私は、日本という「国のかたち」を知るには古代、とくに飛鳥時代が重要だと考えている。聖徳太子(厩戸皇子、うまやどのみこ)の存在はとりわけ大きく、後々まで日本人の精神を形成する基礎を作っている。そういう問題意識で、古代史を少しづつ勉強している。
いつもながら「根拠は何?」ですよねえ。
なお、「俺も素人ではありますが」聖徳太子について言えば、
1)戦前の国家神道体制の中で「聖徳太子と仏教」の関係を強調することで仏教が自己防衛しようとした
聖徳太子 - Wikipedia参照
2)明治時代になると、憲法*1制定の先駆者や、遣隋使によって大国・隋と対等外交を行おうとした外交家として評価された。
聖徳太子 - Wikipedia参照
3)聖徳太子の肖像画は1930年(昭和5年)、紙幣(日本銀行券)の絵柄として百円紙幣に初めて登場して以来、千円紙幣、五千円紙幣、一万円紙幣と登場し、累計7回と最も多く紙幣の肖像として使用された。
という明治以降の動向が重要でしょう。「飛鳥時代~江戸時代」で聖徳太子の影響がなかったとまでは言いません。
例えば新刊紹介:「歴史評論」2021年8月号 - bogus-simotukareのブログで触れましたが、「飛鳥時代~江戸時代」での聖徳太子の影響としては
親鸞 - Wikipedia、【第6回】六角堂での夢告(むこく) | 親鸞聖人のご生涯をとおして | 真宗高田派本山 専修寺参照
建仁元年(1201年)の春頃、親鸞29歳の時に比叡山延暦寺と決別して下山し、聖徳太子の建立とされる六角堂(京都市中京区)へ百日参籠を行う。そして95日目に夢の中に、聖徳太子が現われ、「あなたの悩みを解決するには、ここから東の方、数里のところ、東山のふもとの吉水にいる『法然(ほうねん)』を訪ねてその法を聞け」というお告げを得たとされる。この夢告に従い、親鸞は夜明けとともに東山吉水(京都市東山区円山町)にある法然(このとき、法然は69歳)が住んでいた吉水草庵を訪ねる。法然の専修念仏の教えに触れ、入門を決意。法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。この出来事を浄土真宗では「六角堂夢告(六角堂での夢のお告げ)」と呼ぶ。
聖徳太子 - Wikipedia
参照
親鸞は、聖徳太子を敬っていた。親鸞は数多くの和讃を著したが、聖徳太子に関するものは、『正像末和讃』の中に11首からなる「皇太子聖徳奉讃」のほか、75首からなる『皇太子聖徳奉讃』、114首からなる『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』など多くの「太子和讃」を残している。その太子和讃の中で、「仏智慧不思議の誓願を聖徳皇のめぐみにて」と阿弥陀如来の誓願を聖徳太子のお恵みによって知らせていただいたと詠い、また、「和国の教主聖徳皇」と生得太子を日本に正法を興した主であると詠った。このため、浄土真宗では聖徳太子への尊崇が高まった。
などという事実もあります。
とはいえ、今、聖徳太子を知っている日本人が多いのはやはり「明治以降の動向」が大きいのであって、高世のように無邪気に「飛鳥時代からずっと聖徳太子は日本人の精神に強い影響を与えた」とみなすのははっきり言って根拠に乏しいのではないか。
いずれにせよ「勉強の結果、日本人の精神文化には聖徳太子の影響が大きいと思った」ならともかく「聖徳太子の影響が大きいと思う」と勝手に決めつけて、その結論に都合のいい本を好んで読むという高世には心底呆れます。どこまでご都合主義で、でたらめなのか。
607年に聖徳太子が派遣したとされる遣隋使が、隋の煬帝(ようだい)に送った書状の書き出し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」を根拠に、日本は古代のある時期から中国と対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に大国とみなすことはなかったという説がある。
いやいや今時「例の国書で対等の関係を築いた」と思ってる人間はある程度、古代史に詳しい人間なら「学者でなく俺のような素人」でも、一人もいないでしょう。
例の国書については
遣隋使 - Wikipedia参照
煬帝に宛てた国書が、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と書き出されていた。これを見た隋帝は立腹し、外交担当官である鴻臚卿(こうろけい)に「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」(無礼な蕃夷の書は、今後自分に見せるな)と命じたという。煬帝が立腹したのは、天子は中華思想では1人で、それなのに辺境の地の首長が「天子」を名乗ったからである。
小野妹子は、その後、返書を持たされて帰国している。帰国した妹子は、返書を百済に盗まれて無くしてしまったと言明している。しかしこれについて、煬帝からの返書は倭国を臣下扱いする物だったのでこれを見せて怒りを買う事を恐れた妹子が、返書を破棄してしまったのではないかと推測されている。小野妹子が「返書を掠取される」という大失態を犯したにもかかわらず、一時は流刑に処されるも直後に恩赦されて大徳(冠位十二階の最上位)に昇進し再度遣隋使に任命された事、また返書を掠取した百済に対して日本が何ら行動を起こしていないという史実に鑑みれば、 聖徳太子、推古天皇など倭国中枢と合意した上で、「掠取されたことにした」という事も推測される。
ということで隋にはろくに相手にもしてもらえませんでした。
もし河上氏*2の言う(といっても高世の紹介しか現時点では俺には判断材料がないことをお断りしておきます)
出版社による本書の内容紹介はー
「(ボーガス前略)遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説を乗り越えようとする試みが本書の特徴である」
の「遣隋使派遣による日本の対等外交指向などの通説」と言う言葉が「意味するもの」が
・遣隋使派遣によって日本が対等外交を目指した(しかし失敗した)という通説
ならともかく
・遣隋使派遣によって日本が対等外交を目指した(そして成果をあげた)という通説
と言う意味なら「そもそもそんな通説はない」というべきでしょう。
ということは河上説とは
・遣隋使派遣によって日本が対等外交を目指したという事実はないという説
なんですかね?。まあ、読めば解ることですが。