今日の産経ニュース(2020年3月7日分)

【産経抄】3月7日 - 産経ニュース

「みんなで力を合わせ、この危機を乗り越えようと論説で書いたところはありますか」。
 ジャーナリスト*1櫻井よしこさんは4日のBSフジ番組で、新型コロナウイルス報道の在り方に疑問を投げかけた。全国の小中高校などに休校を要請した安倍晋三首相に対しても、ケチばかりつけていると。

 「阪神大震災(村山内閣)」「東日本大震災(菅*2内閣)」の時にケチばかり付けていた人間たち(よしこや産経)がよくもいったもんです。
 大体「一時、安倍によって中教審委員に任命されていたよしこ」なんて安倍の身内みたいなもんです。フジサンケイグループのBSフジとはいえ、良くもよしこなんか呼んだもんです。


【昭和天皇の87年】不変だった皇室への敬愛 「日本人の真の姿をみた」 - 産経ニュース
 有料記事なので途中までしか読めませんが。そりゃ明治維新(1868年)から敗戦(1945年)まで、約78年かけて「教育勅語」「御真影」などで「天皇陛下万歳の洗脳教育」をしてきたわけですからね。
 その成果が出て、多数派の国民世論が「昭和天皇は悪くない。陸軍が悪い」「昭和天皇は退位しなくていい。もちろん天皇制廃止も昭和天皇戦犯訴追も不要」になっただけであり、そんなんは「日本人の天皇への敬愛感情はスゴイ」と自慢するような話では全くありません。
 しかも有名な「プラカード事件」で分かるように終戦直後において天皇批判が全くなかったわけでもない。

 昭和20年11月12~15日、昭和天皇は三重の伊勢神宮、奈良の神武天皇陵、京都の明治天皇陵を親拝し、終戦の奉告をした。戦後初の地方行幸であり、宮内省の一部には国民の反発を危惧する声もあったが(※1)、随行した内大臣木戸幸一*3によればまったくの杞憂(きゆう)だったようだ。

 問題はむしろ「杞憂だったこと」よりも「そう言う懸念が出たこと」でしょう。産経が強弁するのとは違い、国民世論の批判による「戦争責任の追及」を昭和天皇と側近連中は恐れていたわけです。
 ただし戦後そうした「天皇崇拝教育」はできなくなり、昭和天皇以降(前天皇や現天皇)は「新たな皇室の道」を模索することになります。


【昭和天皇の87年】憲法改正に走り出した重臣、近衛文麿の哀れな末路 - 産経ニュース
 有料記事なので途中までしか読めませんが、「哀れな末路(戦犯指定を苦にして自殺)」呼ばわりとは近衛に対する産経の敵意はよく分かります。近衛が一時「昭和天皇退位論」を唱えたことが産経的に不愉快なんでしょうか?
 「伊藤博文安重根に射殺される)」「江藤淳(妻の死を苦にして自殺)」「勝谷誠彦(過剰飲酒による肝臓病で死去)」「中川昭一*4(議員落選後、過剰飲酒のためか死去)」「朴チョンヒ(部下に射殺される)」など「産経に考えなどが近い右翼的人間の死」について「哀れな末路」といったら激怒するでしょうにねえ。
 ちなみに戦犯指定を苦にして自殺した人間は近衛の他には

◆小泉親彦(陸軍軍医総監を経て第三次近衛、東条*5内閣厚生相)
◆橋田邦彦(東京帝国大学教授。第二次、第三次近衛、東条内閣で文相)
◆本庄繁(満州事変当時の関東軍司令官)

がいます(ウィキペディアA級戦犯」参照)。

 近衛はマッカーサーと面会し、戦争に至った“真相”を懸命に語り出した。
 いわく「軍閥を利用して日本を戦争に駆り立てたのは、財閥や封建的勢力ではなくして、実に左翼分子であつたことを知らねばならない…」

 近衛が本気なのか、故意に嘘をついてるのか知りませんが、近衛上奏文で昭和天皇相手に主張した、「中国からの撤兵に反対などし、日中戦争長期化や太平洋戦争開戦を招いた陸軍統制派は実は隠れ共産党」をマッカーサーの前でもやったわけです。
 つまりここで近衛が言う「日本を戦争に駆り立てた左翼分子=陸軍統制派」です。特高の弾圧で壊滅状態にあった日本共産党のことではないのは勿論、片山哲*6西尾末広*7らの社会大衆党のことでもない(戦前の社会大衆党が次第に軍部寄りに右傾化したことは事実ですが)。
 東条英機武藤章*8ら統制派が隠れ共産党とは正気の沙汰ではありませんが。
 昭和天皇同様、マッカーサーもまともに相手にはしなかったでしょう。もちろん陸軍統制派が戦争を推進したことは事実ですが、海軍や政治家、昭和天皇、経済界などが戦争に反対だったわけではないので近衛の物言いは詭弁もいいところです。そもそも近衛自身が戦前においては戦争推進派だったわけですし。
 いずれにせよ、こうした近衛の助言(?)も参考にしたのか、マッカーサーは東条裁判でもっぱら「東条、武藤ら陸軍ばかりを訴追」し、昭和天皇岸信介などを免罪する方針をとります。

参考

近衛文麿ウィキペディア参照)
終戦
 1945年(昭和20年)、鈴木貫太郎*9内閣は総辞職して東久邇宮稔彦王が後任の首相となった。近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣した。10月4日、近衞はGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問した。近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサー自由主義的な憲法改正の必要性を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。
 近衞は10月8日にGHQ政治顧問ジョージ・アチソンを訪問し、マッカーサーから言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目にわたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じられ、東大教授の高木八尺と京大教授の佐々木惣一の助言を受けながら熱心に憲法改正作業を進めた。
 近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、自分が戦犯裁判にかけられるとはみていなかった。しかし、10月26日の『ニューヨーク・タイムズ』は、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。
 白洲次郎*10たちは近衞がマッカーサー憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQ憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正マッカーサーから依嘱されたと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。
 近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との感想を述べている。12月6日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定した。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の首相経験者では、もっとも若い没年齢である。また首相経験者として、死因が自殺である人物は近衞が唯一である(東条英機元首相も近衛同様、戦犯指定に対して自殺を図っているが未遂に終わっている)。

 つまりは、GHQの立場も曖昧だったわけです。
 当初「利用価値がある」と考え戦犯訴追から外そうと考えていた近衛について「国内外の批判が強いこと(近衛首相時代の仏印進駐、日独伊三国軍事同盟などへの批判)」「そうした批判を無視してまで近衛をかばっても利益がなさそうなこと」から結局GHQは近衛を切り捨てます。
 一方、利用価値があると考えた昭和天皇岸信介(戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相など歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相などを経て首相)などは訴追しなかったわけです。 

*1:「国家基本問題研究所理事長の桜井さん」と書かないことが興味深い。

*2:社民連副代表、新党さきがけ政調会長、橋本内閣厚生相、鳩山内閣副総理・財務相、首相を歴任

*3:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*4:小渕内閣農水相小泉内閣経産相自民党政調会長(第一次安倍総裁時代)、麻生内閣財務相など歴任

*5:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*6:戦後、社会党書記長、委員長、首相、民社党常任顧問など歴任

*7:戦後、社会党書記長、片山内閣官房長官、芦田内閣副総理、民社党委員長など歴任

*8:参謀本部作戦課長、中支那方面軍参謀副長、北支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、近衛師団長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*9:海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相など歴任

*10:戦後、吉田首相のブレーンとして経済安定本部次長、貿易庁長官、外務省顧問など歴任