新刊紹介:「歴史評論」2024年5月号

特集『「ポスト・トゥルース*1」時代のドイツ現代史研究』
ヴァイマル共和国研究の現在:「一九二三」「一九三三」のアクチュアリティ(小野寺拓也*2
(内容紹介)
 Q&A形式で書いてみます。

 「「一九二三」「一九三三」のアクチュアリティ」とはどういう意味ですか?

 1923年*3には「ヒトラーミュンヘン一揆」があり、1933年*4には「国会議事堂放火事件を口実にしたナチス共産党弾圧」「全権委任法可決によるナチ独裁の開始」がありました。
 1923年にクーデター未遂を起こして挫折し、息の根を止められたと思ったナチが10年後の1933年に政権与党となるまでに復権し、1945年には「ユダヤ人虐殺」など多くの負の遺産を残したあげくドイツを敗戦に導いた。
 「1923年から1933年までの10年で事態が何故そこまで右傾化したのか?」「ワイマール共和国には重大な欠陥があったのではないか?」、戦後ドイツ史はそうした痛切な思いから開始されたと言っていいでしょう。何せ戦前ドイツは「国会があったとは言え、天皇主権国家だった日本」とは違い、民主共和国です。
 この点は「何故、大正デモクラシー後に昭和ファシズム体制が成立したのか(大正デモクラシーには重大な欠陥があったのではないか?)」「何故安倍が復権し、戦後最長の長期政権となったのか?(戦後民主主義には重大な欠陥があったのではないか?)」という思いを抱く我々日本人も共感しやすいところではないか。
 なお、ワイマル共和国の問題点としてよく指摘されるのが大統領権限の強大さです(ヒトラーが首相となったのもヒンデンブルク大統領が彼を支持したから)。またワイマール共和国誕生当初、社民党党首で首相のエーベルトがドイツ義勇軍によるカール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルク*5(ドイツ共産党)虐殺を容認し、ヒトラー(政敵を暗殺した「長いナイフの夜事件」)と同一視はできないにしても、「虐殺容認の黒歴史」があり、それが、「長いナイフの夜事件」など後世に悪影響を残したのではないかとされます。
 エーベルトについては

フリードリヒ・エーベルト - Wikipedia
 ドイツ史上初の民選大統領ということで、現在のドイツでは多くの町で大通りに彼の名前が冠されている。一方でエーベルトは今日まで非常に論争の的になっている人物である。後のヒンデンブルク(106回)を上回る回数(136回)でワイマール憲法第48条に基づく大統領令を濫発し、左派労働者の暴動をドイツ義勇軍を使って抑制したため、治安維持という点では一応の評価をされている一方、左派からは「ナチス躍進の一因を作った」と批判の対象とされている。

ということで左派からは「大統領令を乱発したり、ドイツ義勇軍*6を左派弾圧に使ったりしたことで、ナチ独裁の一因を作った人物」として批判が強いことを指摘しておきます。但し、一方で右派からは「エーベルトヒトラーは違う」「エーベルトの強権発動は当時としては必要悪だった」と言う反論もされています。エーベルト評価は「ワイマル共和国評価」や「ナチ評価」とも関係する重要なポイントと言えます。
 なお、昨今では「何故1933年にナチが復権したのか?(ワイマル共和国には重大な欠陥があったのではないか?)」と言う問題の立て方はドイツにおいて、必ずしも「昔ほど強くない」気がします。
 むしろ「ドイツは1923年以降、政治的混乱で、何時、ナチ的な右翼政権が誕生してもおかしくないところ、10年もワイマル体制を維持できた」という「昔よりはワイマル共和国について肯定的な評価」が強まっている気がします。それは「戦前美化の動きが自民党などから目立つ」日本同様、ドイツにおいても「反省疲れ」があるのかもしれません。その「反省疲れ」の反映としての「極右勢力(近年、伸張が著しく「ドイツの大阪維新国民戦線(フランス)」といっていい国政野党で極右政党「ドイツのための選択肢」)の最近の伸張」かもしれない。勿論「ワイマル共和国」に「1927年の失業保険法成立」など、「評価に値する点」があるのは事実ですし、「ワイマル共和国への肯定的評価」と「戦前日本美化」は同一視できませんが。
 「ドイツのための選択肢」の危険性については例えば、以下の記事を紹介しておきます。

極右政党、移民追放を謀議か ナチス想起に波紋広がる―ドイツ:時事ドットコム2024.1.13
 ドイツで極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」幹部と右翼活動家らが移民の大量追放計画を謀議したと報じられ、波紋が広がっている。ユダヤ人を排斥したナチス政権を想起させる動きに対して、「おぞましい計画だ」(与党議員)などと批判が集中。AfDの党活動禁止も取り沙汰されている。
 調査報道団体「コレクティーフ」によると、昨年11月25日、東部ポツダムのホテルで、AfDのワイデル共同党首の最側近やAfD所属の連邦議会議員、AfD支持の起業家ら約20人が会合を開いた。この中で、オーストリア出身のAfD活動家が「マスタープラン」と称し、肌の色や出身地が異なり、「同化されていない国民」はドイツから追放可能とすべきだと主張。アフリカ北部に「モデル国家」を設けて200万人*7が移り住めるようにするアイデアを披露したという。
 ナチスは「アフリカのマダガスカル島」へのユダヤ人移送*8を実際に計画したことで知られる。
 AfDは反移民を掲げて急速に支持を広げており、直近の世論調査によると、今年9月に実施される独東部3州の議会選全てで第1党になる可能性がある。コレクティーフは「(移民追放計画は)AfDが政権を取れば、何が起こるかを予感させる」と警告した。
 ショルツ首相はX(旧ツイッター)で「移民的背景があるかどうかで、『私たち』を区別することは誰にも許されない」と憤った。ただ、この会合には保守野党のキリスト教民主同盟(CDU)の右派党員も参加したとされ、反移民感情の根深さがあらわになっている。

参考

【書評】『ナチズムは再来するのか? 民主主義をめぐるヴァイマル共和国の教訓』(慶應義塾大学出版会、2019年6月)アンドレアス・ヴィルシング、ベルトルト・コーラー、ウルリヒ・ヴィルヘルム編、板橋拓己・小野寺拓也監訳 | 研究プログラム | 東京財団政策研究所から一部紹介
第四章<有権者> 抵抗の国民政党「右派政党台頭の政治的分析」
 ナチ党はたった数年間で1929年の得票数を20倍以上に増やし、それは後にも先にも例がない上昇率であった。近年のAfDでも類似した得票率の上昇が見られると指摘され、ナチ党の躍進と類似していると説明されている。そしてナチ党とAfDの支持層の比較も試みられている。ナチ党の支持者は中間層の急進主義者であるとされてきたが、実は最近の研究では支持者の40%は労働者であり、特に熟練労働者であったことが判明している。つまり支持層としてもAfDと類似点がある。ナチ党とAfDは、前者は反ユダヤ主義、後者は反移民・難民の人種主義的な扇動という共通点がある。こうした傾向は、フランスやイタリア、ハンガリーの右派のポピュリスト政党にも同様に見られる。こうした右派政党が影響力を拡大して選挙で成功する危険性と、自由民主主義的な連邦共和制を脅威にさらす可能性があると結論付けている。
おわりに 警戒を怠らないということ
 本章では、(中略)ナチ党が最初から反ユダヤ主義を掲げていたわけではないように、AfDに投票する人が全て右派急進主義者ではないと述べている。だからと言って安心できるわけではなく、「エコーチェンバー」現象や「フェイク・ニュース」、著しい社会不平等がもたらす危険性を警告している。

ヴァイマル共和国の教訓――分断された社会とポピュリズムとしてのナチズム | 研究プログラム | 東京財団政策研究所(板橋拓己*9
※本稿は、2022年3月9日に開催されたウェビナー「歴史から考えるポピュリズム戦間期ヨーロッパの経験から」で報告した内容の一部である。
 近年、ドイツのメディアでは「ヴァイマル状況(Weimarer Verhältnisse)」や「ヴァイマルの亡霊(Gespenst von Weimar)」といった見出しをよく目にするようになった。ヴァイマル共和国(1919-1933年)とは、第一次世界大戦の敗戦と革命のなかで成立し、当時世界で最も先進的な民主憲法を備えていたドイツの共和政のことである。その共和政は、世界恐慌のなか左右の反体制勢力の挟撃に合い、ナチ政権の成立によって打ち倒された[1]。つまり、「ヴァイマル状況」という言葉が意味するのは、(ボーガス注:極右政党がドイツで躍進する)われわれの現在の状況がヴァイマル共和国と似ているのではないか、すなわち、民主政が危機にあり、ついには倒れてしまうのではないかという問い*10である。
 その問いに対して、多くの論文、研究書、一般向け書籍が著されている。一例を挙げれば、筆者が小野寺拓也氏とともに監訳した『ナチズムは再来するのか?*11』(原題は『ヴァイマル状況?』)という本がある[2]。同書は、2017年4月から7月にかけてドイツのバイエルン放送と『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』でメディアミックス的に展開された企画を書籍化したものであり、5人の歴史家と2人の政治学者がそれぞれの専門的知見に基づいて、現代とヴァイマル時代を比較したものである[3]。
 そうした研究の成果については後述するとして、ここではまず、なぜ「ヴァイマル状況」という言説が出てきたかを確認したい[4]。
 ヴァイマル共和国と現代を比較する言説が頻繁に飛び交うようになったのは、およそ15年前である。まず2007年の世界金融危機が、1929年の世界恐慌との比較を誘発した。そうした新聞記事は検索で無数に見つかるが、たとえば2010年5月17日の『南ドイツ新聞』には「1929年と2008年」という論説が掲載されている。また、ユーロ危機で示されたドイツの徹底的な緊縮志向は、容易にブリューニング内閣との連想を呼び起こし、各紙に「ヴァイマルの亡霊」という言葉が並んだ(ブリューニングは世界恐慌時の首相であり、議会ではなく大統領緊急令に依拠して危機を乗り切ろうとし、緊縮財政とデフレ政策を進め、かえって左右の反体制派の躍進を招いた)。
 そして、この10年でヴァイマルの類推は政治や社会の領域にまで広がった。ドイツにおいても「民主主義の危機」が危惧されたからに他ならない。それは、まずもって「ドイツのための選択肢(AfD)」の台頭に起因する。2013年に結成された同党は、当初は反ユーロ政党だったが、次第に右傾化・排外主義化を強め、とりわけ2015年の難民危機を背景に右翼ポピュリズム政党となり、勢力を伸ばした。2017年の連邦議会選挙では12.6%を獲得し、一気に第三党(結果的には野党第一党)に駆け上がり、21年の総選挙でも旧東側を中心に勢力を維持している。これで連邦議会議席を有する主要政党は(ボーガス注:左翼党、社民党緑の党自民党キリスト教民主同盟、「ドイツのための選択肢」の)6党となり、中道の二大政党*12の凋落も相まって、多党化現象が生じた。
 そうした政党政治レベルでの変容とともに、社会レベルでも排外主義が高まっていることが、いっそうヴァイマルとの比較をもっともらしいものにしている。「民族の裏切り者(Volksverräter)」や「民族共同体(Volksgemeinschaft)」といった、ヴァイマル共和国およびナチ体制時代の遺物であり、とうの昔にドイツが「克服」したかに思われた語彙が復活した。
(中略)
 ヴァイマル共和国には、三つの「宗派化」した陣営、すなわち、①社会主義陣営、②カトリック陣営、③プロテスタント陣営があり、それぞれの陣営内に民主派と非民主派がいるという状況であった。投票行動の変化は基本的に各陣営の内部で起こり、陣営の境界を越える変化は少なかった[8]。
 また、メディア史家ウーテ・ダニエルが指摘するように、ヴァイマル共和国ではメディアも政治的・イデオロギー的に分断されていた[9]*13。全体を包括するような主要メディアは存在せず、新聞は党派によって分断されており、それぞれ「エコーチェンバー」を作り出していた。ある陣営にとっての真実が、他の陣営にとってはフェイクになる。そんな状況が生み出されていたのである。
 さらに、地域間の分断、都市と地方の分断も見逃せない。とりわけ、大都市ベルリンは他の地域の怨嗟の的となった。地方からみたベルリンは、「共和主義、多元主義、機械化、アメリカ化、派閥主義、教育実験、道徳の退廃、とりわけ性別の適切な境界の混乱という退廃」の象徴であった[10]。
 また、ベルリンには外国人も多く、ユダヤ人に関しては、ドイツ全体では人口の1%に満たない割合のところ、ベルリンでは7%を占めていた。こうしたなかでユダヤ人は「エリート」「資本主義」「共産主義」のシンボルとなり、反ユダヤ主義は反エリート、反資本主義、反共産主義の意味をもつようになった。
 こうしたなかで台頭したのがナチ党だが、しばしば指摘されるように、ヒトラーは選挙によって首相の座についたわけではない。とはいえ、ナチ党が、1928年の総選挙では得票率2.6%に過ぎなかった状態から、わずか数年で30%台を獲得するようになったことも、忘れるべきではない。こうした急速なナチ党への支持拡大なくして、1933年1月にヒトラーが首相に任命されることもなかったであろう。
 古い研究ではナチ党は中間層の運動と捉えられてきたが、ユルゲン・ファルターらの統計的手法を用いた歴史研究により、実際にはナチ党は、党員においても支持者においても、従来考えられてきたよりもはるかに多様な人びとから構成されていたことが判明している。たとえば、ナチ党に投票した者のうち3分の1は労働者層であった。
 こうした点をふまえて、ファルターはナチ党を「中間層の傾向が強い国民政党」と規定している[12]*14。ここで「国民政党」とは、広範な社会層に満遍なく支持される大政党を意味する。
 加えて注意すべきは、ナチ党に投票した人びとの多数が、「経済的敗者」や「社会的な根無し草」と呼ばれるような人びとではなかったことだ。たとえば、ナチ党に投票した者のなかで、失業者が占める割合は全体の平均よりも低い。それに対して、それまで棄権していた人びとが、1928年から33年のあいだに投票所に足を運び、ナチ党の成功に貢献している[13]。
 1920年代の深刻な農業危機、29年に始まる世界恐慌など、危機が次々と訪れるなかで、ヴァイマル共和国の既成政党は安定した連立政権を樹立できずに無力をさらけ出していると有権者には思われた。既存の政党が、各々の支持勢力の個別利益を優先したことも、ナチ党には有利に働いた。多くの人は、抗議の意味でナチ党に投票したのである。このような状況を指して、トーマス・チルダースはナチ党を「抵抗の国民政党」と形容する[14]。
 ナチ党の戦略面にも巧みなところがあった。ここでは、共和国政府の貿易政策によって苦境に立たされ、不満を抱いていた農村地域に目を付け、1930年以降、「フォルク(人民、民族)」を強調して農民層に訴えかけたことを挙げておこう。この農村進出戦略は功を奏した。
 こうして、ファシズム研究者のケヴィン・パスモアが述べるように、「ナチは、それまで多くの政党がなろうとしてきた政党、すなわち、対立し合っているような集団までも単一の運動のなかに融合してしまうような国民政党になる、という点で、最も成功を収めた」のである[15]*15。石田勇治*16も、「ナチ党躍進の鍵は、この政党が国民政党となったことにある」と指摘している[16]*17
 とはいえ、ナチ党が単独では政権を握れなかったことは忘れるべきではない。多くの研究が指摘する通り、保守派の助力なくしてヒトラーが権力を握ることはなかった。さらに言えば、保守派は、首相就任後もヒトラーを引きずり下ろすことができた数少ない勢力であった。しかし、彼らはその機会を逸したのである。ヴァイマル共和国の保守派は、自己の利益や権力や名声を守るために、民主主義を放棄してナチと手を組むことを選んだのであった

 反共極右政党「維新」にすり寄り、共産から距離を置き野党共闘を破壊しようとする今の立民は「板橋文章をもじって」あえて言えば

立民党執行部は、自己の利益(選挙の勝利)を得るために、民主主義を放棄して維新と手を組むことを選んだのであった

ではないのか(但し、結局ナチスに政治的実権を奪われて衰退した戦前ドイツ保守派同様、そうした路線は立民にとってむしろ有害でしょうが)。そんな「立民批判派」の俺にとっては維新に批判的とはいえ「社民、れいわ」が「共産に比べ」党勢が弱すぎてお話にならない以上、もはや「共産支持、この道しかない(維新にすり寄る点では自公、国民民主は立民と変わらず論外)」ので
あって未だに「立民党のリベラル派」に空しい期待をし、共産に不当な悪口を加えるid:kojitakenには心底呆れます。


◆激動の20世紀を「良き教師」として生きる:ヒルデガルト・フォン・ギールケの場合(小玉亮子*18
(内容紹介)
 ナチドイツ時代にナチス支持をした女性幼稚園教師「ヒルデガルト・フォン・ギールケ*19」が取り上げられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。筆者はヒルデガルトが、戦後は東ドイツにおいて幼稚園教師を続けたことから彼女において「ナチ体制であれ、社会主義体制(東ドイツ)であれ、政治体制に関係なく、政治から距離を置いて、中立的立場で、子どものための教育ができるはず」という認識(本心か、諦念に基づく自己欺瞞かはともかく)があったのではないかと見なしています(勿論、それは結果的には体制の容認になりますが)。
 ナチドイツとは同一視できないとはいえ、「戦前日本の教師(多くは戦前ファシズム体制を事実上容認)」を考えれば、日本も決して他人事ではないでしょう。


◆ナチ時代のドイツ女性を再考する(井上茂子*20
(内容紹介)
 長い間「ナチの被害者」として描き出されることが多かったドイツ女性について近年では「ナチ支持のドイツ女性も多数おり、(ユダヤ人女性、障害者女性などナチの迫害を受けたマイノリティ女性はともかく)ドイツ女性の多くは(ナチに騙されていたにせよ)ナチの共犯だった、決して無罪では無かった」と言う研究が近年進んでいること(例:ロバート・ジェラテリー『ヒトラーを支持したドイツ国民』(邦訳:2008年、みすず書房)、ウェンディ・ロワー『ヒトラーの娘たち:ホロコーストに加担したドイツ女性』(邦訳:2016年、明石書店)、桑原ヒサ子(敬和学園大学名誉教授)『ナチス機関誌「女性展望」を読む』(2020年、青弓社))が指摘されていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
 なお、「女性の戦争加担」はナチだけではなく「太平洋戦争期の日本(愛国婦人会など)」など古今東西に見られる現象であり、筆者は「ナチスと他国の比較」による「ナチスの独自性と他国との共通性」の分析が今後の課題としています。

参考

弁護士会の読書:ヒトラーを支持したドイツ国民
 ヒトラー独裁といっても、それは多くのドイツ国民の最後までの支持なしにはありえなかったし、ドイツ国民は強制収容所の存在、そして、そこでの囚人虐待を知っていたという本です。ドイツ国民は何も知らなかったという従来の通説とは異なりますが、当時のマスコミ報道をふくめて資料を丹念に掘り起こしていますから、説得力があります。目を背けてはいけない事実です。
 ヒトラーの1935年の徴兵制度の再導入は、労働市場から大量の就労年齢の男性を吸い上げ、失業者数を減らした。雇用と収入が突然戻ってきて、ドイツ国民に希望がよみがえった。それは、ことに青年男女にとって顕著だった。そこで、多くのドイツ国民が競ってナチ運動に参加しようとした。ナチ党員は、1930年に 13万人、1933年に85万人、その後、数年で500万人となった。ナチ党突撃隊(SA)には1931年に8万人、1932年に50万人、1934年に300万人いた。女性も同じ。ナチの女性組織「ナチ女性団」(NSF)は1932年に11万人、(ボーガス注:ヒトラーが首相に就任した)1933年に85万人、1934年に150万人、そして1938年には400万人だった。
 こんな数字をあげられると、大衆操作の怖さをつくづく実感します。
 世論懐柔のため、強制収容所は、もっぱら共産党員用だと宣伝された。ドイツのほとんどの町にあるといってもよい強制収容所について、新聞が一斉に報道したのだから、収容所の存在は秘密でもなんでもなかった。しばらくとはいえ、むしろ町民たちは、町に強制収容所があることを誇りに思っていた。ええーっ、そうだったんですか・・・。
 ドイツ人は、囚人服を着て木靴をはいた囚人を色眼鏡をとおして見た。よくて無関心か恐怖心、悪くて看守と一緒になって侮蔑、敵意、憎悪をむき出しにして囚人を見ていた。
 一般市民も囚人を自分たちのために強制して働かせることをなんとも思っていなかった。囚人は、人間以下の人間として、国家の敵、犯罪者としての烙印が押されていたから。そして、ドイツの民間企業こそが、強制収容所囚人の最大の搾取者だった。IGファルベン、ジーメンスダイムラー、ベンツ、フォルクスワーゲンBMWなどなど。
 300頁ほどの本ですが、大変重たく感じる本です。

ヒトラーの娘たち ウェンディ・ロワー著 - 日本経済新聞(法政大学名誉教授・川成洋*21
 本書によると、第2次大戦期に、ナチ占領下の東部に50万を超える若い女性が教師、看護師、秘書、福祉士、そして妻として派遣された。はっきりしていることは、彼女たちはすでにナチ的衛生学や人種生物学にどっぷり浸かっていたことだ。彼女たちは「総統の伝道者」「文化の担い手」としてジェノサイドを初めて直接目撃し、たじろぐが、ヒトラーの目論む戦争が「絶滅戦争」であると理解するのにはそう時間はかからなかった。愛国的ドイツ人という自覚がこうした大量殺人の現場に無感覚となり、ユダヤ人から強奪した所持品を祝勝の名目で山分けするようになる。まさに彼女たちは、ヒトラーの殺人マシンの不可欠なパーツと化していた。
 本書で取り上げた共犯者・加害者の十数人の女性の中で、有罪を宣告されたのは、たった1人である。何故だろうか。
 彼女たちは自分の過去を葬り去ろうとして可能な限り偽証や黙秘をする。結婚して姓を変える*22。かつての同僚も犯罪事実を隠蔽し、あるいは隠滅する。裁判官は生存者の証言よりも証拠書類の提出を求める。
 しかし、誰が犯罪現場で、それを書類に記述できるであろうか。しかも目撃者や生存者にとって、自分の家族・親戚を殺めた殺人者の名前は定かでない。何よりも、裁判官がナチ犯罪で被告人を有罪とすることに全体として抵抗を示した。これでは公正な裁判は望むべくもない。
 かくして「ヒトラーの娘たち」のほとんどは、逃げ切ったのだった。

 やはり拙記事『銃後』とは『自由』な『自己実現』ができる時代だった(副題:NHKスペシャル「銃後の女性たち―戦争にのめりこんだ‟普通の人々”」) - bogus-simotukareのブログ積極支持ではない消極的支持(諦め)であれ、「デマ扇動やメディア統制による詐欺的支持獲得(いわゆるポピュリズム)」であれ、国民の支持無しでは独裁は成り立たない(追記あり) - bogus-simotukareのブログは「大筋で正しい」と言う思いを改めてします。


◆抵抗と再建のはざまで:「ドイツ零時*23」における社会運動(土肥有理*24
(内容紹介)
 1945年の敗戦前後に活動した「反ファッショ委員会」の活動について述べられていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。


◆「ナチスの発明」の起源:源泉徴収をめぐる俗説と「一九四〇年体制」論(田野大輔*25
(内容紹介)
 ネット上の記事紹介で代替。
 筆者には『検証・ナチスは「良いこと」もしたのか?』(共著、2023年、岩波ブックレット)と言う著書がありますが「ページ数の制約」等から全ての「ナチスの善行デマ」批判を著書でしたわけではなく、今回は著書では触れなかった「源泉徴収ナチスの発明」デマが取り上げられています。
 詳しくは後で紹介するネット記事を見て頂ければと思いますが
1)源泉徴収がドイツに導入されたのはワイマール共和国時代であってナチス時代ではない
2)源泉徴収自体もドイツで発明されたわけではない(ドイツでの導入以前に米国や英国で導入されている)
と言う話です。

「源泉徴収はナチスの発明」というウソ(田野 大輔) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
 ナチスの政策のなかにも「良いもの」はあった。ネット上を中心にしばしばそんな主張を見かける。
 しかし実はそうした主張の多くは少なからぬ事実誤認を含んでいたり、政策の全体を見ずに一部だけを切り取っていたりする。そうした巷間の「ナチス擁護論」の杜撰さと危うさを指摘した『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』(小野寺拓也・田野大輔)がベストセラーとなっている。
 「ナチスは良いこともした」という主張の根拠の一つとしてしばしば持ち出されるのが、「源泉徴収ナチスが発明した」という説だ。同書の著者の一人である甲南大学教授の田野大輔氏が、この説の虚実、そして、なぜこの説が広まったのかを検証する。
注:本記事は、田野大輔「『ナチスの発明』の起源:源泉徴収をめぐる俗説と『一九四〇年体制』論」『歴史評論』2024年5月号(予定)の内容の一部を再編集したものである。
【田野】
 新書やビジネス書、雑誌などでもこの説がまことしやかに紹介されているのを目にする。
 代表的な事例としては、2006年に出版された武田知弘*26フリーライター)の『ナチスの発明*27』が挙げられる。武田は同書のなかで「税金の『源泉徴収』をはじめたのもナチス・ドイツである」と述べ、この制度をナチスの「人類への功績」の一つに数えている。最近では舛添要一国際政治学者)も、2019年の『ヒトラーの正体*28』の冒頭でヒトラー源泉徴収の考案者と名指しし、出版時のインタビューで「源泉徴収という考え方はヒトラーが初めて導入しました」と断言している(『スポーツ報知』2019年8月31日)。
 だが一部の読者には驚きかもしれないが、実はこの「ナチスの発明」という俗説はまったくのデタラメである。所得税源泉徴収はイギリスではナポレオン戦争期の1803年に、アメリカでは南北戦争期の1862年に導入されており、ドイツでも第一次世界大戦直後の1920年に導入されている。
 ドイツの源泉徴収制度はヒトラーが政権を握る13年前、ワイマール共和国のエルツベルガー財務相が1919年から翌年にかけて行った包括的な税制・財政改革の一環として導入したものである。第一次世界大戦の敗戦による深刻な財政危機に直面していた共和国政府が、大衆課税による増収と税務行政の効率化をはかる目的で行った改革だが、これによって今日につながるドイツの租税・財政制度の基盤が確立されたというのが、研究者の間で一致した見方となっている。このとき採用された源泉徴収を、ナチスはただ受け継いだにすぎない。
 それにもかかわらず、源泉徴収を「ナチスの発明」とする謬説が広まったのはなぜだろうか。その原因は何よりも、日本が1940年にドイツに倣ってこの制度を導入したという歴史的経緯にありそうだ。当時のドイツはヒトラー政権下だったから、源泉徴収を「ナチスの制度」と誤解してもおかしくない。多くの論者の発言を精査すると、そのような誤解や歪曲が「ナチスの発明」という謬説の成立に深く関わっていることがわかる。彼らは源泉徴収の起源をより強くナチスと結びつける方向で、発言の内容を徐々に変化させている。
 このことをはっきりと示しているのが、最初期に主導的な役割を果たした(ボーガス注:ライフコーポレーション創業者の)清水信次(実業家)の発言である。清水は早くも1989年に源泉徴収ナチスの関係に言及したパイオニア的存在だが、この時点ではまだ「ナチス・ドイツを範にして1940年に所得税の給与源泉徴収制度を導入した」との説明にとどまっていた(『世界』523号)。だが1993年のインタビューで「源泉徴収ナチスの遺産」とトーンを強めると(『週刊ポスト』1993年9月10日号)、その翌年に出版した著書では「この制度を考えだしたのは、ナチスドイツのヒトラーであった」という主張に移行している(『時短は国を滅ぼす*29』)。
 同様の変化は加藤寛*30(経済学者)の発言にも見られる。政府税制調査会会長も務めた加藤は1987年の共著では戦後の所得税法改正で源泉徴収が採用されたと述べていたが(『「決定版・税制改革」』*31)、1987年と1999年の対談で源泉徴収導入にドイツの影響があったことを知ると(『法令ニュース』487号、『対論「所得税一律革命」』)、2002年の論説で「ナチスドイツに範を求めた」と説明を変えている(『日本経済新聞』2002年1月28日)。そして最終的に、2005年の雑誌インタビューで「ヒットラーが便利だからと作った」と主張するにいたっている(『週刊東洋経済』2005年2月5日号)。
 このように多くの論者の発言は何かに導かれるように徐々に内容を変化させ、やがて一線を踏み越えて完全な謬説に移行している。「ドイツに倣って」が「ナチスを真似て」となり、「ドイツの税制」が「ナチスの制度」とされて、最終的に「ナチスの発明」という主張に行き着くのだが、そうした不可逆的な変化をもたらした原因は何だったのだろうか。
 まず指摘できるのは、話を誇張して読者の関心を引こうとする動機である。本当はドイツに倣って導入されただけなのだが、それでは弱すぎる。「ナチスが作った」と言い切ってしまった方が、インパクトは大きいはずだ。おおよそこのような理由から、多くの論者は「ナチスの発明」論を唱えるようになったと考えられる。だがもう一つ、「ナチスの発明」論の成立・拡大に――間接的にではあるものの――大きな影響を与えたものがある。1995年に出版されベストセラーとなった野口悠紀雄*32(経済学者)の『1940年体制*33』である。ただし野口は1940年に源泉徴収が導入された事実には言及していたが、そこにドイツの影響があったことは指摘していなかった(その代わりに「世界ではじめて」導入されたという勇み足の指摘を行っている)。この点を補足し、現代につながる連続性の起点をナチスにまで延長しようとした論者の代表格が、斎藤貴男*34(ジャーナリスト)である。
 斎藤は1996年に出版した『源泉徴収と年末調整*35』のなかで、野口の「1940年体制」論を紹介しながら日本の税制を検討し、源泉徴収導入の背景に「ナチス・ドイツの強い影響」があったことを強調する。だが源泉徴収ナチス以前に導入されていたから、これは間違いとは言えないまでも誤解を招く説明である(なお、彼は年末調整もナチスの影響によるものと説明しているが、ドイツでこの制度が導入されたのは1948年なので、こちらは明らかな誤りである)。
 (ボーガス注:左派の)斎藤は戦時体制の所産である源泉徴収に批判的な議論を展開しているのだが、ナチスの影響を強調することでそうした批判の説得力を高める意図があったのかもしれない。
 ところが2000年代半ばになると、こうした論調は一変する。その最大の原因こそ、冒頭で挙げた武田の『ナチスの発明』にほかならない。同書のそれまでにない特徴は、源泉徴収ナチスによる「偉大な発明や発見」として、もっぱら肯定的に取り上げている点にある。
 源泉徴収は納税を効率化する「先進的な社会制度」なのだから、たとえナチスが作ったものであろうと「人類への功績」として正当に評価されるべきだというのだが、このような主張は一般世論の保守化、とりわけ「過去を一方的に断罪するのはおかしい」という風潮の高まりにも後押しされて、源泉徴収をめぐる議論を急速に間違った方向に導いていく。2008年にはさっそく戸矢学*36(作家)が源泉徴収を「ナチスが開発したもの」と断定し、「当時としては比較するものもない圧倒的な『先進国』ということです」と発言している(『カリスマのつくり方*37』)。
 この時期の変化としてさらに注目されるのは、かつて源泉徴収の起源について比較的慎重な説明を行っていた斎藤と舛添が、武田に背中を押されるように一線を踏み越え、「ナチスの発明」論を唱え始めることである(もともと源泉徴収について武田とは反対の評価をしていたにもかかわらず、である)。斎藤は2014年に出版した著書のなかで「源泉徴収ナチスのしくみ」と説明し(『ちゃんとわかる消費税*38』)、さらに2016年のインタビューで「もともとはナチスドイツが戦費調達のために発明したもの」と発言しているし(『マガジン9』2016年9月14日)、舛添も上述の通り2019年の著書とインタビューで源泉徴収ヒトラーの考案によるものと断定し、この制度の利便性と効率性を強調している。
 過去30年あまりにわたって積み上げられてきた源泉徴収をめぐる俗説の系譜をたどってみると、あらためて悪の象徴=ナチスの「情動に訴える力」の大きさに気付かされる。(ボーガス注:左派の斎藤のように)容赦なく税金を取り立てる源泉徴収の非道さを印象付け、不条理な税制への怨嗟をかき立てるためであれ、(ボーガス注:歴史修正主義右派のように)逆に納税の手間を省いてくれるこの制度の先進性と先見性を強調し、それによって「ナチスの時代をただ真っ黒に塗りつぶしてきた歴史観」を修正するためであれ(『ナチスの発明』)、ナチスを引き合いに出すことが喚起する感情は強力で、歴史的事実の認知さえ歪めてしまいがちである。
 「ナチスはこんな凄い発明もしていた」といった人目を引く主張に心動かされ、「やっぱりそうだったのか」と納得してしまう前に、それが事実認識として間違っていないか、立ち止まって考えてみるべきだろう。
 武田や戸矢の主張が示しているように、「源泉徴収ナチスの発明」という主張はナチスの免罪化、少なくともその犯罪の相対化につながる危険性をはらんでいる。そうした謬説が広まるのを防ぐためには、専門家による粘り強い批判が欠かせない。実は筆者もSNS上でこの種の発言を見つけては間違いを指摘し、「源泉徴収ナチスの発明ではありません」というステッカーまで作って啓発に取り組んでいるのだが、次から次へと現れる発言を前に途方にくれることが多い。根拠のない間違った俗説であっても、いったん活字になって世間に流布してしまうと、これを打ち消すのは非常に困難である。著述を業とする者の責任は重いと言わざるをえない。

*1:こういうタイトルですが「ポスト・トゥルース」という問題に関係があるのは「源泉徴収ナチスの発明ではない」と批判する田野論文だけではないか?

*2:東京外国語大学准教授。著書『野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」:第二次世界大戦末期におけるイデオロギーと「主体性」(2022年、山川出版社)、『検証・ナチスは「良いこと」もしたのか?』(共著、2023年、岩波ブックレット)等

*3:日本では「関東大震災及び朝鮮人虐殺、左派虐殺(甘粕事件、亀戸事件)」「虎ノ門事件(裕仁皇太子狙撃事件)」等がありました。

*4:日本では「小林多喜二虐殺」「日本の国際連盟脱退」等がありました。

*5:1871~1919年。著書『ローザ・ルクセンブルクの手紙』(1987年、岩波文庫)、『経済学入門』(1991年、岩波文庫や2018年、御茶の水書房)、『資本蓄積論』(1997年、同時代社)、『ポーランドの産業的発展』(2011年、御茶の水書房)等

*6:突撃隊指揮官エルンスト・レーム(「長いナイフの夜事件」によりヒトラーが暗殺)、親衛隊指導者ハインリヒ・ヒムラー(後に自殺)、アウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘス(戦後、絞首刑)など、ナチ幹部の多くは義勇軍の出身者であった(ドイツ義勇軍 - Wikipedia参照)

*7:野原某(id:noharra)の「10万人の北朝鮮難民を日本に受け入れろ(以前俺が批判)」もいい加減非常識ですが、「200万人の外国人をドイツから追放してアフリカに移住させる」とは「報道が事実」なら、野原すらかわいく見える酷さです。いや「大阪維新すらかわいく見えるAfDの酷さ」といっていい。(勿論人道的な意味で非道ですが)是非以前にできるわけがない。いずれにせよこういうスクープをしたドイツメディアには感動ですね。日本のメディアにはこうした批判精神が何処まであるのか?

*8:勿論「移送(ドイツからの追放)ならいい、虐殺で無ければいい」と言う話では全くないですが、当初ナチは「マダガスカル」「東欧」などへの移送を計画した物の、それが挫折したこと(例えばマダガスカル(もともとはフランスの植民地だったがドイツが侵略)への移送計画は英仏連合軍が、ドイツからマダガスカルを奪還したことで挫折)で虐殺にシフトしたのであって当初から虐殺方針ではありませんでした。これについては例えばマダガスカル計画 - Wikipedia参照

*9:東大教授。著書『アデナウアー』(2014年、中公新書)、『黒いヨーロッパ:ドイツにおけるキリスト教保守派の「西洋(アーベントラント)」主義、1925~1965年』(2016年、吉田書店)、『分断の克服 1989~1990:統一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』(2022年、中公選書)等

*10:こうした問い(現在の状況が戦前日本と似ていないか?)は「戦前美化勢力=自民党安倍派など」が政治において強い影響力を発揮し、また「参政党」という右翼ミニ政党が国会に進出した日本にも該当するでしょう。

*11:2019年、慶應義塾大学出版会

*12:社民党キリスト教民主同盟のこと

*13:ウーテ・ダニエル「政治的言語とメディア」ヴィルシングほか『ナチズムは再来するのか?』

*14:ユルゲン・W・ファルター「抵抗の国民政党」ヴィルシングほか『ナチズムは再来するのか?』

*15:ケヴィン・パスモア『ファシズムとは何か』福井憲彦訳、岩波書店、2016年

*16:東京大学名誉教授。著書『20世紀ドイツ史』(2005年、白水社)、『過去の克服[新版]:ヒトラー後のドイツ』(2023年、白水社)等

*17:石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書、2015年

*18:お茶の水女子大学教授

*19:筆者に寄れば著名なドイツの法学者「オットー・フォン・ギールケ(1841~1921年)」の娘。なお、オットー・フォン・ギールケ - Wikipediaによれば「オットー・フォン・ギールケの蔵書の一部は第一次世界大戦後、東京商科大学によって購入され、その直後の関東大震災の難から逃れたのち、東京商大の後身校である一橋大学の「ギールケ文庫」として継承されている」とのこと。オットーの邦訳著書としては『ドイツ私法概論』(1990年、三一書房)、『ドイツ団体法論第1巻:ドイツ・ゲノッセンシャフト法史』(2014年、信山社)、『歴史法学論文集』(2019年、信山社)がある。

*20:上智大学名誉教授

*21:著書『青春のスペイン戦争:ケンブリッジ大学義勇兵たち』(1985年、中公新書)、『スペイン戦争:ジャック白井と国際旅団』(1989年、朝日選書→『ジャック白井と国際旅団:スペイン内戦を戦った日本人』と改題して、2013年、中公文庫)、『幻のオリンピック』(1992年、ちくまプリマーブックス)、『本が語る現代』(1996年、丸善ライブラリー)、『大学崩壊』(2000年、宝島社新書)、『スペイン内戦』(2003年、講談社学術文庫)、『紳士の国のインテリジェンス』(2007年、集英社新書)、『英国スパイ物語』(2018年、中公選書)、『スペイン内戦と人間群像』(2023年、人間社)等

*22:結婚して姓を変えることが「不祥事(ホロコーストへの加担)」追及逃れとは「話が脱線します」が「山尾(結婚後の姓)から菅野(旧姓)に姓を変えた不倫醜聞・山尾志桜里(元民進党政調会長)」を連想させる話です。あるいは名前を変えることで過去を消そうとするとは「血盟団事件の菱沼五郎(後に小幡五朗に改名し、自民党茨城県議)」を連想させる話です。

*23:1945年5月8日のドイツ国防軍の無条件降伏によってナチス・ドイツ体制が崩壊し、ドイツ戦後史が始まったことを指す言葉(零時 (ドイツ史) - Wikipedia参照)

*24:明治大学講師

*25:甲南大学教授。著書『魅惑する帝国:政治の美学化とナチズム』(2007年、名古屋大学出版会)、『愛と欲望のナチズム』(2012年、講談社選書メチエ)、『ファシズムの教室:なぜ集団は暴走するのか』(2020年、大月書店)、『検証・ナチスは「良いこと」もしたのか?』(共著、2023年、岩波ブックレット)等

*26:著書『ヒトラーケインズ』(2010年、祥伝社新書)、『戦前の生活:大日本帝国の「リアルな生活誌」』(2013年、ちくま文庫)、『大日本帝国の経済戦略』(2015年、祥伝社新書)、『ヒトラーとトランプ』(2017年、祥伝社新書)、『ヒトラーの経済政策』(2020年、祥伝社黄金文庫)等

*27:彩図社

*28:小学館新書

*29:文春ネスコ社

*30:慶應義塾大学名誉教授

*31:国際商業出版社

*32:一橋大学名誉教授

*33:東洋経済新報社

*34:著書『源泉徴収と年末調整:納税者の意識を変えられるか』(1996年、中公新書→後に『大増税のカラクリ』と改題し、2006年、ちくま文庫)、『プライバシー・クライシス』(1999年、文春新書)、『梶原一騎伝』(2001年、新潮文庫→2005年、文春文庫、後に『「あしたのジョー」と梶原一騎の奇跡』と改題し、2016年、朝日文庫)、『小泉改革と監視社会』(2002年、岩波ブックレット)、『バブルの復讐:精神の瓦礫』(2003年、講談社文庫)、『安心のファシズム:支配されたがる人びと』(2004年、岩波新書)、『国家に隷従せず』(2004年、ちくま文庫)、『希望の仕事論』(2004年、平凡社新書)、『不屈のために:階層・監視社会をめぐるキーワード』(2005年、ちくま文庫)、『ルポ改憲潮流』(2006年、岩波新書)、『住基ネットの「真実」を暴く』(2006年、岩波ブックレツト)、『「非国民」のすすめ』、『報道されない重大事』(以上、2007年、ちくま文庫)、『消費増税で日本崩壊』(2010年、ベスト新書)、『東京を弄んだ男:「空疎な小皇帝」石原慎太郎』(2011年、講談社文庫)、『「心」と「国策」の内幕』(2011年、ちくま文庫)、『強いられる死:自殺者三万人超の実相』(2012年、河出文庫)、『安倍改憲政権の正体』(2013年、岩波ブックレット)、『分断される日本』(2013年、角川文庫)、『戦争のできる国へ:安倍政権の正体』(2014年、朝日新書)、『民意のつくられかた』(2014年、岩波現代文庫)、『民主主義はいかにして劣化するか』(2014年、ベスト新書)、『「東京電力」研究』(2015年、角川文庫)、『ジャーナリストという仕事』(2016年、岩波ジュニア新書)、『機会不平等』(2016年、岩波現代文庫)、『国民のしつけ方』(2017年、集英社インターナショナル新書)、『「明治礼賛」の正体』(2018年、岩波ブックレット)、『日本が壊れていく』(2018年、ちくま新書)、『ちゃんとわかる消費税』(2019年、河出文庫)、『カルト資本主義(増補版)』(2019年、ちくま文庫)など

*35:1996年、中公新書→後に『大増税のカラクリ』と改題し、2006年、ちくま文庫

*36:著書『陰陽道とは何か』(2005年、PHP新書)、『三種の神器』(2016年、河出文庫)等

*37:PHP新書

*38:2014年、河出書房新社→2019年、河出文庫