ショートメッセージは馬鹿の一つ覚えです(R4.5.27): 荒木和博BLOG
7分13秒の動画です。「荒木がバカであること」も「荒木の動画がアホなことしか言っておらず見る価値もないこと」も事実ですが、ここでの荒木発言は勿論「自嘲」ですね。
本気で「俺はバカだ!、クズだ!」と荒木が反省してるわけではありません。しかしこんな自嘲をしてる荒木も「拉致の風化」にやる気を失いつつあるのでしょう。荒木の動画も「荒木のウヨ仲間」「俺のような奇特な変人」が視聴してるだけで世間的には何一つ話題になってませんからね。
6分24秒の動画です。荒木の主張の是非(荒木の動画での発言については今回触れません)に関係なく「救う会、家族会」と
「田中均氏」「蓮池透氏」「和田春樹氏」「拙記事珍右翼・高世仁に突っ込む(2022年5/27日分)(副題:『即時一括全員帰国路線が二人を見捨てた』という高世の救う会、家族会批判に驚く) - bogus-simotukareのブログで紹介したなぜ政府は2人の拉致被害者を見捨てるのか?(2) - 高世仁のジャーナルな日々」
→救う会、家族会の「即時一括全員帰国」主張に批判的
との意見は明らかに違うのだから、「オールジャパン」なんて事実が「拉致問題」で存在しないのは確かです。
というか大抵の政治問題は「オールジャパン」のわけがない。「総論賛成、各論反対」という奴ですね(総論反対の場合もありますが)。「細部まで意見が一致している」なんてことはまずあり得ません。
そして今の拉致問題での「オールジャパン」は
◆戦前日本の「非国民」「売国奴」「国賊」
日中戦争や太平洋戦争について(特に戦争末期、明らかに敗色濃厚になってから)反戦派や厭戦派、嫌戦派と見なした人間をつるし上げ。
ググってヒットした◆斎藤貴男*1『「非国民」のすすめ』 (2007年、ちくま文庫)
◆飯田未希*2『非国民な女たち:戦時下のパーマとモンペ』(2020年、中公選書)
◆田中綾*3『非国民文学論』(2020年、青弓社)
つまりは「小林多喜二(特攻が虐殺)」など「非国民扱いされた文学者」を扱ってるのでしょう。などは勿論そういう意味合いでの「非国民」です。例えば飯田本の場合、副題から見て「戦時下にパーマなど贅沢だ、危機意識が足りない、貴様それでも日本人か、この非国民め」「この戦時下にはモンペを着るのが当然だ」という話でしょう。
◆スターリンソ連や文革中国での「反革命分子」「反動分子」
とほとんど同じ意味合いになっています。つまりは「家族会、救う会」の意見に「無条件で従え」という暴論ですね。
【参考:非国民(パーマネントはやめませう)】
大東亜戦下の婦人髪型 - 虚構の皇国
「パーマネントはやめませう」という恐るべき標語が登場したのは昭和15(1940)年だけれども、『写真週報』や大日本婦人会の奢侈贅沢追放キャンペーンに端的なように、戦争末期までパーマネント女性はいたようなので、髪型のモードが死に絶えたというわけではさらさらなかったようだ。
弁護士会の読書:「非国民な女たち」
女性の美に対するあこがれの強さに改めて驚嘆させられました。なにしろ空襲下でもパーマネントを離さなかったというのです。
「ぜいたくは敵」
「パーマネントはやめませう」
という世の中でも、戦前の日本女性は上から下まで(上流階級だけでなく)、パーマネントをかけようと、徹夜してでも、早朝からパーマネントをかけるべく行列をつくっていたり、木炭パーマネントにつかう木炭なら、食事づくりの木炭をまわしてでも、ともかくパーマネントを優先させていたというのです。
「石を投げられてもパーマをかけたい」
「非国民」とののしるほうがおかしいと、日本の女性は開き直っていたのでした。
いやはや、「常識」ほどあてにならないものはありません。戦前の日本女性はパーマをかけず、黙ってモンペをはいて、防災訓練と称するバケツリレーをしていただなんてイメージがありますが、とんでもありません。
戦火が激しくなった1940年を過ぎても、パーマネントをかける女性が減るどころか増えていた。
それは工場でも同じこと。女工たちはパーマネントをかけ、スカートの美しさに気を使っていた。モンペの着用は広がらなかった。
1943年の大日本婦人大会で「パーマネント絶対禁止」が決議されているが、それだけパーマネントは流行していたということ。実際、パーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院があり、店の前には順番待ちの女性の行列があった。
陸軍省で働く女性たちにもパーマネントが流行っていた。
木炭パーマ。戦争が激しくなってきて、電気を使えなくなり、パーマは炭火ですることになった。客がもってくる木炭がなければ木炭パーマはかけられない。そして、主婦が配給の炭を節約してでも自分のためにパーマネント用の木炭を店にもってきた。
「非国民」と罵られても、パーマをかけたい! 戦時下でわきまえない女たちが守ったもの 繰り返された「パーマネントはやめましょう」|話題|婦人公論.jp飯田未希
「パーマネント禁止」は日中戦争が始まった1937年の国民精神総動員中央連盟*4(以下「精動」)の精神作興運動の委員会で決議され、大日本国防婦人会*5(以下「国防婦人会」)などの各種婦人団体もそれに賛同して、地域での反対運動を始めている。
またモンペは、1937年頃から盛んに行われるようになった地域の消火訓練や防空演習で女性たちが自主的にはくようになり、「戦時に相応しい服装」として新聞などのメディアでも盛んに取り上げられた後、厚生省によって1942年に制定された「婦人標準服」の「作業衣」として公的にも認められた。
しかしながら、このように「戦時に相応しい」髪形や服装が公的に「決定」されたということは、多くの女性たちがこのような決定に従ったということを必ずしも意味しない。実際には、現在わたしたちが想像するよりもずっと多くの女性たちが戦争中にパーマをかけ、スカートをはいておしゃれを追求していたようである。これは太平洋戦争が始まり、人々が耐乏生活を強いられていたとされる時期においてもそうであった。
1937年に日中戦争が始まって以降、女性の外見は社会問題として取り上げられるようになった。パーマネントをかけた女性、派手な化粧をした女性、最新流行のスカート姿の女性、派手な和装の女性などが「奢侈的」「享楽的」と名指しされ、新しくできた精動本部に属する男性や女性指導者層、各種婦人会の女性たち、そしてメディアから一斉に批判を受けるようになった。
『読売新聞』1938年1月17日の「読者眼」で、「日本橋生」という投稿者は「断髪諸嬢に告ぐ」として、パーマネント女性の氾濫を以下のように非難した。いま、巷にはボッブド・ヘアー・パーマネント・ウェーブの雀の巣のような頭をした若い女性が氾濫している。中にはわざわざ薬品で毛を赤くした婦人までが存在する
(中略)
幸いに当局にも美容院取締りと舶来風俗禁止の意向があるとき、街頭の断髪嬢諸君も今こそ日本女性の黒髪に還れ、貴女がたには次の日本人を作る聖なる“母”の使命があるのだ。この投稿は、「読者眼」に議論を巻き起こした。同年1月21日には、女性の投稿者による「パーマネント讃」という反論が掲載されている。彼女は「断髪諸嬢に告ぐ」という投稿が「あまりにも日本女性の心理と、時代を無視した概念的な偏見ではないでしょうか」と述べた
なぜパーマネントは真っ先に批判のターゲットになったのか。それは1935年頃に国産機が導入されることで低価格化し、大流行し始めたからであろう。
精動は37年7月、「パーマネント禁止」の決議を出して以降、たびたび女性の「パーマネント禁止」を決定している。また街頭での婦人会によるパーマネント禁止の呼びかけも全国各地で繰り返し行われ、パーマネント禁止のポスターが街のあちこちに張られた。子供たちが美容院の前で「パーマネントはやめましょう」という歌を歌っていたことも、各地の美容師が記録している。
しかしながら、驚くべきことに戦争が進んだ1943年の大日本婦人会の大会においても、まだ「パーマネント絶対禁止」が決議されている。これだけの禁止や反対運動にもかかわらず再度禁止を呼びかけなければならないというのは、どういうことか?。むしろ、たび重なる禁止は実効性を伴っていなかったということだろう。
実際、精動による「決議」は、精神総動員運動という官製運動の運動方針を決定しただけであり、禁止のための法的根拠はなかった。このため、実際にはパーマネントを続けた業者がほとんどであり、また女性たちも婦人会などの街頭などでの呼びかけにもかかわらず美容院に通っていた。大阪などの大都市ではパーマネント機を10台以上も設置した大規模美容院も出現しており、順番待ちをする女性たちで店の前には行列ができていた。
縮れ毛で「非国民」といじめられた(龍野惇子、山口県、77)
国民学校6年生で終戦を迎えた私には、私だけの戦争体験がある。
戦前、髪が赤く強い縮れ毛であった私は、1930年代にアメリカ映画で名子役として活躍したシャーリー・テンプルと同じような髪だったので、「テンプルちゃん」と言われ、可愛がられた。
戦争が始まり、威勢のよい掛け声や軍歌が日々強くなる中で、大人たちのヒソヒソ話や、周りの人たちの変化で、子供なりに不安を感じていたように思う。戦争が逼迫してくるに従って、友達の私への攻撃が始まった。「テンプルちゃん」変じて、「パーマネント」「西洋人」「非国民」「国賊」とはやし立てられた。授業以外の時間は子供なりにつらいものだった。
*1:著書『源泉徴収と年末調整:納税者の意識を変えられるか』(1996年、中公新書→後に『大増税のカラクリ』と改題し、2006年、ちくま文庫)、『プライバシー・クライシス』(1999年、文春新書)、『梶原一騎伝』(2001年、新潮文庫→2005年、文春文庫、後に『「あしたのジョー」と梶原一騎の奇跡』と改題し、2016年、朝日文庫)、『小泉改革と監視社会』(2002年、岩波ブックレット)、『バブルの復讐:精神の瓦礫』(2003年、講談社文庫)、『安心のファシズム:支配されたがる人びと』(2004年、岩波新書)、『国家に隷従せず』(2004年、ちくま文庫)、『希望の仕事論』(2004年、平凡社新書)、『不屈のために:階層・監視社会をめぐるキーワード』(2005年、ちくま文庫)、『ルポ改憲潮流』(2006年、岩波新書)、『住基ネットの「真実」を暴く』(2006年、岩波ブックレツト)、『報道されない重大事』(2007年、ちくま文庫)、『消費増税で日本崩壊』(2010年、ベスト新書)、『東京を弄んだ男:「空疎な小皇帝」石原慎太郎』(2011年、講談社文庫)、『「心」と「国策」の内幕』(2011年、ちくま文庫)、『強いられる死:自殺者三万人超の実相』(2012年、河出文庫)、『安倍改憲政権の正体』(2013年、岩波ブックレット)、『分断される日本』(2013年、角川文庫)、『戦争のできる国へ:安倍政権の正体』(2014年、朝日新書)、『民意のつくられかた』(2014年、岩波現代文庫)、『民主主義はいかにして劣化するか』(2014年、ベスト新書)、『「東京電力」研究』(2015年、角川文庫)、『ジャーナリストという仕事』(2016年、岩波ジュニア新書)、『機会不平等』(2016年、岩波現代文庫)、『国民のしつけ方』(2017年、集英社インターナショナル新書)、『「明治礼賛」の正体』(2018年、岩波ブックレット)、『日本が壊れていく』(2018年、ちくま新書)、『ちゃんとわかる消費税』(2019年、河出文庫)、『カルト資本主義(増補版)』、『決定版・消費税のカラクリ』(以上、2019年、ちくま文庫)など(斎藤貴男 - Wikipedia参照)
*3:北海学園大学教授、三浦綾子記念文学館館長。三浦綾子も『銃口』(角川文庫、小学館文庫:北海道綴方教育連盟事件がテーマ)、『母』(角川文庫:小林多喜二がテーマ)で「非国民文学(?)」を取り上げた作家です。
*4:1937年から1940年まで活動した日本政府の外郭団体。初代会長は海軍大将の有馬良橘。1940年の大政翼賛会誕生時に翼賛会に吸収され消滅(国民精神総動員中央連盟 - Wikipedia参照)
*5:1932年から1942年まで存在した日本の婦人団体(軍部系)。1942年に愛国婦人会(内務省系)や大日本連合婦人会(文部省系)と統合し、大日本婦人会が誕生したことで消滅(国防婦人会 - Wikipedia参照)