「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(2022年6/19日分:荒木和博の巻)

陸軍100式鉄道牽引車(R4.6.19): 荒木和博BLOG
 5分程度の動画です。勿論、拉致とは何一つ関係ない。鉄道趣味と言うより荒木の「軍事趣味」でしょう。
 なお、この牽引車については以下を紹介しておきます。

日本陸軍鉄道連隊一〇〇式鉄道牽引車 - Wikipedia
 日本陸軍鉄道連隊*1が使用した軌道・道路両用の六輪起動自動車である。
 1930年代後期から南方作戦向け鉄道牽引車を新たに開発することになり、当時の標準的な軍用トラックである九四式六輪自動貨車を基に設計したものである。
 戦後、国鉄や一部私鉄に委譲され、1960年代頃まで保線用車両として使用されていた事例が複数例確認されている。
◆保存車
 昭和40年頃に国鉄東京鉄道管理局から譲渡された車両が埼玉県朝霞駐屯地輸送学校に展示されている。 なお、陸上自衛隊で使用した車両というのは誤りで、陸上自衛隊には旧軍の鉄道牽引車は存在していない。

いまに残る旧陸軍の遺産、朝霞の一○○式鉄道牽引車は線路も道路も走るハイブリッド!(写真13枚) | 乗りものニュース2018.9.4
 鉄道の線路上も普通の道路も両方走れる「軌陸車」。陸自朝霞駐屯地の、国内で唯一現存する旧陸軍の軌陸車「一〇〇式鉄道牽引車」はなぜ作られ、そしてなぜいまそこにあるのでしょうか。
 朝霞駐屯地(東京都練馬区)にも旧陸軍の車両が遺されていることはあまり知られていません。
 それもそのはず、朝霞駐屯地は(ボーガス注:駐屯地内の)陸上自衛隊広報センター(愛称:りっくんランド)こそ一般開放されているものの、それ以外の場所は原則として開放されていないため、見ることが難しいからです。
 昭和に入って間もないころ、旧日本陸軍は大正時代に行われたシベリア出兵での経験から、大陸における鉄道輸送を円滑に行うため、多種多様な鉄道用車両の開発を決定、これにより国産の軌陸車開発がスタートしました。
 1929(昭和4)年春に(中略)「スミダRSW型」と呼ばれる広軌装甲牽引車が製作されると、「試製九〇式装甲牽引車」、「九一式」、「九二式」と立て続けに開発、満州事変などで実戦投入され、欠点が改良されていきました。
 そのようななかで陸軍は、牽引車自体に装甲を施すと戦闘の際は有利でも、逆に自重が増えるため牽引車としての能力は低下してしまうことに気付きました。そこであえて装甲を有しない牽引車として1937(昭和12)に「九七式鉄道牽引車」を開発。これを基に誕生したのが「九八式」で、その改良型として1941(昭和16)年に登場したのが「一〇〇式鉄道牽引車」だったのです。
 それまでの軌陸車が出力の関係からガソリンエンジンを搭載していたのに対し、エンジンをディーゼル化したのが一番の特徴でした。
 これら鉄道牽引車は、特殊構造を持つトラックであったため、戦時中はもちろん、戦後も残存車両が国鉄(現在のJR)や各地の私鉄で酷使された結果、1960年代以降急速に姿を消し、現在では輸送学校に展示されている1両しか国内に現存しない(他にタイに1両あるのみ)状況となってしまったのです。
 この国内で唯一残る一〇〇式は、1967(昭和42)年6月、国鉄(当時)の東京鉄道管理局より輸送学校へ無償譲渡されたもので、長らく展示車輌として、また学校のシンボルとして残されてきたものです。
 原則として一般公開はされていませんが、広報センター(りっくんらんど)が実施する駐屯地見学ツアーのコースに入ることがありますので、ホームページなどで確認してみてください。

 ということで旧陸軍にもトラック(今回は軌陸車という特殊なトラックですが)はありましたが「米軍と違い」主として「トラックに全て切り替える金がない」ということで輸送の主力は馬でした。それで米国相手に戦争するのはどう見ても無謀でしょう。


【参考:日本軍と馬】
 俺の場合「その場の思いつき」で「話の本筋から離れたこと」が以下の通り、「脱線して」書かれることがありますがご容赦ください。

吉橋徳三郎 - Wikipedia
 1871~1920年
◆騎兵論争
 1919年(大正8年)11月、参謀本部第4部長の国司伍七少将が、陸軍の機関紙である『偕行社記事』に「騎兵ノ将来ニ就イテ」と題する論文を発表し、火器や軍用機の発達した第一次世界大戦の戦訓を踏まえ、乗馬戦闘用の騎兵は廃止すべきで、伝令・斥候用の乗馬歩兵で足りるとする主張をした。これに対して、植野徳太郎軍馬補充部本部長、大島又彦*2陸軍騎兵学校長らが反対の論陣を張って、激しい論争が起きた。
 当時、騎兵第4旅団長だった吉橋も、1920年大正9年)1月に「『騎兵ノ将来ニ就テ』ノ所感」と題する論文を『偕行社記事』に発表し、あくまで乗馬戦闘教育は維持して徒歩戦闘と併用すべきであると国司少将を批判した。その際、吉橋は、歩兵も機会が少ない銃剣突撃を重視しているのだから、騎兵も機会が少なくても乗馬戦闘を軽視すべきでないと述べた。国司少将は、1920年4月の「再ビ騎兵問題ニ就イテ」で吉橋に再反論し、吉橋が歩兵戦闘もほとんど射撃戦で決まるとしている点は「妄想」だと述べた。
 1920年8月、吉橋は、国司少将により「妄評」を加えられたことが、名誉上耐えられない旨の遺書を残して、割腹自殺した。自殺前に中将進級の内示を受けていたため、中将へ死後進級させることも検討されたが、遺族が断った。吉橋の自殺を機に騎兵についての論争は沈静化し、1922年(大正11年)の騎兵操典改正でも乗馬戦闘は徒歩戦闘と並ぶ戦術として維持された。

陸軍騎兵学校 - Wikipedia
 日中戦争支那事変)後は、馬術学生の募集は停止され、機甲教育機関へと移行。1936年(昭和11年)8月には騎兵学校内に陸軍戦車学校の名称で戦車教育を主とする教育機関が設置された。そして、昭和16年には機甲本部が創設され実質的に騎兵は無くなり、「陸軍騎兵学校」は正式に「陸軍軽機甲学校」に改められた。

栗林忠道 - Wikipedia
 1891~1945年。
◆1914年(大正3年
 陸軍騎兵少尉に任官
◆1918年(大正7年
 陸軍騎兵中尉に進級
◆1923年(大正12年
 陸軍騎兵大尉に進級。騎兵第15連隊中隊長に就任
◆1927年(昭和2年
 アメリカ大使館駐在武官補佐官に就任
◆1931年(昭和6年
 カナダ公使館付武官に就任
◆1933年(昭和8年
 陸軍騎兵中佐に進級。陸軍省軍務局馬政課高級課員に就任
◆1936年(昭和11年
 騎兵第7連隊長に就任
◆1937年(昭和12年
 陸軍騎兵大佐に進級。陸軍省兵務局馬政課長に就任。馬政課長在任中の1938年(昭和13年)には軍歌『愛馬進軍歌』の選定に携わっている
◆1940年(昭和15年
 3月に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任。12月には騎兵第1旅団長に就任
◆1941年(昭和16年
 第23軍参謀長として香港の戦いに従軍
◆1944年(昭和19年
  第109師団長(小笠原兵団長兼任)に就任
【逸話】
◆当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。1920年大正9年)12月7日、陸軍大学校へ入校し、1923年(大正12年)11月29日に陸大を卒業(第35期)、成績優秀により恩賜の軍刀を拝受。弟の栗林熊尾が兄同様に長野中学から陸軍士官学校へ進学したいと言い出したとき、栗林は、自らの経験から、陸軍では陸軍幼年学校出身者が優遇され、中学出身者は陸軍大学校を出ても出世できないとして、軍人になりたいなら、幼年学校が存在しない海軍(陸軍士官学校に当たる海軍兵学校のみ存在)へ行くようにと薦めたという。熊尾は海軍兵学校受験に失敗し、陸軍士官学校に入校したが(第30期)、卒業後に肺結核で夭折、栗林は弟の死を嘆いた。
◆栗林はドイツ志向の強い当時の陸軍では少数派であった「知米派」で、妻のよしゐに「アメリカは世界の大国だ。日本はこの国との戦いは避けるべきだ。その工業力は偉大で、アメリカの戦力を決して過小評価してはならない」と話したこともあったという。

 ということで「硫黄島の戦い」で有名な栗林は「元々は騎兵畑出身」だったわけです。

*1:1896年(明治29年)に鉄道大隊が編成された。日露戦争後の1907年(明治40年)に鉄道連隊に昇格(鉄道連隊 - Wikipedia参照)

*2:1872~1953年。第14師団長だった1926年(大正15年)に予備役編入。1932年(昭和7年)のロス五輪では、馬術競技団長として参加し、西竹一(1902~1945年。騎兵第1連隊中隊長など務めるが、騎兵部隊削減の影響を受け、戦車兵に転身し、戦車第26連隊長など歴任。硫黄島の戦いで戦死)が障害飛越競技個人で金メダルを獲得。1936年(昭和11年)、大日本体育協会会長、日本オリンピック委員会会長となり、翌年まで在任した(大島又彦 - Wikipedia参照)