新刊紹介:「歴史評論」5月号

特集「歴史学をどう学ぶか」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。俺が理解できてそれなりに要約できそうなものだけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

■「新入生のための歴史学入門」(森谷公俊*1
(内容要約)
・「なぜ歴史学を学ぶのか?」
いろいろな回答があり得ると思うのだが、筆者はその理由の一つとして「過去から教訓を得ること」としている。
たとえば「何故原発安全神話が誕生したのか」を歴史的に分析することは「脱原発を考える」という意味で価値あることと言えるのではないか。
・歴史家トゥキディデスペロポネソス戦争を題材にした「戦史」(邦訳:岩波文庫京都大学学術出版会。ただし学術出版会の邦題は何故か定着している「戦史」ではなく「歴史」となっている。)を執筆したが彼の執筆動機も「アテネ敗戦から歴史の教訓を得ようとするもの」であった。

参考

『戦史』(ウィキペ参照)
 古代ギリシアアテナイ出身の歴史家トゥキディデスが著した歴史書アテナイの興隆と衰退、ペロポネソス戦争(紀元前431年〜紀元前404年)の経過を記録した本書は全8巻からなる。トゥキディデスは、ペロポネソス戦争の記録を残す事によって後世の人々が似たような事態に直面したときに、この記録を教訓としてうまく活かせるようとの意図で執筆したと、序言で述べている。
 『戦史』はペロポネソス戦争の全史を記述するはずであったが、紀元前411年の記録を以って突然中断し未完となった。



■「開かれた歴史へ―言語論的展開と文化史―」(岡本充弘)
(内容要約)
 「言語論的転回」というのが何のことだか馬鹿な俺にはわからないので要約のしようがない。あえて無理矢理にアバウトに理解すれば「言語論的転回=唯一の正しい歴史記述などおそらくないし、あったとしても認識できない」と言ったところか。それはただし、「歴史修正主義偽史もOK」という話ではもちろん全然ないわけだが。


■「まだ見ぬ新入生へ―「私の講義 第一回」隣国の歴史を学ぶということ」(佐藤仁史)
(内容要約)
・中国と日本にはいろいろな違いがあることが中国史を学ぶことでわかりますよというお話。
 筆者の挙げている事例をいくつか紹介してみる。
1)日本語と違い、中国語では「娘」は「母親」を、「老婆」は「妻」を意味する。
2)内山完三のエッセイによれば「中国では食事に招かれた場合、少し残すのかが礼儀」である。「たくさんの料理を出されて満足した、もうおなかいっぱいだ」という好意の表明である。日本ではむしろ逆に全て平らげるのが礼儀だろう。
3)日本では長男相続が歴史上、一般的であったが、中国では均分相続が一般的であった。その理由の一つとして中国は土地が広大なため均分相続しても問題がないことがあると思われる(日本は狭いため均分相続ができるほど土地がない)。


■「まだ見ぬ新入生へ―「私の講義 第一回」教員養成系大学の「西洋史概説」―オリエンテーション―」(川手圭一)
(内容要約)
・筆者は西洋史概説を担当しているが、まず「西洋史」「東洋史」と言う分け方が、あくまでも一つの価値観に過ぎず、絶対的な物と理解しないでほしい旨、学生に伝えるという。たとえば「西洋=ヨーロッパ」「東洋=アジア」だろうが、では「アメリカやアフリカ、オセアニア」は何なのだろうか?
 そして「東欧、西欧、北欧、南欧」をヨーロッパというくくりで、「中国とインド」をアジアというくくりで一緒にしていいのだろうか?(それによってメリットがあるとしてもデメリットもあるのではないか?)、ということである。


■「私の卒論/修論」(加藤圭木、田中元暁、廣瀬憲雄*2、割田聖史)
(内容要約)
 加藤氏、田中氏、廣瀬氏、割田氏の順で説明していく。
【加藤氏】
加藤氏の卒論は「植民地期朝鮮における社会事業の思想と活動」、修論は「1930年代における朝鮮における港湾都市「開発」の展開:咸鏡北道羅津を事例に」である。問題意識としては「日本政府による朝鮮人労働力の動員」の分析だったとのこと。
 修論では「先行研究がもっぱら研究してきた日中全面戦争(1937年の盧溝橋事件)以前から労働力動員がされていたこと」「その場合、満州国誕生によって重要度が増した羅津への動員が多いこと」に着目し、「1930年代の羅津開発と朝鮮人労働力動員」を論じた。
 加藤氏の修論については「一橋大学大学院サイト」(http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/archives/wakate/detail.cgi?ID=36)も参照してほしい。

【田中氏】
田中氏の修論は「西周の制度構想と人材育成:幕末期から明治前期を通して」である。先行研究は「西の元老院議官時代が手薄」と言う理解から、元老院議官時代にスポットを当てたという。
 なお、田中氏曰く
1)「卒論は一点突破でもいいと思うが、修論はいくつかの柱を統合して骨組みを作らなければならない大変さがある」そうである。
2)また、執筆する際には「ある程度の骨組みをチャート図などで決めた上」で「1章から書くのではなく書けるところから書く」という方法をとったとのことである(「書ける所から書く方法」だからチャート図が必要になる)。
 後に、この修論およびそれ以降の研究を元に島根県立大学西周研究会主催の第9回西周研究会で「元老院議官としての西周明治10年代後半を中心にして」と言う報告を行ったという。

西周(ウィキペ参照)
 江戸時代後期の幕臣、明治初期の官僚、啓蒙思想家、教育者。
 安政4年(1857年)に蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道榎本武揚*3らとともにオランダ留学し、フィセリングにカント哲学、経済学、国際法などを学ぶ。
 慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係した。
 1873年明治6年)には森有礼*4福澤諭吉加藤弘之中村正直*5西村茂樹津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等に尽力した。
 東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校(現在の獨協大学の前身)の初代校長を務めた。1890年(明治23年)に貴族院議員。1897年(明治30年)死去、享年68歳。

元老院(ウィキペ参照)
 明治初期の日本の立法機関。構成者は元老院議官と称した。
 1875年に木戸孝允板垣退助、内務卿大久保利通らの大阪会議での合意に基づき出された立憲政体の詔書によって左院にかわり設置された。1890年、帝国議会開設のため廃止された。元老院議官の多くが元老院廃止後にそのまま貴族院議員に転身した。

【廣瀬氏】
廣瀬氏の卒論は「日本・渤海間の擬制親族関係」。この卒論を書く直接のきっかけとなったのは森田梯「日本・渤海の兄弟・舅甥関係」(森田著「日本古代の政治と宗教」(1997年、雄山閣)収録)を読んだことだという。
 なお、廣瀬氏がこの卒論の問題意識を発展させたものが「日本―渤海間の擬制親族関係について : 「古代東アジア世界」の可能性」であり専修大学のホームページ(http://ir.acc.senshu-u.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2645&item_no=1&page_id=15&block_id=11)でPDF原稿を読むことができる。

【割田氏】
卒論は「ドイツ三月革命と民族問題」。
ただし一次資料「フランクフルト国民議会の議事録」をただ順番に並べただけとの反省があったとのこと。
修論ではフランクフルト国民議会の前提となるポーゼン蜂起を検討した。こうしたものが一区切りついたのは割田氏の理解では著書『プロイセンの国家・国民・地域:19世紀前半のポーゼン州・ドイツ・ポーランド』(2012年、有志舎)を出版した時であって実はごく最近まで区切りはついておらず、したがって「卒論、修論の問題意識はほぼ今までの自分の研究実績と重なる」とのこと。


■「猪苗代水力電気設立の諸相―経営者層の転換を中心にして―」(宮地英敏*6
(内容要約)
 1915年に完成した福島・猪苗代水力発電所(1910年に設立された猪苗代水力電気会社の事業)。この計画の当初(1910年)の中心人物は仙石貢と言う人物である。ウィキペ「仙石貢」の略歴を見れば仙石が「鉄道官僚退官後、もっぱら鉄道経営者として活動した鉄道業界のボスの一人」ということがわかる。

仙石貢(ウィキペ参照)
■略歴
明治11年1878年東京帝国大学理学部土木工学科卒業。同9月東京府土木掛。
明治14年1881年) 東北鉄道株式会社の設立に参画。
明治17年1884年) 工部省*7鉄道局勤務、日本鉄道、甲武鉄道*8工事を担当。
明治29年(1896年) 逓信省鉄道技監を最後に退官。筑豊鉄道*9社長。
明治31年(1898年) 九州鉄道*10社長。
明治39年1906年南満州鉄道設立委員。
明治44年(1911年) 猪苗代水力電気会社社長。
大正3年(1914年) 鉄道院*11総裁。
大正9年1920年) 土木学会第7代会長。
大正13年1924年加藤高明・憲政会内閣で鉄道大臣。
大正15年(1926年) 第1次若槻禮次郎*12・憲政会内閣で鉄道大臣。
昭和4年(1929年) 南満州鉄道総裁に就任。
昭和6年(1931年)6月13日 南満州鉄道総裁辞任。10月30日 没。

・しかし、何故か次第に猪苗代水力電気からは仙石の影は薄れ、三菱財閥の影響力が強くなっていく。
 それは何故か。実は計画が始まった1910年当時、仙石は野党・立憲国民党と近い関係にあった。立憲国民党は首相・桂太郎(第二次桂内閣)や桂を支える事実上の与党・立憲政友会と対立していた(立憲国民党は桂打倒を狙って南北朝正閏問題まで引き起こしている)。
 そのため認可事業である電力会社では、「桂内閣の嫌がらせで認可が下りない」危険性があった。そこで仙石が頼ったのが桂に近い立場と言われた三菱出身の財界人・豊川良平だった。仙石が豊川に政界対策を依頼したことで猪苗代水力電気は次第に三菱色を強めていくことになる。
 それって思い切り利権話じゃねえか。
 「豊川、お主も悪よのう」
 「桂様こそ」
 「わっはっは」

豊川良平(ウィキペ参照)
 三菱創業者・岩崎弥太郎のいとこ。1889年(明治22年)に第百十九国立銀行(後の三菱銀行)頭取に就任し、1895年(明治28年)に三菱合資会社本社副支配人および銀行部主任となる。1897年(明治30年)には三菱合資会社本社支配人、1899年(明治32年)には三菱銀行部長となる。
 1910年(明治43年)三菱合資会社管事となり、1913年(大正2年)に職を退いた。1914年(大正3年)に東京市会議員、1916年(大正5年)に貴族院議員に勅選されている。また財界団体・日本工業倶楽部の初代会長に就任した。

・1914年に誕生した第二次大隈重信立憲同志会立憲国民党の後継政党)内閣からの要請を受け、仙石は鉄道院総裁に就任し、後任社長に豊川が就任する。
 なお、大隈が三菱と深い関係にあった(ついでにいうと第二次大隈内閣外相で後に首相となる加藤高明も三菱とは親密な関係にあった、他にも三菱と親密な政治家としては幣原喜重郎や木内重四郎*13、町田忠治*14などがいる)
 従って、疑えば「邪魔な仙石を鉄道院総裁ポストで釣ってうまく猪苗代水力電気から外した上で豊川ら三菱出身重役で完全に会社を牛耳る、乗っ取る」という話だった可能性もある(もろに陰謀論だが)。
「豊川、お主も悪よのう」
「大隈様こそ」
「わっはっは」

加藤高明(ウィキペ参照)
 日本の外交官、政治家。
 1881年明治14年)に東京大学法学部を首席で卒業。 その後三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、三菱創業者岩崎弥太郎の長女・春路と結婚(このことから後に政敵から「三菱の大番頭」と皮肉られる)。
 1887年(明治20年)より官界入りし、外相・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。
 1900年(明治33年)には第4次伊藤内閣外相に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。
 1913年(大正2年)、桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に党首となった。翌年第2次大隈内閣外相として、第一次世界大戦への参戦、対華21ヶ条要求などに辣腕を振るった。
 1924年大正13年)、憲政会が比較第一党となり加藤は首相となった。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立する一方で、共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。この法規は言論弾圧法規であり、特に戦時中に乱用されたとして強く批判されている。
 また、宇垣陸軍大臣によるいわゆる宇垣軍縮に見られるような陸軍の軍縮を進める一方で陸軍現役将校学校配属令を公布し、中等学校以上における学校教練を創設した。
 こうした革新的な政治と、保守的な政治を使い分けた加藤の政治を「飴と鞭」と称することもある。

幣原喜重郎(ウィキペ参照)
 日本の外交官、政治家。
 1915年(大正4年)に外務次官となり、ワシントン会議においては全権委任をつとめる。外務大臣になったのは1924年大正13年)の加藤高明内閣が最初。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と4回外相を歴任。
 彼の1920年代の自由主義体制における英米協調路線は「幣原外交」と称された。1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部から「軟弱外交」と非難された。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。
 戦後、内閣総理大臣に就任。GHQ占領政策に基づき憲法草案を作るが、保守的な幣原の草案はGHQに拒否される。女性参政権が認められた戦後初の総選挙となる第22回衆議院議員総選挙日本自由党が第一党となり総辞職、第1次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣(のちに復員庁総裁兼務)。1947年(昭和22年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選。日本進歩党総裁となり、芦田均が総裁を務めた民主党の結成にも参加したが、片山内閣の政策を批判して吉田茂が総裁を務める民主自由党に参加、衆議院議長に就任する。議長在任中に78歳で死去。

木内重四郎(ウィキペ参照)
 日本の官僚・政治家。
 1888年明治21年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業して官界に入る。法制局参事官試補、農商務省商工局長、朝鮮総督府農商工部長官等を歴任した後、勅選の貴族院議員となり、1916年(大正5年)官選京都府知事に就任した。
 磯路夫人は三菱創業者・岩崎弥太郎の次女。
 義兄の加藤高明(加藤夫人・春路は岩崎弥太郎の長女)が憲政会の総裁を務めたことから、木内も憲政会に所属していた。



■「日本史必修、『江戸から東京へ』の導入―石原史観で描く都教委版「準教科書」―」(鈴木敏夫
(内容要約)
 いろいろな批判が鈴木氏によってされているが、ここでは俺が「一番酷い」と思う例の「ハルノート陰謀論」「マッカーサー自衛戦争と証言してくれた」という歴史修正主義を取り上げる。あそこまで酷い歴史修正主義が「21世紀の今日」に公立校の教科書記述とは悪夢としか言いようがない。金があるなら都民は今後、都立高校には行かない方がよろしいと思う。
以前俺も、この『石原史観で描く都教委版「準教科書」』を「今日のMSN産経ニュース(4/2分)(追記・訂正あり)」(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20120402/5314918653)で突っ込んでいる。
 準教科書のひどさについては後で紹介するエントリも参照してほしい。こんなふざけた教科書をつくる石原や、それをほめる産経が朝鮮学校歴史教科書を非難するなどできの悪いコントでしかない。でそういうことを何とも思わないのがid:noharraと奴が入ってる「守る会」のわけだ。
 手前、id:noharra、都合の悪い俺の突っ込み(なぜ石原や橋下の歴史修正主義を「守る会」が批判しないことにid:noharraは何の疑問も感じないのかとか)から逃げ続けるのも大概にしろよ、ゲス野郎。そう言うゲスな生き方してて人として恥ずかしくないのか?。まともな良心なんかお前はゴミ箱にでも捨ててきたんだろうな。今からでも遅くないからゴミ箱から良心を拾ってきたら(毒)。


参考
【準教科書およびそれを持ち上げる産経への批判】
もっと休むに似ている「今年度より、コミンテルン陰謀論の授業がスタートします!」
http://gallerytondemo.blog.shinobi.jp/Entry/125/
黙然日記『産経「主張」が恥ずかしい。他。』
http://d.hatena.ne.jp/pr3/20120403/1333458534


マッカーサー自衛発言論への批判】
誰かの妄想「マッカーサーは日本は自衛のために戦った、と言ったのか?」
http://ameblo.jp/scopedog/entry-10023353939.html


しかし鈴木氏によればこの準教科書の監修者には高村直助氏や、竹内誠氏と言ったプロの名があるそうだが、彼らは正気なのか。「名前貸し」や「自分の専門分野だけ監修」だとしても晩節を汚したというか何というか。「ハルノート陰謀論教科書になど協力できない」とは言えなかったのか?

高村直助(ウィキペなど参照)
 東京大学名誉教授、横浜市ふるさと歴史財団(横浜市歴史博物館、開港資料館などの運営を行う財団)理事長。横浜市三度目の市史編集事業になる『横浜市史 II 』の代表編集委員横浜市歴史博物館館長、横浜開港資料館館長を歴任。
 著書『会社の誕生』(1996年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『明治経済史再考』(2006年、ミネルヴァ書房人文・社会科学叢書) など。

竹内誠(ウィキペなど参照)
 東京学芸大学名誉教授、江戸東京博物館館長、徳川林政史研究所所長。
 著書『元禄人間模様』(2000年、角川選書)、 『寛政改革の研究』(2009年、吉川弘文館)など。

*1:著書『アレクサンドロス大王』(2000年、講談社選書メチエ

*2:著書『東アジアの国際秩序と古代日本』(2011年、吉川弘文館

*3:幕臣として新政府軍に抵抗し、その結果投獄されたがその才能を買われ恩赦で出獄。逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任

*4:伊藤、黒田内閣文相

*5:東京女子師範学校お茶の水女子大学の前身)初代校長

*6:著書『近代日本の陶磁器業』(2008年、名古屋大学出版会)

*7:1885年に逓信省農商務省に分割された

*8:現在のJR中央本線

*9:後に九州鉄道と合併

*10:1907年の鉄道国有化法により国有化される

*11:逓信省鉄道局と鉄道庁という二つの役所を業務効率化目的で統合し1908年に鉄道院が誕生した。1920年には鉄道省に昇格。1945年に逓信省鉄道省は統合され運輸通信省(戦後の「運輸省国交省」と「郵政省→総務省」の前身)が誕生

*12:加藤内閣で内務大臣

*13:id:kojitaken氏が批判している代議士・木内孝胤の曾祖父

*14:岩崎弥太郎日銀総裁を務めたときに日銀大阪支店監査役を務めた。その後政界入りし、浜口、若槻内閣農林相、岡田内閣商工相などを歴任