特集「幕藩関係論を展望する」
無能な俺でも説明できる範囲で紹介しておきます。
◆幕藩関係論における本分家研究と課題(野口朋隆*1)
(内容紹介)
分家大名(本家大名の親族が何らかの理由で大名として自立)は「支藩」、本家大名は「本藩」とも言います。
『近世分家大名論:佐賀藩の政治構造と幕藩関係』(2011年、吉川弘文館)の著書がある、野口氏の主な研究対象である佐賀藩には小城藩、蓮池藩、鹿島藩という支藩がありました(支藩 - Wikipedia参照。支藩 - Wikipediaでは小城藩など「佐賀藩の支藩」以外にもいろいろな支藩が確認できます)。
有名な分家大名としては
◆徳川将軍家の分家大名である御三家(尾張藩、紀州藩、水戸藩。初代将軍・徳川家康の息子が初代藩主)、御三卿(清水家、田安家、一橋家。8代将軍・徳川吉宗の息子が初代当主)
◆忠臣蔵の赤穂藩・浅野家(広島藩・浅野家が本家)
等があります。
なお、御三卿は「10万石」で大名(1万石以上が大名)に該当するものの、一般的な大名と違い、「江戸城に住み、独自の居城を持たない」と言う特殊性がありました。このような「独自の居城を持たない大名」を「当主(長男)の家に居候し、独自の居所を持たない部屋住み(旗本、御家人等の二男、三男など)」に似ているとして、野口氏は「部屋住み大名」と呼んでいます(こうした部屋住み大名は「御三卿が最も有名なだけ」であり、他の大名家にもあったようです)。
そして「転封(国替え)」「部屋住み大名の存在」を「室町時代の守護大名」「戦国大名」と違い「土地とのつながりが弱い江戸時代の大名の特質」と評価します。
また、分家大名は「本家から所領を分けて独立することが多い」ため、多くの場合「本家大名と分家大名の領土」は近接しています*2が、
◆長岡藩・牧野家(今の新潟県長岡市)と笠間藩・牧野家(今の茨城県笠間市)
長岡藩が本家。
◆仙台藩・伊達家(今の宮城県仙台市)と宇和島藩・伊達家(今の愛媛県宇和島市)
仙台藩が本家。伊達秀宗(仙台藩初代藩主・伊達政宗の庶子)が宇和島藩・伊達家の初代藩主。
当初は政宗の男子が秀宗しかいなかったため秀宗が「政宗の後継者扱い」されていたが、その後、政宗の正室「愛姫」が伊達忠宗を産んだことで忠宗が仙台藩2代藩主となった。
大坂冬の陣で秀宗が徳川方として従軍すると、幕府は秀宗の忠義に報いるとの理由で宇和島藩を与えた。ただし、幕府の有力外様大名統制政策の一つで、伊達家を東西に分断しようとしたとも言われている。
『仙台市史 通史5 近世3』によると、宇和島藩3代藩主・伊達宗贇(仙台藩3代藩主・伊達綱宗の三男)が仙台藩主家から直接でなく、仙台藩主の陪臣である石川宗弘の養子となってからの「宇和島藩2代藩主・伊達宗利(宇和島藩初代藩主・伊達秀宗の三男)」との縁組だったほか、4代藩主・伊達村年(宇和島藩3代藩主・伊達宗贇の三男)が仙台藩に伺いを立てながら藩政を行い、かえって仙台藩から低く見られるようになったため、寛延元年(1748年)に5代藩主・伊達村候(宇和島藩4代藩主・伊達村年の長男)が、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとした。具体的には、仙台藩5代藩主「伊達吉村」から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、岡山藩主・池田継政が妻「村子(仙台藩5代藩主・伊達吉村の次女)」を離縁したことで、本家伊達家と、当時、絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。老中・堀田正亮*3の仲裁で、表面上は和解したが、仙台藩公式記録『治家記録』に「陽に親しく交わり給うといへども、陰には互いに睦まじからず」と記すレベルにまで関係は冷却化した(宇和島藩 - Wikipedia参照)。
など距離が離れてる場合*4もあり、その場合は「本家大名の影響」がどうしても弱まるため、「本家が上」と言う価値観は必ずしも当然では無かった、また、笠間藩の場合
◆牧野貞長(2代藩主)
奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中を歴任
◆牧野貞直(8代藩主)
奏者番、寺社奉行、大坂城代を歴任
と歴代藩主が幕府要職を歴任したため、そうした意味でも「本家が上」と言う価値観は弱かったとみられると指摘されます。
なお、分家大名とは性格が違いますが「1万石以上の領土を持つ藩主でありながら、大名扱いされない特殊な存在」として以前付家老について、他(「歴史評論」2024年7月号の補足) - bogus-simotukareのブログで触れた「御三家の付家老」を指摘しておきます。
「藩主でありながら、上の立場である御三家や本家大名の意思を無視できない」という点では「付家老(御三家に対し家臣の立場)」「分家大名」には共通点があるとも指摘がされています。
参考
御三卿 - Wikipedia
御三卿の創設理由については、徳川吉宗が、自身の血統をもって将軍家を独占していくために定めたとする解釈、あるいは御三家の勢力を抑えるために興したとする解釈が従来行われてきた。
しかし辻達也は、吉宗の当初の思惑としては、将軍の庶子を大名として独立させていっては際限がなく、領地も足りなくなるため、宗武(吉宗の三男。田安家当主)と宗尹(吉宗の四男。一橋家当主)については部屋住みの扱いにして将軍家に留めておき、しかるべき大名家へ養子として送り込むつもりだったのではないかと推測し、吉宗が自身の血統で将軍職を独占するべく御三卿を創設したとする解釈は結果論であると評している。吉宗在世当時の幕領には、御三家並みの広大な藩領を新たに将軍の庶子へ分与できる余裕がすでになく、また将軍の庶子を10万石という中大名規模で独立させるとむしろ格式を下げるおそれがあったため、このように特異な処遇になったといえる。
御三卿は独自の城を持たずに江戸城内の屋敷に居住し、賄料(経費)は幕領から宛てがわれ、家臣の多くは幕臣が務めるなど、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍の親族にとどまるものだった。御三卿は適当な養家となる大名家が現れるまでの間、将軍の庶子を待機させておく仕組み、いわば「将軍家の部屋住み」が実態であり、御三卿を大名のうちに数えない解釈もある。
水戸家から一橋家に入った一橋慶喜(後の将軍・徳川慶喜)も「安政の大獄」で隠居謹慎を命じられた際に「抑(そもそも)三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたように、御三卿出身者が自らの立場を「将軍家の部屋住み」と認識していたことがうかがえる。とはいえ、一般的な部屋住みと異なって社会的地位は高く、官位を受けたり正室を迎えたりすることができた。
御三卿の領地は幕領より「賄料」として支給され、10万石と定められた。賄料を幕領から充てる形をとったのは、大名として独立させると幕領が不足するおそれがあり、立藩を断念したためである。御三卿領は関東と畿内周辺の数か国に分散しており、これらの郡代の下に置かれた独自の代官所によって行われた。例として、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋など、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋などがある。御三卿の家臣団は、幕府から出向した幕臣(旗本・御家人)で、幕府の役職に復帰可能な「御付人」(おつけびと)と、幕臣の次三男で御三卿に出向したきりとなる「御付切」(おつけきり)、独自に採用した「御抱入」(おかかえいれ)の3種に区分された。俸禄の支給について、御付人は直参として幕府から直接受け、幕臣でありながら陪臣として扱われる御付切は御三卿を介して幕府から受け取り、同じく陪臣とされる御抱入の俸禄は御三卿の賄料から支払われるなどの違いがあった。
◆米市場をめぐる幕藩関係(山本一夫*5)
(内容紹介)
年貢米以外にも換金作物(衣料の原料になる木綿、油の原料になる菜種、紅花など)もあったとは言え、年貢米を売ることで得られる収入を主たる収入源としていた藩にとって、江戸、大阪等の大都市圏での「米の高値」は望ましい物だったが、幕府にとっては「米の高値」は「貧民による米穀商襲撃(打ち壊し)→社会不安助長」の懸念があり、その点で、幕府と藩の利害は対立した。
幕府は「米の高騰」の際には諸藩に「廻米増加令」を出し、「米価を下げるため、江戸や大阪に廻す米を増やすよう」諸藩に要請したが、諸藩は「米価高騰」が藩の利益になるため、「米が不作で、当藩でも米価が高騰している」など、口実をつけて必ずしもこれに応じなかった。
◆江戸城大奥からみる幕藩関係(畑尚子*6)
(内容紹介)
老中など希望する要職への就任、希望する土地への転封、領地の加増、朝廷によって任命される官位の昇進など「自らの願いを叶えるため」大名家は「大奥に女中を送り込む」「大奥に献上品を差し出す」などし大奥との関係を構築し、大奥を通して情報収集や政治工作を行うことがあった。
例えば◆所替交渉からみる幕藩関係(北村厚介)が触れる「庄内藩への転封実現」のための、川越藩主「松平斉典」による
◆斉省の母であるお以登の方
◆家斉の愛妾「お美代の方」
への働きかけもそうした「大奥を通じた政治工作の一例」だった。
但し、「大奥への政治工作」は多額の金銭を必要とする物であり、藩の財政難からそうした政治工作を行わない大名も少なくなかった。
◆松前藩主宛将軍印判状のライフサイクル(上田哲司*7)
(内容紹介)
アイヌとの交易独占を認めた「松前藩主宛将軍印判状」について論じていますが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
参考
松前慶広、家康より黒印状を受ける。松前藩、北方の交易権独占
1593年(文禄2年)、蠣崎慶広*8は、豊臣秀吉から志摩守に任じられるとともに蝦夷地に来航する各地の船に課税する権利を与える朱印状を得た。さらに、1604年(慶長9年)、将軍徳川家康は、松前慶広に対して、蝦夷地での通商、交易を独占的に行えることを承認した黒印状を与えた。
松前慶広 - Wikipedia
慶長9年(1604年)、家康から商人が蝦夷地に渡って通商行為を行うことを禁じる黒印状を得た。この家康黒印状には支配領域が示されず、石高の表示もないもので他に対馬藩にしか例のないものであるが、これによって蝦夷地での交易の独占が認められた
◆所替交渉からみる幕藩関係(北村厚介)
(内容紹介)
所替とは転封 - Wikipedia(国替、移封とも言う)のことです。
以前、松本清張時代短編セレクション『清張の牢獄』(宮部みゆき、有栖川有栖、北村薫編、2025年、文春文庫) - bogus-simotukareのブログで幕府との交渉によって「前橋藩から姫路藩」へ転封したことが原因で起こった酒井騒動(姫路騒動とも言う。転封反対派の家老・川合勘解由左衛門定恒が、転封を推進した家老・本多民部左衛門光彬や用人・犬塚又内を殺害した後、自らも自害)、及び『酒井騒動を取り上げた松本清張の小説「酒井の刃傷」』を取り上げましたが、
1)転封しなかった大名(加賀藩・前田家、長州藩・毛利家、薩摩藩・島津家など)
2)処罰としての転封(多くは減封)
もある一方で「より実入りの良い藩(前橋藩から姫路藩)を目指した酒井家の転封」のような「プラスの転封」を目指し「藩が幕府と交渉して転封を目指す場合(酒井家のように成功する場合もあれば勿論失敗もあった)」もありました。
この点、時代劇、時代小説でよくネタにされるので、時代劇、時代小説ファンには有名な「プラスの転封」は「天保の改革」で知られる老中「水野忠邦」の「唐津藩から浜松藩への転封(いわゆる三方領地替え)」があります。
あるいは転封 - Wikipediaも紹介していますが
◆義民が駆ける - Wikipedia
山田洋次監督映画『たそがれ清兵衛*9』(2002年公開、藤沢の同名小説の映画化)、『隠し剣鬼の爪』(2004年公開、藤沢の同名小説の映画化)、『武士の一分』(2006年公開、藤沢小説『盲目剣谺返し』の映画化)等の原作者として知られる作家・藤沢周平の時代小説。いわゆる天保義民事件 - Wikipediaがテーマ。なお、藤沢は荘内藩があった山形県鶴岡市の出身。
【あらすじ】
江戸時代後期、財政難に苦しむ川越藩主・松平斉典は、大御所(前将軍)徳川家斉の息子・斉省*10を養子*11に迎え、その生母おいとの方に働きかけ、また、幕府首脳にも多額の賄賂をばら撒いた上で、川越藩よりも経済状況の良い荘内藩への国替えを画策した。荘内藩主・酒井忠器を長岡藩に、長岡藩主・牧野忠雅*12を川越藩に、川越藩主・松平斉典を荘内藩に移す三方領地替えという形で突如幕府から国替を命じられた荘内藩では農民たちが江戸に上り諸大名や幕府役人に「転封反対」の直訴を試みた。藩主擁護の直訴は前代未聞として、庄内藩主・酒井忠器への賞賛と同情が集まった。天保12年閏1月7日に大御所の家斉が病死すると、外様大名一同が連名で領地替えに抗議する伺書を提出するなど、諸藩の間でも転封に疑問の声が上がり始めた。こうした情勢の中で大御所・家斉の喪が明け、政治の実権が将軍・徳川家慶の手に移ると、転封を巡る状況は大きな転機を迎えた。家慶は三方領知替えの撤回を決断し、老中水野忠邦を呼び出し、領知替えの中止を命じた。
【事件の背景】
天保義民事件(1840年)の背景には荘内藩主・酒井氏を支持する領民の動きを幕府が抑えきれなかったこともあるが、後に「天保の改革」と呼ばれる老中・水野忠邦の幕政改革に対する諸大名や民衆の不満の高まりを危惧した将軍家慶の政治的判断があったと考えられている。
天保義民事件(1840年)では自らの政策(三方領知替え)を否定されながらも老中に留まった水野だが、その3年後(1843年)には上知令の挫折を契機に老中辞職に追い込まれ失脚した。
も「プラスを狙った転封」の一例です。
今回の北村論文では「藤沢小説」のネタになった「国替え計画」を川越藩主「松平斉典」の観点から論じています。
松平斉典 - Wikipediaにも一部書いてありますが、松平斉典は「将軍(後に大御所)家斉」の息子・斉省を養子にすると共に
◆斉省の父である将軍(後に大御所)家斉、母であるお以登の方
◆老中首座の水野忠成*13(忠成死後は老中首座の水野忠邦)
◆御側御用取次の水野忠篤
文政4年(1821年)に将軍・徳川家斉によって御側御用取次に取り立てられ権勢を振るうが、家斉の逝去後、天保12年(1841年)、老中・水野忠邦によって公金横領などの罪状で罷免され、旗本寄合席(無役)に左遷される。さらに翌天保13年(1842年)には信濃国諏訪藩に配流された。天保14年(1843年)、配流先の諏訪藩で死去(水野忠篤 (美濃守) - Wikipedia参照)
◆家斉の愛妾「お美代の方」や彼女の養父で、御小納戸頭取の要職にあった中野清茂
一般には中野碩翁(中野石翁)の名で知られる。家斉政権下で権勢を極めるが、家斉死後、「諏訪に配流された御側御用取次の水野忠篤」同様に、老中・水野忠邦によって失脚させられる。
松本清張の小説の映像化である『かげろう絵図』(1959年、大映映画、演:滝沢修)、(1983年、フジテレビドラマ、演:山形勲)など、時代劇映画、テレビドラマに悪役として登場してるので時代劇、時代小説ファンにはご存じの方も多いでしょう。(中野清茂 - Wikipedia参照)
等「幕府中枢」に政治工作を行うことで「一度は庄内藩への転封命令を出させること」に成功します(勿論、幕府要人への賄賂バラマキもしてるし、江戸時代においても「今の自民党」のように賄賂が横行してることにはげんなりしますが)。
但し1)将軍の息子を養子にする、2)幕府中枢に賄賂をばらまく等しても、「庄内藩への転封」は当初の「松平斉典の希望とは異なっていたこと(当初は姫路藩への転封を、次に転封無しの川越藩への加増を希望)」が指摘されます。
幕府には幕府の考え、立場があり、1)将軍の息子を養子にする、2)幕府中枢に賄賂をばらまく等しても、川越藩の希望を何でも叶えてやったわけでは無かった。
「庄内藩への転封」はむしろ幕府側から提案したとみられ、それを松平斉典の側は受け入れたわけです。とはいえ藤沢小説が描くように結局、この計画は挫折しますが。
【参考:天保義民事件(1840年)】
松平斉典 - Wikipedia参照
はじめ斉典は老中首座の水野忠成に播磨姫路藩への転封を願ったが、工作の途中で忠成が急逝したため、その願いが果たせずにいた。次いで、大御所(前将軍)家斉の御側御用取次の水野忠篤や、養子に迎えた家斉の息子・斉省の生母お以登の方を通じて工作し、商業が栄え肥沃な庄内平野を持つ庄内14万8000石への転封の幕命を出させることに成功した。庄内藩主酒井忠器は越後長岡藩へ、越後長岡藩主牧野忠雅は川越藩へ転封されることになった(三方領知替え)。
しかし、酒井家を慕う庄内農民が猛反発し、幕命撤回という前代未聞の結末となり、転封は中止された。
【参考:水野忠邦の三方領地替え(唐津藩から浜松藩)】
水野忠邦 - Wikipedia
忠邦は幕閣として昇進する事を強く望み、多額の費用を使っての猟官運動(俗にいう賄賂)の結果、文化13年(1816年)に奏者番となる。忠邦は奏者番以上の昇格を望んだが、唐津藩が長崎警備の任務を負うことから昇格に障害が生じると知るや、家臣の諫言を押し切って翌文化14年(1817年)9月、実封25万3,000石の唐津から実封15万3,000石の浜松藩への転封を自ら願い出て実現させた(三方領地替え)。この国替顛末の時、水野家家老・二本松義廉が忠邦に諌死をして果てている。また唐津藩から一部幕府領に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための賄賂として使われたのではないかという疑念と、幕府領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。
この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより文化14年(1817年)に寺社奉行となる。幕府の重臣(寺社奉行)となったことで、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。
その後、将軍・徳川家斉のもとで頭角を現し、文政8年(1825年)に大坂城代となる。文政9年(1826年)に京都所司代に、文政11年(1828年)に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。
天保10年(1839年)に老中首座となった。
三方領地替え (1817年) - Wikipedia参照
浜松藩主井上正甫を棚倉藩へ、棚倉藩主小笠原長昌を唐津藩へ、唐津藩主水野忠邦を浜松藩へ転封した。
◆唐津藩主・水野忠邦の出世欲
唐津藩主は、長崎奉行を補佐しながら異国船の警固を担当する長崎見廻役につくために、幕府の重役にはつくことができない立場であった。昇進を目指す忠邦にとって、唐津藩主という立場は不都合であった。
一方、忠邦が転封を希望した浜松藩は「松平信祝(将軍・徳川吉宗時代)」「井上正経(将軍・徳川家重時代。棚倉藩へ転封された井上正甫の祖父)」と過去に藩主が老中となっており、「出世城」と称されていた。
浜松藩と唐津藩は表高こそ等しく6万石であったが、実高は20万石を超えるともいわれていた唐津藩から、実高も表高同様に6万石である浜松藩への転封は水野家にとって減収を招くことが明らかであった。さらに、「移転費用」など、「転封に要する費用負担」がさらなる財政悪化を招くことが危惧された。
財政改革を主導していた家老・二本松義廉は、転封に反対したが「一度は老中となり、天下の政治を料理したいのが畢生の念願である。そのために願った国替えであるのに反対するのか」として聞き入れなかった。義廉はこののち、抗議の自害をしたという。
◆浜松藩主・井上正甫の不祥事
井上正甫は、酒に酔って農家に押し入ってその妻を犯し、それを見つけた夫ともみ合いになった。金銭を渡し口封じをしたものの、噂が知れ渡り、老中・松平信明(三河国吉田藩主)より逼塞を命じられていた。正甫にとって、転封は不祥事を理由とした棚倉藩への左遷であった。世間では、「色でしくじりゃ井上様よ、やるぞ奥州の棚倉へ」とうたわれたと云われている。
井上正甫 - Wikipedia、井上正春 - Wikipedia参照
文化13年(1816年)秋、正甫は信濃国高遠藩主・内藤頼以に招かれて、高遠藩下屋敷(現在の新宿御苑)で小鳥狩を楽しんだ。正甫は狩りに熱中し、屋敷隣の千駄ヶ谷村に迷い込んだ。そこで偶然見つけた農家で留守番をしていた女房を正甫は押し倒し、強姦したが、帰宅してきた夫に見つかった。夫は天秤棒を振り上げ、正甫を殴りつけたため、正甫は抜刀して夫の片腕を切り落とした。後始末を家臣に任せ、農家夫婦は領地の浜松藩に移送して口封じをしたが、やがて噂は江戸市中に知れ渡り、正甫が登城する際は、他の大名の足軽らから「密夫大名!」「強淫大名!」「百姓女のお味はいかがでござる」とからかわれたという。
この不祥事を理由に、文化13年(1816年)、12月23日、正甫は奏者番を免職され、文化14年(1817年)9月14日に陸奥棚倉藩に処罰的な移封命令を受けることとなった。しかし正甫は病気を理由に、江戸に留まり、棚倉に入ることは一度もなかった。文政3年(1820年)4月16日、家督を長男・正春*14に譲って隠居する。
天保7年(1836年)、仙石騒動や竹島事件が原因で老中であった石見国浜田藩主・松平康任*15が老中辞任に追い込まれた上、永蟄居を命じられ、家督を継いだ次男・康爵が浜田藩から陸奥棚倉藩に懲罰転封とされ、上野国館林藩主・松平武厚が浜田藩へ、棚倉藩主の正春が上野館林藩に入る(三方領知替え)。
弘化2年(1845年)、「天保の改革」に関する政治抗争により、浜松藩主で老中首座の水野忠邦は減封および強制隠居が命じられた上、子の忠精と共に懲罰的に出羽国山形藩に左遷された。これにより、山形藩主の秋元志朝が上野国館林藩へ移封、館林藩主の正春が浜松藩に移封する(三方領知替え)。父・正甫の醜聞以来28年ぶりに、子・正春の時代に、井上家が浜松藩に復帰した。
その正春(弘化4年(1847年)死去、享年43歳)よりも、正甫は長生きし、安政5年(1858年)1月26日に死去。享年84歳。
◆大名の嫉妬と欲望:家格をめぐる南部利敬*16の本意(千葉一大*17)
(内容紹介)
勿論一般的に言って「現代の日本人が勲章(春や秋の叙勲など)など社会的名誉を求める(場合によってはその為の政治工作すらやる)」、あるいは
佐藤栄作 - Wikipedia参照
1974年のノーベル平和賞受賞には国連大使だった加瀬俊一によるロビー活動が寄与したといわれており、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。自民党の元参議院議員・鹿島守之助(鹿島建設会長)もこの受賞工作に関与したと言われる。
ということで「佐藤栄作元首相もノーベル平和賞受賞において政治工作した」ように、南部利敬以外の大名も「家格上昇のための政治工作に励んだ」わけですが南部利敬の「家格上昇運動」の背景として
1)南部家のあり方と藩主の個性も指摘しているが寛政七年(一七九五)の初の御国入りに際して大規模一揆によって失墜した南部藩の名誉回復
2)長年、険悪な関係にあった隣藩・弘前藩(津軽氏)へのライバル意識があったと指摘している。
津軽氏へのライバル意識は、南部利敬の死後に相馬大作事件という形で暴発することになった。
参考
企画展の窓から「南部利敬の生き方」 | もりおか歴史文化館
箱館奉行(江戸幕府)の指揮のもと蝦夷地警備を務め続けたことが評価され、盛岡藩は10万石から20万石に加増、利敬自身も侍従に任命され、盛岡藩ならびに南部家の「格」が上昇しました。軍役などの負担増大という難点があるものの、過酷な状況下の藩の存亡をかけ、南部利敬は大名社会で少しでも優位に動くための手段として、格上げを目指していたのではないでしょうか。
岩手県弘前藩との対立盛岡藩20万石への加増 | いわての文化情報大事典
盛岡藩の家格は創設以来10万石の外様中藩でしたが、文化5(1808)年、高直し運動が実り、領域はそのままで20万石の外様大藩に格上げされました。このことには、藩創設以来の弘前藩との対立が大きな要因となっています。
弘前藩との対立は、それまで南部氏が支配していた津軽地方が、大浦(津軽)為信(おおうら・ためのぶ)のいち早い小田原参陣によって豊臣秀吉に公認され、南部氏の領地でなくなった天正18(1590)年の奥羽仕置(おううしおき:奥羽の諸大名の成敗)に端を発します。
天明4(1784)年に、盛岡藩十一代藩主となった南部利敬(なんぶ・としたか)は、蝦夷地(北海道)警護への功績と藩政推進の助けになるという理由で官位昇進運動を展開し、文化元(1804)年、それまでの従五位下(じゅごいのげ)から四品(しほん・四位)に昇進します。ところがこの運動を展開するなかで文化2(1805)年、弘前藩九代藩主の津軽寧親(つがる・やすちか)が4万6000石から7万石に高直しされました。このことに不満を抱いた利敬は、蝦夷地永久警護を条件に高直し運動を行い、盛岡藩は文化5(1808)年に20万石に高直しされ、利敬は侍従に任官します。しかし弘前藩も同じ日に、蝦夷地警護の功によって10万石に高直しされます。このことが「相馬大作事件」の引き金となります。
南部家のあり方と藩主の個性(兼平賢治*18)から一部引用
シリーズ「家からみる江戸大名」のなかの一冊として、『南部家・盛岡藩』を執筆したが、筆者の描いた「家」からみた盛岡藩南部家は、南部家という「御家」の構造を詳しく解き明かすことではなく、南部家の「家」の特徴や個性といったあり方が、どのように変遷していったのか、そのことを描くことに主眼をおいている。そうしたときに、藩主という「個人」の個性も、きわめて重要な視角であることを、拙著では強調して描いた。詳しくは拙著をお読みいただきたいが、盛岡藩南部家のあり方を大きく転換させた、個性豊かな藩主として、八代利視(としみ)、十一代利敬(としたか)の二人を紹介しよう。
まずは利視である。享保十年(一七二五)に藩主に就任した彼は、十七世紀に進んだ江戸への傾倒、そして、それによって「御国」の文化や言葉、習慣である「国風(くにぶり)」が取り失われる事態に直面して、強い危機感を抱き、江戸者に「田舎者」と笑われたって取り繕う必要はない、と宣言して、盛岡藩南部家の歴史と文化、由緒を重んじ、家中や領民にもそれを求めていた。こうした背景には、実は利視の生い立ちも深くかかわっている。彼は六代信恩(のぶおき)の実子であるが、まだ母親が身籠っているうちに父信恩が亡くなったため、叔父の利幹(としもと)が藩主の座を継いだ。利視は盛岡で生まれ育ち、利幹の晩年、たまたま跡継ぎが幼少だったことから、利幹の養子となることで藩主の座がまわってきた。しかし、利視の認識としては、自分こそが本来藩主になるべき者だとして、先代の利幹を中継ぎとして軽視し、自身の立場を正当化すべく、南部家の歴史や由緒を重んじていく。利視という「個人」の生い立ちを含めた個性が、盛岡藩南部家のあり方を特徴づける要素にもなっていたのである。
十一代利敬だが、彼は南部家の家格上昇を図り、文化元年(一八〇四)に若くして四品(従四位下)に昇り、さらに文化五年、蝦夷地警衛の功績によって二十万石に加増され、侍従に任官して、国持大名となった。彼は、これまでの南部家の仕来りは「小家」のものだとし、ほかから笑われないようにするために、「諸国一統の風儀」を取り込んでいく。
こうした背景には、盛岡藩南部家を取り巻く環境もあった。十八世紀になって、広域に発生する飢饉への対策が隣藩と比較されたこと、また、活発な経済活動を背景に他領者の往来が頻繁になったこと、さらには、ロシアの南下という対外的な危機によって蝦夷地に幕府役人が領内を通行して渡るという事態が発生し、南部家や藩主の評判を左右する「外聞」が特に重視されていたことが挙げられる。そうしたなかで利敬は、寛政七年(一七九五)の初の御国入りに際して大規模一揆が発生し、最も重要な「外聞」を失ったところから藩政をスタートさせている。「外聞」を取り戻し難い、と悔やんだ利敬は、これ以上、「外聞」を失うことは避けなければならず、家格を上昇させ、笑われない南部家をつくりあげる必要があったのである。
このように十八世紀には、「笑われても構わない」という南部家から、「笑われない」南部家へという大きな転換が、藩主の個性も含めたさまざまな要因を背景にみられたのである。
家格―「国持」大名の身分格式: 歴史~とはずがたり~
徳川幕藩体制下の「国持大名」とは、豊臣政権下において徳川家と同輩の関係にあり、徳川幕府が成立した後も大名群の中で抜きんでた存在だと言えるでしょう。
しかし、上記した「国持大名」たちは、実は『柳営秘鑑(りゅうえいひかん)』(※)などの非公式な私撰の武家故実書に記されているに過ぎず、幕府自体はどの家が「国持大名」であるかについて、その職務・制度上の名称として使用しているにも拘わらず、公式にはその範囲を特定していかったのです。
面白いエピソードを1つ。
「大身国持(たいしんくにもち)」の身分だった南部家のエピソードです。
文化5年(1808)12月18日、南部家の当主が利敬(としたか)の時、寛政11年(1799)から幕府の命で賦役していた蝦夷地警護の功績によって、10万石だった領知高が高直しによって嵩上げされ、20万石になり、国持大名へと昇格が申し渡され、さらに従四位下(じゅしいのげ)に昇進し、侍従に任ずる旨が幕府より達せられました。
また翌文化6年(1809)5月3日には将軍家から南部家の祝儀の献上に対する返礼書である御内書(ごないしょ)がもたらされ、7月5日に到来します。
(ボーガス注:従四位下侍従に昇進し、国持大名になったことで)それまで「南部大膳大夫(だいぜんのだいぶ)」や「南部信濃守」とあった宛て名が「盛岡侍従」と記載されていたのです。
位階が五位であれば、位記は高家が代理受納し、後に幕府を介して与えられるのですが、侍従を含め従四位下(じゅしいのげ)以上の場合には各自に使者を京に立てて朝廷より受ける事が可能となったのです。
藩主の利敬はこれを機に藩士の江戸往来にあたり、荷札などに「これ迄南部家中何の誰と記載して来たが、今後は盛岡何の誰と記載すること」と申し渡します。
こうして、藩士に対し、藩士が旅行に際して所持する荷物等への記載には従来の「南部家中」何々の誰それから、今後は「盛岡」云々とすべしと命じるのです。
次いで11月11日には領民に対しても、商品荷札に至るまで南部から盛岡への改変、例えば、「奥州盛岡何郡何町何村」の誰それのようにと、「南部」と記載することの禁止を通達しています。
文化14年(1817)11月3日には、南部藩を盛岡藩に改称すると通達しています。「国持」の身分になるか、ならないかでこうも意識が違っていたんですね。
(参考)
千葉一大「近世大名の身分と格式―盛岡・南部家の場合」(『日本歴史』599、平成10年4月)
【参考:相馬大作事件】
俺も無知なので「時代小説、時代劇ファン」でありながら「相馬大作事件」は今回初めて知りました。
とはいえ「天一坊事件等の大岡政談(大岡越前)」「忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入り)」「遠山の金さん」「水戸黄門」等に比べれば「相馬大作事件」はそれほど「時代小説、時代劇(テレビや映画)」では取り上げられてないかと思います。
この点
忘れかけていた「死」の重さ 『みちのく忠臣蔵』 (梶よう子 著) | 書評 - 本の話
相馬大作といえば、かつては講談や映画で有名だったが、今ではすっかり忘れられた感がある。
映像化では、一九五六年、嵐寛寿郎主演で封切られた「剣豪相馬武勇伝桧山大騒動」(監督山田達雄、新東宝)が最後だろう。
これは“正義”か“テロ”か。その境界に迫る傑作歴史長編。 『みちのく忠臣蔵』 (梶よう子 著) | 書評 - 本の話
主君の仇を討った赤穂四十七士になぞらえ、古くから「みちのく忠臣蔵」とも呼ばれた事件は、幕末に尊王攘夷運動の理論的な指導者となった水戸藩の藤田東湖、長州藩の吉田松陰も、大作の「義挙」を絶賛。幕末から明治にかけては講談の人気演目として庶民にも親しまれていたが、現代ではあまり知られていないように思える
という指摘もあります。
相馬大作事件 - Wikipedia参照
文政4年4月23日(1821年5月24日)に、盛岡藩士・下斗米秀之進将真*19(しもとまい・ひでのしん・まさざね)らが、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親を襲撃しようとした事件。襲撃に失敗した秀之進が逃亡中に用いた変名「相馬大作」が事件名の由来である。
弘前藩主(津軽藩主)・津軽氏と盛岡藩主(南部藩主)・南部氏の確執は、戦国時代の末期から安土桃山時代、弘前藩初代藩主である大浦為信(後に津軽為信)の時代に端を発する。もともと大浦氏(後に津軽氏)は、盛岡藩主となった三戸氏(後に南部氏)と同じく、南部氏の一族だった。大浦為信は、1571年(元亀2年)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して、津軽地方と外ヶ浜地方および糠部の一部を支配した。さらに大浦為信は、1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際して、当時の南部氏当主・南部信直*20に先駆けて参陣し、所領を安堵されて正式に大名となった。このような経緯から、盛岡藩主・南部氏は弘前藩主・津軽氏に対して遺恨の念を抱いていた。
1714年(正徳4年)には、両藩の間で檜山騒動と呼ばれる境界線紛議が起きた。これは、陸奥国糠部郡野辺地(現・青森県上北郡野辺地町)西方の烏帽子岳(719.6m)周辺地の帰属に関して両藩が争った問題である。この地域は幕府により弘前藩の帰属と裁定された。この処置は盛岡藩に不満をもたらした。なお、檜山騒動は相馬大作事件の107年も前の出来事である。
弘前藩9代藩主・津軽寧親は時の老中と親戚で、昇進し従四位下侍従となる。江戸城での席次は盛岡藩主・南部利敬(従四位下侍従)と並ぶこととなった。盛岡藩にとって、弘前藩は元家臣でありながら戦国時代に領土を横領した謀叛者であり、同じ地位となったことは堪えがたい屈辱だった。
しかも利敬は若くして逝去し、世子はまだ若く無官で、江戸城中の席次はさらに下がることとなった。
1821年(文政4年)、下斗米秀之進は津軽寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには殺害を計画した。これを無視した寧親を暗殺すべく、秋田藩の白沢村岩抜山(現・秋田県大館市白沢の国道7号線沿い)付近で、鉄砲で銃撃しようと待ちかまえていた。しかし、密告によって寧親一行は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗した。暗殺の失敗により、秀之進は相馬大作と名前を変え、江戸に隠れ住んだが捕らえられ、1822年(文政5年)8月、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられた。享年34歳。
当時の江戸町民は、この事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てた。事件は後世になって講談、小説、時代劇映画、テレビ時代劇等の題材として採り上げられるようになる。この事件は吉田松陰、水戸藩の藤田東湖ら幕末の志士に強い影響を与えたとされる。東湖は、後に『下斗米将真伝』を著した。
一方で、平戸藩主・松浦静山*21は、著書「甲子夜話」で相馬大作事件を「児戯に類すとも云べし」と酷評している。
【相馬大作を扱った小説】
・直木三十五、三上於菟吉共著 『相馬大作』(1941年、博文館)
・長谷川伸*22『相馬大作と津軽頼母*23』(1962年、時事通信社)
・梶よう子『みちのく忠臣蔵』(2009年、文藝春秋)
【評伝】
・下斗米哲明著『文政四年の激震〈相馬大作事件〉』(2022年、寿郎社)
吉田松陰、津軽巡る=158 | 陸奥新報
藤田東湖「下斗米将真伝」を読んでいた松陰は、「事が成らなかったのは残念だ」と評している。
攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました - 攻城団ブログ
この襲撃計画(1821年)は事前に露見して失敗するのですが、江戸の町民たちは「自昼堂々と亡君の仇討ち(?)に挑むとは立派だ」とかつての赤穂浪士の再来と称賛し、一方で「襲撃を恐れて大名行列の道を変えるとは、武士の風上にも置けない」と津軽藩の名声が下がることに。
番組では「赤穂浪士の時代ならともかく、幕末になっても暴力で解決することが賛美されたの?」と発言したのですが、考えてみれば幕末だからこそかもしれませんね。
桜田門外の変(1860年)を筆頭に江戸でもクーデターが起こるようになり、京都では新選組が人を斬りまくってたわけですから。
新老楼快悔 第94話 相馬大作事件って知っていますか?
知人から新刊本が送られてきた。下斗米哲明著『文政四年の激震〈相馬大作事件〉』(寿郎社)である。
もう一〇年にもなるだろうか。下斗米さんから出たのが「相馬大作事件」の話だった。相馬大作の本姓が下斗米なので、先祖調べなのかと思ったが、そうではないという。どんな事件なの?と問うと彼は、事件の経緯を述べだした。
この事件は「赤穂浪士の再来」といわれ、「檜山騒動」として読み物芝居になり、人気を博す。今でも旧南部藩領の岩手、青森と秋田の一部地域では「(ボーガス注:南部藩の)忠臣」として語り継がれているが、旧津軽藩領の青森県西部では「殿*24の命を狙った大悪人」とされ、評価は真逆になったままという。
「そこでさまざまな資料を集めて事件の真相を突き止めたいのです」と下斗米さんは語った。
忘れかけていた「死」の重さ 『みちのく忠臣蔵』 (梶よう子 著) | 書評 - 本の話
海音寺潮五郎が史伝『列藩騒動録』で記しているように、「実をいうとお家騒動ではない。実際は赤穂浪士の討入や伊賀越えの仇討と同じ部類とすべき事件である。主家のうらみを晴らすためにやった事件である」ということになる。
騒動の元は、南部・津軽両家の領地争いである。しかしながら、その遠因は、二百四十余年前にさかのぼる。津軽はもとはといえば南部の臣であり、為信の時に弘前に封じられたのだが、津軽寧親(やすちか)の時に南部の主が幼少であったことを幸いに、その席次を変えるに至った。既にその頃から、幕府によって両家は犬猿の仲にされたといえる。そして、公儀の中枢にいる者たちが賄賂によって国法をみだし、南部の先君を憤死せしめた。よって忠臣相馬大作が津軽侯の命を狙った行為は、武士の一分からすれば、主君の仇を報ずるとともに天下の政(まつりごと)を糺(ただ)す行為であった*25――というのがこの事件の大まかな解釈となっている。
岩手県相馬大作事件発生 | いわての文化情報大事典
文政4(1821)年、江戸から帰国途中の弘前藩九代藩主の津軽寧親(つがる・やすちか)の狙撃未遂事件が発生します。首謀者は盛岡藩の下斗米秀之進(しもとまい・ひでのしん)、偽名「相馬大作(そうま・だいさく)」を名乗っていたことから「相馬大作事件」と呼ばれています。
文政3(1820)年、盛岡藩主・南部利敬(なんぶ・としたか)が39歳の若さで世を去り、遺領を南部利用(なんぶ・としもち)が継ぎます。利敬の早すぎる死は、弘前藩に対する積年の鬱憤が原因といわれます。この当時、利用はまだ14歳で無位無官、それに対してもともと家臣筋とみられていた津軽寧親は従四位下(じゅしいのげ)侍従に叙任されています。このことに不満を抱いた秀之進は、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えます。
文政4(1821)年、秀之進は江戸から帰国途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃しようと計画しますが仲間の密告によって失敗、藩を出奔して江戸に逃れ「相馬大作」と名を変えますが、同年、幕吏に捕らえられ翌年獄門の刑に処せられます。しかしこの事件によって寧親は隠居に追い込まれたことから、結果的には秀之進の目的は達せられた*26ということになります。
当時の江戸市民は秀之進の行動に大いに感動し、事件は講談や小説の題材としてもてはやされました。幕末の水戸藩の尊皇攘夷論者・藤田東湖は(ボーガス注:著書『下斗米将真伝』で)その義烈をたたえ、長州藩の吉田松陰は長歌を詠じて秀之進を追慕しています。
南部藩(盛岡藩)が今の岩手県と秋田県に当たり、「相馬大作」こと「下斗米秀之進」が今の「岩手県二戸市出身」で長年「郷土の誇り」として語り継がれてきたにせよ、「岩手県公式サイト」で「幕府に処罰された犯罪事件(津軽藩主暗殺未遂)が義挙扱いされること」にはやはり違和感を感じますね。
また「韓国の安重根美化」について「伊藤博文を暗殺したテロリスト」云々で非難していたウヨ連中には「岩手県でのテロリスト(津軽藩主襲撃を画策し、幕府に処刑された「相馬大作」こと「下斗米秀之進」)美化」をどう思うか聞きたいモンです(皮肉のつもり)。
なお、さいとう・たかを『影狩り』など「時代劇の世界」では謀略を仕組んでまで外様大名潰しに励む幕府ですが、この相馬大作事件では「現役の盛岡藩士(下斗米秀之進)が津軽藩主暗殺を企むという事件」で幕府自ら秀之進を捕縛し、処刑してるのに「彼の単独犯行で盛岡藩の関与が無かったせいか」盛岡藩改易はありませんでした。
『影狩り』などは「面白おかしく描いたフィクション」であり、実際の幕府は「浪人の発生による社会不安」などを恐れて「改易」という強硬処分にはそれほど乗り気では無かったわけです。
「相馬大作事件と鹿角」、先人顕彰館で始まる 秋田 [秋田県]:朝日新聞2021.4.14
江戸時代末期の秋田藩領で、盛岡藩士が弘前藩主の襲撃をたくらんで未遂に終わった「相馬大作事件」から200年を迎え、秋田県鹿角市先人顕彰館で「相馬大作事件と鹿角」が開かれている。首謀者の大作と鹿角出身の門人・関良助に焦点を当て、事件の全容を読み解くことができる。
事件は1821年4月23日に決行予定だった。参勤交代の帰りに秋田藩の白沢(大館市)を通過する弘前藩9代藩主・津軽寧親(つがる・やすちか)を待ち伏せするはずだった。しかし、密告で寧親らは日本海側に帰路を変更、計画は未遂に終わった。秀之進は江戸に逃亡して相馬大作と名を変えたが、捕らえられて獄門(さらし首)になった。享年34歳だった。23歳の関は死罪になった。
事件の背景には、南部氏と津軽氏の長年の確執があったとされる。弘前藩の初代藩主は南部氏の一族とされるが、戦国時代に武力で南部領だった津軽地方を奪い、領地としたことから対立が始まった。事件の前年、盛岡藩主・南部利敬(なんぶ・としたか)は39歳の若さで死んだが、栄達した津軽氏への鬱憤が原因とされる。後を継いだ14歳の南部利用(なんぶ・としもち)は無位無官だったのに対し、津軽寧親は従四位下(じゅしいのげ)侍従に叙されていて、かつての主従の立場は逆転していた。
このことに不満を抱いた秀之進は寧親に辞官隠居を求める果たし状を送り、それが聞き入れられない場合は「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を予告。寧親が求めに応じなかったため襲撃を計画した。
事件は「藩主の無念を晴らす報恩の行動」ととらえられ、江戸の庶民は「赤穂浪士の再来」と騒ぎ立て、講談や浪曲にもなった。事件は幕末の尊皇攘夷論者にも影響を与えた。
展示品約60点。このうち18点は、秀之進の故郷の二戸歴史民俗資料館から借り受けた。「事件はなぜ起こったか」など三つのテーマについてパネルで解説している。寧親に送った「隠居勧告文」や江戸に逃れる際に心境をつづった「離別の詩」なども展示している。田中忠美(たなか・ただよし)館長は「(ボーガス注:秋田県民は)名前は知っていても、相馬大作の人物像までは多くの人は知らないのではないか。関も含め、これを機会に理解を深めてほしい」と話している。
暗殺者と呼ばれるが…義理人情、文武両道の相馬大作から学ぶ催し続々 [岩手県]:朝日新聞2022.9.20
文武両道を極め、多くの人材を育てた岩手県二戸市出身の江戸時代の偉人・相馬大作(そうまだいさく、1789~1822)の没後200年を記念し、この秋、功績を解き明かす催しが市内で開かれる。一部地域では弘前藩主の襲撃をたくらんだ暗殺者とも呼ばれるが、結果的に誰も命を落とさず、ライバルの勢いをそぐ目的を達成した。時代の流れを読み、義理人情の行動をとった生き様などがいま注目されている。
相馬大作(本名・下斗米秀之進〈しもとまい・ひでのしん〉)は盛岡藩領福岡村(二戸市)で生まれた。17歳で家出して江戸に向かい、名剣士の平山行蔵(ひらやま・こうぞう)の道場に入門し、師範代まで上り詰めた。28歳のときに北海道を視察した際、ロシアからの侵略に危機感を強め、日本を守る人材を育成することを決意し、故郷に私塾「兵聖閣(へいせいかく)」を開いた。
ところが、当時大作を応援していた南部藩主が死亡した。原因は、仲が悪い津軽藩主が自分より高い地位についたことによる恨みだったという説などがある。
南部藩と津軽藩の確執は戦国時代までさかのぼる。南部藩主の家臣*27が、天下統一を進めた豊臣秀吉に取り入り、津軽を自分のものにしたことなどが背景とされる。以来、対立が続いていた。
大作は参勤交代の帰りに秋田藩の白沢(秋田県大館市)を通過する津軽藩主を襲撃することを計画した。
結局、密告によりルートが変更され、待ち伏せは失敗したが、実は大作にとってこれは狙い通りだった*28。参勤交代の道筋を無許可で変更したことが幕府に知られた津軽藩主はその後、隠居生活を余儀なくされた*29。
一方、大作も幕府から目をつけられ、故郷に迷惑が掛からないようにと江戸に逃亡したが、見つかって処刑された。33歳だった。
一連の「相馬大作事件」は「藩主の無念を晴らす報恩の行動」と評価され、江戸の庶民たちは「赤穂浪士の再来」と騒ぎ立てた。後世になってからは、講談や小説、映画などの題材として採り上げられてきた。
今秋、南部家第46代当主・南部利文さんや弘前の歴史に詳しい専門家、大作ゆかりの人を招いた記念対談などが企画され、大作の功績から学ぶ機会が相次ぐ。
◆相馬大作没後200年特別記念対談~南部と津軽のこれから~
南部家第46代当主・南部利文さん、大作ゆかりの呑香稲荷神社・小保内威彦(あきひこ)宮司らによる記念対談。
2022年9月24日(土)午後1時半から二戸市民文化会館。入場無料。
藩主襲撃未遂の記録 | 陸奥新報(弘前市教育委員会文化財課・小石川透)2024.3.4
「主君が侮辱を受けたら(ボーガス注:侮辱した人間を道連れにして?)臣下は死ななければならない*30」と、北町奉行所の取り調べに対し、秀之進は襲撃の動機を説明しているが、こうした実際の発言が、後世、忠義に殉じた硬骨漢「相馬大作」像を形成したことは間違いない。
下斗米秀之進は、2022(令和4)年に没後200年を迎えたこともあり、出身地の岩手県二戸市ではさまざまなイベントが開催されたという。秀之進の生きざまは、現在に生きる人々の郷土への誇りを醸成し、地域おこしの起爆剤として期待されている。まさに郷土の英雄である。
すでに、秀之進の行動は、幕末の藤田東湖や吉田松陰らによって、忠義に殉じた烈士として顕彰されてきた。だが、実際に秀之進に直接会ったことのある同時代の人々、それも、実際に事件に関わった人々からは、秀之進の姿はどのように見えていたのだろうか。
捕縛された秀之進の調査と裁定は北町奉行所が担当することになった。当時の北町奉行は、榊原忠之*31。北町奉行在任期間は歴代最長で、その間、多くの難事件を裁定したことで知られる人物である。
榊原の取り調べ内容について、喜七が覚書を残している(「秀之進良助并大吉嘉兵衛等町奉行吟味回答覚写」)。
「みんな若く、私の言いなり。私一人の計略から、彼らが企てに加わったことは間違いない」
そう言い切った秀之進の態度を、喜七は「秀之進の気性は恐れ入った。他人に罪を着せず、自分一人に罪を負わせようとしている。誠に見事である」と述べた。
自分を「悪」と断じた人物ですら感嘆させた仲間への真心こそが、下斗米秀之進という人物の本質なのであり、その真心が、下斗米秀之進が現在も深く郷土で敬愛されている理由なのではないだろうか。
内外情勢調査会盛岡支部懇談会における達増拓也岩手県知事講演「岩手から見る明治150年」(平成30年11月30日)*32から一部引用
相馬大作が日本で名を知られるようになったのは、南部の殿様が津軽の弘前藩の殿様津軽公に恨みを抱いて亡くなった、その恨みを晴らすために参勤交代途中の津軽公を襲撃するという計画を企てたことで捕まって処刑されたことが、当時江戸を中心に日本中の人たちに赤穂浪士以来の義挙だと評判になり、大変人気が出て、その後水戸の藤田東湖や長州の吉田松陰といった幕末に活躍するような人物もこの相馬大作を大変気に入り尊敬して称える文章を書いたりしています。
特に長州の吉田松陰がこの相馬大作を気に入っていて詩も書いています。吉田松陰は相馬大作が活躍した南部盛岡藩に実際に訪れています。吉田松陰の東北旅行は、長州の歴史、中でも吉田松陰の歴史を語る上で大変重要なエピソードで、なぜ吉田松陰がわざわざ東北を旅行したのか。大河ドラマ「八重の桜」では、会津を訪問した所がドラマの中に出てきましたが、今の岩手、青森の方まで来ています。なぜ来たかというと、この東北諸藩の対ロシアの北方警備の状況を知りたかったということが目的でした。さすが吉田松陰、欧米列強がアジアに押し寄せてきて日本もやがて欧米列強を相手にしていかなければならない、さあどうしようというときに、既にいち早くロシアの脅威を受け、それに対抗して様々手を打っていた東北諸藩の状況をこの目で見たいと東北旅行をする。それで岩手県にも来ていて、相馬大作が活躍していた場所も視察しています。
相馬大作は仇討事件を引き起こす前に何をやっていたかと言いますと、北辺の防備なくして国家の安泰なし、ということで、北方警備に全てを捧げる、そういう活動をしていました。自分の周りの人たちがどんどん蝦夷地に行き、また帰ってきては蝦夷地の話、ロシアとの関係を聞かされる。盛岡藩の北方警備の兵士たちの中にはロシアの人たちと小競り合いを起こして実際戦闘に参加し戦った人などもいて、そういう生々しい話を聞いた相馬大作は、これはもう頑張らなければならないと思い定め、今からちょうど200年前、1818年に今の二戸市内、さらに細かく言うと金田一という温泉で有名な所に私塾を開きます。兵聖閣という私塾を開いて、200人を超える門弟を集めて、ロシアに対抗していくことができるような兵法や武芸、この武芸は剣術などにとどまらず、砲術をはじめ近代戦の訓練のようなことも含めた、非常に実践的な内容で近隣の子弟の指導に当たっていました。
若い頃江戸で修行や勉強をしていたこともあって、相馬大作は全国に仲間がいたのですが、そういう仲間の一人と今の静岡県の浜松にも同じような塾を作って勉強と訓練をしようという計画も立てていました。実際にはその計画は実現しませんでしたが、自分の藩のことだけではなく、日本全体のことを考えて、その中で外国に負けないような強い国づくりをしていこうという意識、これは幕末の志士という人たちが大勢出てくるわけですが、志士第一号と言っていいと思います。後に吉田松陰の松下村塾で大勢の志士たちが学んで幕末や明治政府でも活躍しますが、そういった塾をベースにしながら、志ある人たちが結びつき、集まったり、ネットワークを形成したりして、そして勉強して、また武術、兵法の訓練もして、日本を変えていこうという、そういうまさに明治維新の流れのスタート、源流が実は岩手県、今の二戸市にあったと言っていいと思います。
明治維新150年記念論考 「明治維新は岩手で始まり岩手県人が完成させた」 | 岩手県知事・たっそ(達増)拓也ブログから一部引用
その頃の盛岡藩で、北方警備の重要性を唱え、郷里の福岡(今の二戸市)に私塾を開き、武家や町人への教育に力を入れたのが、相馬大作こと下斗米秀之進です。彼は、1821年、津軽藩主に恨みを抱いて死んだ盛岡藩主の無念を晴らすため、津軽藩主の参勤交代行列襲撃を企て、天下を騒がせます。この「相馬大作事件」は、忠臣蔵以来の義挙として、大いに人気を博し、明治になってから講談、小説、映画になっています。映画は、明治、大正、昭和初期に、様々な映画会社で何度も作られており、相馬大作を巡る物語が、幕末から戦前にかけて、日本文化の重要な柱だったことが分かります。
「相馬大作事件」は、明治維新史上の重要人物、水戸藩の藤田東湖と長州藩の吉田松陰に強い影響を与えました。二人とも、相馬大作をたたえる文章を書いています。
吉田松陰は、若いころ、対ロシアの北方警備の実情を知るために、脱藩してまで東北旅行を敢行するのですが、その時、相馬大作の事を詳しく調べています。吉田松陰の妹を主人公にした大河ドラマ『花燃ゆ』が放映された時、NHK出版から『吉田松陰・大和燦々』という小説が出ますが、その小説は、吉田松陰は東北旅行で相馬大作事件について調べることで、大和魂に目覚め、松下村塾を開いて教えるようになった、と描いています。
相馬大作は主君のために身を犠牲にした「義士」として、日本中でたたえられたのですが、藤田東湖や吉田松陰は、相馬大作が日本全体の防衛の事も考えて行動していた「志士」でもあったことに気付き、大いに参考にしたのだと思います。
「平成29年2月定例会・第8回岩手県議会定例会会議録」から一部引用
(五日市王君)
創成いわての五日市王*33でございます。
(中略)
去る2月19日、二戸市民文士劇が行われました。ことしの演目は、「みちのく忠臣蔵〜相馬大作物語」でございました。相馬大作は、南部藩忠義のため、裏切り者である津軽氏の暗殺を企てますが、密告により失敗、処刑されてしまいます。が、その志は後の吉田松陰に影響を与え、明治維新につながっていくことを考えれば、歴史的に大きな意味があったと思います。秀吉にけんかを売った九戸政実*34、忠義のために命をかけた相馬大作、この2人の南部藩士*35の気骨を受け継ぎ、県勢発展に向け努力することをお誓いし、質問を終わります。
岩手県知事や岩手県議(当時、現在は岩手県二戸市長)の好意的な発言から、岩手での相馬大作の扱いが窺い知れます。今の津軽藩にあたる場所(青森県津軽地方など)では当然扱いは違うでしょうが。
◆歴史の眼「トランプの大学攻撃と『赤狩り』の時代」(藤岡真樹*36)
(内容紹介)
トランプの大学攻撃について「反共右翼(共和党極右派)によるリベラル攻撃、学問の自由攻撃」という点で「赤狩りを連想させる」と評価している。
参考文献として、黒川修司『赤狩り時代の米国大学:遅すぎた名誉回復』(1994年、中公新書)等が紹介されている。
参考
『赤狩り時代の米国大学 遅すぎた名誉回復』 | 荒野に向かって、吼えない…2025.6.15
黒川修司著『赤狩り時代の米国大学:遅すぎた名誉回復』
本書は一九九四年、つまり約三十前に刊行されたものだが、(ボーガス注:赤狩りの中心人物であるマッカーシーと同レベルの右翼デマゴーグのトランプが登場した)二〇一〇年代後半以降に読むと強烈な既視感に襲われる。
◆追想「西村汎子先生を偲ぶ」(友野清文*37)
(内容紹介)
『古代・中世の家族と女性』(2002年、吉川弘文館)の著書がある西村氏(2025年7月死去)への追悼文ですが、小生の無能のため詳細な紹介は省略します。
*1:昭和女子大学准教授。著書『近世分家大名論:佐賀藩の政治構造と幕藩関係』(2011年、吉川弘文館)、『江戸大名の本家と分家』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)
*2:こういう場合を「領内分家」と呼ぶ(支藩 - Wikipedia参照)
*3:寺社奉行、大坂城代、老中を歴任
*4:こういう場合を「領外分家」と呼ぶ(支藩 - Wikipedia参照)
*5:東京大学史料編纂所助教
*6:著書『江戸奥女中物語』(2001年、講談社現代新書)、『幕末の大奥:天璋院と薩摩藩』(2007年、岩波新書)、『徳川政権下の大奥と奥女中』(2009年、岩波書店)、『島津家の内願と大奥:「風のしるへ」翻刻』(2018年、同成社)、『大奥御用商人とその一族:道具商山田屋の家伝より』(2022年、岩波書店)、『大奥の権力者松島:田沼意次と共に活躍した将軍の懐刀』(2025年、ミネルヴァ書房)
*7:北海道大学アイヌ・先住民研究センター研究員
*8:松前藩初代藩主
*9:山田洋次監督が初めて手がけた本格時代劇映画。日本アカデミー賞最優秀監督賞(山田洋次)、最優秀脚本賞(山田洋次、朝間義隆)、最優秀主演男優賞(真田広之)、最優秀主演女優賞(宮沢りえ)、最優秀助演男優賞(田中泯)、キネマ旬報脚本賞(山田洋次、朝間義隆)、主演男優賞(真田広之)、主演女優賞(宮沢りえ)、毎日映画コンクール主演男優賞(真田広之)等を受賞。『男はつらいよ』のヒットだけでも偉大なのに、その後、時代劇映画を三本制作し、ヒットさせた山田はやはり「不世出」「偉大」と思います。以前から「時代小説ファンには知られていたが、一般的知名度は『鬼平犯科帳』(フジテレビでドラマ化)の池波正太郎などには劣っていた藤沢」も山田映画によって一般に広く知られるようになったと思います。
*10:但し、斉省は川越藩主になること無く早世。斉典の四男「松平典則」が次の藩主となった。
*11:家斉には多数の子がおり、「川越藩主・松平斉典の養子となった松平斉省(家斉の二十五男)」以外にも「徳川敦之助(家斉の五男。御三卿の清水徳川家当主・徳川重好の養子となり、後に清水家当主)」「徳川斉荘(家斉の十二男。尾張徳川家当主・徳川斉温の養子となり、後に尾張徳川家当主)」「松平斉民(家斉の十五男。津山藩主・松平斉孝の養子となり、後に津山藩主)」「徳川斉彊(家斉の二十一男。紀伊徳川家当主・徳川斉順の養子となり、後に紀伊徳川家当主)」「松平斉善(家斉の二十二男。福井藩主・松平斉承の養子となり、後に福井藩主)」「蜂須賀斉裕(家斉の二十三男。徳島藩主・蜂須賀斉昌の養子となり、後に徳島藩主)」「松平斉宣(家斉の二十六男。明石藩主・松平斉韶の養子となり、後に明石藩主)」等の男子が養子になっている。その結果として養子を受け入れた津山藩には5万石、明石藩には2万石、福井藩には2万石の加増が行われ、尾張藩には知行替として近江八幡が与えられた。(徳川家斉 - Wikipedia参照)
*12:奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中を歴任
*13:奏者番、寺社奉行、若年寄、側用人、老中を歴任。賄賂政治家として批判され、庶民に「水野出て、元の田沼となりにけり(田沼は賄賂政治家として批判される老中・田沼意次のこと)」などと皮肉られた(水野忠成 - Wikipedia参照)
*14:奏者番、寺社奉行、大坂城代、老中を歴任
*15:寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中を歴任
*16:盛岡藩第10代藩主
*17:青山学院大学非常勤講師
*18:東北学院大学教授。著書『馬と人の江戸時代』(2015年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『近世武家社会の形成と展開』(2020年、吉川弘文館)、『南部家・盛岡藩』(2023年、吉川弘文館)
*19:下斗米というと著名人では 下斗米伸夫 - Wikipedia氏(法政大学名誉教授、ソ連・ロシア研究)がいますが珍しい名前と言っていいのではないか?
*20:盛岡藩初代藩主・南部利直の父
*21:一般には野村克也の発言「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」の出典として知られる。
*22:一般には『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』などの股旅物の作者として知られる
*23:津軽藩家老の津軽模宏 - Wikipediaのこと
*24:弘前藩主・津軽寧親のこと
*25:勿論、【1】津軽藩主・津軽寧親が南部藩主よりも高い地位に就いたのは「幕閣に賄賂をばらまいたからだ」という幕閣と津軽藩主への非難、【2】そんな汚職行為を「正義の人・相馬大作」は許せなかった、そんな汚職行為に憤死した南部藩主のためには『津軽藩主を殺すしかない』と決意したという大作美化ですが「忠臣蔵での吉良上野介描写(どう見ても吉良は浅野をいじめる極悪人で、浅野が刃傷沙汰に及ぶのも、大石が報復するのも当然に見えるが、実際がどうだったかは不明)」「山本周五郎『樅ノ木は残った』での原田甲斐描写(原田甲斐は伊達家の忠臣、正義の武士として描かれるが、歴史学上は実在の原田に対してそうした認識はされてない)」同様に「あくまでも時代小説での話」であって、相馬大作事件の実際がどうかは俺も無知なので知りません。
*26:というのは、やはり相馬大作シンパが語り継いできた「神話」のようです。「隠居」は追い込まれたわけではなく、「相馬大作事件」とは無関係のようです。
*27:津軽藩・初代藩主「津軽為信(大浦為信)」のこと
*28:というのは、やはり相馬大作シンパが語り継いできた「神話」のようです(やはり暗殺失敗は彼にとって不本意だった)。
*29:というのは、やはり相馬大作シンパが語り継いできた「神話」のようです。「道筋変更」は無許可ではなく、事前許可を取っており、「隠居」も余儀なく強いられたわけではなく、「相馬大作事件」とは無関係のようです。
*30:「共産党員、後援会員、サポーターは共産党執行部の臣下ではない」ですが、主張/三重県議殺害予告/女性蔑視に基づく暴力なくせ(2025.4.25)、辰巳氏へのスパイ発言 撤回謝罪を再度要求 | しんぶん赤旗|日本共産党(2026.3.31)等の侮辱を共産党が受けても「ブログ記事などで何一つ批判しない」反党分子「紙屋高雪や松竹伸幸(一方で共産党が不幸にも選挙で後退すると『見るに堪えない党への悪口雑言』に励む)」に聞かせたい「相馬大作の言葉」です(勿論相馬大作事件を義挙と評価するというわけではありません。江戸時代はともかく現在の我々にとってはただのテロ事件でしかない)。紙屋や松竹ら、反党分子連中の何処が「共産党を愛してる(だから諫言してる)」のか?(呆)。どう見ても「共産党を憎悪して悪口してるだけ」でしょうに。そして相馬大作(少なくとも秋田県、特に出身地の二戸市では未だにそれなりに有名)と違い、「いずれ忘れ去られる程度の人間」が紙屋や松竹でしょう。まあ紙屋や松竹の大言壮語に反し、既に「マスコミからはほとんど相手にされていません」が。
*31:目付、小普請奉行、勘定奉行、江戸北町奉行、大目付、留守居等を歴任。北町奉行在任中に鼠小僧次郎吉を捕縛した事で知られる(但し、実際の次郎吉は時代劇小説、映画等と違い「義賊として盗んだ金を貧乏人に配った事実」は無く、時代劇小説等はかなり創作が入っている)。
*32:達増氏は1996~2007年まで衆院議員(岩手選出、新進党→自由党→民主党)。2007年から現在まで、岩手県知事(現在は5期20年の途中、2027年で任期満了)
*33:この質問当時は岩手県議。岩手県二戸市議、岩手県議を経て、2026年1月から二戸市長(五日市王 - Wikipedia参照)。なお、「相馬大作こと下斗米秀之進」は現在の二戸市出身
*34:「九戸政実の乱」のこと。敗れた政実は実親、政則の2人の弟や、政実の息子亀千代らとともに処刑され九戸氏は滅亡したが、政実の実弟で九戸一族の中で唯一、南部信直、豊臣秀吉の側についた中野直康の子孫が、八戸氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。(九戸政実の乱 - Wikipedia参照)
*35:大作はともかく政実の時代は「南部家はあっても南部藩(後の盛岡藩)はない」と思いますが。
*36:著書『アメリカの大学におけるソ連研究の編制過程』(2017年、法律文化社)
*37:昭和女子大学教授。著書『ジェンダーから教育を考える:共学と別学/性差と平等』(2013年、丸善プラネット)、『現代の家庭教育政策と家庭教育論』(2019年、丸善プラネット)、『二〇世紀を生き抜いたある女性の記録:徳方亀子の生涯』(2026年、薫風社)