送還の恐怖に怯えるクルド人―入管法改正をめぐって - 高世仁のジャーナルな日々
条約が課している、迫害のおそれのある国へ移送してはならないという「ノン・フールマンの原則」に背を向ける措置だ。
さすがにいずれ誤記を直すでしょうが吹き出すと共に呆れました。
この問題に一定の知識がある方(特に専門家)はすぐに気づいたでしょうが正しくはノン・ルフールマン(non-refoulement)の原則です(例えばノン・ルフールマン原則等に反する入管法改正案に反対し国際基準に沿った出入国管理・難民保護制度の確立を求める会長声明 | 広島弁護士会(2023.2.22)参照)。
refoulement(フランス語)が「refoule(迫害する)+ment(動詞を名詞化する接尾語)」で「迫害」と言う意味でそれに「ノン」がついて「迫害されないこと」と言う意味です(ノン・ルフールマン原則 - Wikipedia参照)。
タイプミスか、「フールマン」と最初から「フールなマン(愚かな男)高世」が間違って覚えたのかはともかく、まさに
いくら何でも粗雑すぎる(2020年と2019年の取り違え) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2021.1.18
いくらなんでもこれはひどいと思う(こういうデタラメな編集をしているから会社が倒産するんだといわれても仕方ないのではないか) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)2022.6.30
の一例ではないか。一応高世も素人ではなく「元プロ(日本電波ニュース社やジンネット)」ですからね。
◆習近平・中国共産党主席
毛沢東時代は党の最高ポストは主席だったが今は総書記
◆金正恩・北朝鮮国家主席
金日成時代は国家の最高ポストは国家主席だったが今は国務委員長
◆安倍晋太郎首相
勿論晋三が正しい。晋太郎は晋三の父親で、福田内閣官房長官、自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など要職を歴任したが首相にはなっていない。
◆岸信介・菅内閣防衛相
勿論、信夫が正しい。信介は信夫の祖父で元首相
◆自民の萩生田政策審議会長
役職としては「政策審議会長(社民党、れいわ新選組など)≒政務調査会長」だが自民の場合は勿論、政務調査会長
◆共産の小池書記長
役職としては「書記長(昔の社会党、公明党、民社党など)≒書記局長」だが共産の場合は勿論、書記局長
◆拉致被害者の横山めぐみ氏*1
勿論「横田めぐみ」が正しい。
と書くぐらい「今回の高世」はお粗末ではないか。
なお、日本で「ノン・ルフールマンの原則」が争点となった事件として「ググってヒットした」以下の事件(【在日クルド人強制送還事件】、【中国民航機ハイジャック事件(犯人の名前から張振海事件とも言う)】、【尹秀吉事件】)を紹介しておきます。
【在日クルド人強制送還事件】
在日クルド人 - Wikipedia
2004年、クルド人の難民申請者の親子アフメット・カザンキランとラマザン・カザンキランが入国したが、不法入国としてトルコに強制送還された。彼らは国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が難民認定した難民であるが、日本政府は東京高裁が「迫害はなかった」とする判決を出したことと、イギリスが2人の難民申請を却下したことを根拠として、難民として認定しなかった。2006年1月、彼らの家族はニュージーランドに難民申請を行って認められ同国に移住したが、息子のラマザンは兵役のためトルコに残った。2007年3月13日、出国可能となったラマザンはニュージーランドに出国し、家族と再会することができた。これは、『バックドロップ・クルディスタン』(大澤一生監督、2007年公開)と言うドキュメンタリー映画となっている。
2005年1月、同じくUNHCRから難民と認められたトルコ国籍のクルド人、カプラン氏(仮名)とその長男が、入管に収容され、翌日にトルコに強制送還された。弁護団や難民支援協会(JAR)の訴え、そして6万人の署名も聞き届けられなかった。
ユンスンギル(尹秀古)事件 最判昭和51・1・26 その2 判決および付記 | 憲法判例解説
難民申請が不認定になったものの中には、UNHCRによる難民認定を受けたものが1名いたようです。(いわゆるマンデート難民)
マンデート難民といえば、日本は2005年1月18日に、UNHCRが認定したマンデート難民であるクルド系トルコ人アフメット・カザンキランさんと息子のラマザンさんをトルコに強制送還しました。マンデート難民の強制送還は世界初といわれ、UNHCRは、日本の法務大臣に口上書を送付、この措置がルフールマンにあたることを指摘しました。
しかも、この二人は、法務省への異議申し立てを却下された直後に強制送還されたもので、訴訟の機会も奪われた形になりました。
「UNHCRの難民認定(マンデート難民)を無視してトルコに強制送還」というのだから無法の極みですね。もろに「ノン・ルフールマン原則」に抵触しています。
【中国民航機ハイジャック事件(犯人の名前から張振海事件とも言う)】
中国民航機ハイジャック事件 - Wikipedia
1989年(平成元年)12月16日に発生した中華人民共和国(中国)の民間航空機に対するハイジャック事件。ハイジャック実行者(張振海)の身柄引き渡しについて日中間の国際問題になった事件である他、外国でハイジャックされた旅客機が初めて日本の空港に着陸した事件である。
1989年12月16日10時40分、北京発上海・サンフランシスコ経由ニューヨーク行きの飛行機がハイジャックされた。犯人の張振海は爆発物を所持していると脅迫し(実際は丸腰であった)、韓国ソウル行きを要求した。
機長はソウルに向けて飛行したが、中国と当時国交を結んでいなかった韓国政府(国交樹立は1992年)に強硬に着陸を拒まれ、スクランブル発進した戦闘機すら飛来したため、機長は韓国領空への進入をあきらめた。
飛行機は13時50分に済州島上空から福岡へ向けて進路を変更し日本領空へ向かった。14時11分に飛行機は日本領空に進入し、新田原基地(宮崎県)からスクランブル発進した自衛隊機の監視を受けながら福岡空港へ向かった。
飛行機は14時33分に福岡空港管制に対し、「残っている燃料は40分飛行できる量しかない」と緊急着陸を要請し、福岡空港管制は14時35分に、緊急着陸を許可した。そして14時52分に福岡空港へ着陸した。福岡空港で客室乗務員が張に「韓国に到着した」とウソをつき、隙を見て機体後部の非常口から張を滑走路上に突き落とし、張は福岡県警・福岡空港警察署に逮捕された。この際、張は骨折などの重傷を負い福岡市内の病院へ搬送された。
張は「1989年6月に発生した天安門事件でデモに参加したため2か月間身柄を拘束されていた。最終的には韓国に亡命したかった」と供述し政治亡命が目的のハイジャック事件であったと主張した。そのため日本国内からは政治犯の引渡しを禁止した逃亡犯罪人引渡法に該当するものであり、もし中国に送還したら政治犯として死刑になるおそれがあり、人道上許されないとの声が人権団体などから起きた(例えば日本弁護士連合会:張振海氏の身柄引渡しに関して参照)。
そのため前例のない判断を司法当局は迫られたが、東京高裁は1990年4月20日に「張は天安門事件とは別の容疑で拘束されていた」という中国の主張を受け入れ、中国への身柄引き渡しを決定した。
張は1990年4月28日に中国政府に身柄を引き渡され本国に送還された。中国側は国際的世論を考慮したためか公開裁判で審理を行い、張に対し北京市中級人民法院(高裁)は7月18日に懲役8年、政治権利剥奪2年を言い渡し上訴がなかったためそのまま確定した。
裁判所はともかく「引き渡しを行った日本政府」には明らかにだから尖閣問題で中国と棚上げ合意をしたなんてことは、国会でも答弁されているんだってば - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)と同様の政治判断(日中友好関係への配慮)があるでしょう。
【尹秀吉事件】
尹秀吉事件でググると
◆高野雄一*2「退去強制と政治亡命の法理:尹秀吉(インヒデヨシ*3)事件の鑑定をして1,2」『法学セミナー』1969年5月号、6月号(日本評論社)
◆久保敦彦「尹秀吉(インヒデヨシ)事件確定判決と政治犯罪人不引渡原則・最高裁判決後に残された諸問題」『神奈川法学』11巻(1976年、神奈川大学)
がヒットするので「日本の国際法学」においては重要事件(重要判例)なのでしょう。
尹秀吉事件 - Wikipedia
1951年に尹は日本留学への夢を実現するために日本に密入国した。
その後、尹は在日本大韓民国居留民団(以下、「民団」)栃木県本部事務局長となっていた。尹は南北平和統一等の言論活動を行ったことで朴正煕政権下で死刑判決が下った民族日報社長の助命運動を行なっていたが、在日韓国代表部(当時は国交がなかったため大使館ではない、正式な国交樹立は1965年)の意向を受けた民団中央総本部によって「反政府運動」として民団栃木県本部事務局長を解任された。
1962年4月初めに尹は密入国容疑で日本の東京入国管理事務所に収容された。10年前の密入国が発覚したもので、尹には送還先を韓国とする退去強制令書が6月29日付で発行され、身柄は九州の大村収容所に移された。
尹は「自分は朴政権下で死刑とされた民族日報社長の助命運動を行った行為で処罰されることが確実な政治犯である」として日本国政府(具体的には入国管理局を担当する法務省)を相手に退去強制令書の発布処分取り消しを求めて提訴する。当時の日本は難民条約に加入しておらず、政治亡命者を受け入れる法律がなかった(日本は難民条約に1981年に加入し、1982年に発効している)。
1969年1月25日、東京地裁(杉本良吉*4裁判長)は「政治犯罪人の不引渡しの原則(ノン・ルフールマンの原則)は国際慣習法であると解するのが相当である」「朴政権下で行われた思想犯への取締りの事実認定から、原告が韓国へ強制送還されると、民族日報社長の助命運動を行った行為で相当の処罰を受ける客観的確実性があることは否定することができない」として尹の主張を全面的に認め、退去強制令書発布処分を取り消した。法務省は控訴をし、1972年4月19日に東京高等裁判所(谷口茂栄裁判長)は「政治犯罪人の不引渡しの原則は、自由と人道に基づく国際慣行であるが、いまだ確立した一般的な国際慣習法とは認められない」として一審を取り消した上で尹の請求を棄却した。
1976年1月26日の最高裁判所第二小法廷(岡原昌男*5裁判長)は「政治犯罪人の不引渡しの原則は、一般的な国際慣習法として確立しているとは認めがたい。逃亡犯罪人引渡法は犯罪人引渡し条約が締結されている国に対して政治犯罪人の不引渡しを規定したものでなく、また、原告が行った活動(民族日報社長の除名運動など)を理由に韓国で処罰されることは客観的に見て確実ではない*6」として上告を棄却した。
ユンスンギル(尹秀古)事件 最判昭和51・1・26 その1 | 憲法判例解説
1960(昭和35)年には、在日本大韓民国居留民団の栃木県本部事務局長に就任しました。
ここで、当時の韓国の情勢を見てみましょう。
1960年4月、李承晩大統領が、不正工作によって大統領に四選したことに、激しい抗議運動が全国的に起こる中、戒厳令が布告されましたが、運動は収まらず、ついに大統領は辞任するという結末を迎えました。(四月革命)
これにより、成立した第二共和国において、李承晩独裁政権の打倒の大きな力になった学生運動は、南北朝鮮の統一を志向、北朝鮮の朝鮮学生委員会との南北学生会談を設定し、デモなどを行っていました。これに対し、第二共和国内閣は、特に制止などの措置を取らなかったことに対し、社会の保守派と軍は不満を覚えていきます。
そして、1961年に、軍事革命委員会と名乗るグループによる軍事クーデターが起こり、戒厳令を布告、閣僚を逮捕します。そして、軍事革命委員会は、国家再建最高会議と名前を変え、パクチョンヒ(朴正煕)が議長となります。彼は、治安維持と経済改善のため、国家再建非常措置法を施行、韓国中央情報部を発足させました。
1963年に、パクチョンヒ(朴正煕)は大統領となり、第三共和国となりますが、反共軍事体制は変わらず、共産主義者や北朝鮮のスパイを摘発するため*7の拷問事件や冤罪事件も数多く起こしました。(日本でも金大中事件がありましたね。)
さて、話をユンスンギルさんに戻すと、彼は、南北朝鮮の平和統一運動に共鳴していたのでした。
そして、四月革命の年である1960年に、在日本大韓民国居留民団の栃木県本部事務局長に就任したのでしたね。しかし、その後、韓国は軍事クーデターにより、朴政権となります。これに対して、ユンスンギルさんは、朴政権によって敵性団体とされた韓国社会大衆党*8の党員を、(ボーガス注:民団栃木)県本部団長選挙で支援、これを当選させます。また、同じく朴政権によって敵性団体とされていた日本社会党と親交を結び、さらに、社会大衆党の国会議員候補者で、ソウルで民族日報社を設立、南北平和統一の主張をしたチョ・ヨンス(趙鏞寿)氏が、特殊犯罪処罰特別法で死刑判決を受けたことに対し、抗議大会を計画・主宰し、民団の栃木県本部機関紙に、死刑反対の社説を掲載、助命運動を展開するとともに、朴政権を批判しました。
なお、チョ・ヨンス氏は、1961年1月に民族日報を創設した方です。同誌において、南北統一の主張をしたことが、北朝鮮の主張に同調したとして死刑宣告を受け、軍事クーデターの半年後の、61年12月に死刑を執行されました。昨年、名誉回復を求める遺族の主張により、ソウル地裁は、再審を行い、2008年1月16日に無罪を言い渡しました。
しかし、ユンスンギルさんのこれらの動きについて、反政府運動的色彩が濃いとして、民団の中央総本部によって栃木県本部事務局長の辞任に追い込まれました。
その後、彼は、密入国の容疑で、東京入国管理事務所に収用されます。1962(昭和37)年に、送還先を韓国とする退去強制令書発付処分を受けました。
ユンスンギルさんが、この退去強制令書の発付処分の取消を求めたという事件です。
要するに、日本に密入国していた方が、母国での強権政治に抑圧された人に対して支援活動をしていたところ、退去強制令書を発付されたという事件です。問題は、彼が母国に帰されると、おそらくは処罰、しかも当時の体制からすると、かなり厳しい処罰が待っていただろう、ということにあります。
なお、いわゆる難民条約(難民の地位に関する条約)は、31条で、避難国に不法に滞在する難民について刑罰を科してはならないことを規定し、さらに、33条で、いかなる方法によっても、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見のために、生命又は自由が脅威にさらされるおそれのある領域の国境へ追放し又は送還することを禁止しています。(ノン・ルフールマンの原則、ルフールマンとは迫害を受ける危険性のある領域に人を送還すること)
ただし、難民条約そのものは1954年に発効していますが、日本が加入したのは1981年ですので、ユンスンギルさんが退去強制令書の発付を受けたときには、まだ日本は未加入でした。
ということでウィキペディアは「民族日報社長の除名運動」しか書いてませんが他にもいろいろと「(裁判での原告主張によると?)朴政権に敵視されてもおかしくないこと」をいろいろやっていたようです。
ユンスンギル(尹秀古)事件 最判昭和51・1・26 その2 判決および付記 | 憲法判例解説
ところで、この判決後に、法務省は、ユンスンギルさんに、特別在留許可を与えました。
これにより、ユンスンギルさんは日本に在留することができることになったわけです。
結局のところ、この判決は、「政治犯不引渡の原則を国際慣習法として認めないという国家意思を(ボーガス注:行政庁である日本政府と司法府である最高裁が)内外に明らかにしたもの」(広部和也、昭和51年度重版解説、ただし、百選5版、斉藤解説より引用)という評価が当たっているものと考えられます。
なお、先にも述べましたように、本件当時はまだ未加入でしたが、1981年に、日本も難民条約に加入しました。
これにより、国内法も改正され、出入国管理令は、出入国管理及び難民認定法に改正されました。追放・送還禁止の原則(難民条約33条、ノン・ルフールマンの原則)についても、入管法53条3項が退去強制の際の送還先には、「難民条約第三十三条第一項に規定する領域の属する国を含まないものとする」などの確認をしています。
これによって、「追放・送還禁止の原則」が国際慣習法か否かは問題ではなくなったわけです。
この判決後に、法務省は、ユンスンギルさんに、特別在留許可を与えました。
これにより、ユンスンギルさんは日本に在留することができることになったわけです。
ということは裁判に負けた物の「国内外の批判を恐れた日本政府」によって結局強制送還はされなかったようで何よりです。
「尹秀吉」でググってヒットした
◆尹秀吉『「韓国的民主主義」批判:朴政権の歴史的系譜とその本質』(1984年、緑蔭書房)
というのも「同姓同名の別人」ではなくご本人なのでしょう。
なお、朴正煕政権下で死刑判決が下った民族日報社長については以下の記事を紹介しておきます。
趙鏞寿(ちょうようじゅ)とは? 意味や使い方 - コトバンク
韓国のジャーナリスト。1961年2月『民族日報』を創刊し、同社社長となった。同年5月の軍事クーデター後、朴正煕(ぼくせいき)政権が言論機関を厳しく弾圧、民族日報社も封鎖され、同社幹部数名とともに逮捕された。1961年8月「日本の朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)から資金を得て、同紙を発刊、共産主義の助長を図った」との理由で死刑判決を受けた。これに対し、日本を含む世界的な抗議運動が行われたが、1961年12月21日死刑を執行された。死後、国際ジャーナリスト機構(IOJ)が国際記者賞を贈呈した。
46年前の死刑に再審無罪/韓国、民族日報事件 | 全国ニュース | 四国新聞社2008.1.17
韓国のソウル地裁は16日、1961年の朴正熙少将(後に大統領)が主導したクーデターの直後、革新的な論調を掲げた「民族日報」の趙☆寿社長=当時(31)=が北朝鮮の同調者として、軍政下の特別法で死刑にされた事件の再審で、無罪判決を言い渡した。
名誉回復を求める遺族の請求に基づき再審が行われていた。
韓国メディアによると、裁判所は、趙氏が「北朝鮮の同調者」との当時の判断を否定した。
民族日報事件は、朴正熙体制初期の反対勢力弾圧の代表的事件で、国際的な救援運動が起きる中、趙氏はクーデターから約半年後の1961年12月に処刑された。
(注)☆は金ヘンに庸
冤罪「大逆事件(幸徳秋水等に死刑)」に結局「再審無罪判決が出せなかった人権後進国」日本と比べ「本当に良かった」と思います。
それにしてもまさに
荒木和博も、朴正煕や全斗煥をそんなに高く評価するのなら、拓殖大学の紀要や極右雑誌でないまともな学術誌に彼らの時代制約もふくめて論じる論文でも投稿したらどうか - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
これは荒木だけの問題ではありませんが、朴にしても全にしても、まさに韓国があのような状況だった、北朝鮮との対立も激しかった、冷戦時代だったからあり得た政治家であり国家指導者であって、当時は大目に見られても現在はかばえるような代物でないことをいろいろやらかしています。それこそ光州事件がそうだし、金大中事件などもその典型でしょう。
でしょう。こうした「朴の独裁性」は「高度経済成長」で容認できるような代物ではない。
*1:1969年生まれ。1987年放送の『北の国から'87初恋』で純(吉岡秀隆)の初恋相手「大里れい」役でデビュー(横山めぐみ - Wikipedia参照)
*2:1916~2014年。東大教授、上智大教授など歴任。高野雄一 - Wikipediaによれば『ポツダム宣言受諾を無条件降伏とする説に反対し、江藤淳を支持した』だそうなのでどう見ても極右です。鑑定も恐らく「国を擁護する立場の鑑定」でしょう。
*3:今は「金日成(北朝鮮国家主席)=キムイルソン」「朴正熙(韓国大統領)=パクチョンヒ」「全斗煥(韓国大統領)=チョンドファン」「金大中(韓国大統領)=キムデジュン」といった韓国語読みが一般的でしょうが、昔は「キンニッセイ、ボクセイキ、ゼントカン、キンダイチュウ」といった日本語読みの方が一般的であり、尹秀吉氏の場合も同じ話です(韓国語読みでは「ユンスウギル」のようです)。
*4:1916~2004年。東京地裁判事在任時の1970年、教科書検定の合憲性が争われた家永教科書裁判で検定不合格を憲法違反とした「杉本判決」を下した事で知られる。
*5:1909~1994年。法務省刑事局長、千葉地検検事正、東京高検次席検事、京都地検検事正、札幌高検検事長、福岡高検検事長、大阪高検検事長、最高裁判事、長官を歴任
*6:法解釈はともかく、「原告が行った活動(民族日報社長の除名運動など)を理由に韓国で処罰されることは客観的に見て確実ではない」という事実認識は「お前(岡原)はアホか(横山ホットブラザーズ)」「お前(岡原)がそう思うんならそうなんだろう、 お前ん中ではな(少女ファイト)」レベルの強弁でしょう。
*7:というのは多くの場合「口実」にすぎず「反政府派の弾圧」でしょうが。金大中迫害はその典型です。
*8:第二共和国時代(1960年~1961年)の韓国において存在した革新政党。クーデターで成立した朴政権によって解散に追い込まれた。(社会大衆党 (韓国) - Wikipedia参照)