新刊紹介:「歴史評論」1月号

詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

特集「世界史論の現在」
■「グローバルヒストリー雑感 ―政治文化史と民衆運動史の視点から―」(趙景達)
(内容要約)
・グローバルヒストリーとはどういうものなのかがよくわからないので要約できなかった。まだ定義があいまいで、明確な成果も少ないのかもしれない。


■「資本の地理的不均等発展 ―新自由主義グローバル化への批判と現代資本主義論―」(大屋定晴)
(内容要約)
・欧米諸国の「新自由主義グローバル化への批判と現代資本主義論」を論じる論者を便宜的に
1)「世界システム論」
2)「非伝統的・ポストモダンマルクス派」
3)「『伝統的』マルクス派」
の3つに分けた上で、それぞれについて筆者の考えが述べられている(がその考えは上手く要約できなかった)。

1)、2)、3)の論者の著作としては次のモノが上げられている。
1)アミン「不均等発展」(邦訳:1983年、東洋経済新報社
アリギ「長い20世紀」(邦訳:2009年、作品社)、「北京のアダム・スミス」(邦訳:2011年、作品社)
ウォーラーステイン「新版・史的システムとしての資本主義」(邦訳:1997年、岩波書店)、「入門・世界システム分析」(邦訳:2006年、藤原書店
2)ネグリ&ハート「<帝国>」(邦訳:2003年、以文社)、「マルチチュード(上)(下)」(邦訳:2005年、NHKブックス
ネグリマルクスを超えるマルクス」(邦訳:2003年、作品社)
3)カリニコス「アンチ資本主義宣言」(邦訳:2004年、こぶし書房)
ハーベイ「ニュー・インペリアリズム」(邦訳:2005年、青木書店)、「ネオリベラリズムとは何か」(邦訳:2007年、青土社)、「新自由主義」(邦訳:2007年、作品社)



■「世界史論の歩みからみた「グローバル・ヒストリー論」」(近江吉明)
(内容要約)
・タイトルは筆者には失礼ながら「大げさ」だが内容的には、水島司「グローバルヒストリー入門」(2010年、山川出版世界史リブレット)への批判、疑問提示である。
 水島は日本におけるグローバルヒストリー論の代表的論者のようだが、「日本におけるグローバルヒストリー論者」とイコールではないし、ましてや「世界におけるグローバルヒストリー論者」の代表でもない。
 したがって筆者の批判、疑問提示が正しいとしてもそれは一定の限界があることに注意が必要である。
・「上原専禄吉田悟郎らの過去の歴史学者の問題意識とグローバルヒストリーとはどこが違うのか」との問いに対し水島は(筆者の理解に寄れば)「上原らは世界をグローバルに捉えようという問題意識はあったが、ヨーロッパ中心主義があった。一方、グローバルヒストリーはそれを克服しようとしている」と応答しているという。しかし筆者の理解では上原らは「ヨーロッパ中心主義の問題の克服を目指し」、「世界を13地域の複合体として理解しようとする13地域世界史論」を提唱するなどしたのである。水島による「戦後日本における世界史研究史理解」は問題がありすぎる。
・水島はグローバルヒストリーの草分けとしてブローデル「地中海」(邦訳:藤原書店)をあげている。確かに「期間が長い」「一国史でない」と言う意味においては「グローバルヒストリー」に似ているようにも見えるがそのような理解が適切かどうかは疑問であると筆者はしている。

参考

http://fujiwara-shoten.co.jp/main/ki/archives/2003/02/post_1067.php
「全体史」について P・ブローデル
 ロジェ・シャルチエ*1の書いた第十九回歴史科学会議についての報告が二〇〇〇年八月十七日の『ル・モンド』紙に出た。八月初めオスロで開催されたこの会議には、二二〇〇名の歴史家が出席し、活気があると同時に重大な会議であった。およそ六十か国から参加した歴史家たちは、二十世紀の歴史研究の種々の流れについて、および方向転換が必要になることについて、一種の自己分析を行なった。
 この記事に目を通して私が驚いたのは、そこに「全体史」という言葉が出ていることであった。きわめてブローデル的な表現だが、「会議の最大のテーマ」に格上げされているこの表現は、歴史家、少なくともフランスの歴史家の用語法からはずいぶん前に完全に姿を消したものである。ああしかし残念ながら! 少し注意深く読んでみると、そこで用いられている全体史(英語の「グローバル・ヒストリー」)は、かつてブローデルの名前としっかりと結びついたそれとはほとんど関係のないものであることがただちにわかった。

・以上は筆者近江氏が論文内で触れている、ブローデル夫人の『「夫フェルナンの歴史学」と「グローバルヒストリー」は関係ないと、私は思うのに「関係ある」という人がいるのには賛同できません』と言う文章の一部引用だ(ググったら見つかった)。もちろん「妻の意見」=「夫の意見」では必ずしもないが、これだけでも「ブローデルはグローバルヒストリーの草分け」という発言が問題含みであることは明らかだろう。


■銭静怡「戦国大名浅井氏の菅浦支配」
(内容要約)
・先ず研究史紹介。
 筆者曰く1950年代に赤松俊秀は
「戦国時代において、戦乱のため菅浦惣の財政は破綻に陥り、年貢未納が通常状態となった。そのため菅浦は(年貢未納という弱みから)領主・浅井氏への従属を深め惣自治は否定されるに至った」と論じた。
赤松「戦国時代の菅浦:供御人と惣・続論」http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/72912/1/KJ00000077668.pdf参照。50ページの論文がネットで全文読めるなんてありがとう、ありがとう、京都大学(斜め読みしかまだしてないけど)。
この赤松説は長く通説的地位を保った。
・1980年代に入り、勝俣鎮夫と藤田達生が赤松説に異を唱えた。赤松が「惣自治崩壊の根拠」とした資料(後で説明する)はむしろ惣自治が機能していたと読むべきだと主張した。
 また阿部浩一は「未納年貢」について赤松が主張するように「払いたいのに貧乏で払えない」のではなく「払えるがあえて払わない」という惣の政治的行為と見なす余地があると主張した。
・筆者の理解。
(その1)
 未納年貢について、資料から浅井氏が「年貢を強制的に取り立てない代わりに、相場よりも低価格で菅浦から油実を購入していた事」(ある種のギブアンドテイクの成立)がわかる。こうした状況からは赤松のように「経済的困窮によって惣自治が否定されるにいたった」と理解する事は適切ではない。商業作物・油実の生産は赤松が主張する経済的困窮とは矛盾する事実と考えられる。ただし低価格で購入しているのは年貢未納が原因だろうから「払えるがあえて払わない」という阿部説も成り立たないであろう。
(その2)
 赤松が惣自治が否定されたと主張し、一方、勝俣と藤田が惣自治が機能していたと読むべきとする資料は次のようなモノである。
1)菅浦の行った自検断(惣が構成員に対し裁判を行うこと)に対し、代官・浅井井伴が介入、惣からの追放という処分は撤回され、被処分者は惣へ住むことが許された。
2)菅浦は井伴に事前に相談せず自検断を行った事を謝罪、今後は相談した上で決するとした
3)その後、菅浦はこの被処分者に対して惣自治からの追放(惣の集会に参加できない)を決定した(井伴を介入させた事への報復?)


 これについて、2)、3)を理由に惣自治は否定されていないとするのが勝俣らであり、1)で処分が撤回された以上惣自治は崩壊したと見なすのが赤松である。
 筆者は1)〜3)について、原則として領主は「自検断」に介入しないが、介入の必要性があると考えた場合は介入し、その場合領主の決定が優位すると理解している。
 「自検断」に原則介入しない以上、赤松の惣自治崩壊説は支持できないが、勝俣らが「自検断」を強調することも、「最終的な決定権は領主が握っていると言うこと」を軽視した議論であると批判している。


■歴史のひろば「日露戦争研究と『坂の上の雲』 ―吉村昭氏の作品*2とともに―」(松村正義*3
(内容要約)
・何故こういう論文が書かれるかという勿論NHKがドラマ化を最近しているからだ。司馬について批判的に取り上げたモノは近年、中塚明「司馬遼太郎歴史観」(2009年、高文研)、中村政則「『坂の上の雲』と司馬史観」(2009年、岩波書店)、中塚明他「NHKドラマ『坂の上の雲』の歴史認識を問う」(2010年、高文研)、高井弘之「誤謬だらけの『坂の上の雲』」(2010年、合同出版)、原田敬一「『坂の上の雲』と日本近現代史」(2011年、新日本出版社)など、いくつか出版されている。
・まず司馬遼太郎坂の上の雲」への突っ込み。
1)つまらないことだがタフト陸軍長官(後に大統領)の肩書きが「国務長官」となっている。ちなみにこの時期の国務長官は「高平・ルート協定(主な内容:日本はアメリカによるフィリピンとハワイの支配認めるから、日本の朝鮮支配にアメリカは文句言うなよ)」にその名を残すルート。
2)金子堅太郎*4セオドア・ルーズベルトとクラスメイトと書いてあるが、そうした事実はない。事実は「同時期に同じハーバードで学んだだけ」で金子は「法学部」、セオドアは「教養学部」だったので大学時代に接点はなかった。金子自身「大学時代には面識はなかった」と後に語っている(のに「面識があった」と書く日本版ウィキペはいつもながら使えない)。筆者に寄れば 金子がセオドアと面識を持ったのは「1889年に議会制度視察のため洋行した時」である。
 司馬がそうした事実を知らなかったのか、知った上であえて話を面白くするため嘘を書いたのかは不明だ。
・次に吉村『海の史劇』への突っ込み。
 小村寿太郎*5が激務で発熱しながらも病を押してニューヨークからセオドア・ルーズベルトの居るワシントンへ意見交換のため赴いたと言う記述があるが、この時期、セオドアはニューヨーク郊外のオイスターベイの私邸で静養していたのであり、ワシントンには居なかった。
 吉村がそうした事実を知らなかったのか、知った上で(以下略)。
・小説はうかつに信じたらいかんということですね、わかります。

*1:著書『書物の秩序』(邦訳:1996年、ちくま学芸文庫)、『フランス革命の文化的起源』(邦訳:1999年、岩波モダンクラシックス

*2:吉村の日露戦争関係作品として「ポーツマスの旗:外相・小村寿太郎」や主として日本海海戦を描いた「海の史劇」(いずれも新潮文庫

*3:著書『日露戦争と金子堅太郎:広報外交の研究』(新有堂、増補改訂版、1987年)、 『ポーツマスへの道:黄禍論とヨーロッパの末松謙澄』(原書房、1987年)、 『日露戦争100年 新しい発見を求めて』(成文社、2003年)、 『日露戦争と日本在外公館の“外国新聞操縦”』(成文社、2010年)

*4:伊藤博文の側近の一人。伊藤内閣農商務相、司法相を歴任

*5:桂内閣外相、ポーツマス講和会議日本全権を歴任