今日の朝鮮・韓国ニュース(2023年4月7日分)(副題:統一協会と金丸信氏)

“旧統一教会創始者の訪日 自民幹部が働きかけ” 韓国外交文書 | NHK | 旧統一教会
 自民幹部とは金丸*1自民党副総裁のことですが

徹底追及 統一協会/旧統一協会の正体と歴史を暴く/ジャーナリスト 柿田睦夫さん/集団結婚+金集め+反共謀略2022.7.24
 1992年、入管法で入国資格のない文鮮明法務大臣特別許可という超法規措置で入国を果たしました。このとき法務大臣にあっせんしたのは金丸信自民党副総裁。

統一協会「文鮮明」を無理やり入国させた金丸信の大罪 今なら政権が吹っ飛ぶ大スキャンダル | デイリー新潮2022.8.24
 文鮮明は1992年3月26日に来日したが、本来なら入国は許可されない。この問題をいち早く詳報したのが週刊新潮だった。
 同誌4月9日号に掲載された「文鮮明来日を画策した『金丸』の深謀遠慮」から、一部を紹介しよう。
《「文氏はアメリカで脱税の罪に問われ、1982年に懲役1年6カ月の有罪判決を受け、服役もしており、入管法の規定では上陸を許可されていない人物なんですよ。それに、79年に入国申請が出された時にも、統一教会霊感商法合同結婚式の問題があって不許可になっている。ところが、今回だけ法務大臣の特別許可がいとも簡単に降りたのは、裏で自民党議員の強い圧力があったためなんです」》
 金丸の圧力で許可が下り、1992年3月26日、文鮮明は日本に特別入国を果たした。

等でわかるように以前から噂されてきたことなので意外性はありません。
 問題は
1)日本外務省や自民党の文書なら間違いなく事実だろうが「韓国外務省の文書(日本外務省が韓国側に金丸氏の名前を出して文入国を説明したと記載)」では何処まで信用できるのか
2)何故韓国が今この文書を公開したのか、その公開動機といったところですね(安倍暗殺の影響は大きいのでしょう。安倍が今も存命で公開されたかどうか)。
 なお、

“旧統一教会創始者の訪日 自民幹部が働きかけ” 韓国外交文書 | NHK | 旧統一教会
 松野官房長官は、午後の記者会見で「ムン・ソンミョン氏については法務大臣の裁量的な処分である上陸特別許可を受けて上陸が認められたものと承知しており、当時の法務大臣の判断として適切なものだったと聞いている」と述べました。

自民党は完全に逃げ腰です。
 おそらく「金丸氏または『金丸氏ではないが政権幹部(当時は宮沢内閣)や自民党幹部の誰か』が圧力をかけた疑いは濃厚」「下手に対応すると藪蛇」と考えてるのでしょう。
 岸田政権に対して「当時の日本政府公文書公開」を求めるなり、「事実でないなら韓国に抗議すべきだ」と要請するなり、野党やマスコミはすべきです(勿論、岸田は無視するのでしょうが)。
 ちなみに、金丸氏と言えば、1990年9月に訪朝し、「北朝鮮に身柄拘束された第18富士山丸船長、機関長の帰国」を実現しています。
 一方、文鮮明は1988年の韓国民主化(民主派が金泳三と金大中分裂選挙になったことで、軍政の流れを組む盧泰愚が大統領に当選しましたが)、1989年以降の東欧共産体制崩壊*2(1989年10月の東ドイツ国家評議会議長ホーネッカー失脚、11月のベルリンの壁崩壊、チェコのいわゆるビロード革命 - Wikipedia、12月のルーマニアチャウシェスク体制崩壊チャウシェスク夫妻が反政府派によって殺害される)、1990年1月のホーネッカー逮捕*3、10月の東西ドイツ統合など)以降は

文鮮明 - Wikipedia
 1991年11月30日から韓国政府に無断で電撃訪朝して平壌北朝鮮の最高指導者である金日成国家主席と会談した。

ということで「反共だけではやっていけない」と考えたのか、そのスタンスが従来の反共から変化していきます。
 1992年の「文鮮明入国」は当然ながら「1990年の金丸訪朝において、実は統一協会ルートが利用され、1992年に金丸氏はそのときの統一協会の恩義に報いたのではないか?」という憶測は容易にできます(実際、どうなのかは現時点では何とも言えませんが)。
 勿論「北朝鮮の金丸訪朝受け入れ(1990年)」も「東欧共産体制崩壊」、特に「ソ連ハンガリー動乱(1956年、ナジ首相をソ連に連行し処刑)、プラハの春弾圧(1968年)等と違い東欧共産体制崩壊を容認したこと」に危機意識を感じた北朝鮮なりの「生き残りの模索」でしょう。
 ソ連と韓国は金丸訪朝と同時期の1990年9月に国交を正式に樹立していますが、勿論こうしたソ連の動きも北朝鮮はそれなりに感じ取っていたでしょう。
 こうした状況で、1990年9月(金丸訪朝と同時期)には「初の南北朝鮮首相会談」も行われます(1990年 - Wikipedia参照)。

*1:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)など歴任

*2:勿論1989年に天安門事件が起こったのも「東欧革命に呼応したて盛り上がった学生運動」に対して鄧小平が危機感を覚えたことが一因であり、東欧革命と天安門事件の年が同じなのは単なる偶然ではない。

*3:ベルリンの壁を越えようとして射殺された東ドイツ国民に対する殺人容疑による。1993年の裁判では訴追免除され、娘の居るチリへ事実上亡命した。ピノチェトクーデター当時、東ドイツはチリの反政府派の亡命を多数受け入れたことでつながりがあった(当時のチリは民主化で、そうした亡命派が政権与党)。翌1994年5月29日に、肝臓癌により81歳で死去(エーリッヒ・ホーネッカー - Wikipedia参照)