高世仁に突っ込む(2021年3/21日分)(注:藤子・F・不二雄『のび太と竜の騎士』のネタばらしがあります)

最新の研究が変えた恐竜のイメージ - 高世仁の「諸悪莫作」日記

 恐竜は今も子どもに大人気だ。

 最近の子どもは違うのかもしれませんが、俺の子ども時代は「恐竜と怪獣(ゴジラガメラウルトラマンシリーズの怪獣など)」がごちゃごちゃになってましたね。まあ、「恐竜をモデルに生み出された架空生物=怪獣」なのである意味「混乱」するのも当然ですが。
 まあ、後で触れる「のび太の恐竜」なんぞも「子どもの恐竜人気」の反映ではあるでしょう。

 私も宇宙史の講座をやっている関係で、恐竜についてはそれなりに勉強している

 前も書きましたが「素人の高世がそんな講座をするな!」ですね。高世は研究者でないのは勿論、その経歴上「科学ジャーナリスト」「科学番組制作会社(NHK教育の番組など)社長」ともいえません。高世の過去著書に「科学関係のもの」はないし、高世が社長だったジンネットも「科学番組制作会社」でもない。
 そしてこんなことをやり出す高世にはもはや「ジャーナリストとしての過去の実績(典型的には高世が過去において最大の「自分の売り」にしていた拉致問題ですが)」についての「講演の依頼」などはないのでしょう。「言葉を選ばず」きついことを言えば、ある意味、無様で滑稽で哀れです。

 恐竜の研究はここ20年ほどで急速な進展を見せ、我々が子ども時代に教わったイメージ(例えば、体は巨大で動きはのろく、変温動物なので寒さに弱く、知能が低い)が大きく塗り替えられている。

 俺が不勉強なだけかもしれませんが「団塊の世代・後期(1953年生まれ)」の高世だけで無く「団塊ジュニア(つまり、1970年代生まれ*1)」の俺も恐竜についての認識は高世の言う「子ども時代に教わったイメージ(例えば、体は巨大で動きはのろく、変温動物なので寒さに弱く、知能が低い)」ですね。その意味で今回の高世記事は勉強になります。

 高世の言う「最新の研究」については恐竜ルネッサンス - Wikipedia刷新される恐竜像と私たち~21世紀の恐竜番組~ | NHK放送史(動画・記事)大人がこぞってハマる最新恐竜学の「新常識」 | ファッション・トレンド | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準、フィリップ・カリー『恐竜ルネサンス』(1994年、講談社現代新書) を紹介しておきます。おそらく、後で触れる藤子『のび太と竜の騎士』発表の時期辺り(1980年代後半)が「恐竜ルネサンス」の始まりでしょう。

 恐竜の中には、脳の容積が大きく、非常に知能が発達していたものもいたとされ、もし、白亜紀末のいわゆる「絶滅」イベント(厳密には恐竜は(ボーガス注:一部の学説が主張するように鳥類に進化して生き残ったと考えれば)絶滅しなかったのだが)がなかったら、二足歩行する恐竜の子孫が現在の我々ヒトの地位についたかもしれないと考える研究者もいる。
 人類が尻尾をなくしたように、その恐竜の子孫は尻尾が退化し、二本足で立つ、ちょっと鳥のような顔をした知的な動物*2になったかもしれない。
 「絶滅」イベントでは地球上の生物種の最大75%が絶滅、哺乳類の時代が幕を開けるのだが、少なくともその大きな原因の一つは、メキシコのユカタン半島北東部に小惑星が衝突したことだった。

 この高世の文章で俺が連想したのは、「子どもの頃に見た」藤子・F・不二雄*3藤本弘)の大長編ドラえもんのび太と竜の騎士』(月刊コロコロコミック1986年11月号から1987年3月号に掲載。1987年3月に映画公開)ですね。
 というのも

ドラえもん のび太と竜の騎士 - Wikipedia
 恐竜が大好きであった藤子・F・不二雄は、かつて執筆した大長編ドラえもんのび太の恐竜』に続き、恐竜を題材とした長編の執筆に意欲を抱いた。そしてこのストーリーにエピソードとして、彗星衝突による恐竜滅亡説と恐竜人ディノサウロイドをを盛り込むことにした。
 恐竜絶滅の原因として「彗星衝突説」が採用されている(隕石・小惑星衝突説とは異なる)。藤子は彗星衝突説を先に知り、絵にもなり、またストーリーもドラマティックになるという理由で、本作に取り入れることにした。しかし、作品完成から間を置いて後から考えると隕石衝突説の方が有力だったと思うようになったという。
 地底人(恐竜人)については、カナダの古生物学者デイル・ラッセルが1982年に提唱したディノサウロイドの写真を雑誌で見て、地底人のデザインの参考にしたという。
◆あらすじ
 のび太は0点の答案を隠すためにひみつ道具の「どこでもホール」を使い、地底にある大空洞を発見する。ドラえもんのび太はしずかやジャイアンスネ夫を誘って地底の大空洞を秘密の遊び場にするが、スネ夫が地底で迷子になり、その直後に「どこでもホール」が壊れてしまう。地底に行くすべを失ったと一端は悲嘆するものの、多奈川の河底から地底への入口があると知った一行は、スネ夫を救うべく地底の更に奥に向かう。そこには広大なジャングルが茂り、恐竜が闊歩する世界が広がっていた。そこで一行は河童そっくりな地底の野蛮人ナンジャ族に捕まってしまう。あわや地底人の餌にされそうになったところで竜の騎士バンホーが彼らを救い出す。地上で滅亡したと思われていた恐竜は地底に生き残り、恐竜から進化した「恐竜人」が高度な文明を築き上げていたのだった。バンホーの案内でドラえもんたちは地底国の首都・エンリルで保護されていたスネ夫と再会したが、バンホーの妹ローの案内で首都観光をしていたのび太は偶然の事故で迷い込んでしまった謎の施設の中で、恐竜人たちが不穏な計画を立てていることを知ってしまう。ドラえもん達は逃走を図るが失敗し、今度は謎の施設にあった巨大な船に連行されてしまう。それは巨大な船型のタイムマシンだった。
 のび太たちを乗せたまま船が向った先は恐竜が滅びる前の太古の地上(6500万年前の北アメリカ大陸北部)だった。恐竜人たちの目的は歴史を改変して恐竜の絶滅を防ぎ、地上を再び我が物にすることだった。それに気づいたドラえもんたちは秘密道具で脱出した上で要塞を作り籠城。繰り出される数々の秘密兵器の力を見た恐竜人たちは「恐竜を絶滅させたのはドラえもんたちではないか」と疑い始めた。
 その最中、巨大な彗星が地平線をかすめ海上に落下。凄まじい衝撃波で周囲を吹き飛ばし、その煽りで巨大な津波が発生する。恐竜人たちは船に引き返して地中に潜行し、ドラえもんたちは秘密道具で地下室を作って難を逃れる。地下室の中をヒカリゴケで照らし出したドラえもんたちは、この地下空間が、過去に恐竜人の祖先たちが逃れた「聖域」であったことに気付く。すなわち、恐竜を絶滅から守ったのはドラえもんだったのである*4
 恐竜人たちに停戦を申し入れたドラえもんは、恐竜を絶滅に導いた原因(小天体衝突による環境激変)を説明し、悲嘆に暮れる恐竜人たちのために援助を申し出る。秘密道具の力で地下室を改造して、可能な限りの恐竜たちを移住させたのである。こうして聖域に逃れた恐竜たちは進化の道を辿り、今日の恐竜人の文明の礎を築いていくこととなった。バンホー等と共に地底世界に戻ったドラえもんたちは真相を知った恐竜人たちから国を挙げての大歓待を受けた。
 バンホーとローはドラえもんたちを約束通り地上に送り届け、いつか地上と地底の架け橋ができることを願いながら別れを告げた。

だからです。しかしこういうエピソードを知るにやはり「藤子Fは天才」という思いを強くしますね。一般人はこうした説を知っても「マンガに使える」とは思わないでしょう。

 先日、茨城県牛久の入管施設で、糞便を撒き散らして刑事罰に問われたイラン人、ヤドラさんの裁判について書いたが、その判決がきのう水戸地裁土浦支部で言い渡された。
 判決は「懲役10月、未決勾留60日を算入」で実質8ヵ月だった。もしヤドラさんが控訴しなければ、12月まで刑務所で服役することになる。
 ブログの読者で心配されている方もいると思い、ここでお知らせします。

 高世の記事によると入管の生活環境は相当酷いらしいので、「結果的には」刑務所の方が「生活環境が良くなる可能性すらある」辺りが「何だかなあ」ではあります。しかも刑務所の場合「(無期刑でない限り)刑期があるからいずれ出られる」のに対し、入管収容は「事実上、無期収容が横行してるらしい」のでその点も「何だかなあ」ではあります。
【参考:「のび太の恐竜」ほか】

ドラえもん のび太の恐竜 - Wikipedia
 学年誌に掲載される『ドラえもん』は1話10ページ前後であるが、1975年9月5日の『増刊少年サンデー』に掲載されるにあたって、30ページの(長めの)短編「のび太の恐竜」として執筆された。
 その後、1979年に小学館ドラえもんが連載されていたコロコロコミックなどの版元)とシンエイ動画(テレビアニメ『ドラえもん』の制作会社)の楠部三吉郎が藤子・F・不二雄ドラえもん長編映画化を持ちかけた。「僕は短編作家」と断る藤子に、楠部が短編「のび太の恐竜」の続きを描くことを提案して了承され、映画化がスタートした。この短編に大幅な加筆修正を行うかたちで『コロコロコミック』1月号から3月号までの連載となる長編作品が執筆され、また、映画が1980年3月に公開され「大長編ドラえもん」の第1作となった。なお、楠部によると当初、東映まんがまつりの1作として『ドラえもん』のテレビシリーズを上映する話が持ち込まれたが、藤子がこれを断ったことで小学館から長編映画製作の提案が持ち上がった*5という。
 2006年には本作のリメイク作品である映画『のび太の恐竜2006』が公開された。
 なお、本作では首長竜を卵から孵化させているが、現在の古生物学では、実際の首長竜は胎生もしくは卵胎生であり、卵を産むことはなかったと考えられている。

楠部三吉郎 - Wikipedia
 1938~2020年。兄・楠部大吉郎*6を手伝うため、1970年に東京ムービー(現在のトムス・エンタテインメント)に入社。東京ムービーでは『ジャングル黒べえ*7』(企画・プロデューサー)、『ガンバの冒険*8』(プロデューサー)、『元祖天才バカボン*9』(プロデューサー)などの作品に携わる。1976年、兄とともにAプロダクションの後継会社として、シンエイ動画を設立。設立間もない頃、『ドラえもん』に惚れ込みアニメ化を希望して活動。原作者藤子・F・不二雄の説得に始まり、制作資金の確保やテレビ局へのセールスなどの苦労を経て、日本テレビ版(1973年)から6年後の1979年にテレビ朝日での放映を実現させ、アニメ版ドラえもんを成功させた立役者として知られる。1990年には初代社長・楠部大吉郎の後を継いで二代目社長に就任、『ドラえもん』を筆頭に藤子作品のアニメ化や、『クレヨンしんちゃん』(テレビ朝日、1992年~)、『あたしンち』(テレビ朝日、2002~2009年)など数々のヒット作を世に送り出している。2009年、社長を退任。翌2010年には保有する株式全てをテレビ朝日に譲渡した。これによりシンエイ動画テレビ朝日の完全子会社となり、創業者一族である楠部家は経営から完全に身を引き、楠部は代表権のない名誉会長に就任。株式を譲渡した理由について楠部は「シンエイ動画という会社を次世代に引き継ぐには、同族企業じゃダメだと思った」と著書『「ドラえもん」への感謝状』(2014年、小学館)に記している。
【エピソード】
シンエイ動画の多くの作品に携わったが、「スタッフクレジットは実際に作った現場スタッフのもの」という考えから、自身の名前を出さなかった。唯一の例外が『ドラえもん』の最初の映画となった『のび太の恐竜』で、原作者の藤子・F・不二雄が長編は描けないと当初反対したことに加え、テレビ朝日側からの制作能力への懸念(映画の失敗によるテレビシリーズへの影響)に対して、「自分が一切の責任を取る」という意思表示として載せざるを得なくなったという(楠部『「ドラえもん」への感謝状』(2014年、小学館))。
◆数々の賞を受賞したシンエイ動画作品『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ!戦国大合戦』(2002年)について、監督の原恵一を「非常に優れたアニメ監督」と評価しながらも、「素晴らしい作品をつくることと、その作品が持つ世界を再現することは違う」「『クレヨンしんちゃん』が大好きな子どもたちのために、その子たちの欲求に応えることがファンへの感謝の表し方」という考えから、原に対して「劇場に行って、正面から子どもたちの顔を見て見ろ!。特に小っちゃいガキが、どんなにつまらなそうな顔をしているかわかるはずだ」と苦言を述べた。楠部は、原がそこで自らの意図を理解して『クレヨンしんちゃん』の監督から「身を引いた」ことを評価し、次作として原が構想していた『河童のクゥと夏休み』(2007年)の制作を後にシンエイ動画が実現したことで「労に報いたと思っている」と述べている(楠部『「ドラえもん」への感謝状』(2014年、小学館))。
臼井儀人の『クレヨンしんちゃん』には、楠部をモデルとしたキャラクター「シンエイ物産社長 巣苦辺三和郎(すくべさわろう)」が登場するエピソードがある。

楠部工 - Wikipedia
 シンエイ動画創設者の楠部大吉郎の息子であり、妹はイラストレーターの楠部文。叔父に楠部三吉郎がいる。
 シンエイ動画に入社し、脚本や3DCGを手掛ける。『Pa-Pa-Pa ザ★ムービー:パーマン』(2003年)を最後にシンエイ動画を退社し、現在はフリーランスの出版ライターとして活動中。
◆エピソード
 『ドラえもんのうた』を作詞したことで有名である。当時は中学2年生であり、子ども向け雑誌で特集され話題を呼んだ。しかし、後に歌詞は楠部一家で案を出し合って作った、いわゆる合作であることを本人が語った。
 また叔父である楠部三吉郎の著書『「ドラえもん」への感謝状』(2014年、小学館)によると、小学校高学年の頃、斎藤惇夫*10の『冒険者たち:ガンバと15ひきの仲間』(現在は岩波少年文庫)を「これすごく面白いからテレビでやってよ」と三吉郎に見せ、それがきっかけで『ガンバの冒険』(日本テレビ、1975年)の企画がスタートしたという。

*1:団塊の世代」といった場合「最も広い定義」では「1945~1955年の10年間」となり、俺の父母は「団塊の世代・前期(1945~1950年)」の生まれです。一方、1953年生まれの高世は「団塊の世代・後期(1950~1955年)」になります。

*2:藤子・F・不二雄が、大長編ドラえもんのび太と竜の騎士』のネタにした恐竜人(ディノサウロイド)のこと

*3:ただし発表当時は、まだ、藤子不二雄A我孫子素雄)とのコンビが解散されておらず藤子不二雄名義。この作品の後、コンビが解散されているので藤子不二雄名義としては「最後の大長編ドラえもん」。

*4:いわゆる「タイムパラドクス」ネタ(タイムマシンの利用により不可解な事態が発生する)の一種ですね。 自分会議 - Wikipediaなど、他の作品でもよく藤子Fが描いていたネタです。

*5:このエピソードからは、『映画「ドラえもん」の配給は東映』と勘違いしそうになりますが実は東宝の配給です(ドラえもん のび太の恐竜 - Wikipedia参照)。

*6:1934~2005年。元東京ムービー社員。1970年当時は、東京ムービーから独立しAプロダクションを設立。東京ムービーの番組制作を請け負っていた。後にシンエイ動画初代社長。(楠部大吉郎 - Wikipedia参照)

*7:1973年にNETテレビ(現在のテレビ朝日)で放送。原作は藤子・F・不二雄ジャングル黒べえ - Wikipedia参照)

*8:1975年に日本テレビで放送。原作は斎藤惇夫冒険者たち:ガンバと15ひきの仲間』(現在は岩波少年文庫)(ガンバの冒険 - Wikipedia参照)

*9:1975~1977年まで日本テレビで放送。原作は赤塚不二夫元祖天才バカボン - Wikipedia参照)

*10:著書『ガンバとカワウソの冒険』、『グリックの冒険』、『哲夫の春休み』(以上、岩波少年文庫)など