kojitakenに悪口する(2023年8/12日記載)(注:カー作品、クリスティ作品について一部ネタばらしがあります)(追記あり)

トルストイ「クロイツェル・ソナタ」を読む (第2回) 「クロイツェル・ソナタ」とアガサ・クリスティのとある中篇/短篇小説とシェイクスピアの『オセロ』 - KJ's Books and Music

 日本でいまだにクリスティ*1エラリー・クイーン*2やジョン・ディクスン・カー*3より下に見るミステリファンが少なからず残っているのに対し、クリスティの本国イギリスはもちろん、クイーンの本国であるアメリカでもクイーンやカーの人気は彼らの没後に急落したのに対してクリスティの人気は今も衰えることがないらしいことも興味深い。

 「ある意味どうでもいい話」ですが、
1)日本ではクリスティをエラリー・クイーンやジョン・ディクスン・カーより下に見る*4ミステリファンが少なからず残っている
2)英米でクイーンやカーの人気は衰退したのに対してクリスティの人気は今も衰えることがないらしい
と評価する「まともな根拠」を提出しないのが実に「アホのkojitaken」らしい。
 なお、あくまでも「俺の感覚的なもの」であり客観的な根拠はないんですがクリスティやクイーンはともかく、また、英米はともかく、日本において果たしてカーて、kojitakenが言うほど人気や評価があったかどうか(追記:コメント欄でも同様の指摘を頂きました)。日本でのカー人気、評価が「まだ低い」と思ったこそ「カーファン」乱歩もカー問答(後で紹介します)でカーをプッシュしたのではないか。

 『複数の時計』はミステリ作家の霜月蒼がクリスティ全作品を読破した後に書いた「攻略本」で0.5点という超低得点をつけた作品だ。「権威が駄作とのお墨付きを与えた」作品に対しては、読書レビューのサイトの投稿者たちが安心して酷評できるらしく、『読書メーター』での評価もさんざんだ。
 『複数の時計』を酷評するレビュアーに限って、犯人は予想もしなかった人物だった*5などと平気で書いているのには本当に呆れるほかない。彼らは自らが馬鹿にしたミステリに完敗しているのである。

 このように「霜月氏と読書レビューのサイトの投稿者たち」を非難するなら「彼らが低評価した根拠」を引用した上で、それに対してダメだしするというのが「分かりやすく説得力ある批判」でしょうが、kojitakenがそうした批判をしないのは「はあ?」ですね。
 なお、

◆『アガサ・クリスティー完全攻略』(2014年、講談社→2018年、ハヤカワ文庫)
 2015年に第68回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)、第15回本格ミステリ大賞(評論・研究部門)受賞→この辺りがkojitakenが霜月氏を権威呼ばわりする理由でしょう。

という霜月氏は「ミステリ評論家」であって「ミステリ作家」ではないでしょう。
 なお、小生がググって見つけた「複数の時計」の批評を紹介しておきます。

『複数の時計』突っ込みどころ満載だけど楽しめる1冊~アガサ・クリスティ | リモスキ
 この『複数の時計』、面白くないわけじゃないんだけど、拡張していくストーリーを収拾しきれていない部分があるというか、アガサ・クリスティへの期待値からすると最後はちょっと残念というか、尻切れトンボ感があります。突っ込みどころが多々。
◆『複数の時計』の面白さと読みどころ
 この作品が面白い要素はいくつかあると思いますが、4つ挙げてみたいと思います。
 1つは被害者男性の身元が全然割れないところ。
 2つ目は、ミス・ペブマーシュはいったいどういう人物なのか、読者に想像の手がかりを与えておきながらそれ以上のラストを持ってくるところ。途中まで読み進めると、この人の素性について多くの読者が同じような想像をすると思うのですが、最後に明かされる正体は想像の斜め上をいくもの。
(少なくとも私はそうだった)
 読み返すと、序盤からミス・ペブマーシュがそういう人物であることがわかるような描写がちらほら挿入されていたことにも気づきました。
 3つ目は、やはり犯人が最後の最後までわからないこと。ポアロの謎解きの面白さと犯人の意外さに関しては期待して良い作品です。
 4つ目はもちろん(?)コリンとシェイラの関係でしょう。
 私はアガサ・クリスティの作品に出てくるロマンスは結構好きです。だいたいハッピーエンドだし、型としては典型的だと思うんですが、アガサ・クリスティはそれだからこそまた良いというか。なんか平和で。すぐ結婚とかプロポーズとかしてて早すぎでしょっていうのは毎回あるんですが。そんな感じです。
◆『複数の時計』突っ込みどころと感想(ネタバレあり)
 ここからは、突っ込みどころを含めた感想をネタバレありで書いていきます。
◆複数の時計の謎... そりゃないぜ
 誰もが感じる最初の感想はこれじゃないでしょうか。
 「結局時計は(ボーガス注:犯人が誰かや犯行動機という事件の本筋に)関係ないんかい!!」っていう衝撃。
 4つの複数の時計には意味はない。
 4時13分にもなんの意味もない。
 まじすか。事件現場に置かれた時計の奇妙な描写が素晴らしくて、初っ端からものすごく興味を惹かれただけに、「単純な事件を複雑に見せかけるために置いてみました」程度のものだったとは肩透かし感このうえない。
 こんな結末ありですか?。許されて良いんですか?。タイトルですよ、『複数の時計』って。
 途中まで膨らませて書いたけど最後疲れて考えるのやめちゃいました、ゴメンね、っていう雰囲気がこの小説の最後には漂っています*6
 だからといってこの作品は全然ダメとは私は思わないし、面白さもあるから良いんですが。
 謎だけ盛大に作っておいて期待させておきながら、「特に意味はないわよ」っていうアガサ・クリスティには「面白かったけどこんなのひどいっ!」と手紙を書きたい気持ちですね。
◆ミセス・カーティンのこの発言はどうなった?
 コリン・ラムとハードキャスル警部が、掃除婦であるミセス・カーティンに聞き込みにいったときのこと。2人が帰ったあと、ミセス・カーティンは次のようにつぶやいていました。

 ふと彼女の頭に浮かんだことがあった。「警察の人に話しといたほうがよかったかしら」
「話しとくって、何をだい、かあちゃん?」
「お前の知ったことじゃないよ。ほんとうになんでもないことなんだし」とミセス・カーティンは言った。
『複数の時計』(86ページ)

 これって、どうにかなりましたかね?。どうもなってないですよね?
 事件とはまったく関係ない話をわざわざここで挿入したのか。
 書いておいた伏線を回収するのを忘れていたのか。
 うーん、私が気づいていないだけかもしれないが、読み直してもわからなかった*7

 さてkojitaken記事に話を戻します。

 殺人という大犯罪を集団で隠蔽し、主人公がそれに加担することを決意して終わるという東野の信じ難い極悪ミステリ『レイクサイド』に感動したなどと平然と書くレビュアーが後を断たない。これには空いた口が塞がらないとしか言いようがないのであって、明らかな反社会的人物*8が党首を務める某国政政党*9が支持を拡大しているらしいことと通底する現象だろうと私は考えている。

 東野圭吾『レイクサイド』を読んでないのでその評価はしません。
 しかし、TBS日曜劇場『半沢直樹』(第1作が2013年、第2作が2020年)、『ルーズヴェルト・ゲーム』(2014年)、『下町ロケット』(第1作が2015年、第2作が2018年)(全て池井戸潤原作)のような「ベタな勧善懲悪ドラマ」が高視聴率を取ったことを考えれば通底する現象云々はあまり根拠のある主張とは思えませんね。
 ミステリドラマの多くも『浅見光彦シリーズ(内田康夫)』『十津川警部シリーズ(西村京太郎)』『テレビ朝日・相棒シリーズ』など名探偵が事件を解決し、犯人を懲らしめるケースが多数ですし。
 そもそも「泉健太・立民代表が維新にすり寄ったこと(そしてそれを立民党関係者が容認したこと)」で維新を利したことを、id:kojitakenが無視するのもいかがな物か。三春充希氏などが嘆くように当初から立民が維新批判を強めていれば「維新の支持」が今ほど拡大することはなかったのではないか。

【参考:ディクスン・カー
 カーと言えば、無知な小生でも知ってる乱歩「カー問答」があるのでそれ関係の記事を中心にいくつか記事を紹介しておきます。

江戸川乱歩「カー問答」(1950)(ミステリマガジンNo255,1977年7月号から全文採録) - odd_hatchの読書ノート(初出「別冊宝石」昭和二十五年八月号)(2022.11.26)から一部引用
作風
「すると、カーの小説はヴァン・ダイン*10やクイーンと根本的に違っているのですか」
「根本的というほどではないね。非現実の度が強いのだね、ヴァン・ダインでも、やはり手品小説に違いないんだから、文学上のリアリズムとは云えない。けれども外観は一応リアルな手法で書いているが、チェスタートン*11となると、全然架空のお伽磨なんだね。その意味で完成している。カーもそれに近いけれども、長篇であるだけにチェスタートンほど完成品にはなっていない。しかし架空を骨子としていることは確かだね。殺人事件で殺された人間を見ても、死の意味だとか人間のはかなさだとかいうことは余り考えないで、つまり登場人物が真から悲しまないで、これを単なる謎の問題として取扱う。そういう非人情は探偵小説一般にあるが、カーのはそれが一層強いのだね。厳粛な死というものを、登場人物達は冗談半分に扱っているような感じさえある。殺人を遊戲化し、鬼ごっこをしているという感じだね。カーの作には全くファース*12と云っていいものも幾つかあるが、それほどでなくても全体に諧謔の要素が多分に含まれている。チェスタートンもそうだが、登場人物の凡てが心の底にこの諧謔――遊びの気持を持っているので、リアルな恐怖というようなものは余り感じられない。
 近年の探偵小説は段々リアルな書き方になって来た。手品派の一方の将であるクイーンすらも、『災厄の町』あたりからリアリズムを気にして書いていることがよく分る。ところが、カーは一向リアリズムを気にしないんだね。あくまでアンリアルで行こうという気概が見える。この種のアンリアル小説は、文学上に於いて、リアル小説に対抗して充分存在価値があると考えているようだね。私もこれには賛成なんだが、このカーの自信のうしろにはチェスタートンという守り本尊が控えている。クイーンはチェスタートンの弟子じゃないから駄目だけれど、カーはチェスタートンの弟子だから、悠然としてたじろがないのだね」
「あなたの持論が出ましたね。ところで、大分分ったように思いますが、もう少し具体的にチェスタートンとの類似を指摘してもらえませんかね」
「一番はっきりしているのは不可能興味だね。カーはインポッシプル・クライムの作家という定評がある。その先祖はチェスタートンだし、もっと遡れば、創始者のポーがやはり不可能興味の作家だった。一つ一つオリジナリティーのあるものでなければ書かなかった。チェスタートンもポーほどではないがオリジナリティー第一の作家だし、カーもそれを志している。君も知っているように、カーは〈密室犯罪〉ばかり書いている。これじゃ一向オリジナルではないじゃないかと云われそうだね。最近大下(注:宇陀児)*13君も何かの随筆にそんな風なことを書いていた。〈密室〉はルルゥの『黄色の部屋』だけで沢山だ。最初ああいう手を考え出した作家は偉いが、その同じ密室トリックをいつまでも書いていたって意味がないじゃないかというのだ。大下君はずっと早く出たザングウィルの『ビッグ・ボウ事件』を読んでいないからそんなことを云うのだが、若し読んでいたら、『黄色の部屋』もつまらないということになるかも知れない。しかし先に『ビッグ・ボウ』があっても『黄色の部屋』はやはり面白い。それと同じに『黄色の部屋』があってもカーの諸作はやはり面白い。密室物ばかり続けざまに出されても、一つ一つ創意があるので、決して飽きないんだね。〈密室〉が一度出たら、あとの〈密室〉ものは皆つまらないとなれば、カーに今日の盛名はあり得なかった筈だからね。カーは現在英米の五指に屈せられる作家だ。評論家にも認められているし、読者も英米に亘って非常に多い。私だけが好きなわけでは決してないんだよ。しかし、断っておくが、探偵作家は生涯に一度か二度は必ずといってもよいほど密室ものを書くものだが、その程度でいいので、カーのように続けざまに密室ばかり書くことは一般には勧められない。そういう作家も一人位あっても差支えないが、誰も彼も密室を書かれたのでは、やりきれない。カーはあくまで特殊例外の作家なんだよ」
「カーにだって、無論駄作もあるけれども、決して同じトリックは使っていない。それからチェスタートンとの類似についてもう一つ云っておきたいことがある。いつも書いている通り、謎解き探偵小説の条件は、出発点の不可思議性、中道に於けるサスペンス、結末の意外性という三つで、これが一つでも欠けると、やはりそれだけ興味が減ると、私は信じている。ところが西洋の短篇全盛時代にはこの条件が割合実行されていたが、長篇時代になってから出発点の不可思議性というものが非常に薄くなってしまった。この作家は結末に行けば必ず満足させてくれるだろうからという信用で読んでいるようなものだ。前半はクドクドと証人調べの問答などつづくのが多くて、信用がなかったら読めやしない。つまり強いサスペンスがないのだね。サスペンスがないと云うのは冒頭に非常な不可思議が提示されていないからだ。カーはやはり、この出発点の不思議性とサスペンスの欠乏に不満を感じていたのだろうと思うね。ところが短篇を見ると、ドイルなんかも最初に不思議な問題を提出することでは随分骨折っている。チェスタートンとなると更らにドイル以上だ。飛切りの不思議を持ってくるんだね。だからサスペンスも充分ある。これが不可能興味というものだよ。そこで、カーはこのチェスタートンの手法にひきつけられた。長篇で一つこれをやってやろうと考えたに違いない。しかし長篇を持ちこたえるサスペンスの為の不可思議となると、短篇に比べて遙かにむずかしい。カーはそこでオカルティズムのあらゆる智識を持込んで来た。あとで話すが、それは実にあらゆる魔術的現象に亘っている。その上密室と来るんだから、不可思議性満点、これで十二分のサスペンスを出すことが出来る。少し過剰なくらいだね。」
「あなたの説では、カーはチェスタートンほど天衣無縫に行っていないというのでしたね」
「そうなんだよ。チェスタートンも随分オカルティズムを出したが、短篇だからカーほどあくどくする必要がなかった。それにチェスタートンには哲学乃至神学的逆説という真似られない武器があった。カーもちょいちょい逆説をやって見るけれども、チェスタートンほどの深さがない。又、長篇となると逆説だけで持ちこたえる訳には行かないのだね。そういう所からカーの作には破綻が出来てくる。いくら架空にしても、動機の点で何となく物足りない所がある。この目的を果す為には、これほど廻りくどい手段をとらなくてもよかったのではないかという、現実的な不満が介入する隙が出来てくる。チェスタートンは同じ変な動機でもそういう隙を与えない。逆説の手で押しきってしまう。カーの方は長篇だから、どうしても隙が出来やすいという不利な点があるにはあるが、やっぱり根底の実力が違っているのだろうね。しかし、一方では、カーはチェスタートンのやらなかったことをやろうとして、一応成功しているんだよ。チェスタートンの短篇はヴァン・ダインやノックスの提唱したフェア・プレイというものは殆んど顧慮していない。つまり、データを読者の前に揃えて、それによって読者の方でも謎解きを競う気持を起させるというような組立てにはなっていない。謎小説好きで、若しチェスタートンに不満を感じる人があるとすれば、それは恐らくこの点から来るのだね。ところが、カーはチェスタートンを踏襲しながら、出来るだけフェア・プレイをやろうとした。それも長篇だから、そうしないではいられなかったのでもあるが、なるべく多くデータをさらす普通の探偵小説の形を取ろうとした。だから、チェスタートンを物足りなく思う謎主義者でも、カーなら面白がれるという所があるんだね」

ポケミス狩り その22(最終回) - 突発企画2019.4.26
 江戸川乱歩氏が、日本の探偵小説界におけるジョン・ディクスン・カー受容に、多大な影響を与えた(神話化した?)といわれる「カア問答」を発表したのは、1950年8月発行の〈別冊宝石〉10号誌上で、乱歩さん推奨の3長篇「帽子募集狂事件*14」(高木彬光訳)、「黒死荘殺人事件*15」(岩田賛*16訳)、「赤後家(ギロチン)殺人事件*17」(島田一男訳)を収めた"世界探偵小説名作選第1集 ディクソン・カア傑作特集"の巻頭に置かれた、露払いでもあった。
 が、しかし、その後、『続・幻影城』(早川書房・1954年6月)に、「J・D・カー問答」と改題されて収録された際の「附記」には、
〈カーは思ったほど日本の読者には受けなかった。一つは私の前振れが大きかったので、読んで見れば「なあんだ」というわけであったかも知れぬが、一つは飜訳も悪かったのではないかと思う(飜訳の全部がそうだとは考えないが)。カーの作風の右の問答にも云っている通り、現実的には箸にも棒にもかからぬような突飛な筋を、ペダンチックな、気取った、ユーモラスな文章で、独特の味わいを出しているものなので、筋書き同然の拙訳では困るのである。カーの飜訳はチェスタートンほど面倒だとは云わないが、ややあれに近い神経を必要とするのだと思う。/だが、不評ながらも、いつの間にか、長篇の飜訳が九篇も出てしまった。左記のように、戦前の訳を加えると通計十二篇となる。(中略)この中では「皇帝の嗅煙草入」と「曲った蝶番*18」が、やや好評だったらしいが、この二つと同等又は以上の面白さを持っている「帽子」「黒死荘」「赤後家」の三篇が、ひどく不評だったのは、飜訳に慣れない人々の、しかも抄訳であったために、原作の妙味が殆んど出なかったからであろう〉
 と、当時、カーの評判を左右した翻訳の巧拙問題を指摘している。

カー問答 - 三日坊主日記2022.9.26
 江戸川乱歩の「カー問答」はカーのファンに大きな影響を与え、何人もが「カー問答」を書いています。
江戸川乱歩「J・D・カー問答」(「宝石」1950年8月号、『続・幻影城*19所収)
松田道弘*20「新カー問答」(『とりっくものがたり*21』1979年)
瀬戸川猛資松田道弘「新々カー問答」(ミステリマガジン1993年5月号)
芦辺拓*22二階堂黎人「史上最大のカー問答」(二階堂黎人『名探偵の肖像*23』1996年)

「新カー問答 ―ディクスン・カーのマニエリスム的世界」 松田 道弘|松井和翠2018.1.12
 松田道弘はカーの『夜歩く*24』から次のセリフを引用している。
《ねえモウロ君。殺人の技術ってのは手品と同じものだよ。手品の技術というものは、何も「目よりも早く手を動かす」なんていう馬鹿らしいものじゃないんだ。相手の注意をよそにそらすということだけなんだよ。片方の手に相手の注意を集めておいて、もう一方の手は外に出しながらも相手を見せず種をとり出す。ぼくはこの原理を犯罪に応用しているんだ》
 カーにとってミステリとは紙の上で演じる奇術に他ならなかった。そう考えると、色々なことが腑に落ちる。その文体も、ユーモア趣味も、サービス精神も、数々の趣向立て―例えば『ユダの窓*25』『読者よ欺かるるなかれ*26』の章題や『九つの答*27』の脚注など―も、すべて舞台を盛り上げるための演出であったわけだ。また、奇術師たちがカード、ボウル、リング…とそれぞれ得意な演目を持つように、カーもまた密室、人間消失、衆人環視、足跡…といった得意な演目を持っていて、そしてその技術を磨くことに終生心血を注いだのだろう(ただし、ストーリーテラーとしての天賦の才があったからこそ、という点を見落としてはなるまいが)。

人に勧めるには注意を要するカー作品 - Togetter
◆SAKATAM
 代表作っぽいところから5作。
 その1『三つの棺*28』。鮮やかな現象を支える密室トリックが、少々凝りすぎている上に無理な部分もあり、また解明がやたらに煩雑で、一読してもよくわからない恐れあり。他の作品を読んでカーの作風に慣れた上で、余裕のある時に再読覚悟で臨むのが吉。
 その2『ユダの窓』。トリックが超有名なため、読まずに敬遠されるきらいがなきにしもあらず。実はトリックを知っていても、法廷劇を通じて「いかに解明されるか」に重点を置いた倒叙ミステリとして、十分に楽しむことができる傑作。
 その3『皇帝のかぎ煙草入れ*29』。ゴテゴテしたところもなく読みやすく、トリックもシンプルな一発ネタで理解しやすい。つまりは「ちっともカーらしくない」傑作で、他の作品とのギャップが大きく、本書から入ると「次にどれを勧めるか」が難しくなる
 その4『帽子収集狂事件』。乱歩の高評価で有名ながら、カー好みの怪奇趣味もドタバタもなく、「カー=密室」とのイメージにもそぐわない、今ひとつ面白味をつかみにくい作品。じわじわと「味」が出てくる終盤まで持ちこたえられるかどうかが問題か。
 その5『連続殺人事件*30』。これもトリックが超有名、しかも「穴」らしきもの*31があることまで有名(涙)。しかしプロットは十分に面白く、酔っぱらいのドタバタやヒロインのツンデレなど見どころもあり、意外とカー初心者向け。
 続いて、言われなくともあまり人には勧めなさそうな「人に勧めるには注意を要するカー作品」を5作。
 その6『盲目の理髪師*32』。安楽椅子探偵の長編、なおかつ話の半分ですでに手がかりが示されるという、ユニークな作品。しかし本書の場合、何よりも「全編を通じて際限なく繰り広げられる、無茶苦茶なドタバタ劇を受け入れられるか?」、それがすべて。
 その7『死者はよみがえる*33』。「意外すぎる犯人」シリーズその1。ピントが狂ったような不条理な謎もさることながら、おそらくほとんどの読者が唖然とさせられる犯人、そしてそれを成立させるための限りなく反則技に近い仕掛け*34は、逆に一読の価値がある、かも。
 その8『五つの箱の死*35』。「意外すぎる犯人」シリーズその2。あまりに奇天烈な発端、殺人をよそに進んでいくプロット、そして極めつけに読者が途方に暮れること間違いなしの真犯人。よく考えると面白い趣向といえなくもないものの、強烈な脱力感が……。
 その9『魔女が笑う夜*36』。カーのトリックに突っ込みだすときりがないので、バカトリック*37の代表作を。ドタバタ続きの展開からすると意外にシリアスな解決場面を、すっかり台無しにしてしまうほど凄まじい真相のくだらなさ(←ほめてます)が何とも。
 その10『パンチとジュディ*38』。結婚式を翌日に控えた情報部員が、わけもわからないまま次々と巻き込まれる不可解な騒動から逃れようと奮闘する。このあらすじだけ見ても、(ボーガス注:不可能犯罪(密室殺人等)や怪奇趣味という)カーに対するイメージが覆されること確実の怪作。いや、最後にはちゃんと謎解きが……w
 最後に、カーファンの私からしても「本当にお勧めしないカー作品」を一つだけw
 その11『仮面荘の怪事件』。某短編*39を長編に仕立てたもので、短編ネタを強引に引き延ばしたために物語が中だるみしている上に、事件の結末がより後味の悪いものになっており、H.M*40の奇術以外にはあまり見るべきところなし。マニア以外は某短編の方を読めば十分。
◆琉花
 面白そう、読みたい!と思われせる謎の演出で、読者をつかむパワーはほんと偉大ですね。結末までそのクオリティが続くものと、種明かしで「あれー?」となるものはもちろんあるのですが。
◆1026
 似たような探偵なのに何故、微妙だが決定的に違うように感じたのか、これはやはりクリスティとカーの問題意識の違いだろう。クリスティは犯罪の起こる人間関係を豊かに書きたいのであって、事件そのものの謎は小説の彩りという序列が感じられる(それでも事件の謎も凄いが)。カーは事件そのものを楽しく読ませることが第一で、推理小説を無邪気で知的なエンターテイメントと割り切っていると思う。ここで強調したいのは「無邪気さ」である。怪奇趣味も不可能犯罪も全部無邪気さの産物なのである。カーマニアの中には私が間違っていると思うタイプがいて、それはカーの良さを怪奇趣味「だけで」説明してくれる人。あの怪奇趣味はまさに無邪気の塊であって、あれが本気でおどろおどろしいと思う感性はいかがなものか。それゆえにカーを褒めたり特徴をあげる時に、怪奇趣味云々は誤解を招く恐れがあるので言わないようにしてます。カーがなんかホラー系だと勘違いして読んでない人もわりかしいるはず。もっと破天荒で楽しいものだということを強調するべき。
◆ないとー
 カーの怪奇趣味はドタバタやロマンスなどと同等に読者へのおもてなしの心の表れですね。

このジョン・ディクスン・カーがひどい!10選 : 物語良品館資料室(2015.11.15)から一部引用
 私が、ミステリー作家の中で最も敬愛しているのはジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン)なのですが、彼の作品は代表作だけでなく、マイナー作品もその存在が気になってしまうという独特の引力があります。
 では、それらの作品が代表作に負けず劣らず面白いのかというと、これが恐ろしく微妙な出来なのです。他の作者の作品なら壁に投げつけたくなる作品も多々あります。しかし、カーだとなんとなく許してしまうだけでなく、「もしかすると、これって、一周回ってって傑作?」などという気の迷いすら起こしてしまうのです。
 それは、彼が稀代の魔術師だからにほかなりません。常に、大魔術で観客を驚かそうと腐心するので、それに魅了された人々は、仕掛けが発動せずに空振りに終わった時ですら、そこに何かあるのではないかと深読みしてしまいます。しかも、彼の魔術の成功率は決して高くはありません。準備不足のままに実演を強行し、空中浮遊をするつもりが、そのまま地面にまっさかさまということが少なくないのです。彼の輝かしい魔術師としての経歴の背後には、そんなおびただしい骸が転がっています。
 そこで、今回はそんな愛すべき骸を10体選んでみてみました。時間をドブに捨ててもいいという方はぜひ、手にとって読んでみてください(ちなみに、カーの後期作品はぶっちゃけ駄作だらけなので今回はまだカーが本格ミステリ作家として元気だった時期の作品に絞ってチョイスしています)。
①絞首台の謎(1931)
 夜霧の中を疾走する1台のリムジン。やがて停止した車の運転席に座っていたのは、喉を掻き切られて息絶えた黒人だった。しかも、車の中には彼以外誰もいなかったのだ。死人が車を運転していたとでもいうのだろうか?
 なんともゾクゾクする怪奇ムード満点の事件の発端ですが、このトリックというのが実にしょうもない。竜頭蛇尾を絵に描いたような作品です。
(中略)
⑩赤い鎧戸のかげで*41(1952)
 怪盗vs名探偵の趣向のはずが、目立つのは、ヘンリー・メルヴェル卿の奇行やボクシングシーンばかりで、肝心の対決はちっとも盛り上がりません。もちろん、トリックも脱力レベル。もはやミステリーはおまけ扱いといった有様です。
 繰り返して言っておきますが、私はこれらの作品が決して嫌いというわけではありません。むしろ、大好きだといっても過言ではないでしょう。それは、こうした試行錯誤の末に、『皇帝のかぎ煙草入れ』のような超絶技巧の作品を生み出し、『死者はよみがえる』のような技巧とバカミスの狭間で綱渡りを演じる怪作を誕生させているからです。
 カーの場合、傑作と駄作は紙一重であるといえます。それゆえ、地に落ちた失敗作もそこに成功の萌芽を見て、愛さずにはいられないのです。まあ、ファン以外の方が読めばただの駄作にすぎませんが・・・。
 それでは最後に、ジョン・ディクスン・カーカーター・ディクスン)のマイベストを記しておきます。ちなみに、もし、カーを読んだことがないというのであれば、完成度の高さと初心者でも理解しやすいという点から『ユダの窓』が断然おすすめです(読みやすいという点では『皇帝のかぎ煙草入れ』もおすすめですが、(ボーガス注:シリーズ探偵であるギデオン・フェル博士やヘンリー・メリヴェール卿は登場せず)いつもの作風と違いすぎてカーを知るうえでの参考にはならないかも)。

*1:1890~1976年。エルキュール・ポアロミス・マープルを主人公とする探偵小説で有名(アガサ・クリスティ - Wikipedia参照)

*2:フレデリック・ダネイ(本名ダニエル・ネイサン、1905~1982年)とマンフレッド・ベニントン・リー(本名マンフォード・エマニュエル・レポフスキー、1905~1971年)が共作の際に用いたペンネーム。なお共作の手法は、まずプロットとトリックをダネイが考案し、2人で議論を重ねたあとリーが執筆した。2人がこの創作方法をとったのは、プロットやトリックを思いつく能力は天才的ながら文章を書くのが苦手なダネイと、文章は上手いがプロットやトリック作りが苦手なリーの弱点を補完するためであった。また、バーナビー・ロス名義で、探偵ドルリー・レーンが活躍する4部作『Xの悲劇』、『Yの悲劇』、『Zの悲劇』、『レーン最後の事件』も発表している(但し現在ではバーナビー・ロス名義の著作もエラリー・クイーン名義で刊行されている)。1960年代以降の作品のいくつかは、監修は行っていたと考えられるものの、執筆は他の作家によることが知られている。代表的なものには、シオドア・スタージョン(1918~1985年)による『盤面の敵』、アヴラム・デイヴィッドスン(1923~1993年)による『第八の日』『三角形の第四辺』がある。これらはクイーン本来の共作スタイルとして、「ダネイがプロット担当、リーが執筆担当」だったものが、リーの衰えにより、ダネイのプロットの作品化を他作家に委ねたものである。また、1960年代以降にペーパーバック・オリジナルで刊行されたクイーン名義のミステリは、他作家の作品(スティーヴン・マーロウ(1928~2008年)による『二百万ドルの死者』、エドワード・D・ホック(1930~2008年)による『青の殺人』)をリーやダネイが監修したものである。(エラリー・クイーン - Wikipedia参照)

*3:1906~1977年。ギデオン・フェル博士とヘンリー・メリヴェール卿を主人公とする探偵小説で有名(ジョン・ディクスン・カー - Wikipedia参照)

*4:どういう人間を「下に見る」と評価するのか今ひとつ分かりませんが。例えば「カー問答」の乱歩は「下に見ている」のか?(俺の認識では乱歩はカーを高評価してるにせよ、上だの下だのという評価はしてないと思いますが)

*5:レビューや『複数の時計』を読まないと何とも言えませんがそれは「予想もしなかった人物だった=予想できるような情報が事前に何一つ伏線として提出されておらず、アンフェアで駄作」と言う意味じゃないんですかね。kojitakenは「そんなことはない(伏線はある、無能だから読み取れないのだ)」と理解してるようですが。

*6:この辺りが霜月氏等の低評価の理由ではないか。ただし、このブログ記事筆者はそこまで低評価ではないですが。

*7:この辺りも霜月氏等の低評価の理由ではないか。ただし、このブログ記事筆者はそこまで低評価ではないですが。

*8:【#文春砲】日本維新の会の馬場伸幸代表が、認知機能の衰えた社会福祉法人の理事長に成年後見人をつけることもなく財産を管理して遺言書も書かせ、馬場氏が理事長になって法人を乗っ取った【#維新に騙されるな】 - Everyone says I love you !と言う疑惑が発覚した馬場のこと

*9:維新のこと

*10:1888~1939年。ファイロ・ヴァンスを主人公とする探偵小説で有名(S・S・ヴァン・ダイン - Wikipedia参照)

*11:1874~1936年。ブラウン神父シリーズで知られる(G・K・チェスタトン - Wikipedia参照)

*12:喜劇のこと

*13:1896~1966年。1951年、『石の下の記録』で第4回「探偵作家クラブ賞(現在の日本推理作家協会賞)」を受賞。1952~1954年まで「探偵作家クラブ会長(現在の日本推理作家協会理事長)」を務める(大下宇陀児 - Wikipedia参照)

*14:1933年発表。ギデオン・フェル博士ものの長編第2作目

*15:1934年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第1作目。なお、『プレーグ・コートの殺人』の別邦題がある(プレーグ・コートの殺人 - Wikipedia参照)

*16:1909~1985年。横須賀市役所に勤務するアマチュア作家。鳥取県知事、福島県知事等を歴任した岩田衛(1879~1942年)は父。著書『岩田賛空想科学小説集』(2016年、書肆盛林堂)、『岩田賛探偵小説選』(2017年、論創ミステリ叢書)

*17:1935年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第3作目

*18:1938年発表。ギデオン・フェル博士ものの長編第9作

*19:1954年、早川書房→2004年、江戸川乱歩全集第27巻 (光文社文庫

*20:1936~2021年。著書『超能力のトリック』(1985年、講談社現代新書)、『トリックのある部屋:私のミステリ案内』(1985年、講談社文庫)、『奇術のたのしみ』(1985年、ちくま文庫)、『トリックものがたり』(1986年、ちくま文庫)、『おもしろゲーム実戦本』(1987年、講談社文庫)、『即席(クロースアップ)マジック入門』(1987年、ちくま文庫)、『ジョークのたのしみ』(1988年、ちくま文庫)、『トランプ・マジック』(1989年、ちくま文庫)、『面白いトランプ・ゲーム』(1990年、ちくま文庫)、『おどろきの発見:マジック世界の魅力』(1999年、岩波ジュニア新書)、『将棋とチェスの話』(2000年、岩波ジュニア新書)等

*21:1979年、筑摩書房→『トリックものがたり』と改題して1986年、ちくま文庫

*22:1958年生まれ。1990年、『殺人喜劇の13人』で第1回鮎川哲也賞を受賞しデビュー。2022年、『大鞠家殺人事件』で第75回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)、第22回本格ミステリ大賞(小説部門)を受賞(芦辺拓 - Wikipedia参照)

*23:1996年、講談社→2002年、講談社文庫

*24:1930年発表

*25:1938年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第7作目

*26:1939年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第9作目

*27:1952年発表

*28:1935年発表

*29:1942年発表

*30:ギデオン・フェル博士ものの長編第13作目。なお『連続自殺事件』という別の邦題がある。(連続自殺事件 - Wikipedia参照)

*31:22/03/04 【感想】連続自殺事件|ヤスミツによれば「二酸化炭素一酸化炭素(少量でも吸い込むと死亡の危険性が高い)と誤解している上に、二酸化炭素は無臭なのに匂いがあるので被害者が助かった」という記述があるとのこと

*32:1934年発表。ギデオン・フェル博士ものの長編第4作目

*33:1938年発表。ギデオン・フェル博士ものの長編第8作目

*34:ネタバレですが、J・D・カー『死者はよみがえる』 - ScriptorRegisのブログ20/11/25 【感想】死者はよみがえる|ヤスミツによれば「意外な犯人=警察留置場に留置された被疑者」「反則技に近い仕掛け=留置場に秘密の隠し通路(抜け穴)があるので外に出られる」とのこと(小生は未読です)。現実性皆無であることはひとまず置くにしても、よほど上手く書かないと「アンフェア」の批判は回避できないでしょうし、どうも回避できなかったようです(多くの人間が「アンフェア」と批判的なようです)。つまり「良く言われることだと思いますが」カーと言う人間は「ミステリとしての意外性を狙いすぎる」あまりに「非現実的でありえない」「アンフェア」の批判を招いてしまう事が多い作家(そして、その結果、サヨナラ満塁ホームランのような大傑作もあれば、『ノーアウト満塁で併殺打』のような凡作もあり出来不出来の差が大きい)であり、その点も世間的知名度がクリスティやクイーンに劣る点ではないか。ただ一方でそれを愛するカーファンもいるのでしょうが。

*35:1938年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第8作目

*36:1950年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第20作目。なお『わらう後家』という別の邦題もある。

*37:カーター・ディクスン『わらう後家(魔女が笑う夜)』 - ScriptorRegisのブログこのジョン・ディクスン・カーがひどい!10選 : 物語良品館資料室によれば、 瀬戸川猛資『夜明けの睡魔:海外ミステリの新しい波』(1987年、早川書房)によってバカトリックが有名になったとのこと

*38:1936年発表。ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第5作目。「パンチとジュディ」は、イギリスで人気のある人形劇でマザー・グースにも歌われており、本作では事件全体のドタバタぶりがこの人形劇に例えられている(パンチとジュディ (推理小説) - Wikipedia参照)

*39:ググったところ『軽率だった夜盗』のこと

*40:ヘンリー・メリヴェール卿のこと

*41:ヘンリー・メリヴェール卿ものの長編第21作目