『銃後』とは『自由』な『自己実現』ができる時代だった(副題:NHKスペシャル「銃後の女性たち―戦争にのめりこんだ‟普通の人々”」)

阿部治平とリベラル21のバカさに心底呆れる - bogus-simotukareのブログ
リベラル21 共産党の願いと現実について(阿部治平*1)を取り上げたばかりですが、今日はリベラル21掲載論文リベラル21 「女がだまされると戦争になる」(米田佐代子*2)を「好意的に取り上げてみます」。
 勿論、タイトルの『自由』、『自己実現』はカギ括弧付きの『自由』、『自己実現』です。
 さて米田論文の副題は

NHKスペシャル「銃後の女性たち―戦争にのめりこんだ‟普通の人々”」を観ました

です。
 この副題を見て、そして本文を読んで、俺は「問題意識が前衛の◆インタビュー『民衆と社会は戦争をどう支えたのか:「銃後」はどうつくられ変遷したのか』(大串潤児*3)に近いな」、あるいは「ある意味、認識が、月刊経済の◆インタビュー『中国問題をどう見るか:近現代史の視点から』(久保亨*4)に近いな」と感じました。
 まずは米田論文と『NHKの番組紹介』を紹介しておきます。

リベラル21 「女がだまされると戦争になる」(米田佐代子)
 2日続けてNHKテレビを観ました。今日はわたしの好きなドキュメントです。「国防婦人会」がテーマでした。
 ごく普通の主婦たちが、なぜそのような熱狂的な「戦争協力活動」に参加していったのか。「銃後の女性」の「戦争協力」については、藤井忠俊*5『国防婦人会*6』、加納実紀代さん*7をはじめとする『銃後史ノート』運動や中国人女性史研究者・胡澎さん*8の大著『戦時体制下日本の女性団体*9』など数多くありますが、この番組のすごいところは、戦後76年経って、当時実際に母親が国防婦人会に参加したという女性たちの子世代を何人も探し当て、「なぜそういう気持ちになったのですか」と一人ひとりの「心の戦争」を問いかけたことです。
 登場する女性たちの貴重な証言は、ぜひ再放送を期待してみてほしい。「兵隊さんに喜んでもらえて人の役に立つ喜びを感じた」「家で姑につかえて自分のしたいことは何もできなかったけれど、国防婦人会の会合や行事には出ていくことができて開放感をもった」という思い出は、女性が無権利であるとき、いともたやすく戦争動員が自己実現の機会に置き換えられてしまうことを物語っています。
 この番組が、女性たちの「戦争加担」の実際を、このように掘り起こしたことの意義は今の情勢を考えると貴重だと思う。というのは、ここで問われた「女性が社会で評価される」ことが国策に沿っているときだけだったという事実と、「いわれたことをしていればいい」という「同調圧力」の恐ろしさです。この時代、一方では戦争に反対しようとした女性も少なくなかったのですがそれは「社会活動」どころか徹底的に弾圧されました。赤いものを身に着けて街頭に立とう、と「女の平和」運動を呼びかけた心理学者・横湯園子さん*10が最近になって戦時中両親とも反戦思想をもっているというので特高警察に追われ、30数回も転居せざるを得なかったという証言を語り始めたそうですが、そういう女性もいたのです。しかしそれは「排除」されてしまった。それを繰り返してはならない。
 もう一つ、わたしが痛感しているのは、戦後の今女性たちは決して戦争賛成などと言わず、「安保法制」にも反対し、憲法を守る運動にも参加し、日本政府が拒否している核兵器禁止条約に参加せよという声も上げている、しかしそのときでさえ、わたしたちは「いいことをしている」という自覚のゆえに自分で考えて意見を持つことを第一義的にしているだろうかという問いです。わたしは子どものPTA活動に40年以上昔としては少数派だった「働く母親」として参加し、「昼間の活動にはあまり参加できないけれど、会議の記録と広報の係ならできる」と申し出たことがあります。書くことが本業ですからね。しかし、PTAの新聞を作るとき、校長先生から「学校方針に疑問など書かないで下さい」とく釘をさされました。でも親たちの間ではそれでは自由に意見をいえないという不満があったのです。わたしは「いきなり不満を新聞に書くのではなく、先生方とよく話したあってそれを記事にしよう」と提案、「給食がおいしくない」という声や「音楽や図工の成績が先生が変わったら評価が180度変わってしまった」という疑問を率直に学校にぶつけて返事をもらい、そのやり取りを記事にすることにしました。それでも校長先生は渋り、PTAの役員の間でも「学校が嫌なことは載せるべきでない」という意見がかなり出ました。それを説得し、担当の先生方にも納得してもらって何回か取り組んだことを覚えています。それはけっこうよく考えないとできない作業でした。面倒だから「学校のいうとおりにしておけば」という人もいました。
 この番組をただ「女も戦争協力した」という側面だけでなく、今も(あの森発言のように)女性が自分で考えて意見を持つことを拒絶する風潮への警鐘としても見てほしい。92歳の女性が「自分の考えを持って行きたい」と毎日新聞を読み、勉強しているというシーンに共感した次第です。

「銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々”〜」 - NHKスペシャル - NHK
 かっぽう着にたすき掛け。戦時中のドラマでたびたび登場する「国防婦人会」の女性たち。新たに発見された資料や取材から、戦争を支えた女性たちの意外な「思い」が明らかになった。女性の活躍の場が少なかった時代、国防婦人会への参加は「社会参加」の機会だった。「社会の役に立ちたい」と懸命に生きた女性たちがなぜ自身を抑圧するようになったのか。戦争に協力していった女性たちの、これまで語られてこなかった心の内に迫る。

銃後の女性たち ~戦争にのめり込んだ“普通の人々”~ - NHKスペシャルまとめ記事 - NHKスペシャル - NHK
 当時30代の片桐ヨシノさん。結婚後、夫の家に入り、2人の子どもを育てていました。活動を始めるまでは、窮屈な暮らしを送っていました。
 片桐さんの証言テープ
「お姑さんには絶対頭があがりません。それでまあ、お姑さんにはもう私は絶対服従でこざいましたからね」
 当時、女性の大半は20代前半で結婚、家事や育児をしながら夫の家で生きるしか選択肢がない時代でした。そんな生活に変化をもたらしたのが、国防婦人会からの勧誘でした。
 「お国のためならば」と、姑から許しを得た片桐さんは、外に出て活動を始めました。
 母親が大阪で国防婦人会の活動をしていた、久保三也子さんです。母キクノさんは、大勢の前で銃後のあり方を堂々と説いていたといいます。当時は女性に参政権はなく、公の場で主婦が発言できる機会もほとんどありませんでした。
三也子さん
一生懸命になると思うよ、それまで母親なんて出番がなかったもん。投票権も何もないし、黙々と台所で働くのが女やと思って。生まれては親に従え、嫁しては夫に従え、老いては子に従えでしょ。男性のほうが優位だった。そんな時代」
 国防婦人会ができた当初、会は女性にとって社会参加の場ともなっていたのです。
 当時40代だった、江塚ことさん。
 ことさんの息子、栄司さんは父に小言を言われながらも、婦人会の活動を続ける母の姿を覚えています。
<国防婦人会を通して異なる文化や風習を持つ人に“愛国心”を>
さらに軍は国防婦人会に、より踏み込んだ役割を求めていました。その一つが、文化や風習が異なる人々に愛国心を持たせることです。
「北海道といえば直ちにアイヌを想像する。そのアイヌ婦人の全てが国婦会員として、銃後の守りに精進しておりますが、兵隊さんご苦労様と日本語も鮮やかに感謝の言葉を述べながら、まことに麗しい情景であります」(当時の記録映画「輝く国婦」より)
 満州国朝鮮半島、台湾などにも設立された国防婦人会。文化や風習の異なる人々を取り込むその先駆けとなったのが、沖縄でした。
 陸軍の機密文書には、沖縄に国防婦人会を設立した経緯が「沖縄は団結犠牲の美風に乏し、愛国運動を起して県民の覚醒を促すは刻下の急務」と記されていました。

 沖縄で最初に国防婦人会が設置されたのが、大宜味村でした。
 母親が村の国防婦人会で活動していたという人が見つかりました。山田親信(やまだ・ちかのぶ)さんです。 母の梅子さんは、小学校の教師をしながら、国防婦人会に所属していました。
 梅子さんは、村の女性たちと共に、沖縄の服装・琉装をやめ、たすき掛け姿で活動していました。さらに、方言をあらため、日本の標準語を広める活動も担っていたといいます。
親信さん
「教育者ということで、沖縄の文化とか方言もそうでしょうけど、ある意味では、追いやるような、標準語、普通語を励行するような運動にも関わっていたはずなんですが」
 親信さんは、活動に身を投じた母の胸の内を窺い知る文書を見つけました。当時、沖縄の女性が標準語への思いを綴った、新聞の投書です。
確かに本県は他県より立ち遅れました。文化の程度も低いところがあると思います。然(しか)し今の沖縄は、躍進日本と歩みをともにしようと一生懸命にやっているので御座います
 親信さんは、母が標準語教育を担ったのは、貧しい村の生活をよくしたい、という思いがあったからではないかと感じています。大宜味村では多くの人が本土への出稼ぎに出ていました。その時に直面したのが、言葉の壁だったのです。
親信さん
「標準語、普通語が通じないというのは、やはり大きなハンデととらえたと思いますね。自分たちが生きていく、生活を守っていくという視点からしたら、そのほうがよいと思ったから、やっぱりついていった部分はあると思うんですよね」
 当時、小学生だった男性は、村で標準語教育を受け、日本人としての自覚を強めたといいます。
平良俊政さん
「大宜味の婦人はずいぶん進んでいる。少し誇りに思った。要は日本人という誇りを持たされていたんじゃないか」
 その後、大宜味村は誰もが標準語を話せる模範村と、讃えられるまでになりました。
 こうして軍は、国防婦人会の女性たちを通して地域社会に入りこみ、戦争への協力体制を築いていったのです。
三重子さん
「戦争に出かけていって、働くのは男ばっかりじゃないぞ。女も働けよっていうこと。国防婦人会でパっとたすきかけて行ってくるからって、玄関出る時の母は別人のように思いましたね。私ができることは国防婦人会を一生懸命育てること、それ一心でやったと思います
 しかし、当初、女性たちの前向きな気持ちから始まった活動は、次第に息苦しいものになっていきます。
 国防婦人会で社会に出る喜びを感じていた、母キクノさん。娘の三也子さんは、戦争に協力するため金属を供出しあった時、近所同士の張り詰めた空気を感じたと言います。
三也子さん
「厳しかったよ。お互いがお互いを見ててん。あそこもっとあったはずや、言われるときもあるもん。隣同士で分かるもん。あそこ隠してはるでって。それが嫌でみんな出しとったわ。結局お互いがお互いを引っ張りあったんちゃう?そうなってまうのよ、どうしてもね。村八分になったら食べていかれへんもんね」
「(ボーガス注:息子の戦死に)涙を見せる女は、言うも悲しき情けない女、ということになる。自分の胸の中に収めておくという、そういう戦時中の女性の思いやわね。今の世の中では、情のない人間に思われるけれど、当時はしっかりとした母親やったって褒められる」
 戦時中、模範村として讃えられた大宜味村。長きに渡った戦争で、およそ1500人の村民が亡くなりました。婦人会を率いた梅子さんは、戦後村を離れ、誇りにしていた教職に戻ることはありませんでした。梅子さんはその気持ちを、戦後30年以上経って初めて文書に記していました。
「私は戦争と同時に教職を辞した。それは家庭の事情や、病身だったせいもあったが、別にもわけがあった。徹底的軍国主義教育を我が思想の如く振る舞い、生徒や婦人会、部落常会などでしゃべりまくった自分の行動が醜く、恥ずかしく、百八十度転換して再び教壇に立つ勇気が無かったのも、一つの理由だった」
親信さん
「やっぱり、自分がやってきたことに対する後ろめたさがあったから、なかなか帰れなかったのかな。よかれと思ってやったことが、どんな結果を生むかなんて、普通は神様でないと分からないことだと思うし。そういう意味では、日々の中に見えない危険性というか、気がついたら後戻りできなくなってしまうんじゃないかって」

 新刊紹介:「前衛」2021年9月号 - bogus-simotukareのブログでも紹介しましたが大串先生は重要テーマとして「植民地(典型的には朝鮮、台湾、満州国、東南アジアなど外国人だが、本土の文化とかなり性格が違うアイヌ、沖縄人なども想定している)の銃後」をあげていましたがNHK番組はそれ(俺が青字強調した部分)にも若干触れていますね。
 また、大宜味村の話などからはやはり「ある種の自主性」があったことがうかがえます。

WEB特集 ブレイディみかこが読み解く「銃後の女性」~エンパシーの搾取 | NHKニュース
 戦時下、「贅沢は敵だ」がスローガンに掲げられた時代、かっぽう着にタスキをかけ、出征兵士を日の丸を振って見送る女性たちの姿が見られました。「社会の役に立ちたい」と「国防婦人会」の活動にのめり込み、結果的に戦争に協力してしまった女性たち。
 今夜(14日夜)放送の「NHKスペシャル 銃後の女性たち~戦争にのめり込んだ“普通の人々“~」では、戦争に巻き込まれていった彼女たちの知られざる思いをひもときます。
 英国在住のライター・コラムニストのブレイディみかこさん*11は「エンパシーの搾取*12」をキーワードに、戦時下の女性たちから、私たち現代の女性が学ぶべきことがあると話してくれました。
NHKスペシャル「銃後の女性たち」取材班)
※「エンパシー」…他者の感情や経験を理解する力。多様化する社会では必須とされる。

 次に前衛、経済のインタビューについて、今回の米田論文と関係すると「俺が感じたところ」だけ紹介すれば以下の通りです。

新刊紹介:「前衛」2021年9月号 - bogus-simotukareのブログ
 架空問答方式で書いてみます。架空問答ですので「大筋で内容は正しい」と思いますが、一言一句同じ訳ではありません。

聞き手
 大串先生が日本の『銃後』を考える上で重要と思うことや興味関心があることについてお聞かせ下さい。
大串
 銃後と言っても「日中戦争(あるいは太平洋戦争)開始から終戦まで」、銃後に変化がなかったわけではありません。「銃後の変化、推移」に着目する必要があります。
 わかりやすい例としては「空襲」「学童疎開」「学徒出陣」「勤労動員」がよく「銃後の例」として連想されるかと思いますが、これはすべて日本が敗色濃厚となった「戦争末期の出来事」なのです。サイパンが陥落して日本に爆撃できるようになってから「空襲」「学童疎開」のわけです。戦争末期に「兵隊や労働者」が足りなくなったが故の「学徒出陣」「勤労動員」であって、最初から「学徒出陣」「勤労動員」していたわけではない。
 戦争当初は「そうした悲惨さ」は全くなく、だからこそ「対米開戦は当初多くの国民に支持された」わけです。
(中略)
 なお、「銃後」というのは私は「小権力者が多数生まれた時代」あるいは「つるし上げの時代」と言っていいのではないかと思います。
 あえて言えば「日本版文革*13」と言っていいんじゃないか。
 何のことか。銃後について書かれたフィクション(小説、テレビドラマ、映画、漫画など)、ノンフィクションを読んだり、見たりした方はご存じでしょうが「婦人会や隣組の幹部」が「自分より下の立場の人間」の言動について「危機意識が足りない」などとしてつるしあげる。総力戦なのでそういうことが必要になってくるし求められる。
 漫画「はだしのゲン」でゲン一家を散々いじめた鮫島伝次郎はフィクションで、勿論誇張がありますが、つるし上げ自体はあったわけです。あの戦争を考えるときにはそうしたことにも注意が必要でしょう。「つるし上げへの恐怖」で戦争推進に従ったという面は明らかにある。そして「つるし上げの加担者」という意味では庶民にも「一定の戦争責任」はあるわけです。
 というか、戦争でも独裁でもそうですが、「上からの強制」だけでは多くの場合、うまくいきません。可能な限り「下の同意」を得ようとする。つまり「何らかの飴を与える」「ある程度自主性を与える(婦人会、隣組の幹部はその一例です)」などといった面が明らかにある。
 1980年代以降に、吉見義明*14『草の根のファシズム』(1987年、東京大学出版会)など、歴史学において「民衆の戦争協力」にスポットが当たるようになるのはそうした理解があります。民衆とは「単なる被害者ではなく加害者でもあった」。
この点は前衛今月号の笠原先生のインタビューも指摘しているところだと思います。
 例えば、コロナ禍(その深刻さから戦争に例えられることもありますが)の「自粛警察」は「銃後でのつるし上げ(日本版文革)の一種」でないか。そうして考えれば「銃後」は決して今の日本社会と無関係ではない。
 また銃後と言った場合、私は以下について注意する必要があるかと思います。
(中略)
【3】『アジア太平洋戦争の銃後』が戦後に与えた影響
(中略)
 産業報国会では、労働者の意欲向上のために、今で言うQC(品質改善)活動(トヨタ自動車のいわゆる「カイゼン運動」など)や企業内サークル文化活動が行われていました。つまりは「産業報国会と単純に直線でつなげること」はできませんが、戦後のQC(品質改善)活動や企業内サークル文化活動のルーツの一つは銃後の産業報国会だったわけです。
 有名な「うたごえ運動」も「企業内サークル」を基盤の一つにしており、皮肉にも「左翼文化運動」うたごえ運動は銃後にルーツの一つがあったわけです。
あえて言えば、「戦争を阻止するどころか翼賛した、戦前の企業内サークル活動」への「労働活動家の反省」が戦後の「うたごえ運動」を生み出した「要因の一つ」かもしれません。また、そういう意味では「産業報国会それ自体」を美化する気はありませんが、「うたごえ運動」など「戦後の企業内サークル」のルーツの一つとなったという点を考えれば、過大評価は禁物ですが「全否定はできない」のではないか。
 このあたりは今後の研究が必要かと思います。

 「つるし上げ」も「ある種の自己実現」でしょう。方向性は明らかに間違っていますが。また銃後には戦後の「QC(品質改善)活動(トヨタ自動車のいわゆる「カイゼン運動」など)や企業内サークル文化活動」「企業内サークル活動を一つの基盤とした左翼文化運動『うたごえ運動』」につながる「ある種の自主性」があったわけです。その自主性が「戦争反対」「早期講和」「政府批判」などの方向性にいかなかったことこそが「戦前日本の限界」でしたが。

新刊紹介:「経済」2021年9月号 - bogus-simotukareのブログ
 架空問答方式で書いてみます。架空問答ですので「大筋で内容は正しい」と思いますが、一言一句同じ訳ではありません。

聞き手
 今の中国をどう見ますか?
久保氏
(前略)
 なお、多くの中国国民が「中国共産党の支配」を一応は「良き物」として受け入れているらしいことについては以下の浅井基文論文を紹介しておきます。中国に限った話ではありませんが独裁とは通常「鞭だけでは維持できません」。「飴が存在し、国民がそれなりに支持してる」という事実認識が必要です(もちろんこれは『国民が支持してるから独裁に問題はない』とか、『独裁を支持する国民が愚かだ』とかそういう話ではなく単なる事実の指摘です)。
中国共産党統治に対する中国人の満足度|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ2020.7.20

 なお、珍右翼・高世仁に突っ込む(2021年8/10日分)(副題:今日も高世に悪口する) - bogus-simotukareのブログでは

id:Bill_McCrearyさん
 それはそうとこの特集
>『戦場と銃後の体験』
は面白そうですね。私も8月15日には戦争の記事を書くようにしていますが、この件を記事にしたら面白そうです。記事にさせていただいてよろしいでしょうか。実は笠原氏*15の本は、図書館から借りたのですが、全く読めませんで返しました。また借り直してみたいと思います。大串氏の本は、さっそく読んでみたいですね。

>というか、戦争でも独裁でもそうですが、「上からの強制」だけでは多くの場合、うまくいきません。可能な限り「下の同意」を得ようとする。つまり「何らかの飴を与える」「ある程度自主性を与える(婦人会、隣組の幹部はその一例です)」などといった面が明らかにある。

 これはほんとそう思いますね。ポル・ポトまで行くとそれ以前ですが、文革スターリンの粛清も、なんだかんだいったって、それに対して支持も多かったわけですしね。文革における学生たちの高揚感は、彼ら自身のやりがいみたいなものなしにはありえないでしょう。

という好意的コメントを幸いにも頂きましたのでこの機会に紹介しておきます。。
 「戦争や独裁は多くの場合、下からの支持を得なければやっていけない」「庶民は被害者であると共に加害者」という面は非常に重要かと思います。
 未読ですが、小林信彦*16『ぼくたちの好きな戦争』(1993年、新潮文庫)も「国民が戦争が好きでなければ戦争できない」という様な話なのでしょうし、その点は米田氏、大串氏、久保氏などと認識は近いのでしょう。
 この機会に、ぜひ『前衛・大串インタビュー』『経済・久保インタビュー』をお読み頂ければ幸いです。
 買って頂いた上で「その他の記事も読んでもらえれば」俺的にベストですが、「インタビューだけ」を「図書館で読む」や「本屋で立ち読み」でも一向に構いません。
 それはともかく、「悲惨さ」だけで戦争を語るのではなく「戦争」での「栄光」「喜び」「楽しさ」「自由」「自己実現」「開放感」なども語る必要があるでしょう。もちろん「産経や日本会議」のような戦前賛美、侵略正当化と言う意味ではなく「真に反省するため」の前提作業としての話です。
 たとえそれらが「偽りの間違ったもの」であれ、そうした「栄光」「喜び」などで日本人は戦争に突入した。「苦しみやつらさ」しかないなら誰も戦争など選択しません。
 そうした「戦争の栄光」を理解しなければ「日本人が戦争に突入した理由」は的確には理解できないでしょうし、それでは戦争理解として「一面的で浅い」でしょう。当然ながら「反省」としても充分とは言えないでしょう。
 ということでとりあえず、これでひとまず話を終わりにします。

*1:著書『もうひとつのチベット現代史:プンツォク=ワンギェルの夢と革命の生涯』(2006年、明石書店)、『チベット高原の片隅で』(2012年、連合出版)など

*2:山梨県立女子短期大学名誉教授。NPO平塚らいてうの会」会長。「らいてうの家」館長。著書『平塚らいてう』(2002年、吉川弘文館)。個人ブログ米田佐代子の「森のやまんば日記」 | A great WordPress.com site米田佐代子 - Wikipedia参照)

*3:信州大学教授。著書『「銃後」の民衆経験:地域における翼賛運動』(2016年、岩波書店

*4:信州大学特任教授。著書『戦間期中国「自立への模索」:関税通貨政策と経済発展』(1999年、東京大学出版会)、『戦間期中国の綿業と企業経営』(2005年、汲古書院)、『社会主義への挑戦 1945-1971(シリーズ中国近現代史4)』(2011年、岩波新書)、『日本で生まれた中国国歌:「義勇軍行進曲」の時代』(2019年、岩波書店)、『現代中国の原型の出現:国民党統治下の民衆統合と財政経済』、『20世紀中国経済史論』(以上、2020年、汲古叢書)など

*5:1931~2018年。著書『兵たちの戦争:手紙・日記・体験記を読み解く』(2000年、朝日選書)、『「黒い霧」は晴れたか:松本清張の歴史眼』(2006年、窓社)、『在郷軍人会』(2009年、岩波書店)。松本清張記念館名誉館長(松本清張の元担当編集者(元文春社員))の藤井康栄は妻(藤井忠俊 - Wikipedia参照)。

*6:1985年、岩波新書

*7:1940~2019年。敬和学園大学特任教授。著書『越えられなかった海峡:女性飛行士・朴敬元の生涯』(1994年、時事通信社)、『まだ「フェミニズム」がなかったころ:1970年代女を生きる』(1994年、インパクト出版会)、『天皇制とジェンダー』(2002年、インパクト出版会)、『ひろしま女性平和学試論:核とフェミニズム』(2002年、家族社)、『戦後史とジェンダー』(2005年、インパクト出版会)、『ヒロシマとフクシマのあいだ:ジェンダーの視点から』(2013年、インパクト出版会)、『「銃後史」をあるく 』(2018年、インパクト出版会

*8:中国社会科学院「日本研究所」日本社会研究室主任研究員(胡 澎 - こぶし書房参照)

*9:「2018年、こぶし書房」。こぶし書房と言えば『革マル最高幹部・黒田寛一(1927~2006年)』の著書を刊行する『明らかに革マルと関係のある出版社』ですがこうした『革マルと関係ない人文系著書』も出す、なかなか面白い出版社です。

*10:北海道大学名誉教授。中央大学名誉教授。著書『アーベル指輪のおまじない:登校拒否児とともに生きて』(1992年、岩波書店)、『不登校・登校拒否』(1993年、岩波ブックレット)、『いじめ、不登校、暴力』(1997年、岩波ブックレット)、『子どもの心の不思議』(1997年、柏書房)、『教育臨床心理学』(2002年、東京大学出版会)、『ひきこもりからの出発』(2006年、岩波書店)、『子ども理解のための十二の月の物語』(2008年、新科学出版社)、『魂への旅路:戦災から震災へ』(2014年、岩波書店)、『ガーベラを思え:治安維持法時代の記憶』(2021年、花伝社)など

*11:著書『ヨーロッパ・コーリング:地べたからのポリティカル・レポート』(2016年、岩波書店)、『労働者階級の反乱:地べたから見た英国EU離脱』(2017年、光文社新書)、『花の命はノー・フューチャー』(2017年、ちくま文庫)、『子どもたちの階級闘争:ブロークン・ブリテンの無料託児所から』(2017年、みすず書房)、『女たちのテロル』(2019年、岩波書店)、『THIS IS JAPAN:英国保育士が見た日本』(2019年、新潮文庫)、『ブロークン・ブリテンに聞け』(2020年、講談社)、『ワイルドサイドをほっつき歩け:ハマータウンのおっさんたち』(2020年、筑摩書房)、『女たちのポリティクス:台頭する世界の女性政治家たち』(2021年、幻冬舎新書)、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2021年、新潮文庫)、『他者の靴を履く:アナーキック・エンパシーのすすめ』(2021年、文芸春秋)など

*12:まあ「搾取」といえば、いわゆる「やりがい搾取」の方を俺は、国防婦人会から連想しました。「無謀な戦争で多数の死者を出した」戦前日本は「過労死続出のブラック企業」みたいなもんですしね。

*13:実はこれは俺が思いついたことを書いたのであって、大串先生の言葉には「文革」云々は出てきませんが、架空問答なのでご容赦願います。このほかにも俺の架空問答には「俺が思いついた言葉」が結構出てきますが、その点もご容赦下さい。

*14:中央大学名誉教授。著書『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書)、『毒ガス戦と日本軍』(2004年、岩波書店)、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(2010年、岩波ブックレット)、『焼跡からのデモクラシー:草の根の占領期体験(上)(下)』(2014年、岩波現代全書)、『買春する帝国:日本軍「慰安婦」問題の基底』(2019年、岩波書店)など

*15:都留文科大学名誉教授。著書『アジアの中の日本軍』(1994年、大月書店)、『日中全面戦争と海軍:パナイ号事件の真相』(1997年、青木書店)、『南京事件』(1997年、岩波新書)、『南京事件三光作戦』(1999年、大月書店)、『南京事件と日本人』(2002年、柏書房)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史』(2007年、平凡社新書→増補版、2018年、平凡社ライブラリー)、『「百人斬り競争」と南京事件』(2008年、大月書店)、『日本軍の治安戦』(2010年、岩波書店)、『第一次世界大戦期の中国民族運動』(2014年、汲古書院)、『海軍の日中戦争』(2015年、平凡社)、『日中戦争全史(上)(下)』(2017年、高文研)、『憲法九条と幣原喜重郎日本国憲法の原点の解明』(2020年、大月書店)など

*16:1959年、ミステリ雑誌『ヒッチコックマガジン』(宝石社)の編集長に、江戸川乱歩の後押しで就任。1963年、宝石社を解雇された(表向きは自主退職)。その後、映画、ミステリ、テレビなどの評論執筆や日本テレビ『九ちゃん!』、TBS『植木等ショー』などテレビバラエティ番組の構成作家業のかたわら、1964年に中原弓彦名義で処女長篇『虚栄の市』を河出書房から刊行(後に小林信彦名義で角川文庫に収録)。1966年には学童集団疎開時の陰惨な体験を描いた第二作『冬の神話』を講談社から上梓(後に角川文庫に収録)。なお、この作品から、本名(小林信彦)で発表するようになった。著書『日本の喜劇人』(1982年、新潮文庫、後に大幅に加筆して『決定版・日本の喜劇人』(2021年、新潮社))、『世界の喜劇人』(1983年、新潮文庫)、『地獄の映画館』(1984年、集英社文庫)、『笑学百科』(1985年、新潮文庫)、『コラムは歌う:エンタテインメント評判記 1960~63』、『コラムは踊る:エンタテインメント評判記 1977~81』、『地獄の読書録』(以上、1989年、ちくま文庫)、『時代観察者の冒険:1977~1987全エッセイ』(1990年、新潮文庫)、『1960年代日記』(1990年、ちくま文庫)、『コラムは笑う:エンタテイメント評判記 1983~88』(1992年、ちくま文庫)、『コラムにご用心:エンタテインメント評判記1989~92』、『私説東京放浪記』(以上、1995年、ちくま文庫)、『喜劇人に花束を』(1996年、新潮文庫)、『現代「死語」ノート』(1997年、岩波新書)、『映画を夢みて』(1998年、ちくま文庫)、『和菓子屋の息子:ある自伝的試み』(1999年、新潮文庫)、『現代「死語」ノート(2)』(2000年、岩波新書)、『天才伝説 横山やすし』(2001年、文春文庫)、『コラムは誘う:エンタテインメント時評1995~98』(2002年、新潮文庫)、『回想の江戸川乱歩』(2004年、光文社文庫)、『名人:志ん生、そして志ん朝』(2007年、文春文庫→2018年、朝日文庫)、『〈後期高齢者〉の生活と意見』(2008年、文春文庫)、『映画が目にしみる〈増補完全版〉』(2010年、文春文庫)、『おかしな男 渥美清』(2016年、ちくま文庫)、『私の東京地図』(2017年、ちくま文庫)、『アメリカと戦いながら日本映画を観た』(2019年、朝日文庫)など(小林信彦 - Wikipedia参照)