新刊紹介:「歴史評論」3月号(その2:今井正『キクとイサム』、森村誠一『人間の証明』について、ほか:ネタバレあり)

 最初はhttp://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20180220/5210278609に書いていた「キクとイサム」「人間の証明」ネタが分量の関係で書けそうにないのでこちらに書くことにします。
 しかし今更ですが「今井正って偉大な社会派映画監督だったなあ*1」とか「『キクとイサム』のような事実を我々日本人は忘れてはいけないよなあ」とか思います。小生、基本的にはそんなに真面目な人間ではありませんがたまにはこういう真面目なことも考えたいとは思います。
 それはともかく、映画「砂の器」の「ハンセン病差別」もそうですが、日本の歴史は負の歴史だらけの訳です。
 そのことを考えたら産経や安倍のような「南京事件否定、河野談話否定の歴史修正主義」は実にバカバカしい。
 「なら『キクとイサム』や『砂の器』のような混血児差別、ハンセン病差別も全て無かったことにするのか。そんなことが可能なのか」て話です。まあ、産経や安倍だとためらいなく「全て無かったことにする」と言い出しかねませんが。

人間の証明:ネタバレあり】

人間の証明(ウィキペ参照)
 森村誠一の長編推理小説、およびそれを原作とした映画、テレビドラマ。
■あらすじ(1977年の映画版)
・東京・赤坂にある高層ホテルのエレベーター内で、胸部を刺されたまま乗り込んできた黒人青年ジョニー・ヘイワード(ジョー山中)が死亡した。麹町署の棟居弘一良刑事(松田優作)は、彼をホテルまで乗せたタクシー運転手の証言から、車中でジョニーが「ストウハ」という謎の言葉を発していたことを突き止める。さらにタクシーの車内からは、ジョニーが忘れたと思われるボロボロになった『西條八十詩集』が発見された。
 棟居は「ストウハ」がストローハット(麦わら帽子)を意味すると推理した。実際に事件現場であるホテルの回転ラウンジの照明が麦わら帽子状に見えるため、ジョニーがそれを見てそう発言したと解釈した。
 さらに、詩集におさめられた一編の詩に、麦わら帽子と霧積という地名が記されていたのだった。
 ジョニーがアメリカを去る際に残した「キスミー」という言葉から、群馬県霧積温泉郷を割り出した棟居が現地に向かうと、ジョニーの情報を知っているであろう中山たねという老婆が何者かに殺されていた。霧積での捜査では八杉恭子(岡田茉莉子)が戦後、進駐軍向けのバーで働いていたことが分かった。棟居は八杉がジョニー殺害の犯人だと推理し、ジョニーの本当の母親を探すためニューヨークへ飛ぶ。
 ジョニーの存在が世間に知れ渡り、過去に黒人と関係を持っていた事実が露見することを恐れた恭子はジョニーを殺害し、それらを知っている中山たねも殺していた。棟居に事の全てを告白した八杉は、霧積の崖から身を投げるのだった。

ジョー山中(1946年9月2日〜2011年8月7日)(ウィキペディア参照)
・7人兄弟の中で唯一の混血児として生まれる。
・1963年、混血児をテーマにした映画『自動車泥棒』(和田嘉訓監督、東宝)で安岡力也*2たちと共演。
・1977年、映画『人間の証明』に俳優として出演。主題歌「人間の証明のテーマ」(歌詞は西條八十の詩の英訳)も担当し、オリコン最高2位、約51万枚のヒット。


【キクとイサム】

http://blog.goo.ne.jp/wangchai/e/d62d6753704977bf088d64af9a08676c
■映画「キクとイサム」 今井正
 映画「キクとイサム」は昭和34年(1959年)の今井正監督作品、(ボーガス注:1951年の今井映画)「どっこい生きている」との名画座二本立てを見てきました。
 キネマ旬報1位作品を5本*3も監督している今井正の作品の中でも、「キクとイサム」は個人的には特に優れた作品だと思う。戦争が終結して米軍兵士が駐留する中で、日本人女性との多くのカップルが存在したという。そして混血の子供が生まれたのだ。ここでは福島の山奥の農村で祖母と暮らす黒人との混血姉弟にスポットをあてる。混血の子供への差別をクローズアップしているが、全体に流れるムードはコメディにも似たものである。水木洋子の脚本はすばらしいが、それには北林谷栄演じる祖母の存在が大きい。お見事だ。
 会津の田舎の小学校で、男まさりに遊ぶ体格のいい女の子キク(高橋恵美子)が映しだされる。彼女は農家を営む祖母のしげばあさん(北林谷栄)と弟イサム(奥の山ジョージ)と暮らしている。しげばあさんの娘でキクとイサムの母親は2人を生んだあと、すでに病気で亡くなっていて、2人はばあさんに育てられていた。しかし、体格もよく近所の悪ガキとのケンカが絶えない2人はばあさんの手に負えなくなっていた上、ばあさんは腰が悪かった。
 ある日、病院で腰の治療を受けるため、ばあさんはキクに野菜かごを背負わせて町へ出て行った。2人で野菜を売り歩いたあとで、そのまま診療所に行き院長(宮口精二)から診察をうける。キクはばあさんから貰った十円で町の行商(三井弘次)からくしを買うと楽しそうに先に帰った。混血の姉弟の面倒をみるのに苦慮しているばあさんをみて、院長はアメリカの家庭への養子縁組の世話をしている人間を知っているという話をする。
 しばらくすると、カメラを下げた見知らぬ男(滝沢修)が村へ現れ、仲間と遊んでいたイサムの写真をとった。キクはその場から逃げた。姉弟のどちらかを養子縁組するために男が現れたのだ。イサムは学校で友達から「クロンボ」とからかわれ、ケンカばかりしていた。キクはアメリカに行くことを嫌がったが、イサムはいいよと受ける。
 結局イサムはアメリカの農園主に引きとられることになる。出発の時、引き取りに来た男に連れられて、汽車に乗りこむ。しかし、そのあとイサムは急にさみしくなり必死に泣きわめく。キクは走り去る汽車の姿を追った。キク一人がばあさんと残されたのであるが。
 主役2人はこの映画のために探しだされた無名の黒人との混血の子供たちであるが、脇を固めるのはこの時代の日本映画や演劇界を支えたそうそうたるメンバーだ。滝沢修*4宮口精二三國連太郎東野英治郎*5殿山泰司*6三島雅夫多々良純*7などの男性陣に加えて荒木道子賀原夏子*8と加わると、自分が幼い頃昭和40年代のお茶の間のテレビで良く見かけた顔が揃い親しみがわく。特に女教師を演じた荒木道子はそののち(ボーガス注:1964〜1967年にTBSで放送されたホームドラマ)「ただいま11人」で大家族の母親役を演じ、ずっとお母さんのイメージが強かったが、ここではスマートでなかなかいい女ぶりだ。
1.混血の子供と水木洋子
 今井正水木洋子はこの二人を探しだすために、かなりの時間をかけたという。もともとは主役のキクの女の子はイメージが対照的な子だったのをあえて、太っちょでいかにも体格のいい黒人の父親をもつといったイメージの高橋恵美子を水木洋子が起用したという。そして、彼女らしさを出す脚本にしたという。このあたりはさすがといった感じだ。
 自分の前の勤務地であった千葉市川の高級住宅地の中に水木洋子記念館というのがあった。(ボーガス注:映画監督)谷口千吉*9とも結婚していた時期があったというが、独身だった彼女は市川市に全財産寄付したという。さすがだ。浮雲*10、山の音*11、おとうと*12などすばらしい作品を残した水木洋子が、ここではやさしい目線で2人の姉弟を追っている。しかも、北林にしゃべらせるばあさん言葉が滑稽で、近所の人たちの田舎言葉の調子もコメディのようだ。キクが芝居一座に酒を飲まされた上で、八百屋のオート三輪の上に子守している赤ん坊を置いていってそのまま近所の悪ガキとケンカするシーンもおもしろい。本当にうまい脚本だ。
2.北林谷栄*13
 この映画のころは48歳だったという。平成になってからもおばあさんを演じ続けた北林も永遠のおばあさん女優といえよう。しかも、演技作りでこの作品では前歯をぬいたという。凄いプロ魂だ。賞を軒並みさらっていったのは当然と言えよう。このほかの作品では大島渚作品「太陽の墓場」、今村昌平*14作品「にっぽん昆虫記」が印象に残る。

【「キクとイサム」について補足】

■藤原喜久男(1949年〜)(ウィキペディア参照)
 黒人米兵の父と日本人の母の元に生まれる。母と2人で神奈川県横須賀市に暮らしていた小学4年生のとき今井正の映画『キクとイサム』(1959年、大東映画、配給:松竹)において、黒人混血児役で出演(役名は川田イサム。当時の芸名は奥の山ジョージ)。
 『キクとイサム』公開後、同作の製作者だった角正太郎に引き取られ、滋賀県草津市に移住する。2010年時点でも草津市で暮らしている。
 グループ・サウンズ『田端義継とザ・マミーズ』(1968〜1969年)で活躍。1969年頃から数年、『原信夫とシャープスアンドフラッツ』でソウルフルなリズム・アンド・ブルースをこなす。
 1973年、日本テレビ開局20周年TVドラマ『水滸伝*15』の主題歌「夜明けを呼ぶもの」でボーカルを務める。1978年にはピートマック・ジュニア名義による「ルパン三世のテーマ(ヴォーカル・ヴァージョン)」をリリースした。その後、極度のアルコール依存症にかかり、芸能界から退いた。[要出典]
 長らく人前に姿を見せず、一時は死亡説も流れたが、2010年1月19日、しが県民芸術創造館での『キクとイサム』回顧上映会に登場し、『キクとイサム』で共演した高橋恵美子(イサムの姉キク役。現在、高橋エミの芸名で歌手活動をしている)に花束を渡すなど健在な姿を見せた。

藤原氏の養父・角正太郎氏については

■角正太郎(1899年〜1987年:ウィキペ参照)
 1928年(昭和3年)、京都市の映画館・キネマ倶楽部(のちの菊水映画劇場)の支配人に就任。第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)前後まで在任した。
 戦後は、1948年(昭和23年)8月、滋賀県栗太郡草津町(現在の滋賀県草津市)の映画館、文榮座(のちの草津グリーン劇場)の経営権を取得、映画館の経営を開始した。
 1958年(昭和33年)には、映画制作会社・大東興業株式会社を設立した。同社設立第1作の『キクとイサム』(監督今井正)は、翌1959年(昭和34年)3月29日に松竹の受託配給により公開されたが、この撮影にあたって、角正太郎の次男・角沙門はスタッフとして製作に参加している。また完成後には、角正太郎はイサムを演じた奥の山ジョージを草津の自宅に引き取って育てた*16
 大東興業設立第2作の『武器なき斗い』(監督山本薩夫、政治家・山本宣治を描いた)の製作を行い、同作については大東興業が自主配給を行い、1960年11月8日に公開された。
 1970年代に入ると、映画館の経営者は角正太郎の長男・角舎利が務めるようになり、角正太郎は表舞台から名前が消えている。
■映画館
 角が経営した映画館の一覧である(ボーガス注:「いわゆるシネマコンプレクスの台頭」などで結局、最終的には角氏は映画館の経営から撤退し、また角氏から経営を引き継いだ人物も最終的には閉館にせざるを得なかったようです)。
・文榮座 (滋賀県草津市)(1948年〜1956年、1993年閉館)
・上野映画劇場 (三重県上野市)(1951年〜1970年前後、1990年閉館)
・守山映画劇場 (滋賀県神崎郡守山町:現在の滋賀県守山市) (1953年〜1955年、1973年閉館)
草津映画劇場 (滋賀県草津市)(1956年〜1962年、1963年閉館)
草津第二映画劇場 (滋賀県草津市)(1956年〜1959年、2007年閉館)

を紹介しておきます。
 イサムと違い「海外」ではなく国内ですが、藤原氏も「生活苦からの脱出のためか」養子縁組したわけです。その心情はイサム同様複雑だったでしょう。
・「ルパン三世のテーマ」は小生もルパン三世ファン(?)として知ってますが、あれの歌い手が『キクとイサム』の子役だとは知りませんでした。いやー、ウィキペディアってのは便利ですね。時々、「要出典」で明らかなデマが書いてあったりするのが困りものですが。
 しかしid:Bill_McCrearyさんが
■子役というのも、時に一期一会なのかなと思う
http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/b317e9093036c38a25d588fa8be2e68b
と書いていますが「『キクとイサム』の二人の子役」も今井正にとってまさに「一期一会」でしょうねえ。
 ちなみに単なる偶然ですがid:Bill_McCrearyさんが記事で取り上げてる小栗康平*17『泥の川』、大島渚*18『少年』、伊藤智生*19『ゴンドラ』、そして小生がこの記事で取り上げてる今井正『キクとオサム』全て「素人子役」ですね。
 まあ、『キクとイサム』の場合、「題材が題材」ですから「日本人のうまい子役の顔を黒塗り」にするより「本当の黒人混血児」を持ってきた方がやはりインパクトが違うでしょう。やはり「本物には偽物はかなわない」つうことは時にあるかと思います。
【補足終わり】

http://blog.livedoor.jp/happy_shouwa_club/archives/7485920.html
■キクとイサムの前途には
 昨日(ボーガス注:記事『あらかじめ失われた映画』(http://blog.livedoor.jp/happy_shouwa_club/archives/7452658.html)で)このブログに書いた「脱出」(1972 和田嘉訓*20監督)の主演、ピート・マック・ジュニアの前の芸名は奥の山ジョージ。そう、あの名作「キクとイサム」(1959 今井正監督)の混血児姉弟の弟・イサムを演じた少年なのです。当時、奥の山ジョージは小学校4年だから「脱出」のときは22〜23歳、すっかり大人になった姿はそう言われなければ、わかりません。(僕もシネマ・ヴェーラのロビイに貼ってあったプレス・シートで知りました)「キクとイサム」のあとは弾き語りなどを経て、1969年に新宿音楽祭歌唱賞を受賞、歌手として活動していたようで、「脱出」でも彼の歌が使われます。
 姉・キクを演じた高橋恵美子もその後、歌手になり、現在も高橋エミという名で活動なさっています。独立プロの映画製作の苦闘を関係した人々の証言で綴った(ボーガス注:ドキュメンタリー映画)「薩チャン*21 正ちゃん*22*23」(2015 池田博*24監督)にも高橋さんは出演なさっており、「キクとイサム」の思い出を語っています。混血児姉弟を演じる子供を探し回った今井正監督は、はじめ可愛い女の子に決めたが、脚本の水木洋子さんが「エネルギッシュな子を頭に描いている」と反対、それで高橋さんがキク役になったのです。結果的にこれは大成功でしたね。まわりの男の子たちに虐められてもひるまない、明るいキャラクターは大柄な高橋さんにピッタリでした。
 東北の山村で二人を育てている祖母は二人の行く末を心配して、イサムをアメリカの農園主に養子に出すことにします。そして、いよいよイサムが村を去る日が来て、駅で別れるシーン。汽車の窓から「ねえちゃーん」と叫ぶイサム、遠ざかる汽車を追ってプラットホームを(大柄なので)バタバタと走るキク。この時の表情を出させるために、今井監督は高橋に「いちばん大切な人のことを考えてごらん」と話しかけ、あの日本映画史上にも残る名シーンが生まれたのです。
 高橋さん自身も米兵の父と日本人の母の間に生まれ、祖母に育てられたので映画のキクと同じような境遇です。いわば戦争が生んだ差別や偏見という重いテーマながら、ユーモラスな語り口、祖母を演じた北林谷栄さんの名演(この時48歳! 健康な歯を抜いて臨んだ)もあって深い感動を呼び、キネマ旬報1位、毎日映画コンクールブルーリボンなども総ナメしました。数々の名作を撮った今井監督も「自作の中で一番好き」と語っています。
 映画を観終えると、すっかり感情移入してしまい、キクもイサムも逞しく生きて幸せをつかんでほしいなあとその後のことまで気になってしまいます。しかし、イサムが養子としてアメリカに行くことになって、近所の人が「アメリカの人種差別はもっとひどいと聞くぞ」と反対する場面もありました。まだ公民権運動より前ですから、きっとイサムはアメリカでも辛い目にあったんじゃないかと思ってしまいます。そして、この映画から50年以上も経った今でも、白人警官による黒人への不当な扱いが報じられています。日本はといえば、最近はアスリートにも芸能人にもハーフの人が活躍しているし、キクやイサムに向けられた奇異な視線は少なくなったように思えます。しかし、まだ別の差別、偏見が渦巻いています。それはネットによって拡散したり、ヘイト・スピーチなどでもっと陰湿な感じではびこっているように思います。   

http://zilge.blogspot.jp/2008/12/59_10.html
■キクとイサム('59) 今井正
 黒人米兵との間に生まれた二人の孫と、その将来を思いやる祖母との交流を、厳しいリアリズムで描いた今井正の傑作。
 この映画の作品の質を高めたのは、丹念な取材による水木洋子の入魂の脚本と、その脚本に完璧に嵌ったキャスティング、とりわけ、祖母役を演じた北林谷栄の迫真の演技によるところが大きい。
(中略)
「おらぁ、行きてぇ。犬だって飼えるべ。大学さへえって、偉(えら)ぁなって来る」
 アメリカに行って好き放題の生活ができるくらいの気持ちでいたイサムには、養子縁組の意味が理解できなかったのである。
(中略)
 少年は自分を迎えに来た大人と共に列車に乗り込んだとき、今自分の眼の前で起こりつつある現実の持つ意味の重さを初めて知ったのである。
 「おら、行くのやだぁ!」
 列車が発車するや否や、イサムは突然叫んだ。
 「イサム、やんなったら、帰(けえ)ってこぉ!」
 祖母も、列車を追い駆けるように叫びを繋いだ。
 「戻りてぇ!戻りてぇ!戻りてぇよ、婆っちゃん!」
 「イサム!イサム!」とキク。
 「姉ちゃん!姉ちゃん!婆ちゃん!」
 姉と祖母の名を叫ぶイサムをキクは追い駆けて、プラットホームの端で立ち竦んで、嗚咽していた。
(中略)
 しかし苛酷な状況に置かれても、祖母が無理心中という妄想に全く囚われなかったこと、それが観る者を救っている。
 これはある意味で、可愛い孫たちを無理心中の道連れにしなかった、無教養だが、しかし如何なる状況下でも、限りなく地道な人生を生き抜こうとする明治女の物語である。
 混血児を取材しに来た地元記者の横暴に対して、シゲ子婆さんはキクを体を張って守ろうとした。
(中略)
 「こったに頼んでるのに、あんたたちしつこく写真撮って何するつもりだ。新聞さ出して見せ物にでもするつもりか。ガキの身にもなってみれさ。そったに写したきゃ、おらなら何ぼでも写してもらってもいい」
(中略)
 祖母シゲ子を演じた北林谷栄
 その壮絶な女優魂に驚嘆する。
(中略)
 そして、孫娘キクを演じた、実際の混血児でもある高橋恵美子。
 その見事なまでに嵌った自然な演技に、正直、今でも信じられない思いがする。
 この二人の存在と、水木洋子の秀逸な脚本が見事に化合して、ここに今井正の最高傑作が完結した。
 今、この映画を観る者が少ないのが残念でたまらない。なぜなら、混血児問題は(ボーガス注:日本の国際化により)その国籍を更に拡げつつ、今や殆ど普遍的な社会問題になっているからである。
(中略)
 本稿の最後に、本作の主人公を演じた高橋恵美子について、その生い立ちを記録したルポルタージュの中で、とても興味深いエピソードがある。
 その一文をここに紹介する。それは、彼女が自分の出生の秘密を実母から聞いた後の話である。
「だが、エミは自分の出生の秘密を利子(実母のこと)から聞かされても、落ちこんでひがみっぽくなてしまったり、ひねくれて反抗的な子供になってしまうということはなかった。いじめられてめそめそ泣いて帰って来るようなこともなかった。学校の帰りに悪童の上級生などから『オイ、クロンボ』とからかわれたりすると、背負っていたかばんを放り出して、すっとんで追いかけて行き、ポカポカお互いに殴り合ったり、取っ組み合いのけんかをした。それでも気のおさまらないときは相手の家まで押しかけ、『おばさん、お宅のお子さんはあたしのことをクロンボって言うから、ちゃんと注意しといてください。じゃあね』と言って帰って来るということもあった。
 小学校ではクラスの男の子とけんかをすると、負けん気が強く、たいていの男の子より身体も大きかったエミの方が相手を泣かせてしまう始末。すると先生に『なぜ暴力をふるったん』と叱られた。エミにすれば『向こうがけんか売ってきたからやったのに・・・』という気持ちがあるのだが、変に強情なところもあった彼女は先生に弁解するなんてことはしなかった。そのかわり腹を立て、かばんを放り出して家に帰ってしまったりした。
 先生の方としては実に扱いづらい生徒だったかもしれない。『やっぱり日本の子とは違う』という評価もあったにちがいない。しかし、エミはいやなことをくよくよ悩んだり、根に持つ子ではなかった。けんかをしても腹を立てても、終わればケロッとしたものだった。帰りがけ駄菓子屋に寄り、菓子を食べながらそこのおばさんとおしゃべりしていると、エミはすぐにいつもの陽気なエミに戻った」
(「戦争の落とし子ララバイ」、本間健彦*25著、三一書房刊)
 この文面を読めば分るように、本作の主人公であるキクは、それを演じた高橋恵美子それ自身であることが判然とするだろう。キクの「ガキ大将」ぶりは、高橋恵美子のそれと殆んど重なる強さだったのだ。
(2006年2月、10月加筆)

http://www.breast.co.jp/cgi-bin/soulflower/nakagawa/cinema/cineji.pl?phase=view&id=143_kikuToIsamu
■キクとイサム (1959年 日本)
 本作『キクとイサム』は、第二次大戦後、この日本で急激に増えた「混血」「ハーフ」の子供の受難を描いている。特にここで描かれているのは、白人(ヨーロッパ系米国人)ではなく、黒人(アフリカ系米国人)兵と日本人との間に産まれた「ハーフ」である。ただでさえ「ガイジン」なる蔑称をもってして外国人や異民族を排除する国民性。外見が誘い起こす蔑視もひときわだ。
 本作で今井正監督は、戦後まもなくの日本社会の排他的な精神風土がいかに彼ら「混血児」の心を傷つけてゆくのかを、ユーモアと愛に溢れた、冷徹なタッチで活写している。子役達ののびのびとした自然な立ち振る舞いがいい。
(中略)
 シゲは、医者からアメリカの家庭への養子縁組の話を持ちかけられ、田舎の排他的な村社会でのキクとイサムの先行きを案じ、悩むのであった。
 イサムは、学校でも秋祭りでも、友達から「クロンボ」と罵られ、やりきれない。遂に外務省からきた、アメリカの農園主に引き取られる話にも、実感のないイサムは乗り気である。
 しかし、いざ出発になると、イサムは急に不安になり、必死に泣きわめく。
 「おら、行くのヤダ! 姉ちゃーん、婆ちゃーん……」。
 キクは、号泣しながら、動き出す汽車を追い、夢中で走るのであった。引き離された姉弟
 ある日、キクが子守をしていた近所の赤ん坊が行方不明になる。差別する同級生とやりあっていた隙の出来事だ。村中大騒ぎになるも、事態の大きさを把握していないキク。シゲは、思い余った挙げ句、殴りつけ怒るのであった。
 「お前は、やっぱり尼寺さ行け!」。
 赤ん坊は発見されたものの、この一件、孤独なキクには重過ぎた。キクは、納屋の梁から縄を吊るし、首吊り自殺を試みるのだが、重過ぎる体重に縄が切れ、間一髪で助かるのであった。その拍子に、初潮を迎えたキク。
 シゲは言う。
 「お前をどこにもやんねぇ。ばあさんと一緒にいてぇっつーなら、一人前の百姓になれ」。
 そして、登校する子供達がからかっても、「年頃だからな、おら。構ってやらねえじぇ、もう」と意に介さない、胸を張り鍬を担ぐキクがいた……。
 本作のリアリティは、苛酷な差別状況に喘ぐ訳でもなく、むしろそれに屈しまいと虚勢を張る、腕白な二人の姿にこそある。暗さや惨めさなど微塵もない、明るく堂々とした二人が描かれることによって、陰惨な日本的排他性はより際立つのだ。あまりに日常的で当り前に過ぎた差別の現状は、キクとイサムに、切ない程に、一つの生き方を選択させていたのであった。明るく、たじろがず、虚勢を張ってでも「負けない」、そんな逞しい生き方である。
 昨今の日本の、差別的な難民対策や排他的なナショナリズムの隆盛をみる時、本作の問いかけは、情けないことにいまだ有効であると言わざるを得ない。隣国を悪しざまに語るテレビのワイドショー。自慰史観に凝り固まった政治家の妄言。いや、もっと草の根レベルのものか。劇中に登場する、キクとイサムを取り巻く大人達の好奇の視線、厭らしい排他的な精神のありようが、確実に、現在の日本社会の風景にも繋がってあるのだ。
(中略)
 なお、本作のシゲ婆さん役の北林谷栄。1959年の段階で、何でこんなに婆さんなんや、と思って観ていたら、なんと当時の実年齢が四十八歳! どう見ても九十過ぎには見える。「永遠の若さ」ならぬ「永遠の老い」。いまだ健在、これぞ大女優である。脱帽。
『キクとイサム』。観る者が逆に励まされるような、時代を超えた生命力溢れる名品である。必見!

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005150145.html
朝日新聞『「日本のおばあちゃん」確立 北林谷栄さんがのこしたもの』
 劇団民芸の創立メンバーでもある北林さんは、知的で写実的な演技を身につけた新劇俳優だ。その力で映画でも活躍するうちに、特別な位置を占めるようになった。
 (ボーガス注:三島由紀夫金閣寺』を映画化した)1958年の「炎上」(市川崑監督)に市川雷蔵演じる(ボーガス注:金閣寺に放火する)若い僧の母親役で出演した。映画評論家の佐藤忠男さん*26は「腹黒いところもある女を演じ、実にうまかった。新劇俳優は、こうした複雑な役を知的に分析して演じ、映画では上手な脇役として光るのが一般的。だが北林さんは違う方向へ行った」と振り返る。
 きっかけは同年の「オモニと少年」(森園忠監督)。
 「日本人の少年を大切に育てる在日朝鮮人を演じ、無条件で子供に愛情を注ぐ典型的な人間像を作った。それを続く『キクとイサム』で決定的にした」と佐藤さんは見る。
 今井正監督のこの作品(59年)での北林さんは、混血の孫を育てる老女役。数々の映画賞を受けた。
「孫を無条件でかわいがる。揺るがすことのできない、おばあさんの不動のヒューマニズム。それが確立されたのです」
 ドラマの流れとは違うペースで生き、外から干渉されない自分の世界を持つ。それが全体の調和を乱さず、むしろ安定させる。そんな北林さんの「おばあちゃん」を佐藤さんは「神話的」と評する。
 「マンネリですが、それが重要なんです。多くの人に支持され、観客に安心感を与える日本的なカリスマ性のある人間像を作った点で、渥美清の寅さんに近い。『阿弥陀堂だより』(2002年、小泉堯史監督)はその集大成。自足する老人の好ましさを演じ、絶品だった」
(中略)
 そして、こう語る。
「かつての日本映画には主役ではなくても、独自の世界を持つそんな人物の居場所がたくさんあった。それが映画の豊かさでもあったのです」

 若い頃から老け役というと小生なんかはむしろ北林氏よりは

・1970年代後半から1980年代にかけ、市毛良枝との名コンビで親しまれ、人気になったフジテレビ「ライオン奥様劇場」の『嫁姑』シリーズ(1977〜1984年)を始めとし、クセのある姑・祖母役で出演して「姑役女優」として広い世代に知名度を高めた。
・フジテレビドラマ『花嫁衣裳は誰が着る』(1986年)で演じた酒田スエ役は、実際には2歳年上の俳優織本順吉(1927年生まれ)が演じた酒田兵衛の母親役であった。(ウィキペディア参照)

という「初井言栄氏(1929年生まれ)」の方がなじみがありますね。

http://www.geocities.jp/taejeon1958/kaiho/kaiho-30b.htm
■「オモニと少年」と教育映画
 佐藤忠男先生の紹介を『韓国映画入門』*27(凱風社)から引用してみよう。

 一九五八年に森園忠監督はじめ主として劇団民芸の人々によって、《オモニと少年》という教育映画が作られている。
 在日朝鮮人のお婆さん(北林谷栄)と、日本人の少年の愛情の物語である。
 貧しい炭坑地帯の町で、ひとりの日本人が死んで、小学生の息子が孤児になる。親戚も分からず、施設にあずけようと先生や近所の人が相談するが、隣の在日朝鮮人のひとり暮らしのお婆さんが少年を引きとると言う。近所には在日朝鮮人が多いが、みんなお婆さんに反対である。子どもがほしければ日本人の子などでなく朝鮮人の子を引きとればいいと言うのである。しかしお婆さんは、この子は自分の死んだ子に似ていると言う。彼女は戦争中、日本に徴用された夫を追って幼い子どもと日本にやってきた。しかしすでに夫は事故で死んでおり、やむを得ず住みついて働いているうちに子どもも事故で死んだ。以来彼女はひとり暮らしである。お婆さんと少年は仲よく一緒に暮らす。少年が学校で、ニンニク臭いとか、日本人のくせに朝鮮人になった、などと言ってからかわれると、お婆さんはそんなことを言った子たちの親に抗議にいく。親たちは反省し、子どもも態度を改める。少年の叔父が東京にいることが分かり、少年を引きとると言う。お婆さんは悲しいが、あきらめる。修学旅行で東京に行った時、先生は少年を叔父に会わせるが、少年はやっぱりお婆さんと一緒に暮らしたいと言って帰ってくる。
 この作品は中編の教育映画であって学校や社会教育などの場で上映されたものである。とくに芸術的に水準が高いわけでもなく、広く見られて評判になったというわけでもないけれども、在日朝鮮人を主人公とし、差別と偏見の打破を訴えた作品であったという点で画期的なものだった。

 教育映画ということで芸術的な評価は近くないが、視点は画期的ととらえている。
 続いて、法政大教授の高柳俊男先生の解説を、『映像にみる在日朝鮮人』(アリラン文化講座第4集)(文化センターアリラン)(1997)から、引用してみよう。

 1958年に森園忠監督によって『オモニと少年』が作られます。これは常磐炭坑を舞台に、身寄りのなくなった日本人の少年を朝鮮人のオモニが実の子のように育て上げるという、ヒューマニズムに満ちた作品です。朝鮮人の母に育てられ、そのリヤカー引きなども手伝っている少年を、学校の子供たちはバカにしますが、オモニがその子の家に乗り込み親に抗議して反省させる場面なども含まれています。教育映画ですし、べつに広く上映されて話題を呼んだということもないようですが、在日朝鮮人を描いた日本の映画史上、やはり欠かすことのできない作品だと思います。
 オモニ(というより、実際にはハルモニ=おばあさんのように見えますが)を北林谷栄が演じているほか、劇団民芸のメンバーが多数登場しています。
 〔中略〕
 これらの作品には、いくつかの共通する要素が見られます。
 あえて箇条書きにすれば、①貧しさを媒介とした日朝両人民の連帯、②日本社会の朝鮮人差別の描写とその克服、③左翼=社会派の監督の存在、といったところでしょうか。そして帰国事業開始以降の作品には、④として北朝鮮への期待や高い評価が窺われます。つまり、この時期に数多く作られた作品の底流には、朝鮮人は日本社会の底辺で貧困と差別に喘ぎながらも、たくましく健気に生きているという在日朝鮮人像があり、またそれに人間的共感を寄せる良心的日本人の存在が描かれています。その点で先に詳しく述べたような、この時代の流れに沿う作品作りとも言えるわけです。

*1:混血児差別を取り上げた『キクとイサム』(1959年)のほかにも、沖縄戦を描いた『ひめゆりの塔』(1953年→1982年リメイク版)、えん罪事件・八海事件を取り上げた『真昼の暗黒』(1956年)、部落差別を取り上げた『橋のない川 第一部、第二部』(1969年、1970年)などがあります。

*2:俳優、歌手。イタリア人の父と日本人の母の間にジェノバで生まれる。

*3:具体的には『また逢う日まで』(1950年)、『にごりえ』(1953年)、『真昼の暗黒』(1956年)、『米』(1957年)、『キクとイサム』(1959年)。またキネマ旬報1位ではないがベストテン入りしたものとしては『青い山脈』(1949年、2位。ちなみにこのときの1位は小津安二郎『晩春』)がある(ウィキペディアキネマ旬報」参照)。

*4:宇野重吉らと劇団民藝を創設して代表を務めた。代表作に『炎の人』『セールスマンの死』『オットーと呼ばれる日本人』などがある。2000年(平成12年)6月22日、肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。享年93歳

*5:1969年(昭和44年)TBS系列の時代劇『水戸黄門』で主役の徳川光圀を、第1部から第13部まで足掛け14年、全381回にわたって演じ、彼の代表作の一つとなった。1994年9月8日、自宅で心不全の為死去。享年86歳。

*6:著書『三文役者のニッポンひとり旅』、『三文役者の無責任放言録』(2000年、ちくま文庫)など。1989年(平成元年)4月30日に肝臓がんで死去。享年73歳

*7:名脇役として活躍、1956年(昭和31年)には『あなた買います』『鶴八鶴次郎』などの演技で第7回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞している。日朝文化交流協会の副理事長を務めていたことがあり、『資料・朝鮮民主主義人民共和国』(1991年)の冒頭には金丸信自民党副総裁などと共に、推薦の言葉を寄せている。2006年(平成18年)9月30日、肺機能不全のため東京都内の病院で死去。享年89歳(ウィキペディア多々良純』参照)。

*8:1963年(昭和38年)、いわゆる「喜びの琴事件」をきっかけに文学座を脱退、翌1964年(昭和39年)にグループNLTを創立。『サド侯爵夫人』を上演して成功を収めるが、「三島作品の上演に力を入れたい」三島由紀夫中村伸郎南美江らが「海外作品の上演に力を入れたい」主宰・賀川との対立からグループNLTを脱退し劇団浪曼劇場を結成したため、1968年(昭和43年)に新生劇団NLTの主宰となり、フランス喜劇の上演に意欲を燃やした。1991年2月20日、卵巣癌のため死去、70歳(ウィキペディア賀原夏子』参照)

*9:「芸術の黒澤(明)、娯楽の谷口」と謳われて、東宝ではアクション路線を担当した。1975年の『アサンテ サーナ』を最後に監督作品はなく、最後まで表立った活動は見られなかった。2007年10月29日、誤嚥性肺炎のため死去。享年95歳。私生活では3度の結婚を経験。脚本家の水木洋子と1938年12月に結婚したが、翌年にスピード離婚した。そして1949年に初監督作品『銀嶺の果て』(1947年)の撮影現場で知り合った当時20才の清純派スターの若山セツ子と電撃結婚をしたが、1956年に若手女優・八千草薫と不倫関係になり若山と離婚した。谷口に捨てられた若山は、精神不安定になり女優生命を縮めることになった。この不倫スキャンダルが祟り、谷口自身も映画監督として3年近く干されてしまった。1957年に3度目の妻として八千草を迎え2007年の死去まで連れ添った。

*10:1955年の東宝映画(原作・林芙美子、脚本・水木洋子、監督・成瀬巳喜男)。1955年度キネマ旬報ベストテン第1位、監督賞、主演女優賞、主演男優賞など受賞。

*11:1954年の東宝映画(原作・川端康成、脚本・水木洋子、監督・成瀬巳喜男)。

*12:1960年の大映映画(原作・幸田文、脚本・水木洋子、監督・市川崑)。

*13:1959年の『キクとイサム』では混血児の孫を育てる祖母を演じ、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。若い頃から老け役が多く、30代後半で、既に「老女役は北林」という評判を獲得し、日本を代表するおばあさん役者として広く知られた。2002年公開の『阿弥陀堂だより』では、既に脚が悪くなり、歩きも覚束ない状態だったが、主演を務めたのが劇団民芸創設時からの盟友だった故・宇野重吉の息子寺尾聰であることから出演を快諾し、阿弥陀堂を守る老女を演じ、日本アカデミー賞・最優秀助演女優賞を受賞した。2010年4月27日、肺炎のため東京都世田谷区の病院で死去。享年98歳(ウィキペディア北林谷栄』参照)

*14:1983年に『楢山節考』を発表。同作はカンヌ国際映画祭の最高賞(パルム・ドール)を受賞。1997年に『うなぎ』を発表し、2度目のカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞。2006年5月30日、転移性肝腫瘍のため東京都渋谷区の病院で79歳で死去(ウィキペディア今村昌平』参照)。

*15:水滸伝を題材にした横山光輝の漫画作品を原案としている。

*16:角正太郎氏が藤原氏を養子とした件については■「キクとイサム」公開から50年、映画は人権を考える身近なツール(http://www.pref.shiga.lg.jp/feature/10_11/feature02/index.html)を紹介しておきます。

*17:1981年に、宮本輝原作による処女作『泥の河』を発表。キネマ旬報ベスト・テン第1位に選出され、第5回日本アカデミー賞で最優秀監督賞を受賞した。国外でもモスクワ国際映画祭銀賞を受賞し、第54回アカデミー賞では外国語映画賞にノミネートされた。1984年には、李恢成原作の『伽倻子(かやこ)のために』を発表。フランスのジョルジュ・サドゥール賞を日本人として初めて受賞した。1990年、島尾敏雄原作の『死の棘』を発表。島尾は大島渚篠田正浩からの映画化の依頼を頑なに拒否していたが、『泥の河』を賞賛し、小栗には映画化を認めた。1990年の第43回カンヌ国際映画祭審査員グランプリ国際映画批評家連盟賞を受賞した。1996年、初のオリジナル脚本による『眠る男』を発表。同作は第47回ベルリン国際映画祭で芸術映画連盟賞を、第20回モントリオール世界映画祭では審査員特別大賞を受賞した(ウィキペディア小栗康平』参照)。

*18:1960年、安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年に松竹を退社。大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。1962年の映画『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げる。1963年の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。1971年に『儀式』を発表。キネマ旬報ベストテン第1位に選出された。1976年、阿部定事件(1936年)を題材にした『愛のコリーダ』を発表。同作はシカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって大幅な修正を受けた。また、1979年に宣伝用スチル写真を掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴されたが、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。1978年に『愛の亡霊』を発表し、第32回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。1996年1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に脳出血に見舞われた。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年に『御法度』を完成させた。2013年1月15日、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去。享年80歳(ウィキペ『大島渚』参照)。

*19:1989年、『ゴンドラ』制作時の借金で悩んでいた際、AV(アダルトビデオ)メーカーを紹介され、「好きに撮っていい」と言われたことを切っ掛けにTOHJIRO(トウジロウ)名義でAV監督を始めるようになる。2001年4月、アダルトビデオメーカー「ドグマ」を設立。2014年3月、森崎東監督作品『黒木太郎の愛と冒険』上映イベントのトークショーに体調不良で参加出来なくなった森崎の代わりに映画作成に関わった関係者としてゲスト出演した際、TOHJIRO本人に会うことを目的に体調不良を押して上映イベントに来た森崎から「ゴンドラ」以後、二作目の映画を撮らないことを叱咤される。2017年現在、二作目の一般映画を制作予定(ウィキペディア『TOHJIRO』参照)。

*20:1935年10月16日〜2012年7月12日。映画監督。代表作『ドリフターズですよ!前進前進また前進』(1967年)、『ザ・タイガース 世界はボクらを待っている』、『ドリフターズですよ!冒険冒険また冒険』、『コント55号 世紀の大弱点』(1968年)、『ドリフターズですよ!全員突撃』(1969年)、『銭ゲバ』(1970年、ジョージ秋山原作)。1972年(昭和47年)には、ピート・マック・ジュニアを主演に『脱出』(原作:西村京太郎)を監督するが、内容が浅間山荘事件と似ているということだけの理由で同作を公開しないと東宝が決定してしまう。間もなく当時の映画界に和田はキッパリと別れを告げ、東宝を退社、ソニーに入社。1985年のつくば万博のソニー・パビリオンであるジャンボトロンでは総指揮を務めた(ウィキペディア和田嘉訓』参照)。

*21:山本薩夫監督のこと

*22:今井正監督のこと

*23:薩チャン正ちゃんというタイトルだがhttp://culture.loadshow.jp/topics/satchan-shouchan/によれば副題は「戦後民主的独立プロ奮闘記」で新藤兼人亀井文夫関川秀雄家城巳代治監督も取り上げられているとのこと。

*24:監督作品として、特高警察による取調べ中に拷問死したプロレタリア作家 小林多喜二を描いた長編記録映画「時代を撃て 多喜二」(2005年)、2003年の鹿児島県警察による違法捜査事件(志布志事件)を扱った日弁連制作の短編映画「つくられる自白:志布志の悲劇」(2006年)、足尾銅山鉱毒事件を告発した田中正造の生涯を綴った「赤貧洗うがごとき:田中正造と野に叫ぶ人々」(2006年)等

*25:著書『戦争の落とし子ララバイ:映画「キクとイサム」のヒロイン・高橋エミの戦後50年』(1995年、三一書房)、『「イチョウ精子発見」の検証:平瀬作五郎の生涯』(2004年、新泉社)、『高田渡と父・豊の「生活の柄」』(2009年、社会評論社)など

*26:著書『みんなの寅さん:「男はつらいよ」の世界』(1992年、朝日文庫)、『完本 小津安二郎の芸術』(2000年、朝日文庫)、『映画の真実:スクリーンは何を映してきたか』(2001年、中公新書)、『伊丹万作「演技指導論草案」精読』、『黒澤明作品解題』(2002年、岩波現代文庫)、『キネマと砲聲:日中映画前史』、『長谷川伸論:義理人情とはなにか』(2004年、岩波現代文庫)、『溝口健二の世界』(2006年、平凡社ライブラリー)など

*27:1990年刊行