今日の産経ニュース(2019年12月28日分)

【昭和天皇の87年】「黙れ兵隊!」 東条内閣にとどめを刺した岸信介の気骨 - 産経ニュース

 内大臣木戸幸一がつづった日記によればこの夜、宣仁親王昭和天皇に重大な提案をした。東条英機内閣を退陣させ、元第10軍司令官の柳川平助*1を首相に、第2方面軍司令官の阿南惟幾*2陸相にしたらどうかと話したのだ。

 阿南陸軍大臣(実際にその後、鈴木内閣陸軍大臣に就任)はともかく柳川首相を昭和天皇が受け入れる可能性はなかったでしょう。柳川は226事件を起こした青年将校の属した「皇道派」の幹部であり、昭和天皇は「皇道派」を強く嫌っていたからです。

 東条内閣の後期、昭和18年7月以降のほぼ1年間は、非常時であることを考慮しても異質の、異常で異様な政治が行われたといって過言ではない。一糸乱れぬ規律を重んじる東条は、自身への批判を含め、反政府的な言論の一切を認めなかった。

 注意しないといけないのはこうした東條の行為は「安倍のモリカケ」などと違い、主観的には「忠君愛国(天皇のため)」でした。だから東條が偉いというわけでもないですが、別に東條が「個人的に私腹を肥やした」とか「取り巻きに甘い汁を吸わせた」とかそう言う話ではない。
 むしろ東条については

東条英機ウィキペディア参照)
 陸軍大臣に就任した昭和15年に、世田谷の用賀に「私邸」を建て始めたが、建坪30坪のささやかな家であり、配給の資材を使って少しづつ工事を進めた。その後、内田信也*3・東條内閣農商大臣が自動車で用賀に行って「東條の屋敷」をいくら探しても見つからず、苦労して東條の家にたどり着いた経緯を下記のように述べている。
『先ごろ初めて東条邸を訪ねましたが、まずここだと車を入れたのが鍋島侯爵〔旧・佐賀藩主〕邸で、次は某実業家の屋敷でした。ようやく探し当てたのは噂には及びもつかない粗末な家で、せいぜい秘書官官舎程度だったのには驚きました』

ということで「地位を使って私腹を肥やすようなこと」には否定的だったというエピソードがあるくらいです。
 であるからこそ、昭和天皇は戦後においても

昭和天皇独白録(ウィキペディア東條英機」参照)
・東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つてゐることも思慮周密で中〻良い処があつた。
・元来東条と云ふ人物は、話せばよく判る、それが圧制家のように評判が立つたのは、本人が(ボーガス注:首相、陸軍大臣参謀総長と)余りに多くの職をかけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持が下に伝わらなかつたことゝ又憲兵を余りに使ひ過ぎた。
・田中隆吉(ボーガス注:陸軍省兵務局長)とか富永*4次官とか、兎角(とかく)評判の良くない、且部下の抑へのきかない者を使った事も、評判を落とした原因であらうと思ふ

と東條に同情的でした。戦況の悪化もあり、木戸内大臣岡田啓介元首相、近衛文麿元首相ら重臣グループの「東条内閣打倒工作」を最終的には容認するモノの、昭和天皇自身は積極的に東條を更迭したがっていたのではないわけです。
 なお、「東條だけが独裁的」であるかのように描き出す産経ですがそんなことはありません。東条内閣以前から反戦厭戦の意見は抑圧されていたわけです。

 参謀長の隈部*5は富永を補佐できなかった責任を感じ、玉音放送のあった昭和20年8月15日夜、実母と妻、2人の娘を拳銃で射殺したうえ自決し、一家心中した。

 「せめて自分一人で死ねよ」と言いたいですね。精神を病んでいたからこそ道連れにしたのでしょうが。

参考
【参考:東条の「天皇への忠誠心」について】

人われを上等兵とよぶ 東条英機
 退出した東条は、口を真一文字に結んだまま、むっつり押し黙って、何か一心に考えこんでいる。
 自動車に乗ると、彼は、
明治神宮へ参拝する」
といったきりで、あとはまた無言である。
 神宮では、夕刻、しかも前ぶれなしの参拝で、神主たちはあわてふためいている風であった。
 明治神宮のつぎに東郷神社に参拝し、つづいて靖国神社へむかった。途中、赤松秘書官は恐る恐る、
 「どうなさったのですか」
 と聞いた。東条は感慨深い面持ちで、
 「大命を拝したのだ。思いがけないことなので、ただ恐懼(きょうく)するばかりで、お答えもできないでいたら、お上から『暫時猶予を与える。及川*6(ボーガス注:第三次近衛内閣海軍大臣)も呼んで、東条に協力するように命ずるから、木戸(ボーガス注:内大臣)ともよく相談して、組閣の準備をするように』と仰せいたされた。ただただ恐れ多いばかりで、この上は神様の御加護を受けるよりはないと思って、参拝するのだ」
(中略)
 東条英機は特別に皇室尊崇の念が厚かった。彼はいつも次のように言っていた。
 「お上は神格である。われわれ臣下は、どれだけ偉くなっても人格以上にはなれない。首相などといっても、すこしも偉いものではない。
 なぜならば、首相には努力すればなれるが、お上ははじめからお上でおわしますからである。国民はひとしくお上の赤子であるのだから、あまねくお上のお心持を隅々まで伝えると同時に、赤子である国民の心をまとめて、お上に帰一させることが大事である」
 戦前の日本では、これが正統派の考え方であった。
 もっとも、戦前の日本でも、一定の年齢に達し、ある程度の教育を受けた青年は大部分、皇室ならびに国体に対して懐疑的になり、批判的になって、ただ公的に発言したり行動したりするとき、非愛国者として弾劾されないためにのみ、あたかも皇室を尊崇するかのように振舞うだけであった。
 従って、東条のように純真無垢な忠誠心は、一般社会ではほとんど姿を消していたのであるが、その点彼は非常に珍しい存在であった。
 東条英機の皇室尊崇心の端的なあらわれは、その上奏癖であった。
 彼は政治上の問題にしろ、軍事上の問題にしろ、すこし重大なことがあると、参内して、直接天皇に上奏しないでは気がすまなかった。
 歴代首相の中で、彼ほどたびたび上奏した者はなく、平均して週一回にはなるだろうといわれている。
 秘書官の赤松大佐の印象によると、東条首相がもっとも上機嫌で、晴れ晴れした顔をしているのは、上奏をすませて退下するときであったという。
 はじめ最も熱心に東条を支持し、彼に大命が降下するように尽力した木戸内大臣が、次第に彼を嫌うようになったのは、一つには戦況が悪化して、日本の陸軍が見かけによらずお粗末であることを露呈したため、彼の才幹に失望したからであったが、もう一つの理由は、東条の上奏癖であった。
 内大臣の任務は、内閣から独立して、天皇を常侍輔弼(ほひつ)することである。
 ひらたくいえば、天皇の御相談役で、天皇の御質問を各大臣に伝えたり、臣下からの言上を天皇にお伝えしたりする役目である。
 取次役といってもいいし、伝声管といってもよい。
 ところがいま、東条のように、何かといえば参内して、直接陛下にお目にかかって、いろんなことを申し上げる者がいると、取次役の仕事がなくなってしまう。面目丸つぶれである。
 木戸が次第に東条を排斥するようになったのは、ほかならぬ東条の忠誠心の故であった。
 はじめ木戸内大臣が東条を首相に推薦したのは、彼の忠誠心に期待をかけたからであった。
 木戸は陸軍大臣としての東条の勤めぶりを観察するに、彼ほど天皇のことを考え、勅命を大切にする者はいない。
 してみると、もし彼を首相にしたならば、天皇がどのように仰せられても、かならず御言葉に従うであろう。
 陸軍がいくら戦争をしたがっても、天皇がならぬとおっしやるならば、陸軍を押えつけて、絶対に戦争をさせないであろう。
 こう思って、彼を推薦したのであった。
 それほど期待された東条が、どうして開戦の発頭人になったのか?
 彼は組閣に当って、特に天皇から、これまでの行きがかりを捨てて、内外の情勢を深く検討し、新しい方針を樹立するように、とのお言葉をいただいているので、ただちに政府と大本営の連絡会議をひらいて、国策の再検討をおこなった。
 そして
 一、戦争を回避し、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)する
 二、ただちに開戦を決意し、政戦両略の施策をこれに集中する
 三、戦争決意のもとに作戦準備を完整するとともに、外交交渉を続行して、妥結につとめる
 の三案のうち、どれをとるかということで激論をかさねたのち、陸海軍の強硬論をおさえ、一応第三案を趣旨として進むことにした。
 しかし、対米交渉の急迫とともに、国内の世論はますます沸騰し、アメリカ討つべしの声は上下に満ちた。
 そのころの心境について、のちに赤松大佐ほかの秘書官から質問されたとき、東条はこう答えている。
 「お上からの仰せで、日米交渉を白紙にもどしてやり直すこと、なるべく戦争にならぬように考慮することについて、謹んでこれが実行に当ったが、当時主戦論のたぎる際、戦争に突入することはむしろ容易であるが、このまま戦争をせず、米国の申し入れに屈した場合には、二・二六事件以上のものが起るかもしれない。そうした時は、憲兵と警察を一手に握り、断乎涙を呑んでこれを鎮圧して、治安を微動もさせない必要がある。そのために陸相と内相を兼ね、特に大臣級の人*7を内務次官にしたのであるが、開戦とともに民心が一応落着いたので、内相の兼任はやめ(ボーガス注:湯沢内務次官を内務大臣に昇格し)たわけである」
 つまり、東条の陸相ならびに内相の兼任は権勢欲のためでなくて、治安維持のための必要やむを得ぬ処置なのであった。
 十一月二十七日、米国から回答がとどいた。いわゆるハル・ノート
 一、日本の陸海空軍ならびに警察の支那及び仏印よりの撤退
 二、支那における重慶政権以外の一切の政権の否認(満州国及び汪兆銘政府を認めず)
 三、日独伊三国同盟からの脱退
を実行してはじめて、日米交渉に応ずるというのであるから、日本にとってはまったく過酷で、かつ絶望的なものであった。
 ここで日本は開戦に踏み切ったのであるが、御前会議でその決定を見た直後、東条は赤松秘書官にむかってしみじみと述懐した。
 「お上から、日米交渉を白紙に還元して再検討せよと仰せられたときは、その通りに実施したつもりだったが、どうしても、この際戦争せねばならぬという結論に達したので、お上にお許しを願ったが、なかなかお許しがない。
 しばらくしてようやく、やむを得ないと仰せられたとき、お上が真に平和を愛され、平和を大事にしておられることを、まのあたり拝察できて、まことに申し訳ないと思って、感慨無量であった。
 それからお上が、むかしの日英同盟のことや、お上が英国御訪問のおり、特にむこうの皇室とお親しくされたお話など承ったときは、日本をここまで追い込んだ米国が憎らしくてならなかった。そしてつくづく、もう二度とこのようなことでお許しを願うような羽目におちいりたくないと思った。宣戦の大詔に『あに朕が志ならんや』とある文句は、もと原案にはなかったのを、特にお上の仰せで加えられたたものだ」
(中略)
 サイパンが陥落し、情況が次第に不利となるにしたがって、重臣の間で東条内閣をどうにかせねばならぬという声が高くなった。
 最初に問題になったのは、嶋田繁太郎海相である。
 岡田啓介、米内光政等、海軍出身の重臣から、嶋田を解任せよという要望があり、嶋田海相も東条に進退を相談したが、皇室尊崇一点ばりの東条は、
 「もしお上の御信任が薄くなったということであれば、臣下として考えねばならぬところだが、外部の声に屈することはない。かまわんから大いにやりなさい」
といって嶋田の辞任を認めなかった。
 しかし、重臣方面の圧力はますます強く、ついに海相の更迭と重臣の入閣が決定した。
 重臣は陸軍から阿部信行*8、海軍から米内光政が入閣ときまったが、そうなると、閣僚の椅子が一つ不足するので、誰かにやめてもらわねばならない。
 国務大臣岸信介をやめさせようというので、辞表を出せというと、岸は承知せず、この内閣は総辞職すべきだという。
 岸は木戸内大臣と同郷の長州の関係で親しくしていて、東条内閣打倒を打合せていたのであった。
 木戸内大臣ははじめ、東条に開戦を阻止してもらうつもりで首相に奏薦したのに、アテがはずれた上に戦局が悪化したので、いよいよ東条をひっこめねばならぬと決意していたところ、たまたま岸が同じ意見なので、いっしょに倒閣をはかったのである。
 そのころの規定では、閣僚のうち一人でも辞職に同意しない者があるときは、内閣は総辞職しなければならない。
 東条内閣は岸信介によって総辞職に決定した*9
 七月二十二日、小磯*10内閣が成立した。
 七月末、赤松大佐ほか前秘書官一同は、東条につれられて(ボーガス注:三重県伊勢市の)伊勢神宮、(ボーガス注:奈良県橿原市の)橿原神宮、ならびに(ボーガス注:明治天皇が埋葬されている京都市の)桃山御陵に参拝し、特に(ボーガス注:後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇を祀る大阪府の)水無瀬(みなせ)神宮に詣で、ついで(ボーガス注:大阪府の)桜井ノ駅の跡を訪ねた。
 桜井ノ駅は、楠木正成(くすのきまさしげ)がその子正行(まさつら)と別れたところである。
 ここでも、東条は感慨に堪えぬ面持ちであった。
 東条英機はどこまでも皇室に忠誠を尽し、身命をなげうって、大東亜戦争を最後まで戦い抜くつもりであったが、天皇の側近である木戸内大臣岸信介(ボーガス注:東条内閣商工相)の共謀にさまたげられ、総辞職にまで追い込まれねばならなかった非運を、後醍醐天皇の側近の奸臣にさまたげられ湊川まで出陣しなければならなかった、楠木正成の不幸になぞらえて、悲痛な思いを噛みしめているようにみえた。


【参考:東条の潔癖で真面目な性格について】

人われを上等兵とよぶ 東条英機
 戦況は次第に不利となり、国内の矛盾が露呈してくるとともに、彼に対する不信と非難の声が高くなった。
 非難の一つは、彼が世田谷区用賀に豪壮な邸宅を建築したということであった。
 国内の生活物資が次第に乏しくなっても、国民がじっと耐え忍んでいるのに、権力の地位にある者が、おごりたかぶって、私邸を建築するとは何事かと、人々は憤慨した。新築の邸の写真といわれるものが、ひそかに人々の手から手へ渡った。
 しかし、赤松秘書官と勝子未亡人の談話によると、真相は次の通りであった。
 陸軍部内で東条の地位が上るにつれて、彼はいそがしくなって、すこしの暇もなくなった。
 勤勉と努力が彼の生活信条であったから、わずかの時間でも無駄にすごす気はなかったが、ときどき、
 「今日も一日、人のツラばかり見て暮した。たまには人間のツラを見ないで、ポカンと空でも眺めて暮したいなあ。あまり働きづめだと、身体をこわしてしまうぞ。週に一回くらいは、身体じゅうのゼンマイをすっかりゆるめて、阿呆のようにならなきや……」
と溜息をもらした。
 週末の休養のために、自分の別荘を提供しようと申し出る者もあった。赤松大佐が取次ぐと、はじめのうちは、
 「うんうん」
と聞いているだけだったが、三度目か四度目に容(かたち)を改めて、
 「ちょっと注意しておく。今度から、そのような申し出は取り次ぐに及ばん。財界人とか実業家とかいわれる者の好意を、すこしでも受けると、あとでその会社ヘヨリをかけようというとき、力が入らん」
といった。
 東条はそういう点、潔癖すぎるほど潔癖であった。
 夫が週に一回、人のツラを見ないでぼんやり過せるように、小さな家を作ろうと、勝子夫人が考えて、用賀に土地を買ったのは、昭和十四年であった。
 そのとき東条は中将で、航空総監である。
 建築の制限はできていたが、まだ禁止されているわけではなかった。
 ただ東条は、建築法規に対して神経質になって、
 「絶対、違法のものを作らないように。制限の範囲内で作れ」と、くりかえし言った。
棟梁というのは、名人気質の男だったが、資材の統制のため、だんだん仕事がやりにくくなったので、東条の家を建てるのを最後に、郷里へいって舟大工に転業するつもりで、これまで大事にしていた材料を惜しみなく使った。
 それでも、いろんな材料が不足するけれど、東条は絶対に闇で買うことを許さない。
 仕方がないから、材料のないときは休み、配給のあるときだけ仕事を進めるという風にしていたら、とうとう三年かかって、昭和十七年になった。
 昭和十七年といえば、東条が首相になったばかりで、日本中の視線が一身に集中しているときである。
 建築制限いっぱいの、四十坪の平屋建で、坪四百円、全部で一万六千円しかかかっていない。
 (もっとも、東条家では棟梁に祝儀も含める意味で二万円渡した)。
 一国の宰相の体面にかかわるほどの小さな家だが、門の外から玄関だけのぞいたり、垣根越しに屋根だけ仰いで見ると、結構豪壮に見えないこともない。
 東条は国民に塗炭の苦しみをなめさせておいて、自分だけ栄華にふけっているという声がパッと広まった。
 おまけに、故意か偶然か、これが東条の家だといって、こっそり人の手から手へ渡された写真が、隣の鍋島子爵家の、ほんとうに豪壮な邸宅を撮ったものであったから、国民の反感をそそるに充分であった。
 あるとき農林大臣内田信也が運輸通信大臣五島慶太*11といっしょに御陪食を仰せつけられた。そのとき陛下が、
 「東条は大変りっぱな邸を建築したというが、本当か」
 とおたずねになった。すると内田が、
 「東条の家は、ここにおりまする五島の邸にくらべれば、物置のようなものでございます」
 といったので、陛下はお笑いになった。
 あるとき東条は満州へ出張した。
 奉天の飛行場へは梅津関東軍司令官以下幕僚たちが迎えに出て、東条が飛行機をおりると、一斉に挙手の礼をした。
 梅津は明治四十四年の陸大出で、東条は大正四年卒だから、梅津の方が五年も先輩である。
 しかし、首相の方が関東軍司令官より上だから、梅津は姿勢を正して敬礼したのに対し、東条は歩きながら、ややゾンザイに敬礼を返した。幕僚たちはそれを見て、
 「東条の奴、生意気な野郎だ。先輩に対する礼を知らない」とカンカンになって怒っている。
 ところが、東条は宿へつくと、梅津を上座にすえて、畳に手をついてお辞儀をし、
 「閣下、御無沙汰いたしておりますが、お変りございませんか」と、どこまでも先輩に対する礼をとっている。
 しかし、そういうところを見ているのは赤松秘書官だけで、梅津の幕僚たちは別室で酒を飲んでいて知らないから、東条に対する反感は募るばかりであった。
 私生活の清潔なことが、公人としての欠点であるはずはない。
 しかし、彼が政治家として、あるいは軍人としての才能において、ある欠点を持っているとき、それが私生活における清潔さと同じ原因から出ているということは、かならずしもないことではない。
 英雄色を好むとは限らないが、彼が色を好まないことと、英雄でないこととが同じことを意味する場合だってあるのである。
 佐藤賢了の『東条英機と太平洋戦争』(文藝春秋)によると、荻窪の近衛邸における五相*12会談のあとで、海軍はもしかしたら、日米戦争の遂行に自信がないのではないかと思われたので、佐藤は東条陸相にむかって、
 「大臣、海軍は必勝の信念に動揺があるのかも知れません。が、それを連絡会議や御前会議で、カミシモを着た席では海軍の口から言えないのではないでしょうか。私が席を設けますから、陸相海相参謀総長軍令部総長の四人で、肩の凝らない所で、ドテラがけで、盃を手にしながら懇談してはどうですか」といった。しかし東条は、
 「永野*13(ボーガス注:軍令部総長)も及川(ボーガス注:海軍大臣)も出席した御前会議で、日本の目的が通らなければ開戦に決意すると決め、荻外荘(てきがいそう:近衛元首相の自邸))でも及川が戦争が嫌だとか、自信がないとか言わないのに、ドテラがけでならそんなことを言うと思うのかッ」
 この一喝で、待合政治の提案は吹き飛ばされた。
 しかし、佐藤賢了の着想は、相手が東条英機でなかったらもしかしたら採用され、日本の前途を完全に救ったとはいわないまでも、別の方へ向け変える機会を作ったかも知れないのである。
 こういう例もある。
 宮中では、元総理大臣を勤めたことのある、いわゆる重臣を何人か招いて、毎月会合をひらいていたが、あるときその席で、有名な酒豪の若槻礼次郎が、
 「どうも近頃は、いろんな物が窮屈になって来た。好きな酒でさえ、配給がすくなくて、思う存分に飲めない状態だ」と愚痴をこぼした。
 すると、その席につらなっていた東条首相が、色をなして、
 「これは、重臣のお言葉とも思えません。今や南方でも、北地でも、皇軍将兵があらゆる困苦欠乏に堪えて、戦っております。今こう申している瞬間にも、天皇陛下万歳をとなえながら死んでゆく兵士がいるかもしれません。しかるに、重臣のお一人ともあろう方が、一杯の酒に不自由するとかなんとかいっていらっしゃるとは、まったく時局をわきまえぬ次第だと思います」
 若槻はこれでやりこめられたが、こういう言い方で、東条は重臣その他を敵にまわしていった。
 東条が至誠の人であったことを、疑うわけにゆかない。
 彼は反対派の要人のひとりひとりにスパイをつけて監視し、中野正剛を自殺させたのみならず、自分と意見を異にする山下奉文*14石原莞爾*15を排斥し、また非協力の松前重義を一兵卒として前線に放逐するなど、暴威をふるったことは事実であるが、それはよく言われるように、自己の権勢を維持するためでなく、こうすることが国論を統一し、戦争完遂の力を増すことに寄与すると信じたからであった。
 彼は古い型の道徳に従って、あらゆる障害を排除し、自己の信ずるところに邁進したのである。
 いわば彼は、その心情においては、一点非の打ち所のない、模範的な道徳家だったのである。
 ただ彼は多くの士官学校出の武人と同じように、政治、経済、外交について深い知識を持たず、複雑な近代戦を、単なる国民精神の緊張と道義の高揚によって勝ち抜くことができると信じていた。
 彼の生涯は、愚か者が自己の愚かさを自覚することなく、ただ道義的にやましくないことだけを拠り所として、国民を指導しようとするとき、どういう事態を生ずるかを、最もよく示しているということができよう。


【参考:東条内閣の崩壊について】

東条英機ウィキペディア参照)
 1944年(昭和19年)に入り、アメリカ軍が長距離重爆撃機ボーイングB29の量産を開始したことが明らかになり、マリアナ諸島アメリカ軍に陥落された場合、日本本土の多くが空襲を受ける可能性が出てきた。そこで東條は絶対国防圏を定め海軍の総力を結集することによってマリアナ諸島を死守することを発令し、サイパン島周辺の陸上守備部隊も増強した。東條はマリアナ方面の防備には相当の自信があることを公言していた。
 しかし1944年(昭和19年)6月19日から6月20日マリアナ沖海戦で海軍は大敗し、マリアナにおける制空権と制海権を完全に失った。地上戦でも6月15日から7月9日のサイパンの戦いで日本兵3万名が玉砕し、中部太平洋方面艦隊司令長官・南雲忠一*16も自決した。こうして絶対国防圏はあっさり崩壊し、東條の面目は丸潰れになった。
 こうして、マリアナ沖海戦の大敗後、サイパン島陥落を待たずして、東條内閣倒閣運動は岡田啓介元首相、近衛文麿元首相ら重臣グループを中心に急速に激化する。
 東條はこの窮地を内閣改造によって乗り切ろうと考えた。7月13日、東條の相談を受けた木戸幸一*17内大臣は、
1)東條自身の陸軍大臣参謀総長の兼任を解くこと。
2)海軍大臣嶋田繁太郎*18の更迭。
3)反東条派の重臣の入閣。
を要求した。実は木戸は東條を見限ってすでに反東條派の重臣と密かに提携しており、この要求は木戸へ東條が泣きつくと予期していた岡田や近衛たち反東條派の策略であった。
 木戸の要求を受け入れて東條はまず国務大臣の数を減らし入閣枠をつくるため、岸信介・無任所国務大臣に大臣辞任を要求する。岸はマリアナ沖海戦の敗退によって戦局の絶望を感じ、講和を提言して東條と対立関係に陥り、東條としては岸へ辞任要求しやすかったためである。しかし重臣グループはこの東條の動きを事前に察知しており、岡田は岸に「東條内閣を倒すために絶対に辞任しないでほしい」と連絡、岸もこれに同意していた。岸は東條に対して閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する(旧憲法下では総理大臣は閣僚を更迭する権限を有しなかった)。
 東條は岸に辞任を強要するため、四方諒二・東京憲兵隊長を岸の下に派遣、四方は軍刀をかざして「東条大将に対してなんと無礼なやつだ」と岸に辞任を迫ったが岸は「兵隊が何を言うか。日本で右向け右、左向け左と言えるのは天皇陛下だけだ」と言い返し、脅しに屈しなかった。同時に佐藤賢了*19陸軍省軍務局長を通じて行った米内光政*20元首相の入閣交渉も、すでに東條内閣打倒を狙っていた米内の拒否により失敗する有様であった。
 追い詰められた東條は昭和天皇に続投を直訴する。だが木戸内大臣らの説得を受けていた天皇は「そうか」と言うのみであった。頼みにしていた天皇の支持も失ったことを感じ万策尽きた東條は、1944年7月18日に総辞職、予備役となる。
 東條の腹心の赤松貞雄(東条内閣秘書官)はクーデターを進言したが、これはさすがに東條も「お上の御信任が薄くなったときはただちに職を辞するべきだ」とはねつけたという。東條は次の内閣において、自ら陸軍大臣として残ろうと画策するも、参謀総長梅津美治郎*21の反対で実現せず、結局杉山元*22陸軍大臣となったとされる。
 東条内閣秘書官を務めた広橋眞光による『東条英機陸軍大将言行録』(いわゆる広橋メモ)によると、総辞職直後の7月22日、首相官邸別館での慰労会の席上「サイパンを失った位では恐れはせぬ。百方、内閣改造に努力したが、重臣たちが全面的に排斥し已むなく退陣を決意した。」と東條は発言しており、東條の無念さが窺われる。
 辞任後の東條は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、自宅に隠棲し畑仕事をして暮らした。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年(昭和20年)4月の重臣会議で東條は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎*23首相案に不満で、畑俊六*24元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東條は黙ってしまったという。
 同盟国ドイツも降伏が間近になり、日本も戦局が完全に連合国軍に対して劣勢となったこともあり、重臣の大半が和平工作に奔走していく中で、タカ派の東條のみが徹底抗戦を主張し重臣の中で孤立していた。
 終戦工作の進展に関しては批判的だった。1945年(昭和20年)2月26日には、天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまことに遺憾であります」と徹底抗戦を上奏、この上奏の中で、「アメリカはすでに厭戦気分が蔓延しており、本土空襲はいずれ弱まるでしょう」、「ソ連の参戦の可能性は高いとはいえないでしょう」と根拠に欠ける楽観的予想を述べたが、この予想は完全に外れることになった。
 また、東條はかつて「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命に従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた。また、広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている。
 だが、御前会議で天皇の「終戦の聖断」が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がある以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。御前会議の結果を知った軍務課の中堅将校らが、東條にクーデターへの同意を期待して尋ねると、東條の答えは「絶対に陛下のご命令にそむいてはならぬ」であった。さらに東條は近衛師団司令部に赴き娘婿の古賀秀正少佐に「軍人はいかなることがあっても陛下のご命令どおり動くべきだ」と念押ししている。だが、古賀は宮城事件に参加し、東條と別れてから10時間後に自決している。


【昭和天皇の87年】東条英機の逆鱗 政敵・中野正剛は割腹自殺した - 産経ニュース
 「中野を精神的に追い詰めて、自殺に追い込んだ*25のは東条*26ではないのか」と東条を非難する産経です。
 そういう非難は以前から存在し別に珍しくないですし、間違ってるとも俺個人は思いません。
 ただ産経の場合「東条たち部下が悪い。昭和天皇は悪くない」と言う無茶苦茶な昭和天皇免罪が目的ですから話になりません。
 東条を首相に任命したのは昭和天皇である以上、基本的に東条のやったことは全て昭和天皇にも政治的、道義的責任があります。
 そして「戦前の東条批判」というのは多くの場合「昭和天皇批判」「日本政府批判」ではなく、「東条が悪い、昭和天皇は悪くない」「昭和天皇を守るためには東条を首相から引きずり下ろす必要がある」「もはや敗戦が事実上決まった以上、東条の言うような徹底抗戦など無謀だ」レベルの話でしかない。「太平洋戦争開戦が間違っていた」「いやそれ以前に日中戦争が間違っていた」という話では必ずしも無い。
 現在の視点で見れば手放しで評価できない代物です。
 それにしても「この記事での東条批判」と「靖国への東条の合祀支持」が矛盾するとは産経は思わないんですかねえ?。昭和天皇が東條ら戦犯合祀をきっかけに靖国参拝をやめた理由の一つは「東条については右派の中でも、このように毀誉褒貶があるから(皆が手放しで東条を褒めてるわけではないから)」なのですが。何も戦前、戦後において東条批判者は「皆、左翼」というわけでもない。
 中野は明らかな右翼政治家ですし。
 またウィキペディア東条英機」は東条内閣打倒工作に関わった人間(いわゆる重臣グループ)として「岡田啓介*27元首相」、「岸信介・東条内閣商工相」、「近衛文麿*28元首相」、「平沼騏一郎*29元首相」、「若槻礼次郎*30元首相」の名を上げていますが彼らも誰一人として左翼ではないわけです。
 なお、そもそも東條は自分から首相を目指していたというよりは「陸軍を抑えるには陸軍統制派幹部の東條が良いのではないか」ということで木戸内大臣重臣グループが担ぎ出したわけで、東條からすれば「なりたくてなった首相でもないのに、担ぎ出した連中が倒閣工作とはどういうことか」と不快だったでしょう。
 しかし戦況が悪化するにつれ「徹底抗戦(東條)」、「日本の敗北は決まった、もはや『国体護持』を条件とした終戦工作に動くしかない(木戸内大臣重臣グループ)」とでは意見が乖離していくわけです。
 重臣グループは「東條を打倒しなければ終戦工作が出来ない」と東條内閣打倒を目指し、一方「終戦工作など論外だ」というタカ派の東條は「絶対に首相は辞めない」と打倒工作に最後まで徹底的に抵抗していきます。

参考

中野正剛ウィキペディア参照)
 首相・東條英機が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。1942年(昭和17年)に大政翼賛会を脱会している。同年の翼賛選挙に際しても、自ら非推薦候補を選び、東条首相に反抗した。東方会は候補者46人中、当選者は東方会総裁の中野を含め7人だけであった。それでも翼賛政治会に入ることを頑強に拒み、最終的には星野直樹*31をの説得でようやく政治会に入ることを了承した。
 そして、同年11月10日、早稲田大学大隈講堂において、「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東條を弾劾する大演説を行った。
 中野の反東條の動きはますます高まり、1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ。幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできているのである」と東條首相を痛烈に批判した。
 同年3月、第81帝国議会で戦時刑事特別法の審査をめぐって、6月、第82帝国議会で企業整備法案審議をめぐりそれぞれ政府原案に反対した。議会内では鳩山一郎*32三木武吉らに呼びかけ、議会で東條内閣に対する批判を展開するが、東條側の切り崩し工作によって両法案反対運動は頓挫する。
 議会での反東條の運動に限界を感じた中野は近衛文麿元首相や岡田啓介元首相たち反東條の「重臣グループ」と連携をとり、松前重義*33らと共に東條内閣の打倒に動きはじめた(松前はこのため報復の懲罰召集を受けてしまう)。こうして中野を中心にして、重臣会議の場に東條を呼び出し、戦局不利を理由に東條を退陣させて宇垣一成*34を後任首相に立てようとする計画が進行し宇垣の了解も取り付け、東條を重臣会議に呼び出すところまで計画が進行したが、この重臣会議は一部の重臣が腰砕けになってしまい失敗に終わる。 
 そののち、中野は東久邇宮稔彦王*35を首班とする内閣の誕生を画策する戦術に切替えたが、東條側の打つ手は中野の予想以上に早く、まず1943年(昭和18年)9月6日、中野の部下・三田村武夫が警視庁特高部に身柄拘束される。警視庁は10月21日に東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名を身柄拘束する中で中野も拘束された。
 東條は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。結局、中野は10月25日に釈放される。その後、東條の直接指令を受けた憲兵隊によって自宅監視状態におかれ、その後の議会欠席を約束させられたという説がある(戸川猪佐武『東條内閣と軍部独裁』講談社)。
 そして同年10月27日自宅1階の書斎で割腹自決、隣室には見張りの憲兵2名が休んでいた。自決の理由はいまだに不明で、一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている。また自身が行った東久邇宮の首相担ぎ出し工作について、東條に攻撃されることにより、皇族に累が及ぶことを懸念していたからだという説もある。


【浪速風】国会の劣化が目に余った - 産経ニュース
 いつもの「野党の桜を見る会疑惑追及などくだらない」「そんなことより重要な問題がある」という「産経の劣化が目に余る」記事です。
 むしろ「自民党安倍内閣の劣化が目に余った」というべきでしょう(「自民党安倍内閣の劣化が目に余る」のは、モリカケや安倍ニッキョーソヤジ、麻生ナチス暴言など以前からの話ですが)。


【産経抄】12月28日 - 産経ニュース

 年が明けたら、いよいよ話題の中心がポスト安倍*36レースに移りそう

 産経も「安倍四選の可能性は低い」と見ているようです。

▼5年5カ月の長期政権を築き、抵抗勢力を抑えて一強状態にあった小泉純一郎*37政権時もそうだった。末期に、自民党中堅議員に村上ファンドインサイダー取引事件の小泉政権への影響を聞いたところ、こんなそっけない言葉が返ってきた。
 「もう終わる政権のことなんかどうでもいい」。

 「ホンマかいな」ですね。
 「小泉内閣規制緩和路線が村上ファンドの犯罪を産んだという批判があるので、そうした批判についてまず耳を傾けたい。その上でその批判に正当性があれば、我々に過ちがあれば正すが、不当な批判なら反論したい」「いずれにせよ適切な対応をすれば影響はないと思う」ならまだしも無責任すぎでしょう。大体「ポスト小泉」の「安倍(小泉内閣官房長官)」「福田(小泉内閣官房長官)」「麻生(小泉内閣総務相)」、全て小泉政権幹部であり、小泉政権とつながりがあるのにそんな言い訳は通用するもんではない。
 本当にそんな無責任な「中堅議員」がいるというなら名前を教えてほしいくらいです。

 安倍首相が求心力を保ち「私の手で成し遂げたい」と明言する憲法改正を実現するには、党内の抵抗勢力を牽制(けんせい)し、好きにさせないための仕掛けも必要だろう。

 おいおいですね。「小泉政権時の郵政離党議員(野田聖子*38平沼赳夫*39など)など」ならまだしも、今の自民党内のどこに「安倍の抵抗勢力」なんかいるのか。あえて言えば「安倍三選を阻止しようと総裁選に唯一出馬したが故に、今安倍に干されてる」石破*40元幹事長(石破派ボス)でしょうが、「麻生*41副総理・財務相麻生派ボス)」「二階*42幹事長(二階派ボス)」「岸田*43政調会長(岸田派ボス)」「細田*44元幹事長(安倍の出身派閥・細田派ボス)」といった「石破派を除く派閥」の「ボス連中」が安倍を「思惑はともかく必死に支えてる」がゆえに石破としても「安倍政権の支持率が大幅にダウンし、麻生ら派閥ボスが安倍から離反しない限り」、打つ手がない状況です。
 かつ、石破は「細かい部分では安倍と考えの違いはある」でしょうが宮沢*45元首相、河野*46元総裁、加藤*47元幹事長などのような「自民党ハト派護憲派」ではなく改憲派です。
 今の自民には安倍批判する護憲派などどこにもいない。
 安倍が改憲できない理由、それは「党内の抵抗勢力」などではなく「自民党支持層ですら改憲を積極的に支持しないから」「改憲が中国、韓国、ロシアなど近隣諸国の反発を招きかねないから」という理由であることは産経も分かってるでしょうに。

 長期政権を担う首相は、後継者育成に努めるべきだとの声もあるが、そんな悠長なことを言っている時間はもうない。
 そもそも「人物になると、ならないのとは、畢竟(ひっきょう)自己の修養いかんにあるのだ」(勝海舟『氷川清話』)。

 安倍が育てようと思えば、いくらでも育てる時間はあったはずです。結局「安倍には育てる意思も能力も無い」と言う話にすぎません(もしかしたら、自民党政調会長や防衛相に任命した稲田を『育てる気』だったのかもしれませんが)。
 勝海舟*48も安倍の無能さを正当化するのに自分が使われるとは思ってもみないでしょう。
 それはともかく、安倍が「実弟佐藤栄作*49」「岸派を継がせた子分・福田赳夫*50」「女婿・安倍晋太郎*51」によって首相退任後も政治的影響力を保有した岸信介*52のような「有能でないこと」は安倍批判派にとって幸いです。安倍が退陣すれば、「三度目の首相就任が無い限り」奴の政治力は失われるわけですから。

 安倍首相は周囲に語っている。
衆院解散は私の決断次第でいつでもできる。憲法改正のために必要であれば、そのときは解散する」。

 過去に安倍は解散をしていますが一度として改憲を前面に出した解散などしていません。そして解散後、改憲スケジュールが進んだ事実も過去にない。こうした状況はおそらく今後も変わらないでしょう。
 つまり仮に何らかの理由で解散するにしても「改憲のための解散」など安倍は今後もしないし、解散によって仮に自民の議席が増えたとしても、それが改憲スケジュールの進展につながることもおそらく無い。


【ソウルからヨボセヨ】韓国社会の平衡感覚 - 産経ニュース

 興味深かったのは、大手のテレビ討論番組に出演したとき、知り合いからほとんど反応がなかったのに、さるユーチューブ放送に出たときはたくさんの声が寄せられたことだ。筆者の知り合いの多くは年配の保守派だが、彼らはテレビよりもユーチューブ放送を見ているというわけだ。
 今やテレビは政権に握られているため保守派はネットメディアで留飲を下げ、鬱憤を晴らしている。

 もちろん「テレビは政権に握られている」なんて事実はどこにもないでしょう。
 単に「テレビでは極右の言い分など放送されないだけ」であり、極右にとっては「俺たちを支持しないモノは文政権支持」に見えるだけの話です。しかし黒田もその種の極右との交遊を公言とは呆れたバカです。

*1:陸軍次官、台湾軍司令官、第10軍司令官、興亜院総務長官、第二次近衛内閣司法相、第三次近衛内閣無任所国務相など歴任

*2:陸軍省兵務局長、人事局長、第11軍司令官、第2方面軍(ニューギニア)司令官、陸軍航空総監、鈴木内閣陸軍大臣など歴任

*3:内田造船創業者。後に政界に進出し、戦前、岡田内閣鉄道相、東條内閣農商相を歴任。戦後、吉田内閣で農林相

*4:参謀本部第4部長、参謀本部第1部長、陸軍次官(人事局長兼務)、第4航空軍司令官など歴任

*5:第3航空軍参謀長、第4航空軍参謀長など歴任

*6:第2次、第3次近衛内閣海軍大臣軍令部総長など歴任

*7:内務次官経験者の湯沢三千男のこと

*8:台湾軍司令官、首相、朝鮮総督など歴任

*9:とはいえこの時期は側近・木戸の影響で「積極的に賛同はしない」までも天皇は木戸らの「東条政権打倒工作」を容認していました。

*10:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼内閣、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督を経て首相。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀

*11:東急グループ創業者。東条内閣で運輸通信大臣

*12:首相、蔵相、外相、陸軍大臣海軍大臣のこと

*13:広田内閣海軍大臣連合艦隊司令長官軍令部総長など歴任。戦後、戦犯として裁判中に病死。後に靖国に合祀

*14:226事件当時、陸軍省軍事調査部長。青年将校と同じ皇道派だったため、東条英機武藤章ら統制派が陸軍の実権を握った事件後は、歩兵第40旅団長に左遷される。その後、支那駐屯混成旅団長、北支那方面軍参謀長、第4師団長(満州)、第25軍司令官(マレーシア)、第1方面軍司令官(満州)、第14方面軍司令官(フィリピン)など歴任。戦後、死刑判決

*15:関東軍作戦主任参謀として満州事変に関与。関東軍作戦課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第1部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*16:第一航空艦隊司令長官、第三艦隊司令長官、第一艦隊司令長官、中部太平洋方面艦隊司令長官など歴任

*17:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*18:東条内閣海軍大臣軍令部総長など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*19:支那方面軍参謀副長、陸軍省軍務局長、支那派遣軍総参謀副長など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*20:戦前、林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海軍大臣、首相を歴任。戦後、東久邇宮、幣原内閣で海軍大臣

*21:関東軍司令官、参謀総長など歴任。戦後終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀

*22:陸軍教育総監、林、第一次近衛、小磯内閣陸軍大臣参謀総長など歴任。戦後、自決

*23:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長、首相などを歴任

*24:陸軍航空本部長、台湾軍司令官、陸軍教育総監、中支那派遣軍司令官、阿部、米内内閣陸軍大臣支那派遣軍総司令官など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*25:自殺に追い込んだどころか「自殺しなければ親族や知人、友人など周囲に何があるか分からない(憲兵隊で逮捕するかもしれない)」と恫喝して事実上、自殺を強要したとする説すらありますが、今となっては真相は分かりません。

*26:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*27:田中、斎藤内閣海軍大臣、首相など歴任

*28:貴族院議員、首相を歴任。戦後、戦犯指定されたことを苦にして自殺

*29:検事総長大審院長、第二次山本内閣司法相、枢密院議長、首相、第二次近衛内閣内務相など歴任。戦後、終身刑判決で服役中に病死。後に靖国に合祀。

*30:第3次桂、第2次大隈内閣蔵相、加藤高明内閣内務相などを経て首相

*31:戦前、第2次近衛内閣企画院総裁、東条内閣書記官長などを歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。旭海運社長、ダイヤモンド社会長などを歴任

*32:戦前、田中内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相を歴任。戦後、日本民主党総裁、自民党総裁、首相を歴任

*33:東海大学創立者。戦後、東久邇宮、幣原内閣逓信院総裁、社会党代議士を歴任。

*34:清浦、加藤高明、第1次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相など歴任

*35:戦前、第二師団長、第四師団長、陸軍航空本部長などを歴任。戦後、首相

*36:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*37:宮沢内閣郵政相、橋本内閣厚生相を経て首相

*38:小渕内閣郵政相、福田、麻生内閣消費者問題等担当相、自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)、第四次安倍内閣総務相など歴任

*39:村山内閣運輸相、森内閣通産相小泉内閣経産相たちあがれ日本代表、日本維新の会代表代行、次世代の党党首など歴任

*40:小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍内閣地方総裁担当相を歴任

*41:橋本内閣経済企画庁長官、森内閣経済財政担当相、小泉内閣総務相、第一次安倍内閣外相、自民党幹事長(福田総裁時代)などを経て首相。現在、第二~四次安倍内閣副総理・財務相

*42:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)を経て幹事長

*43:第一次安倍、福田内閣沖縄・北方等担当相、第二次、第三次安倍内閣外相を経て自民党政調会長

*44:小泉内閣官房長官自民党幹事長(麻生総裁時代)、総務会長(第二次安倍総裁時代)など歴任

*45:池田内閣経済企画庁長官、佐藤内閣通産相、三木内閣外相、鈴木内閣官房長官、中曽根、竹下内閣蔵相などを経て首相。首相退任後も小渕、森内閣で蔵相

*46:新自由クラブ代表、中曽根内閣科学技術庁長官、宮沢内閣官房長官自民党総裁、村山、小渕、森内閣外相、衆院議長を歴任

*47:中曽根内閣防衛庁長官、宮沢内閣官房長官自民党政調会長(河野総裁時代)、幹事長(橋本総裁時代)を歴任

*48:江戸幕府軍艦奉行、海軍奉行、陸軍総裁など歴任。明治新政府では参議、海軍卿、枢密顧問官など歴任

*49:運輸次官から政界入り。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相科学技術庁長官などを経て首相

*50:大蔵省主計局長から政界入り。岸内閣農林相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣蔵相、外相、田中内閣行政管理庁長官、蔵相、三木内閣副総理・経済企画庁長官などを経て首相

*51:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*52:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、日本民主党幹事長、自民党幹事長、石橋内閣外相を経て首相