「反党分子」松竹伸幸に今日も悪口する(2023年5/29日分)(追記あり)

明日の読売テレビが私のことを放映 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
 最近はマスコミから全く相手にされてなかったところ、大阪の読売テレビから取材があったと大喜びの松竹です。
 とはいえ、「マスコミがほとんど相手にしない」と言う今の惨状が大きく変わるとも思えませんが。
 明日以降、松竹が「読売テレビ番組」をどう報告するか気になるところです。松竹にとって「放送時間(思ったより短い)や内容(松竹が期待したほどには奴に好意的でなかった)」が期待外れのために、報告しない可能性もありますが。
 なお、小生は埼玉居住なので、見たくても見られません(正直な話、見る気はないですが)。
【追記】

共産党綱領と政権共闘論・2 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
 昨日の「かんさい情報ネットten」の「101年目の共産党〝牙城〟京都で異変が」がYouTubeにアップされています。関心のある方はどうぞ。

 「報告はした」ものの、随分とあっさりした扱いです。松竹にとって「淡々とした扱い」で「あまり嬉しい番組」ではなかったんでしょう。なお「視聴しても不快になるだけ」だと思うので視聴はしません。
 なお、「101年目」と言うタイトルで分かるように日本共産党の創立は「1922年(7月15日)」ですね。
 1922年には「江崎グリコ創立(2月22日)」「全国水平社(部落解放同盟の前身)創立(3月3日)」「小学館創立(8月8日)」などもありました(1922年 - Wikipedia参照)。


共産党綱領と政権共闘論・1 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
 以下は松竹の主張を「ひとまずは正当な綱領理解」として話を進めますが、小生も「共産支持者」とはいえ「党綱領を理由に支持してる」わけではなく、当然「詳しい綱領理解はしてない」ので、コメント欄で「松竹の理解は間違い」という指摘があり、それが説得力あるものであれば以下の記載は修正があり得ることをお断りしておきます。
 さて松竹によれば「昔の綱領」と「今の綱領」では「連立政権論」に違いがある。
 昔の綱領は「講座派の2段階革命論」的な物であった。
 まず「自民党政権よりましな連立政権(現在、目指してる立民党との連立など、保守リベラル政権で可)」を作るが、最終目標としては「共産党色の強い政権(左派政権?)」を目指す。
 要するに「最初は日米安保廃棄、天皇制廃止、脱原発などを実現できなくてもやむを得ないが、最終目標としてはそうした共産党の目標の実現を全て目指す」と。
 しかし、今の綱領はまず「自民党政権よりましな連立政権(現在、目指してる立民党との連立など、保守リベラル政権で可)」を作るとしているが、「最終目標」云々と言うことは特に書いてないと。
 この松竹の指摘が正しいとして「あ、そう(昭和天皇)」的な感想しか俺にはない。
 理由その1。
 人によっては「最終目標を書くのを辞めたのは堕落だ、右傾化だ(左翼(?)的立場からの批判)」かもしれないし、逆に「最終目標と言っても、すぐに実現する見込みないし、別に書かないでええやろ。むしろ最終目標は共産党独裁だなんてウヨからデマ飛ばされるだけと違うか(右翼(?)的立場からの容認や積極支持)」かもしれない。
 ただ小生は「党員」ではないし「綱領」で支持してるわけでもない。
 最終目標と言っても、それは勿論すぐ実現できる話ではないし、一方で「よりましな政権」と言ったって当然「政権交代さえすればよりまし」つう安易な話でもない。志位執行部も過去の非自民政権「細川、羽田内閣」「民主党政権(鳩山、菅、野田内閣)」を手放しでは評価してない。というか、共産党がどうこう以前に、細川内閣での国民福祉税騒動*1や羽田政権誕生直後の統一会派「改新」結成等を理由に羽田政権からは「社会党新党さきがけ」が離脱*2したし、鳩山内閣からは「沖縄基地移転問題での福島少子化担当相(社民党党首)の罷免」で社民党が政権から離脱しましたが。
 今の綱領も、志位執行部もさすがに「政権交代さえすればよりまし」つう安易な話はしてないでしょうし、仮に「そういう安易な話」を志位執行部がしてるのなら批判するだけの話です(ただし、その場合でもそうした「安易な話」は党綱領から当然に引き出される話ではなく、「安易な話をしないためには党綱領を変えないといけない」という話でもないでしょうが)。
 なお、統一会派「改新」とは以下のような代物です。

改新 - Wikipedia参照
 社会党新党さきがけの政治力低下を狙って、新生党(首相である羽田党首や小沢代表幹事)、日本新党(前首相である細川代表)、民社党自由党*3、改革の会*4の5会派が合同して、社会党衆院議席数(74議席)を上回る新会派「改新(130議席数)」を結成。しかしこの結成は社会党新党さきがけに何の相談もなかった上、「社会党、さきがけの政治力低下狙い」であることが明白だったため、社会党、さきがけの反発を招き、両党が正式に連立から離脱。かえって羽田政権を苦境に追い込んだ。
 その後、社会党、さきがけが自民と連立を組んだことはご存じの通りです。

*1:細川首相が新生党の小沢代表幹事、公明党の市川幹事長と組んで「消費税の5%増税(当時は3%)&福祉税化」を目指したが、社会党や武村官房長官新党さきがけ代表)の反発で挫折した。

*2:正式な離脱は羽田政権誕生後とはいえ、「山花政治改革担当相(社会党委員長)」「武村官房長官新党さきがけ代表)」が入閣していた細川内閣とは違い、羽田内閣には社会党新党さきがけからの入閣はなく最初から閣外協力に留まった。

*3:細川内閣崩壊後の1994年4月に、小沢新生党代表幹事と組んで、渡辺美智雄(中曽根内閣通産相自民党政調会長(竹下総裁時代)、宮沢内閣副総理・外相など歴任、自民党渡辺派領袖)の首相擁立を目指し、柿澤弘治らが自民を離党して結党したが、渡辺が結局小沢の呼びかけに応じなかったこともあり、最終的には党を解散し、全員が自民党に復党。なお、小沢の「自民党幹部を離党させて首相に担ぐ(そして自民分断を狙う)」と言う構想は渡辺ではなく海部元首相(村山首相が誕生した際の首相選出選挙での小沢による海部擁立→その後の海部を党首、小沢を幹事長とする新進党の結成)によって実現した。

*4:自民党を離党した西岡武夫鳩山邦夫等が結成し、鳩山が羽田内閣労働相として入閣。後に解散し、自民党復党組(鳩山)と民主党入党組(西岡)に分かれた。