新刊紹介:「歴史評論」2023年12月号(副題:貨物鉄道150年)

特集『日本の近代化と貨物鉄道:一五〇年*1を迎えて』
(前振り)
 「貨物鉄道150年」については以下を紹介しておきます。

貨物鉄道輸送150年記念特設サイト | JR貨物 日本貨物鉄道株式会社
 貨物鉄道輸送は、(ボーガス注:旅客)鉄道が開業した翌年の1873年明治6年)9月15日に、旅客と同じ新橋~横浜駅間で貨物列車の運行が開始され、今年で150年の節目の年を迎えました。

<東京新聞 鉄道クラブ スペシャル>いいね!貨物 きょう開業150年 「鉄さんぽ」で推しトーク:東京新聞 TOKYO Web2023.9.15
 9月15日は日本の貨物鉄道開業150年の記念日。(ボーガス注:旅客)鉄道が開業した翌年の1873(明治6)年、旅客と同じ新橋-横浜間で運行が始まった。

貨物鉄道150年 歩みを紹介 九州鉄道記念館で写真展 |NHK 福岡のニュース2023.11.13
 北九州市門司区にある「九州鉄道記念館」で、貨物鉄道の歩みを紹介する写真展が開かれています。
 日本の貨物列車は、新橋・横浜間で鉄道が開業した翌年の1873年に運行が始まり、ことしで150年となりました。
 この写真展は12月6日まで開かれています。


◆鉄道貨物輸送の成立と展開(渡邉恵一*2
(内容紹介)
 日清・日露戦争頃までの「初期の鉄道貨物輸送」について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


戦間期横浜臨海貨物鉄道の駅仲仕集団(松本和樹*3
(内容紹介)
 1920~1930年代の横浜の臨海貨物鉄道の駅仲仕集団*4について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆局地鉄*5経営と軍需輸送:福岡県の事例から(渡部邦昭*6
(内容紹介)

 渡部ほか『戦前期地域交通と政党・軍部の経済的関係の研究
 本研究では、戦前期において軍事に関係する輸送を行っていた博多湾鉄道汽船および朝倉軌道という二つの地域交通事業者を取り上げ、軍事輸送がその経営にどのような意味を持っていたのかという点を明らかにした。具体的には、次の二点が判明している。
 一点目は、(ボーガス注:博多湾鉄道汽船および朝倉軌道が結局消滅したことで分かるように)地域交通事業者が軍事輸送から得られる利益は、必ずしも常に大きいものではなかったという点である。二点目は、軍部や行政は軍事輸送の必要上、事業者にとっては採算性の低い輸送事業の実施を期待したが、その期待は事業者側も認識していたという点である。
 この二点から、軍事輸送に対する事業者と軍部の利害が、必ずしも一致しているとはいえないことを明らかにした。

を元にした論文であり、福岡県の局地鉄道「博多湾鉄道汽船(湾鉄)」「朝倉軌道」の軍需輸送について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。

参考

博多湾鉄道汽船 - Wikipedia
 糟屋郡志賀村*7西戸崎地区(現・福岡市東区西戸崎)に石炭の積出港を建設し、西戸崎と福岡県北部の糟屋炭田*8及び筑豊炭田*9を結ぶ目的で計画された。1900年2月に創立総会を開き、1903年に現在のJR九州香椎線*10にあたる西戸崎~宇美間の区間免許を取得。 
 1904年に西戸崎~須恵間を開通させ、翌1905年には宇美まで延長した。
 海軍炭鉱第五坑が志免(糟屋郡志免町)に開坑すると海軍の求めに応じ、酒殿と海軍炭鉱第五坑(いわゆる志免炭鉱)地区を結ぶ貨物支線(旅石支線)の建設を進め、志免駅(貨物駅)を開業した。旅石(糟屋郡須恵町)に海軍炭鉱第六坑が開坑すると、1915年までに志免駅から、旅石駅まで旅石支線を延長した。
 1920年、海運会社が別であったために石炭の運搬に支障が出ていたことから、海運を行うことを海軍から求められたため、海運業に参入し、社名を博多湾鉄道から博多湾鉄道汽船に変更した。その後1924年から翌1925年にかけて貝塚線(現・西鉄貝塚線)を建設し、福岡市内に市内路面電車(後の西鉄福岡市内線(1979年に廃線))と接続するターミナル駅(新博多駅)を設けて糟屋郡北部と福岡市内を鉄道で結び、1929年には貝塚線を電化している。
 1942年に九州鉄道*11、福博電車*12筑前参宮鉄道*13とともに九州電気軌道に吸収合併され、西日本鉄道西鉄)となり解散した。

朝倉軌道 - Wikipedia
 1908年から1940年まで、福岡県朝倉郡を中心とした地域において軽便鉄道、乗合バス、貨物自動車による陸運業を行っていた日本の交通企業。
 1935年(昭和10年)12月、太刀洗陸軍飛行場*14への輸送力増強などを目的に、基山~大刀洗〜甘木を結ぶ国鉄甘木線(現・甘木鉄道甘木線*15)の建設が正式に決定され、1937年(昭和12年)5月には工事が開始された。甘木線が開業すると朝倉軌道の経営に大打撃が与えられることは必至であったため、甘木線開業の4日前となる1939年(昭和14年)4月24日、朝倉軌道は甘木線開通に伴う運輸営業廃止と補償を申請。同年7月8日には休止を申請し、8月21日には全線が運行休止された。沿線住民からは、これに対して特に陳情はなかったという。そして、1940年(昭和15年)4月19日全線が廃止され、翌日に会社解散が認可された。こうして、朝倉軌道はその歴史を終えた。
 1930年頃からの朝倉軌道は、客車収入がかつてに比べて半分程度まで落ちたにもかかわらず、赤字路線の切り捨てや車両の低コスト化など徹底した合理化で支出をそれ以上に削減することで利益を出し、最後まで無借金経営を行っていた。これについて鉄道研究家の湯口徹*16は論文『朝倉軌道気動車探求記:ある軌道の1930年代(後編)」(『鉄道ピクトリアル』1997年10月号(通巻643号))において「底知れぬしたたかさを痛感する」と評している。

廃線鉄道 第1回 朝倉軌道 - 風来梨のブログ
 1928年には新町で朝倉軌道と接続していた中央軌道が、経営悪化から無許可で運行を休止した事から、朝倉軌道は無許可でこれを譲り受け、同年9月に朝倉軌道田代線として新町〜上田代の運行を再開した。
 この時が朝倉軌道の最盛期で、営業キロは44.9km(朝倉軌道32.2km・田代線12.7km)を記録している。
 しかし、昭和恐慌によって経営的な打撃を受けた上、乗客がバスに移るようになっていった事もあって、軌道線の運営状況は徐々に厳しいものになっていった。この対抗策として運賃の値下げを施したが反って収支の悪化を招いた為、客車を無許可で単端式ガソリンカーに改造し、スピードアップと運行コストの圧縮を図っている。
 この自社製ガソリンカーは1932年頃に初めて導入され、1934年には旅客列車の全てで使用されるようになったようである。ガソリンカーの導入で、二日市~甘木間が70分から55分に、二日市〜杷木間が145分から120分に所要時間が短縮されている。
 これ以降は経営縮小の流れとなり、1933年に水害を理由に保有路線の中で最も業績の悪かった田代線の休止許可を得た。その後、無許可で線路を撤去している。さらに翌1934年には、飛行隊~上小郡間が無許可で運行休止するなど、次々と路線縮小となっていった。
 1935年に、太刀洗飛行場への輸送力増強などを目的に基山~大刀洗〜甘木を結ぶ国鉄甘木線(現・甘木鉄道甘木線)の建設が正式に決定される。
 甘木線が開業すると朝倉軌道の経営に大打撃となる事が必至であった為、この頃から朝倉軌道は補償請求のための財産増加を図るようになり、貨客ともに輸送量が減っているにもかかわらず両筑産業から客車4両・貨車8両を購入したりする*17などしている。
 朝倉軌道の『強者伝説』とも評される無許可にまつわるエピソード
・無許可で営業休止は当たり前、無許可で線路撤去も当たり前*18
・幅1,830mmの車両を自信満々に、幅1,676mmが車幅限界の路線に投入
・設計図と現物の車両は別物が当たり前
・設計図を使わずに、有り合わせの客車を適当に改造してた実績アリ
・競合路線対抗の運賃値下げも、もちろん無認可
・路線休止も、もちろん無許可

西濃鉄道、あまりのガバガバぶりに「令和版朝倉軌道」が爆誕したと話題に - 鉄道プレス
◆朝倉軌道とは
 戦前の福岡に存在した、伝説の鉄道会社。
 無許可で営業休止・線路撤去は当たり前、車両改造も無届け、書類上存在しないはずの列車が存在してたり、路線の車両限界を越えた車両を投入したり。
 その開き直りっぷりで運輸担当局から「頼むからちゃんとした設計書を出してくれ」と頭を抱えられた。尚、経営は最後までしっかり黒字経営だった。
 朝倉軌道といえば湯口さんの『内燃動車発達史〈上巻〉戦前私鉄編』(2005年、ネコ・パブリッシング)。今回のエピソードも、出典は全てこの書籍からです。

今こそ知っておきたい、伝説の鉄道会社「朝倉軌道」 - 鉄道プレス
 日本の鉄道史において、ここまでフリーダムだった鉄道企業はそうありません。
 朝倉軌道は、福岡県の二日市から甘木間を結んでいた鉄道会社です。1908年に開業し、1940年の廃止まで32年間運営されていました。
 蒸気機関車が使用されたのち、その客車を1両の小さなガソリンカーに改造したり、貨物列車を用意したりして、トコトコと15km程度の距離を行ったり来たりする、地元民御用達の鉄道でした。
 ここまでは戦前にありがちな軽便鉄道の話ですよね。
 朝倉軌道の伝説は、国や県などの認可・指示・法令を完全に無視したフリーダムっぷりにあります。
 一例を見てみましょう。
・書類にない車両が平然とそこにいる
・車両限界(最大寸法)は幅1,676mm。なのに幅1,830mmの車両が何故かいる
・届出書と図面とで書いていることが全然違う
・(ボーガス注:届出書が)規定のフォーマットで書かれてない
・設計そのものに問題がある
・(ボーガス注:届出書に)「欅を使ってるから超綺麗」みたいなどうでもいい自慢話が書いてある
・などの理由で認可を出せない
・が、朝倉軌道にとっては認可が出る、出ないなんてどうでも良い(認可が降りようが降りまいが勝手に改造する)
・返事を寄越さない
・来たと思ったら必要事項が殆ど抜けている
・あまりの適当っぷりに国や県も指導を諦めて認可を妥結
・所属車両の車番を届け出る必要があった時、書くのが楽な数字を適当に書いて提出した
・構内配線を無許可で勝手に変更
・当局にそれをツッコまれるも、21ヶ月間無視し続ける
・「ライバルの対抗策に」と行った「運賃を半額にする値下げ」も勿論無認可
・これだけ適当、無認可のオンパレードなものの大きな事故は起こしていない
・最終的に黒字で経営を終える
 1940年に国鉄が、並行する甘木線を建設する際に路線が重複するということで廃止されるのですが、その際にもちゃっかりと補償金を獲得するなど、最後まで抜け目のない鉄道会社でした。
【朝倉軌道伝説を広めた2人の功労者】
◆湯口徹さん
 朝倉軌道における数々の伝説エピソードを調べた第一人者が、湯口徹さんです。
 湯口さんは1997年に鉄道ピクトリアル誌上で『朝倉軌道気動車探求記:ある軌道の1930年代』を発表。
 戦前の遠い記憶となっていた朝倉軌道の伝説のエピソードを、世間に知らしめました。
◆あかつき3号さん
 それを、ネット上でわかりやすく広めたのがあかつき3号さんです。
 筑紫野市歴史博物館まで取材され、2010年にニコニコ動画内で発表された『迷列車【九州編】#45 伝説の朝倉軌道』は上・中・下の3動画がいずれも7万回再生を獲得。
 書籍だけでなく、ネット上にもその伝説ぶりが拡散されていくことになり、現在に至っています。

結果を残せば、すべては正当化される | 君が好き
 「朝倉軌道」をご存知だろうか。
 一部の鉄道ファンから「伝説」と呼ばれている軌道である。
 かつて、二日市から甘木、杷木までを走っていた路面電車
 1940年に国鉄甘木線(現・甘木鉄道)の開業により、廃線になっている。
 朝倉軌道のウィキペディアの記事を読むと失笑するのが、「無許可」という単語が10回も使われていることである。
 この「無許可のまま」営業が朝倉軌道の伝説たるゆえんである。
 車体幅、休止線の線路撤去、転車台の設置、勝手な運賃値下げなど、もともと公共交通機関であるから、監督官庁の許可があって営業ができるものであるのに、朝倉軌道は、申請はするものの認可が下りなければそれを無視して営業し、しまいにはこれまでの申請書類は「誤記であった」と表記して、実態と違う書類を提出し、最終的には認可を勝ち取ってしまうようなとんでもない会社だったのである。
 ただ、とんでもない会社というのは、後世の人間が行政側の視点や、今日のルールを持って判断している一方的な印象である。
 朝倉軌道という会社は、無認可の車輌を走らせてはいたが、開業翌年から廃業までの36年間、一貫して黒字経営で、株主に配当も行っている。
 また、社長の多田勇雄氏は、1919年には福岡県議会議員、1928年からは衆議院議員まで務めるまでになった。
 これだけでも社長が地元で名望家として扱われ、会社が地元住民に必要とされていたことがわかると思う。
 後世のわたしたちが、この朝倉軌道から学ぶことはなんだろう。
 ぼくはひとえに「結果を残せば、すべては正当化される」ということに尽きると思う。
 朝倉軌道が仮に赤字だったら、もしくは、多田氏が衆議院議員を務めるほどの人物ではなかったら、結果的に朝倉軌道は、営業停止の行政処分により、不本意での解散を強いられていたと思う(実際の解散は国鉄の補償金をもらっての円満解散)。
 もちろん、関東大震災鉄道省の関連書類が失われたという幸運もあったのだが。

溝犬堂の描き鉄ブログ 朝倉軌道 No.3
 朝倉軌道は福岡県の甘木周辺を走っていた鉄道です。
 軌道法で建設されたにもかかわらず当時は汽車は1両しか牽引できなかったのに何両も牽引していたり、勝手に道路上に転車台をつくったり(ボーガス注:役所への申請)書類にない車両がいくつも走っていたりするフリーダムな鉄道でした。
 このNo.3の車両も元々は客車でそれを1933年ごろにガソリンカーに改造したものですが役所に提出された書類がめちゃくちゃで
・認可された車体幅を超えた幅で申請されていたり
・改造された車両がすべて図面と違っていたり
・申請書にはなぜか「内装に欅材を使って超豪華にしたぜ!」というわけのわからない自慢が書いてある
というめちゃくちゃなものでした。
 この申請書を書いていた人物はあまりに話が通じないため役所があきらめて最終的に認可しています。

 無茶苦茶な鉄道会社(朝倉軌道)もあったモンです。それとも当時は「朝倉軌道」のような鉄道会社が「割と普通だった」のか?


◆植民地経営と貨物輸送:専売制下における朝鮮煙草流通の予備的検討(竹内祐介*19
(内容紹介)
 「日本植民地時代の朝鮮」における「朝鮮タバコの貨物輸送」について論じられていますが小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆高度経済成長と鉄道貨物輸送(三木理史*20
(内容紹介)
 高度経済成長は鉄道の貨物輸送が支えたが、
1)当初整備が不十分だった道路の整備が進み、貨物鉄道がトラック輸送に置き換わるようになったこと
2)貨物輸送のかなりの部分を占めていた石炭輸送が「国内炭鉱の閉山」で激減したこと(一方、石炭に代わってエネルギーの主役となった石油は海外から輸入したものを港湾に作った石油タンクに貯蔵するので石炭と違い国内で大規模に鉄道輸送する必要がない)などから
貨物輸送が徐々に減少、国鉄の経営危機の一因とまでなる(国鉄分割民営化の目的の一つは不採算事業と化していた貨物事業を旅客事業から切り離すことであった)。
 そして歴史のひろば「貨物鉄道150年に寄せて」(石井幸孝)も論じていますが、現在、JR貨物の経営は「北海道、四国」とともに危機的な状況にあることは言うまでもないでしょう。
 この点、日本の貨物鉄道は中国が近年、「中国~欧州間」で運行を開始した貨物鉄道「トランス=ユーラシア・ロジスティクス中欧班列:『一帯一路構想』の一部で、勿論、採算が取れるとみたから中国も運行したはず)」等とは事情が大きく異なっている。
 しかし「中国と日本での貨物鉄道の地位、扱いの違い」はやはり「島国と大陸」の違いでしょうか?

参考

トランス=ユーラシア・ロジスティクス - Wikipedia
 料金は船便の倍となるが、輸送日数は海上で60日掛かる所、列車は20日と1/3程であり、それまでの選択肢であった「安いが遅い船便と速いが高い航空便」の中間の選択肢として機能している。


歴史のひろば「貨物鉄道150年に寄せて」(石井幸孝*21
(内容紹介)
 筆者は「JR九州初代社長」なので当然、基本的には「民営化美化、正当化の立場」ですが、その彼ですら、本論文において久留里線JR東日本)、芸備線JR西日本)など、廃線の恐れがある不採算路線があるとは言え、新幹線等のドル箱路線があり経営好調な東日本、東海、西日本や「鉄道事業よりも不動産事業(駅ビルなど)のウェイトを増やすこと*22で経営危機から脱した九州(鉄道事業だけでは不採算でありこの点は、新聞事業、放送事業の不振を補うために不動産経営に力を入れているマスコミ各社*23に似ているかもしれない)」に対し「経営危機にある北海道、四国、貨物」の状況を危惧し「民営化はともかく分割したことは間違いではなかったか」「経営危機にある貨物、北海道、四国を経営が好調な東日本、東海、西日本、九州が支える構造を作るべき(そうでないと3社が倒産する事態が起きかねない)」「(とにもかくにも株式上場にこぎ着けた東日本、東海、西日本、九州の4社と違い)経営危機のために上場ができてない北海道、四国、貨物は今のままでは上場はいつまで経っても無理ではないか(四社が経営を支えるしかないのではないか)」としていることは興味深い(小生もそうした考えに同感ですが)。
 また「地球温暖化*24や『運送業界の2024年問題*25』が問題にされる現在、むしろトラック輸送を減らし貨物輸送を増やすべき」と筆者が主張する点については小生も同感です。

*1:1872年の鉄道開設(新橋駅(今の汐留駅)~横浜駅(今の桜木町駅)間)から150年と言うこと

*2:駒澤大学教授。著書『浅野セメントの物流史』(2005年、立教大学出版会)

*3:横浜都市発展記念館調査研究員

*4:仲仕は荷役労働者のこと。駅の場合を駅仲仕という(その他、港湾の場合は沖仲仕という。『神戸の山口組』など沖仲仕利権から誕生した暴力団も少なくない)

*5:JR(旧国鉄)や大手私鉄東武、西武、京成、京王、東急、京急小田急近鉄、南海、京阪、阪神、阪急、西鉄など)程、大規模でない地方鉄道のこと

*6:九州歴史資料館文化財企画推進室主任技師・研究員

*7:1953年に町制施行(志賀町)。1971年に福岡市に編入志賀町 (福岡県) - Wikipedia参照)

*8:1964年に全ての炭鉱が閉山。炭鉱閉山に伴う急激な貨物輸送減等により、この地域で運行されていた国鉄勝田線は1985年(昭和60年)に廃線となっている(糟屋炭田 - Wikipedia参照)

*9:1976年に全ての炭鉱が閉山。その影響で国鉄路線の多くが廃線となった。伊田線糸田線田川線は存続したものの平成筑豊鉄道(福岡県や田川市などが出資する第3セクター、1989年創業)に転換された(筑豊炭田 - Wikipedia参照)

*10:香椎線と言えば小生的には、松本清張『点と線』の舞台ですね(犯行現場の香椎海岸は香椎線香椎駅が最寄り駅)

*11:現在の西鉄天神大牟田線太宰府線甘木線、福島線、大川線、久留米線、大牟田市内線にあたる電車を運行(九州鉄道 (2代) - Wikipedia参照)

*12:後の西鉄福岡市内線(1979年に廃線)に当たる電車を運行

*13:1942年の西鉄成立により筑前参宮鉄道の路線は西鉄宇美線となったが、1944年5月に国に戦時買収され、国鉄勝田線となった。勝田線は1985年4月に廃止されている(筑前参宮鉄道 - Wikipedia参照)

*14:戦後、廃港となり、跡地は農地やキリンビール福岡工場用地に転用された(大刀洗陸軍飛行場 - Wikipedia参照)

*15:国鉄甘木線が廃止対象路線となったことを受けて、1985年に発足した鉄道事業者。当時、福岡市と甘木市(当時、2006年に朝倉町、杷木町と対等合併し、現在は「朝倉市」)を結ぶ公共交通は西鉄甘木線など他にもあり、また沿線に甘木線と並行するバス路線が既設されていたこともあって、福岡県は鉄道存続に難色を示した。しかし甘木市など沿線自治体と沿線住民は鉄道路線としての存続を切望し、結果的に第三セクター方式で鉄道が存続した。こうした経緯のため、福岡県は出資を行わず、経営安定基金への拠出に留まった(甘木鉄道 - Wikipedia参照)。「甘木鉄道」のように、国鉄(JR)がどんどん「廃線or第三セクター化」してることには複雑な思いを禁じ得ません。

*16:1936~2022年(湯口氏の死去については追悼 湯口徹先輩が亡くなりました | DRFC-OB デジタル青信号参照)。同志社大学鉄道同好会OB会メンバー。著書『内燃動車発達史〈上巻〉戦前私鉄編、〈下巻〉戦前メーカー編』(2005年、ネコ・パブリッシング)、『戦後生まれの私鉄機械式気動車(上) (下)』(2006年、ネコ・パブリッシング)、『日本の蒸気動車(上) (下)』(2008年、ネコ・パブリッシング)、『石油発動機関車:福岡駒吉とわが国初の内燃機関車』(2009年、ネコ・パブリッシング)、『日本の内燃動車』(2013年、成山堂書店)、『花巻電鉄(上)(中)(下)』(2014年、ネコ・パブリッシング)、『鞆鉄道』(2015年、ネコ・パブリッシング)等

*17:甘木線開業時の朝倉軌道廃業→補償金請求」を前提に「必要もない客車、貨車を購入して財産水増しを図る(補償金水増しを図る)」とは、勿論「査定があり、言い値で補償しない」とはいえ、事実なら明らかに犯罪行為(詐欺)ではないのか?

*18:ただし、湯口徹論文『朝倉軌道気動車探求記:ある軌道の1930年代(前編)」(『鉄道ピクトリアル』1997年9月号(通巻642号))によれば、路上に敷設された軌道は、運行の有無にかかわらず、法令上、軌条間及びその左右0.61mの管理と占有料支払の義務が生じることから、当時は朝倉軌道に限らず無許可での線路撤去は珍しいことではなかった(朝倉軌道 - Wikipedia参照)

*19:東京都立大学准教授。著書『帝国日本と鉄道輸送』(2020年、吉川弘文館

*20:奈良大学教授。著書『近代日本の地域交通体系』(1999年、大明堂)、『地域交通体系と局地鉄道』(2000年、日本経済評論社)、『水の都と都市交通:大阪の20世紀』(2003年、成山堂書店)、『国境の植民地・樺太』(2006年、塙書房)、『局地鉄道』(2009年、塙書房)、『都市交通の成立』(2010年、日本経済評論社)、『移住型植民地樺太の形成』(2012年、塙書房)、『近鉄沿線の近現代史』(2022年、クロスカルチャー出版)、『満鉄輸送史の研究』(2023年、塙書房)等

*21:1932年生まれ(91歳)。東京大学工学部機械工学科卒業。1955年日本国有鉄道国鉄)に入社。ディーゼル車両の担当技師として車両設計・開発を担当。機械畑出身だがその後、管理職に転じ1968年、本社工作局車両課課長補佐、1972年、北海道総局車両管理室長、1976年、大船工場長、1981年、広島鉄道管理局長、1982年、本社工作局長、1985年、本社車両局長、1986年、九州総局長を歴任。1987年、民営化で発足した九州旅客鉄道株式会社(JR九州)初代社長に就任。社長在任中は九州新幹線の整備、博多~釜山間国際航路「ビートル」の開設や、熊本駅鹿児島中央駅由布院駅の整備や駅舎改装、博多駅コンコースの大改装、観光列車「あそBOY」の運行など、鉄道を通じて九州各地のまちづくりやインフラ整備、九州観光に大きな業績を残した。1997年会長に就任、2002年退任したが、この間九州ニュービジネス協議会会長、九州21世紀委員会会長、九州・山口経済連合会副会長、在福岡ニュージーランド名誉領事、福岡県日韓親善協会会長、福岡県サッカー協会会長など多くの要職に携わった。著書『入門鉄道車両』(1971年、交友社→1980年、改訂版)、『蒸気機関車』(1976年、中公新書)、『キハ58物語』(2003年、JTBキャンブックス)、『DD51物語』(2004年、JTBキャンブックス)、『キハ82物語』(2005年、JTBキャンブックス)、『九州特急物語』(2007年、JTBキャンブックス)、『キハ47物語』(2009年、キャンブックス)、『戦中・戦後の鉄道』(2011年、キャンブックス)、『人口減少と鉄道』(2018年、朝日新書)、『国鉄:「日本最大の企業」の栄光と崩壊』(2022年、中公新書)(石井幸孝 - Wikipedia参照)

*22:これについては例えば JR九州、不動産業を多角化 副社長「もうかるなら何でもやる」 - 産経ニュース(2015.9.1)、JR九州上場、快走演出した「不動産事業」 - 日本経済新聞(2016.10.25)、JR九州「強い経営体質作る」、不動産事業に2250億円:地域ニュース : 読売新聞(2022.3.24)

*23:これについては例えば決算資料が教える「まるで不動産屋のTBS」「老人ホーム運営フジ」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)(2018.3.9)

*24:トラックに比べ鉄道の方がCO2排出が少ないとされる。

*25:働き方改革法によりトラックドライバーの労働時間に上限が課されることで生じる問題のこと。「2024年問題と貨物鉄道の関係」については例えば鉄道貨物、栄枯盛衰の150年 「2024年問題」で脚光 - 産経ニュース(2023.9.14)、150年迎えた鉄道貨物復権?「2024年問題」見据えた動きも | NHK(2023.10.18)参照