「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年3/23日分:荒木和博の巻)

ソ連から日本人を取り返した話(R4.3.23): 荒木和博BLOG
 6分26秒の動画です。タイトルだけ見ると「シベリア抑留のこと?」と思いますが、説明文の

 昭和15年(1940)、ソ連に抑留された日本の漁船を海軍の駆逐艦隊が取り返したことがありました。詳しくは予備役ブルーリボンの会の『自衛隊幻想』(産経新聞出版)をご一読下さい。

だけで「シベリア抑留ではないこと」がわかると共に見る気が失せます。実際見る価値はありません。予想通り「過去に海軍でソ連抑留者を取り戻した。北朝鮮相手にも自衛隊で同じ事ができるはず」という与太が話されますので。
 荒木の言うような事実が1940年に実際にあったとしても、「過去に海軍でソ連抑留者を取り戻した。北朝鮮相手にも自衛隊で同じ事ができるはず」て、できるわけがない。拉致被害者の居場所もわからないのにどうやって取り戻すのか。
 そして「当時のソ連と今の北朝鮮」にはいろいろと違いがあるわけです。単純比較できる話ではない。
 米国は過去に何度か北朝鮮に自国民(例:プエブロ号事件(1968年)、ワームビア君など)を身柄拘束されていますが、それは全て外交交渉で取り戻しました。
 日本も「第18富士山丸船長」は金丸訪朝で、「拉致被害者五人」は小泉訪朝という外交で取り戻しました。
 そして「シベリア抑留の解決」も勿論外交交渉の訳です。
 例えば荒木の物言いだと今だって「ロシアの日本漁船拿捕」に対して「自衛隊を出せ」ということになりかねませんがそんな物騒なことはやらないわけです。「ロシアとの外交」で解決している。
 あの産経ですら

【主張】露の漁船拿捕 外相は乗組員を取り戻せ - 産経ニュース(2019.12.19)
 北方領土歯舞群島付近で操業していた日本の漁船5隻がロシア国境警備当局に拿捕(だほ)された。茂木敏充外相(ボーガス注:役職は当時。現在は自民党幹事長)による初の訪露に合わせたような挑発的行動である。
 茂木外相は19日に予定される日露外相会談でこの問題をまず取り上げ、乗組員24人を連れ帰るとの気迫で即時解放を求めねばならない。

ということで「自衛隊で取り戻せ」なんてことは言わない。
 なお、1940年には以下のような出来事がありました。

1940年 - Wikipedia
◆3月30日
 汪兆銘が南京で親日政府樹立
◆4月9日
 デンマークがドイツに降伏
◆5月15日
 オランダがドイツに降伏
◆5月28日
 ベルギーがドイツに降伏
◆6月7日
 ノルウェー国王ホーコン7世が英国に亡命
◆6月10日
 ノルウェーがドイツに降伏
◆6月14日
 ドイツ軍がパリに無血入城
◆7月10日
 ドイツ軍による英本土空襲開始(バトル・オブ・ブリテン:10月末まで)
◆7月11日
 フランスでルブラン大統領が辞職し、ペタン元帥*1国家主席に就任。いわゆるヴィシー政府(ドイツの傀儡政権)が成立
◆9月23日
 日本軍のフランス領インドシナ北部(北部仏印)進駐。
→勿論「ビシー政権誕生」を背景とした行為です。
◆9月27日
 日独伊三国軍事同盟成立。
◆10月12日
 大政翼賛会発足
 ドイツ軍がルーマニアに進軍開始
◆11月10日
 第二次近衛内閣主催の「紀元二千六百年式典」開催
◆11月14日
 ドイツ軍がイギリス中部の都市コヴェントリーを空襲
◆11月20日
 ハンガリーが枢軸国(ドイツ陣営)入り
◆11月23日
 大日本産業報国会結成
 ルーマニアが枢軸国(ドイツ陣営)入り
◆11月24日
 スロバキアが日独伊三国条約に加入

 こうした「1940年のドイツの快進撃(デンマーク、ベルギー、オランダ、ノルウェー、フランスがドイツに降伏)」が日本政府に「ドイツ過大評価」を生み、「米国恐れるに足らず→北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟」で米国との対立を助長し「1941年の太平洋戦争開戦」につながります。 
 つまりは

「ハニートラップ」なんてことで、そのような歴史の話を解釈するのはよろしくない(半藤一利氏って、こんなトンデモだったのという気がする)(下) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
 ドイツ大使だった大島浩の晩年の発言をご紹介。
 大島浩・元駐ドイツ大使
私はもちろん自分の責任を痛感する、非常にそういうことを感じますね。いま考えるとドイツが勝つだろうという前提に立ってやったわけなんですよ。

という話です。日独提携は「ハニートラップ(半藤一利)」なんて話ではない。
 というか1940年の「ドイツの快進撃」を知っているはずなのに何で半藤一利もバカなことを言うのか。

*1:1856~1951年。国防相、副首相、首相(フランス第三共和政)、国家主席(ビシー政権)など歴任。戦後、戦犯として無期刑。1951年7月23日、流刑先であるヴァンデ県沖合のユー島で病死(フィリップ・ペタン - Wikipedia参照)。