「革命政党」論と「敵の出方」論・7 | 松竹伸幸オフィシャルブログ「超左翼おじさんの挑戦」Powered by Ameba
常識的に言うと、もし共産党に暴力で襲いかかるような勢力があれば、共産党はその取り締まりを日本政府・警察庁に要請すればいいのである。なぜそうしないのか
そりゃ「敵の出方論」においては「襲いかかる勢力」が「浅沼稲次郎社会党委員長を暗殺した右翼少年」等ではなく「日本政府、警察庁(場合によっては自衛隊)」だからでしょう。
共産党が政権を取る前にそれらの勢力が襲いかかる、あるいは取った後も「アジェンデ政権を打倒したチリ軍部(1973年)」「ムルシ政権を打倒したエジプト軍部(2013年)」「アウンサンスーチー政権を打倒したミャンマー軍部(2021年)」のように軍部(自衛隊)がクーデターを起こして、反動勢力が政権を奪取する。それが「敵の出方論」の想定でしょう(過去の日本共産党においてアジェンデ政権転覆はやはり衝撃であり、「敵の出方論」にも恐らく影響したでしょう)。
その場合「日本政府、警察庁(あるいは自衛隊)」の犯罪を取り締まる「国際警察」は現在存在しないので「日本共産党が自己防衛せざるを得ない」というのが「敵の出方論」でしょう。従って「敵の出方論」とは「是非はともかく」暴力革命ではない。
「権力側が暴力を発動した場合にまで非暴力的な方法をとることはしない」と言うだけの話です(裏返せば権力側が暴力を発動しない限り、選挙など非暴力的な方法での政治闘争を維持する)。
実際「その後、チリが1990年に民主化し、ピノチェト*1も失脚した」とはいえ、ピノチェトのアジェンデ政権転覆は国際社会に容認されましたし、エジプト、ミャンマーのクーデターも現在進行形で国際社会に事実上容認されています。
そうした事実を踏まえれば「場合によっては自己防衛」という「敵の出方論」はそれなりの合理性がある。
要するに「敵の出方論」の想定は完全に内戦状態です。今のミャンマーみたいなもんでしょう。ミャンマーにおいては当初反体制派は平和路線でしたが、軍事政権が躊躇なく暴力(軍事力)を行使するので現在は反体制派も軍事力で対抗しています。
それを「暴力を使うなんて野蛮」とミャンマーの反体制派を非難する人間は普通いないでしょう。
但し冷静に考えると「日本において、反動派の暴挙によって内戦状態や軍事クーデターが勃発する」ということは「遠い将来はともかく」当面考えがたい。
西南戦争(1877年)以降、日本において大規模な内戦なんかないでしょう。軍事クーデターも「宮城事件(1945年の陸軍のクーデター未遂)」以降起こってない。
三島事件(1970年)は1)三島が部外者であること、2)自衛隊から呼応する動きがなかったことから、現実的なクーデターの脅威とは見なしがたいでしょう。
「敵の出方論」が以下の通り、「死文化する」のも当然ではあります。
どんな場合でも平和的・合法的に社会変革を進める―日本共産党の確固たる立場/党創立99周年記念講演会での志位委員長の講演から(抜粋)
安倍前首相は、「現在においても敵の出方論にたった暴力革命の方針に変更はない」と答弁しました。いったい私たちの綱領のどこを読んでいるのか。日本共産党は、社会変革の道すじにかかわって、過去の一時期に、「敵の出方」論という説明をしてきましたが、その内容は、(1)選挙で多数の支持を得て誕生した民主的政権に対して、反動勢力があれこれの不法な暴挙に出たさいには、国民とともに秩序維持のために必要な合法的措置をとる。(2)民主的政権ができる以前に反動勢力が民主主義を暴力的に破壊しようとした場合には、広範な国民世論を結集してこれを許さないというものです。それは、どんな場合でも、平和的・合法的に、社会変革の事業を進めるという日本共産党の一貫した立場を説明したものにほかなりません。これをもって「暴力革命」の「根拠」にするなどということは、まったく成り立つものではありません。
なお、「敵の出方」という表現だけをとらえて、日本共産党が、あたかも平和的方針と非平和的方針という二つの方針をもっていて、相手の出方によっては非平和的方針をとるかのような、ねじ曲げた悪宣伝*2に使われるということで、この表現は、2004年の綱領改定後は使わないことにしています。
なお以上は松竹記事に投稿しますが果たして掲載するかどうか(追記:予想通り掲載拒否のようです。「自由な言論」と言う松竹の嘘にはいつもながら呆れます)。