今日の産経ニュース(2024年8/12日分)

安保闘争と「文化人」の浅薄な発言 話の肖像画 モラロジー道徳教育財団顧問・金美齢<12> - 産経ニュース

 修士論文のテーマが英国の劇作家、アーノルド・ウェスカー*1で、彼が来日してシンポジウムが開かれた。日本の英米文学者がパネリストとして並び、私は知り合いの英文学者、小田島雄志さん*2が登壇するというので聴衆として出席した。そのときのことを小田島さんが回顧した新聞記事を読んで思い出したんだけど、パネリストのある人が「ベートーベンよりもビートルズの方が大事だ」というような発言したのよ。古典や伝統を否定することで、自分がいかに開かれた人間かということを示そうという、あまりに浅薄な発言だと感じたね。

 「小田島氏の回顧記事とは何新聞(例:日経新聞の「私の履歴書」コーナー)のいつの記事なのか?」「パネリストのある人とは誰なのか?」「どういう文脈の発言なのか?」「その発言に他のパネリストはどう応答したのか?」等が、何ともあやふやな話で「はあ?」ですね。
 

<産経抄>夏に知る命をかけた先人の思い - 産経ニュース

 夏休みも後半、自由研究に悩む子供たちに薦めたい施設がある。日教組の先生は顔をしかめるかもしれない。靖国神社の資料館「遊就館」だ。

 「遊就館」を批判的に理解できるなら行くこと自体には問題は無いでしょう。歴史の勉強になる施設は「地域の歴史資料館」等いくらでも他にありますが。
 なお、「日教組の先生」どころか「まともな人間」なら、以下のような「戦前日本の侵略戦争を美化するあんな右翼施設」を好意的に評価しません。評価するのは産経のような非常識極右だけです。

赤旗これが靖国神社「遊就館」の実態だ/徹底ルポ――“靖国史観”の現場をゆく/A級戦犯を「神」と展示2005.6.15
 最初に驚くのが、二階映像コーナーの「私たちは忘れない」のビデオ上映。「極東の小さな国だった日本が生き残ったのは、欧米列強の脅威にひるむことなく、命をかけて立ち向かった」(ナレーション)からだとする解説が強烈な印象を残します。
 「侵略戦争だったという人がいます。虐殺をしたという人もいます。それは大東亜戦争というものを正しく理解していうのではなく、戦後、日本弱体化の占領政策を推し進めたアメリカの言い分を、今日まで信じ込んでいることに、大きな原因がある」
 露骨な侵略戦争正当化論です。
 日中戦争(一九三七年―四五)では、中国の「排日運動」や蒋介石の戦術などが戦争の原因とされ、中国側の「在留日本人殺害」などの暴虐が強調されます。ちょうど、当時の政府が「暴戻(ぼうれい=乱暴で道理にはずれている)支那を膺懲(ようちょう=こらしめる)する」として、中国侵略の拡大を正当化していたのと同じ論理です。
 最も力をいれているのが太平洋戦争。そこでは開戦の責任は開戦時の米大統領ルーズベルトの「陰謀」にあるとされます。終戦が遅れたことさえ、天皇制「護持」に固執した政府や軍部のせいではなく、日本の無条件降伏を求めたルーズベルトにあったとします。
 「日米交渉」の年表のタイトルは「和平を模索する日本の行動」。中国侵略の権益を絶対に手放さないとする立場の「和平」をこうして正当化していきます。
 責任転嫁の一方で、「わが生命線である韓国」「満州の権益」など、他国領土を「生命線」とする立場が平然と記され、北太平洋からニューギニアビルマに連なる線を「絶対国防圏」とする領土拡大の過程を当然のこととして描いています。
 ここにあるのは、戦争を起こした側が、あの戦争は正しかったという自己正当化の視点から組み立てた、偽りの「近代史」です。
 展示室の最後には、壁を埋め尽くした四千枚を超える戦没者の遺影。その中に、次の名前がありました。
 「陸軍大将 東条英機*3命(みこと) 昭和23年12月23日 東京都巣鴨拘置所にて法務死 東京都」
 太平洋戦争開戦時の首相として、東京裁判で絞首刑の判決がくだされたA級戦犯。その人物の写真が「靖国の神々」として堂々と展示してあったのです。
 館内の最後にある感想文コーナーでは、「日本は戦うしかなかったのです。戦わなければ他のアジア、アフリカの国々のように植民地にされていました。それがよく分かりました」(二十八歳)などという文章もつづられています。
 「遊就館」のような「歴史観」に市民権を与えることは、絶対にあってはならないことです。(藤田健
血のにおいしない「戦争」(安川崇)
 ニューギニア作戦に従事した日本軍第18軍。食糧などの補給を受けられず、死者の9割は餓死と推定されています。遊就館の解説パネルは、18軍が「人間の限界をこえた苦闘」を戦いぬくなかで「崇高な人間性」が発揮され「多くの逸話を残した」と語って終わります。「餓死」の文字すら出てきません。
東南アジアとのギャップ(豊田栄光)
 遊就館玄関ホール。そこに堂々と展示されているのは泰緬(たいめん)鉄道を走った機関車。泰緬鉄道は戦前、日本軍がタイとビルマミャンマー)の間に建設した415キロの線区です。過酷な労働に栄養不足、マラリアなどの病気、連合軍の攻撃。連合軍捕虜数万人、アジア人数十万人が亡くなったとされます。
 「英国統治下の時も計画されたが、難路にて着工されなかった」、それが「1年3カ月という驚異的な速さで完成した」と、誇らしげに紹介しているのが遊就館です。
遺族の心に沿った神社か(北村隆志)
 「行く気がしない」という遺族が多いのも事実です。東京都の白井克雄さん(62)もその一人。父はニューギニアで戦死しました。靖国神社は子どもの時に一度、母に連れられて行ったきりです。
 「戦死といってもマラリアと飢えで死んだと、戦友から母は聞いたようです。そんな死に方をさせて何が聖戦ですか。」

 久しぶりに訪れると、数多くの展示資料の中に、先の大戦で戦死した五輪選手らの遺影や遺品があり、見入った。
 昭和7年のロサンゼルス五輪馬術金メダルで知られる西竹一*4(陸軍大佐)は42歳で激戦地の硫黄島で戦死した。同じロス五輪水泳100メートル自由形で銀の河石達吾*5(陸軍大尉)が同島で戦死したのは33歳のときだった。プロ野球選手らの名もある。名古屋軍(現・中日)投手で18年にノーヒットノーランを達成した石丸進一*6(海軍大尉)は特攻で22歳のとき戦死した。

 これを「戦争が無ければ死ぬことは無かった」と評価しない辺りが産経らしい。
 特に「選手としてのピークを過ぎていたであろう西や河石」はともかくまだ若い石丸の場合は「戦後、プロ野球選手としての活躍」もあり得たのでは無いか。
 石丸の兄である「石丸藤吉*7」は戦後の一時期、プロ野球選手ですし。
 あの戦争は真珠湾攻撃によって「日本が起こした戦争」であって「相手が起こした戦争」ではない。回避することは十分可能でした。

【参考:石丸進一】

赤旗戦争で多くのスポーツマンが戦死した?2006.8.24
 今年の終戦記念日小泉首相靖国参拝を強行しましたが、そこにある遊就館には、プロ野球名古屋軍」の投手で、特攻隊で戦死した石丸進一が、「英霊」の名で遺品が陳列されています。同じ「名古屋軍」の後藤正*8も、野球帽をかぶり、ユニホーム姿で写っている遺影で並んでいます。この二人は、まるで「英霊」の象徴のように陳列されています。

石丸進一の「絶筆」は「魂安らかならざる場所」に置かれている(2009年08月15日)上田龍*9
 その人生はいとこに当たるノンフィクション作家・牛島秀彦氏*10(故人)の著書「消えた春:名古屋軍投手石丸進一*11」や、映画『人間の翼:最後のキャッチボール』などで知られるようになった。
 筑波飛行基地で訓練を受けていた石丸に特攻出撃が命じられ、鹿屋に向かう輸送機に乗り込む前に残した「絶筆」が存在する。基地に残る戦友が差し出したアルバムに万年筆でしたためられたものだ。
葉隠精神」「敢闘精神」のあと、石丸は、「日本野球ハ、」とアルバムにつづった。
 それを見た戦友が、思わず「この期に及んでまだ野球か!」と声を荒げると、石丸はペンを止め、 「オオ、野球じゃ、野球じゃ、オレは野球じゃ!」と叫びながら、集合を告げるサイレンとともに駆け出し、そのまま輸送機に乗り組んでいったという。
 だが、このアルバムはいま、そんな彼の思いにおよそふさわしくない場所──靖国神社の展示施設「遊就館」に置かれているのだ。
 なぜ「野球体育博物館」ではなかったのかとの思いはある。
 靖国遊就館は、彼らの霊を慰めたり、無念の思いを次世代に語り継いでいくのにふさわしい場所ではない。
 遊就館が日本軍国主義体制による侵略戦争や、国民への思想弾圧などを美化・肯定する「靖国史観」のショーケースにほかならないからだ。

*1:1932~2016年。著書『ウェスカー全作品1』 (1972年、晶文社)、 『ウェスカー全作品2』 、『ウェスカー全作品3』 (以上、1970年、晶文社)、『友よ』(1974年、晶文社)、『ハンガリー知識史の風景』(2000年、風媒社)等

*2:東京大学名誉教授。著書『シェイクスピア物語』(1981年、岩波ジュニア新書)、『シェイクスピア名言集』(1985年、岩波ジュニア新書)、『シェイクスピアへの旅』(1988年、朝日文庫)、『小田島雄志シェイクスピア遊学』(1991年、白水Uブックス)、『シェイクスピア人間学』(2007年、新日本出版社)、『シェイクスピアの戦争・平和学』(2008年、新日本出版社)、『シェイクスピアの恋愛学』(2010年、新日本出版社)、『ぼくは人生の観客です:私の履歴書』(2012年、日本経済新聞社)等

*3:1884~1948年。陸軍省整備局動員課長、参謀本部総務部編成動員課長、陸軍省軍事調査部長、関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、陸軍航空総監、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相等を歴任。戦後死刑判決。後に靖国に合祀(東條英機 - Wikipedia参照)

*4:1902~1945年。1932年ロサンゼルス五輪馬術障害飛越競技の金メダリスト。この金メダルは、2024年パリ五輪の総合馬術団体で日本が銅メダルを獲得するまで、馬術競技で日本が獲得した唯一のメダルであった。第二次松方、第三次伊藤内閣外相等を歴任した男爵・西徳二郎の三男。1924年陸軍士官学校卒業後、陸軍騎兵少尉に任官。1927年、陸軍騎兵学校を卒業し、陸軍騎兵中尉に進級、1933年、陸軍騎兵大尉に進級、陸軍騎兵学校教官となる。1939年には陸軍騎兵少佐に昇進し、軍馬の育成を担当する陸軍省軍馬補充部の十勝支部員となる。しかし1940年以降は陸軍において騎兵部隊が削減され、代わって近代的な戦車部隊が新設された時代であり、「陸軍騎兵」西も方向転換を余儀なくされる。1943年、陸軍中佐に昇進し、1944年3月に戦車第26連隊長を拝命。戦車第26連隊は当初は「サイパンの戦い」に参戦予定だったが、現地守備隊が玉砕したため、1944年6月に硫黄島への動員が下令された。1945年3月、硫黄島の戦いで戦死し陸軍大佐に特進(西竹一 - Wikipedia参照)

*5:1911~1945年。1932年ロサンゼルス五輪100m自由形銀メダリスト

*6:1922~1945年。1941~1943年まで名古屋軍(現・中日)に所属

*7:1914~1991年。1937~1943年に名古屋軍(現・中日)に、1951年に松竹ロビンス大洋松竹ロビンス大洋ホエールズを経て現在の横浜DeNAベイスターズ)に所属。プロ野球引退後は当時、松竹ロビンスオーナーだった田村駒治郎(1904~1961年。繊維商社「田村駒」社長)が引退後の選手の生活のために設立したタクシー会社・ロビンス交通の専務を経て、1953年、自らタクシー会社の親和交通(現・親切タクシー)を設立し、社長に就任(石丸藤吉 - Wikipedia参照)

*8:1912~1937年。1936年、名古屋軍(現・中日)に所属するが応召され、翌1937年、盧溝橋事件後の平津作戦で戦死(後藤正 (野球) - Wikipedia参照)

*9:著書『戦火に消えた幻のエース:巨人軍・広瀬習一の生涯』(2009年、新日本出版社

*10:1935~1999年。著書『力道山物語』(1983年、徳間文庫)、『昭和天皇と日本人』(1989年、河出文庫)、『行こかメリケン、戻ろかジャパン:ハワイ移民の100年』(1989年、講談社文庫)、『ノンフィクション天皇明仁』(1990年、河出文庫)、『九軍神は語らず』(1990年、講談社文庫→1999年、光人社NF文庫)、『巨人軍を憎んだ男:V.スタルヒンと日本野球』(1991年、福武文庫)、『真珠湾の不時着機』(1997年、河出文庫)、『アッツ島玉砕戦』(1999年、光人社NF文庫)等

*11:1981年、時事通信社→1994年、河出文庫