id:noharraの紹介するオーセル女史の文章が酷すぎる話について(その3)(追記・訂正あり)

その3というか、「「自殺はやめるべし」は公理じゃない」(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20120309/p6)への応答。

「自殺はやめるべし」は公理じゃない

基本的に「自殺はやめるべし」と俺は思っていますのでね。それが公理かどうか(何を持ってあなたが公理か公理でないか判断するのかわかりませんが)なんてことは俺の価値観とは全く関係ありませんが。俺は俺の価値観に従い、オーセルの人物評価をするだけですが。

偉大な抗議とは単なる表(注:原文のまま。意見表明のことか)であり、「あおっている」と読むことはできません。

ああ、そうですか。俺には自殺扇動としか読めませんし、百歩譲ってあなたの言い分を認めたとしても「自殺をする気もない人間・オーセルが自殺をただただほめたたえることは人としてやるべき事ではない愚行」だとしか俺は思いませんが。

おかしな理解を確信的に語ってしまい、今までの萩原、三浦に対する以上の過激な罵詈の連投をしてしまったのは何故なのか?あなたの無意識によほど大きな衝撃が与えられ、それを打ち消さなければならなかったのでしょうね。

「無意識に大きな衝撃」なる謎の言葉で、何が言いたいのかさっぱりわかりません。まあ、俺を中国シンパと印象操作でもしたいのかな、そう言いたいならはっきりそう言えよ、げすな性格だなとは思いますが。口調が乱暴になったのは単に俺がオーセルの自殺扇動を許せないと思っただけの話です。
「萩原、三浦に対する以上の過激な罵詈の連投」ねえ。別に萩原や三浦に対する罵倒以上の罵倒をオーセルに対してしたとも思いません(オーセルと同レベルの罵倒は過去に三浦や萩原にもしたと思いますが)が、もしあなたの言うとおりだとしたら単に偶然そうなったと言うだけの話でしょう。その頃、体調不良とか何かで虫の居所が悪かったのかしらん?。一応「オーセルの名誉」のためにもお断りしておくと、オーセルと比べ、三浦や萩原が人間としてましだなどとは少しも思っていませんのであしからず。

貴方は「自殺はやめるべし」と公理のように語るがそれは成り立たない。自殺は他殺よりより大きな悪なのか?

 「自殺はやめるべし」と言った覚えはありますが、一体いつ誰が「自殺は他殺より悪」なんて言いましたか?
 そして「自殺が他殺より悪かどうか」と「自殺はやめるべきかどうか」は全く関係ないでしょうに。

貴方は民族独立紛争(戦争)などにおける武力行使を一切否定する立場なのか? 

「一切、否定なんかはしません」が「手放しで肯定する」のもねえ。何が何でも非暴力で運動しろという気もありませんが、安易に暴力を肯定するのも問題でしょうから、そこはなかなか難しい。というか、「オーセルの自殺扇動が許せない」といっただけで、「自殺は他殺より悪か?」「武力行使を一切否定するのか?」等と、とんちんかんな質問をされても困りますが。

公理でもないものを公理だとしてぐずぐず言っても無効である。

ああ、そうですか。あなたがそうお思いになるのならそれでよろしいんじゃないですか?。俺は賛同する気は全くありませんが。


【追記】

http://j.people.com.cn/94474/7661370.html
人民日報「仏教の基本的戒律から僧侶の焼身自殺事件を見る」
 四川省チベット族区で最近、僧侶の焼身自殺事件が何件か起きた。「慈悲済世」「普度衆生」を自らの務めとする修行・布教者が無明、残忍かつ極端な方法で自らの体に火を放ち、釈門・信徒の前から姿を消すという行為に、人々は驚愕し、激怒している。命を無視したこのような自殺行為は、仏教の核心的要義への深刻な違反であるのみならず、仏教の基本的戒律のみだりな蹂躙である。(文:李徳成・中国チベット学研究センター宗教研究所所長)
 仏教徒にとって戒律の遵守は基本的行動規範である。どの戒律も基本的戒律の「五戒」を基礎にしている。五戒とは不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不飲酒である。五戒は全ての仏教徒にとっての戒律であり、自らの行為を導く道徳規範でもある。
 僧侶の焼身自殺事件の発生後、下心あるごく一部の者はなんと仏教の基本的戒律を顧みず、「焼身自殺は殺生に関する仏教の教義に全く背かず、仏教の見解との食い違いもなく、戒律を犯してもいない。なぜならその動機と目的は、少しも私利に汚されていないからだ」と妄言を吐いた。しかも仏祖の戒律が、いかなる因縁であれ、全ての命ある者は故意に人を殺してはならないと明確に表明していることには触れずにだ。殺生は不殺生という基本的戒律に即背き、波羅夷罪を犯したことになるのである。しかも自ら望んでであろうと、讒言を信じて自殺するのであろうと、基本的戒律に背き、波羅夷罪を犯したことになるのである。
 釈迦が仏教を創始し、伝道して以来、殺生戒という基本的戒律は信者の心に深く浸透している。「殺生に関する仏教の教義に全く背かず」「戒律を犯してもいない」というでたらめな言論は、下心ある者の腹黒い魂胆をまさに暴露するものだ。
命を大切にし、自殺に反対することは、すでに現代世界の普遍的価値となっている。特に宗教の世界で、命を無視した信徒の自殺行為は邪悪の象徴にして化身であり、世界各国はこれを許さず、断固反対している。
 悪名高い太陽寺院はかつて信徒が焼身自殺して世界各国で禁止され、取り締まられた。邪教オウム真理教」の教祖・麻原彰晃の「殺人には功徳がある」とのわめき声は、とうに歴史の恥辱の柱に打ちつけられており、後世に永く悪名をとどめること間違いなしだ。世界各国の人々の間では、宗教過激派や宗教を利用したテロ・暴力行為に反対することがすでに共通の声、自発的行動となっている。命を無視した僧侶の焼身自殺行為に対しても、世界の正しく善良な人々は唾棄し、鞭打つに違いない。
 要するに命を無視した僧侶の自殺行為は、仏教の基本的戒律に深刻に違反し、仏教の基本的重罪であり、旗幟鮮明に断固反対し、制止しなければならないのである。「戒律存せば則ち仏法存し、戒律滅せば則ち仏法終す」。戒律は仏教の発揚と発展の根本的支えだ。基本的戒律を守らなければ、正法は長続きせず、戒律を犯す行為を断固制止しなければ、仏教の健全な発展は確保できないのである。

http://j.people.com.cn/94474/7659941.html
人民日報『中国大使館、英紙の「チベット人焼身自殺」歪曲報道に反駁』
 英紙ガーディアンは少数の「亡命チベット人」の話を引用し、焼身自殺を公然と美化する記事を11日付で掲載した。在英中国大使館は直ちに、これに反駁する書簡を大使館報道官名で送った。同紙は26日付で、書簡の内容の大部分を掲載した。書簡の全文は以下の通り。


『貴紙が11日付で掲載した記事「『燃える殉教者』----自らに火を放つチベット僧たちの波」は、少数の「亡命チベット人」の話を引用し、焼身自殺を公然と美化しており、善悪を逆さまにし、世論を惑わすものであり、遺憾である。
 人命は最も貴いものであり、焼身自殺事件の発生は痛惜に堪えない。本来修行に専念すべき僧尼が焼身自殺すること自体が、平和と寛容を追求するチベット仏教の精神への最も致命的な破壊だ。現地の大衆はみな焼身自殺を譴責し、宗教者は心を痛め続けている。
 チベット族大衆は中国公民として、訴えを表明する正当かつ合法的な手段を完全に有している。焼身自殺のような極端な方法をとる理由はない。焼身自殺者の精神は非正常な力にコントロールされ、支配されていると解釈するほかにないようだ。
 注目に値するのは、焼身自殺事件の発生から10分も経たずに「チベット独立」分子が関連情報をウェブサイトに掲載し、西側メディアの報道を煽動していることだ。こうした極端な行為に対して、ダライ・ラマはいかなる譴責も制止もしていない。ダライ一味はこれを公然と美化し、大げさに伝え、さらには模倣するようより多くの人々を煽り立ててすらいる。命を傷つけるよう他者をそそのかすこうした行為の背後には、人には言えない政治的目的が必ずある。これは仏教の教義に背くのみならず、人類の良知と道徳にも背き、さらに人道主義精神にも背いている。こうした無辜の若者の命は、分裂分子が政治的企みを達成するための駒にされてしまったのかと詰問せずにいられない。
改革開放以来、中央政府は一連の政策を打ち出し、チベットの宗教と文化を守ってきた。現在、チベットには各種宗教施設が1700カ所以上ある。出家僧尼は約4万6000人で、チベットの全人口300万人の1.6%を占める。世界の多くの宗教国家もこの比率には達していない。チベット文字は中国の少数民族の文字の中で最初に国際標準を備えた。他の民族と同様、チベット族は信仰と言論の自由が十分に保障され、生活水準も日増しに向上している。チベット族人民の平均寿命はダライ統治期の35歳から今日では67歳にまで伸びた。
 中国は世界の大多数の国と同様、政教分離を行っている。宗教は国の行政、司法、教育に干渉してはならない。いかなる人または団体も、宗教を利用して人命を傷つけ、正常な社会秩序を破壊することは許されない。宗教を利用して国家の統一を脅かし、民族の団結を破壊することはなおさらに許されない。
 嘘を暴くべき時がきた。人命を傷つける行為は制止されなければならない。悠久の歴史を持つチベット仏教が下心ある者によって宗教過激主義へと導かれることがあってはならない。われわれは数多の読者に、真相を見極め、嘘を非難し、宗教の自由の旗印をかかげて分裂活動を行うダライ一味の本質を見抜くよう呼びかける。悲劇が繰り返されてはならない。』

http://j.people.com.cn/94474/7637249.html
人民日報『ダライ一味が「焼身自殺」を煽動するのは行き詰まりの現れ』
 これまでのところ、焼身自殺者はいずれもダライ一味の分離主義思想にひどく毒された若者たちだ。無知ゆえに自らの若い命をむざむざと葬り去る彼らに人々が同情しているころ、ダライ一味はその死を「チベット独立」実現への新たな手段と見なし、大いに利用しようとしている。
 ごく少数の邪教原理主義勢力を除き、世界の各宗教・宗派はいずれも自殺を含め生命の尊重と暴力への反対を強調している。仏教は衆生の中で人の智性は最高であり、人に生まれることは極めて難しいとして、輪廻から解脱できるまで人身を大切にし、精神修行に励まねばならないと説いている。釈迦はかつてアーナンダに、人に殺生をさせることは、自らの手で人を殺すよりも重いことだと説いた。
 ダライ一味が焼身自殺を煽動し、さらにはその「根拠」を仏典に求めるのは殺人に等しく、自殺をさせる宗教にチベット仏教を変えようとする企みだ。焼身自殺を煽動し、他人の命を奪うことで自らの政治目的の達成を図るのは、「非暴力」などでは全くない。これは形を変えたテロリズムであり、人類の良知と道徳に完全に背いている。法的には厳罰に処され、道義的には唾棄されるのが当然だ。
 これについて国内の宗教各界は「チベット仏教にとって自殺は非常に重い殺生戒にあたる。いかなる理由であれ自殺は仏法に背き、人間性に反する。『ラマ』を名乗る者らが焼身自殺を煽り、他人の命をほしいままに奪うようでは、チベット仏教は間違いなく危険な境地へ追い込まれ、社会からの最低限の信頼も失うことになる」と次々に指摘している。一部外国メディアもこれを看過できずにいる。英紙ガーディアンは10月19日付で「焼身自殺は事実上、自らへの暴力であり、ほとんどの仏教の教えに反するものだ。こうした行動が拡大すれば、ダライ・ラマが数十年苦心して築いてきた非暴力のイメージも無駄になってしまう。焼身自殺によってチベット運動に国際社会の関心を集め、勝利を得ようとするのは、得るものより失うものの方が大きいことが証明されるだろう」と論じている。
(中略)
 焼身自殺を煽動するダライ一味の奇怪なテロ行為の目的は3つに尽きる。
 第1に、急速な経済成長と社会持続的安定というチベット自治区および四川省チベット族地区の良好な局面の破壊だ。シンガポール紙・聯合早報は「各国の民族政策を比べれば、チベットその他チベット族地区に対する中国の政策はゆとりのある、手厚いものだ。ダライの考えと行動は現実から著しくそれている」と分析する。ダライ一味はこのような発展が続くことで、その分離主義の主張が完全に支持を失うことを恐れ、焼身自殺という煽動的かつ痛ましい方法を利用して、社会にパニックを起こし、チベット族地区を乱そうと企てているのだ。
 第2に、「チベット問題」が国際社会で脇に追いやられないようにすること。近年、世界各国は中国との関係発展を重視し、「チベット独立」の話題は誰も取り合わなくなってきている。ダライ一味にとって焼身自殺事件は「国際ニュースのトップ」に返り咲き、外国勢力の支持を勝ち取る重要な手段となっているのだ。
 第3に、これによって中央政府に交渉圧力をかけようとの愚かな企みだ。焼身自殺事件の発生後、ダライ一味は「中国政府はチベット人の行政中央またはダライの私的代表と早急に交渉し、悲劇の再発を防ぐべきだ」「対話こそ問題解決の唯一の道だ」としきりに提案している。焼身自殺事件を利用して中央政府に自らの分離主義への譲歩を迫り、「大チベット区」*1や「高度の自治」といった、今なお望みを抱く見せかけの実現を愚かにも企んでいるのだ。
 ダライ一味による焼身自殺煽動、誇大宣伝事件が物語るものは、その活動能力や影響力などではなく、その弱体ぶりと、いかんともしがたい政治的行き詰まりに他ならない。これははっきりと言えるが、時代の潮流に逆行するダライ一味の行為に中国政府が譲歩する事は断じてなく、チベット仏教の無数の信徒がこれを認めることも断じてない。他人の命を奪い、暴力を煽動する道を歩み続けるのなら、ダライ一味の完全な崩壊も遠くはないだろう。

http://j.people.com.cn/94474/8053175.html
人民日報『チベット族焼身自殺の煽動を法に基づき処罰するのは痛快 (2)』
 焼身自殺を止めさせる最も効果的な方法は、ダライが出てきて焼身自殺は教義に違反すると説明することだ。ダライが焼身自殺に対して曖昧な姿勢を取り続けているのは、形を変えた放任であり奨励だ。フランスメディアの報道によると、ダライは焼身自殺事件を「公平、正義、自由を求めて得られぬ人々が絶望の中でとった行動」と形容した。ダライは「道に殉じた者」という焼身自殺者の悲劇のイメージをつくりだし、焼身自殺を「平和的非暴力闘争の最高の形式」に仕立て上げて、世界、特に西側の同情を得ようとしているのだ。
 宗教過激派による近年の自殺式襲撃は、多くの国々に不安を激しい怒りを引き起こしている。ダライがチベット族を惑わしている焼身自殺は自殺式襲撃と同じではないが、同様に無辜の命に塗炭の苦しみを与え、他者の命を代償に個人的目的を達成しようとするものだ。この道を歩み続けるのなら、ダライは邪教を世に送り出す可能性が高い。
 中国政府が今回、他者の焼身自殺を煽動、幇助した者の刑事責任を故意殺人罪として法に基づき追及する方針を明確にしたことは、実に痛快だ。チベット族居住区の民族問題は中国にとって敏感な問題だが、これは決してチベット族居住区が中国の憲法や法律が及ばぬ地域であることを意味しない。中国の法律に違反し、中国公民の生命と財産の安全を侵害しさえすれば、いずれも中国の法律によって解決すべきだ。政府は法的手段に加え、焼身自殺が仏教の教義に背くことを国内の高僧に宣伝させることもできる。

 まあ、人民日報の場合、「単純な人道主義」ではもちろんなく、チベット亡命政府等に対する政治的意味合いの批判という面は当然ありますが、「自殺扇動など道義に反する」という指摘自体には同感です。チベット亡命政府が扇動してるかどうかは知りませんが(オーセルのあの文は扇動だと思いますね、我ながらしつこいですが)。

*1:本当かどうか知らんが中国は「ダライは現在のチベット自治区四川省チベット住民居住地などをくっつけた大チベット区をねらっている」と非難している。なおそう言う主張をするチベット人もいるようだがダライ自体はそうした主張を「考えていない」と否定している