「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/25日分:荒木和博の巻)(副題:6/25は朝鮮戦争勃発の日)

拓大国際講座「プーチンのウクライナ征伐」: 荒木和博BLOG
 「桃太郎の鬼ヶ島征伐」という言葉で分かるように「征伐」という言葉には「悪者の打倒」というニュアンスがあります。
 【1】「武力攻撃」「侵攻」といった「中立的な表現」、【2】「侵略」といった「否定的な表現」とは意味が大きく違う(ウクライナについては武力攻撃、侵攻、侵略がメディアでの一般的表現かと思います)。
 勿論「プーチン批判派」小泉悠*1が講師なので、この講座は
【1】「プーチンは善、ウクライナは悪」という立場でないこと
【2】おそらく、この「征伐」とは「(小泉らが考える)プーチン政権の立場*2」であるということ
は「予想はつく」(とはいえ、その場合普通は『ウクライナ「征伐」』と征伐にカギ括弧をつけるのですが)。
 とはいえ、「一応その点について、荒木も簡単にであれ、触れるべき」でしょうに触れないのだから絶句です。

【参考:征伐】

征伐 - Wikipedia参照
 反社会的な犯罪集団などを、武力で処罰、懲罰したりすること。「征討」、「討伐」と同義語。最近では「征伐される相手」を悪と決めつけることはできないとして、使用例が減り、「征伐」に代えて「平定」など別の言葉を用いることが増えている。
【日本史における「征伐(征討、討伐)」の例:現在ではこれらは「征伐」表現は避けられる傾向にはあります】
◆3世紀:神功皇后三韓征伐
 但し、神話であり実在の出来事そのままではない。
◆古代~14世紀:蝦夷征伐
蝦夷平定
 「征夷大将軍(源氏、足利氏、徳川氏)」というのも元々は「蝦夷征伐」が任務だったわけです。少なくとも「奥州合戦*3」以降は「征夷」に実質的意味はなくなったと言っていいでしょうが。
◆奥州征伐
→1189年:奥州合戦鎌倉幕府奥州藤原氏を滅ぼした)
 1590年:奥州仕置(豊臣秀吉による伊達政宗服属)
甲州征伐(武田征伐)(1582年)
→武田攻め。織田信長武田勝頼を滅ぼした(武田本家は勝頼の自害で滅んだが、分家が徳川家に旗本(高家)として仕えた)
四国征伐(1585年)
→ 四国攻め、四国の役、四国平定。豊臣秀吉長宗我部元親を服属させた
九州征伐(島津征伐)(1587年)
→島津攻め、九州攻め、九州の役、九州平定。豊臣秀吉が島津氏を服属させた
小田原征伐 (北条征伐、関東征伐)(1590年)
→小田原合戦、小田原の陣、小田原攻め、小田原の役、関東平定。豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした(但し、北条氏の子孫が、後に河内狭山藩を与えられ大名に復帰)
◆朝鮮征伐(1591~1598年)
文禄・慶長の役。(秀吉の)朝鮮出兵朝鮮侵略。壬申・丁酉の倭乱(韓国側の呼び方)。万暦朝鮮の役(中国側の呼び方)
会津征伐(上杉征伐)(1600年)
会津攻め。徳川家康による会津藩主・上杉景勝への出兵(後に上杉氏は、関ヶ原合戦に勝利した家康により会津藩から米沢藩に減封処分)。家康が出兵のため、大阪を離れた際に石田三成らが家康相手に挙兵したことで、関ヶ原合戦が発生。家康は上杉と戦うことはなく、最上義光伊達政宗の連合軍が上杉氏と戦い勝利(慶長出羽合戦 - Wikipedia
琉球征伐(1609年)
→(薩摩藩の)琉球侵攻、琉球侵略。琉球の役。
◆長州征伐(長州征討)(1864年、1866年)
→長州戦争、長州出兵、幕長戦争、長州の役。第一次では幕府が勝利したが、第二次では幕府が敗北
会津征伐(1868年)
会津戦争明治新政府軍による会津藩への攻撃
◆台湾征伐(1874年)
台湾出兵明治新政府の初めての対外戦争。
◆台湾征伐(1895年)
台湾征服戦争、台湾平定。乙未戦争(中国側での呼び方)。下関条約日清戦争講和条約)で日本への割譲が決まった台湾に対する征服戦争

<東北の本棚>地方の視点で歴史検証 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS2022.3.27
◆『中世奥羽の世界』(新装版)
 1978年の名著が復刊された。
 入間田氏*4は「鎌倉幕府と奥羽両国」で、源頼朝奥州藤原氏を撃破した軍事行動について、それまで使われていた「奥州征伐」ではなく、「奥州合戦」と呼ぶように提案した。「征伐」は奥羽の人々からすれば侵略行動にほかならないためだ。今は「奥州合戦」という呼称も定着した。

越後国主に家康「心得た」 書状発見、会津征伐準備か: 日本経済新聞2022.5.30
 徳川家康が1600年5月に越後国主の堀秀治に送ったとみられる書状が、富山県で見つかった。「そちらの報告は心得た」とあり、関ケ原の戦いにつながった陸奥会津領主・上杉景勝征伐(会津征伐)に向け、家康が情報を集めていた様子がうかがえる。駿河台大(埼玉県)の黒田基樹*5教授(歴史学)は「家康の作戦や時系列を知る手掛かりになる」と話す。
 6月に始まった会津征伐は、7月に石田三成が挙兵し中断。全国の大名を巻き込み、9月の関ケ原の戦いにつながった。


足達俊之さんの特集(北陸放送): 荒木和博BLOG
 足達さんは勿論「特定失踪者」なので馬鹿馬鹿しい限りです。


朝鮮戦争二人の錯誤(R4.6.25): 荒木和博BLOG
 6分20秒の動画です。タイトルだけで見る気が失せます(一応見ましたが)。実に馬鹿馬鹿しい。
 何が馬鹿馬鹿しいか。
 荒木の言う「錯誤」が「朝鮮戦争勝利(米軍介入前に戦争が終わる)」を期待したであろう「スターリン毛沢東金日成」であれ、北朝鮮の侵攻を予想しなかったであろう「トルーマンや李承晩」であれ、そんなことが荒木が建前とする「拉致被害者帰国」と何の関係があるのか。何の関係もない。
 なお、何故荒木が、「6月25日」に朝鮮戦争の話をしたかというと「1950年6月25日」に北朝鮮の侵攻で朝鮮戦争が開戦されたからです。 
 ちなみに荒木の言う「二人の錯誤」とは一つは「金日成朝鮮戦争勝利予想」でこれは「俺の予想通り」です。
 もう一人は「朝鮮戦争を予想してなかった」マッカーサー*6だそうです。こちらは俺が朝鮮戦争マッカーサーについて無知なこともあり、予想してませんでした。なお、ダグラス・マッカーサー - Wikipediaによればマッカーサー北朝鮮を舐めていますね。割と有名な話なんでしょう。
【参考:マッカーサー
マッカーサーの錯誤1:北朝鮮軍の軽視】

ダグラス・マッカーサー - Wikipedia
 朝鮮戦争開戦当時、マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたにもかかわらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしなかった。北朝鮮軍が侵攻した1950年6月25日にマッカーサーにその報告がなされたが、全く慌てることもなく「これはおそらく威力偵察にすぎないだろう。私は腕を後ろ手にしばった状態でもこれを処理してみせる」と来日していたジョン・フォスター・ダレス*7国務長官顧問らに語っている。マッカーサーは翌6月26日に韓国駐在大使ジョン・ジョセフ・ムチオ*8アメリカ人の婦女子と子供の韓国からの即時撤収を命じたことに対し、「撤収は時期尚早で朝鮮でパニックを起こすいわれはない」と反論している。ダレスら国務省には韓国軍の潰走の情報が入ってきており、マッカーサーGHQの呑気さに懸念を抱いたダレスは、マッカーサーに韓国軍の惨状を報告すると、ようやくマッカーサーは事態を飲み込めたのか、詳しく調べてみると回答している。ダレスに同行した国務省ジョン・ムーア・アリソン*9はそんなマッカーサーらのこの時の状況を「国務省の代表がアメリカ軍最高司令官にその裏庭で何が起きているかを教える羽目になろうとは、アメリカ史上世にも稀なことだったろう」と呆れて回想している。6月27日にダレスらはアメリカに帰国するため羽田空港に向かったが、そこにわずか2日前に北朝鮮の威力偵察など簡単に処理すると自信満々で語っていた時とは変わり果てたマッカーサーがやってきた。マッカーサーは酷く気落ちした様子で「朝鮮全土が失われた。我々が唯一できるのは、人々を安全に出国させることだ」と語ったが、アリソンはその風貌の変化に驚き「私はこの朝のマッカーサー将軍ほど落魄し孤影悄然とした男を見たことがない」と後に回想している。

マッカーサーの錯誤2:中国軍の軽視】
 なお、荒木も動画で話していますが、その後もマッカーサーは「1950年9月の仁川上陸作戦*10の成功でまた楽観論に傾斜」し、以下の錯誤(中国の軍事力を舐めた結果、奇襲攻撃で米軍が大打撃)を犯しています。
 マッカーサーの場合【1】周囲にイエスマンを置きたがる、苦言を呈した人間を遠ざける、【2】失敗は部下の責任に、成功は自分の手柄にしたがる、という性格的欠陥が酷いように思います。

ダグラス・マッカーサー - Wikipedia参照
 1950年9月の仁川上陸作戦の成功により、国連軍最高司令官マッカーサーの自信は肥大化した。10月15日にウェーク島で、トルーマン大統領とマッカーサー朝鮮戦争について協議を行った。会談ではマッカーサーが、「どんな事態になっても中共軍は介入しない」「戦争は1950年の感謝祭(11月24日)までに終わり、兵士はクリスマスまでには帰国できる」と言い切った。トルーマンは「きわめて満足すべき愉快な会談だった」と言い残して機上の人となったが、本心ではマッカーサーの過剰な楽観主義と不遜な態度に不信感を強め、またマッカーサーの方もトルーマンへの敵意を強めた。その後、マッカーサーは「中国による参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中国との国境の鴨緑江にまで迫った。
 金日成は、9月30日に中国大使館で開催された中国建国1周年レセプションに出席し、その席で中国の部隊派遣を要請し、さらに自ら毛沢東に部隊派遣の要請の手紙を書くと、その手紙を朴憲永*11に託して北京に派遣した。毛沢東は、10月2日に中国共産党中央政治局常務委員会を招集し、中国軍の出兵を主張。政治委員らも、米軍が鴨緑江に到達すれば川を渡って中国に侵攻する恐れがあり、それを阻止するには出兵する必要がある、との考えに傾き、毛沢東の主張通り部隊派遣を決め、10月8日に金日成に通知した。ただしアメリカとの全面衝突を避けるため、中国の国軍である人民解放軍から組織するが、形式上は義勇兵とした「中国人民志願軍(司令官・彭徳懐*12)」の派遣とした。
 10月10日に約18万人の中国軍が鴨緑江を越えて北朝鮮入りし、その数は後に30万人まで膨れ上がった。
 当初は「中国との軍事衝突を避けようとする」トルーマンの指示通り、国境付近での部隊使用を韓国軍のみとしたマッカーサーだが、10月17日にはトルーマンの指示を破り、国境深く前進するように各部隊司令官に命令した。中朝国境に近づけば近づくほど地形は急峻となり、補給が困難となったが、マッカーサーはその事実を軽視した。かつて毛沢東が参謀の雷英夫にマッカーサーの人物について尋ね、雷が「傲慢と強情で有名です」と回答すると、毛沢東は「それであれば好都合だ、傲慢な敵を負かすのは簡単だ」と満足げに答えたことがあったが、マッカーサーの作戦指揮は、毛沢東の思うつぼであった。しかし中国の罠にはまるようなマッカーサーの命令違反に、表立って反対の声は出なかった。「仁川上陸作戦の成功」などによるマッカーサーの圧倒的な名声にアメリカ軍内でも畏敬の念が強かったこと、また強情なマッカーサーに意見するのは左遷などマッカーサーの報復を招くだけで無益だという諦めの気持ちもあったという。そのような中でも副参謀長のマシュー・リッジウェイ*13は異論を唱えたが、意見が取り上げられることはなかった。
 そうした状況下で、11月1日に中国人民志願軍が韓国軍や米国第8軍に奇襲をしかけた。米国第8軍は中国軍に対し大損害を被った。
 11月28日になって、ようやくマッカーサーは第8軍に撤退許可を与え、第8軍は平壌を放棄し、38度線の後方に撤退した。
第8軍司令官はウォルトン・ウォーカー中将であったが、12月23日、部隊巡回中に軍用ジープで交通事故死した。マッカーサーはその報を聞くと、即座に後任として参謀本部副参謀長マシュー・リッジウェイ中将を推薦した。マッカーサーは「マット、君が良いと思ったことをやりたまえ」とマッカーサーの持っていた戦術上の全指揮権と権限をリッジウェイに与えた。リッジウェイはマッカーサーの過ちを繰り返さないために、即座に前線に飛んで部隊の状況を確認したが、想像以上に酷い状況だった。リッジウェイはソウルの防衛を諦め撤退を命じ、1951年1月4日にソウルは中国人民志願軍に占領されることとなった。マッカーサーは雑誌のインタビューに答える形で「中国東北部に対する空襲の禁止は、史上かつてないハンディキャップである」と「中国との全面戦争」を望まず、作戦に制限を設けているトルーマンをこき下ろした。トルーマンは激怒し、彼のマッカーサーへの幻滅感は増していった。マッカーサーからの批判に激怒したトルーマンは、統合参謀本部に命じてマッカーサーに対し、公式な意見表明をする場合は上級機関の了承を得るよう、指示したが、マッカーサーはこの指示を無視し、その後も政治的な発言を繰り返した。
 ソウルから撤退したリッジウェイであったが、1月26日には戦争の主導権を奪い返すための反転攻勢としてサンダーボルト作戦を開始し、中国軍の攻勢を押し留めた。1951年3月には中国軍を38度線まで押し返した。戦況の回復は第8軍司令官リッジウェイの作戦指揮によるもので、マッカーサーの出番はなかったため、それを不服と思ったマッカーサーは脚光を浴びるため、東京から幕僚と報道陣を連れて前線を訪れた。しかしある時、リッジウェイが計画した作戦開始前にマッカーサーが前線に訪れて、リッジウェイには無断で、報道陣に作戦の開始時期を漏らしてしまい、リッジウェイから自重してほしいとたしなめられている。リッジウェイは自伝でマッカーサーを「自分でやったのではない行為に対しても、(部下の行為であることを理由に上司として)名誉を主張してそれを受けたがる」と酷評している。
 トルーマン朝鮮戦争停戦を北朝鮮や中国に呼びかけることとし、1951年3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにもその内容が伝えられた(ただし実際の停戦は「トルーマン退任→アイゼンハワー大統領就任(1953年1月)」「スターリン死去(1953年3月)」以降の1953年7月)。トルーマンとの対決姿勢を鮮明にしていたマッカーサーは、この停戦工作を妨害しようと画策、1951年3月24日に軍司令官としては異例の「国連軍は中国軍を圧倒し、中国の朝鮮制圧は不可能なことが明らかになった」「中共が軍事的崩壊の瀬戸際に追い込まれていることを痛感できているはず」などの「軍事的情勢判断」を発表した。これは、1950年12月にトルーマンが統合参謀本部を通じてマッカーサーに指示した「公式な意見表明は上級機関の了承を得てから」に反し、トルーマンは「私はもはや彼の不服従に我慢できなくなった」と激怒した。またこの頃になるとイギリスなどの同盟国から、トルーマンマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられた。もはやマッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの国連軍最高司令官からの解任を決意した。1951年4月6日から9日にかけてトルーマンは、国務長官ディーン・アチソン、国防長官ジョージ・マーシャル*14統合参謀本部議長オマール・ブラッドレー*15らと、マッカーサーの扱いについて協議した。メンバーはマッカーサーの解任は当然と考えていたが、それを実施する最も賢明な方法について話し合われた。
 なお、皮肉にもこの頃、マッカーサーの構想「中国への原爆攻撃」を後押しするように、中国軍が中国東北部に兵力を増強していた。これに対抗すべく、トルーマンは1951年4月6日に原爆9個をグアムに移送する決定をしている。しかし、マッカーサーが独断で中国に原爆投下しないように、移送はマッカーサーには知らせず、また原爆はマッカーサーの指揮下にはおかず米国戦略空軍の指揮下に置くという保険をかけている。
 4月10日、ホワイトハウスは記者会見の準備をしていたが、その情報が事前に漏れ、トルーマン政権に批判的だった『シカゴ・トリビューン』が翌朝の朝刊に記事にするという情報を知ったブラッドレーが、マッカーサーが罷免される前に、辞表を提出するかも知れないとトルーマンに告げると、トルーマンは感情を露わにして「あの野郎が私に辞表を叩きつけるようなことはさせない。私が奴を首にしてやるのだ」とブラッドレーに言ったという。トルーマンは4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。解任の理由はトルーマンの指示「公式な意見表明は上級機関の了承を得てから」を無視し政治的発言を繰り返した「シビリアン・コントロール違反」であった。後任にはリッジウェイが任命された。
 1951年5月3日から、マッカーサーは上院の外交委員会と軍事委員会の合同聴聞会に出席した。議題は「マッカーサーの解任」についてであるが、マッカーサー解任が正当であるとするトルーマン民主党に対し、その決定を非とし政権への攻撃に繋げたい共和党の政治ショーの意味合いも強かった。しかし、この公聴会に先立つ4月21日に、トルーマン側のリークによりニューヨーク・タイムズ紙に、トルーマンマッカーサーによる1950年10月15日に行われたウェーク島会談の速記録が記事として掲載された。これまでマッカーサーは「中国の参戦はないと思う、などとは自分は一度も言っていない」と嘘の主張を行っており、この速記録によりこれまでの主張を覆されたマッカーサーは「中傷だ」と激怒し必死に否定したが、この記事は事実であり、この記事を書いたニューヨーク・タイムズの記者トニー・リヴィエロは1952年にピューリッツァー賞を受賞している。この記事により、トルーマン政権側はマッカーサーに対して攻勢に転じた。
 1951年9月にサンフランシスコで日本との講和条約が締結されたが、その式典にマッカーサーは招かれなかった。トルーマン政権はマッカーサーに冷淡であり、フランクリン・ルーズべルト大統領の政治顧問だったバーナード・バルークはマッカーサーにも式典への招待状を送るよう、強く進言したが、ディーン・アチソン国務長官が拒否している。首席全権であった吉田茂首相が、マッカーサーと面談し平和条約について感謝を表したいと国務省に打診したが、国務省から「望ましくない」と拒否されるほどの徹底ぶりであった。
 なお、マッカーサー解任当時は「これほど不人気な人物がこれほど人気がある人物を解任したのははじめてだ」とタイム誌に書かれるほどの不人気さで、1952年の大統領選挙*16出馬(再選)を断念したトルーマンも、文民統制の基本理念を守り、敢然とマッカーサーに立ち向かったことが次第に評価されていき、在職時の低評価が覆され、今日ではアメリカ国民から歴代大統領の中で立派な大統領の1人と看做されるようになっている。
【人物評】
 ルーズベルト大統領は「マッカーサーは使うべきで信頼すべきではない」とマッカーサーの能力の高さを評価しながら信用はしていなかった。また、政治への進出にマッカーサーが強い野心を抱いているのを見抜いて「ダグラス、君は我が国最高の将軍だが、我が国最悪の政治家になると思うよ」 と釘を刺したこともあった。
 国連軍最高司令官更迭に至るまで激しくマッカーサーと対立したトルーマン大統領の評価はもっと辛辣で、大統領就任間もない1945年に未だ直接会ったこともないマッカーサーに対し「あのうぬぼれ屋を、あのような地位につけておかなかればならないとは。なぜルーズベルトマッカーサーをみすみす救国のヒーローにしたてあげたのか、私にはわからない。(ボーガス注:マッカーサーのフィリピン脱出後もフィリピンに残って対日戦争を指揮したが結局降伏した)ウェインライトこそが真の将軍、戦う男だった」と否定的な評価をしていた。トルーマンマッカーサーへの評価は悪化する事はあっても改善することはなかった。
 一方で、マッカーサートルーマンを最後まで毛嫌いしていた。更迭された直後は「あの男には私を首にする勇気があった。だから好きだよ」と知り合いに語るなど寛容な態度で余裕も見せていたが、トルーマン回顧録で、朝鮮戦争初期の失態はマッカーサーの責任であると非難されているのを知ると激怒して、ライフ誌上で反論を行い、非公式の場では「卑しいチビの道化師、根っからの嘘つき」と汚い言葉で罵倒していた。
 朝鮮戦争において、当初は参謀本部副参謀長としてマッカーサーの独断専行に振り回され、後にマッカーサーの後任として国連軍最高司令官となったリッジウェイはマッカーサーの性格について、「自分がやったのではない行為についても名誉を受けたがったり、明らかな自分の誤りに対しても責任を否認しようという賞賛への渇望」「多くの将兵の前で常にポーズをとりたがる、人目につく立場への執着」「論理的な思考を無視して何かに固執する、強情な性質」と分析していた。
【エピソード】
マッカーサーは部下と手柄を分かち合おうという考えはなく、この点では部下がいくらでも名声を得るのに任せたとされるアイゼンハワーと対照的だった。例えば、マッカーサーの配下で、ルソン島の戦い、レイテ島の戦いを指揮したロバート・アイケルバーガー第8軍司令官(大将)が、雑誌にとりあげられたことがあったが、これがマッカーサーの不興を買い、マッカーサーアイケルバーガーを呼びつけると「私は明日にでも君を大佐に降格させて帰国させることが出来る。分っているのか?」と叱責したことがあった。叱責を受けたアイケルバーガーは「作戦詳報に自分の名前が目立つぐらいならポケットに生きたガラガラヘビを入れてもらった方がまだましだ」と部下の広報士官に語ったという。
アイゼンハワー*17は、マッカーサーの側近として長年働きながら、彼の崇拝者にならなかった数少ない例外である。アイゼンハワーマッカーサーに対する思いの大きな転換点となったのが、マッカーサーが雑誌「リテラリー・ダイジェスト」の選挙予想記事を鵜呑みにし、1936年アメリカ大統領選挙ルーズベルトが落選するという推測を広めていたのをアイゼンハワーが止めるように助言したのに対し、マッカーサーが逆にアイゼンハワーを怒鳴りつけたことであった。
 また1938年1月に「フィリピン軍軍事顧問」マッカーサーがマニラで大規模な軍事パレードを計画した際に、それを知ったケソン大統領が、自分の許可なしに計画を進めたことに激怒してマッカーサーに文句を言うと、マッカーサーは自分はそんな命令をした覚えがない、とアイゼンハワーら部下に責任を転嫁したこともアイゼンハワーマッカーサーへの不信を強めた(むしろ、アイゼンハワーは、その費用負担で軍事予算が破産する、とマッカーサーに反対したがマッカーサーが聞き入れなかった)。アイゼンハワーは後にこれらの事件について「決して再び、我々はこれまでと同じ温かい、心からの友人関係にはならなかった」と回想している。
朝鮮戦争の指揮を任された総司令官であるにもかかわらず、朝鮮半島を嫌ったマッカーサーは一度も朝鮮に宿泊することがなかった。指揮や視察で、朝鮮を訪れても常に日帰りで、必ず夜には日本に戻っていた。その為に戦場の様子を十分に把握することができず、中国義勇軍参戦による苦戦の大きな要因となったとされる。

【参考:中国の参戦を予想してなかった米国】

朝鮮戦争 - Wikipedia参照
 インドの中国大使カヴァーラム・バニッカーは1950年10月2日の深夜に周恩来首相の自宅に呼ばれ、周より「もしアメリカ軍が38度線を越えたら、中国は参戦せざるを得ない」と伝えられた。バニッカーは10月3日深夜1時30分にインド本国に報告し、朝にはイギリス首相にも伝えられ、ほどなくアメリ国務省にも届いたが、国務長官ディーン・アチソンはバニッカーを信用しておらずこの情報が活かされる事はなかった。

【参考:朝鮮戦争と国連軍】

『スターリン秘史 巨悪の成立と展開』第6巻を語る(下)/スターリン、朝鮮戦争の真相を語る2016.4.5
不破
 1月13日には、中国の国連代表権を認めないことへの抗議を理由にして、国連安全保障理事会のボイコットを始めます。続いて、1月30日、北朝鮮金日成に対して、これまでの「南進」抑制の態度を変えて、「南進」の準備開始を許可する指示をだします。
 ここで問題になるのは国連安保理のボイコットです。抗議の欠席なら短期間で終わるのが普通ですが、ソ連はボイコットを朝鮮戦争開始の時期まで続けました。ソ連が欠席していたために、朝鮮戦争が始まった時、米軍を「国連軍」として派遣する決議などがアメリカの思うままに安保理を通過しました。自分たちに不利になることがわかっていて、なぜそんな態度をとったのか。ずっと謎となっていた問題でした。
 50年8月、この疑問をスターリンに手紙で直接ただしたのがチェコスロバキア大統領のゴトワルト*18でした。
 スターリンは8月27日付の手紙でそれに答え、ボイコットは、「米国政府にフリーハンドを与え…さらなる愚行をおこなう機会を提供」するため意識的に取った行動だと説明し、朝鮮戦争への参加によって「米国が現在ヨーロッパから極東にそらされていることは明らか」、そのことは「国際的なパワーバランスからいって…われわれに利益を与えている」、「米国はこの戦いで疲弊してしまうだろう」と書いているのです。
 初めてこの手紙を読んだときは、ここまで言っていたのかとびっくりしました。

 朝鮮戦争ソ連が「拒否権発動」で国連軍成立を阻止しなかったことは一つの謎ではありました(勿論、国連軍が成立しなくても米国は軍事介入したでしょうが、国連軍の肩書きがない方がソ連、中国、北朝鮮にとっては有利)。
 これについて上記の不破説「米国を朝鮮戦争に参戦させることで、ソ連の東欧支配を有利にする」はなかなか興味深い指摘かと思います。中国や北朝鮮スターリンのこうした態度には内心不愉快千万だったでしょう。

*1:東京大学専任講師。著書『軍事大国ロシア』(2016年、作品社)、『プーチンの国家戦略』(2016年、東京堂出版)、『現代ロシアの軍事戦略』(2021年、ちくま新書)、『ロシア点描:まちかどから見るプーチン帝国の素顔』(2022年、PHP研究所)など

*2:勿論プーチンが自らの戦争を「正当な行為」と宣伝してるにせよ、それを「征伐」と表現することが妥当かどうかは議論の余地があるでしょう。例えば「ブッシュ米国のアフガン戦争やイラク戦争」「ソ連のアフガン侵攻」(これらも勿論、正当な戦争と宣伝された)を「アフガン征伐、イラク征伐(ブッシュ米国)」「アフガン征伐(ソ連の立場)」と呼んでいいのかは争いの余地があるでしょう。

*3:源頼朝が「征夷大将軍」職を求めたのは「頼朝に服属しない奥州藤原氏を討伐する大義名分」が欲しかったからでそれなりに実質的意味があった(単に征夷大将軍という役職が地位が高いから求めたわけではない)という説があります。

*4:東北大学名誉教授。著書『百姓申状と起請文の世界』(1986年、東京大学出版会)、『中世武士団の自己認識』(1998年、三弥井選書)、『都市平泉の遺産』(2003年、山川出版社日本史リブレット)、『北日本中世社会史論』(2005年、吉川弘文館)、『藤原秀衡』(2016年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『中世奥羽の自己認識』(2021年、三弥井選書) など

*5:後北条氏研究の著書が多い。著書『百姓から見た戦国大名』(2006年、ちくま新書)、『戦国大名:政策・統治・戦争』(2014年、平凡社新書)、『真田信之』、『羽柴を名乗った人々』(以上、2016年、角川選書)、『井伊直虎の真実』(2017年、角川選書)、『関東戦国史:北条VS上杉55年戦争の真実』、『戦国大名の危機管理』(以上、2017年、角川ソフィア文庫)、『北条氏政』(2018年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『戦国大名・伊勢宗瑞』(2019年、角川選書)、『戦国北条五代』(2019年、星海社新書)、『戦国大名北条氏直』(2020年、角川選書)、『戦国北条家の判子行政』(2020年、平凡社新書)、『北条氏綱』(2020年、ミネルヴァ書房・日本評伝選)、『戦国関東覇権史:北条氏康の家臣団』(2021年、角川ソフィア文庫)、『下剋上』(2021年、講談社現代新書)、『国衆:戦国時代のもう一つの主役』(2022年、平凡社新書)など(黒田基樹 - Wikipedia参照)

*6:米国陸軍参謀総長、米国極東陸軍司令官、連合国軍南西太平洋方面総司令官、連合国軍最高司令官、(朝鮮戦争の)国連軍最高司令官など歴任

*7:アイゼンハワー政権で国務長官

*8:韓国大使、アイスランド大使、グアテマラ大使を歴任

*9:シンガポール総領事、駐日大使、インドネシア大使、チェコスロヴァキア大使を歴任

*10:但し、この作戦自体はかなり博打的な物で「ブラッドレー統合参謀本部議長、シャーマン海軍作戦部長、コリンズ陸軍参謀総長らは反対」していました(仁川上陸作戦 - Wikipedia参照)

*11:1900~1956年。北朝鮮での副首相兼外相を務めるが後に金日成によって粛清された(朴憲永 - Wikipedia参照)

*12:1898~1974年。中国人民志願軍司令官、国防相などを歴任するが、1959年の廬山会議で大躍進を批判したことで毛沢東の逆鱗に触れ失脚。文革中は迫害の中、ガン死(ろくに治療もされなかったとされる)。1978年に名誉回復

*13:連合国軍最高司令官、(朝鮮戦争の)国連軍最高司令官、NATO軍最高司令官、米国陸軍参謀総長など歴任

*14:陸軍参謀総長トルーマン政権国務長官、国防長官など歴任。1953年にマーシャル・プランの立案・実行によってノーベル平和賞を受賞

*15:陸軍参謀総長統合参謀本部議長など歴任

*16:この選挙では共和党アイゼンハワーが当選

*17:連合国遠征軍最高司令官、アメリカ陸軍参謀総長NATO軍最高司令官、大統領など歴任

*18:1896~1953年。チェコスロバキア共産党書記長長、副首相、首相、大統領を歴任(クレメント・ゴットワルト - Wikipedia参照)