「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2023年4/23日分:荒木和博の巻)(副題:多田駿についていろいろ)

◆荒木ツイート

 令和5年5月1日月曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1112号。敗戦後、米国の(そのとき*1の)歴史観を押しつけられてしまったために、本来日本人が自分でやるべき反省ができてこなかったのではないかというお話しです。

 5分52秒の動画です。
1)拉致問題と何一つ関係ない
2)「押しつけられた」云々で分かるように完全な「戦前日本の侵略、植民地支配正当化の居直り」
と言う意味で心底呆れます。
 勿論「戦前日本の批判派」は「米国の原爆投下」「米国の天皇免罪(政治的思惑から不起訴)」等を批判しており「米国に押しつけられた」どころか、むしろ米国には批判的です。
 なお「反省」と言ったところで勿論、荒木等ウヨの「反省」とは「人道的な話」や「平和主義」ではなく

◆負ける戦争をしてしまった
◆植民地(朝鮮や台湾)を失ってしまった
石原莞爾満州事変当時、関東軍参謀)が計画したように、満州国建国で打ち止めにすべきではなかったか
◆いわゆる「不拡大派*2」の多田駿*3参謀次長、石原莞爾*4参謀本部第一部長が計画した「トラウトマン和平工作」で停戦し、うまく片をつけられなかったか
→なお、この工作は近衛*5首相、広田*6外相、杉山*7陸相、米内*8海相らの反対で挫折
仏印進駐で東南アジアにまで手を出して対米関係が悪化したのがまずかった

等という「勝ち負け、損得の話」でしかない。動画を見ればそれがわかります。

【参考:トラウトマン和平工作

トラウトマン和平工作 - Wikipedia参照
 大本営政府連絡会議の席上では、交渉の打ち切りを主張する広田外相と、継続を主張する多田参謀次長とが鋭く対立した。多田は、「この機会を逃せば長期の戦争になる可能性がある」と強調し、古賀*9軍令部次長もそれに同意したが、古賀は米内海相から説得を受け交渉打ち切り論を飲まされた。
 広田外相が「私の永い間の外交官生活の経験から見て、中国側の態度は、和平解決の誠意のない事は明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と発言。米内海相はこれに同調し「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部(参謀本部)が外務大臣を信用しないという事は、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と発言。最終的に「内閣総辞職までは希望しない」多田が内閣総辞職をほのめかす「政府側の圧力」に屈した形になった。しかし、なおも多田は諦め切れず、最後の賭として、昭和天皇への帷幄上奏(統帥権独立を根拠に内閣を通さずに軍が直接上奏すること)*10により政府決定の再考を得ようとした。しかし、「多田の帷幄上奏」を予想して、先に「多田が上奏しても取り上げないで欲しい」と上奏した近衛首相によって、多田の試みは阻まれた。

多田駿 - Wikipedia参照
・多田参謀次長が中心となって推進したこの和平工作は、「トラウトマン和平工作」と呼ばれ、秦郁彦*11は著書で『数多い和平工作のなかでも、日中両国政府の最高指導部が戦争終結とその条件について、ある程度まで意志を流通させたことが確認できる唯一の例であり、また戦争打ちきりの可能性を残した最後の機会であった』と好意的に評価している。
・1938年(昭和13年)1月15日の大本営政府連絡会議では、多田は「この機を逃せば長期戦争になる恐れがある」として交渉継続を主張した。
 しかし、堀場一雄*12支那事変戦争指導史』(1962年、時事通信社)によれば多田を除く会議出席者は、和平工作の打ち切りを主張した。
杉山陸相『期限まで返電なきは和平の誠意なき証左なり。蒋介石を相手にせず屈服するまで作戦すべし』
広田外相『永き外交官生活の経験に照らし、支那側の応酬ぶりは和平解決の誠意なきこと明瞭なり。参謀次長は外務大臣を信用せざるか』
近衛首相『速やかに和平交渉を打ち切り、我が態度を明瞭ならしむるを要す』
米内海相『政府は外務大臣を信頼す。統帥部が外務大臣を信用せぬは同時に政府不信任なり。政府は辞職の外なし』
 井本熊男*13支那事変作戦日誌』(1998年、支那事変作戦日誌)によれば多田は最後にこう述べたという。
多田『参謀本部としてはこの決議(近衛内閣による『和平工作打ち切り』決定のこと)には同意しかねるが、しかしこれがために内閣が潰れることになれば国家的にも非常に不利であるから黙過して、あえて反対は唱えない。』
 1938年8月には「不拡大派」多田参謀次長と「拡大派」東條*14陸軍次官との対立が深刻化する。
 多田は板垣*15陸相に東條の更迭を要求、対する東條も板垣に『多田が更迭されれば次官を辞める』として抵抗した。
 結局、喧嘩両成敗で二人とも退任することになったが、多田が参謀次長より格下の「第3軍司令官」に転出となったのに対し、東條は新設された陸軍航空総監へ「栄転」の形となったため、多田は憤慨し板垣と絶縁状態になったという。
 1939年8月、平沼*16内閣が総辞職し、後継首相は阿部信行*17陸軍大将となった。阿部内閣の組閣時、多田を板垣陸相の後任として陸軍三長官(板垣陸相閑院宮載仁参謀総長西尾寿造*18陸軍教育総監)会議で陸相候補に決定した(候補には他に東条陸軍航空総監の名が挙がったが、板垣陸相が反対して多田に決まったとされる)。しかし、この決定は波紋を起こした。当時の陸軍省軍務課長・有末精三*19の著書『政治と軍事と人事:参謀本部第二部長の手記』(1982年、芙蓉書房)によれば、渡部富士雄防衛課長が有末の部屋に来て「これでは血を見ますよ!」と述べて多田と東條の対立の再燃を警告したという。実際、東條は多田の陸相就任を阻止しようと活動し、東条派の加藤泊治郎東京憲兵隊長が木戸幸一*20内相に多田反対を要請した。
 一方で、昭和天皇からは「次の陸相には畑(俊六)*21か梅津(美治郎)*22を」との示唆があった。また、昭和天皇は新聞報道で多田が新陸相候補に挙がっていることについて、阿部首相に「新聞に伝えるような者を陸軍大臣に持って来ても、自分は承諾する意思はない」と述べたという(昭和天皇が多田を拒絶した背景には、トラウトマン和平工作で石原と多田が連携したことで、石原への警戒感があったと推測されている)。
 結局、陸軍三長官会議のやり直しにより、陸相候補は畑となったため、多田陸相は実現しなかった。なお、陸軍三長官会議で決定した陸相候補が、再検討で覆されたのは、多田の事例が最初で最後である*23
 筒井清忠*24京都大学名誉教授は著書でこの事件を次のように評している。
「(ボーガス注:多田こそは)日中戦争不拡大派であり、この時、天皇の支持すべき陸軍軍人であったのだ。その(中略)多田の陸相就任を天皇が潰したのだった。またしても歴史は皮肉というしかなく、『多田が陸相になっていたら』というイフは残り続けるであろう」
 1941年7月、陸軍大将に親任されると同時に軍事参議官に親補されるが、2か月後に予備役に編入された。多田と同じ陸士15期の陸軍大将である梅津美治郎や蓮沼蕃*25(多田、梅津が1882年生まれ、蓮沼が1883年生まれ)は現役のままであり、多田を嫌う東條陸相によって予備役に追いやられたとされる。

 その後の歴史を知る我々は皮肉にも【1】トラウトマン和平工作継続派「多田」の危惧、懸念(戦争の泥沼化)が全く正しかったこと、【2】この時の和平工作反対も理由にして近衛(戦犯指定を苦に自殺)や広田(死刑判決)が戦後、戦犯指定されたことを知っています。

荒木和博
 令和5年4月26日水曜日「荒木和博のショートメッセージ」第1107号。何となく見ている敬礼ですがこんな話もあります。

 4分38秒の動画です。「自衛隊の敬礼」云々で、拉致問題と何一つ関係ないので心底呆れます。


棒読みだけならチャットGPTの方がまし【調査会NEWS3716】(R5.4.23): 荒木和博BLOG

 特定失踪者の目撃情報について、川合孝典議員(国民民主党)が質問したときでも、松野大臣の答弁は「今後の活動に支障を来す恐れがあるので具体的な内容についてはお答えを差し控えさせていただきます」というものでした。

 勿論松野氏*26が「国内で40人以上も発見されてる特定失踪者(勿論、発見者の失踪は全て北朝鮮は無関係で、ほとんどが自発的失踪)など北朝鮮拉致の訳がない」「目撃証言など信用できるか」と思ってることは確かでしょう。
 但し「救う会、家族会の反発」が怖くてお茶を濁すわけです。
 なお、こうした「お茶を濁す対応」は何も松野拉致担当相(官房長官)だけでなく、過去の担当相も基本的には同じです。

*1:「そのとき」と言う表現が「おいおい」ですね。今の米国の価値観は「当時とは違う」とでも言う気なのか。いくら「いわゆる逆コース」で「賀屋興宣(戦前、東条内閣蔵相、戦後、終身刑判決を受けるが逆コースで釈放。公職追放も解除され政界に復帰。自民党政調会長(池田総裁時代)、池田内閣法相等を歴任)」などが復権したとは言え、さすがに米国は「戦前日本を正当化したこと」は一度もない。

*2:勿論多田も石原も平和主義ではなく「戦争泥沼化での打撃」を恐れていたにすぎませんが。

*3:支那駐屯軍司令官、参謀次長、北支那方面軍司令官など歴任。

*4:関東軍作戦主任参謀、関東軍作戦課長、参謀本部作戦課長、参謀本部第一部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官、第16師団長(京都)など歴任

*5:貴族院議長、首相を歴任。戦後、戦犯指定を苦にして自殺

*6:斎藤、岡田、第一次近衛内閣外相、首相など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀

*7:林、第一次近衛、小磯内閣で陸相。太平洋戦争開戦時の参謀総長。戦後、自殺

*8:林、第一次近衛、平沼、小磯、鈴木内閣海相、首相など歴任

*9:軍令部次長、第二艦隊司令長官、支那方面艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官、連合艦隊司令長官など歴任。連合艦隊司令長官在任中にいわゆる海軍乙事件 - Wikipediaで行方不明となる。

*10:この件については、山田朗氏も著書『昭和天皇の軍事思想と戦略』(2002年、校倉書房)で指摘していますが「政府決定を帷幄上奏で覆そう」と多田が考えること自体が昭和天皇がお飾りでないことの「傍証の一つ」です。他にも「満州某重大事件(張作霖爆殺)での昭和天皇の叱責による田中義一首相辞任」「226事件鎮圧(責任問題を恐れて鎮圧に消極的な陸軍を批判)」等、昭和天皇の「政治的実権」を証明する逸話は多数ありますが。

*11:千葉大学名誉教授。2014年、 産経「正論大賞」受賞者という歴史修正主義極右。著書『昭和天皇 五つの決断』(1994年、文春文庫)、『盧溝橋事件の研究』(1996年、東京大学出版会)、『慰安婦と戦場の性』(1999年、新潮選書)、『歪められる日本現代史』(2006年、PHP研究所)、『統帥権と帝国陸海軍の時代』(2006年、平凡社新書)、『南京事件(増補版)』(2007年、中公新書)、『慰安婦問題の決算』(2016年、PHP研究所)、『病気の日本近代史:幕末からコロナ禍まで』(2021年、小学館新書)など

*12:1901~1953年。支那派遣軍参謀、第2方面軍参謀、南方軍参謀、第5航空軍参謀副長など歴任

*13:1903~2000年。戦前、大本営陸軍参謀、陸軍大臣秘書官等を、戦後、統合幕僚会議事務局長、陸上自衛隊幹部学校校長等を歴任

*14:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸相、首相など歴任。戦後死刑判決。後に靖国に合祀

*15:満州事変時の関東軍高級参謀。関東軍参謀長、第一次近衛、平沼内閣陸相朝鮮軍司令官、第7方面軍司令官(シンガポール)など歴任。戦後死刑判決。後に靖国に合祀

*16:検事総長大審院長、第2次山本内閣司法大臣、枢密院議長、首相、第二次近衛内閣内相など歴任。戦後終身刑判決で服役中病死。後に靖国に合祀

*17:陸軍次官、台湾軍司令官、首相、朝鮮総督など歴任

*18:関東軍参謀長、参謀次長、近衛師団長、陸軍教育総監支那派遣軍総司令官など歴任

*19:陸軍省軍務課長、参謀本部第二部長など歴任

*20:第一次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣を歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*21:侍従武官長として昭和天皇に仕えた際に信任を得たとされる。阿部、米内内閣で陸相。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*22:関東軍司令官、参謀総長など歴任。戦後終身刑判決で服役中病死。後に靖国に合祀

*23:これまた「昭和天皇がお飾りでないこと」を示す逸話です。

*24:著書『二・二六事件とその時代』(1994年、講談社学術文庫→2006年、ちくま学芸文庫)、『西條八十』(2008年、中公文庫)、『近衛文麿』(2009年、岩波現代文庫)、『昭和戦前期の政党政治』(2012年、ちくま新書)、『戦前日本のポピュリズム:日米戦争への道』(2018年、中公新書)、『天皇・コロナ・ポピュリズム:昭和史から見る現代日本』(2022年、ちくま新書)など

*25:駐蒙軍司令官、侍従武官長など歴任

*26:第三次安倍内閣文科相などを経て岸田内閣官房長官(拉致担当相兼務)