新刊紹介:「歴史評論」3月号(その1)

★特集:歴史のなかの〈異国人/日本人〉の子ども
・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生なりに紹介できる内容のみ紹介します。

■「〈異・外国人〉との子ども」研究の整理と「からゆきさん」事例 (嶽本新奈*1
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

【参考】

■からゆきさん(ウィキペ参照)
 九州で使われていた言葉で、19世紀後半、主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた日本人女性のことを指す。
 ただし、森崎和江によれば明治時代の九州では、娼婦に限らず海外へ出稼ぎに行った男女を「からゆきさん」と呼んでいた(シベリア鉄道建設の工夫やハワイ移民も含む)。大正時代頃から主に東南アジアへ行った娼婦を呼ぶようになった。
 女性たちは長崎県島原半島熊本県天草諸島出身が多く、海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。
 からゆきさんの主な渡航先はアジアである。ただし、さらに遠くシベリアやアフリカ(ザンジバル)に渡った日本人女性の例もある(例えば、倉橋正直*2『北のからゆきさん』(2000年、共栄書房)、白石顕二*3ザンジバル娘子軍(からゆきさん)』(1995年、社会思想社現代教養文庫)参照)。
 九州を除けば当初は、一般に知られた言葉ではなかった。広く知られるようになるのは山崎朋子*4『サンダカン八番娼館』(1972年、筑摩書房)以降とされる。
 派生語の「ジャパゆきさん」は1980年代初めの造語で、20世紀後半、逆にアジア諸国から日本に渡航して、ダンサー、歌手、ホステス、ストリッパーなどとして働く外国人女性を指して使われた。

http://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20150808/p3
■書評『「からゆきさん」:海外〈出稼ぎ〉女性の近代(嶽本新奈)』
「からゆきさん」の語を広く知らしめた山崎朋子『サンダカン*5八番娼館』*6の副題は「底辺女性史序章」だった。山崎は近代日本史上最も悲惨な存在として「海外に連れ出され」「異国人を客」とした「出稼ぎ」女性に注目した。
 本書はこうした〈からゆきさん=底辺女性〉とする価値観の生成過程を辿る。例えば福沢諭吉は海外移住する日本人のため公娼制が必要と考えたが、「天は人の下に人を造らず」の言葉とは裏腹に娼妓たちを欧米のように「人類の最下等」扱いせよと主張した。
 存娼派の福沢と立場は異なるが、キリスト教徒を中心とする廃娼運動家たちも差別意識の形成では足並みを揃えた。性交が女性の体質を変え、以後の出産でも最初の相手の形質が発現すると考える非科学的なテレゴニー説が導入されると、廃娼派は海外「出稼ぎ」女性を日本人の「純潔」と「純血」への脅威とみなして廃絶を求め始める。
 しかし、彼女たちはただ受動的に「底辺」に追いやられただけの存在ではなかった。山崎に先んじて元海外「出稼ぎ」女性への聞き取りを行った森崎和江*7は、彼女たちが異国の地にいてなお日本人のアイデンティティーを持ち続け、結果として自らが日本の海外膨張主義の「先兵」となってしまう屈折した自縛の構図を浮かび上がらせていた。
 「抑圧された性」のひと言では括れない海外「出稼ぎ」女性の実態を「いたましげに寄りそいつつ、自らの生活態度をくずそうとはしない市民的なまなざし」は見失う。そう批判していた約40年前の森崎の言葉を著者は引く。
 確かに初めから「悲惨」と決めつけて対象に向かい合う姿勢は排除を進めてきた価値観に相乗りしがちだし、感傷が勝ると問題の複雑さを見失わせ、解決を遠ざける。からゆきさんは過去の存在となったが、新たな差別を対象に同じ轍を私たちは今なお踏んでいないか検証すべきだろう。

■サンダカン八番娼館 望郷(ウィキペディア参照)
・1974年の日本映画。熊井啓*8監督。原作はノンフィクション作家・山崎朋子の『サンダカン八番娼館:底辺女性史序章』(初版1972年)。
 元からゆきさんを演じた田中絹代*9は、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した。
■あらすじ
・日本の女性の近代史を研究している三谷圭子(栗原小巻*10)は、旅行中の天草で偶然、おサキさん(田中絹代)という老婆と知り合う。現在貧しい暮らしをおくる彼女が、ボルネオに出稼ぎしていた元「からゆきさん」であることを知った三谷は、おサキさんの家に泊めてもらい、その半生を聞き、書き取る。

http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2015/08/post_379.html
■『「からゆきさん」:海外<出稼ぎ>女性の近代』嶽本新奈(共栄書房)
(前略)
 帯には、「「からゆきさん」研究に新たな地平を切り拓く緻密な表象史」とある。終章註(21)で、著者はつぎのように述べている。
「むしろ私たちが考えるべきは、なぜ森崎[和江]の意図が看過され、山崎[朋子]の『サンダカン[八番娼館]』は社会に広く受容されたのか、だろう。また、森崎のからゆきさんの描き方に問題がないわけではない。その点については、森崎のジェンダー観もふくめて稿を改めて検討したいと考えている」。
 著者は、終章で「森崎と山崎の比較を通じて」、森崎が「からゆきさんに植民地主義輻輳性を見出し、彼女たちが膨張主義の体現者となってしまったことを描いた」のにたいして、「「底辺女性史」を執筆したいと願う山崎は、からゆきさんが持つこの輻輳性と軋轢には目をむけなかった」ので、「「慰安婦」をからゆきさんと安易に重ね合わせてしまう」と指摘している。
 著者が「改めて検討したい」という稿をみないかぎり、日本の「からゆきさん」研究は、1970年代からあまり進歩していないといわざるをえない。稿を改めるに際して、世界史のなかで考えることはもちろんだが、「からゆきさん」の多くが東アジアにいたことを考えると、東アジア史のなかで考えることも必要だろう。もはや日本史やジェンダー史のなかだけで考える時代ではない。1970年代とは違った「からゆきさん」研究の今日的意味を明示しなければ、過去の研究を批判するだけで、建設的な議論に結びつかず、「からゆきさん」研究をする者もいなくなるだろう。

【参考の参考】

■テレゴニー(ウィキペディア参照)
・ある雌が以前ある雄と交わると、その後、その雌と別の雄との間に生んだ子に、前の雄の特徴が遺伝する、という説。つまり再婚した女性の子は先の夫の性質を帯びる、という考え。19世紀後半まではヨーロッパで広く信じられてきた。哲学者ショーペンハウアー*11社会学ハーバート・スペンサーは共にテレゴニーを信憑性のある理論だと思っていたという。
・1361年にエドワード黒太子は父エドワード3世の従妹ジョーン・オブ・ケントと結婚したが、既に2度の結婚をしているジョーンとの結婚には反対が多かった。テレゴニーはこの反対理由の一部であった。
・現在の遺伝学では、「哺乳類においては受精卵の染色体の半分は精子、つまり父親から受け継がれるもので、もう半分は卵子、つまり母親から受け継がれる」とされるようになっているので、テレゴニーは現在の遺伝学および生殖過程に関する知識と根本的に合致しない。
 にもかかわらず、テレゴニーは19世紀後半の人種差別主義者の会話にも影響を与えていた。例えば、「非アーリア人との子どもを一度でも持てば、二度と純粋なアーリア人の子を持つことは出来ない」といった具合である。このアイディアはナチズムに採用された。

二反長音蔵(にたんちょう・おとぞう、1875年(明治8年)7月1日〜1951年(昭和26年)8月7日)(ウィキペディア参照)
 「日本の阿片王」と称された。
 子の二反長半二郎(にたんちょう・はんじろう)は二反長半(にたんおさ・なかば)の筆名で小説家・児童文学者となり、父の伝記『戦争と日本阿片史:阿片王・二反長音蔵の生涯』(1977年、すばる書房)を著している。


■中世の国際交流から生まれた子どもたち(関周一*12
(内容紹介)
 楠葉西忍など「中世の国際交流から生まれた子どもたち」が取り上げられている。

参考

■楠葉西忍(応永2年(1395年)〜文明18年(1486年))(ウィキペ参照)
 室町時代の商人。父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアと見られるる)の商人ヒジリは将軍・足利義満の時代に来日し、京都の相国寺住持・絶海中津の庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。
 父の死後、大和の武将立野戌亥の娘(大乗院の坊主・実弾房宗信の妹)を娶る。永享4年(1432年)はじめて遣明船にて明国へ渡航。享徳2年(1453年)二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の船の外官となり、南京を経て、首都北平(北京)まで赴き、直接貿易に関わり、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。
 これらの西忍の交易活動は、帰国後、興福寺に報告され、興福寺大乗院主・尋尊によって『大乗院寺社雑事記』『唐船日記』などに詳細に記されており、当時の日明勘合貿易の実際を知る上での貴重な史料となっている。


■「日本人」と〈異・外国人〉の子どもの処遇:江戸期から明治期にかけて(嘉本伊都子)
(内容紹介)
・筆者の過去の著書『国際結婚の誕生』(2001年、新曜社)の「国際結婚概念は明治以降成立した」という主張が改めて展開されている。
 もちろん有名な「シーボルトの娘」楠本イネのように鎖国していた江戸時代にもわずかながら「外国人と日本人の婚姻関係*13(?)とそれによる子どもの誕生」は存在した。
 ただしそれは「レアケースであること」「(シーボルトの件のように)遊女と客という関係がほとんどと言うこと」もあって江戸幕府は「国際結婚」として法的に処理することをしなかった。
 こうした問題が「国際結婚」として問題化し、民法上の処理が必要とされていくのは明治以降のことである。

参考

■楠本イネ(文政10年(1827年)〜明治36年1903年)(ウィキペディア参照)
・日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧の間に生まれる。
 父シーボルト1828年(文政11年)、国禁となる日本地図の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
・イネは、シーボルト門下の医者二宮敬作から医学の基礎を、石井宗謙から産科を、村田蔵六(後の大村益次郎*14)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。
・1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学蘭学)を学ぶ。シーボルトは、1861年文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
1871年明治4年)、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、明治天皇の側室・葉室光子の出産に立ち会う(光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まるが、女性であったイネには受験資格がなかったため東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。
 なお、イネは生涯独身だったが、石井宗謙との間に儲けた娘・高子がいた。高子自身の手記によれば、イネは石井によって船中で手籠めにされて妊娠したという。


■「内鮮結婚」の子どもたち(李正善)
(内容紹介)
・日本政府は「李垠*15の妃」李方子(梨本宮方子)や「田内千鶴子」の存在(内鮮結婚の一例)を「日本が朝鮮人を差別していないことの証明」として宣伝したがそれはきれい事に過ぎず、実際には「内鮮結婚の子どもたち」は差別的視線にさらされた。
 なお、日本政府は「内鮮結婚」を制度として認め、李方子らの事例を宣伝したが、「産経やダライラマ一味が報じる中国の政策*16」のように「内鮮結婚」をあらゆる手段を使って推進していくべきと言う考え*17までは採用することはなかった。

【参考:内鮮結婚について】

■李方子(1901年11月4日〜1989年4月30日:ウィキペディア参照)
 1945年の日本敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法施行に伴って王公族の身分を喪失し、また、日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した。
 夫妻は王政復帰を恐れる韓国初代大統領・李承晩により帰国を妨げられたまま、李垠が1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れる。李退陣後の1963年(昭和38年)11月21日、大統領朴正煕の計らいで夫妻はようやく帰国。夫妻の生活費は韓国政府から支出されることとなった。1970年(昭和45年)、李垠と死別した。
 韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。
 1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
 1989年(平成元年)逝去。葬儀は準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列した。後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈された。

■田内千鶴子(1912年10月31日〜1968年10月31日:ウィキペディア参照)
 1938年、全羅南道木浦市で尹致浩と結婚(以降は尹鶴子(ユン・ハクチャ)と名乗った)。夫と共に、孤児救済のために共生園で働く。朝鮮戦争で夫が行方不明になった後も孤児救済のために尽くし、3000人の孤児を守り育てたといわれ「木浦の母」「韓国孤児の母」と呼ばれる。1965年韓国文化勲章国民賞を受賞する。

■産経『二階俊博*18が韓国の孤児施設視察 木浦市、“韓国孤児の母”故田内千鶴子さん運営』
http://www.sankei.com/politics/news/170611/plt1706110010-n1.html
聯合ニュース全羅南道高知県が姉妹協定締結 「韓国孤児の母」が縁』
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2016/10/31/0200000000AJP20161031003400882.HTML


【参考:中国の異民族間結婚】

http://www.sankei.com/west/news/140919/wst1409190078-n1.html
■産経『少数民族の「血」を薄めろ…結婚奨励金の贈与や特別待遇を“餌”に、漢民族との混血奨励進める中国の狡猾さ』(2014.9.19)
 「漢人と結婚すれば、年間1万人民元(約17万円)の奨励金が5年間受け取れる」
 中国西部の新疆ウイグル自治区で8月21日、異民族間の結婚奨励策が始まった。米政府系自由アジア放送によると、結婚奨励の電話に対し、ウイグル人地方政府職員はさらに、住宅や医療、子供の教育などの優遇策も享受できると語ったという。平均年収2千元程度とされるウイグル人にすれば破格だろう。ただし、少数民族間には適用されないのがミソだ。
 ウイグルで始まったのには前例がある。チベット自治区では以前から、同様の奨励策が推進されてきたことを、米紙ワシントン・ポストは伝えている。
 中国政府が最近公表した報告書によると、同自治区内の漢人チベット人による異民族間結婚は過去5年間、毎年2桁の伸び率を見せ、666組だった2008年に対し、13年は4795組に達したとしている。
 社会保障や休暇、表彰、そして子供への教育や就職、共産党の党員資格まで特別待遇が用意され、一人っ子政策の制約を受けない3人までの出産も認められる。実際、異民族間結婚で生まれた子供は「民族統合の象徴」として、大学入試でゲタをはかせてもらえるほか、就職、昇進でも優先されることがあるという。
 同自治区では、豊かに暮らす異民族カップルの成功例や、チベット語と北京語が話せるバイリンガルの子供の様子をたびたび官営マスコミに登場させるなど、「憧れの結婚生活」として洗脳宣伝に力を注ぐ。
(中略)
 自治区の党幹部は「血は水よりも濃い。異民族間の関係はそうなるべきだ」とぶち上げた。

http://www.tibethouse.jp/news_release/2014/140827_China-promotes-mixed-marriages-in-Tibet-as-way-to-achieve-unity.html
ダライラマ法王部日本代表部事務所『中国「統一」をめざしてチベットで異民族間の結婚を推進』(2014年8月16日)
 チベット自治区党書記陳全国*19は、異民族間結婚を強く呼びかけ異民族間結婚の19世帯とのマスコミ向け撮影会に臨んだ。政府発行の人民日報チベット版によると、陳党書記は6月の会議で「『血は水よりも濃い』という諺があるが、異民族間の関係もそうあるべきで、政府は活発に異民族間結婚を奨励すべきだ」と述べた。
 現在のところ、政府の推進活動に一定の効果はあったと見られる。今月発表されたレポートではこの政策を称え、チベット自治区共産党所有の研究所の調べで異民族間結婚は過去5年間にわたり毎年2ケタのパーセンテージで急増し、2008年の666組から2013年には4795組に増えたと伝えている。
 レポートでは詳細な説明は避けているものの、異民族間結婚に対する優遇政策の効果であると伝えている。社会保障、出産の権利、休暇、褒章のほか、教育、就職、共産党党員資格など異民族間結婚で生まれた子供の特別待遇なども挙げられる。
 政府当局はチベット人漢民族との結婚に力を注いでいる。チベット自治区の人口は、チベット人およそ90%に対し、漢民族8%の割合である。中国全土の人口はこの比率の逆であり、漢民族92%に対してチベット人1%である。
(中略)
 国営メディアによると、6月18日に陳党書記は異民族結婚の家族らとの会議に出席し、異民族間結婚を称賛し、統一国家としての祖国中国とその文化を再認識し、中国の特質に沿った社会主義への道であると述べ、また自治区政府の各機関にその権力を最大に行使してこの政策を奨励する人員配置を行うよう求めた。

 まあ、どこまで本当かは知りませんが、それが事実として、考え方としては「内鮮結婚による民族平等イメージの創出」的な感じでしょうか。


■「混血児」をめぐる境界画定(田口ローレンス吉孝)
(内容紹介)
 終戦後の「混血児問題」が取り上げられている。日本において混血児に対する視線は差別的なものであった。そのため、生活は苦しく、海外に国際養子縁組として海を渡った者も少なくなかった。
 森村誠一人間の証明』、今井正映画『キクとイサム』なんかはその一例でしょう。
 イサムのように海を渡った混血児の方々の幸せを願ってやみません(もちろん白人混血児ならともかく、黒人混血児のイサムが向かった米国にも日本同様に黒人差別は存在するわけですが)。まあ、国際養子縁組は考え方が「中国残留日本人孤児問題」など、数々の問題を生み出した「満州移民事業」「北朝鮮帰国事業」「ドミニカ移民事業*20」(日本の国外で幸せをつかんでくれ)ぽいし、帰国事業や移民事業同様に日本政府がろくに海外渡航者のフォローもしてないであろうあたり複雑な思いを禁じ得ませんが(もちろん帰国事業や移民事業と違って、混血児の海外渡航は国策事業ではないですが)。

参考

https://www.hurights.or.jp/news/b040131.html
朝日新聞社が、「混血児」という表現を避ける方針を打ち出す
 熊本市をベースに在日外国人の支援をしているNGO「コムスタカ−外国人と共に生きる会」*21中島真一郎さんによると、朝日新聞社では記事のなかで「混血児という表現は避ける」との結論に達し、04年1月末に全社の編集部門にその新たな取り決めを通知しました。
 これは、「混血」は「純血」との対比で使われており、「純血」が優位に、「混血」が劣位に置かれて、「混血児」は差別的に使われている、とのコムスタカの指摘を受け止めたものです。朝日新聞社では今後、記事では例えば「米国人男性と日本人女性との間に生まれた」などと具体的に記述されることとなります。
(中略)
 コムスタカは94年以来、日本人男性とフィリピン人女性との間に生まれ、日本人の父親に遺棄された日比国際児(JFC=ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン)問題に取り組んでいますが、「混血」(血が混じる)という血統を示す表現によって、父母の人種や民族、国籍が異なる子どもが「区別」されることに反対し、「国際児」という言葉を提唱してきました。同会では実際、子どもが地域や学校で、「混血児」だと呼ばれていじめを受けているいくつかの事例を把握しています。

http://www.geocities.jp/kumustaka85/jp.kokusaiji.html
■コムスタカ―外国人と共に生きる会『マスコミ等に「混血児」を差別表現として認めさせ、替わりに国際児などを使用すること求める行動の経過報告』中島真一郎(2002年7月12日)
(1)岩波ブックレット編集部
 1998年1月に岩波ブックレット「日本のお父さんに会いたい:日比混血児はいま」(松井やより*22編)が出版されたことに対して、1998年3月『「混血児」表現の再検討を求める要望書』を、松井やより編者と岩波書店ブックレット編集部に提出し、岩波書店のブックレット編集部との話し合いを持ちました。また、「日比混血児を支えるネットワーク」(松井やより)に対しても、会の名称から「混血児」を使用しないように変更してほしいとの要望書を「コムスタカ―外国人と共に生きる会」から提出しました。(1998年7月から「日比混血児(JFC)を支えるネットワーク」は、「JFCを支えるネットワーク*23」に名称変更がなされました。)
(2)毎日新聞社
 1998年6月19日付け毎日新聞「日比混血児の父親証明 NGOがDNA鑑定へ」という見出しの記事にたいして、「混血児」の表現を差別表現と認め、今後使用しないようにしていただきたいとの毎日新聞編集局長当ての要望書を1999年8月に「コムスタカ―外国人と共に生きる会」として提出しました。
(3)朝日新聞社
 2000年6月28日付朝日新聞「沖縄の中学教諭 アメラジアン*24スクールへ行け、混血児の生徒に暴言」との記事に対して、朝日新聞西部本社編集局宛てに、「混血児」表記に対する質問と申し入れ書を、「コムスタカ―外国人と共に生きる会」(事務局 熊本市)、ATLAS*25(事務局鹿児島市)、アジアに生きる会*26(事務局福岡市)、アジア女性センター*27(事務局福岡市)の九州内のNGO4団体で2000年7月に申し入れを行いました。また、沖縄のNGOである「アメラジアンの教育権を考える会*28」からも賛同を得ました。
朝日新聞西部本社からは、申し入れを受けて沖縄の那覇支局では、「混血児」という表現が歴史的な用語として記載がやむをえないと判断される時は以外は今後使わないことを決めた、また、西部本社としても今後使わない方向で議論を進めたい、読売新聞社は「混血児」という表現の使用を避けているようで、紙面に出てきていないことがわかった。朝日新聞社としてもできるだけ避ける方向で検討したいとの前向きな回答が寄せられました。)
(4)NHK
 2001年1月7日放送のNHK「新アジア発見:お父さん私たち生きています:フィリピン・日比混血児は今」のタイトル表現について、2001年2月27日NHK熊本放送局に対して、九州内のNGO3団体「コムスタカ―外国人と共に生きる会」(事務局 熊本市)、ATLAS(事務局鹿児島市)、アジアに生きる会(事務局福岡市)で質問と申し入れを行いました。
 この番組を制作したNHK広島放送局から2001年3月に「『混血児』という表現は、一定の問題のある言葉と認識しつつも、この言葉を使わないと問題点や本質を端的にわかりやすく伝えられない,替わる言葉として国際児という提案も、現在理解が行き届きかねる言葉で、置き換えて使うことが難しい状況と判断しており、今後とも原則的には使用し続ける。しかし、国際児という言葉がNGOの間で使用されていることは知っており、今後その言葉が定着していけば、NHKとしてもその言葉になるであろう」という内容の回答でした。
(5)熊本日日新聞社
 2002年6月23日付け熊本日日新聞社アメラジアン問題の本の紹介記事に「米亜混血児の集合的履歴」という見出しが使われていたことへの質問と申し入れ書を、7月3日に「コムスタカ―外国人と共に生きる会」と「アメラジアンの教育権を考える会」の2団体で熊本日日新聞社に対して郵送しました。そして、2002年7月10日に回答を聞きに行きました。
 熊本日日新聞社からは、「今回の記事の見出しは、共同通信社配信の記事にはなかったものを、熊本日日新聞社の編集局で独自につけたもので、社としてチェックミスであり、お詫びしたい。」「熊本日日新聞社は、差別語や不快語の使用基準を共同通信社の『新聞用字用語集』(2001年3月 第9版)に基づいて行っており、このなかで『混血児・合いの子』という表現について、使用を避ける。なるべく、『父が日本人で、母がドイツ人という国際児童』などと具体的に書くように心掛ける。」と記載されており、社内でこの用語への使用をさける事が徹底されておらず、編集部の方でわかりやすくするため見出しに使用し、それをチェックできなかった。今後は、社内の部会で報告し、文書で社内に使用を避けるように徹底する」という回答を受けました。
 今回の申し入れで、共同通信社が、1997年3月の第8版の『記者ハンドブック 新聞用字用語集』までは、差別語・不快語として「混血児」を含めていませんでしたが、2001年3月の第9版から「合いの子・混血児」も「差別語・不快語として使用を避けるように」と明記されている事がわかり(中略)ました。今後回答されたとおりに運用されていくか、私たちのほうでも紙面を監視していきたいと思います。

 言われてみれば確かに最近「あいのこ」「混血」といった言葉はあまり見聞きしません。たとえば蓮舫*29(産経デマ報道当時、民進党代表。父親が台湾出身で母親が日本人)について「二重国籍云々」という酷いデマを垂れ流した産経ですら「あいのこ」「混血」呼ばわりはしてなかったかと思います。

http://www.asahi.com/special/kotoba/jinken/SDI201508059633.html
朝日新聞『「ハーフ」をめぐる差別と幻想』(上)
 今年3月、ミス・ユニバース日本代表として選ばれた女性が、例年以上に注目を集めました。長崎県佐世保市出身の、宮本エリアナさん。母が日本人、父がアフリカ系アメリカ人*30です。前身の大会を含めると60年以上の歴史を持つこのコンテストで、いわゆる「ハーフ」の女性が代表となるのは初めてのことでした。
 宮本さんは日本国籍を持ち、母語も日本語ですが、代表に選ばれた時は「本物の日本人じゃない」「代表にふさわしくない」といった心ない批判も浴びたそうです。肌の色の違いから、地元の学校では「色が移る」と言われて手をつないでもらえず、ゴミを投げつけられるなどのいじめを受けたという宮本さん。あえて表舞台に立つことで「ハーフへの偏見をなくしていきたい」と話しています。
 この「ハーフ」という呼び方、実は日本でしか通じない和製英語だということをご存じですか? 英語の「half(半分)」から来ていますが、英語圏では国籍や人種の異なる両親の間に生まれた人を指す意味では使いません。欧米などでは国際結婚が珍しくなく、すでに人種や民族が複雑に混ざり合っているため、そうした区別をする発想があまりないのです。
(中略)
 ミス・ユニバース日本代表となった宮本さんは、インターネットなどで批判的なコメントを書かれたことについて、ハフィントンポスト日本版のインタビュー*31に「日本で生まれ、日本で育っているのに、日本人でないのであれば、ハーフの私たちは何人なのでしょう?」と語っています。自分の居場所が感じられない、と悩んでいた同じハーフの友人の自殺をきっかけに、問題提起のため大会への出場を決意したそうです。
 この問題をめぐっては多くの欧米メディアも反応し、「ビューティークイーンが『十分日本人でない』と批判される」といった見出しで、黒人の父を持つ彼女が「人種差別」「虐待」「憎悪、敵意」にさらされてきた、と強い言葉を使って報じています。日本メディアの多くが「いじめ」「偏見」などと表現しているのとは対照的で、日本が単一民族国家であるという「幻想」がいまだに幅を利かせていることへの驚きが伝わってきます。
(中略)
 今回お話をうかがったサンドラ・ヘフェリンさん*32は、1975年生まれのドイツ・ミュンヘン育ち。平日はドイツの現地校に通いながら週末に日本人学校で日本語を勉強し、千葉県の小学校にも数カ月間通ったことがあるそうです。20代で来日し日本企業での勤務を経て、現在は執筆活動やラジオ出演を通して異文化交流やハーフのいじめ問題、ハーフのアイデンティティーなどについて発信しています。
 ヘフェリンさんによると、ドイツでも10年ほど前、それまで金髪碧眼(へきがん)の「典型的なドイツ美人」が多かったミス・ドイツに、イラン系の女性が選ばれています。その際に一部で批判する声もあったそうですが、「公の場で言っていいこと、悪いことがはっきりしている欧州では、そんなことを言うのは『レベルが低い、教養がない人』とのイメージを持たれる。でも日本だとわりと普通の人がそういうことを言うので驚いた」といいます。

「公の場で言っていいこと、悪いことがはっきりしている欧州では、そんなことを言うのは『レベルが低い、教養がない人』とのイメージを持たれる。でも日本だとわりと普通の人がそういうことを言うので驚いた」

 まあ、「安倍が首相になる国」「石原や橋下が知事になる国」ですから。未だにネオナチがいるとはいえドイツのようなまともな国家とは比べものになりません(自嘲)。
 ちなみに宮本さんについては以下の記事を紹介しておきます。

https://mainichi.jp/articles/20170815/k00/00e/040/164000c
毎日新聞『観光名誉大使、宮本エリアナさん「佐世保の魅力をPR」』
 長崎県佐世保市出身の2015年ミス・ユニバース日本代表、宮本エリアナさん(23)が14日、佐世保観光名誉大使に就任した。市役所であった委嘱状交付式で「佐世保はきれいな海が見られるのが魅力。アジアではまだ知られていないのでPRしたい」と抱負を述べた。

厚生労働省の統計によると、(中略) 親の国籍別で多かったのは中国(5095人)、韓国・朝鮮(4234人)、フィリピン(2365人)、米国(1713人)、ブラジル(640人)、英国(510人)、タイ(425人)などです。
(中略)
 統計から分かるように中国や韓国・朝鮮とのハーフが多いのです

 歴史(日本の朝鮮植民地支配や中国侵略)や地理(中韓は日本の隣国)を考えれば当然の話です。

 が、普段テレビや雑誌で目にする芸能人から抱くイメージは、「欧米系の白人とのハーフ」に偏っている印象があります。そのため、多くの人がハーフに対して「みんなベッキー*33とか滝川クリステル*34みたいに美人」「英語がペラペラ」「実家は裕福で、しょっちゅう海外と日本を行き来している」といった思い込みを抱くようです。実際は芸能界にも日中や日韓のハーフはいるのですが、外見で区別がつかないせいか、あまり「ハーフタレント」とはみなされず、本人もあえて強調しないことが多いようです。

 以前読んだ野村進*35『コリアン世界の旅』(2009年、講談社文庫)で錦野旦*36がインタビューに答えていましたが「在日だ」といっても差別国家日本では何のメリットもないわけです。
 和田アキ子*37が「自分は在日だ」と週刊文春のインタビューに公式に認めたのも割と最近の話です。
 中国の場合、韓国ほど差別的視線ではないかもしれませんが、そんなに好意的とも思いません。
 最近は「2017年紅白歌合戦に出演したTWICE」など、韓国タレントの日本進出もあり状況は変わってると思いますが。

http://www.asahi.com/special/kotoba/jinken/SDI201509141925.html
朝日新聞『「ハーフ」をめぐる差別と幻想』(下)
 「ハーフ」との呼び方が一般に広まったのは1970年代に入ってからとされ、芸能やスポーツの分野で活躍する人が注目を浴び、肯定的なイメージが広がった時期に重なります。それ以前は「混血児」「あいのこ」などと呼ばれて差別された長い歴史があり、特に第2次世界大戦後は大きな社会問題となりました。当時の報道からは、彼らが就学や就職、結婚などでいわれなき差別を受けていた実態がうかがえます。
(中略)
 終戦後に生まれたというある女性は、朝日新聞への1989年の投書で、「『あいのこ』はいつしか『ハーフ』と呼ばれ、いじめられていた私が、今度はうらやましがられるようになりました。でも、私はこの変化を決して喜べませんでした。人の心なんてあてにならないと、心に強く刻みました」と胸中を明かしています。
(中略)
 外国人が珍しかった時代、「国際愛第二世」「国際家族」などと好意的に取り上げる記事もありましたが、どちらかというと犯罪がらみで「混血怪盗」「混血の詐欺漢」「国籍不分明の曲者(くせもの)」「不良混血児取締り」といった扇情的な見出しの方が多い印象です。「混血」であることをことさらに強調し、面白おかしく取り上げるなど、新聞が偏見を助長していた面もあったのではないかと言わざるを得ません(この傾向は1970年代まで見られます)。
 戦時中には日本軍に志願した「混血勇士」をたたえる記事も散見されましたが、「日本人に更生」「日本の国籍を取得……かくして完全な日本人に還元」といった表現からはまだまだ差別意識が感じられます。
 戦後には、進駐軍の軍人と日本女性との間に生まれた「戦争混血児」が社会問題となり、頻繁に報じられるようになりました。
 こうした子どもたちについて特集した「シリーズ戦争孤児②混血孤児―エリザベス・サンダース・ホームへの道」(本庄豊*38編、汐文社)によると、強姦や売春、自由恋愛などさまざまなケースで生まれた子どもたちでしたが、父が米国に帰り、母だけでは育てられないという理由で捨てられることが少なくなかったそうです。
 46年6月末に「日米混血児第1号の誕生」を報じたニュースでは「日本とアメリカの架け橋であり、太平洋両岸を結ぶ愛のしるしなのです」と日米和解の象徴のように報じられたそうですが、その1カ月後には「青い目」や「縮れた髪」の混血児とみられる赤ん坊の遺体が複数発見されたそうです。
 孤児となったり命を落としたりする子どもが後を絶たない状況を憂えて、個人で混血児のための養護施設や学校をつくる動き*39もありましたが、一方で「日本を滅ぼした敵*40の子を救うなんて*41」という声もあり、家族を戦争で亡くした人たちにとってはにわかには受け入れられない気持ちもあったようです。
 最初に生まれた子どもたちが学齢期に達した50年代には、数万人に上るとされた混血児を「普通児」と同じ一般校に入学させるべきか、あるいは分離教育にすべきかという問題*42が持ち上がりました。結局は普通校に入れるようにする文部省の方針が示されましたが、それでも日本での生きづらさに耐えかねて、米国人夫妻の養子となって渡米したり、比較的差別の少ないブラジルへ移住したりするケースも少なくなかったそうです。
 当時、一般校への入学を支持する立場から、「これから日本で育ち日本に国籍があるのだから、ことさらに混血児といって人種的な偏見をつくる必要はない」「幼い時から特別なこどもだと意識させてはよくないし、一般のこどもにも人間は平等だということを教えこむ必要があると思う」と訴える投書を寄せた読者もいました。
 60年代の記事では、混血児が就職においても縁故だけに頼り、堅実な求人が少ないことを伝えています。一方でこのころから、スポーツで活躍する「混血選手」を好意的に取り上げる記事も徐々に見られるようになりました。
 「ハーフ」という呼び方は、進駐軍などが英語で「half Japanese, half American(半分日本人、半分米国人)」と言っていたのを縮めたのではないかとする説があります。戦後しばらくは日本にいる外国人といえば米国人がほとんどだったので、国名を省いてしまっても通じたということかもしれません。
 この言い方が一般に広まったのは70年代はじめごろとされ、当時人気を博したハーフのアイドルグループ「ゴールデン・ハーフ*43」などの影響もあったようです。当時を知る校閲センターの先輩は、「自分はあれで『ハーフ』という言葉を知った」と教えてくれました。
 芸能やスポーツなどの分野での活躍が注目を浴びたことで、かつての「混血」のマイナスイメージが、華やかな「ハーフ」のイメージへと変わっていったようです。現在では米国人以外とのハーフも増え、世代が進んでハーフを親に持つ「クオーター(英語で『4分の1』の意)」も珍しくなくなりました。
(中略)
 90年代半ばになると今度は、国際結婚をした人から、「ハーフではなく、一般人の2倍の文化、伝統、歴史を誇る『ダブル』だ」と言いかえを提案する投書が朝日新聞にも寄せられるようになりました。
(中略)
 ヘフェリンさんは2010年にコラム「ハーフ?それともダブル?」で、「ダブル」という言いかえが広まりつつあることについて当事者の間でも好意的な反応が多い、と触れています。一方で、その2年後に出版した著書「ハーフが美人なんて妄想ですから!!」の前書きでは、普段使っていて個人として一番自然だと思える、として「あえて『ハーフ』という呼称を使うこととします」と断っています。
 今回ヘフェリンさんにその真意を尋ねると、「コラムを書いた後で気づいたこと」について話してくれました。出版にあたって当事者たちに「どう呼ばれるのがしっくり来るか」と尋ねた際、興味深い反応があったそうで、「ダブル」だと「倍」の意味だからポジティブでいいよね、という声の一方で、本人からするとプレッシャーを感じる、という意見も多かったのだそうです。ダブルだと「当然バイリンガル」「当然国籍も二つ」「当然二つの国を行き来してる」「可能性も2倍だよね!」とのイメージに結びついてしまい、そうでない人にとってはつらい、というのです。
 言いかえとしては「ダブル」のほかにも「ミックス」や「国際児童」といった案も出たそうですが、「ミックスジュースとかミックスサラダみたいで嫌だ」「ダブルもハンバーガーみたいで嫌だ」「国際児童は大人になったら『国際人』と呼ぶのか。グローバル人材とまぎらわしくないか」などと異論が出て、結局消去法で一番なじみのある「ハーフ」との表現にしたそうです。
(中略)
 当事者やその家族に不快感を与えないようにする必要があるのは当然ですが、取材を通して感じたのは、「ハーフ」の場合は呼び方そのものよりも、多様な背景を持つのにひとくくりにされることや、よくも悪くも特別視されて「日本人」として受け入れてもらえない状況の方を変えたい、という声が多いということでした。
(中略)
 この夏、朝日新聞では陸上短距離のサニブラウン・アブデルハキーム*44選手や高校野球*45オコエ瑠偉*46選手の活躍をたびたび報じましたが、知名度が上がってくるにつれ、ハーフであること自体に触れない記事も増えてきたように思います。

 あまり意識しませんが確かに彼らはハーフのスポーツ選手ですし、ダルビッシュ日本ハム、レンジャーズ、ドジャーズを経て現在カブス所属)(父親がイラン出身)もそうでした。つうかよく考えたら王貞治*47(父親が中国出身)がハーフでした。
 今は確か違いますが、当時は国籍規定で王が「甲子園で行われる高校野球には出場できても国体には出場できなかった」のも有名な話です。


■スペインとポルトガルの日本征服論をめぐって(平川新*48
(内容)
 http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20140820/5210278609で紹介した歴史評論2014年9月号の清水有子*49論文『イベリア・インパクト論再考:イエズス会の軍事的性格をめぐって』に代表される「イベリア・インパクト論批判」に対するイベリア・インパクト論者の一人・平川氏の反論であるが詳細な紹介は省略する。
 正直、小生のような素人には平川氏、深谷*50らの「イベリア・インパクト論」と清水氏らの「イベリア・インパクト論批判」のどちらが正しいか理解は困難である。
 なお、「イベリア・インパクト論」の厄介なところは「スペインやポルトガルの日本征服の意思や能力を否定しても」イベリア・インパクト論の否定には必ずしもならないところである。
 問題は「日本側の受け取り方」なのだから(ただし平川氏に限ればスペインやポルトガルには日本征服の意思があったとみているようだが)。
 なお、「スペイン、ポルトガルの日本征服計画」に対抗し「日本こそがアジアの覇者となろうとした」のが「秀吉の朝鮮出兵」とみなす平川氏だが、氏はキリスト教禁令も少なくとも秀吉や家康時代においては「一向一揆的な恐怖」だけではなく「キリスト教信者がスペイン、ポルトガル勢力のため軍事行動を起こすこと」、つまり侵略の脅威を感じたからだとみている。


■歴史の眼『宗教改革五〇〇周年*51:二〇一七年の記念イヴェントと研究動向について』(高津秀之)
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。しかし我々日本人の多くはクリスチャンではないので、こういうことは言われないと気づきません。


カトリック中央協議会ローマ・カトリック宗教改革500年』
https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/holyyear/reform500/
日本基督教団宗教改革500周年記念事業』
http://uccj.org/r500
日本キリスト教団出版局『宗教改革500年記念キャンペーン』
http://bp-uccj.jp/publications/r500/
日本聖書協会宗教改革500年記念ウィーク:宗教改革が問いかけるもの』
http://www.bible.or.jp/r500/index.html
日本ルーテル教団宗教改革500年』
http://jlc.or.jp/luther500/index.html
ルーテル学院大学『ルター宗教改革500年記念事業』
http://www.luther.ac.jp/college/activity/memorial.html
朝日新聞宗教改革500年、分断世界に光 カトリック教会・ルーテル教会、共同で行事』
https://www.asahi.com/articles/DA3S13202024.html
毎日新聞
■ルターの光と影:宗教改革500年/上 大衆向けに聖書翻訳 読み書き普及、世界動かす
https://mainichi.jp/articles/20171028/ddm/007/030/118000c
■ルターの光と影:宗教改革500年/中 労働は天職 「近代」の礎
https://mainichi.jp/articles/20171030/ddm/007/030/090000c
■ルターの光と影:宗教改革500年/下 ユダヤ人迫害を扇動
https://mainichi.jp/articles/20171031/ddm/007/030/044000c
文楽とダンス「ルター」 宗教改革500年で 29日・大阪
https://mainichi.jp/articles/20171012/ddf/012/200/006000c
■合同ミサ、宗教改革500年行事 対話と寛容で平和を カトリックプロテスタント、浦上教会で/長崎
https://mainichi.jp/articles/20171205/ddl/k42/040/313000c
産経新聞マルティン・ルター宗教改革500年祝う礼拝 公開質問状「95カ条の論題」を張り出したドイツ東部の教会で』
http://www.sankei.com/world/news/171031/wor1710310050-n1.html

https://synodos.jp/newbook/20671
シノドスプロテスタンティズムと「共存の作法」:『プロテスタンティズム*52』著者、深井智朗氏*53インタビュー』
■深井氏
 「宗教改革」と日本では訳されますが、ドイツ語ではReformationで、正確に訳せば「再形成」という意味です。ときに誤解がありますが、誤解がありますが、ルターはプロテスタントという宗派を生み出そうとしたのではなく、カトリックからの独立を考えたのでもありません。そうではなく、今ある教会制度の「再形成」を願い、それを強い意志と勇気をもって成し遂げようとしたのです。
■インタビュアー
 ルターは新しい宗派をつくろうとしていたわけではないのですね。
■深井氏
 ルター自身は生涯自分がカトリックであったと考えていたはずです。
 最近、家のリフォーム番組*54というのが流行していますね。
(中略)
 ルターの「再形成」のイメージはこのようなものであったと思います。
(中略)
 ルターが新しい宗派として独立しようなどとは考えていなかったと思われる理由は、ルター自身がローマとの和解を試みようとしていたふしがあることです。たとえば、ルターは有名な『キリスト者の自由』をドイツ語で書いただけではなく、ラテン語でも書いています。ラテン語でも書いた理由は、それによってラテン語でものを考える教皇側と和解しようとしたからだと思います。ドイツ語版とは論じ方や内容が違っていて、明らかに教皇側が読むという前提のもとで自己弁護的な議論がなされています。
■インタビュアー
 ルターの改革にはヤン・フスのような先駆者がいます。しかしヤン・フスは教会に破門され、火刑に処されました。ルターの改革が成功した理由はどこにあったのでしょうか?
■深井氏
 ルターの考えは、当時の印刷技術の発展、また各都市の印刷所の成長などによって生み出された、当時の知識人である人文主義者たちの知的ネットワークを通して、またたく間にヨーロッパ中に広がりました。それはまさに情報革命で、詳しい内容はともかく、情報が瞬時に拡散されてしまったのです。
 もちろんSNSなどが普及した現在とは比べものになりませんが、(中略)彼は当時のベストセラー作家となり、もはやカトリック教会は自由に情報を発信するルターを止めることはできませんでした。
(中略)
 そうしますと教会の側は、もはや都合のよい事実だけを公にしたり、事態を隠蔽したり、秘密裏に処理することができなくなった。つまりルターについて正義にかなわないことをすることがしにくくなったのです。
■インタビュアー
 そうしたなか、ルターの提起は信仰上、教義上の問題をこえて、世俗政治にも大きなインパクトを与えます。
■深井氏
 ローマと繋がることで、自らの政治的統治に何らの利益を得ていた神聖ローマ帝国の領主たちは、ルターの主張に何も魅力を感じませんでした。
 しかしローマとの関係に苦慮していた領主にとっては、これまで主張できなかったローマへの批判を代弁してくれるルターは重要な人物となりました。
 そのような領主たちは、従来通りローマと繋がることと、ルターの批判を支持するのと、どちらの選択が自らの統治に資することになるのかを計算しました。ルターたちの運動も、自らが政治的に使い勝手のよい宗教であることをアピールしたのです。
(中略)
 このときルター派は、領主の(ボーガス注:ルター派支持という)政治的選択を促すように、政治的支配者に寄り添い、奉仕し、仕える宗教になりました。ルター派のこうした性格は、これ以降も変わりません。近代になってプロイセン主導でドイツ統一がなされた際も、ナチズムの時代も、そして戦後になっても、基本的には国家に寄り添う宗教であり続けました。宗教改革から引き出される宗教制度や社会の「改革」というイメージとは真逆に、ドイツのルター派は体制側に寄り添う保守的な勢力であり続けたのです。
■インタビュアー
 宗教改革プロテスタントには「近代的自由の思想の出発点」というイメージもあります。
■深井氏
 それはいわゆる「伝統の創造」と言われるもので、政治的な創造物にすぎません。
 「遅れていた大国」ドイツが1871年に悲願の統一を果たした際、新しく生まれた帝国は、統一国家としての(中略)ナショナル・アイデンティティーを必要としていました。
(中略)
 1871年の統一では、オーストリアは排除されました。そのためドイツ語という共通言語によるナショナル・アイデンティティーの形成は意味を持たなくなっていました。
(中略)
 だからこそ「ドイツ的なもの」の淵源は、16世紀にカトリックに対して戦い、近代的な自由の基礎をつくり上げたマルティン・ルターとその宗教改革に遡るという地政学的なイメージが浮上したのです。なぜならオーストリアはドイツ語圏ですがカトリックなので、統一からは排除されると説明できるし、長年の敵であるフランスもまたカトリックの地域だったのですから。
■インタビュアー
 他方で、プロテスタントにはもうひとつの潮流もあるとのことです。
■深井氏
 エルンスト・トレルチ*55(1865〜1923年)という、有名な神学者であった政治家がいます。
(中略)
 そのトレルチがプロテスタントというのは、じつは一枚岩ではなく、カトリックと違って、世界中どこに行っても同一プロテスタントが存在しているのではない、ということを述べています。
 そしてルターやジャン・カルヴァンなどの改革の流れを「古プロテスタンティズム」と呼び、この教会は制度的にはカトリックとそれほど変わらないと言いました。それに対して、ルターやカルヴァンの改革の不徹底を批判し、さらなる改革を主張したために、ルターやカルヴァンからはいじめ抜かれたグループから出てくる流れを「新プロテスタンティズム」と呼んでいます。
■インタビュアー
 「新プロテスタンティズム」とは、どのような特徴を持つものなのでしょうか?
■深井氏
 私はこのことを説明するときに、しばしば「二人のマルティン・ルターを見るとよい」と言っています。もうひとり私たちは別のマルティン・ルターを知っています。
 それはアメリカの公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング*56牧師(1929〜1968年)。その名はドイツ語読みをすれば、マルティン・ルターです。同名で、やはり牧師だった父から、16世紀の宗教改革者を意識して与えられた名前です。彼はバプテストと呼ばれるプロテスタントのグループの牧師でしたが、このバプテストは「改革の改革」の流れのなかから出てきた典型的な「新プロテスタンティズム」です。
(中略)
 公民権運動の指導者となった方のアメリカのルターは、このバプテストの牧師なのです。
■インタビュアー
 近代、あるいは近代的な諸価値と結びついているのは、「新プロテスタンティズム」の方なのですね。(中略)他方で、保守主義としてのプロテスタンティズムにも、「共存の作法」という現代的な意義を認められていますね。メルケルの話はとても示唆的でした。
■深井氏
 保守とは何か、ということなのですが、本来的な意味での保守というのは、その社会の本流や伝統を知っているということであり、(ボーガス注:安倍自民や日本会議、ネオナチのような)「反動」ではありません。改革を拒否したり、変化を拒否する勢力でもありません。保守は社会の本流を知っているが故に、(ボーガス注:例えば安倍政権によって)社会が本来あるべき姿から逸脱しようとするときには、(ボーガス注:河野洋平*57元外相のように)否をいう勢力のことではないかと思うのです。
 そのような意味でドイツ・ルター派の伝統とは何かということなのです。ドイツ社会が難民問題で揺れ動いたとき、それと並行して極右勢力の排他的で不寛容な政策が力を持つかに思えたときに、ルター派の牧師の娘であるアンゲラ・メルケル首相が、その動きを強く否定したことは、このことと深く関係していると思います。
(中略)
 そしてそこにこそ、保守主義としてのプロテスタンティズムの真価があると私は思います。


■歴史の眼『「アルゼンチン、沖縄移民一〇〇年の歩み」とその後』(澤恭子)

参考
沖縄タイムス『アルゼンチン沖縄移民100年の歩みつづる 記念誌を発行』
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/65825

https://twitter.com/yhuj2015/status/800311522035515392
■Kosaka Yuuki‏
 一橋法学部時代の畏友で、JICA派遣で執筆・編集にあたった澤恭子さんから、『アルゼンチン沖縄移民100年の歩み』を御恵投頂きました。全八章から成り、インタビューも交えたとても充実した移民史の記録。500部しか刷られていない希少本*58。大事にします。

http://www.geocities.jp/argenjp/genkou/nikkei.html
■アルゼンチンの日系人
 アルゼンチンに移民された方は、ほとんどが沖縄の出身の方で、その他の県人会も組織されていますがなんといっても沖縄が最大です。
 第二次世界大戦末期、沖縄戦が激しく展開され、その後も(ボーガス注:日本に復帰する)1972年まで米軍の統治下にあったことから、沖縄県出身者の間では日本語よりも英語を覚えなければとの空気が広がり、2世、3世に対する日本語教育熱は急速に冷め、(中略)アルゼンチン日系人の日本語能力は急速に衰えていきました。
 これは日本人と見ると尊敬され、日本人街を形成していたようなブラジルのサンパウロとは全く違った道をたどった事になります。
 この日本語能力が欠如していることは、現在にいたり2世、3世がアルゼンチンから日本へ逆に移民したり出稼ぎに行ったりする場合に大きなハンディーキャップとなっており、日本語能力のあるブラジルからの日系人出稼ぎ者が工場の主任など管理職になれるものがいるのに対し、アルゼンチンからの出稼ぎ者はイラン、フィリピンなどの出稼ぎ者同様ブルーカラーの地位に止まるケースも少なくないようです。

https://mainichi.jp/articles/20180203/rky/00m/040/003000c
毎日新聞『沖縄系女性、「アルゼンチンの史実知って」記録映画4日最終上映 /沖縄』(中村万里子)
 冷戦期の南米アルゼンチンで左派を激しく弾圧した軍事政権(1976〜83年)下で、反体制派と見なされた多くの市民が拉致され、秘密裏に殺害された。犠牲者は約3万人に上るとされ、うち13人の沖縄県系人も含まれていた。
 その1人が具志堅オラシオさん。妹のアメリアさん(59)=那覇市=は、家族の苦悩を描いたドキュメンタリー映画「沈黙は破られた」(2015年、パブロ・モヤノ監督)で初めて公に兄のことを語った。映画は4日、南風原町南風原文化センターで上映される。
 映画は11月に西原町で、12月に名護市で上映された。県内最後の上映を前にアメリアさんは「権力による殺害が起き、その後も言えない環境がつくられた。起きたことを知り、考えてほしい」と語った。
 首都ブエノスアイレス近郊で生まれ育った県系2世のアメリアさんの1歳違いの兄、オラシオさんは1978年、21歳の時に行方不明になった。食器製造工場などで工員として働きながら労働運動に携わっていた。残された家族は「死んだという選択肢を取りたくなかった」。
 軍政が終わった後も「外国で生きているのではないか」と願い続けたが、オラシオさんは2004年、墓地に埋葬されていた遺骨のDNA鑑定で死亡が確認された。遺骨を確認したアメリアさんは、頭蓋骨の後ろに銃弾で撃たれたような二つの穴があるのを見た。「自分には何の得もないのに『貧しく困っている人たちを助けたい』との思いが強かった兄のことを誇りに思うし尊敬する」と語る。
 冷戦期、中南米では左派の政治運動が盛り上がりを見せた。共産主義の広がりに危機感を覚えた米国は中南米の国々に介入し、軍政を支援。アルゼンチン軍政下でも左翼ゲリラ掃討を名目にした弾圧が行われた。弾圧されたのは学生や労働者たち。多くが10代後半から30代の若者たちだった。
 早稲田大学専任講師の石田智恵さんは「拉致の基準は、ゲリラ活動はおろか、反政府的な政治活動への参加度合いや有無すら関係なかった」と指摘する。当時の背景について「軍政は行方不明者を大量につくり出すことで社会全体を恐怖によって沈黙させた。市民らは見て見ぬふりをすることが最も安全な態度だった」と説明する。
 現地の家族の苦しみは、今も続いている。行方不明者の遺骨が見つかったのは、日系人17人のうち2人。いまだ行方が分からない人が多い。
 アルゼンチンの陰の歴史に焦点を当てた今回の映画を通じ、アメリアさんは「起きた事実をなかったことにせず、繰り返さないために知って考えてほしい」と語った。映画の上映は4日、南風原文化センターで午前10時から行われる。入場無料。

 アルゼンチンと沖縄の関係は「ハッピーな関係ばかりではなかった」わけです。そしてこの時期の南米はこうした「軍政の人権侵害」が横行していたわけです(私見では一番有名なのがチリのピノチェト)。そしてこれらの南米軍政を米軍やCIAが支援していたわけです。そうしたことを無視し米国を「ソ連と戦った正義の大国」として万々歳する「米国の忠犬ポチ」常岡浩介や黒井文太郎のツイートには反吐が出ますね。

http://www.nikkeyshimbun.jp/2016/161012-71colonia.html
ニッケイ新聞『亜国=軍政時代に失踪した日系人=映画『破られた沈黙』週末上演=犠牲者16人の大半が沖縄系』
 アルゼンチン軍事独裁政権時代(1976〜82年)に政治活動をしていた日系人数十人が「失踪」したまま。そのうちの16人について描いたドキュメンタリー映画『Silencio roto. 16 Nikkeis(破られた沈黙 16人の日系人)』(パブロ・モヤマ監督、スペイン語、2015年)が14、15両日、聖市で特別に上映される。失踪した弟の捜索を続ける「日系亜人失踪者家族会」の大城エウザさん(二世、62)に話を聞いた。
 「1976年11月10日午前3時ごろ、突然、玄関の呼び鈴が鳴らされ、『ケガ人がいるので開けて』というので、母が解錠すると、機関銃などで武装した軍隊が一気になだれ込んで来た。一目散に弟の部屋に向かい、銃を向け、有無を言わさず連行した」。
 大城さんは、まるで昨日のことのように覚えている。
 弟ジョルジさんは、当時まだ18歳の高校生だった。でも、政府批判をする「社会主義労働者党」の青年部で、機関紙発行などに携わっていたという。
 「党からは『危ないから党員は地下にもぐって、行方を眩ませ』との指示が出ていたが、弟は『ここで逃げたら一生逃げ続けることになる。自分は何もしていないから説明すれば分かる』と家に居続けた。その結果、ゲリラ予防、見せしめとして標的にされたようだ。まさか、そのまま行方不明になるとは・・・」と目に涙を浮かべる。数え切れないぐらいに軍や警察に問い合わせたが「いまだに遺体の行方も分からない」。
 当時の軍政は非合法な殺し屋集団を親衛隊のように使って対ゲリラ戦略を展開し、反体制派を徹底的に弾圧した。失踪者はおよそ3万人といわれ、首都ブエノスアイレスだけ、少なくとも16人の日系人が犠牲となった。そのほとんどが沖縄県系人だった。
 エルサさんは行方不明者家族とあちこちで出会う中、同家族会の活動が始まった。78年には在亜日本国大使館にも嘆願書を送り、亜国政府への情報請求に協力を求めたが、無視され続けた。
 民政移管した83年、司法には9千件以上の告発が寄せられた。しかし公判は開かれても刑罰を下す判決は皆無の状況が続いた。クリスチーナ大統領が就任した04年以降、ようやく有罪判決が下されるように。日本政府も99年から話を聞くようになり、同会は11年に大使館で写真展を開催した。
 大城さんは「拷問を受けた生存者は多くを語りたがらない。家族も避ける。特に日系人は沈黙を守っている。もっと事実を広く知らせ、皆が言える空気を作りたい」と今回の上演と座談会に込めた期待をのべた。

 78年には在亜日本国大使館にも嘆願書を送り、亜国政府への情報請求に協力を求めたが、無視され続けた。

でわかるように、外交的にデリケートな問題だと日本政府が弱腰、及び腰になるのは何も北朝鮮拉致問題だけではないわけです。そして北朝鮮拉致問題では騒ぐ三浦小太郎やid:noharraこと八木孝三のような連中は決してこうした「アルゼンチン軍政の日系殺害」では騒いだりしません。
 そこには「殺した軍政が反共親米政権でCIAの支援を受けていたから」「殺された日系が労働組合員など左派だから」という理由もあるでしょう。三浦やid:noharra(八木孝三)のようなウヨにとって日系であっても左翼など殺されようが知ったことではないし、殺した相手が「親米政権」なら日系殺しも黙認する気満々なのでしょう。
 それはともかく、アルゼンチン民主化によってこうした問題に光が当たりつつあることを素直に喜びたいと思います。
 最後にアルゼンチン軍政関係記事などをいくつか紹介しておきます。
赤旗
■アルゼンチン軍政下の犯罪、米が機密文書解禁へ、オバマ氏表明「信頼を再構築」
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-25/2016032507_01_1.html
■アルゼンチン 軍事クーデター40年、米「過去と向き合う」、オバマ氏 犠牲者追悼式典に参加
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2016-03-26/2016032607_01_1.html
■軍政が奪った赤ちゃん、捜し求め40年以上 127人目 身元判明、アルゼンチン 「祖母の会」発表
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2018-01-01/2018010107_01_1.html

■汚い戦争(ウィキペ参照)
 1976年から1983年にかけてアルゼンチンを統治した軍事政権によって行われた国家テロである。左派ゲリラの取締を名目として労働組合員、政治活動家、学生、ジャーナリストなどが逮捕、監禁、拷問され、3万人が死亡または行方不明となった。
 1976年3月24日に軍の高官によるクーデターが発生した。陸軍のホルヘ・ラファエル・ビデラ、海軍のエミリオ・エドゥアルド・マッセラ、空軍のオルランド・ラモン・アゴスティが権力を掌握した。ビデラとその後の軍事政権指導者であるロベルト・ビオラ、レオポルド・ガルチェリ、レイナルド・ビニョーネにより労働組合員らを中心に学生や活動家数千人が違法逮捕、拷問、殺害、拉致される等、様々な弾圧が行われた。
 軍事政権が民衆の支持を獲得する目的で行ったフォークランド戦争は敗北に終わり、政権維持はもはや不可能であることが明らかになった。1983年10月30日に総選挙が行われラウル・アルフォンシンが当選した。
民主化後の裁判
・1983年に、アルフォンシン政権が成立した後、過去の軍事政権における関係者に対する裁判が始まった。1985年に、ビデラは殺人、拉致、拷問などに関与した罪で終身刑を言い渡されたが、1990年にカルロス・メネム大統領の恩赦により釈放された。
・しかし、2005年に最高裁判所は、軍政下の犯罪を不問とする恩赦法違憲判決を下した。これ以降、拉致、拷問、殺害に関与した元軍幹部らに対する有罪判決が相次いでいる。2008年に終身刑判決を受けたルシアーノ・ベンハミン・メネンデス元司令官は、「共産主義から国家を守るための戦争に従事した軍司令官を罰するのは間違いだ」と主張した。
・2011年12月にビデラは大統領在任中の人権侵害の罪で終身刑の判決を受けた。2012年4月にビニョーネも56人を誘拐、拷問した罪を問われ、禁錮25年の有罪判決を受けた。これに加え両者は2012年7月に、政治犯の囚人から赤ん坊を略取、隠匿した罪によりそれぞれ禁錮50年、禁錮15年の刑が加算されている(2013年5月17日、ビデラは収監中のマルコスパズ刑務所にて死去)。
アメリカ政府の関与
 アメリカ政府はアルゼンチン軍事政権に対して軍事物資と資金の援助を行っていた。アメリカで公開された政府文書によると、ヘンリー・キッシンジャーニクソン*59、フォード*60政権で国務長官)はアルゼンチンの外務大臣に対して、アメリカの議会が支援を停止する前に「内戦」にけりをつけるように求めていた。


■書評『森岡清美*61真宗大谷派の革新運動」*62』(繁田真爾
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。

親鸞仏教センター インタビュー『軍師・井上豊忠:白川党の研究をめぐって』
インタビュアー
 井上豊忠とはどんな人物でしょうか?
森岡
 清沢満之という方は、いろいろな人が注目して、非常に優れた評伝も出ていて、宗教的に、信仰的にもすごいなと参考にさせていただいております。しかし、清沢だけに焦点があたっていて、資料がないため他の人にはあたっていません。私は、清沢にも関心はありますが、その一党と言いますか、6人衆に関心があるのです。
(中略)
 清沢にも事務的才能はあったようですが、宗門革新運動にはそれだけではだめで、軍師が必要だったのです。井上は軍師なのです。しかも、小さいところでいろいろと策をめぐらす策士的な面が彼にはあります。ある意図をもって人を使うというか、人を操るというか、そういうところがありました。ですから、清沢を考えるうえでも井上を脇において考えたほうが良いのではないかと思うのです。
(中略)
 井上遺文を入手してから、組織や構造よりは、「人間の関わり」を研究する「コンボイ」という概念に注目しました。それが橋渡しですね。コンボイとは、一緒に旅をする道連れであり、一緒に旅をする船団のようなものです。「集団」という場合には、とらえる時間が短いですが、それに対して「コンボイ」は長いのです。ライフコースの研究との関わりで「コンボイ」の概念に出会い、それを活用しました。
 私はもう実地調査などは行けませんから、文献研究でやるしかないと思いました。明治維新を作った松下村塾の仲間が「コンボイ」なのです。それで次に同志社を軌道に載せた熊本バンドを扱って、札幌バンドなどもみな文献で扱いました。
 しかし、それをやっているうちにつまらなくなったのです。というのも、私のところには原資料がない。たくさんの文献を引用しても、どれが一番の典拠かわからず、原資料を見ていないということが致命的な欠陥となりました。原資料を見ますと、今までの人の理論を批判できます。見方が違えば、私ならこう読むということができるのですが、原資料がないままやってるのでは限界があります。
 そこで、井上豊忠が住職を務めていたお寺に電話したのです。事情を話して、探してみましょうとおっしゃっていただきましたが、老体だから行けるようになったときに行きますと電話を切ったら、後日、大きな箱に日誌と関係文書、向こうが重要だと思ったものをたくさん送ってきてくれたのです。それで火がついて、40冊の日誌だけでも大変でしたが、日誌はあらかたコピーし、日誌に関連する文書もコピーしました。
(中略)
 井上は清沢から随分と薫陶を受けております。白川党の連中は、教義が問題ではなく、宗門の寺務所のやり方がおかしいからそれをやめろと言っていたのです。宗門政治を良きものに変えたいのだと。真宗本来の教えからの逸脱はまったくないと思います。
 ただ、井上は普通のお坊さんとは非常に異なっています。普通のお坊さんは自分の寺を守れば終わりです。しかし、彼は地域の活動をたくさんするのです。そして、よく勉強する人です。朝早く起きて、また寺に帰ってからも勉強するのです。新しい書物を取り寄せて、よく読んでいます。この人は自分の寺の住職には納まらないで、近所のお坊さんに声をかけて、他の宗派の僧と仏教会を作って講話会、研究会というか勉強会のようなことをしています。彼は真宗だけではなく、他の宗もたくさん勉強しているから他の宗のお坊さんとも話ができたのです。普通の真宗のお坊さんだったら、自分の寺で住職として、法事と寺役をすればいいのですが、彼の場合はいろいろな人と話をする素養がありました。本当にいろいろな本を読む、白川党が解散した後も清沢が良いといった本を買って読む人でした。

*1:著書『「からゆきさん」:海外〈出稼ぎ〉女性の近代』(2015年、共栄書房)

*2:著書『島原のからゆきさん』(1993年、共栄書房)、『従軍慰安婦問題の歴史的研究』(1994年、共栄書房)、『日本の阿片戦略』(1996年、共栄書房)、『日本の阿片王:二反長音蔵とその時代』(2002年、共栄書房)、『阿片帝国・日本』(2008年、共栄書房)、『従軍慰安婦公娼制度』(2010年、共栄書房)、『戦争と日本人:日中戦争下の在留日本人の生活』(2015年、共栄書房)など

*3:著書『アフリカ音楽の想像力』(1993年、勁草書房)、『アフリカ映画紀行』(2000年、柘植書房新社)、『アフリカルチャー最前線』(2006年、柘植書房新社

*4:著書『サンダカンまで:わたしの生きた道』(2001年、朝日新聞社)など

*5:マレーシア・サバ州にある都市で、州都コタキナバルに次ぐ第二の商業都市第二次世界大戦中は、日本軍のサンダカン捕虜収容所があり、日本軍の捕虜虐待事件「サンダカン死の行進」が起きた(ウィキペディア『サンダカン』参照)

*6:1972年、筑摩書房→後に2008年、文春文庫。1973年に大宅壮一ノンフィクション賞受賞。またこの著書をテーマに映画『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)が制作されている。

*7:著書『からゆきさん』(1976年、朝日新聞社→新装版、2016年、朝日文庫)、『悲しすぎて笑う:女座長 筑紫美主子の半生』(1988年、文春文庫)、『慶州は母の呼び声』(1991年、ちくま文庫→2006年、洋泉社MC新書)、『奈落の神々:炭坑労働精神史』(1996年、平凡社ライブラリー)など

*8:1964年、帝銀事件について、平沢貞通画伯を無罪とする立場から事件を描いた『帝銀事件 死刑囚』で監督デビュー。1968年には、三船プロダクション石原プロモーションが共同制作した大作『黒部の太陽』の監督に抜擢された。1974年に「からゆきさん」に題材をとった『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭銀熊賞キネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受賞し、アカデミー外国語映画賞にノミネートされるなど、重いテーマを扱いながら、重厚な人間ドラマを完成させ、海外からも高い評価を得た。1986年にはいわゆる米軍捕虜生体解剖事件をもとに医師の戦争責任を問うた遠藤周作原作『海と毒薬』を発表し、ベルリン国際映画祭審査員グランプリ毎日映画コンクール大賞、3度目のキネマ旬報ベストテンベストワン及び監督賞を受けるなど国内外で評価された。昭和を代表する社会派映画監督として知られた。 2001年には松本サリン事件を描いた『日本の黒い夏─冤罪』でベルリン国際映画祭に特別招待され、ベルリナーレ・カメラ(特別国際功労賞)を授けられた。1995年、紫綬褒章を、2003年、勲四等旭日小綬章を受章。2007年5月23日、クモ膜下出血のため死去、享年76歳(ウィキペディア熊井啓』参照)。

*9:1952年(昭和27年)、溝口健二監督作品『西鶴一代女』に主演、作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。翌1953年(昭和28年)には同じコンビで『雨月物語』を製作、作品はヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。1958年(昭和33年)公開の木下恵介監督作品『楢山節考』では老婆を演じ、キネマ旬報賞女優賞を受賞した。1970年(昭和45年)にNHK大河ドラマの『樅ノ木は残った』に出演、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げ、フジテレビ『前略おふくろ様』(1975年)の主人公の母親役やNHK連続テレビ小説雲のじゅうたん』(1976年)のナレーションなどで親しまれた。1974年(昭和49年)、熊井啓監督作品『サンダカン八番娼館 望郷』で元からゆきさんの老婆を演じ、ベルリン国際映画祭最優秀女優賞や芸術選奨文部大臣賞などを受賞した。1977年(昭和52年)脳腫瘍で死去。享年67歳(ウィキペディア田中絹代」参照)。

*10:ロシア(旧ソ連)との繋がりが深く、1981年には日本で初めてソ連の演出家(A・エーフロス)を招いて行った舞台公演『櫻の園』に主演した。日ソ合作映画にも主演している(『モスクワわが愛』(1974年)、『白夜の調べ』(1978年)、『未来への伝言』(1990年))。1991年の中国映画『乳泉村の子』(謝晋監督)にも主演し、日中文化交流協会代表理事も務めるなど中国との繋がりも深い。演技力と美貌から熱狂的な男性ファンが多く、吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれたのに対し、栗原小巻ファンは「コマキスト」と呼ばれた(ウィキペディア栗原小巻』参照)

*11:著書『幸福について』、『読書について』 (光文社古典新訳文庫)など

*12:著書『対馬倭寇』(2012年、高志書院)、『朝鮮人のみた中世日本』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『中世の唐物と伝来技術』(2014年、吉川弘文館)など

*13:ただしシーボルトのケースの場合、相手は丸山町遊女であり「婚姻関係」といえるか疑問。

*14:初代兵部大輔を務め、陸軍建設の祖といわれる。

*15:韓国皇帝高宗の第7男子。韓国併合によって誕生した「王公族」における李王家の第2代当主(初代当主は韓国皇帝・純宗)。

*16:本当のところどうなのかは解りませんが。小生も「産経やダライ一味の中国批判は100パー嘘、中国全く悪くない」とまではさすがに思いませんが、産経やダライ一味の中国批判を鵜呑みにするほどお人好しではありません。

*17:もちろん植民地支配においてはそうした「融和政策」とは別に「ナチスドイツ的な自民族中心主義」もあり得ます。李正善論文によれば、戦前日本はこうした考えの対立を結局、解決できず「放任主義(内鮮結婚を認め、それを民族融和の象徴として美化はするが積極的に奨励はしない)」とでもいうべき立場に終始しました。

*18:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)などを経て自民党幹事長

*19:現在は新疆ウイグル自治区党委員会書記

*20:ドミニカ移民事業については例えば■フジテレビ『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民 苦闘の半世紀〜』(http://www.fujitv.co.jp/b_hp/fnsaward/13th/04-317.html)、■テレビ朝日報道ステーション『日系ドミニカ移民の悲劇 祖国に裏切られた50年』(http://www.tv-asahi.co.jp/hst/contents/sp_2006/special2/060523.html)参照

*21:サイト:http://www.geocities.jp/kumustaka85/intro.html

*22:著書『市民と援助:いま何ができるか』(1990年、岩波新書)、『女たちがつくるアジア』(1997年、岩波新書)など

*23:サイト:http://www.jca.apc.org/jfcnet/

*24:アメリカ人とアジア人の両親を持つ子どもの事。この語は『大地』などで知られるアメリカ人作家パール・S・バックが1960年に使用し始めたとされる(ウィキペディアアメラジアン」参照)。

*25:サイト:http://atlas1998.web.fc2.com/japanese/atlas.html

*26:サイト:http://www.geocities.jp/inoueym21/

*27:サイト:http://www1.plala.or.jp/AWCenter/

*28:サイト:http://amerasianschoolokinawa.org/index.html

*29:菅、野田内閣行政刷新担当相、民主党代表代行(岡田代表時代)、民進党代表など歴任

*30:最近は「黒人」といわないわけです。

*31:http://www.huffingtonpost.jp/2015/05/07/miyamoto-ariana-interview_n_7229170.html参照

*32:著書『ハーフが美人なんて妄想ですから!!』(2012年、中公新書ラクレ)など

*33:母親が日本人で父親がイギリス人のハーフ。テレビ東京の児童向け早朝番組『おはスタ』のマスコットガール・おはガールの一員として、デビューする。以降バラエティー番組を中心に活動している。

*34:父親はフランス人、母親は日本人。フジテレビ『ニュースJAPAN』(2002年10月〜2009年9月)キャスターなどを経て現在、フリーアナウンサー

*35:著書『フィリピン新人民軍従軍記』(1981年、晩聲社→2003年、講談社プラスアルファ文庫)、『海の果ての祖国:南の島に「楽園」を求めた日本人』(1991年、講談社文庫)、『脳を知りたい!』(2004年、講談社プラスアルファ文庫)、『調べる技術・書く技術』(2008年、講談社現代新書)、『救急精神病棟』(2010年、講談社文庫)など

*36:歌手、俳優。1961年、家族と共に韓国籍から日本に帰化。アイドルとして人気絶頂にあった1972年、自身が帰化した韓国系日本人であることを週刊誌で公表している。1970年の山村政明(帰化した早稲田大学学生)の焼身自殺は、直後に起きた三島由紀夫の死よりも衝撃だったと言う(ウィキペディア錦野旦』参照)。

*37:歌手、女優。済州島出身の父と、朝鮮半島出身の母を持つ在日韓国人2世で、かつての本名は金福子、通名は金海福子。週刊文春インタビューによれば、1968年の芸能界デビュー時に、在日韓国人とわかる名前をまずいと思った父親が、和田アキ子の叔父(叔父は当時すでに帰化して「和田」姓)の養子にしてもらい、同時に名前も「現子(あきこ)」と改名して「和田現子」となったという。(ウィキペディア和田アキ子』参照)

*38:著書『テロルの時代:山宣暗殺者・黒田保久二とその黒幕』(2009年、群青社)、『魯迅の愛した内山書店』(2014年、かもがわ出版)、『戦争孤児をしっていますか?』(2015年、日本機関紙出版センター)、『戦争孤児:「駅の子」たちの思い』(2016年、新日本出版社)など

*39:有名なエリザベス・サンダース・ホームもこの一例です。

*40:アメリカのこと

*41:「日本人を拉致した金日成をたたえる学校を支援するなんて!」といって朝鮮学校を無償化から除外して差別する拉致被害者家族会や救う会、守る会のようですね、id:noharra先生!(毒)。

*42:朝鮮学校韓国学校や華僑学校を考えれば解るように「日本人と一緒に学べばいい」つう単純な問題ではないことに注意が必要でしょう。

*43:1970年代前半に活動したメンバーの全員がハーフという設定の女性アイドルグループ(メンバーの内、イタリア人(父)と日本人(母)のハーフと称していた小林ユミが、後に「両親とも日本人」と公表している。)。渡辺プロダクション所属。1970年9月、スリー・キャッツの「黄色いさくらんぼ」をカバーしてデビュー。1974年に「メロンの気持」を最後に解散。

*44:父親がガーナ出身

*45:朝日記事執筆当時。現在は東北楽天ゴールデンイーグルス所属。

*46:父親がナイジェリア出身

*47:現在、福岡ソフトバンクホークス会長兼GM日本プロ野球名球会顧問

*48:著書『紛争と世論:近世民衆の政治参加』(1996年、東京大学出版会)、『開国への道』(2008年、小学館)、『通説を見直す:16〜19世紀の日本』(編著、2015年、清文堂出版)など

*49:著書『近世日本とルソン:「鎖国」形成史再考』(2012年、東京堂出版

*50:著書『江戸時代』(2000年、岩波ジュニア新書)、『江戸時代の身分願望:身上りと上下無し』(2006年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『田沼意次:「商業革命」と江戸城政治家』(2010年、山川出版社日本史リブレット人)、『死者のはたらきと江戸時代:遺訓・家訓・辞世』(2013年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*51:1517年の『ルターのローマ教皇批判(いわゆる贖宥状(免罪符)への批判)』から500年と言うことです。

*52:2017年、中公新書

*53:著書『パウル・ティリヒ:「多く赦された者」の神学』(2016年、岩波現代全書)など

*54:テレビ朝日大改造!!劇的ビフォーアフター』のこと

*55:著書『ルネサンス宗教改革』(岩波文庫)など

*56:1964年のノーベル平和賞受賞者

*57:中曽根内閣科学技術庁長官、宮澤内閣官房長官、村山、小渕、森内閣外相、衆院議長など歴任

*58:つまり現時点では市販の予定は無いわけです。

*59:アイゼンハワー政権副大統領を経て大統領

*60:ニクソン政権副大統領を経て大統領

*61:著書『華族社会の「家」戦略』(2001年、吉川弘文館)、『明治キリスト教会形成の社会史』(2005年、東京大学出版会)、『真宗教団における家の構造(増補版)』(2006年、御茶の水書房)など

*62:2016年、吉川弘文館