新刊紹介:「歴史評論」1月号

★特集『部落史・身分論から考える歴史学の現在』
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のある内容のみオレ流に紹介しておきます。

■「全国水平社創立の世界史的意義」(朝治武*1
(内容紹介)
 「世界史的意義」とはまた大きく出たものですが要するに水平社が創立された年(1922年)の前後には

ロシア革命(1917年)
・ドイツ革命(1918年)
・中国五四運動(1919年)
・韓国三一独立運動(1919年)
ベルサイユ条約による東欧各国の独立(1919年)

など民主主義の観点から重要視される動きが国際的に色々あり、それらと水平社との間には相互の影響があったのではないかという話です。
 なお、水平社創立の1922年前後は日本においても水平社結成以外にも

米騒動(1918年)
婦人参政権獲得を目指す新婦人協会(市川房枝*2奥むめお*3平塚らいてう*4など)の結成(1919年)
日本共産党の創立(1922年)
第二次護憲運動1924年
普通選挙法の成立(1925年)

などがあります。
 まあググって見つけた記事だと

http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/a_mow_00.html
■水平社博物館/公益財団法人奈良人権文化財
『世界記憶遺産に登録をめざす 「全国水平社創立宣言と関係資料」』
 私たちが2017年の登録をめざすのは、1922年3月3日の全国水平社創立大会で採択された「全国水平社創立宣言」とその関係資料の計11点です。
(中略)
 それは、 被差別マイノリティ自身が出した世界初の人権宣言でもあり、差別からの解放を希求する部落民を勇気づけただけではなく、在日朝鮮人をはじめ琉球弧の人びと、アイヌ民族ハンセン病回復者など国内における被差別マイノリティの自覚と運動に勇気と刺激を与えました。
 さらにこの宣言は、日本の植民地支配下にあった朝鮮の被差別マイノリティである白丁(ペクチョン)を中心として、1923年4月25日に結成された衡平社(ヒョンピョンサ)や、第二次世界大戦後におけるヨーロッパのスィンティ・ロマ*5、インドの被差別カースト(ダリッド)などの解放運動にも影響を与えました。
 水平社運動やその理念を表した全国水平社創立宣言は、アメリカの雑誌『The Nation』や、当時の朝鮮、ソ連、イギリスの新聞でも紹介され注目を浴びました。

http://www.hurights.or.jp/archives/newsinbrief-ja/section1/2016/06/mowcap20165.html
一般財団法人 アジア・太平洋人権情報センター(ヒューライツ大阪)
「水平社」と「衡平社(ヒョンピョンサ)」の連帯の記録がアジア太平洋地域ユネスコ世界記憶遺産(MOWCAP)に登録(2016年5月)
 水平社博物館(奈良県御所市)が所蔵する「水平社」と「衡平社」の連帯を決議する資料などが、2016年5月にベトナム・フエで開催された第7回アジア太平洋地域ユネスコ世界記憶遺産委員会(MOWCAP)の総会で登録されることが決まった。
 水平社博物館は、1922年に被差別部落の人々が立ち上がって結成した「全国水平社」発祥の地に1998年に開設された博物館であり、平和と人権の実現をめざして差別と闘ってきた民衆の歴史を伝えている。水平社設立の翌年1923年に、日本の植民地下の朝鮮半島で被差別民「白丁」(ペクチョン)の差別撤廃を求める「衡平社」が結成され、両組織が連帯を求め交流してきたが、今回の文書はその歴史を語るものである。
 水平社博物館は、2015年3月に、「水平社宣言とその関連資料」のユネスコ記憶遺産登録(国際登録)をめざし日本国内ユネスコ委員会に申請すると同時に、「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」の地域登録をめざしてMOWCAPに申請した。国際登録の方は選ばれなかったが、「水平社と衡平社 国境を越えた被差別民衆連帯の記録」は登録されるという快挙になった。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG25H3F_V20C16A5000000/
日経新聞「水平社と朝鮮・衡平社の交流、記憶遺産地域版に登録」
 1922年に結成され部落解放運動の原点となった「全国水平社」と、日本が植民地支配した朝鮮半島で設立された社会運動団体「衡平社」との交流を示す資料が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産アジア太平洋地域版に登録されたことが25日、分かった。
 ユネスコ国内委員会によると、アジア太平洋地域版に日本から登録されたのは初めて。
 登録申請した水平社博物館(奈良県御所市)によると、衡平社は水平社結成の翌年、被差別民「白丁」の差別撤廃を目指し、現在の韓国晋州で設立された。
 今月20日ベトナムで開かれたアジア太平洋地域委員会総会で、両団体の連携について決議された「第三回全国水平社大会協議会提出議案」や機関誌に掲載された「衡平社趣意書」など、同博物館が所有する資料5点の登録が決まった。
 ユネスコ国内委員会によると、アジア太平洋地域版の記憶遺産は1998年の創設。ほかにもアフリカなど地域版の記憶遺産がある。ユネスコの国際諮問委員会(IAC)が世界レベルの価値を認め、選定する世界記憶遺産と直接関係はない。

http://japanese.donga.com/List/3/08/27/534834/1
東亜日報「日本植民地支配期に韓日で差別と戦った団体記録、世界記憶遺産に登録」
 日本の植民地支配期、韓日両国で差別と戦った団体が交流した記録が25日、ユネスコ(国連教育科学文化機関)世界記憶遺産アジア太平洋地域版に登録された。被差別民「白丁(ペクチョン)」の身分差別撤廃を掲げて1923年に慶尚南道晋州(キョンサンナムド・チンジュ)で設立された社会運動団体「衡平社(ヒョンピョンサ)」と日本の最下層民である部落民解放運動のために1922年に設立された「水平社」の交流を記録した資料だ。
 両団体は1924年から人的交流を開始し、大会などで祝辞・祝電を送り合った。今回登録された第3回水平社大会の資料によると、1924年3月に開かれた全国大会で、同団体は、「朝鮮で差別待遇を受ける白丁という階級が衡平社を組織した。綱領が似ているので連絡したい」という内容の案件を決議した。同大会では、日本に居住する韓半島出身者に対する差別撤廃運動を支援する案件も可決された。水平社はその前年の1923年、「被差別少数者の国際連帯」を決議した。衡平社との交流もその一環だった。

なんて記事もあります。素人なので評価できませんけど、まあ、解放同盟における認識はそう言うコトなんでしょう。


■「矢田教育差別事件再考」(友常勉*6
(内容紹介)
 価値中立的な「矢田事件」表記ではなく「矢田教育差別事件*7」と書いてることで「部落解放同盟寄りなんだろう」と言うことが読む前から想像がつくし、実際読んでもその通りなのでげんなりしてしまう。
 解放同盟と解放同盟批判側(糾弾を受けた教員のほか、日本共産党や解放同盟に批判的な個人、団体*8)とで大きく言い分が違うこの問題では「事実を確定すること自体」が至難の業だし、ましてやその事実確定の結果、解放同盟を擁護するにせよ、批判するにせよ、それは学術的研究となり得るのだろうか。「解放同盟や日本共産党を支援するだけの」ただの政治論文に堕落していないと何故言える*9のだろうか。
 そのような学術的な価値が危うい、怪しい論文を「解放同盟や日本共産党の政治機関誌ならまだしも」建前は「歴史研究雑誌に」掲載するというのは無茶苦茶にも程があるだろう。
 友常論文以外のその他の論文の学術的価値について小生は評価することは無能のためできないが、少なくとも友常論文は問題がありすぎだろう。

参考

■朝田善之助(ウィキペ参照)
 戦後、部落解放全国委員会結成に参加し、同委員会京都府連合会を組織、委員長に就任。
 1965年、同和対策審議会(同対審)答申への対応に関する意見の食い違いや、社会党から参議院選挙に出馬した松本治一郎委員長の評価に関する対立から、松本委員長、田中織之進書記長ら社会党系幹部らと共産党系幹部との関係が悪化し、社会党系幹部は共産党系運動論に対置する新たなよりどころとして朝田に接近し、同年の大会運動方針案起草を彼に依頼。第20回大会は朝田ら主導の運動方針案を可決し、役員改選では殆どの共産党員を中央執行委員から解任、社会党系幹部と朝田一派が新たな主流派を形成した。
 この間の事情について、全国部落解放運動連合会(全解連大阪府連合会の創立者の一人である和島為太郎は

「答申はわしら(部落民)の問題を部落と一般というかたちでとらえている。排外主義が底に流れてんねや。それに便乗して、わしらと部落外を分裂させるために同和対策を打ち出したんや。わしは、警察がわしらを懐柔しながら、一般との分裂をはかるために肚に一物ある職務執行をしてるいうことがようわかった。自民党が(ボーガス注:極左の)暴力学生を泳がせて、反共攻撃と民主勢力の分断に利用したのは安保闘争のときやったが、これと同じ期待を政府は朝田君らに懸けてんねや。そこにわしはこの問題の謎を解く鍵がある思う」
「部落の要求をある程度受け入れながら、『解同』をいっそう右寄りなものにつくりかえていって、解放運動全体を官制のものにしようと狙てんねや」

と朝田に対する批判を述べていたという。また、北原泰作によると「共産党とさえ手を切ってくれるなら同和対策に金はいくらでも出そう」という誘いがさまざまな筋からあり、北原は断ったが、これに乗ったのが朝田だった、という。
 1967年、前年に死去した松本の後を承け、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員長に朝田が就任。
 1969年、共産党の部落問題に関する見解を集大成した形で発刊された党農民漁民部編『今日の部落問題』では、朝田の理論的主張を「部落解放同盟内の社会民主主義者による日和見主義理論」として批判、朝田ら解放同盟執行部はこれらの主張を同盟に対する誹謗中傷と看做して、同書発刊直後に開かれた第24回大会では、来賓として出席した共産党代表を紹介だけにとどめ祝辞を読ませないとする対抗措置をとった。
 大会の後間もなく発生した矢田事件で糾弾を受けた教師が、共産党の支援も受けて、解放同盟矢田支部員を刑事告訴したのを契機に共産党と解放同盟の対立が表面化、共産党に呼応する動きを見せた解放同盟員に対する統制処分を朝田が主導した。
 1971年には部落解放同盟全国大会で部落差別に関する3つのテーゼを定式化。これは朝田理論と呼ばれ、部落解放理論として永らく主導的な役割を果たした。
 しかし1971年頃から、朝田による地元京都府連の私物化と利権あさりが原因で紛争が生じ、1973年には、衆議院議員会館の玄関で部落解放同盟中央本部の反朝田派に暴行され、病院へかつぎこまれる事件が発生した。1974年には朝田を解放同盟委員長から解任する動きもあったが、参院選の思惑もからみ、もう1期だけ委員長をやらせてから引退させることになったという。
 1975年、部落解放同盟内部の派閥抗争により中央執行委員を解任され、さらに部落解放同盟京都府連合会の内紛によって部落解放同盟から排除される。部落解放同盟の内部では「あの人は自分の言うこと聞かなんだら分配しないんやから。ついでに自分の腹も肥やしたから、最終的にあの人は民主化闘争という名をもって引きずり下ろされた」といわれていたという。以後は、改良住宅家賃値上げ反対同盟を独自に結成したが、部落解放運動の主流に復帰することはできなかった。
 1983年、死去。部落解放同盟は同盟葬を執行した。
 著書に『差別と闘いつづけて』(1969年、朝日選書)がある。
■「差別者をつくるのは簡単だ」
 若いころ朝田に師事していた東上高志によると、朝田は常々「差別者をつくるのは簡単だ」と豪語していたという。東上は朝田と共に大阪の朝日新聞社まで歩いていた時、「八百八橋」の一つである「四つ橋」にさしかかり、「東上君、あれを読んでみ」と朝田に言われた。「四つ橋」と東上が答えると、朝田は「お前、今、四つ(被差別部落民の賤称)言うて差別したやないか」と非難してみせたという。
 このような強引な難癖の付け方は、矢田事件における「木下挨拶状」への糾弾の際にも応用された、と東上は述べている。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2007-01-04/2007010426_01_0.html
赤旗『崩れ出した「解同」タブー、不正事件・利権あさり、日本共産党 一貫して追及、同和予算賛成の「オール与党」』から一部引用
 「解同」の暴力・利権あさりは、一九六九年に、国の同和対策特別措置法が制定され同和利権を「解同」が独占することを狙ったことで、年々激しさを増しました。
 中学校教諭の組合役員選挙の「あいさつ状」を「差別文書」だとでっち上げて支援者を大阪の矢田市民会館に拉致し十数時間暴行を加えた矢田事件(六九年三月)、共産党大阪府議団控室乱入暴行事件(七〇年二月)、吹田・榎原一夫市長「糾弾」事件(七一年六月)などを次々に起こしました。その頂点が、一九七四年の兵庫県南但馬地方一帯で「解同」が巻き起こした集団テロ事件でした。
 同年十一月二十二日、兵庫県八鹿(ようか)高校の教職員六十人が集団下校する途中、道路上で「解同」丸尾派の暴力集団に襲われ、体育館に連れ込まれて十三時間に及ぶ集団暴行を受けました。四十六人が傷害を負い、うち二十九人が重傷で入院しました。
(中略)
 「解同」朝田派の誤った部落排外主義に反対し暴力・利権あさりを批判する正しい勢力を部落解放同盟から排除する動きが強まりました。そのたたかいのなかで部落解放同盟正常化全国連絡会を結成、その後全国部落解放運動連合会(全解連)を結成して国民融合をめざすたたかいをすすめました。全解連は、その後「全国地域人権運動総連合」に発展・改称しています。
 日本共産党は、「解同」の主張する「部落民以外はすべて差別者」とする誤った運動理論をきびしく批判するとともに、同和行政を「解同」の意のままに支配するやり方をやめるよう議会内外で追及してきました。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-03-13/02_04.html
赤旗人権擁護法案、言論表現の規制が問題、“エセ同和行為助長”と懸念も』から一部引用
 一九六九年、大阪市教組支部の役員選挙の際の「立候補あいさつ状」を「差別文書」だとして、「解同」(部落解放同盟)が暴力的糾弾を行った「矢田事件」では、刑事、民事の裁判が行われました。刑事裁判の方は、この文書が結果として差別を助長する「差別文書」だと認定*10。しかし民事裁判の方は、これは「差別文書」ではないという認定をしました。


ノモンハン事件と石井部隊(松野誠也*11
(内容紹介)
 ノモンハン事件当時、石井四郎が「ソ連軍に対抗するための細菌戦研究」の必要性を具申、その意見が採用された結果、石井部隊が当初の「防疫給水部隊」から「細菌戦という秘密任務」の性格を強めた部隊へと成長していく様が述べられている。

参考
秦郁彦『日本の細菌戦』(上):七三一部隊と石井四郎
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/731/hata1.html

731部隊(ウィキペ参照)
・1936年(昭和11年)4月23日、当時の関東軍参謀長・板垣征四郎*12によって関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月に正式発足した。
・1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部(後の関東軍防疫給水部、いわゆる731部隊、石井部隊のこと)が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、防疫部は、第6軍司令官・荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功章が贈られた。一方で、ノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際にはノモンハン事件においてソ連軍に対し細菌兵器使用を行ったことによるものであったとの見方もある(たとえば秦郁彦昭和史の謎を追う (上)』(1999年、文春文庫))。
常石敬一*13七三一部隊生物兵器犯罪の真実』(1995年、講談社現代新書)や秦郁彦昭和史の謎を追う (上)』(1999年、文春文庫)によれば、731部隊は、単に生物兵器の研究を行っていただけではなく、これを実戦で使用していた。
 常石敬一七三一部隊生物兵器犯罪の真実』(1995年、講談社現代新書)によれば731部隊に3年間勤務した鶴田兼敏は、ノモンハンでの生物戦での実体験について次のように語っている。
「8月下旬の夜、急に集められ、トラックに乗せられ真っ暗な道を現場のホルステイン河に向かった。トラックは3台で、2台にそれぞれ兵隊が10人ほど乗り、残りの1台に細菌の培養液を入れたガソリン缶を積んだ。」
 なお、中身を河に流す際、鶴田の内務班の班長だった軍曹が培養液を誤って頭から浴び、腸チフスで死亡したという。

http://j.people.com.cn/n/2015/0710/c94475-8918809.html
■人民日報『ノモンハン戦争、 731部隊による細菌作戦命令が明らかに』
 残虐な生体実験で知られる関東軍731部隊問題を研究している課題グループがこのほど、731部隊ノモンハン戦争(ノモンハン事件)における細菌戦の作戦に参加していることを突き止めた。
 中日の民間が保存している細菌戦文献・文化財を収集、整理、研究している同グループの責任者・楊彦君さんによると、1937年*147月7日、関東軍の植田謙吉司令官は、陸軍軍医大佐・石井四郎に作戦命令「関作命丙第78号」を伝え、ノモンハンにおける戦いのため、部下将校15人を隨行させ、海拉爾(ハイラル)、将軍廟方面に行かせた。
 ノモンハンにおける戦いが始まると、731部隊は、23人からなる決死隊を結成し、碇常重軍医少佐を隊長に任命。1937年*157月、決死隊は中国・モンゴル国境付近を流れる哈拉哈(ハルハ)河に細菌を散布した。
 今回公表された公文書には、ノモンハン戦争関連の公式文書も含まれている。例えば、1939年7月25日、植田司令官が板垣征四郎陸軍大臣宛てに書いた報告書があり、関東軍防疫部(つまり731部隊)、臨時第三防疫給水班、臨時第四防疫班がノモンハンにおける作戦に参加したことを詳しく説明している。
 ノモンハン戦争は、1939年5月から同年9月にかけて、日本とソビエト連邦間で発生した戦争。同戦争で、731部隊は初めて細菌戦を実施した。最終的に、関東軍の大敗で終結した。


■歴史の目「歴史総合の創設に思う」(松本通孝)
(内容紹介)
 世界史と日本史が分断化されている現状を「変革したいという問題意識」においては「歴史総合」という中教審の答申は評価できるとしながらも、「歴史総合」について産経が「自虐教育からの脱却」という特異な主張をしていることに警戒が必要だとしている(なお、筆者に寄れば保守系でも読売や日経はそうした主張を「歴史総合」に対してしていない)。
 なぜなら「産経の意思=安倍自民の意思」の疑いが濃く、そうした右翼的方向で「歴史総合」が歪められる危険性が否定できないからである。
 もちろんそうした「右翼的歪みの危険性」とは別に「どのような形で歴史総合を構築していくべきか」という問題があることも言うまでもない(と言うか本来「右翼的歪みの危険性」など考える必要は日本がまともな国ならあり得ないのだが)。筆者も「歴史総合のあるべき姿は難問でありすぐには答えが出ない」としているが今後の十分な議論が必要だろう。

参考
■産経『【偏向教育】次期学習指導要領で導入される「歴史総合」は自虐史観の呪縛を解けるのか?』
http://www.sankei.com/premium/news/160811/prm1608110012-n1.html

・歴史の流れを多角的に考えるアプローチを重視するため、「自虐史観だけに染まることはない」(大学関係者)との声も上がり、“偏向教育”の刷新につながる可能性もある。
・教科書を読む限り「なぜ南京事件が起きたのか」というプロセスに言及する記述はほとんど見当たらない。
 政府見解でも日本軍による非戦闘員の殺害や略奪行為があったことを認め、犠牲者についても「具体的な人数には諸説あり、どれが正しい数かを認定することは困難」としているが、プロセスの説明はない。
 南京事件でまず考察すべきは、事件発生の背景だ。日本軍の南京攻略が迫ると蒋介石ら政府要人のほか、市民を保護すべき責任者の南京防衛司令官*16や警察署長までもが脱出し、残された軍人や市民が混乱に陥った−という背景は無視できない。民服を着た軍人と市民との見分けがつかない中、日本軍が投降者の扱いに明確な方針を示さず現場の部隊に対応を任せていたことも考察のポイントになるだろう。
 一方、中国側が主張する犠牲者30万人説はどうか。南京には当時、住民と軍人の計30万人がいたとみられる*17が、30万人が殺されれば人がいなくなる*18。しかし、日本軍の南京攻略後にも20万人が生存していたとの指摘もあり、この点だけでも30万人説は破綻を来すことになる。
 授業時間の関係で尻切れトンボとなり、生徒の知識の定着率も低い日本と世界の近現代史分野。新設される「歴史総合」は知識の補強だけでなく、その見方についても自虐史観の呪縛を解く可能性を秘めている。

 いつもながら産経の非常識さはすさまじいですね。
 「歴史総合は多面的な見方をします→じゃあ多面的な見方として、南京事件での蒋介石や唐生智*19(当時、南京の軍司令官)の責任(軍事指導の拙劣さ)を指摘して、日本を免罪しようぜ」つうのは一寸常人には思いつかないレベルの「産経ならではの特異な考え」でしょう。勿論褒めてません。
 そんなん「犬を飼えば良かった」云々という説教強盗と同じじゃないですか。第三者ならともかく加害者がそれ言うのか。そんな事を言って中国が憤慨し、欧米諸国などが呆れる以外に何かあると思ってるのか。どんだけ常識がないのか。
 大体そんな事言っていいなら「原爆投下やソ連の対日参戦(北方領土侵攻など)については、ドイツの降伏で日本の敗北がほぼ一〇〇パー確定したのに日本が愚かにもすぐに降伏しなかったという問題点も考える必要があります、すぐに降伏すれば原爆投下やソ連参戦はなかった」「日本軍の愚かさにも着目するのが多面的な見方です」と言ってもいいでしょうが、それ言ったら産経は激怒するんじゃないか。


■書評『対華二十一カ条要求とは何だったのか(奈良岡聰智*20著、2015年、名古屋大学出版会)』(評者:笠原十九司*21
(内容紹介)
 近年、『第一次世界大戦期の中国民族運動』(2014年、汲古書院)を出版した笠原氏による同じく『第一次世界大戦期の中国民族運動』をテーマとした奈良岡本の書評。
『対華二十一カ条要求とは何だったのか』と言う問いに対する笠原氏の評価は「中国抗日運動激化のキッカケ」「日英同盟廃棄のキッカケ」というものである。
 前者については説明しなくても分かると思うので後者について簡単に説明しておく。
 袁世凱*22
1)対華二十一カ条要求が英国の中国利権を侵害する恐れがあること
2)対華二十一カ条要求を袁世凱が受諾すると反政府派の批判で袁世凱政権が崩壊しかねないこと(実際、崩壊に追い込まれるが)
を英国相手にアピール、英国の袁世凱支持を引き出していた(英国は親英国と見なした袁世凱政権の崩壊を望んでいなかった)。
 「日英同盟廃棄」を恐れる日本は英国が反対すれば、要求をあきらめるだろうとの袁世凱の読みに反し、日本は要求を「一部撤回するものの」全面的には取り下げず、結局「要求受諾→政権崩壊」がもたらされることになる。
 そうした「日本との利害の対立」が「日英同盟について維持の必要性があるか」という「英国の不信」を生み廃棄に至ったと笠原氏は見ている。
 なお、笠原氏が「対華二十一カ条要求」で重視しているのは「第5号:中国政府の顧問として日本人を雇用すること他」である(第五号は中国や欧米の反対で撤回されるが)。
 これについて笠原氏は
1)第一次日韓協約で「大蔵省主税局長の目賀田種太郎を財務顧問に、アメリカ駐日公使館顧問であったダーハム・ホワイト・スティーヴンス*23を韓国外交顧問に送り込み」、また第二次日韓協約で伊藤博文*24を韓国統監に送り込んだ「日本の成功体験」が「同じ事が中国相手にできれば御の字」という野望を生み、第五号を要求させ
2)その結果、第一次日韓協約、第二次日韓協約の結末を知る中国や欧米が「日本は中国を『第二の韓国化』したいのか」と疑念*25を抱き、日本と中国、欧米の間に不信感が醸成されたと見ている。
 また、こうした「日本人を要職に送り込み実権を握る」という傀儡方式はその後の満州国汪兆銘政権、東南アジア親日政権で採用されたと笠原氏はしている。

参考

■溥儀(ウィキペディア参照)
 関東軍の主導によって作られた満洲国の憲法上では、皇帝は国務院総理を始めとする大臣を任命することができたが、次官以下の官僚に対しては「日満議定書」により、関東軍が日本人を満洲国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていたので、関東軍の同意がなければ任免することができなかった。
 実際に、関東軍の高級将校で「御用掛」である吉岡安直や工藤忠が常に溥儀とともに行動し、その行動や発言に対し「助言」するなど、皇帝の称号こそあるにしろ、事実上関東軍の「傀儡」と言えるような状況であった。
 また、国政に関わる重要事項の決定には、皇帝の溥儀だけでなく関東軍の認証が必要であり、また満洲国の官職の約半分が日本人で占められ、建国当初は満洲国独自の軍隊や国籍法が存在しないことなど、満州国と溥儀に対する関東軍の影響力は大きかった。
 その介入はその後も増していき、1937年2月には、溥儀と関東軍の植田謙吉司令官の間で念書が交わされ、「満洲国皇帝に男子が居ない場合、日本の天皇の叡慮によりそれを定める」とされ、実際に溥儀に男子がいなかったことから、事実上溥儀の後継者は日本(関東軍)が定めることとなった。これ以降溥儀は、以前に比べて関東軍による暗殺(と溥儀の暗殺による親日本的な志向を持つ皇帝への交代)を恐れるようになったと言われている。

■鄭孝胥(ウィキペディア参照)
 初代の国務院総理として溥儀を支えたが、「我が国はいつまでも子どもではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから、半ば解任の形で辞任に追い込まれた。
 辞任後も憲兵の監視下に置かれ、建国功労金の引き出しを銀行に拒否されたり国内旅行が自由にできないなど、不遇な晩年を過ごした。

■弐キ参スケ(ウィキペディア参照)
 満州国に強い影響力を有した軍・財・官の以下の5人の実力者のこと。
東條英機*26関東軍参謀長)
星野直樹*27満州国国務院総務長官)
鮎川義介*28満州重工業開発株式会社社長)
岸信介*29満州国国務院総務庁次長)
松岡洋右*30南満州鉄道総裁)

*1:著書『アジア・太平洋戦争と全国水平社』(2008年、解放出版社)、『差別と反逆:平野小剣の生涯』(2013年、筑摩書房)など

*2:戦後、参院議員(二院クラブ

*3:戦後、主婦連合会(主婦連)初代会長

*4:戦後、日本婦人団体連合会婦団連)初代会長、世界平和アピール七人委員会委員など歴任

*5:昔はジプシーと言ってました。

*6:著書『戦後部落解放運動史』(2012年、河出書房新社)など

*7:当然ながら友常氏は例の挨拶状を差別文書扱いし、「差別文書ではない」と批判する側とは対立している。

*8:例えば解放同盟朝田執行部批判派が結成した全国部落解放運動連合会

*9:そもそも友常氏は「文責は勿論私にあるが、執筆においては解放同盟大阪府連矢田支部の資料提供を受けた」と堂々と書いてるのでそれ以前の話だと思うが。

*10:この判決については友常氏も自己の主張「差別文書説」の傍証としている。なお、刑事裁判はそれでも有罪判決をさすがに下している。

*11:著書『日本軍の毒ガス兵器』(2005年、凱風社)など

*12:関東軍参謀・石原莞爾らとともに満州事変を実行。関東軍参謀長、近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任。戦後、A級戦犯として死刑判決。

*13:著書『消えた細菌戦部隊:関東軍七三一部隊』(1993年、ちくま文庫)、『医学者たちの組織犯罪:関東軍七三一部隊』(1999年、朝日文庫)、『謀略のクロスロード:帝銀事件捜査と731部隊』(2002年、日本評論社)など

*14:原文のまま。「1939年」の誤記と思われる。

*15:原文のまま。「1939年」の誤記と思われる。

*16:唐生智のこと

*17:そもそも南京には住民、軍人会わせて三〇万人以上いたというのが通説であり産経の主張は大嘘です。これについては『二十万都市で三十万虐殺?』(http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou.html)を紹介しておきます。「多面的な見方」というのは「神武天皇実在説」「南京事件否定論」「ホロコースト否定論」などのデマの正当化じゃありません。

*18:既に指摘したように「そもそも三〇万人以上いる」ので人はいなくなりません。

*19:国共内戦終了後も中国大陸にとどまり、湖南省副省長、全国人民代表大会常務委員、全国人民政治協商会議常務委員など歴任

*20:著書『加藤高明政党政治:二大政党制への道』(2006年、山川出版社)など

*21:著書『日中全面戦争と海軍』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史』(2007年、平凡社新書)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦』(2010年、岩波書店)、『海軍の日中戦争』(2015年、平凡社)など

*22:山東巡撫、北洋通商大臣兼直隷総督(直隷省・河南省山東省の総督)、軍機大臣・外務部尚書、湖広総督(湖広省(後に湖北省湖南省)の総督)、中華民国大総統など歴任。

*23:後にスチーブンスは韓国民族活動家によって暗殺された

*24:首相、枢密院議長、貴族院議長、韓国統監など要職を歴任。元老の一人。韓国の民族活動家・安重根によって暗殺される。

*25:そのような疑念がどれほど正しいかは議論の余地があるだろうが、そのように疑われても仕方のない行為ではあるだろう。なお、「満州事変以降の日本の中国侵略」は完全に「中国を『第二の韓国化』しようとする行為」だったわけです。

*26:近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、A級戦犯として死刑判決

*27:近衛内閣企画院総裁、東条内閣書記官長を歴任。戦後、A級戦犯として終身刑判決を受けるが逆コースで釈放。その後、東京ヒルトンホテル副社長、東京急行電鉄取締役、旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任

*28:日産コンツェルン日立製作所日産自動車の前身)創始者

*29:戦前、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長、石橋内閣外相、首相を歴任

*30:近衛内閣外相。戦後、A級戦犯として裁判中に病死