、『若者に伝えたい中国の歴史』(共著、2008年、明石書店)、『中日関係史:1978〜2008』(共著、2009年、東京大学出版会)、『日本の右翼:歴史的視座からみた思潮と思想』(共著、2015年、明石ライブラリー)など

*35:両論併記といっても日本側もさすがにこのとき、産経流の南京事件否定論をカマしたわけではなく「南京事件の存在は認めた上での犠牲者数などについての両論併記」です。

*36:貴州省党委員会書記、チベット自治区党委員会書記などを経て党総書記、国家主席党中央軍事委員会主席、国家中央軍事委員会主席

*37:アモイ市副市長、福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て国家主席、党総書記、国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席

*38:松井、谷ともに役職は南京事件当時

*39:他にも河野一郎元建設相・邸宅放火事件(1963年)、経団連立てこもり事件(1977年)を実行した右翼テロリスト。

*40:これについては■ニューヨーク・タイムズ、F・ティルマン・ダーディンの記事(http://www.geocities.jp/yu77799/durdin.html)、■F・T・ダーディンからの聞き書きhttp://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/durdininterview.html)、■シカゴ・デイリー・ニューズ、A・T・スティールの記事(http://www.geocities.jp/yu77799/steele.html)、■A・T・スティールからの聞き書きhttp://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/steeleinterview.html)参照

*41:上海総領事、吉林総領事、タイ大使、外務省東亜局長、オランダ公使、ブラジル大使、ビルマ大使を歴任。著書『外交官の一生』(中公文庫)

*42:石射証言については■石射猪太郎氏の証言(1)(http://www.geocities.jp/yu77799/ishii1.html)、■石射猪太郎氏の証言(2)(http://www.geocities.jp/yu77799/ishii2.html)、■石射猪太郎氏の証言(3)(http://www.geocities.jp/yu77799/ishii3.html)(参照

*43:つくる会理事。著書『近衛新体制:大政翼賛会への道』(1983年、中公新書→2015年、講談社学術文庫)、『評伝 笹川良一』(2011年、中央公論新社)など

*44:著書『日中戦争下の外交』(1995年、吉川弘文館)、『中国人の歴史観』(1999年、文春新書)、『漢奸裁判:対日協力者を襲った運命』(2000年、中公新書)、『中国の強国構想:日清戦争後から現代まで』(2013年、筑摩選書)

*45:これについては■佐々木元勝『野戦郵便旗』より(http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/yasenyuubinki.html)参照

*46:これについては■「偕行」の「お詫び」ー「証言による南京戦史」(番外)よりー(http://www.geocities.jp/yu77799/kaikou.html)参照

*47:安倍の御用学者。第2次安倍内閣で「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」座長(集団的自衛権容認の答申)、「21世紀構想懇談会」座長代理(安倍談話への助言)を務めた。現在、JICA理事長。著書『清沢洌』(1987年、中公新書)、『後藤新平』(1988年、中公新書)、『国際化時代の政治指導』 (1990年、中公叢書)、『日米関係のリアリズム』(1991年、中公叢書)、『政党政治の再生:戦後政治の形成と崩壊』 (1995年、中公叢書)、『国連の政治力学』(2007年、中公新書)など

*48:上海派遣軍参謀副長、関東軍参謀副長、第2師団(仙台)師団長、第11軍司令官、北支那方面軍司令官、支那派遣軍総司令官など歴任

*49:南京事件当時の第6師団(熊本)師団長・谷寿夫には戦後のBC級戦犯裁判で死刑判決が下っている。一方、南京事件当時の第9師団(石川)師団長・吉住良輔は谷と違い何故か裁かれなかった。

*50:現在、湖北省省都

*51:著書『近代日本と戦争違法化体制:第一次世界大戦から日中戦争へ』(2002年、吉川弘文館)、『満州事変から日中全面戦争へ』(2007年、吉川弘文館)、『戦争はどう記憶されるのか:日中両国の共鳴と相剋』(2014年、柏書房)など

*52:第11師団(香川)師団長、台湾軍司令官、上海派遣軍司令官、中支那方面軍司令官などを歴任

*53:戦前は内務官僚として、富山県知事、新潟県知事、警視総監などを歴任し、戦後は、政界進出し北海道知事、田中内閣自治相・北海道開発庁長官、自民党参院議員会長を務めた町村金五の息子。橋本内閣文相、森内閣文科相、小泉、第一次安倍内閣外相、福田内閣官房長官衆院議長を歴任

*54:ただし報告書が最終的にまとめられたのは安倍政権下で日本側座長は安倍のブレーン北岡伸一でした。

*55:『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと:こうして日本人は国を愛せなくなった』(2014年、致知出版社)、『「日本を解体する」戦争プロパガンダの現在:WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の源流を探る』(2016年、宝島社)などトンデモ右翼著書多数

*56:当時。現在は総合外交政策局長。

*57:小泉内閣で文科大臣政務官、文科副大臣

*58:著書『日本の近代化と民衆思想』(1999年、平凡社ライブラリー)、『日本ナショナリズムの前夜:国家・民衆・宗教』(2007年、洋泉社MC新書)、『近代天皇像の形成』(2007年、岩波現代文庫)、『現代日本思想論:歴史意識とイデオロギー』(2012年、岩波現代文庫)、『出口なお:女性教祖と救済思想』(2013年、岩波現代文庫)など

*59:著書『世界史のなかの明治維新』(1977年、岩波新書)、『日本近代化の世界史的位置:その方法論的研究』(1981年、岩波書店)、『日本近代史の方法』(1986年、校倉書房)など

*60:著書『百姓成立』(1993年、塙選書)、『江戸時代』(2000年、岩波ジュニア新書)、『江戸時代の身分願望:身上りと上下無し』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『田沼意次:「商業革命」と江戸城政治家』(2010年、山川出版社日本史リブレット人)、『東アジア法文明圏の中の日本史』(2012年、岩波書店)、『死者のはたらきと江戸時代:遺訓・家訓・辞世』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『民間社会の天と神仏:江戸時代人の超越観念』(2015年、敬文舎)、『南部百姓命助の生涯:幕末一揆と民衆世界』(2016年、岩波現代文庫)など

*61:著書『司馬遼太郎の幕末・明治』(2003年、朝日選書)、『「大菩薩峠」論』(2006年、青土社)、『大正デモクラシー』(2007年、岩波新書)、『戦後思想家としての司馬遼太郎』(2009年、筑摩書房)、『「戦争経験」の戦後史』(2010年、岩波書店)、『近現代日本史と歴史学』(2012年、中公新書)、『加藤周一を記憶する』(2015年、講談社現代新書)、『戦後史入門』(2015年、河出文庫)など

*62:著書『歴史で考える』(2007年、岩波書店

*63:著書『近代による超克(上)(下):戦間期日本の歴史・文化・共同体』(2007年、岩波書店)、『マルクス主義という経験:1930〜40年代日本の歴史学』(編著、2008年、青木書店)、『アメリカ〈帝国〉の現在:イデオロギーの守護者たち』(2014年、みすず書房

*64:著書『天皇のページェント:近代日本の歴史民族誌から』(1994年、NHKブックス

*65:著書『自由民権の地下水』(1990年、岩波同時代ライブラリー)、『日本人の再発見:民衆史と民俗学の接点から』(1996年、小学館ライブラリー)、『近代日本の戦争』(1998年、岩波ジュニア新書)、『明治の文化』(2007年、岩波現代文庫)など

*66:著書『福沢諭吉福翁自伝』(編著、1998年、朝日選書)、『健康観にみる近代』(2001年、朝日選書)、『日本の近代思想』(2002年、岩波新書)、『近代国家を構想した思想家たち』、『近代社会と格闘した思想家たち』(以上、2005年、岩波ジュニア新書)、『兵士であること:動員と従軍の精神史』(2005年、朝日選書)など

*67:著書『福沢諭吉』(2015年、岩波現代文庫)など