今日の産経ニュース(2019年4月30日分)

ベネズエラでクーデターか グアイド氏が蜂起呼びかけ - 産経ニュース
 いかにマドロ*1政権が独裁的とは言えこれは「倫理的にも功利的にも」容認できる話ではないでしょう。
 アフガンやシリアのような内戦状態になって収拾がつかなくなる危険性があります。


【象徴 次代へ】継承のかたち(1) 新たな橋渡される旅 自然体のご交流「国民の中に」 - 産経ニュース

 昭和58年、皇太子さまが英国のオックスフォード大に留学される前、日本近代史が専門の元宮内庁参与、三谷太一郎氏*2(82)が留学準備の進講を行う機会があった。
 「どういう講義が望ましいでしょう」。
 三谷氏の問いに天皇陛下はこう話された。
 「なぜ日本は戦争に入っていったのか。そこをちゃんと講義してもらいたい」。
 三谷氏は、陛下の強いご意志を感じた。
 陛下はこのころ、記者会見の場でも、先の大戦について「浩宮(ひろのみや=皇太子さま)にとっては本当に過去の歴史」「やはり身近に感じないということがあると思います」と吐露されていた。

 ちゃんと講義したら「昭和天皇の戦争責任」に確実に触れることになるんですが、そんなことができたんですかね?
 そしていっそのことそれなら、「昭和天皇の戦争責任」をライフワークとする

山田朗氏(明治大学教授)
著書
昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版
大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社
昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房
昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)など

あたりでも講師に呼べばいいのに、つう気はします。


両陛下のご発言(上)国民と共に歩む皇室(1/6ページ) - 産経ニュース

陛下
「日本とフィリピンの関係は今まで必ずしも良いとはいえなかったが、最近非常に良くなったと聞いています。今度の訪問を機会に、両国の関係を、なおも良くできるなら幸いです」(37年11月、フィリピンご訪問を前に)

 いくら現天皇(当時は皇太子)の言葉とは言え産経も良くこんな言葉を平気で紹介できるもんだと呆れます。なんで「日本とフィリピンの関係は今まで必ずしも良いとはいえなかった」のか。それは「侵略したから」でしょう。この天皇発言は常日頃の産経主張「大東亜戦争(太平洋戦争)はアジア解放の戦争」に反するのですが。

陛下
「明治以降、(皇室が)政治に関わりを持たれたこともあったが、本来は政治から中立的で、それらを越えたものであり、今後もそうあらねばならないと思っています」(47年12月、誕生日を前にされて)

 「関わりを持った」つうよりは「最高権力者」ですね。そして「明治以前も建前は最高権力者」です。単に「公家や武家によって実権を奪われていた」にすぎないわけです。だからこそ「天皇が政治の実権を取り戻す運動」として明治維新が起こったわけです(実際には天皇を口実にした薩長の『倒幕=軍事クーデター』に過ぎないんじゃないかつう話は起きます。建前は「天皇が政治の実権を取り戻す運動」のわけです)。
 「政治から中立になった」のは戦後、「象徴になったから」です。まあ、彼としてもいろいろ立場があるのでしょうが、ここでの発言のうち「元々中立だった」は客観的に見れば間違いです。もちろん「今後は中立であらねばならない」つうのは全く正論ですが。しかしこういう発言を「たとえ建前でもする彼」と平気で沖縄メッセージとかしちゃう父親とではその違いは明白でしょう。
 もちろん「皇室外交(例:天皇訪中)は政治的ではないのか」などといった批判はあり得ますが、少なくとも彼は昭和天皇ほど「天皇の政治的中立性」に無頓着ではありません。だから例の米長の発言はうまくかわす。下手なこと言うと、「天皇の政治的中立性」にもろに抵触するからです。澤藤統一郎氏などが批判する退位表明なんかは確かに「政治的にかなりデリケートです」がアレも内々に安倍に話をしていたのに、安倍が無視し続けるから、我慢の限界が来て、表明したらしいし「憲法に反する行為をする気はない」「体力の限界だ」つう趣旨の言い訳をしているのでそういう意味では「政治的中立性」に彼なりに気は遣ってるわけです。

陛下
「皇室の伝統を見ると、『武』ではなく、常に学問でした。軍服の天皇は少ないのです」(52年8月、軽井沢で)

 これまた「天皇は明治以前も建前は軍最高司令官」です(ある時点から公家や武家に実権を奪われて実質的に軍最高司令官とは呼べないでしょうが)。まあ、彼としてもいろいろ立場があるのでしょうが、ここでの発言のうち「皇室の伝統は武(軍事)ではなく文(文化・学芸)」は客観的に見れば間違いだと思います。「文武両道に秀でた存在=天皇」が一応の建前でしょう。ただし、「武家天皇から政治の実権を奪うこと」によって武家にとっては「天皇に軍事活動などされることは後醍醐天皇のような倒幕をされかねず迷惑」でしかなく、結果的に「武人としての性格」が天皇から薄れたにすぎないでしょう。
 もちろん今後「軍事権限」など天皇保有すべきでないのは当然ですが。なお、彼のハゼ研究が「単なるパフォーマンス」とは全く思いません。ただし「好きだからやってる」とのみ思うのもナイーブでしょう。
 明らかに

皇室の伝統を見ると、『武』ではなく、常に学問でした。軍服の天皇は少ないのです

という「皇室は伝統的に平和なんだ」つうアピールの思いも当然あるでしょう。


両陛下のご発言(下)貫かれた陛下の思い(6/6ページ) - 産経ニュース

皇后さま
先の大戦のしこりの残るオランダへの旅は、私にとり難しい旅でした。無事に訪問を終えることのできた今、この旅が陛下とオランダ女王陛下との間の40年近くにわたるご友情と、今回の訪問のため女王陛下が払ってくださったさまざまなご努力、そして双方の国の人々が、国家間で、個人間で、永年真剣に払ってきた努力の成果に、どれほど力強く支えられていたかをしみじみと思います」(12年10月、誕生日の文書ご回答)

 昭和天皇訪問時に昭和天皇に反感を持つ「元オランダ軍兵士と思われる人間」によって、お召し自動車に卵や魔法瓶が投げつけられたこと、現天皇夫妻訪問時に「魔法瓶投げつけ事件の再現」を恐れる外務省がオランダ政府と事前調整を密にしたらしいことを知っていると重みのある皇后の言葉ではあります。

皇后さま
「小泉総理の北朝鮮訪問により、一連の拉致事件に関し、初めて真相の一部が報道され、驚きと悲しみとともに、無念さを覚えます。なぜ私たち皆が、自分たち共同社会の出来事として、この人々の不在をもっと強く意識し続けることができなかったかとの思いを消すことができません」(14年10月、誕生日の文書ご回答)

 前も書きましたけどそんなもんは意識できませんよ。外形上「通常の失踪者」でしかないですからね。つうか「坂本弁護士一家とか後に犯罪被害者だと分かった失踪者は他も居るのに何でそこまで拉致被害者にこだわるの?」感がありますね。まあ悪意はないのでしょうが、救う会や家族会に政治的に悪用されるだけかと思いますので違和感を感じますね。

陛下
「沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです」(15年12月、誕生日ご会見)

 つまりは「島津・薩摩藩琉球(沖縄)統治は酷かった」と事実上認めてるわけで興味深いですね。まあ確かにそれは一般的認識ですが。

 陛下
「強制になるということでないことが望ましいですね」(16年10月、秋の園遊会棋士で東京都教育委員会委員だった米長邦雄さんが「日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事です」と述べたのに対し)

 紹介しないわけにも行かないのでしょうが、産経もよくもまあ紹介できるもんです。内心では天皇が米長への支持表明などせずに、話をかわしたことに腹を立ててるでしょうに。

陛下
「(大震災で)貴国の軍人が参加した『トモダチ作戦』をはじめ、多くの人々が行った支援活動は物のない厳しい環境にあった被災者にとり、大きな支えとなりました」(26年4月、米国のオバマ大統領を迎えられた宮中晩餐会

 まあどうしても彼が立場上「政治から離れられないこと」を示してるかと思います。トモダチ作戦については

検証 米軍「トモダチ作戦」/最大2万人動員 司令部一体化/同盟「深化」、普天間基地「移設」の“追い風”に
 日米両政府は米軍による東日本大震災支援の「トモダチ作戦」を利用して、日米同盟「深化」や沖縄・米軍普天間基地「移設」を推進しようとしています。

という批判があることを考えれば彼は「トモダチ作戦」という具体名を出すべきではなかったでしょう。ただ彼の立場上「政府の意向を無視するわけにも行かない」つう面もあるわけです。


日本海呼称、韓国が「東海」セミナーの資料提出 日本は反論 - 産経ニュース
 正直「併記でええやん」としか思いませんね。また、仮に「単独表記主張」が正しいにしても「慰安婦問題での安倍政権のデマ主張」によって韓国の対日感情も、日本に対する国際的評価もがた落ちしています。そして「国際的評価はひとまず置くにしても」、慰安婦以外にも「竹島」「徴用工」「レーダー照射問題」「食品禁輸問題を巡る争い」などで韓国側の対日感情は最悪です。仮に正論だとしても、うかつに「単独記載ガー」をやらかしても相手の反感を買うだけなのですが、残念ながら、そういう配慮は安倍にはないでしょうね。「安倍*3が首相でなければ」と思わずには居られません。石破*4元幹事長でも石原*5元幹事長でも岸田*6政調会長でも他の誰でもおそらく安倍よりはマシでしょう。


陛下、海外36カ国で親善増進 日本人移住者や子孫たちをねぎらわれ - 産経ニュース

 天皇の外国ご訪問は、相手国の招待に基づき政府が決める。天皇陛下は即位後、平成3年のタイ、マレーシア、インドネシアの3カ国歴訪から、29年のベトナム、タイ訪問まで、20回にわたって計36カ国に足を運ばれた。昭和天皇の外国訪問は戦後2回で、欧州と米国の計8カ国だった。即位後初のご訪問は、昭和天皇が訪れなかった東南アジアの3カ国。翌4年には歴代の天皇で初めて中国を訪問された。

 昭和天皇と現天皇の違いがすごくわかりやすいですね。昭和天皇の時代は「欧米しか行ってない」。昭和天皇にとって東南アジアや中国なんかどうでもよかったわけです。
 一方現天皇は「タイ、マレーシア、インドネシア」「中国」「ベトナム、タイ」に行くわけです。まあ、下手に「戦争の当事者」昭和天皇が中国や東南アジアなんか行くと、地元民の反日感情が爆発して何が起こるか分からないつう問題もあったでしょうが。その点「直接の当事者ではない現天皇」なら当たりも柔らかいわけです。

 欧州では先の大戦にまつわる反日感情が根強い国もあった。10年の英国では無名戦士の墓に、12年のオランダでは戦没者記念碑にご供花。

 「戦後、反日なのは中韓だけ」などと日頃、放言する産経ですがまさに「問うに落ちず語るに落ちています」。産経はここで「英国やオランダの元・対日戦争従軍兵士などの反日感情に配慮して戦没者の墓参」と言う趣旨のことをはっきり書いています。

【参考:東南アジア訪問時の天皇の挨拶:一部引用】

天皇皇后両陛下 東南アジア諸国ご訪問時のおことば - 宮内庁
 日本は,先の誠に不幸な戦争の惨禍を再び繰り返すことのないよう平和国家として生きることを決意し,この新たな決意の上に立って,戦後一貫して東南アジア諸国との新たな友好関係を築くよう努力してきました。

天皇皇后両陛下 シンガポール・タイご訪問(マレーシアお立ち寄り)時のおことば - 宮内庁
 私どもは,それに先立つ先の大戦に際し,貴国においても,尊い命を失い,様々な苦難を受けた人々のあったことを忘れることはできません。

天皇皇后両陛下 フィリピンご訪問時のおことば - 宮内庁
平成28年1月26日(火):フィリピンご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港
 フィリピンでは,先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き,この度の訪問を果たしていきたいと思っています。
平成28年1月27日(水):フィリピン大統領閣下主催晩餐会における天皇陛下のご答辞(大統領府)
 昨年私どもは,先の大戦が終わって70年の年を迎えました。この戦争においては,貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ,このことにより貴国の多くの人が命を失い,傷つきました。このことは,私ども日本人が決して忘れてはならないことであり,この度の訪問においても,私どもはこのことを深く心に置き,旅の日々を過ごすつもりでいます。

 必要十分ではないにせよ、簡単にあの戦争について触れられていますがなぜかベトナム訪問では

天皇皇后両陛下 ベトナムご訪問時(タイお立ち寄り)のおことば - 宮内庁
 我が国の鎖国政策により,貴国と我が国の交流は途絶えましたが,20世紀初頭には,「東遊(ドンズー)運動*7」の下,約200名の貴国の青年たちが我が国に留学していたこともありました。
 1973年*8に日越両国の外交関係が樹立されてから既に40余年,その間,両国の交流はますます拡大し,現在我が国には,約18万人のベトナム人が留学生,技能実習生などとして滞在しています。その中には,将来我が国で看護師,介護福祉士として活躍することを目指して,病院や福祉施設で働きながら研修をしている約500名の人たちもあります。

として太平洋戦争についての言及がすっぽり抜けています。「何だ?(戦争加害を認めたくない安倍のせい?。それともベトナムだけ共産国だから?)」と首をひねるところです。なお、ベトナム戦争について触れてないのは予想の範囲内です。


【参考:オランダの反日感情

卓球/ 卓球の暴君からピンポン外交官へ | 黙々と-part4
 荻村*9の最初の国際関係への貢献は、オランダのユトレヒトで開催された1995年の世界選手権の時であった。第二次世界大戦の後、日本は国際的なイベントではいつもあざけりの的となっており、人種差別主義者たちにののしられていた。
 戦争が終わった後も、各国の国民感情はおさまってはおらず、ヨーロッパの日本大使館にしばしば卵がなげつけられたり、日の丸が引きちぎられたりしていた。1955年のオランダも同じ状況であった。しかし、荻村とチームメートが世界選手権で見せた「あるおこない」はこのような傷口を癒すのにはかりしれない貢献をした。
 『1955年のユトレヒトの世界選手権で、日本はハンガリーの選手を受け止め救ったのです。』と織部は言う。
 『打球が日本ベンチの奥深く飛んできて、ハンガリーの選手は打ち返そうと(前をむいたまま)後退したのですが、(フェンスにぶつかり)頭から落ちてきました。荻村と田中は2人ともベンチからダイビングして、落ちてくる選手の下に倒れ込んで、ハンガリー選手のクッションになりました。それまで会場のすべての観客が日本の敵となっていて、日本選手におおきなブーイングを浴びせていたのですが、その出来事の後は、体育館の雰囲気ががらりと変わりました。』
 『日本の選手団が帰朝したときに、時の総理大臣、鳩山一郎に報告に行きました。鳩山首相は選手団にこういいました。
「あなたたちは大変良い成績を収めてきた(田中が男子シングルスチャンピオンとなり、日本は男子団体のタイトルを獲得した)けれど、それはあなたたちが成し遂げたことのほんの一部にすぎないのです。あなたたちがユトレヒトでみせた行為で、ヨーロッパの人々と日本の関係がどれほど改善されたか、それはとてもいいようがないのですよ。」』
 その日以来、卵が投げつけられることや日の丸がやぶられることはほとんどなくなったのである。

http://zip2000.server-shared.com/ogimura.html
 彼は1954年、日本代表チームの主将としてロンドンに出発しました。
 イギリスは第ニ次世界大戦で日本から大きな被害を受けていたことから、反日感情が強く、試合会場でのブーイングや明らかな判定の不平等が目立ったといいます。
<世界選手権ユトレヒト大会1955年>
 オランダでのこの大会でも日本チームへのブーイングは続いていました。インドネシアなど南太平洋の植民地をオランダは日本軍に奪われ、多くの兵士が殺されただけにオランダ人の反日感情は激しいものがありました。ただし、この大会でひとつの事件が起き、それがその後の荻村の人生に大きな影響を与えることになりました。
 ハンガリー対日本の試合で、右手に障害をもつセペシという選手がボールを追って、日本チームのベンチに突っ込んでしまいます。その時、日本の選手たちは身をよけるのではなく、あえてセペシ選手の下敷きになり彼が怪我をしないように対応したのです。
 この場面でオランダ人の観客は日本チームの行為に大きな拍手を送り、翌日の新聞も大きく取り上げて、大きな話題となりました。この後、大会期間中の日本チームへのブーイングは明らかに減っていったといいます。帰国後にその事実を知った荻村は、後にこう記しています。
「”スポーツ外交”というか、”民間外交”の果たす役割が大きなものであること、自分たちもその役割をになっているのだということを、心にしみて感じたのはこのときです。卓球を続けることに、またもう一つの生きがいをおぼえたのでした」

【歴史を作った卓球レジェンド】Mr.TABLE TENNIS荻村伊智朗 #2ピンポン外交編 | 卓球メディア|Rallys(ラリーズ)
 荻村が、後に「ピンポン外交官」と呼ばれる程、卓球を通じた国際貢献をするようになったきっかけのエピソードがいくつかある。
 1つは、1955年のオランダ・ユトレヒトで行われた世界選手権の出来事である。日本選手団が外国人選手を助けるファインプレーをしたことがきっかけでオランダの対日感情が大きく改善されたのだった。
 戦前、日本はオランダが持っていたアジアの植民地を奪った為、戦後のオランダの対日感情はそれまで非常に悪かった。そのため、日本選手は試合中至る所でブーイングや嫌がらせにあってきた。
 ところが、大会中にハンガリーの選手が転倒する際に日本選手団がとっさにかばったことがきっかけで、日本選手団の評判が良くなり、対日感情も改善されたというのだ。
 そのハンガリーの選手は、小児まひがあり、かばい手が利かないため、頭から転倒すると大けがをしてしまう。そこで日本の選手がとっさに転倒をかばったことで、大けがをせずに済んだ。
 この出来事をきっかけに、急に現地メディアの論調が変わったのだと言う。日本大使館に対して連日ぶつけられていた投石や卵、ケチャップなどのブーイングが無くなった。当時の鳩山(ボーガス注:一郎)首相は試合の結果よりも対日感情が改善されたことを日本選手団に感謝した。
 ちょうど選手団の一員であった荻村は、この出来事をきっかけにスポーツを通して国同士の関係を良くする大きな可能性があることを知った。

https://www.asahi.com/special/heisei-inori/05/
 第2次大戦中に日本軍は、インドネシアで捕虜4万人と民間人9万人のオランダ系住民を強制収容所に抑留、多くの死者が出た。このためオランダでは反日感情が根強く残り、1971年の昭和天皇訪問の際には、車列に魔法瓶が投げつけられこともあった。
 2000年の訪問でも、両陛下が戦没者記念碑に花輪を捧げた2時間後、抑留被害者や元捕虜らが周辺で抗議のデモ行進をした。

昭和天皇の時代から交流 オランダ王室、皇室と縁深く(1/2ページ) - 産経ニュース
 第二次世界大戦での捕虜への対応をめぐり、戦後は一部のオランダ国民に厳しい対日感情があった。平成元年に行われた昭和天皇大喪の礼では、同国は王族の参列を見送り、ベアトリックス女王は陛下に「将来の両国の関係のためには、自分が参列しないほうがいい」とする旨を手紙で伝えたという。
 3年には女王が国賓として初来日し、その9年後には両陛下でのご訪問がようやく実現。
 両陛下は戦没者記念碑に供花し、静かに黙祷(もくとう)をささげ、女王夫妻主催の晩餐会では、陛下が「いまなお戦争の傷を負い続けている人々のあることに、深い心の痛みを覚えます」と、未来を見据えた率直な思いを語られた。
 現地メディアは好意を持って伝え、次第に国民の感情は和らいだとされる。宮内庁の渡辺允(まこと)*10侍従長は、オランダのある首相経験者から「両陛下の人柄が、オランダ人の恨みやよそよそしさを親愛の情に変えた」とする手紙を受け取ったことを著書で明かしている。

オランダ新国王も引き継いだ「日蘭」恩讐を越える道 | ハフポスト西川恵*11
 第2次世界大戦の緒戦、オランダ植民地だったインドネシアを占領した日本軍は、オランダの兵士と民間人13万人を強制収容所に入れ、食料不足や風土病で約2万2000人が死亡した。
 戦後、旧植民者たちの日本への恨みは両国のノドに刺さった骨となった。1971年、昭和天皇が非公式でオランダに立ち寄った際には激しいデモに見舞われ、投げられた魔法瓶で天皇の乗った車の窓ガラスが割れた。日本の首相が植樹するとすぐ切られることも続いた。
 ベアトリックス女王は日本との歴史問題の克服に努め、両陛下もこれに呼応する形で問題解決に意を注がれた。91年10月、国賓で来日した女王は晩餐会で厳しいスピーチを行った。抑留されたオランダの兵士や民間人の具体的数字を挙げ、「これは日本ではあまり知られていない歴史の1章です。多数の同胞が命を失い、帰国できた者も、その経験は生涯、傷跡となって残っています。私たちはあの戦争の記憶を避けて通るべきでないと思います」と述べられた。
 この時、女王は晩餐会に先立って両陛下にスピーチ内容を伝え、オランダ国内の反日感情を増幅しないためにも大戦中の出来事に言及しない訳にはいかない旨説明している。
 これより前の89年の昭和天皇大喪の礼の時、オランダは王族の出席を取り止めたが、この時も女王は、「両国関係のため自分が出席しない方が良いと判断した」と手紙で伝えられた。
 転機は2000年5月、天皇、皇后両陛下の国賓でのオランダ訪問だった。
 当時、駐蘭大使だった池田維氏は、「女王が両陛下の受け入れのため払われたご努力には頭が下がる思いでした」と語っている。
 その1つに、両陛下が戦没者記念慰霊塔に献花し、黙とうを捧げる際、脇に立ってあたりを払う随従役の指名があった。女王は人望厚い退役将軍を王宮に呼び、役目を引き受けてほしいと依頼した。この将軍のハウザー氏はインドネシアに生まれ、少年時代、日本軍の強制収容所で4年間を過ごした。一緒に収容されていた母親を栄養失調で亡くし、孤児となって帰国した。日本軍の強制収容所体験者の元将軍を随従役に据えることで、女王は並々ならぬ決意をもって両陛下を迎えることを国内に示し、反日世論を封じたのだった。
 この時、王宮の歓迎晩餐会での天皇陛下のお言葉は10分に及ぶ異例に長いものだった。
 天皇は江戸時代、開国後の交流に触れたあと、「両国が先の大戦において戦火を交えることとなったことは、誠に悲しむべきことでありました。この戦争によって、さまざまな形で多くの犠牲者が生じ、今なお戦争の傷を負い続けている人々のあることに、深い心の痛みを覚えます」、「戦争による心の痛みを持ちつつ、両国の将来に心を寄せておられる貴国の人々のあることを私どもはこれからも決して忘れることはありません」と述べられた。明らかに女王が来日時に触れた「帰国できた者も、その経験は生涯、傷跡となっています」の部分に呼応した内容だった。
 滞在中、両陛下はインドネシアの元オランダ植民者と面会し、オランダの元慰安婦問題に取り組むNGO関係者とも懇談された。先の池田氏は、「このご訪問でオランダの対日世論は劇的に改善し、両国関係は新たな段階に入りました」と語っている。

天皇陛下オランダ訪問実現の裏側 歴代大使の「対話」とは? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)朝日新聞編集委員・北野隆一*12)※AERA2019年2月4日号より抜粋
 第2次世界大戦中に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)でオランダ人を抑留した歴史をめぐって、元捕虜や抑留被害者らが日本に過去の事実を認め補償するよう求めていた。71年に昭和天皇が訪れた際には、車列に魔法瓶を投げつけられた。
 佐藤行雄さん*13(79)が大使として赴任したのは94年6月。将来、両陛下のオランダ訪問を実現するためにも「オランダの世論の一部にある反日感情をこのままにしておけない」と考え、対話を進めようと決めていた。
 赴任2カ月後の94年8月、佐藤さんは妻とともにハーグの戦没者記念碑に献花した。91年には海部俊樹*14首相が同じ碑に花を供え、池に投げ捨てられたことがあったばかり。
 関係者を刺激しないよう終戦の日から1日ずらし、16日に訪れた。
 日本政府に補償を求めている抑留被害者や元捕虜らの団体「対日道義的債務基金」(JES)のシュールド・ラプレ会長らを大使館に初めて招いて話を聞いたのは94年11月。団体側から「デモをしたい」と打診され、「公道なので、どうぞ」と承諾*15。月1回の日本大使館前でのデモと、その後の大使らとの対話が定例化するようになった。
 96年、次の大使に着任した池田維さん*16(79)も定期的に対話を続けた。大使館前でのデモが平穏に行われたときは、館内に代表を招き入れてお茶を出し、話を聞いた。
 東郷和彦さん*17(74)は99年に外務省欧亜局長に就任した際、上司から「両陛下のオランダ訪問は失敗できない」と言われた。「訪問中に(ボーガス注:昭和天皇訪問時に生卵や魔法瓶が投げつけられたような)不祥事を起こさないように。日本国内で右からも左からも批判されないように。オランダ政府も王室も気にかけている」との話だった。
 元オランダ首相のアンドレアス・ファン・アフトさん(87)は、訪問先を決める際の助言を求められ「市民とふれあう機会を多く設けるのがいい」と答えた。00年5月25日、両陛下が大学町のライデンを散策した際、学生らと語らう写真が翌日の新聞に掲載された。
 「私の助言は天皇陛下の人柄に期待してのことだった。陛下はそれに十二分にこたえてくださった」
 それでも、訪問が「和解ムード」一色だったわけではない。
 両陛下がオランダ入りした00年5月23日。アムステルダム中央駅からダム広場までの数百メートルの間、抑留被害者や元捕虜らが抗議のデモ行進をした。日本側を刺激しないようにと、オランダ政府や日本大使館と抑留者代表とが事前に話し、デモの時間を両陛下到着の2時間後にずらしていた。

元外交官が明かす天皇陛下海外訪問の意味——池田維・霞山会理事長に聞く | nippon.com
 オランダ大使や外務省アジア局長として天皇陛下の海外訪問に深く関わった池田維・霞山会理事長に「皇室外交」の舞台裏を聞いた。
■池田  
 オランダには5年勤務しました。そのうち、4年ほどは天皇訪蘭の準備を心掛けている時間でした。2000年はオランダと日本の交流400年に当たります。西暦1600年にオランダの帆船「リーフデ号」が大分県に漂着して以来です。オランダは江戸の鎖国時代にも長崎の出島で通商ができた欧州の唯一の国です。
 日蘭交流400周年を機に私は大使として3つのことを行いました。一つは対日抗議団体との交流です。法律的には、サンフランシスコ講和条約と日蘭議定書(「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する」日蘭議定書)で日本とオランダとの間の請求権の問題は解決しています。しかし、それでは道義的に認められないという人々が団体を作って毎月一度大使館の前でデモをし、プラカードを掲げて日本は賠償せよ、と要求していました。70歳以上の人が多く、デモは暴力的なものではありません。大使になってしばらくしてから、彼らのリーダ格の人たち数人にデモが静かに終わった後、大使館に入ってもらい、大使室で一緒にお茶を飲んで雑談する試みを始めました。
 もう一つは、予算が付いたので戦争の被害者の方を毎年20数名、日本に招待することを始めました。今でも名前を変えて続いています。これまでに訪日者数は、合計で600~700人にはなっているでしょう。10日から2週間ほど、日本を案内していろいろ見てもらい、日本人と会って話をする。目には見えないけれど、地道な交流です。
 元慰安婦とされる人々については、オランダ側に検証委員会を作ってもらい、結果として79人の人たちが慰安婦だったと結論付けられました。「アジア女性基金」から高齢の女性に対するベッドや椅子など1人当たり300万円相当の見舞金的な補償を出しました。
 こうしたことを天皇陛下のご訪問前に行っていたこともあり、陛下ご訪蘭時には小規模なデモはいくつかありましたが、心配したほどの大きなデモは起きませんでした。そしてご訪問の間にも、次第にオランダ世論が良い方向に大きく変化していきました。
 あの当時、ダメだったら辞表を出す以外はないという覚悟の気持ちは持っていました。
 2000年以降、オランダでは過去の戦争は主要新聞紙の一面記事になることはなくなりました。01年に日本に帰任する時にはオランダの新聞が「池田はミッション・インポッシブルをやり遂げた」と書いてくれましたね。もちろん、個人の感情には複雑なものがある人もいるでしょうが、一般社会としては日本とオランダの間の戦争問題は終わったという雰囲気になりました。その意味で、天皇陛下のオランダ訪問は画期的な意味を持ったと思います。
■野嶋*18
 天皇陛下の海外訪問は、外交ではないという建前ですが、実際は外交的な意味を持つことも少なくなく、「皇室外交」という言葉が使われています。外交の現場に長く携われてきた実感はいかがでしょうか。また、天皇陛下の訪問先は、政府と皇室との間でどのように決められるのでしょうか。
■池田  
 訪問先の決定はあくまでも政府が決めるということになっていますが、天皇陛下ご自身にも機会があれば行きたいというお気持ちがあることもある。それが自然な格好で政府に伝達されることはあります。
 例えば、私がオランダ大使として赴任する時、皇居に参内して両陛下とのお茶会の席があり、宮内庁の侍従から、ある手紙を見せてもらいました。それはオランダのベアトリクス女王から天皇陛下への手紙でした。自分は昭和天皇大喪の礼に出席したいと思っていたが、オランダでは日本への反発も強いので、出席できなかった、ということが詳しく書いてあり、ベアトリクス女王が日本に対してどういう考え方だったかがよく伝わってきます。天皇陛下ご自身が手紙を私に見せてくださったことで、陛下のオランダへのご関心のほどがよく伝わってきました。

【昭和天皇実録を読む】国際親善 投げつけられた魔法瓶 昭和46年オランダ・ハーグ(1/2ページ) - 産経ニュース
《お召自動車が(オランダ)ハーグ市内に入った午後四時三十分頃、車体に液体入り魔法瓶が投げつけられるという事件が起きる。魔法瓶はフロントガラスに当たるが、防弾ガラス付きのものであったため外側に亀裂を生じさせたにとどまり負傷者はなかった。(中略)同夜、日本国大使公邸にお立ち寄りの際、(中略)この度の事件は大したことではないが、大きく取り扱われて両国関係に悪い影響を与えることのないよう同行記者団によく話しておくようにとのお言葉がある》(昭和46年10月8日)
 天皇として初の外国訪問となった同年9~10月の欧州7カ国歴訪。昭和天皇実録の記述は、大正10(1921)年の皇太子時代の訪欧に比べ、必ずしも歓迎一色ではなかった様子を、ありのままに伝えている。
《昨日キュー王立植物園においてお手植えになった日光産のスギが根元から伐(き)り倒され、その根元に劇物の塩素酸ナトリウムがかけられて、「彼等*19(かれら)は無意味に死んだのではない*20」という趣旨のプラカードが残されているのが発見される》(10月7日、英国)
ボン市*21中心部で、約三百名の極左学生を中心とする「日本帝国主義反対、天皇戦争犯罪抗議」運動が行われ、警官隊が放水車により鎮圧し、関係者数名が逮捕される》(10月12日、ドイツ)

昭和天皇ウィキペディア参照)
 1971年(昭和46年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7か国を訪問した。
 しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマシンガポールインドネシアなどにおける戦いにおいて日本軍に敗退し、捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特にオランダにおいては、お召自動車に生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほどであった。

ベアトリクス女王ウィキペディア参照)
 第二次世界大戦中、日本軍がオランダ植民地インドネシアに侵攻したため、戦後のオランダでは反日世論が渦巻いており、オランダ王族が日本を訪問することは1962年のベアトリクスの非公式訪問までなかった。
 1963年に国賓として再訪日しており、更にその翌1964年にも東京五輪のために訪日、と急速に距離を縮めることとなった。その後、1970年の大阪万博の際と1977年にも訪日しているが、1980年の即位後は世論の抵抗に遭い、1987年の訪日は事前に中止、1989年の昭和天皇崩御の際は世論を配慮し、オランダからのみ大喪の礼に王族の出席がなかった。この際は明仁天皇に対し、出席できないことを手紙で説明した。1991年10月になって初めてオランダ元首として日本を公式訪問した。この時も天皇主催の宮中晩餐会のスピーチでオランダ植民地における大戦時の自国民の犠牲について言及している。


【平成の終わりに】真直なる天皇の大きなる道 平川祐弘・東京大学名誉教授 - 産経ニュース

天皇が権力者ではないのに権威があるのは、神道を介して国民の上(かみ)の座、すなわちカミの座を世襲的に継がれるから、それで国民と天皇は祈りを通して結ばれる
天皇のお務めはなによりも祈ることと続くことにある。
宮中祭祀(さいし)がつつがなく続くことを切に願う。

 神道が国教だった「明治、大正、昭和戦前」はともかく「政教分離原則によって神道が一宗教にすぎなくなった現在」、もちろんこうした神道的・天皇制解釈は許されるもんではありません。宮中祭祀はあくまでも「天皇家の私的行事」にすぎず公務ではありません。まあ産経は「国家神道が今でも正しい」と主張するからこうなるわけですが、現天皇夫妻にせよ、新天皇夫妻にせよ、そんな極右的立場ではさすがにないでしょう。そして天皇制支持者だってほとんどの人間は「神道信仰で天皇とつながってる」とは思ってないでしょう。そんなのは神社本庁関係者を中心とした右翼くらいのもんでしょう。 
 なお「天皇が権力者でない」というのは完全に嘘です。「元々日本国王だったのが公家や武家によって次第に棚上げにされた*22が、それでも建前上は国王であり続け、明治維新で改めて実質的な意味での国王に復権した。1945年の敗戦によって国王とは違う象徴になった」というのが事実です。
 本質はともかく建前では「平安時代藤原氏政治」にせよ「その後の幕府政治(鎌倉幕府室町幕府江戸幕府)」にせよ「天皇による摂政、関白、征夷大将軍への任命」によってされてるわけです。だからこそ「国王である天皇の命令」を口実に薩長は倒幕出来たわけです。

*1:国会議長、チャベス政権外相、副大統領を経て大統領

*2:東大名誉教授。著書『増補・日本政党政治の形成:原敬の政治指導の展開』(1995年、東京大学出版会)、『近代日本の戦争と政治』(1997年、岩波書店)、『ウォール・ストリートと極東:政治における国際金融資本』(2009年、東京大学出版会)、『大正デモクラシー論:吉野作造の時代(第3版)』、『増補・政治制度としての陪審制:近代日本の司法権と政治』(以上、2013年、東京大学出版会)、『日本の近代とは何であったか』(2017年、岩波新書)など

*3:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*4:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方創生担当相を歴任

*5:小泉内閣国交相自民党政調会長(第一次安倍総裁時代)、幹事長(谷垣総裁時代)、第二次安倍内閣環境相、第三次安倍内閣経済財政担当相を歴任

*6:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相を経て自民党政調会長

*7:ただしこの運動はフランスの外圧に屈した当時の日本政府がベトナム人留学生を国外追放したことで挫折します。

*8:もちろん1973年に外交関係樹立とは北ベトナムのことです(南ベトナムとはそれ以前に国交を樹立しています)。

*9:1932~1994年。現役時代は日本代表として世界卓球選手権で12個の金メダルを獲得し、日本卓球界の黄金期を代表する選手として活躍。引退後は日本卓球協会副会長、国際卓球連盟会長を務めて卓球の普及に尽力し、また、いわゆる「ピンポン外交」の立役者の一人として世界のスポーツ界に大きな貢献を果たした。没後業績を称えて現在のITTFワールドツアーの一つ、ジャパンオープン卓球選手権大会が、荻村杯国際卓球選手権大会に改称された。また1997年には世界卓球殿堂入りを果たした(ウィキペディア「荻村伊智朗」参照)。

*10:外務省中近東アフリカ局長、駐ヨルダン大使、宮内庁式部官長、侍従長、参与など歴任。著書『天皇家の執事 侍従長の十年半』(2011年、文春文庫)

*11:毎日新聞編集委員。著書『エリゼ宮の食卓:その饗宴と美食外交』(2001年、新潮文庫)、『ワインと外交』(2007年、新潮新書)、『饗宴外交:ワインと料理で世界はまわる』(2012年、世界文化社)、『歴代首相のおもてなし :晩餐会のメニューに秘められた外交戦略』(2014年、宝島社新書)、『知られざる皇室外交』(2016年、角川新書)など

*12:著書『プレイバック「東大紛争」』(1990年、講談社

*13:外務省北米局長、駐オランダ大使、駐オーストラリア大使など歴任

*14:福田、中曽根内閣文相を経て首相

*15:慰安婦銅像に「撤去しろ」と騒ぐ安倍とは偉い違いです。安倍が佐藤元大使のような寛大な態度ならあそこまでもめないし、逆に佐藤元大使が「デモなんかやめろ」と安倍のような高圧的態度をとったら、日蘭関係が恐ろしいことになっていたでしょう。

*16:外務省アジア局長、駐オランダ大使、駐ブラジル大使、交流協会台北事務所代表など歴任

*17:外務省条約局長、欧亜局長、駐オランダ大使など歴任。著書『歴史と外交:靖国・アジア・東京裁判』(2008年、講談社現代新書)、『戦後日本が失ったもの:風景・人間・国家』(2010年、角川oneテーマ21)、『北方領土交渉秘録:失われた五度の機会』(2011年、新潮文庫)、『歴史認識を問い直す:靖国慰安婦、領土問題』(2013年、角川oneテーマ21)、『危機の外交:首相談話、歴史認識、領土問題』(2015年、角川新書)、『返還交渉:沖縄・北方領土の「光と影」』(2017年、PHP新書)など

*18:著書『イラク戦争従軍記』(2003年、朝日新聞社)、『ふたつの故宮博物院』(2011年、新潮選書)、『ラスト・バタリオン:蒋介石と日本軍人たち』(2014年、講談社)、『認識・TAIWAN・電影:映画で知る台湾』(2015年、明石書店)、『台湾とは何か』(2016年、ちくま新書)、『タイワニーズ』(2018年、小学館)など

*19:おそらく太平洋戦争で戦死した英国軍兵士のこと

*20:要するに「戦争犯罪人昭和天皇)の植えた杉なんか誰がいるか、ふざけるな!」「戦死者への冒涜だ」つうことでしょう。

*21:西ドイツの首都

*22:だからこそそれに反発して例えば承久の乱建武の新政が起こるわけです。