今日の産経ニュース(2019年11月2日分)

【昭和天皇の87年】「天子様に理屈を述べるでない」 主戦論を捨てた東条英機だが… - 産経ニュース

 昭和16年10月17日に参内した陸相東条英機は、まさか自分に大命降下があるとは思っていなかった。陸軍省軍務局でも、参内せよとの昭和天皇の「御召し」は中国からの撤兵に同意しないことへの「御叱り」だろうと思い、駐兵の必要性を記した上奏文を用意したほどだ。
 もっとも、それを読んだ東条は「天子様がコウだといわれるならば自分はそれまでである。ハイといって引き退ります」と最敬礼の真似をし、「天子様に理屈を述べるでない」と上奏文をはねつけた。昭和天皇に対する東条の、忠節ぶりがうかがえよう。
 東条を首相に推薦した内大臣木戸幸一も、この忠節にかけたようだ。のちに「彼(東条)は陛下のおっしゃる事なら、一番真正直に服従していたから」と語っている。
 果して東条は、大命降下と同時に受けた「白紙還元の御諚」(※1)に従い、それまで陸軍を代表して唱えていた主戦論を棄てる。外相には、日独伊三国同盟に反対した気骨の外交官、東郷茂徳を起用。10月23日から大本営政府連絡会議を連日開き、撤兵問題などで妥協した日米交渉の「甲案」(※2)をまとめた。組閣から半月足らず、10月30日のことだ。
 東条は、11月1日の連絡会議で3つの案を提示する。
 第1案 戦争を極力避け、臥薪嘗胆す
 第2案 開戦を直ちに決意し、これに集中す
 第3案 開戦決意の下に外交施策を続行す
 このうち第1案は、海軍軍令部総長永野修身*1が「最下策」として真っ先に拒絶した。陸軍参謀総長杉山元*2は第2案を主張し、第3案をとる外相の東郷と激しく議論した。
 東条の腹は、和戦併記の第3案である。ただし、いつまでも交渉はできない。天候などの関係から、冬になれば太平洋上での作戦が不可能になるからだ。
 会議は1日午前から2日未明まで続き、第3案をもとに、新たな「帝国国策遂行要領」が決まる。
 一、武力発動ノ時期ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス
 二、対米交渉カ十二月一日午前零時迄ニ成功セハ武力発動ヲ中止ス
 この方針は、11月5日の御前会議で確定する。
 東条も東郷も日米交渉を捨てたわけではなかった。前駐独大使の来栖三郎を特命大使として派遣し、駐米大使の野村吉三郎*3を補佐させるとともに、米政府が甲案を否定した場合に備え、より妥協的な乙案(※3)も用意、二段構えの交渉で妥結にこぎ着けようとしたのだ。

 ということで11/5御前会議で「12/1までに外交が決着しない場合は、12月上旬に開戦する」という新決定がされます。11/26のいわゆるハルノートに対して、日本政府は「交渉の余地なし」と判断し、新決定「12/1までに外交が決着しない場合は、12月上旬に開戦する」に基づき、12/8の開戦となるわけです。ただし、ハルノート云々の話は次回以降になります。多分、次回以降、産経は米国に対し「日本の努力を理解しなかった」「戦争責任は日本を追い詰めた米国にある」と悪口雑言すると思いますが。


【昭和天皇の87年】究極の選択、 首相は東条英機に! 日米交渉継続の勅命が下った - 産経ニュース
 まるきりのウソが書いてるわけではないので、結構勉強になる産経連載です。
 小生も、手持ちの山田朗昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)を改めて読み返して「なるほどそういうことだったのか」「読み飛ばしててよく分かってなかった」つうところが多々あります。
 なお、小生は持っていませんが、山田氏の「昭和天皇の戦争責任関係の著書」としては他に

・『昭和天皇の戦争指導』(1990年、昭和出版
・『遅すぎた聖断:昭和天皇の戦争指導と戦争責任』(纐纈厚氏*4との共著、1991年、昭和出版
・『徹底検証・昭和天皇「独白録」』(粟屋憲太郎*5藤原彰*6、吉田裕氏*7との共著、1991年、大月書店)
・『大元帥昭和天皇』(1994年、新日本出版社
・『昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店
・『日本の戦争III:天皇と戦争責任』(2019年、新日本出版社

があります。

 昭和16年10月14日、総辞職する2日前の夜、東条*8の意を受けた企画院総裁の鈴木貞一が東京・荻窪の近衛*9の居宅を訪れ、こう言った。
 「後継内閣の首班には、宮様に出ていただくほかないと思います。東久邇宮*10(ひがしくにのみや)殿下が適任でしょう」
 翌日参内して昭和天皇に打ち明けたところ、こんな答えが返ってきた。
 「陸海軍一致して平和の方針に決定するならば、稔彦王の内閣組織も已むを得ない」
 ところが、思わぬところから待ったがかかる。内大臣木戸幸一*11が、どうしても首を縦に振らないのだ。
 木戸が反対したのは、開戦の危機が目前に迫る中、皇族に重大な責任を負わせることを危惧したからだ。

 木戸の動きについては、ウィキペディア

東条英機
 近衛の後任首相については、対米協調派であり皇族軍人(第二師団長、第四師団長、陸軍航空本部長などを歴任)である東久邇宮稔彦王を推す声が強かった。
 皇族の東久邇宮であれば和平派・開戦派両方をまとめながら対米交渉を再び軌道に乗せうるし、また陸軍出身であるため強硬派の陸軍幹部の受けもよいということで、近衛首相や重臣達だけでなく東條陸軍大臣も賛成の意向であった。
 ところが内大臣木戸幸一は、独断で東條を後継首班に推挙し、昭和天皇の承認を取り付けてしまう。
 この木戸の行動については今日なお様々な解釈があるが、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また東條は天皇の意向を絶対視する人物であったので、昭和天皇の意を汲んで「戦争回避に最も有効な首班だ」というふうに木戸が逆転的発想をしたととらえられることが多い。天皇は木戸の東條推挙の上奏に対し、「虎穴にいらずんば虎児を得ず、だね」と答えたという。この首班指名には、他ならぬ東條本人が一番驚いたといわれている。
 木戸は後に「あの期に陸軍を押えられるとすれば、東條しかいない。(東久邇宮以外に)宇垣一成の声もあったが、宇垣は私欲が多いうえ陸軍をまとめることなどできない。なにしろ現役でもない。東條は、お上への忠節ではいかなる軍人よりも抜きん出ているし、聖意を実行する逸材であることにかわりはなかった。優諚を実行する内閣であらねばならなかった」と述べている。

と書いてます。「宇垣じゃ陸軍はまとまらない。なにしろ現役でもない。」つうのは

宇垣一成*12ウィキペディア参照)
 昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。元老・西園寺公望*13は加藤*14内閣の陸軍大臣であったときに、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた。また宇垣ならば軍部に抑えが利くとも判断していた。西園寺の奏上を受け、大命降下される運びとなった。陸軍の大物でありながら英米に穏健な姿勢を取る宇垣の首班登場は、世評も高かった。
 しかし、石原莞爾*15歩兵大佐などの陸軍中堅層は、「陸軍を抑え込もう」とする西園寺の思惑を潰そうとして宇垣の組閣を阻止すべく動いた。石原は寺内寿一*16陸軍大臣を説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞するように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾*17憲兵司令官に命じてもらった。中島は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」したが宇垣はこれを無視して大命を受けた。
 しかし、石原は諦めず、軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮く。困った宇垣は親しい関係の小磯國昭*18朝鮮軍司令官(当時。後に首相)に直接陸相就任を打診したが、「三長官*19会議で合意がとれれば引き受けてもよい」「(『合意がとれないから直接頼んでいるのだ』と詰め寄った宇垣に)三長官会議の合意がとれない状態で引き受けても、東京に向かう途中で『予備役編入』の通知を受け取って無駄骨になるだろう」と言われている。
 宇垣自身が首相と陸相の兼任による内閣発足を模索し「自らの現役復帰」または「予備役でも陸相になれること」を勅命で実現させるよう湯浅倉平*20内大臣に打診したが、失敗した際の宮中への悪影響を恐れた湯浅らに拒絶されたため組閣を断念せざるを得ない状態へ追い込まれた。石原は後年、宇垣の組閣を流産させたことを人生最大の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣組閣流産後の政治の流れが、『満州国の成功』が全て崩壊しかねないとして石原が最も嫌う日中全面戦争、対米戦争への突入へと動いていったことによるもので、石原は宇垣の力をもってすれば、この流れを変えることができたに違いないと考えたわけである。

つう過去の事件による判断でしょう。
 この産経記事からはいろいろなことが分かりますね。
 まず第一に東条は自分からは首相就任を目指してないと言うことです。
 第二に昭和天皇はロボットではないと言うことです。彼は「近衛首相や東条陸軍大臣が、東久邇宮が適任というならそれにしよう」と自主的に判断している。
 第三に、とはいえ、彼は「俺の言うことに従え、反対する奴は粛清だ」と言うヒトラーヒムラーを粛清)やスターリントロツキーなどを粛清)、毛沢東文革劉少奇国家主席を粛清)的な暴君ではないことです。だから木戸内大臣が反対意見を出せるし、それに対し「反対意見に筋がとおっている」と思ったか、「木戸は忠誠心も厚いし能力もある、木戸を無視して動くべきではない」と言う信頼があったかはともかく(おそらく両方でしょうが)昭和天皇も従う。

 一方で木戸は、首相や陸相らの提案をはねつけた以上、自ら後継首相を選ばなければならないとも考えたようである。
 総辞職を受け、10月17日に皇居の西溜ノ間で開かれた重臣会議(※2)。木戸が推したのは、日米交渉の継続に最後まで反対した東条だった。木戸は言った。
 「今日の陸軍を抑えなければ結局戦争になるのであるが、その陸軍を抑え得るものは(ボーガス注:陸軍大臣の)東条以外にはなく、そしてその東条に戦争回避の勅命があれば、東条も日米交渉を再考するであろう」
 木戸は、(ボーガス注:開戦派にとって有利とは必ずしも言えない)皇族内閣を推す東条の様子から、東条が必ずしも開戦派ではなく、御前会議の決定にとらわれていると思ったのだろう。

 まあ、東条は開戦派ではあるのですが東条が「天皇内大臣、外務省や海軍が一丸となって陸軍に反対するなら従わざるを得ない」「開戦するなら彼らを納得させる必要があり無理強いは出来ない」「彼らの『外交解決案』が陸軍として飲める物なら飲んでもいい(何が何でも開戦ではない)」という「ソフトな開戦論であったこと」も確かでしょう。少なくとも「宇垣組閣」を「天皇の命だろうが間違ってることは潰す」として潰す方向で動いた石原莞爾のような事はしない人間が東条でしょう。
 ウィキペディアにも

東条英機
・東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。
 天皇への絶対的忠誠心の持ち主の東條はそれまでの開戦派的姿勢を直ちに改め、外相に対米協調派の東郷茂徳*21を据え、一旦、『10月上旬に外交決着の見込みがなければ10月下旬開戦を目指して戦争準備する』という帝国国策遂行要領を白紙に戻した(この時、陸軍省に戻って来て執務室までの道中「和平だ、聖慮は和平にあらせられるぞ」と叫びながら歩いたという)。
 さらに対米交渉最大の難問であった中国からの徹兵要求について、即時撤兵ではないが段階的に徹兵するという趣旨の2つの妥協案(甲案・乙案)を提示する方策を採った。
 陸相時の東條はいかなる形でも撤兵はしないと主張していた。しかし内閣組閣後の東條の態度・行動は、米国の要求する「即時全面撤兵」ではないとはいえ、この陸相時の見解とは全く異なるもので、あくまで戦争回避を希望する昭和天皇の意思を直接告げられた忠臣・東條が天皇の意思の実現に「彼なりに」全力を尽くそうとしたことがよく窺える。

と書いてあります。

【参考:東条の「天皇への忠誠心」について】

人われを上等兵とよぶ 東条英機
 退出した東条は、口を真一文字に結んだまま、むっつり押し黙って、何か一心に考えこんでいる。
 自動車に乗ると、彼は、
明治神宮へ参拝する」
といったきりで、あとはまた無言である。
 神宮では、夕刻、しかも前ぶれなしの参拝で、神主たちはあわてふためいている風であった。
 明治神宮のつぎに東郷神社に参拝し、つづいて靖国神社へむかった。途中、赤松秘書官は恐る恐る、
 「どうなさったのですか」
 と聞いた。東条は感慨深い面持ちで、
 「大命を拝したのだ。思いがけないことなので、ただ恐懼(きょうく)するばかりで、お答えもできないでいたら、お上から『暫時猶予を与える。及川(ボーガス注:第三次近衛内閣海軍大臣)も呼んで、東条に協力するように命ずるから、木戸(ボーガス注:内大臣)ともよく相談して、組閣の準備をするように』と仰せいたされた。ただただ恐れ多いばかりで、この上は神様の御加護を受けるよりはないと思って、参拝するのだ」
(中略)
 東条英機は特別に皇室尊崇の念が厚かった。彼はいつも次のように言っていた。
 「お上は神格である。われわれ臣下は、どれだけ偉くなっても人格以上にはなれない。首相などといっても、すこしも偉いものではない。
 なぜならば、首相には努力すればなれるが、お上ははじめからお上でおわしますからである。国民はひとしくお上の赤子であるのだから、あまねくお上のお心持を隅々まで伝えると同時に、赤子である国民の心をまとめて、お上に帰一させることが大事である」
 戦前の日本では、これが正統派の考え方であった。
 もっとも、戦前の日本でも、一定の年齢に達し、ある程度の教育を受けた青年は大部分、皇室ならびに国体に対して懐疑的になり、批判的になって、ただ公的に発言したり行動したりするとき、非愛国者として弾劾されないためにのみ、あたかも皇室を尊崇するかのように振舞うだけであった。
 従って、東条のように純真無垢な忠誠心は、一般社会ではほとんど姿を消していたのであるが、その点彼は非常に珍しい存在であった。
 東条英機の皇室尊崇心の端的なあらわれは、その上奏癖であった。
 彼は政治上の問題にしろ、軍事上の問題にしろ、すこし重大なことがあると、参内して、直接天皇に上奏しないでは気がすまなかった。
 歴代首相の中で、彼ほどたびたび上奏した者はなく、平均して週一回にはなるだろうといわれている。
 秘書官の赤松大佐の印象によると、東条首相がもっとも上機嫌で、晴れ晴れした顔をしているのは、上奏をすませて退下するときであったという。
 はじめ最も熱心に東条を支持し、彼に大命が降下するように尽力した木戸内大臣が、次第に彼を嫌うようになったのは、一つには戦況が悪化して、日本の陸軍が見かけによらずお粗末であることを露呈したため、彼の才幹に失望したからであったが、もう一つの理由は、東条の上奏癖であった。
 内大臣の任務は、内閣から独立して、天皇を常侍輔弼(ほひつ)することである。
 ひらたくいえば、天皇の御相談役で、天皇の御質問を各大臣に伝えたり、臣下からの言上を天皇にお伝えしたりする役目である。
 取次役といってもいいし、伝声管といってもよい。
 ところがいま、東条のように、何かといえば参内して、直接陛下にお目にかかって、いろんなことを申し上げる者がいると、取次役の仕事がなくなってしまう。面目丸つぶれである。
 木戸が次第に東条を排斥するようになったのは、ほかならぬ東条の忠誠心の故であった。
 はじめ木戸内大臣が東条を首相に推薦したのは、彼の忠誠心に期待をかけたからであった。
 木戸は陸軍大臣としての東条の勤めぶりを観察するに、彼ほど天皇のことを考え、勅命を大切にする者はいない。
 してみると、もし彼を首相にしたならば、天皇がどのように仰せられても、かならず御言葉に従うであろう。
 陸軍がいくら戦争をしたがっても、天皇がならぬとおっしやるならば、陸軍を押えつけて、絶対に戦争をさせないであろう。
 こう思って、彼を推薦したのであった。
 それほど期待された東条が、どうして開戦の発頭人になったのか?
 彼は組閣に当って、特に天皇から、これまでの行きがかりを捨てて、内外の情勢を深く検討し、新しい方針を樹立するように、とのお言葉をいただいているので、ただちに政府と大本営の連絡会議をひらいて、国策の再検討をおこなった。
 そして
 一、戦争を回避し、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)する
 二、ただちに開戦を決意し、政戦両略の施策をこれに集中する
 三、戦争決意のもとに作戦準備を完整するとともに、外交交渉を続行して、妥結につとめる
 の三案のうち、どれをとるかということで激論をかさねたのち、陸海軍の強硬論をおさえ、一応第三案を趣旨として進むことにした。
 しかし、対米交渉の急迫とともに、国内の世論はますます沸騰し、アメリカ討つべしの声は上下に満ちた。
 そのころの心境について、のちに赤松大佐ほかの秘書官から質問されたとき、東条はこう答えている。
 「お上からの仰せで、日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、なるべく戦争にならぬように考慮することについて、謹んでこれが実行に当ったが、当時主戦論のたぎる際、戦争に突入することはむしろ容易であるが、このまま戦争をせず、米国の申し入れに屈した場合には、二・二六事件以上のものが起るかもしれない。そうした時は、憲兵と警察を一手に握り、断乎涙を呑んでこれを鎮圧して、治安を微動もさせない必要がある。そのために陸相と内相を兼ね、特に大臣級の人*22を内務次官にしたのであるが、開戦とともに民心が一応落着いたので、内相の兼任はやめ(ボーガス注:湯沢内務次官を内務大臣に昇格し)たわけである」
 つまり、東条の陸相ならびに内相の兼任は権勢欲のためでなくて、治安維持のための必要やむを得ぬ処置なのであった。
 十一月二十七日、米国から回答がとどいた。いわゆるハル・ノート
 一、日本の陸海空軍ならびに警察の支那及び仏印よりの撤退
 二、支那における重慶政権以外の一切の政権の否認(満州国及び汪兆銘政府を認めず)
 三、日独伊三国同盟からの脱退
を実行してはじめて、日米交渉に応ずるというのであるから、日本にとってはまったく過酷で、かつ絶望的なものであった。
 ここで日本は開戦に踏み切ったのであるが、御前会議でその決定を見た直後、東条は赤松秘書官にむかってしみじみと述懐した。
 「お上から、日米交渉を白紙に還元して再検討せよと仰せられたときは、その通りに実施したつもりだったが、どうしても、この際戦争せねばならぬという結論に達したので、お上にお許しを願ったが、なかなかお許しがない。
 しばらくしてようやく、やむを得ないと仰せられたとき、お上が真に平和を愛され、平和を大事にしておられることを、まのあたり拝察できて、まことに申し訳ないと思って、感慨無量であった。
 それからお上が、むかしの日英同盟のことや、お上が英国御訪問のおり、特にむこうの皇室とお親しくされたお話など承ったときは、日本をここまで追い込んだ米国が憎らしくてならなかった。そしてつくづく、もう二度とこのようなことでお許しを願うような羽目におちいりたくないと思った。宣戦の大詔に『あに朕が志ならんや』とある文句は、もと原案にはなかったのを、特にお上の仰せで加えられたたものだ」
(中略)
 サイパンが陥落し、情況が次第に不利となるにしたがって、重臣の間で東条内閣をどうにかせねばならぬという声が高くなった。
 最初に問題になったのは、嶋田繁太郎*23海相である。
 岡田啓介*24、米内光政等、海軍出身の重臣から、嶋田を解任せよという要望があり、嶋田海相も東条に進退を相談したが、皇室尊崇一点ばりの東条は、
 「もしお上の御信任が薄くなったということであれば、臣下として考えねばならぬところだが、外部の声に屈することはない。かまわんから大いにやりなさい」
といって嶋田の辞任を認めなかった。
 しかし、重臣方面の圧力はますます強く、ついに海相の更迭と重臣の入閣が決定した。
 重臣は陸軍から阿部信行*25、海軍から米内光政*26が入閣ときまったが、そうなると、閣僚の椅子が一つ不足するので、誰かにやめてもらわねばならない。
 国務大臣岸信介*27をやめさせようというので、辞表を出せというと、岸は承知せず、この内閣は総辞職すべきだという。
 岸は木戸内大臣と同郷の長州の関係で親しくしていて、東条内閣打倒を打合せていたのであった。
 木戸内大臣ははじめ、東条に開戦を阻止してもらうつもりで首相に奏薦したのに、アテがはずれた上に戦局が悪化したので、いよいよ東条をひっこめねばならぬと決意していたところ、たまたま岸が同じ意見なので、いっしょに倒閣をはかったのである。
 そのころの規定では、閣僚のうち一人でも辞職に同意しない者があるときは、内閣は総辞職しなければならない。
 東条内閣は岸信介によって総辞職に決定した*28
 七月二十二日、小磯内閣が成立した。
 七月末、赤松大佐ほか前秘書官一同は、東条につれられて(ボーガス注:三重県伊勢市の)伊勢神宮、(ボーガス注:奈良県橿原市の)橿原神宮、ならびに(ボーガス注:明治天皇が埋葬されている京都市の)桃山御陵に参拝し、特に(ボーガス注:後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇を祀る大阪府の)水無瀬(みなせ)神宮に詣で、ついで(ボーガス注:大阪府の)桜井ノ駅の跡を訪ねた。
 桜井ノ駅は、楠木正成(くすのきまさしげ)がその子正行(まさつら)と別れたところである。
 ここでも、東条は感慨に堪えぬ面持ちであった。
 東条英機はどこまでも皇室に忠誠を尽し、身命をなげうって、大東亜戦争を最後まで戦い抜くつもりであったが、天皇の側近である木戸内大臣岸信介(ボーガス注:東条内閣商工相)の共謀にさまたげられ、総辞職にまで追い込まれねばならなかった非運を、後醍醐天皇の側近の奸臣にさまたげられ湊川まで出陣しなければならなかった、楠木正成の不幸になぞらえて、悲痛な思いを噛みしめているようにみえた。

【参考終わり】

 東条に昭和天皇は組閣を命じ、続いて参内した海相の及川古志郎*29とともに、陸海軍が協力して難局を打開するよう指示した。
 恐懼して退出する東条らを、木戸が呼び止める。
 《「只今、陛下より陸海軍協力云々の御言葉がありましたことと拝察致しますが、尚、国策の大本を決定せられますに就ては、(ボーガス注:10月上旬に外交決着の見通しが立たない場合は、すぐに対英米の開戦準備を始め10月下旬に開戦できるようにしておく)九月六日の御前会議の決定にとらはるゝ処なく、内外の情勢を更に広く深く検討し、慎重なる考究を加ふることを要すとの思召であります。命に依り其旨申上置きます」》(昭和天皇実録29巻83頁)
(※2) 重臣会議には歴代首相らが出席し、若槻礼次郎*30宇垣一成案を、林銑十郎*31が皇族内閣案を提起したが反対され、木戸の東条案には広田弘毅*32らが賛成した

 なお、さすがに昭和天皇や木戸なども「9/6の決定(10月上旬に外交決着の見通しが立たない場合は、すぐに対英米の開戦準備を始め10月下旬に開戦できるようにしておく)」を杓子定規に解釈して「10/17にまだ外交決着のめどが立たないから開戦しよう」とすることには「米国に勝てるのか(もちろん実際には負けた)」ということでさすがに恐怖を感じたわけです。
 その結果「外交決着が少しでも可能性があるならば外交せよ。まだ戦争準備はしなくていい」と9/6決定は事実上反故になります。とはいえそれでも結局「東条が首相に任命された10/17から約2ヶ月後の12/8」に「勝ち目がある」or「勝ち目がなくてもやるしかない、座して死を待つわけにはいかない」と昭和天皇の考えが変わって英米相手に開戦するわけですが、それは次回以降の話になります。
 さて今回の「開戦延期の聖断」ですが、私見では映画「日本のいちばん長い日」などで知られる「終戦の聖断」に比べ有名でないように思います。
 それも当然でしょう。
「9/6に、『10月上旬に日米交渉での外交決着の見通しが立たなければ、10月下旬開戦を目指して戦争準備に動くこと』を御前会議決定で決定したが、天皇の聖断で、10/17(既に10月中旬)に『まだ外交決着の見通しが立たない』が、開戦延期が決まった」
「その開戦延期聖断について東条首相は『いや予定通り10月下旬開戦を目指してもはや開戦準備に動くべきだ』などと抗弁することもなく、おとなしく従った」
「しかし最終的には10/17~12/8までの間に、天皇が開戦論に理解を示して、結局開戦することが決まり、12/8に真珠湾攻撃やマレー攻撃を実行し太平洋戦争が始まった」なんてのは「天皇は内閣のロボットであったが終戦の聖断は例外」つう話と矛盾しますから。
 正直、この「開戦延期の話」
1)この件で嘘を書くわけにも行かないので書いた
2)開戦を延期した天皇は平和のために努力したと美化したい
つう話でしょうが、結局「10/17に開戦延期を決めても、開戦撤回じゃなかったし、結局12/8に開戦したんやん」つうことで「天皇ロボット説」に完全に矛盾します。
 正直、これで昭和天皇を開戦責任から免罪しようとしたら
1)外交決着できなかった東条ら部下が無能だった(東条ら部下への責任転嫁)
2)米国が「中国から完全撤退して蒋介石政権の存在を認めろ」とか、無理難題ふっかけるから悪い、日本悪くない(交渉相手・米国への責任転嫁)
つう話しかないでしょう。いずれにせよそうした免罪は「昭和天皇に権限はなかった」というロボット説とは別の話です。


【産経抄】11月2日 - 産経ニュース

 民主党政権の初代首相、鳩山由紀夫氏は10月25日、新たな政治団体共和党」結成を目指す考えを表明した。

 で鳩山氏の共和党に悪口雑言吐く産経ですが、その悪口雑言が「鳩山氏の首相時代がどうのこうの(それと今回の共和党と直接関係ねえだろ?)」「米国共和党トランプ政権の外交政策を批判していたのが鳩山氏だと思うが?(いやだからトランプ的共和党とは違うんでしょ?)」「共和主義とは辞書を引くと『君主のない共和国を目指すこと』と書いてある。鳩山氏は天皇制否定派か?(聞くまでもなく容認派でしょうよ?)」などと全く無内容だから呆れます。
 「鳩山氏の共和党」とやらの政治方針に即して批判を行ったらどうなのか。
 とはいえ、そもそも鳩山氏の「共和主義」の意味する物が現時点では明確でないのも確かでしょう。しかし、であるなら、「鳩山共和党の方向性が明確化してから」批判すればいいだけの話です。産経のように無茶苦茶な因縁を今の時点で付けるのはくだらない話です。


【私の本棚】『1984年』ジョージ・オーウェル著 千葉商科大学教授・国際教養学部長・宮崎緑さん - 産経ニュース
 もちろん「1984」云々といったところで宮崎も産経も「安倍の独裁体質批判」などしません。
 安倍が「日本版ホワイトカラーエグザンプション」を「家族団らん法」、「武器輸出」を「防衛装備海外移転」などと言いかえる(あるいは言い換えた)ことなども「ニュースピークだ」「残業代不払いの何が家族団らんか」「武器をなぜ防衛装備と言い換えるのか」などとはいわない。
 もっぱら「1984共産主義批判(実際には左右の全体主義批判と見るのが適切)」とした上で「中国ガー、北朝鮮ガー」ですから心底呆れます。


【正論12月号】朝鮮・台湾の日本統治 対談「なぜかくも異なる評価なのか」 拓殖大学学事顧問、渡辺利夫×麗澤大学客員教授、西岡力(1/3ページ) - 産経ニュース
【正論】「反日韓国 親日台湾」由来は何か 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫 - 産経ニュース
 韓国において朴チョンヒなどは「日本植民地統治支配」などろくにせず岸信介ら韓国ロビーと仲良しこよしだったわけです(そして岸は満州国総務庁次長、東条内閣商工相などを務めた「日本植民地支配を正当化する側」でした)。
 一方、台湾においても「日本植民地統治支配への批判」は当然存在します。
 それは例えば

【歴史戦】台湾で初の慰安婦像設置 除幕式に野党・馬英九前総統が出席 - 産経ニュース
 台湾南部、台南市内で14日午前、旧日本軍による従軍慰安婦問題を象徴する銅像の除幕式が行われた。台湾の野党、国民党の馬英九前総統が出席してあいさつした。

と言う記事でも明白でしょう。
 違いは単に
1)韓国において文政権はもはや日本にへいこらしなくても北朝鮮より経済的、政治的に上位の存在になった(韓国は世界に冠たる経済大国だが、北朝鮮は貧乏国家)。逆に台湾は中国より経済的、政治的に下位の存在になった(台湾は国連から追放され、中国が国連加盟。世界の国々のほとんどは中国と国交を結ぶなど)
2)その巻き返しのために蔡英文李登輝など一部の台湾人政治家(及びその支持者)が「敵(中国)の敵は味方」と言う判断から、日本のいわゆる台湾ロビーと野合している*33
3)そしてその台湾ロビーは日本では軒並み戦前美化の右翼であるがために蔡や李が日本ウヨに調子を合わせて戦前日本を美化してる
だけの話です。
 勿論蔡や李においても戦前日本美化は本心と言うより「中国に対抗するためには日本ウヨと野合が必要だ」と言う政治的判断に基づいたものにすぎません。
 もし「中国が台湾より現在、下位の立場」なら「日本ウヨにへいこらする必要がない」ので今と状況は変わるでしょう。
 一方、未だに「韓国と北朝鮮の国力が互角」なら韓国政府も「未だに日本ウヨにへいこら」かもしれません。
 それプラス
4)蔡や李は蒋介石国民党統治に否定的なためその反動で「蒋介石に比べれば日本の方がましだった」と言いたがるつう面もあります。
 つまり台湾と韓国の違いは「韓国人と台湾人の民族性の違い*34」でもなければ「日本の台湾統治は寛大だったが、日本の朝鮮統治は苛酷だった*35」と言う話でもない。
 主として「中国(あるいは北朝鮮)との力関係」及び「その力関係を前提とした政治的判断」の違いでしかありません。

*1:広田内閣海軍大臣軍令部総長など歴任。戦後、戦犯裁判中に病死。後に靖国に合祀

*2:陸軍教育総監、林、第一次近衛内閣陸軍大臣参謀総長を歴任。戦後、自決

*3:鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官、阿部内閣外相、駐米大使など歴任

*4:著書『日本海軍の終戦工作』(1996年、中公新書)、『「聖断」虚構と昭和天皇』(2006年、新日本出版社)、『「日本は支那をみくびりたり」:日中戦争とは何だったのか』(2009年、同時代社)、『日本はなぜ戦争をやめられなかったのか』(2013年、社会評論社)、『日本降伏:迷走する戦争指導の果てに』(2013年、日本評論社)など

*5:著書『東京裁判への道』(2013年、講談社学術文庫

*6:著書『昭和天皇十五年戦争』(2003年、青木書店)、『天皇の軍隊と日中戦争』(2006年、大月書店)、『餓死した英霊たち』(2018年、ちくま学芸文庫)、『中国戦線従軍記』(2019年、岩波現代文庫)など

*7:著書『昭和天皇終戦史』(1992年、岩波新書)、『日本の軍隊』(2002年、岩波新書)、『日本人の戦争観』(2005年、岩波現代文庫)、『アジア・太平洋戦争』(2007年、岩波新書)、『日本軍兵士』(2017年、中公新書) など

*8:関東憲兵隊司令長官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後死刑判決。後に靖国に合祀

*9:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自殺。

*10:終戦直後に首相

*11:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*12:清浦、加藤高明、第1次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相(拓務相兼務)など歴任

*13:第二次伊藤内閣文相(外相兼務)、第三次伊藤内閣文相、首相を歴任

*14:第三次桂、第二次大隈内閣外相などを経て首相

*15:関東軍参謀として満州事変に関与。その後も、参謀本部作戦課長、参謀本部第1部長などの要職に就くが、いわゆる日中戦争不拡大派であったことから拡大派との対立で関東軍参謀副長に左遷。左遷先の関東軍でも東条英機関東軍参謀長(当時)と対立し、さらに舞鶴要塞司令官に左遷された上、予備役編入されている。

*16:台湾軍司令官、広田内閣陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任

*17:第16師団長として南京攻略戦に従軍。一般には「(南京戦について)捕虜はせぬ方針」という記載(つまり捕虜虐殺方針)がある中島日記の筆者として知られる。

*18:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼内閣、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督を経て首相。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀

*19:寺内寿一陸軍大臣閑院宮参謀総長杉山元陸軍教育総監のこと

*20:警視総監、内務次官、会計検査院長宮内大臣内大臣を歴任

*21:東条、鈴木内閣で外相。戦後、禁固20年の判決で服役中病死。後に靖国に合祀

*22:内務次官経験者の湯沢三千男のこと

*23:東条内閣海軍大臣軍令部総長を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*24:田中、斎藤内閣海軍大臣、首相を歴任

*25:台湾軍司令官、首相、朝鮮総督など歴任

*26:戦前、林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣や首相を歴任。戦後東久邇宮、幣原内閣海軍大臣

*27:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*28:とはいえこの時期は側近・木戸の影響で「積極的に賛同はしない」までも天皇は木戸らの「東条政権打倒工作」を容認していました。

*29:第2次、第3次近衛内閣海軍大臣軍令部総長など歴任

*30:第3次桂、第2次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相などを経て首相

*31:朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣、首相を歴任

*32:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*33:ただし馬前総統の「慰安婦問題での態度」でわかるように台湾の政治家全てが蔡や李のような「日本ウヨとの野合路線」ではありません。

*34:勿論産経などウヨはこう強弁した上で、台湾の民族性が韓国の民族性よりも優れていると差別放言するわけです。

*35:勿論産経ら日本ウヨはそんなことは絶対に言いませんが