黒坂真に突っ込む(2019年10月25日分)

■黒坂ツイートにコメント

黒坂真
‏ 吉岡正史さん。今の日本共産党、左翼知識人は原爆投下も日本の責任にしますね。

 おいおいですね。
 「そもそも無謀な対米開戦などしなければ、ハルノートを受け入れて中国から日本軍が撤退していれば、原爆投下もなかった。勝算があると認識して対米戦争を始めた昭和天皇ら当時の政府首脳は愚かだった」「ドイツが降伏した時点(1945年5月)で日本の敗戦はもはや不可避だったのだから遅くてもそこで降伏すべきだった。遅くても1945年5月に降伏すれば1945年8月の原爆投下はなかった。国体護持(天皇制維持)にこだわって降伏を遅らせた昭和天皇ら政府首脳の責任は重い」(吉岡氏)というのは「原爆投下の責任は米国にはない」と言う話ではありません。
 原爆投下で米に抗議 73年大統領あて書簡で/日本共産党ということで当然ながら日本共産党は原爆投下について米国を批判しています。
 一方で

8・15特集<上>/侵略と植民地支配の51年/これを「間違った戦争」と認めない安倍政権
 1941年12月のアジア・太平洋戦争開始時には、真珠湾奇襲、シンガポール攻略などで“快進撃”といわれましたが、翌年6月のミッドウェー海戦での日本機動部隊の壊滅後は(ボーガス注:1942年8月の第二次ソロモン海戦敗北、1942年11月の第三次ソロモン海戦敗北、1943年5月の「アッツ島戦」敗北、1944年6月のマリアナ沖海戦敗北、1944年7月の「サイパン島*1」「インパール作戦」敗北、1944年8月の「テニアン島戦」「グアム島戦」敗北、1944年10月のレイテ沖海戦敗北、1945年3月「マニラ戦」「硫黄島戦」敗北、1945年6月の「沖縄戦」敗北など)敗北につぐ敗北でした。(ボーガス注:1944年7月にサイパンが陥落し、サイパンからB29爆撃機が日本を直接爆撃できるようになった)1944年中頃には日本の戦争指導部も戦争に負けたと判断するようになってきました。大本営の作戦失敗で50万人の将兵が命を失った(ボーガス注:1945年3月の)フィリピン戦の敗北*2は、戦争終結の決定的な機会でした。しかし、天皇はじめ戦争指導部は“もう少し戦果をあげてからでないと、交渉が有利にできない”とくりかえしました。
 1945年2月に近衛文麿元首相が「共産革命の進行」をあげながら、「敗戦はもはや必至」「一日も速やかに戦争終結」を天皇に上奏しましたが、態度は変わりませんでした。
 “戦果”に固執せず終戦を決断すれば、(ボーガス注:1945年)3月以降におきた国民的惨劇である東京大空襲など本土空襲、沖縄戦、原爆投下、ソ連満州侵入など連続した出来事もありませんでした。
 最近公開された映画「日本のいちばん長い日」などで描かれた天皇の「聖断」は遅すぎただけでなく、「国体」という天皇絶対の政治体制を守ることを最優先にしたため国民全体が犠牲になったのが実態です。

きょうの潮流 2015年8月19日(水)
 「もう一度戦果を挙げてから」と、早期の戦争終結に踏み切れなかった天皇や当時の国家指導部。もっと早ければ沖縄の悲劇も、広島・長崎の原爆被害も、なかった。

と言う意味で原爆投下については昭和天皇らにも責任があるわけです。

黒坂真
 石川康宏先生。砂澤陣「北海道が危ない!」(育鵬社、p136)によれば、現在アイヌと自称している人たちの中に、本来のアイヌ語を自由に話せる方はいない。

 呆れて二の句が継げませんね。誰がアイヌ語を話せなくしたのか。日本語を強要し、アイヌ語使用を禁じ、同化政策を強行した日本政府でしょうよ。
 よくもまあこんな人間が「中国の同化政策ウイグル(あるいはチベット)でウイグル語(あるいはチベット語)が話せない、中国語使用が強要されてる。このままでは民族文化が滅びる(本当かどうか知りませんが)」「中国は少数民族を弾圧している」といえたもんです。

*1:東条内閣が崩壊したのは1944年7月18日ですが、これの直接のきっかけは7月9日のサイパン陥落でした。纐纈厚『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社)も指摘していますがサイパン陥落により、近衛文麿(元首相、近衛上奏文で早期終戦を主張)、鈴木貫太郎(海軍軍令部長侍従長、枢密院議長を歴任。終戦時の首相)らいわゆる和平派は「日本の敗北は不可避」と判断し、いわゆる終戦工作に動いていきます。そのために彼らがまず実行したのは、対米強硬派の東条首相をサイパン陥落を理由に首相から引きずり下ろすことでした。

*2:1945年⒈月2日、小磯首相は、1944年10月から開始されたレイテ戦を「ルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大する」と発表し、事実上レイテ戦の敗北を認めた。1945年3月3日まで行われたマニラの戦いで日本軍は敗れ、三年間に及んだ日本のフィリピン支配は幕を閉じた(ウィキペディアレイテ島の戦い」「マニラの戦い」参照)。